元の発言 [ Re: 北方系弥生人 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 4月27日(土)13時43分51秒 ]
>> 人骨は判りませんが王が扶余の王の末裔であると書いてあるだけで、風俗は倭に近いなどと記載されているなら、全員、大多数が扶余からきたことは考えられません。
>> 来たのは王族、兵士だけでしょう。
王族と兵士だけでは遺伝子は変らないのですね。
とすると倭にやって来たのは王族と兵士だけではないのですね。
>> >> 四隅突出墓は紀元前に三次盆地で始まります。
>> >> すでに一世紀には山陰に分布します。
>> そのころ既に北方民族が一部日本に来ていたわけですね。
>> 漢の武帝が朝鮮支配に乗り出した頃ですか。
そう思います。
従って2世紀末に何かが特別起った訳ではないでしょう。
>> >> >> >> 王権は渡来人を、自分たちの目の届く近畿に意図的に置いたものと思います。
>> >> >> >> 一つは監視のため、一つはその高い技術を独占するため。
>> >> >> 長野にある積石塚や馬の大量飼育痕跡はこの話と整合するのでしょうか?
>> >> 馬を飼育するにはそれなりの場所が必要でしょう。
>> 馬の飼育は軍事的に重要な意味を持っていると思いますが、長野と言う隔絶された地域では監視も行き届かず、独占も不可能だと思います。
>> 同族意識の現われと見ますが。
信州の牧は朝廷に馬を献じていますね。
>> >> >> >> 彼等を積極的に権力内に組み入れることもあったのではないでしょうか。
>> >> >> >> その当時それほど民族意識があったとは思いませんし。
>> >> >> 倭人としてのアイデンテティはなかったとおっしゃる?
>> >> >> もしそうなら韓国の先進性を認めて隷属とまではいかなくとも、自分達を韓国より低く見ていた事になります。
>> >> どういう論理だかわかりません。
>> >> どこから韓国がでてくるのでしょうね。
>> >> 時代が違います。
>> 韓国という呼び方が悪かったようで百済としましょう。
>> 政権の中枢に外国人を多数入れるなんて事が一般にはないことでしょう?
よくある話です。
>> ま、外国人という意識がなかったのでしょうか?
民族意識が現在と異なると言う意味です。
支配階級は支配階級同士、一般人は一般人同士の方が、判りあえた時代でしょう。
>> >> 軍事政治的には半島に対して優位に立っていたと思います。
>> いつの時代の事ですか?
4世紀中頃から5世紀です。
その他発言: