『誘惑〜Induction〜改訂版 STAGE-13』

表TOP 裏TOP 裏NOV BBS 12<13>14

 少しだけ覗き見る知らない顔。
 小さな手に乗る光の欠片が、大切で、大切で。
 そっと胸に仕舞い込みたくなるそれは、他者の宝物。

 晩秋の風は冷たいが日差しは暖かく、瑞穂は数日ぶりの病院外にふっと息をつく。既に街並みは冬と言ってもよく、気付けばハロウィンの飾りが消えた店先はクリスマス一色に変わっている。年齢相応にそう言った街の賑わいの華やかさを喜ぶ半面、目まぐるしい変化に少女は追い付けずどこか戸惑ってしまう。病院からバス通りへの銀杏並木は葉も落ち、賑わうディスプレイ以外は褪せたベージュ色がかって見える…冬の色だった。
 ふわりと顎の辺りを撫でる柔らかな毛並みの優しいこそばゆさに、少女は僅かに首を傾ける。首回りと裾に柔らかなファーを巡らせたケープも、その下のワンピースもブーツも鞄も何もかも、下着までもが全て新しい。まるで試着後に手直ししたかの様に身体に馴染む服は、医師から届いた物である。交通事故時に制服姿だった少女は退院が決まるまでは外出用の私服を用意する必要がなく、急に決まった予定に外出着をどうすればよいのか悩んでいた矢先に届いたそれらは、ギプスが邪魔にならない様に選ばれているが、高校生でしかない瑞穂の目にも明らかに良質で高価そうな物だった。だが優美なそれを医師が自分に似合うと見立てた事が密かに嬉しくも、高額故の不相応さに少女は怖気付いてしまう。医師に返礼をせねばならないが未成年として高額なやりとりは親への相談が欠かせず、何故医師から服を送られたかの理由で嘘をつく事に少女は躊躇いを憶えていたが、特別室の主からの贈り物は固辞した少女が医師からの贈り物を身に纏う理由を思い出し、桜色の頬が熱くなる。
 申請されていたのは外出届ではなく、外泊届けだった。
 医師との外出の後は自宅へ戻り入院中に出来ない雑務を片付ける事を最初考えた少女を絡め取る、医師の指の動きと命令の記憶に鼓動が早くなる。――異性の、大人の男性を、満足させるとは、どういう事なのだろうか。あの人物は、自分に何を教えようとしているのだろうか。全身が熱く火照り、思わず少女は自分の頬に手を当てる。
 まさか、結ばれる事はないのであろう…。自分などあの美しい女性と比べれば子供に過ぎず、何より医師と恋仲ではないのだから。ならば医師はこれからの一夜を、何と考えているのだろうか。自分は医師にとって何なのだろうか。一昨日の夜中のユニットバスでの出来事を思い出し、少女の指は頬から唇へと動く。暗闇で何一つ判らない中、自分の唇に医師の唇が重ねられた気がした…だが接吻を交わしたと考えるには、その後の医師の表情はいつもと何も変わらないままだった。看護婦に見つからないか、それと暗闇の不安に医師に縋りついてしまった自分の唇が顎か頬に当たってしまっただけなのかもしれない、だが、顎か頬でも少女にとっては重大な出来事である。そして、医師にとっては、顎や頬でも意味はないのだろう…ましてや、接吻など、考えもしないのだろう。
 ゆっくりと歩いていた少女の歩みが鈍り、遂に立ち止まる。
 医師との時間を与えられる贅沢に浮かれてしまう自分が恥ずかしい。医師は自分に何を望んでいるのだろうか。単なる暇潰しの余興なのだろう…あの女性の代わりなどと高望みはしていない、だが、医師が自分で憂さを晴らす事で医師自身が傷付くのではなかろうか、愛する女性への不貞の後悔に苛まれるのではなかろうか? そう考える度に自分の浅ましさに涙が出る。憂さでもいい、触れて貰えるのであれば、などと。
 もしも医師に求められたとすれば、恐らく少女は拒む事が出来ない。それは医師に求められたいと少女自身が望んでいる為であり、医師から与えられるあの甘く妖しい快楽に何も考えられなくなる為ではない…だが同時に医師に苦い思いをさせたくないが為に、捧げられない。もしも、もしも、結ばれた後に医師が愛する女性への罪悪感で打ち拉がれる姿を見てしまえば、自分はどうなってしまうのだろうか。
 不意に、横でかちゃりと音が鳴った。
「室生、瑞穂さんですね」
 滑らかな、だが心のどこかが不安になる響きの籠もった問い掛けに瑞穂は首を巡らせる。
 少女でも知っている最高級国産車の黒い車体の後部扉を開け自分を見下ろしているのは濃い灰色のスーツ姿の男性だった。どこかで会った気がしながら頷く少女に、男の目が笑う。ホテルマンの様に姿勢のよい綺麗な立ち姿だが、ふっと瑞穂の胸に不安な陰が落ちた気がした。紳士的だが話したくない苦手意識が生じる不可解さに僅かに後ずさりそうになる瑞穂に、男の目から笑みが消え、どこか芝居がかった神妙な表情が浮かぶ。
「主から、御相談にのる様に指示されております」
「?」
 首を傾げかけ、瑞穂は目の前の人物が誰かを思い出そうとした。そう遠くない記憶の気がする中、男が胸元から一枚の写真を取り出し、瑞穂へと差し出す。写真撮影はあまり好きではない為、一番新しくて同級生達との文化祭のものだろうか、ともあれ相談と写真が結び付かないままに男の手にある写真を覗き込んだ瑞穂は、凍り付く。
 それは、全裸の自分の写真だった。

 どくんと大きく鼓動が鳴り、脈打つ度に血の気が引いていくのを感じる少女の全身が小さく震える。
 ギプスのみを着けているからには事故後であろう。白いシーツの上で意識がないのか目を閉じている自分は、左右に脚を広げ、膝を立て、カメラの前で秘めるべき場所を晒け出していた。あからさまな卑猥な姿の写真を提示され、つまりはこの人物も自分の赤裸々な姿を目にしているのだと言う羞恥に逃げ出したくなると同時に、記憶のパーツがかちりと合い、目の前の人物が特別室に居た秘書らしき人物だったと繋がる。記憶の中の甘く癖のお茶の匂いと、それを濃くした様な、あの女性の行為の最中の匂いが被さり、膝が小刻みに震え出す。医師と看護婦と特別室の主の関係は具体的には判っていない…だが複雑な関係にある男女の場に拙く邪に立ち入りかけてしまった自分は咎められてもおかしくはない。もしかして医師への横恋慕をあの女性に気付かれてしまったのだろうか、それとも……。
 医師以外は、自分の恥ずかしい姿を見てはいない筈だった。
 不意に気付いてしまった事実に瑞穂の目の前が暗くなる。つまり、この写真は医師が撮影したもので、それを秘書が持つと言う事は、医師があの男性に写真を渡した事を意味する。何故?何故、医師は……。
「御乗車願えますか? 少しお休みになられた方がいい、顔色が悪い」
 すっと腕を取られ、よろけた瑞穂の鼻腔にあの甘い匂いが掠めた。足元が崩れていく様な不安な感覚の中、秘書にやや強引に促される形で瑞穂の足が後部扉へと進む。ゆったりとした後部座席が見え、僅かに進んでしまった少女の肩を秘書の男が明確に掴み、更に促した。何の相談なのだろうか。忠告か、身の程知らずと罵倒されるのか、待っているのは、あの女性なのか、それとも、特別室の男性なのか。
