甘い花の匂いが浴室に漂っていた。
少女との簡単な買い物の中、宿泊用の歯ブラシがない事に気付き生活雑貨店を覗いた時についでに買い求めてみたバスバブルの濃密な泡が浴槽を埋め尽くしている。花に興味のない男には判らない甘い匂いは入浴剤に詳しくない身としてはどこかこそばゆいが、甘過ぎず柔らかな花の香りは好意的に受け止める事が出来た。だが一人暮らしの空間が変化する違和感に、男は何処か落ち着かない。
浴槽の中で、少女が祈る様に口元で手を合わせている。ギプスの右腕は水の浸入を防ぐビニールとテープで封をしており、その僅かに露出している指と固定されている手が包み込んでいるものは男には一目で判った。自分が勝手に嵌めた指輪が少女の左手の薬指にはある。入浴前に外そうとした少女に今日は外さないでおくように命じたのは自分だった。入浴で変質する素材ではなくサイズも丁度合っているのだからうっかり排水溝に流れる事も劣化させる事もないであろう。渡した当日くらいはそのまま填めさせておく程度の考えだったが、少女が大切そうにしている様を見る度に、精神が波打つ。
恐らくは疲れている筈で少し微睡んでいるのか反応の鈍い少女が、ふと医師へと目を向け、そして頬を染めて視線を逸らす。腰にタオルを巻いておけばよかったのかと思いながら、片手に持っている洗面器を浴槽の脇に置くと少女が不思議そうにその中身を見た。グリセリンのボトルと大容量プラスチックシリンジと長いノズルは普通の入浴では用はないであろうし、そもそも初めて目にしている可能性が大きい。――これからの行為が判っていれば恐らく直視など出来はしない、そう思い男は口の端を歪める。
「具合は、どうだ」
「ぁ…いい湯加減です。申し訳ありません私がゆっくりとお風呂に浸からせていただいてしまい……」
「気にするな」
そもそも右手を使えない上他人の家に上がった初日で何かを積極的に立ち回られるのは些か疎ましく思え男は軽く往なす。時折来るハウスキーパーが掃除や洗濯などをするし最初は料理の作り置きをしたがっていたが男が断った。この家は男の家だが、生活をしている感覚は薄く、寝に帰りついでに入浴し軽く寛ぐ場でしかない。電子書籍化していない医学書と医学雑誌を詰め込んだ本棚から溢れた分は段ボール箱に詰めて書庫代わりの空き部屋に積んであり、最小限の物だけが出ている、そう、最小限なのだと今更ながらに男は気付く。客用の食器すらない。いや必要がないのだから当然ではあるが、今日スーパーで買い求めておいた食料品を分ける皿すら足りない…だが一晩の為に買い求めるのもおかしな話だった。何かがおかしい。歯車が噛み合わない。
先に洗っておいた少女をそのままにシャワーを浴びる男は短く息を吐く。もどかしい。こそばゆい。落ち着かない。奇妙な感覚に無性に煙草を吸いたくなる。
「あの、お背中を……」
「気にするな」
同じ言葉を繰り返してしまった男に、僅かに戸惑いの表情を浮かべた後、少女が浴槽の中でよろめきながら立ち上がった。湯に暖められほんのりと淡い薔薇色に染まった柔肌に纏わりつく細やかな白い泡が緩やかに伝い落ちていく様が艶めかしいが、膝に力が入らないのか生まれたての小鹿の様に今にも崩れ落ちそうな身体は危なっかしい事この上ない。確かに窄まりを綻ばせる為に常には取らないであろう体勢を続けさせたがまだ本行為すらしていない時点でのその有り様に、男の口の端が僅かに歪む。と、不意に何かに驚いたのか戸惑ったのか頬を真っ赤に染めた少女が胸と腰を隠そうとしていた手を上げかけた瞬間、かくんと膝が崩した。
「きゃ……」
反射的に腕を伸ばし、湯船の縁を挟んで華奢な身体を抱き留める。
温かい。胸は質感豊かで主張が激しいのに骨格全体が華奢で小さい身体は平均的身長ではあるがいつ抱き締めてもどきりとする程に儚げで男を焦らせる。簡単に折れてしまいそうな細い肩で、こんな脆い身体で跳ねられそうな子供を庇うなど無謀過ぎて憤りすら憶えてしまうが、そんな馬鹿な部分を含めて少女らしいと考えてしまう。
「すみません……」
「ああ。そうだな」
甘い花の匂いは浴室を暖かく満たすバスバブルの湯気のものでもあるが、腕の中の少女の匂いはそれよりも更に甘い。男が見様見真似で少女の頭に巻いたタオルは豊かな黒髪を上手く纏めきれずに野暮ったく膨れている…濡らせば乾くのに時間がかかるであろうそれをただ身体を清める為結い上げているが、何故かもどかしい。時間が足りない。髪など何度洗わせてもいいし、梳かすのもドライヤーで乾かすのも少女の腕の負担になるのならば慣れてはいないが男がするのは恐らく吝かではない。朝になれば勤務が待っているのだから夜明け前には軽く眠った方が良いだろう、まだ夜更けであり時間はある、それなのに時間が足りないと感じてしまう。
何の時間が足りないのだろうか。
腕の中の少女を堅く抱き締めている腕が自然と動き、少女の頬に手を当て顔を上げさせる。転倒が怖かったのだろう潤みきった大きな瞳が揺れていた…片腕で少女の身体を支えたまま無意識に手が動き、細い左手を探り絡め取り指先で指輪の感触を確かめる。寝衣で大体の好みは判るつもりであるし自分自身がこの少女に似合うと思える物以外を与えるつもりはないが、それが喜ばれて受け入れられるかは判らない。
不意に、気付く。自分の行為が特別室の老害と大差がないのだと。
「……。意中の男は、いるのか?」
外出用との違いはあれど少女を困惑させた老害からの贈り物と少女が受け取った自分からの衣服には違いがないと気付いた瞬間、汚い空気を吸った様な不快な感覚が肺の底に蟠る。何故少女は自分からの物は受け取ったのか、趣味の一致か、ただ必要性に追われてか、値段の問題か、いや老害からの贈り物が愛人として囲う前払いの餌だとしても自分が贈った服はそれなりの品質であり見劣りする物ではない…そもそも情報を得ておりサイズに間違いのない自分とは違いあちらは例えばオーダーメイドは出来はしないだろう。
「……」少女がぴくりと身を強張らせ、そして自分を見上げてきた。「――お慕いして…います」
囁きよりも密やかな甘く震える声を聞いた瞬間、男の胸の奥で軋み割れる音がした。少女の声が思考に届くと同時に思い浮かんだのはテラスで話している同世代の青年だった。温厚そうな堅実そうなそれでいて僅かに世慣れた部分のありそうな青年が少女と歓談している様は誰が見ても釣り合いのとれた男女と言えた。入院して不安な時期にわざわざ見舞いに一人で来る少しだけ年上の異性では無垢な少女が絆されて依存してもおかしくはない。服装もおかしくはない、髪も整えてあった、賢しそうな顔立ちはさぞや夢見る年頃の小娘には受けがいいだろう。何より、少女の無防備な笑みが信頼を物語っていた。お慕いする。古めかしいお綺麗な表現は少女には似合っていた。好きでも愛しているでもなく相手を尊敬する思慕は如何にも奥床しく密かな恋なのだろう、まだ告白すら出来ていない花の蕾の様な思い。
秒にも満たない冷えた感覚の次に訪れたのは煮え滾る不快感だった。
「――ぁ……っ」
