『誘惑〜Induction〜改訂版 STAGE-8』

表TOP 裏TOP 裏NOV BBS 7<8>9

 自分の中の知らない感情。
 欲しくない感情、いけない感情、驕った感情。
 誰もが持っているものなのか、異常なものなのかも判断が出来ない。
 どれだけ子供なのかと気付かされる。

 シャワーの水音の中、忙しない呼吸が溶けていく。広いユニットバスの中に篭もるとても甘いいやらしい声は誰のものなのか…自分の声は自分が感じているものとは異なると聞いている少女の耳に、それは砂糖水を思わせる程甘く恥ずかしさに耳を塞ぎたくなる程悦びを隠せていないのに切なげで、柔らかく高く澄んでいるがいやらし過ぎた。中学時代のクリスマス行事で独唱を任された事があったが、こんな声ならば二度と歌うまい…人に聞かせてはいけない声だった。それなのに、医師の指が動く度に声が溢れる。聞かないで欲しいと願うのに、医師の指の一掻きは魔法の様に身体を支配し絡め取り全ての自由を奪い去る。
 それなのに何故、いや、全てだからこそ心まで奪われてしまって当然なのかもしれない。
 ユニットバスの床の上で身体が重なり合う。胸が痛くなる程、硬い身体。自分にはない引き締まった筋肉は鎧を彷彿とさせ、だが広い肩も胸も体育会系の威圧感のある厚みはなく、しなやかで美しい彫刻の様だった。異性の大人は、男性は皆こうも綺麗なのだろうか?滑らかさとは違う張りの強い肌さえも悩ましく、触れてしまう事が畏れ多くて逃げ腰になる少女を男は容赦なく抱き上げ、肌を重ねてくる。
 これは身体を洗っているだけなのだと言えるのだろうか? 医師の指は少女の膣内を掻き乱し、少女の手は医師のものをたどたどしく擦り続けていた。ボディソープが湯に流されてしまう度に戸惑い困惑する少女の手と猛る性器へ潤滑液が追加され、華奢な手は促されるままに異性の象徴を撫で擦る。それは不思議な器官で、知識通りに女性の中に挿入される物であるならば滑らかであるべきなのに、酷く凹凸に富んでいた。幹に浮かび上がる管や小さい物の付け根から傘まで延びる縦の襞、どう考えても滑らかな挿入を阻害する大きな傘と楔の様な鰓…医師の身体が特別なのだろうか?もしも奇形などで気に病んでいるのならば触れるべきではないのか、それとも奇形だからこそ触れて労るべきなのだろうか。――そもそも特別な存在でない自分が行っていい事柄ではないと思うものの、医師の求める動きなのだと思うと少女はそれを拒みきれなかった。
 舌を舐め回されながらゆっくりと瑞穂は医師の鰓を指先でなぞる。気を失いそうな程恥ずかしい行為に涙が溢れ、だが医師に誉められている様に撫でられると、それが指先の一撫でだけであっても胸が一杯になり苦しくなった。この行為は…淫らな男女の前戯に似てはいまいか。ちりちりと不安が広がる中、溜まらなく心地良い医師の指の抽挿が熱を帯びる予感に瑞穂は恐れ、喘ぐ。洗い合いも何も考えられなくなる。ただ、ただ、医師の身体と声に身体が溺れて快楽と恥ずかしさに呑まれていく。
 洗い合いでなくなってしまう罪悪感に竦む少女の舌先を、医師の歯が噛んだ。

 くちょっくちょっと指を緩やかに動かされる度に沸き立つ淫猥な水音を耳を塞ぐ事も出来ずに聞きながら、少女の白い腰が床の上で絶頂の余韻に脈打つ。
 涙と唾液に濡れた紅潮した顔は唇以外は医師の唇を浴びる程受け止め、だが唇だけが許されない切なさに胸が痛くなる。接吻はとてもとても気持ちのよいものだと知っている気がするのは小説や映画の密かな知識の仕業なのだろうか、舌が知っている医師の巧みさのせいなのだろうか、煙草の匂いも深く重なり口腔中を貪る荒々しい接吻も眠りを覚まさない様な穏やかな優しい接吻も既に知っている様な自分のふしだらな浅ましさに瑞穂は涙を零す。思い人のいる医師が自分など望む筈もないのに。
 濡れた床の上で瞳を閉じて息を付く少女は、重ねていた身体を解く医師に胸がちくりと痛んだ。自分が医師の背中を流せてはいないがもう終わりなのだろう。恐らく身を起こされて軽く湯を浴びて、それで入院中と言う非日常に戻って終わってしまう。そもそも目覚めた時になぜ医師が病室にいたのかも少女は判っていない。それでも医師に疎まれるのだけは避けたかった。それなのに、胸が痛んで不安に涙が溢れ出してしまう……。
「え……? ――は……ぁん!」
