元の発言 [ Re: 北方系弥生人 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 4月23日(火)20時11分09秒 ]
>> >> 「北方弥生人」の件というのは,古墳期の埴輪のファッションとか?
>> いいえ、弥生時代後期の話です。
>> 弥生時代後期というのは一世紀初め頃からの社会変動の時代ですね。
>> 拠点集落の廃絶という大事件が起こり、そして、吉備に古墳の原形が現れるのですが、それに北方系弥生人が関与しているのではないか、という疑問です。
>> 確証はありませんが、吉備の木槨や石槨は大陸と関わりがあるのではないか、つまりそういう葬制を持った集団が、弥生中期末に渡来し、社会の変動に関わった可能性があるのではないか、と考えています。
弥生後期というと妻木晩田とか山陰から北陸に掛けて四隅突出墓を作った勢力ですよね。
江上さんが北朝鮮にいって調査したとき四隅突出墓を見つけているそうです。
>> 普通、北方系と言いますと、古墳中期以後の騎馬民族系を指すことが多いですね。
私は前方後円墳とか前方後方墳などの古墳をつくったのが北方系であって、倭人伝に記された倭人ではないと考えています。
>> しかし、渡来弥生人の原郷は江南や山東地方に限らないと思いますよ。
>> 満州地方の農牧民はどうか、黒竜江辺りの海洋民はどうか、といろいろ想像しています。
農牧民といっても馬や牛、羊、ヤギなどを連れて来なければならないでしょう?
来たのは農牧民じゃあないと思われます。
>> 彼らは江南の稲作民よりは移動性に富む集団ですね。また、渡来ルートに関しても、東シナ海を横切るよりも、朝鮮半島沿いの方が安全でしょう。
現代でもベトナムのボートピープルが日本にやってくる事もあります。
彼らは陸づたいではなく東シナ海を来たのでしょう。
海流に乗って来るのは意外と簡単です。寝ていても海流が運んでくれますから。
まあ命がけには違いないけど。
「江南の稲作民」は漢の圧迫に押されて海に出たことは間違い有りません。
呉とか越とか漢にとっては蛮人扱いですから。
このあたりの半農半漁民も倭人だった?
彼らもボートピープルとして日本に来たのではないでしょうか?
これが倭人が呉の太伯の子孫と主張している所以でしょう。
>> 彼らの渡来を想定して当時の歴史を考えてみることにも意義があるのではないでしょうか。
>> それに何よりも、想像が膨らんで、楽しいですよ。
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