 ふわりと漂う甘い癖のある匂いが確かに鼻孔を擽り、暗転しかけている少女の中でぞくっと肌の内側から妖しい感覚を蘇らせる。閃光。身体を舐め回すいやらしい舌の感触。脚の間にある、頭。閃光。甘く絡み付く匂い……。
「――何をしている」
 冷ややかな、氷を思わせる硬質な深い声に、瑞穂の身体がぴくりと揺れる。貧血の様に遅々としか動かない身体を僅かに巡らせた少女の瞳に、医師の姿が映った。
 何故、この場にこの人が居るのだろうと思いながら、だがたった一人、今居て欲しいと少女は願ってしまう。写真を撮影した本人だと判りながら。
「せん……」
 冷たい汗が頬を伝い、瑞穂の膝がかくんと崩れた。並木道の歩道に倒れるのだと思った身体を、逞しい腕が引き寄せ、抱き留める。黒いコートと、煙草と消毒液の匂いに包まれながら、少女の意識は溶けていく。
「往来で人攫いでもするつもりか?これは俺の……」
 怒気を孕んだ声音の続きを聞く事も叶わず、瑞穂は男の腕の中で意識を失った。

 低い心地良いエンジン音と身体に馴染む座席と滑らかな揺れ。時折、止まり、また進む。微かな、煙草の匂い。これは、屋上で嗅いだ事のある、あの時の、そして、医師に染み付いた煙草の匂い。
 そう言えば医師はいつ煙草を吸うのだろうと、この前考えた気がする。屋上以来喫煙姿は見ていない…当然かもしれない、病室や、廊下で吸う訳にはいかないだろう。周囲に誰も喫煙者がいないから何故吸うのか少女には判らない。ただ、医師があの時、煙草を吸っていなければ接点もなく終わっていたのだろうとは思う。
 そっと、髪が撫でられる。煙草の匂いのする指先。とても、とても優しい指遣い。痛い位に抓り、激しい動きで膣内を抉るその指が、まるで大切な宝物の様に優しく撫でるから、泣きそうな気持ちになる。宝物ではないのに。期待をしたくなってしまうから、優しくしないで欲しい。
 気付かない時、いつも優しく貴方は触れる。

 静かだった。
 無彩色よりほんの僅かに芝色…くすんだ茶灰色がかった天井は少女には見憶えがない。柔らかなベッドに横たわっていた瑞穂はそっと指先を動かし、そして視線を巡らせる。病室ではなく、普通の寝室らしい部屋だった。いや普通とするにはかなり贅沢な空間と言えよう、旧市街にある古い洋館の少女の自宅とでは年期は比べ物にならないが、天井も十分に高く広い寝室は照明器具やドアノブ一つをとっても重厚感のある設備で揃えられている。遮光カーテンを寄せたままの窓は大きく、シンプルなレースのカーテン越しに差し込む晩秋の日差しはさほど傾いてはいないが、寝室に時計がない為に正確な時間は判らない。
 煙草と消毒液の匂いが微かに漂うベッドに、少女の頬が熱くなる。
 医師に抱き抱えられたからではなく、この寝室そのものに漂う男のにおいに動悸が速まるのを感じながら、少女はゆっくりと身体を起こす。几帳面とまではいかないが整えられたベッドカバーもそのままのベッドの上に横たわっていた少女はワンピースはそのままだがケープとブーツは脱がされていた。ベッドサイドに揃えられている…客用らしくさほど使われていないであろうスリッパを履いた瑞穂は立ち上がり寝室を見回す。
 濃褐色の木材と淡い芝色の壁紙はほぼモノトーンに近く、ベッドカバーやカーテン等と統一感がある十二畳程の寝室は家具や装飾が少ない。空の灰皿が乗ったベッドサイドテーブルとベッド以外はオットマン付の椅子しかなく、箪笥や収納扉の類が見当たらないが、それでもクイーンサイズのベッドのお陰で寝室に物足りなさは感じられない。大きな二面の窓は一方がテラス窓ともう一方は腰高窓で、他の二面の壁には扉が一つずつ。医師のにおいを感じられるが生活感は殆ど感じられない。