 無防備な両腿をぐいと押されたと感じた直後、ぬろりとクリトリスに絡み付いた不思議な感触に少女の身体が大きく震えた。指とは異なる弾力のある何かに敏感な突起を捏ね回される度にその場所から爪先まで鋭い電気が流れる様な刺激はその弾力故か妖しいもどかしさが強く、ねとねとと絡み付く中のざらつきが吸い付きつつ掻かれている様な奇妙な常習性を帯びさせている。
 何をされているのかと視線を向けた瑞穂は、自分の下腹部に顔を埋めている男の姿にかあっと頬を熱くする。
「ゃ……せんせ…やめてくだ……ぁ……ふうぅっ、あ、あ……んんんっ!」
 医師の舌がどれだけ淫らな怖いものなのかは十分に判っているつもりだった少女は異性に秘めるべき場所を至近距離から見られ舐められる恥ずかしさに慌てて止めようとし、失敗する。舌を舐められる時もよく動いていた舌に既にクリトリスを捉えられ、歯で扱かれ、唇で吸い付かれ、絶頂の余韻で無防備な少女は男に舐められる悦びを拒む術もなく白い身体を仰け反らせよがり狂う。ねちょりと音が鳴る度にクリトリスから全身の隅まで強く甘い刺激が突き抜け、声が溢れる。首を振りたくる度に身を捩る度に仰向けの体勢の乳房が淫らに弾み淡い証明の下で鴇色の乳首が残像を描いて前後左右に揺れ、少女の気付かないうちに見つけにくい下乳に初々しい乳首の色より濃く付けられた唇の跡が前後した。
 洗い合いの範疇ではない…ならばこれは何なのだろう、相手のいる医師は何故自分にこの様な行為をするのだろう、止めなければと思考が意識の表面を漂うものの激しい波間の板切れに似たそれは時折浮かび上がるだけですぐに見えなくなってしまう。それと違い波打つ意識に油の様に広がっていくものは、悲しさと切なさだった。どれだけ波打っても意識から消えず広がっていくものは医師に求められてはいない痛みであり、身体の悦びが深ければ深い程心に痛みが広がっていく。
 何故、まるで愛する人の様に貪り、追い詰め、撫でるのか。
 ぐいっと腰を抱え込まれ、舌が膣口を捏ね上げ、押し込まれる。愛液塗れの孔に捩込まれる舌の感触は指とは異なり芯はないのに温かくしなやかでありながら硬い塊の様で、瑞穂は身体を許すべきではない存在に秘めるべき場所を舐められ穿たれる狂おしさに乱れる。じゅるじゅると啜られる音と刺激に意識が白く飛ぶ中、医師は唾液と同じで自分の愛液を嚥下してしまうのだろうと確信してしまう己の浅ましさに泣き叫びたくなる。恥ずかしい行為に消えたくなるよりも何よりも、もしも医師に自分を求めて貰えればどれだけ幸せに全てを捧げられるだろうかと叶う筈もない切望が胸を焦がす。――この人には愛する女性がいるのに。何故浅ましい悦びに背を向けられないのか。
 声を抑えようと左手の甲を唇に当てても、熱に浮かされた様に身体がくねりいやらしい甘い声が溢れてしまう。膣口を舌で穿つと言う事は、医師にその場所を五感の全てで探られてしまうのを意味している…鏡で見せつけられた恥ずかしい場所を、舐め回してしまえる距離で。花の香りのボディソープも洗い流された状態で溢れる愛液のにおいも味もとろみも音も。
 嫌いやと譫言の様に繰り返す少女の細い脚が男の肩の向こうで頼りなく宙を掻き、爪先がきゅっと縮込まっては弛緩しぎくしゃくと蠢く。恥ずかしがれば恥ずかしがる程溢れる愛液は男の顎だけでなく鼻の辺りにまでねっとりと絡み付き、舌を抜いても唇顎を離しても透明だが濃密な太い糸をたっぷりと垂らす。止めて欲しいと切実に願いながら、舌が膣口のくねりをぬろりとこじ開ける度に腰の奥から妖しい甘いうねりが全身に広がり思考が蕩けてただひたすら身を委ね続けていたくなる。恥ずかしいのにもっと舐め回して貰いたい、襞を口内でくちゅくちゅと掻き混ぜてから激しく音が鳴るまで啜って欲しい、クリトリスに歯を当てて擦って欲しい…甘く熱く爛れ煮え立ち朦朧とする意識の中で不意に看護婦の美貌が浮かび上がる。
「――っ! だめ…駄目です……っ」
 恐ろしい事をしている怯えに少女の顔が歪む。
 心地良い事ならば尚更に、惹かれるならば尚更にそれを他者から奪う様な真似をしてはいけない。逆らえばこの前と同じに医師はまた去ってしまうのだろう…思い出すのも苦しい胸の痛みとまるで雪山に放り出された様な心細さに怖じ気付きながら瑞穂はそれでも首を振る。
「選ばせてやろう」
「ぇ……?」