浴室の床に少女を組み伏せて男は覆い被さり白い首筋に歯を立てた。力加減は忘れた。まだ力の入らない華奢な身体が逆らう事など出来ないと判っている上で手がたわわな乳房を揉みしだく。入院中に芽生えた恋ではまだ青年と結ばれるどころかこうして肌を重ねる事すら出来てはいまい、青年はまだこの白い身体を目にもせず下手をすれば思いにさえ気付かずにいるかもしれない。頭上から降り注ぐシャワーが少女の身体に纏わりつく泡を洗い流していった先から強く吸い、噛み、跡を残す。妖精画の様な華奢な身体を引き寄せ、転がし、起こし、這い蹲らせ、噛む。知らないであろう。この娘は、強く噛まれても感じる。とてもいやらしく甘く鳴き、細い腰を白い内腿と尻肉を震わせて達して愛液をねっとりと溢れかえさせる。解けたタオルから零れた漆黒の豊かな髪が濡れた大理石の床に広がり緩やかな水流の中で揺らぐ。穢らわしいアナルセックスだけを教え込もうと考えていた方針を放り出し牝肉に指を突き挿れる。甘い、絶頂の鳴き声。とろりと溢れる濃密な愛液と、たかが指二本を挿入しただけでぎちぎちと締め付け搾ってくる淫らな膣…あの若造が少女にゆっくりと牝の快楽を教えたかったとすれば気の毒に、もうこの女はいき狂う所まで開発が済んでいる。清らかなまま欲しかっただろう。残念な話だ。ぐちょっぐちょっと牝肉を掻き混ぜながら男は少女の足の指を舐める。屈辱的なのか恥ずかしいのか床の上で何度も首を振り啜り泣きながら時折男を見上げてくる少女の悩ましい表情が、男の頭の芯から肉槍の先端までを痺れさせる。今まで弄んできた女の中で最も穢し尽くしたくなる愛くるしい淫らな…それなのに清楚さを失わない蕩け顔。ちいさな許しを乞う声は誰よりも男を煽る。
「お望み通り弄んでやろう。――他の男で満足出来なくなっても責任は取らないがな」
「――はぃ……」
可憐な鳴き顔と声が健気に見え、男は眉間に皺を寄せた。愉しむだけ愉しんで清らかそうな顔で青年を待つ、そんな少女らしからぬ淫らな遊び方が納得いかずぐいと少女の身体を引き起こした男はその小さな口に憤り勃ち続けているモノを一気に突き挿れる。んぐっと苦しげな声を喉奥で漏らすのも構わず無理矢理み根元まで含ませてから少女の頭を撫で、そしてゆっくりと腰を遣う。先走りの汁でぬろぬろと濡れている赤黒い幹が初恋の男との接吻すら知らないであろう柔らかな唇から露出し、反り返る鰓を懸命に噛まずにいようと開く歯に触れるのを感じ再び牡槍を埋めていく。さぞや顎が痛く呼吸が苦しいだろう。どうしようもなく甘い苦悶の鳴き顔を見下ろしながらじっくりと少女の口腔を犯しながら、男の足の指先が少女のぬるぬるに濡れそぼつ下腹部の谷間を弄ぶ。頭を揺さぶる度に美しい形の乳房がたぷんたぷんと弾み、濡れて無数の束になっている豊かな黒髪が揺れ動く。
自分を安全な玩具だと判断したこの少女が悪い。大人の男というものは世間知らずな小娘の手に負えるものではない。
クリトリスを足の指先が捏ねる度に白い身体がびくびくと震え、膣口を軽くこじ開ける度に小鼻から甘い囀りが零れる。このまま喉奥で射精するつもりになれば出来るだろう、少女の口は無意識に肉棒を締め付けて柔やわと吸いついてくる…天然でこうだとすればなかなかの素材であるが、初めて少女が精液を受け止めるのが口腔では物足りない。一番愉しいのは膣奥だろう、出来れば孕ませる確率が高まりきっている状態での膣内射精。当然少女は妊娠を恐れるであろうし、泣いて嫌がるかもしれない…だがだからこそしたい。二度と忘れられない処女喪失、いいではないか。どうせ処女を奪った男を忘れられないならばより残酷に刻みつけてやるのがいい。魔が差しそうな感覚に、男が腰を引いて少女の口腔から肉棒を抜くと唾液と先走りの混ざった汁が可憐な唇と肉色の傘の間にねっとりと糸を伸ばした。
「しゃぶらされる気分はどうだ」
何処か夢見心地の様なうっとりとした表情の少女の頬が男の問いに羞恥に染まり、気まずげに顔を逸らしたまま何度も細い肩で息を付くその唇が頼りなく揺れる。既に救いようもなく濃い愛液で満たしきっている粘膜の谷間を足の親指でゆっくりと押し上げるかたちでなぞると、膣口を中心とした柔らかな谷間がいやらしく蠢いた。じっくりと焦らすのを面倒臭いと思うと同時にこの少女が蕩けきって男を強請る痴態を見てやりたいとも思う…ああ面倒臭い。他の女との交わりでは男の細やかな嗜虐心を満たせれば後はどうでもよかった。なのに