 そっと腰高窓から外を覗き込んだ瑞穂は即座に現在位置を把握する。
 少女の自宅のある旧市街からはやや離れた、ここ十年程で急成長した高層マンションの建ち並ぶ新市街…その中でも初期に大企業のビル等と同時に建てられ話題になったランドマーク的な高級マンションが今居る場所らしい。これまで車窓などから見上げていた小高い丘の上のマンションからの景色は新鮮だが整い過ぎており、映画かドラマの舞台と言うより精巧なミニチュアの様で暫し少女は目を奪われる。
 医師はどの様な場所に住んでいるのだろうかと考えた事はなかったが、少なくともこの寝室は少女の中で医師像と噛み合う。――だが医者とは言えまだ三十代程の男性が購入するには、やや高級過ぎはしないだろうか?家族で住んでいると考える方が自然だろう。しかしこの寝室は主寝室と考えていい広さであり、少女は戸惑う。眼下の景色から考えてこの寝室は東南角部屋で、更に主寝室があるとすればどれだけ広いのだろうか?いや、それよりも、医師の家族構成も判らないし、今在宅とすれば自分はどうすればよいのだろうか。気を失っている間に連れられた年端もいかない娘に驚かれはしていないだろうか?
 落ち着きなく服と髪を確認し、鏡を探すものの医師から贈られた鞄も寝室には見当たらない。頬に手を当て見苦しくない事を祈り、そして瑞穂の顔がふと曇る。
 あの写真は、何だったのだろう。
 医師以外は撮影し得ない自分の赤裸々な姿の写真を、何故特別室の男性の秘書が手にしていたのだろうか。医師が、手渡したのだろうか。いやそもそも何故医師は撮影をしたのだろうか、医師と撮影がどこかそぐわない気がするものの、現実に見てしまった写真の存在は大きい。どくんと身体が脈打ち、血の気の引いていく感覚に少女は自分の身体を抱きしめる。秘め事の姿の撮影は少女の理解の範囲外だった…何より見知らぬ他者の手にあの様な写真があるのは恐怖でしかない。
 そもそも少女には写真の意味が判らなかった。秘め事の記念か何かなのだろうか?猥褻な写真集の需要が存在している事は知っているが、自分の様な何の取り柄もない子供では価値はないだろう。グラビアアイドルの様な華やかさもなければ堂々と水着姿でポーズを取るだけの自信もない…ましてや性的な魅力など。あの秘書の男性が写真を所持していた事への羞恥はあっても、それが自分へ関わるそれ以上の実害に思い至らない。――恐れるのは、医師が何故それを他者に渡したか、だった。
 愛されているなどと思い上がってはいないが、自分は秘められるだけの価値もないのだろうか。実は疎まれているのだろうか。それとも、医師は女性そのものを疎略に扱う悪人なのだろうか。少女は何も知らない。家族構成も趣味も誕生日も何もかも…だが医師を悪人とは考えたくはなかった。そして疑いたくなかった。
 暫し立ち尽くした後、瑞穂は深呼吸をし、僅かに皺の寄ったベッドを整えた後二つの扉を見る。角部屋の構造上、どちらに何があるのかは判らないが南側の部屋の方が広い可能性が高いだろうか?医師に会えた場合、あの写真の件をどうすればいいのだろうか?歩み出す事を躊躇いながら、少女はそっと南側への扉を開けた。
 居間兼食堂らしき寝室より更に広い部屋を扉の陰から覗き込む前から、大きくはないが忙しないタイピング音が少女の耳に届く。寝室と同じ仕様のフローリングと壁の素材に、恐らく寝室のテラス窓の外から続くベランダに面した大きなテラス窓、革張りのソファセットと大型TVと立派な本棚にダイニングセット…寝室と同じ位に飾り気のない部屋である。