 ゆらりと身体を起こした男に顎を指で捉えられ、その指に絡み付く濃密な愛液の滑りとユニットバスの柔らかな照明を背にした濡れ髪を貼り付かせた大人の男の端正な顔に少女は竦む。シャワーの熱い飛沫が時折顔にかかるのも意識出来ない程、全裸の男の身体は少女の瞳にはこの世の全てか何かの様に美しく見えた。いや美しいと表現していいのだろうか?引き締まった身体、広い肩、厚過ぎずしかし薄くもない胸板、脂肪の薄い筋肉の曲線、頼りない自分のものとはまるで異なる腹筋…。異性の裸身に思わず視線を注いでしまっていた恥ずかしさに赤面し身を縮込まらせる瑞穂に覆い被さり、男が額に唇を当てる。激しい動悸が伝わってしまうのではないかと更に赤面し縮込まる少女の唇以外の顔中に唇を這わせる男に、徐々に少女の身体の力が蕩けて抜けていく。
「俺に身体を洗わせるだけ洗わせて逃げるか、洗い返すか」
「ぁ……」
 礼には礼をと言う原則を指摘され瑞穂は呆然として医師を見る。そもそも医師の仕事ではない介護に何の礼もなく拒むのは我が儘が過ぎるのではなかろうか…何かが違う気はするのだがしかし感謝すべきなのは間違いない筈だった。だが異性の身体を全裸のまま洗う恥ずかしさに戸惑う少女の瞳に口の端を歪める男の顔が映る。
「……。洗わせていただきます……」ただ洗うだけならばもうおかしな事はないだろう…安堵しつつどこか落胆している自分に戸惑う瑞穂の身体を男が引き起こす。身体に力が入らない為によろめきながらユニットバスの隅の棚にあるスポンジへと目を向ける少女だが、男の腕は絡め取ったまま離さずにいた。「あの……?」
 決して小柄過ぎてはいない瑞穂だが医師との身長差は頭一つ分はあり、体格差は腕の中に簡単に収まってしまう。到底抗えない力の差を男の裸の腕と胸板に感じ少女は頬を染めておずおずと男を見上げる。殆どシャワーに洗い流されている少女の乳房の上に男の手が傾けるボトルからボディソープが直接注がれ、胸の下に回した腕で男が支えている為に深い谷間を作っている乳房にたっぷりと溜まっていく。
「同じ洗い方で問題はあるまい」
 男の言葉に少女は頬が更に赤くなるのを感じた。タオルもスポンジもなく手で直接全身を隈無く撫で回されたそれは確かにボディソープを使ってはいたが愛撫に近い実感で、異性に触れる事をはしたないと感じる瑞穂にとって赤裸々な行為に他ならない。左の掌にも注がれるボディソープを俯きながら受け止めた瑞穂の耳に、医師がボトルを置く音が聞こえた。
 どくんどくんと全身で激しい動悸が鳴り響いている感覚に襲われながら、ゆっくりとぎこちなく瑞穂は男の首筋へと手を伸ばし、そっと触れる。指先が触れた瞬間、男の腕の中で華奢な肢体が震え感嘆とも嗚咽ともとれない吐息が唇から零れた。ぬるりと滑る指が首筋をなぞり、何故か衝動的に見上げてしまった少女と男の視線が交差する。
「ぁ……」
 肌に絡み付くボディソープの滑りに操られる様に向き合う形で密着してしまう身体に、男の腕の中で少女は踵を浮かせた。ぬるぬると滑る身体は頼りなく動き、恥ずかしさに視線を逸らす少女の右腕の指先が男の項をそっとなぞる。シャワーヘッドに吊されている時と似た体勢だったが、腕の自由と自ら医師の肌に触れなければならない点と目隠しがない点が異なっており、その気恥ずかしさが瑞穂の肌を更に敏感にさせる。
 これは洗い返すと言っていいのだろうか?ただはしたなく肌をまさぐりっているだけではないだろうか? ――だがあの美しい女性とは比べ物にならない貧弱な自分を医師が望む筈もない。ならばこれは何なのだろうか。ただの、悪戯なのだろうか……。
 問いたい事が多くある筈に思え、だが突き詰めれば一つか二つくらいかもしれない、それでも何一つ言えないまま医師が他を見ている事を期待して瑞穂は濡れた瞳を向けてびくりと身を震わせる。
 医師は少女を見ていた。
 精悍だがやや気難しげな整った顔立ち、シャワーの飛沫が無数に光る中の深い黒い目、濡れて秀でた額に貼り付く漆黒の髪…抱きすくめられている胸の激しい動悸が伝わってしまいそうで瞳を逸らしたいのにそれが出来ず瑞穂は涙を零す。
「舌を出せ」
 身体を洗う時にその必要はない。そう判りながら、少女は更に踵を浮かせて背を伸ばし瞳を閉じる。
 首筋を洗おうと項に伸ばす手はまるで恋人に縋りついている様だと感じてしまい思わず身を捩る少女の腰を男の腕が更に引き寄せ、舌が舐め上げられる。溜まっていたボディソープが乳房から流れ落ち男と少女の身体をぬるぬると滑らせるその上で、微かに触れた男の鼻の頭に付いていた愛液が少女の鼻の頭に付き糸が延びた。恥ずかしさに縮込まりたい少女はそれでも男の身体を洗おうと指をおずおずと首筋と肩に這わせるが華奢な指先がなぞる範囲は小さく、そして男の舌の動きに翻弄されるその指は効率的には動かず同じ場所からなかなか動かない。