「……。先生のお気に召していただけると…嬉しいです……」
少女の答えに、一瞬男は思考が追い付かなくなる。辱められて嬉しいかと聞いたつもりも、男の肉棒を無理矢理しゃぶらされた恨み言も訊いたつもりはない。自分が何を訊いたのかが判らなくなる…何を訊き出そうとしていた?他愛もない言葉責めであり深い意味など一欠片もない。それなのにこの娘は何を答えたのだろうか?今。自分自身では何も思うところがない?男が喜べばいいとそれだけしか考え付かない、つまり何の意味もないとでも言っているのだろうか? 軋む。身体の内側で、精神の全てが軋む。何だこれは。
自分の思考の空回りに男は愕然とする。
「――待っていろ」
短く言い残し、濡れている身体を拭いもせずに浴室を出た男はそのまま台所のカウンターの棚へ向かい一番手前にあったブランデーを瓶から一気に呷る。飲み方など構わず喉を鳴らせて半分ほど胃に流し込み、息を付く。良い酒で味は当然変わらない、だがいつもの程良い酩酊感の予兆を一切感じられず男は眉間に皺を寄せる。口内に残る芳醇な酒精の溶ける息を漏らし、瓶をカウンターに置いて男は全裸のままカウンターの縁に腰を預けて乱れた髪を掻き上げた。
「……。このままだと、犯すな」
ぽつりと呟いた自分の言葉が呪文か何かの様に確定事項に変わる予感に、眉間の皺が更に深くなる。
面倒臭い。今から他の女を呼んで少女を自宅にでも帰させてしまえば膣内射精だろうがアナルセックスだろうがやり放題だろう、だが例として考えはしてもそうしたい欲求が一切湧かない、いや疎ましくすらある。犯りたいのは今風呂場で自分の唐突な行動に呆然として待っているであろう少女だけだった。良い酒を飲んだ後に安酒を飲みたくなどないのに近い。何故拘る。判っている。何故招き入れた。判っている。何故手放さない。判っている。何故手に入れたがる。判っている。
何故、逃げた。
その問いが少女へでなく自分へだと判り、男は固まる。
逃げた?自分が?たかが十七歳の少女から?いやあれは自分の思考が空回りをする居心地の悪さであり…何故空回りをした?
男は反射的にブランデーの瓶を手に取ろうとして止める。酔いたくなどない。酒のせいでなどと言い訳もしたくも、弾みをつけたくもない。酷く惨めで不愉快な感覚にカウンターの縁に乗せている手に力が入り、大理石を砕こうとしているかの様な無謀な動きに骨が軋む。もしもこれが瑞穂の肩ならば骨折させかねない、そう考えた瞬間、男の目が微かに細まる。事故の加害者などでなく正々堂々と看護と責任の大義名分を得て少女を監禁出来るのはどれ程心地良いだろうか。医師として男としての倫理観など容易く崩れてしまう、男だからこその暴力で女を支配出来てしまう事への嫌悪と安易さが想像出来てしまう。砕きたい。砂粒一つ残らず掻き集めて手に入れたい。肌の面積全てを同時に抱きたい。
「馬鹿か俺は」
傷など一切許さない。涙の一粒さえ床に零させたくない。逆方向への独占欲。変えさせない。脆く儚い極薄の硝子細工の完成品。変えるだろう。当然だ。男に犯されて種付けされて変わらずにいられる娘ではない。他の誰にも触れさせない。あれは俺のものだ。
獣の様に荒れる欲望が皮膚一枚下で外へ外へと突き破りそうになっているのを感じながら、男の身体は呼吸すら忘れた様に動きを止めていた。照明を落としたままの台所と居間は青い闇に沈んでいる。無音の中、馬鹿らしい程猛っている屹立が天を仰ぎ先走りの汁を垂らしている。酷く惨めだと、苦々しくも憤りもせずに、ぽつりと思う。