「――起きたか」
「はい」
 ソファに座り薄く大きなノートパソコンの画面から視線を動かさず目まぐるしく入力する手も止めないままの医師に問い掛けられ、少女は頷きながらそっと寝室を出る。
 広いテーブルの上にはノートパソコン以外は煙草の吸い殻の入った灰皿と煙草の箱とライターしかなく、TVも点いておらず、ただ医師の入力音だけが小さく途切れず鳴り続けている。住人の許可もなく部屋を更に見回すのも躊躇われたが、珈琲の匂いに気付き瑞穂は台所を覗き込む。
「あの、珈琲、召し上がられますか?」
「ああ頼む」
 コーヒーメイカーにかけられ保温状態になっている珈琲は既にやや煮詰まりかけている気がするものの、瑞穂は許可が出ている安心感から軽く見回してコーヒーカップを探す。四つ口コンロや大型冷蔵庫や食器洗浄機など広さに見合った立派な台所だが、少女の目にはそこはモデルルームの様な無機質さを強く感じさせる。物が、ない。食器棚のガラス越しにコーヒーカップはすぐに見つかったものの、皿が数枚とコーヒーカップが一客に銅のマグカップが一個…茶碗などは見当たらない。一般的にありそうな場所の引き出しを開けてみれば箸もカトラリーも一組ずつしかない。一応流しに洗剤とスポンジはあり、布巾とタオルは綺麗な物が掛かっているが、生活感があまりにも希薄だった。
「あの…引っ越していらしたばかり、でしょうか?」
「いや五年は住んでいる」
 恐らくは一人暮らしなのであろう…不意の来客で医師の家族に迷惑をかけてしまう事態は免れて安心したもののと、包丁もまな板もないのではないかと不安になるレベルの生活用品のなさに瑞穂は思わず大型冷蔵庫に視線を向ける。外食ばかりで栄養が偏っていそうな気がして医師の健康状態が心配になってくるが、それは少女が踏み込んでよい話ではない。
 煮詰まり始めている珈琲を注いでこれ以上煮詰まらない様に保温スイッチを切り、ミルクと砂糖と盆を探したものの見つからず、少し途方に暮れてから瑞穂はブラックの珈琲を注いだだけのコーヒーカップを手にソファへと戻り、そっとテーブルの上に置く。
「少し、待て」
 画面から目を逸らさないままぽつりと答える医師に、少女は邪魔にならない位置で床に正座をする。
 パソコンの類に縁がなく、スマートフォンもあまり多用しない少女の耳に絶え間ない入力音が届き、静かな中、医師を見つめてしまいそうな自分に、瑞穂は瞳を閉じる。
 この家に医師が住んでいるのは恐らく間違いないだろう。それはベッドや部屋に微かに漂うにおいで判る。だが家族の存在は感じられない。どう過ごしているのだろう、食事は、洗濯は、触れてよいのか判らない医師の私生活の中に居る困惑と僅かな好奇心に、ぽつりぽつりと少女は細やかな想像をする。その程度は許されるのではなかろうか。
 午後の柔らかな日差しの暖かさを感じながら、少女は静かに男の入力音に耳を傾け続ける。

「待たせたな」
 数分だろうか数十分だろうか、時間感覚のない穏やかな空気に溶け込んでいた少女は、医師の声に瞳をそっと向ける。
「お仕事でしたか? もしお忙しいのでしたらお暇させていただきますが……」
 既に冷めているのかもしれない珈琲を飲む医師に、瑞穂は小さく首を傾ける。
 柔らかな灰色のシャツにアイボリーのスラックスの姿は以前見た服装に近いが僅かに異なる。無彩色に近い色合いはこの家と似ており、医師によく似合うと思いながら、少女は微笑む。医師に私生活を少し覗かせて貰えた贅沢さで十分に満足だった…もしも医師が多忙ならば迷惑をかけずに帰った方が良いであろう。