 密着する身体の間に医師のものがあった。
 熱くて、硬い。
 ただ洗うだけなのではなく自分だけではなく医師も多少なりと性的なものを感じてはいるのではないかと混乱させる猛々しい男性器に、少女の早鐘を打つ胸と腰の奥から蕩けそうな甘い酩酊感と処女の怯えと羞恥が混ざり合い身体の隅々まで広がっていく。ほんの僅かでも異性だと気付いて欲しい…恋人のいる医師に意識されれば即座に去ってしまうかもしれないし、そうあるべきなのに、医師に異性として認識されたい。だがそれは医師に恋人を裏切らせる事になってしまう。甘く崩れ落ちそうな心と身体の奥で鋭い棘が胸を突く。
「――本当に面倒な小娘だ」
 絡めた舌から唾液の糸を引きつつ顔を離した男の、まるで心を読まれた様な言葉に瑞穂の身体がびくりと震えた。直前までのはしたなくもうっとりとしてしまう甘美な舌遣いが気のせいに思えてしまう男の気難しげな表情にすっと血の気が引いていく。何が気分を害してしまったのか問いたい気持ちよりも自分の拙さと思い上がりを恥じる気後れが勝り、思わず医師の首筋にある手を引いてしまう瑞穂の腰を抱く手の力が更に込められた。
「せ……」
「満足に洗えないのならばせめて俺を楽しませろ」
 細く見えるが逞しい腕に更に抱き寄せられたと感じた次の瞬間、ふわりと少女の身体は男に抱き上げられる。まるで布か羽毛でも扱う軽い仕草に瑞穂の胸が高鳴り耳まで紅潮してしまう中、視線が交わった医師が微かに口の端を吊り上げた。それが笑顔なのか嘲笑なのか判らない少女の身体が柔らかく浴室の床へと横たわらせられ、男が覆い被さる。
 ぽたりと男の髪から滴る湯が白い乳房の上に弾け、やがてシャワーの降り注ぐ音だけのユニットバスの中で乳首が舐り上げられた。
「ぁ……っ」
 思わず零れてしまう声に口元に手の甲を当てる少女に構わず、鴇色のやや小振りな乳輪を咥えた男の唇と舌がねっとりと熱く舐り、転がし、味わう様に挟んで擦る。逃さない様に軽く吸いながら乳輪全体を挟み緩やかにじわりじわりと力を込めていく唇に、乳首から腰の奥へと甘く重い疼きが伝わり瑞穂は思わず身体を縮込まらせる。異性の怖さとは異なる堪らなく恥ずかしさと医師の唇の動き一つ一つで積もっていくもどかしさに、縮込まったままの両膝が妖しくくねり擦り合わせるその先で踵と爪先が濡れた床を掻く。
 楽しませるとはどういう事なのだろう。
 このまま医師に身体を貪られるかもしれない可能性に思い至った瑞穂の瞳が揺らぎ零れた涙を医師の指が拭う。乳房を玩具にしている男が何故自分の涙に気付いてしまったのか戸惑い何故か焦る少女は視線を向け、そして自分の乳房を吸う男に身を震わせる。柔らかな照明の下、白い乳房に顔を埋める男の唇が微かに動き、シャワーの水音の中乳首を強く吸い上げる音が鳴り、男の口の中で乳首がきゅっと縮込まり引かれる刺激に瑞穂は甲高く鳴き首を振った。はしたない、いや何と言えばいいのだろうか、恥ずかしくて堪らないのに身体の芯から蕩けそうな甘いこそばゆさに身悶えてしまう…大人の男性に、医師に、乳首を吸われ転がして貰える陶酔感にひくひくと膣口がざわめき愛液が溢れていくのが自分でも判ってしまい、少女は淫らな反応に医師が気付かない事を願いながら逆に恐らく気付いてしまっていると確信してしまっていた。いや、それは確信よりも恥ずかしい何かだった…例えれば、期待に近い。僅かに腰を捩る度に下腹部から双丘の谷間までを愛液がぬるぬると滑らせ、それは床の上にまで伝い腰を妖しく滑らせる。踵や爪先の様に堪えの利かない滑りはきっと細い腿を跨ぐ男にはすぐに伝わってしまうだろう。乳首をしゃぶられるだけで淫らに濡れる女を男はどう思うだろうか、そうと知られたくない激しい羞恥心の一方で、意識の底で小さなものが芽吹きかける。――幼馴染みに話してしまった『素敵』よりも甘く手に負えないこの気持ちは……。
 この行為は何なのだろう。もしも自分が医師の思い人であるあの女性ならば自分以外の女性との交わりは胸が苦しくて堪らないだろう、医師はそれが判らないのだろうか?それとも自分が子供故の潔癖さで大人の男女の機微も知らずに非難しているだけなのだろうか?