「――先生……」
空気に溶ける様な甘く澄んだ柔らかな声音が聞こえる。
ゆっくりと首を巡らせる男の目に、裸身にバスタオルを巻き畳んだままのもう一枚のバスタオルを大切そうに持っている哀れな生贄の姿が映った。
纏めていたタオルは解かれ、やはり濡れた漆黒の豊かな黒髪は微かな光を弾き緩やかに波打っている。淫らがましい美しい乳房を締め付けているバスタオルは腰の辺りでは大き過ぎる巻きスカートの様にゆとりがあり、三分の二程度まで覆っている絶妙な華奢さの脚と腰を際立たせている。
「濡れたままではいけません……」
最初男を見つめた瞳は既に逸らされていた。全裸で佇む男を直視する度胸などこの娘にはないと判っていても、廊下からの扉の前で佇むその距離が少女と自分の関係性そのままであるかの様で、男の目は表面上冷めたものとなる。
「来い」
男の声に一瞬ぴくりと身体を強張らせた少女がそっと足を運ぶ。来客用のスリッパの音も立てない静かな足取りと青い闇に沈んでいる台所の無機質な風景に溶け込んでしまいそうな儚げな佇まいが、男の腹腔で酒気と混ざり低温で沸き立つ。半歩離れた所に立ち静かに手を伸ばした少女の持つバスタオルが男の頬を柔らかに撫でる。本気で風邪を引かないかが心配なのだろう、優しく撫でる手付きに雨の夜に自分を拭っていた様を思いだし、男の口元が僅かに歪む。少女がタオルを動かすのに合わせ軽く頭を傾け腕を差し出ししたいがままにさせていた男は、胸板と腹筋の後、背中を拭おうとする少女に態と動かずにいると困惑した表情でちらりとこちらを見上げてきた。
湯上がり特有の湿り気の強い空気が微かな動作の度にふわりと揺らぎ、温かく火照った柔肌が男の目の前で甲斐甲斐しく動く様は性欲とは異なり健全な好印象を齎すものだったが、飼い主の悪戯に困る犬の様な少女の表情に男の嗜虐心を煽る。
「何だ?」
「拭かないとお風邪を召されます」
もしかしたやや怒っているのだろうか、若干強めに言葉を紡ぐ少女に男は僅かに目を見開く。それでも普通の女と比べれば訴えにもならない程度の口調は愛玩動物が足元で見上げてきて小さく鳴いている程度の無力なものであり、だからこそ卑怯と感じる者や折れる者もいるだろう。だが何でも流される傾向の少女の時折見せる頑なさを思い返した男は、それが全て少女自身の為でないのに気付く。車道に飛び出した子供を庇ったのと同じで、白兎の様に他人の為に身を火に投じる事がよかれと思えば行ってしまうのであろう。自分ならば身の安全が保障出来ない状況で子供を助けなどしないだろう…その場でないと確実にとはいえないが。――誰にでも親切な少女が慕う男はさぞや善人なのだろう…聖人君子の様な完璧さで曇りもなく。そんな男がいるものかと嘲笑いたくなる。恋は盲目とはよく言ったものである。
体勢を変えない男に諦めたのか背中側を拭こうと腕を回す少女の身体が自然と密着した。異性の肌に触れる羞恥よりも自分が風邪を引くかがそんなに心配かと思いながら見下ろす男の目に湿った豊かな黒髪と華奢な白い肩とバスタオルに中途半端に覆われている豊かな乳房が映る。湯で温められた柔肌は男の悪戯の最中の上気した身体を思い出させ、背中へと回される腕は抱擁を連想させる…当然目の前の少女は異性を抱きしめたりなどしないのだが。
逃げている。先刻感じた屈辱的な行為が客観的に思考に浮かび上がる。――抱き締めたいと思うのもまた惨めだった。望まれてもいない行為への衝動に男はギプスに包まれている少女の右腕を手に取り、僅かに先端から姿を現している華奢な指先に口付ける。
「先生……?」