「いや、片が付いた」何かあるのか自分の顔を見て怪訝とも困惑とも取れない微妙な表情を浮かべる医師に、少女は瞬きをする。「具合はどうだ?」
「御心配をおかけして申し訳ありませんでした。……。問題は…ないと思います」
 そもそもが入院患者であり腕にギプスを填めている身としては健康体とは言い難い。だが医師と会う直前のあの眩暈は己の疚しさ故だったのだろうか。秘書の男性の促した車内から感じられたあの甘い匂いが苦手なのかもしれない。気付かぬ間にとはいえ医師の家に上がり込んでしまった申し訳なさに少女の胸がちくりと痛む。
「そうか」
 コーヒーカップを傾け中身を一気に飲み干した医師が腕を伸ばし、床に正座している少女の身体を引き上げ、膝の上に載せた。
「……」
 唐突に医師の膝の上に横抱きに乗せられ頬が染まり俯いた少女は、男の視線が容赦なく注がれるのを感じ更に頬が熱くなる。
「似合っている」
 ぽつりと囁かれ、恥ずかしさに瞳を閉じかけた瑞穂は寄せられる医師の顔におずおずと舌を差し出した。もしかして勘違いかもしれないと身を強張らせようとした少女の舌を男の舌がゆっくりと舐り、そして絡み付く。少し煮詰まってしまっていた珈琲と煙草のにおいといつもより優しくそしてねっとりと時間をかける舌の動きはもどかしく卑猥で、ぞくりと妖しい感覚に瑞穂の身体に震えが走る。ここでは看護婦の巡回も何も止めるものがないのだと今更ながらに気付き、早鐘を打つ胸に処女の怯えがぽつりと浮かんだ。
 ゆっくりと、執拗に舌が絡み付く悩ましい疼きに小鼻から甘い声が零れ、少女の背から腰へ回されている男の手が逃げ場を奪う様に僅かに更に身体を引き寄せる。恐らく一人暮らしであろう医師の家で、外泊をする意味に身体中が熱くなる少女の項を男の指がなぞり、長い黒髪を抱きながら耳と喉を緩やかに往復し、顎を捉える。
 糸を引きながら離れた医師の舌に戸惑いながら喘ぐ少女の顎を男が甘く噛み、頬に接吻けた。医師の愛撫はいつも時間をかけたものだが、医師宅である為なのかいつも以上に恥ずかしさと甘いもどかしさが増し長い時間をかけられている感覚に瑞穂は泣き出しそうな不安と切なさに、思わずちいさな声を漏らす。親を見失った子供の様な舌足らずで無防備な鳴き声に医師の口の端が歪み、ワンピースの襟を指で僅かに引いたその内側に、男の唇が重ねられ強く執拗に吸われる。
 まだ昼間の、穏やかな日差しが差し込む居間のソファで医師に抱き込まれ、思わず仰け反る少女の鎖骨の近くに濃い痕が繰り返し付けられ、微かな喘ぎが静かな部屋に籠もる。誰も妨げる者のいない場所で、膝に乗せられるだけで何故か泣きそうな気持ちになる少女を、男は柔らかく抱き、唇だけは除いて接吻を繰り返す。耳が噛まれ、瞼に口付けられ、そして舌を舐られる。
 心が軋む。
 医師はこのソファで、あのベッドで、あの綺麗な女性といつも結ばれているのだろうか。深く唇を重ねて、身体を重ねて、愛を囁いて…。医師を感じる程に胸の奥が鋭く痛む。あの女性が自分を咎めたくなるのは当然だろう。いつの画像か判らないが、医師のスマートフォンを恋人が覗いてしまったのだろうか?自分と同じ様に医師を直接咎められないのだとしたら…その気持ちは恐らく少女にも判る。嫌われたくない惨めな思い。だが彼女は自分とは異なる。恐らく甘えていいのだろう、甘えて拗ねて医師を責めても許される立場なのだから。医師はそれにどう応えるのだろう、愛おしむ目で見て抱きしめるのだろうか。
