Re: On the dating of 松菊里遺跡

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [6月10日(月)22時29分31秒]

元の発言 [ Re: On the dating of 松菊里遺跡 ] お名前 [ 韓国から ] 日付 [ 6月10日(月)13時46分03秒 ]

長文の返事有難う御座います。
私は素人ですので韓半島全体の歴史を理解するのは荷が重過ぎます。
ただおっしゃっている事は大よそ理解できますし、私の考えと大きくは違っていないように思います。
微妙な違いについては専門の方にお任せします。もっとも専門家の間ではもっと大きな違いについて論争されているようですが。

>> 韓国では農耕と係わる石器が出ますが,この石器の系統が中国北部地域ともっと関連があることと知られているようです.そしておっしゃったどおり中国北部は稲作よりは佃作がもっと盛んだった地域で見えるのに,この農耕関連石器が韓半島南部地域では稲作用で使われた,と報告しています.たぶん系統上では佃作用の農耕関連石器たちを稲作用に専用して使用したことではないかと思います.最近,渤海北部地域が3000- 4000年前には今より温度が高くて農耕に相応しい地域だったという報告があるようです.考古学的な報告を見ても?河西の方には夏家店文化というのがいるのにこの文化の下層部は農耕文化の様相を見せてくれるが,上層部は遊牧的な性格が強い姿に変わると言います.今よりは渤海北が農耕にもっと相応しい地域だったのがあったと思うことで,この時期に渤海湾北を経過して農耕が伝えたと見るようです

この農耕文化は稲作のことではないですよね?

>> おっしゃるとおり繩文期で彌生期への転換時期に土器の連続性はもう立証になったんです. 正しくこのような点で彌生文化が外来文化の影響以外に伝統的な流れが続いていたという点は否定することができないと思います. こんな面が結局, 類似の文化的影響の下にあったにもかかわらず韓国と日本が他の模様の社会を作るようになる重要な理由すね. ただ, このような土器たちの中でどうなのが繩文期の影響の下にあることかと言う面はまだちょっと時間を枝と考えて見る余地が残っている思っています. 韓国の場合, 彌生文化と密接な関連を持っていると思うことは松菊里型文化だったが, 最近松菊里形文化とその以前の孔?土器文化の間に別個の文化が漢江流域で確認された事があります. まだ発掘数が多くなくて全貌を確認することはできないが, この文化の特徴中の一つが現在日本の繩文末期に確認されている刻目突帶文土器です. この土器は従来韓半島には発見されないと考えられられて来たことだが, 松菊里型土器に比べて少数ではあるが, 発見される刻目突帶文土器とほとんど同じなのが漢江流域で確認されるせいでこの点に現在学者たちが注目して追加発掘を試みていることで分かっています.
>> しかし, 個人的にはとにかく繩文で彌生への転換を人種の代替という側面で見ることは事実と違う面が多いと考えられるのでこれからの発掘を土台でもうちょっと愼重に立論する必要があると思います.

>> >> 弥生時代の到来のように大きく文明が変るには大勢の移動が必要でしょう。
>> >> この時は秦の始皇帝が中国を統一する時で中国南部から大勢の流民が日本列島にやってきたと思います。
>> >> 当然中国での動乱は韓半島にも圧迫を与え流民を生み出し、日本にやってきた可能性があります。
>> >> 二つの地域からの流入が同時に起こり、日本に弥生時代をもたらした。
>> >> しかし、秦は北方民族を恐れて万里の長城を作ったくらいですから大量の流民はなく限定的なものだったでしょう。