「は……ぁ…ぅ」
 医師の指がゆっくりと乳房をなぞり、裾野から頂へと向かいかけては戻る遅々とした動きを繰り返す。身体が脈打つ度に気怠さに近い気がする甘くねっとりとしたうねりと鋭い電気に似た刺激が交互に医師の愛撫する両の乳房から全身まで流れ、頬も耳も身体中が熱く火照り少女の縮込まっていた身体は徐々に解れ、男の腕の中で密か故に酷く嗜虐心と独占欲を煽る拙い淫猥な動きで男の口と手に応えていた。妖しく揺れる白く細い腿はそれを跨ぐ男の内腿に甘える様に擦れ、手の甲を当てて抑えようとする上擦った声は水音に紛れつつも途切れる事なく零れ続け、洗われている下腹部の奥から溢れる愛液は必要以上に使用しているボディソープの香りと混ざり合いながらユニットバスに淫らに籠もる。いつ喫煙したのか煙草を感じる男の唾液と息のにおいが不意に蘇り、瑞穂はぶるっと身体を震わせた。想像に過ぎない…もしかして夢に見たのかもしれない医師との深い深い接吻の感触に喘ぐ。妄想で悦ぶはしたない娘だと思われたくないのにそれは生々しく、まるで実際に医師と何度も接吻を交わしながら身体を愛撫され続けた様な気がして心は戸惑い、身体は淫らな熱を持て余す。
「ぁ……っ…、は……ぁ…っ、せん……せぃ……」
 瞳を閉じても医師の指が乳首を捏ね回すのは感じてしまう。やや硬質な綺麗な長い指の先が縮込まった乳首を根元からゆっくりと伸ばす様に擦り、円を描いて転がし、爪で軽く掻く。時間をたっぷりとかけた動きに脈打つ度に乳首のむず痒さが深くなり、どうすればよいのか判らない疼きに瑞穂は首を振る。自分が自分でなくなっていく感覚は、まるで医師が棒倒しの砂を削っていく様でもあり、いつ倒れるか判らない不安と削っていく手への怯えでありながら、何故か甘い。倒れるとどうなってしまうのだろう、何故医師は削っていくのだろう…いやそもそも削られていく感覚は自分だけであって医師は何も微塵も感じず一考にも値しないのかもしれない。大人ならば判るのだろうか、この男性が何を考えているのかを。
「ぁ……んっ!」
 医師が一際強く乳首を擦った瞬間、じんと胸から腰の奥に響いた熱く重い疼きに瑞穂の肢体が床の上で跳ねる。もどかしさとは違う直接身体の奥底に触れられた様な苦しくなる様な甘さに、身体中の血液が煮えた蜂蜜に変わってしまった感覚に襲われる。
 不意に鳴ったノックの音に瑞穂の身体が大きく跳ねる。
「室生さーん、夕食置いておきますねー」
 聞き覚えのある配膳係の男性の声に、ただでさえ反響しやすいユニットバス内の自分の淫らな声を聞かれてはいまいかと焦ると同時に、魔法が解けていく様な心細さに瑞穂は強く瞳を閉じて医師の存在を肌で確認しようとする。
「返事だ」
「は……、はいっ」
 低い囁きにユニットバスの扉の向こうにいるであろう配膳係へやや大きめな声で返答した瑞穂は、自分を軽く抱きながら起き上がる医師に支えられ立とうとしたが力が入らず男の腕の中に倒れ込む。長身の為細身に見えるものの思いの外逞しい身体に絡め取られ恥ずかしさに赤面する少女と異なり、男の表情は淡々としてその気持ちが読めものではなかった。
「遊びの時間は終わりだ」
 その言葉が氷で出来た小さな針の様に鋭く冷たく少女の胸に刺さり、瑞穂は俯く。

 まだ雨は降り続けていた。