 胸が痛む。
 砂糖もミルクも加えていない苦い珈琲の香りと味を舌で受け止め、ゆっくりと戯れる様に舌を絡ませる男に抱えられるまま肩が寄せられ、ほの暖かい室温よりも温かな身体を感じて少女は更に頬を熱くする。贅沢過ぎる。これではまるで恋人同士の様ではなかろうか。異性の腕に慣れていない…男性の腕と言えば幼い頃の父親位しか思い浮かばない少女は圧倒的に記憶を上書きしていく医師の腕の逞しさに溺れそうになる。スポーツ番組の運動選手程厳つくはないが無駄な脂肪のない硬く引き締まった腕、広い肩幅と胸板、荒れてはいないが柔らかでもない異性の肌と長く節張った指。自分とて十七歳ではあるのだから子供の様に膝の上に乗せれば重い筈なのに全く意に介さない男に、少女の気恥ずかしさは増していくばかりだった。
 甘く詰まった息が漏れる。さらりと髪が流れるその内側で肩から降りた男の指が背筋をなぞり、もう一方の手が薄く柔らかなワンピースの上から容易く乳首を探り当て指先で捏ねる。与えられた揃いの下着は繊細な刺繍が施されている上品な意匠だったがカップにパッドはなく過敏な乳首を覆いはしていても保護する物ではなかった。ストラップも非常に細くレースの面積も小さく、純白で清楚だが官能的であり、一昨日の夜いつの間にか身に着けていた見憶えのない下着と同じブランドの製品である事を少女は思い出す。もしかして眠っている間に医師が着替えさせたのだろうか?確かにクローゼットを勝手に開けて下着を探されるのは恥ずかしいが、着替えの為に前もってわざわざ購入していたとは思い難い上、海外ブランドの下着が病院の備品とも考え難い…その上今日瑞穂が身に纏った物は全て外出の為に揃えられていた。少女が知らない常識として成人男性は服を送るのが慣わしとしてあるのだろうか?
「ぁ……っ」
 乳首を指で摘ままれ、思わず少女は声を漏らす。
 いつの間にか浅く乱れていた呼吸と熱く火照る身体に医師を見てしまう少女に、男が口の端を歪めて薄く笑う。どちらかと言えば意地の悪い笑みと分類されるその表情が少女には堪らなく好ましく映る…端正だが気難しい男らしく破顔でも微笑みでもない斜に構えた嗤いだが、自嘲を感じない場合は男が楽しんでいるのだと判る。但し、大抵少女にとって恥ずかしい事態にそれが重なっているのが、困るのだが。
 幸せと呼んでいいであろう甘い時間に、不意に瑞穂の脳裏に看護婦の美貌が過る。
「――あ…、あの…っ、きょ…今日の予定を、まだ伺っておりません」
 僅かに、ほんの僅かに身を引いた少女の胸がちくりと痛む。冷静に考えれば美術館かコンサートか、医師から与えられた服が正装であるからには行き先は決まっているのであろう。それはシフトの都合の折り合いが付かないあの綺麗な女性の代役である可能性が高い。芸術鑑賞に同行してもそこそこの知識しかない少女では物足りず医師を満足させられないかもしれない。そう、外泊届けは病院に戻るには終演時間が遅いだけの意味しかないかもしれない。そんな当然の事をさも恋人同士の外泊の様に一喜一憂していた自分のはしたなさに瑞穂の顔が赤くなり、その逆に胸の奥の痛みと落胆に泣きそうになる。迷惑をかけているだけに過ぎないのならば出来るだけ早く退出し自宅で静養した方が医師の時間を奪わずに済むだろう…それは気恥ずかしさからの逃避もあったが、実際に医師の身体を心配する事だけは何度叱責されても瑞穂は止められなかった。
「ああ…急に倒れる患者に遠出をさせる訳にはいくまい」
 やや冷淡に言う医師の指が少女の額に触れる。