>> この問題に対してはちょっと愼重に近付く必要があることが, 秦漢交代期に中国人の移住は韓国側の関連史書にもたまに出ていますが, 果してこの移住が何を意味することなのかに対してはちょっと再考の余地があると思います.
>> 韓国の辰韓という社会は史書によると秦漢交代期の中国人がこの地域に入って来て辰韓という社会を形成したと出るが, いざ考古学上な発掘ではちょっとこれとは違う姿を見せてくれているようです. どんな姿かと言えば, その以前の無文土器時代とは確かに他の姿だが, おこるのに鉄器を伴った集団が出現するのに, 一部は細形銅劍文化の連続線上にある人々やこれよりちょっと後期には瓦質土器だとして, 中国文化の影響を受けることはしたが, 中国人そのもので見るには難しい集団が韓半島南部まで分かります. このような現象が生ずることはB.C. 300年頃, ?東一帯に中国係鉄器文化が急激に広がって入って行ったからにしなさいと見えます. この鉄器文化の影響でその以前まで非中國的な青銅器文化の影響の下にあったこの地域に鉄器文化が本格的に拡散するのに土器の様式も以前までの無文土器文化が新しい打捺文土器だと呼ぶ様式が出現します. 韓半島南部地域で見える該当時期の文化の主人公はまさにこれらだと見えるのに, これらは中国人だと規定作りにはちょっと困難があると見えます. 彌生文化の金属器の使用と関連のある集団がまさにこれらだと見えるのに, 彌生文化ではいわゆる金海式甕棺を使う人々です. こういう面で韓国と日本四書に共に見える中国人の移住という点に対してはまだちょっと時間を持って見直して見る必要があると考えられます.

私は三国志の時代に僅か20年しか遅れずに書かれた魏志は他の史書より正しいであろうと考えます。
東夷伝は辰韓人が中国人であると書いている訳ではなく、辰韓人が「秦人だと自分で言っている。」と書いてあるのです。
そして「そういえば秦人に似ている所もあるが、似ていないところもある。」とも書いてあります。

>> この問題はまず韓国の青銅器文化に対する理解がちょっと必要なようです. 韓国の場合には青銅器の使用開始と鉄器の使用開始がちょっと差があります. まず, 青銅器の場合, 現在B.C. 10世紀まで溯及されているのにその起源は非中國的樣式を見せています. 琵琶形銅剣文化というのがB.C. 4世紀以前の物で以後には細形銅劍文化というのがつながります. この細形銅劍文化の段階に北で鉄器文化が入って来るのにこのために細形銅劍文化 (B.C. 4世紀-西紀元年)は青銅器文化後期でもあるが, 初期鉄器時代だと呼んでいます. 鉄器が使われることはしたがをすっかり使わないほどになることはできなかったというのですね.まさにこの段階の金属文化が彌生時代に伝わるから日本では青銅器と鉄器の使用?代が大きく差がないです.
>> 鉄器の開始?代だけおいてみようとすると, 韓国や日本や大きい差がないと見られます. これは東アジア全体の問題で, 中国も西洋と比べると鉄器の使用は大きく早いと思うことができなさそうです. 韓国では金属奇聞華中, 青銅器文化は非中國的文化, 鉄器文化は中国係文化で見做しています.

その通りだと思っていますよ。

>> >> しかし、韓半島から伝わったものも日本では大きく変化してしまいます。
>> >> 韓半島の人間とは違う人種だからでしょう。
>> >> 韓半島が日本にもっと強い影響をあたえたのは古墳時代からであろうと考えています。
>> >> というのが考古学素人の私の見解です。

>> この部分についてはやっぱり彌生文化の日本固有の独自性という問題に対しては異見がないです. 外部の影響があっても彌生文化を発展させたことは日本列島の人々だから実際に彌生後期に早ければ同じ文化で始めても韓半島と日本列島の状況はよほど他の発展様相を見せると思います. ただ, 一つ申し上げたいことは古墳期の開始にだけ?地域の交流を設定することはちょっと私の考えと違うと思います. この問題に対しては一応, 私が申し上げたいことは現在まで確保されている韓国の無文土器文化と青銅器に対する情報を少しだけ検討して見たらと思って勧めて上げたいです. ?地域間の密接な関係を上程しなくては理解しにくい文化的同上性を見せるということを易しく分かることができると思います.

青銅器が韓半島では前10世紀位からあり日本には前三世紀まで無かったという事を日本の保守的考古学者は考慮すべきだと思います。

古墳文化は弥生時代の日韓の関係とは全く違うものです。
韓半島の文化流入はずっと北九州を通していました。
ところが古墳文化は突然日本の中央部で発生したのです。
これは韓半島南部と北九州を介さずにやって来た。
私はこれを韓半島北部から直接列島中央にやってきたのだろうと推測しています。
きっかけは漢が楽浪郡を設置した時、公孫氏が魏によって滅ぼされた時、高句麗が魏に敗れ敗走した時、などが考えられます。


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