 夕食の後は消灯前の検温などがあるだけで基本的に入院生活は時間を持て余しがちになると入院数日でようやく瑞穂は判ってきた。夕食に何を食べたか思い出せない様な、不思議な虚脱感に苛まれながら少女は窓の外の暗い空を見つめる。晩秋の冷たい雨に医師が濡れはしないか、風邪をひきはしないか、その顔をせめて思い出そうとするが、何故かモノトーンのシャツの背中ばかりで横顔すら浮かんでくれない。
 床頭台の上の教科書を手に取りぱらりと数ページ読もうとしても、文字を目で追っている筈なのに頭の中に入ってこない。まだ枯れる気配のない花々の香りを心地良く穏やかに感じながら、心細くざわめく心に瑞穂は小さく首を振る。
 どう考えればいいのだろう。
 どうすればいいのだろう。
 医師の顔を思い出そうとした瑞穂の脳裏に煙草と消毒液のにおいと剥き出しの鎖骨と胸板が浮かぶ、いやそれは脳裏ではないかもしれない、網膜に鼻孔に手に肌に身体中に、医師の名残が残っている。
「ぁ……」
 一瞬、医師に抱き締められた気がした少女の唇から声が零れた。
 医師が言っていた、あれは遊びの時間。本気ではない。医師の心はあの綺麗な大人の女性に捧げられていて自分には向いていない…そう判っている。それなのに何故胸が痛むのだろう。ぽたりと教科書のページの上に弾けた涙を慌てて瑞穂はハンカチで拭う。僅かな時間なのに水分を含んだ紙は涙の粒の大きさに丸くふやけ、恐らく消えない跡になってしまうだろう。零れる涙をハンカチで拭いながら白い頁の染みを見ていた瑞穂はぱたりとベッドに倒れ込んだ。
 会いたい。
 つい一時間程前までユニットバスに居た人なのにまた会いたくて仕方ない。一緒にいる時には異性に触れるはしたなさで逃げたくなるのに、いないと触れたくて仕方なくなる。煙草と消毒液のにおい、長い指、少し神経質そうな硬くて深い声。音楽は何が好きか、本の好みは、季節は何が好きで、紅茶と珈琲ならばどちらを選ぶか…何も知らないのにまた会いたくて胸が痛む。でも医師が自分との時間を許すとは限らない。
「室生様、失礼します」
 不意のノックの後……室外からかけられた男性の声に瑞穂は慌てて目元を擦った。
「どうぞ」
 医者か看護婦かを想像していた瑞穂は入室してきたスーツ姿の男性に戸惑いつつベッドから起き上がろうとして制止される。
「香取正蔵様から承りました品物を御届けにあがりました」
「香取……」
 瞬時にはその名前が誰のものか判らず首を傾げてしまった瑞穂は特別室の男を思い出し更に戸惑う。既に見舞いの大きな花籠も贈られている状態で、事故に関しての賠償問題は自分でなく保険会社間での遣り取りがなされる筈であり、これ以上何かを受け取ってよいものかの判断に迷う瑞穂に男は非の打ち所もない営業的な笑みを浮かべた。遣いに過ぎない男に恭しく渡された老舗デパートの包装紙に包まれた幾つかの箱をやむを得ず受け取り、瑞穂は困惑したまま使いの男の退出を見送った。
 箱は大きさの割には軽く、衣類が何かの様に思われる。しかし見舞いの花籠の後もこうして品物を受け取っていいかが瑞穂にはやはり判らない。母親が次に見舞いに訪れるまでこのまま開封せずに保管すべきなのかを悩んでいた時、何故か特別室で飲んだ茶の独特な匂いを思い出し少女は奇妙な居心地の悪さに戸惑う。
 消灯時間まではまだ時間があり、就寝前には親への連絡をとっているが今はまだ食事の時間かもしれないと考えた瑞穂は思い切って箱を開ける事にした。もしもすぐに開封すべき物だった場合は待ってはいけないし、何が送られてきたのかを親に伝える必要もある。補償交渉が何等かで決着したその贈答品かもしれないが、その様な場合は何が贈られるのだろうか?