「……。貧血などで倒れる事はあまりないのですが…御迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません……」
 自分でもあの時何故倒れたのか判らず、それがもしも事故の後遺症に寄るものだとすればすぐさま病院に戻った方がよいのかもしれないと不安になり、少女は医師を見つめた。折角の医師の休日を台無しにしてしまうのでは代役にすらなれていない。不安と胸の痛みに萎れる少女に、男が困惑した様な表情を浮かべた。
「……。ああ、お前の趣味は、何だ?」
 唐突な問いに思わず首を傾げてから瑞穂は暫し考える。
「あまり趣味と呼べるものはないのです。ピアノと読書と…あとは家の手伝いだけで」
 つまらない人間だと思われそうな芸のなさに頬を染めながら、瑞穂は医師の質問の意味が判らず瞬きをする。
「腕が、気になるか」
「あ…いいえ、そんな、ピアノと言っても昔習っただけで自慢出来る様なものではありません」
 医者として骨折に関しての話をしているのだと気付き少女は慌てて首を振る。担当医の話では後遺症が現れる程の怪我でもなく、プロを目指すレベルでもない少女には然程問題はない筈だった。
「家の手伝いは、家業か何かか?」
「それこそ何も問題はありません。ただ普通に母の家事を手伝うだけで…学校では委員会も部活も所属しておりません」
 せめて何か人に誇れる趣味の一つでもあればよかったと俯く少女の肩を男の腕が抱き、軽く引き寄せる。
「俺も趣味はない。その上、家事もしない」
「お医者様はお忙しいと聞きますから仕方ありません」ぽつりぽつりと急ぐでもない間で話しながら、不思議と心が凪いでいく感覚に少女の身体からほんの僅かに力が抜ける。音楽も何もかかっていない居間には暖めるエアコンの音すらなく、ただ穏やかで緩やかな声がするのみだった。「それに、お部屋は汚れていません」
「週に一度ハウスキーパーが来る」
 医師の言葉を聞いた瞬間、胸に沸き上がった奔流の様な感情に少女は息を詰まらせる。週に一度の家政婦が家事を担当しているのならば、あの女性がここで甲斐甲斐しく医師の世話をする事はないのだろうか。食器すら満足に揃っていないこの家へはもしかして訪れていないのだろうか?いやカップなどを婚姻前の異性の部屋に置くなどはしたないと遠慮をしているだけなのかもしれない。もし自分ならば掃除と洗濯などをせめて手伝い医師の負担を減らしたいと思ってしまうが、それは恐らく相手の生活に踏み込む不躾な行為なのだ…大人の男女はその距離を自然と取れるのだろう……。
「――コーヒーミルクすらなくて驚いたのか?」
「え…、い…いいえ……」医師の腕の中でゆっくりと時間を過ごしている今を心地良いと感じてしまう己の疚しさに不意に涙が込み上げてきそうになり、瑞穂は首を振る。「――病院は、外泊許可が出ていても戻ってもいいのでしょうか?お食事の数が合わなくなるのでしたら御弁当を……」
 まるで羽毛を扱う様な軽く滑らかな動きの後、瑞穂は革張りのソファの上で仰向けに組み伏されていた。
 南向きのテラス窓から差し込む柔らかな日差しが医師の解れた前髪を照らし、空のコーヒーカップが倒れて転がる音が聞こえる。
「お前の身体に無理はさせない」

Next 『STAGE-14』
改訂版1902261507

■御意見御感想御指摘等いただけますと助かります。■
評価=物語的>よかった/悪かった
   エロかった/エロくなかった
メッセージ=

表TOP 裏TOP 裏NOV BBS