カウンターに着いていたその指先でバランスを取っていた少女が戸惑いの声を漏らす。身長差もあって胸板に身体を重ねた上で背中に回していたバスタオルを持つ手が止まり、怪訝そうに…いや純粋な問いには恥じらいを過分に含んでいるその頬が淡く染まっているのが初々しい。
「あの…何か……?」
「気にするな」
短く言い放ち男は口付けている指先をゆっくりと舐る。ギプスを施している腕は汗を拭えない為にどうしても際の辺りのを清潔にしておくのが難しいが、固められたその境目のぎりぎりまで洗っているのか、不快な汚れはそこにはない。気を遣い過ぎるのもまた安静の妨げになるなと思い、男の眉間に皺が寄る。だがどうせ注意をしてもこの少女が衛生的でない状態を堪えるとは思えない…いや誰にも会わないのならば堪えるだろうが誰かに会う時に相手に不快な思いをさせる事は極力避けるであろう、ましてや……。
「先生……?」
『男』と会うのならば、と考えて男は僅かに固まる。
当然性別の話ではなく身体を許す相手の異性を意図した想像に何故か思考が凍った男に、少女が戸惑い小首を傾げた。
いや誰相手でも恐らくこの少女は手入れを怠らないであろう、そう思うものの少女の意図する『男』として思い浮かんだのはあのカフェテラスの青年でなく、男自身だった。自分を当て填めている事が奇妙に自然で、愚かな自惚れや妄想だと不愉快になりながらそれが当然の構図なのだと他の男にすげ替える事への強烈な拒否感に身が強張る。
「あの……?」
背中に腕を回してきている身体が温かい。ふわりと立ち上る湯とシャンプーの甘い香りが鼻孔を擽り、重なる身体の胸板で軽く撓む豊かな乳房の質感と悩ましい形と温められ上気した柔肌に付いたいくつもの男の唇の跡が、劣情や疑いなど無縁そうな澄んだ瞳と小振りな唇が、男を無性に凶暴にさせる。
「――風邪を引くと言うのならば」男は延ばした手で棚からグラスを取り、そこに飲みかけのブランデーを注いだ。「お前が俺にこれを飲ませろ」
カットグラスに一口どころではなくたっぷりと注がれたブランデーに少女の瞳が大きく見開かれ、戸惑った表情で男とグラスを交互に見た後、背中に回されていた腕がゆっくりと解かれ、耳まで赤く染まっているその手が拭っていたバスタオルをカウンターに置きグラスを受け取る。先刻外でホットワインを飲んだと言うのに飲酒に抵抗があるのか、奇妙に緊張している様子を口の端を歪めながら観察する男の目の前で、おずおずとブランデーを口にした直後、少女が噎せる。ほんの一口程度で何度も噎せて咳込む姿が相手はまだ十七歳の未成年であり初々しく青春を謳歌している年頃だと再認識させられてしまう…大人と交わるにはまだ早い。
何度躊躇えばいいのか、何を迷うのか。
面倒臭い。
また逃げるのか。
臆病な少女にあれこれと貢ぎ身動きがとれない状態にして色責めにする手段の見苦しさに、いや自分の精神の不安定さに吐き気を覚え男は少女の手からグラスを取り上げようと手を伸ばした。大切そうに持つ華奢な白い指からグラスを引き抜こうとした瞬間、すっと少女の手が動いたのだと気付き、男は瞬きをする。まるで宝物を取り上げられそうになった子供の様な泣き出しそうな顔をした少女が、ぐいとグラスを煽り……、
唇が、重ねられた。
水分を含んでいる為に常より硬く閉じられている唇は少し窄められ、ほんの僅かに傾けられただけの顔は互いの鼻が擦れそうな程で少女から唇を重ねる事への不慣れさを物語っているかの様だった。口移しを実践している筈なのだがしっかりと深く重ねられていない唇と唇にこの先どうすればいいのか判らないのか、そのまま動きが止まってしまう少女に男は暫し唖然としてから目を細めた。もしかしたら、今自分は笑っているのかもしれない。
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