「……」
 上品な箱に納められていた上質なネグリジェの美しさに瑞穂は一瞬年齢相応な少女らしく素直に目を見張り、そして困惑する。
 入院関連の書類によると入院中の寝衣やタオルを始め衛生用品の貸出があり、幾つかのコースの中から選択する形となっており、一般的には病院で統一されているパジャマを着用して汚せばすぐさま着替えが出来るシステムになっていると聞いている。確かに病院内の大半の入院患者は揃いのパジャマか浴衣を着用しており、瑞穂の見た限り自分の様な自前の寝衣を着用している患者は殆ど見掛けない。オムツも選択肢に含まれてはいるものの下着は貸し出しに含まれてはいないのは好みや企画の問題からだろうか?ともあれ患者と介護する家族の負担が軽減し衛生的なのだから合理的である。
 もしかして贈り主と会った時に自前の寝衣のどこかが汚れており気遣われたのだろうか?それとも見窄らしく見えたのだろうか? 恥ずかしさに頬が赤く染まり瑞穂は思わず左右を見回すがあの時に着ていた寝衣は既に病院内のクリーニングに出しており手元に残ってはいない。最初は意識を失っていた為、どうやって自前の寝衣を着ていたのか瑞穂は憶えていない。やはり統一された寝衣を選ぶべきなのだろうか?しかしズボン式のパジャマに縁がなかった少女には躊躇いがあり、そして浴衣は大勢がいる病院では頼りない気がしてならない。そう言えば香取氏も自前の上質なパジャマ姿だったのを思い出し、瑞穂はポリシー的なものとして配慮されたのかもしれないと納得しかける。――だがしかし、箱の中のネグリジェはとても高価なものに見えた。絹地に細やかな刺繍とレースはドレスに見える程豪華でとてもではないが軽い贈答品ではない。他の箱にはガウンやショールが入っており、やはり一目で高級品と判り、受け取ってしまった事を後悔して瑞穂は時計と箱を交互に見る。断るとしても親にまず報告して判断を仰ぐ方が良い…受け取ってしまった以上同額程度の品物を送り返す事になるだろうが、かなりの高額になってしまうのは確実だった。
 そして、どこか躊躇いがある。香取氏は上流階級特有のゆとりのある紳士に見えたが、どこがとは言えないが瑞穂には何故か苦手意識の様なものを彼に憶えてしまっていた。事故の被害者と加害者である為なのだろうか、しかし事故の原因は子供の飛び出しであり、ましてや香取氏は後部座席に着いていたのであり運転もしていない。
 しばし自分の感じる苦手意識に戸惑い恥じた後、瑞穂はベッドから降り、身支度を整える。鏡の前で何度も寝衣に汚れ等がないかを確認し、深呼吸を繰り返す。自分を育ててくれた両親の為にも、少女としては自分のだらしなさの為に暮らしぶりを疑われるのは避けたかった。時計を見ると消灯時間まであと一時間程あり就寝前の雑事の妨げになるのは避けられそうであると判断し、まだ迷う気持ちを堪え瑞穂は特別室へと向かう。

「いいぞ」
 ノックをしてしばしの間の後に微かに返答が聞こえた気がして、瑞穂はそっと扉を開けて特別室に入り、そして凍り付いた。
 あの癖のある茶の匂いが濃く漂い、息を吸うだけでくらりと眩暈に似た感覚が襲ってくる…これはお香か何かの様に焚く事も出来るのだろうか?ただお茶を淹れただけとは思えない匂いの濃さに思わず腰が引ける少女は、瞳に映ったものに驚き見入ってしまう。
 白い身体。病院とは思えない大きなベッドの上で肉感的な女性の身体が男性の腰に跨がり激しく上下に動いていた。蜂の様にくびれた細いウエストを強調する豊満な乳房と引き締まった腰、瑞穂の立ち竦む場所から丸見えになってしまっている男女の結合部。女性が激しく腰を上下させている為にひっきりなしにじゅぶじゅぶと淫猥な音が響き、女性の獣の様な呻り声が低く籠もる。男性の身体は下半身が瑞穂側に向いている為に顔などが見えない。緩やかに波打つ赤みがかった焦げ茶の髪が頭を振りたくる度に宙を舞い、女性が獣の様に呻り、吠える。日本語の要素のない理性のない声。ただひたすら性交に耽っているその姿は牝の大型肉食獣の様で、瑞穂の女性の目で見ても完璧なプロポーショナルであるが故に尚更野獣の印象を与えた。
 見てはいけない、すぐに立ち去らなければいけない、そう考える少女の膝が激しく震え、今にも崩れ落ちそうになる。浅い呼吸の度に噎せそうな甘い癖のある匂いが鼻腔から身体中に染み込み頭の芯をぼうっと熱く甘く鈍らせていき、全身がどくどくと脈を打つ。暖かな病室が暑く思え、喉が渇きを覚える。
 女性が吠えた。甘く悦んでいる声でなくそれは無我夢中で貪っている獣の声であり、汗塗れの身体が妖しく滑り、美しい唇から唾液が糸を引いて垂れる。理性の欠片もない姿は恐ろしく、だが美しかった。引き締まった腹部がびくびくと痙攣し、激しい腰の上下動に赤黒い長く太い幹が露出しては沈み込む。獣の声と動きが牡のそれにどれだけ狂っているのかを物語る。それだけしか考えていない。今、この女性は男性のそれに支配されている。
 一際大きく女性が吠え、激しく身を跳ね上げた。
「……」
 汗塗れの女性の顔が乱れきった髪の合間から見えた瞬間、瑞穂の頭は白くなった。
 あの深夜の整形外科の診察室で見た姿と、瑞穂の病室で見た姿が目の前で獣の様に貪る姿と一致する。だがここは香取氏の病室であり、そして時折聞こえる男性の呻り声は医師のものではなかった。

 気付くと瑞穂は自分の病室に戻りベッドに倒れ込んでいた。帰路は憶えていない。頭の中からあの美貌の看護婦の痴態が離れず、全身がどくどくと脈打ち熱い。嫌な汗が滲み、柔らかな寝衣を湿らせていた。綺麗な顔。医師を見上げ、ねっとりと性器を咥え頭を上下させる動きですら滑らかで淫猥で大人の女性らしかったあの姿と、理性の欠片もなく激しく男性のものを貪る獣の姿が脳裏に交互に弾け、顔を伏せている枕を少女はぎゅっと握る。
 あれは何だったのだろう。いや見てしまった行為は判る…だがその意味する所が瑞穂には判らない。何故。看護婦は医師と相思相愛なのならば何故香取氏とあの様な行為に及んでいたのだろうか?いや逆で元から香取氏の縁者であった看護婦が医師と関係を持ったのだろうか?しかし接点を考えれば職場を同じにする医師と先に結ばれていると考えた方が自然だろう。だがどれにも確実な答えが見つからない。そもそも自分は目撃してしまった第三者に過ぎず、こうして構図を考えるのは失礼な部外者に過ぎない…それでもまるで地面が崩壊した様な眩暈と困惑が収まらないのは何故だろう。
 冷たく鋭い錐で胸を突かれる様な痛みに寝衣の胸元をぎゅっと握り、瑞穂は浅く乱れる呼吸を繰り返す。香取氏と看護婦の情交は止めた方がいい気がした…あの年齢で独身とは思いがたい上に、もしも香取氏の本妻だとすれば今度は医師との関係が火遊びになってしまう。あの纏わり付く様な甘い茶のにおいが頭の芯で漂い、どくりどくりと身体が脈打ち、汗が滲む。
 気が付くと反射的に携帯電話を手に取り、瑞穂は医師の番号を呼び出そうとしていた。
「――!」
 電話帳画面の医師の名から呼び出し中の文字に切り替わる瞬間、慌てて通話切断ボタンを押し、恐ろしい物に触れたかの様に手を離した瑞穂の視界の中心でベッドの上に携帯電話が落ちる。唇の感触、閃光、看護婦の痴態、腕の中の感触、口内を貪る舌、茶のにおい、様々な要素が奔流の様に少女に押し寄せる中、自分の行為が信じられずに瑞穂は携帯電話を見る
 狡い。あの美貌の看護婦に覚えたその感情は一瞬で酷い後悔と羞恥に代わり瑞穂の身が強張った。自分の方が酷い事をしているではないか、看護婦は医師と結ばれているのは確かであり、その医師を異性として意識するだけでなく医者と患者の範疇を越えた行為に耽ってしまった自分は咎められるべきであっても人を咎められる立場ではない。それでも、それでも医師の横顔が脳裏に浮かぶと胸が熱く焦がれるのを感じ、少女は途方に暮れる。いけない事だと判っているのに気持ちが抑えられない。人を疑って貶める時点でそれは汚れた負の気持ちに過ぎなくなってしまう。
 軽やかな電子音に少女の身体がびくりと震えた。消灯前に両親へ余裕を持って連絡が出来る様に設定していたアラームの音だと判った少女の顔が、怯えたものから泣き笑いに似たものに変わる。こんな時でも、いやだからこそ医師からの折り返しを危惧し、そして期待してしまう自分が滑稽だった。即座に切断をしたから医師にまで届かなかったのだろう、いや届いて欲しくなかった…仕事で疲れていたであろう医師にこれ以上迷惑をかけたくはない。それでも一声でいいから声が聞きたいなどと、何故考えられるだろうか。
 医師に気付かれないで良かった。何度も深呼吸を繰り返してから瑞穂は胸に手を当てる。出来るだけ誰にも迷惑をかけるまい。両親にも医師にもいつも通りに振る舞おう、そう自らに念を押す瑞穂は涙が込み上げてきそうになり息を詰まらせる。遊びの時間は終わったのだ。
 何故、胸に鋭く刺さる拒絶の言葉まで甘く深く感じてしまうのだろう……。

 消灯時間を過ぎた病院は静かだった。
 相部屋ならば他の患者の物音で多少は気疲れや配慮で気が紛れるかもしれないが、個室は容赦なく静寂が精神を蝕んでいく。ナースステーションで鳴る警告音、本来聞こえないであろう時計が秒を刻む音、少女自身の身動ぎの微かな衣擦れの音。平時ならばまだ就寝時間ではない為か、睡魔は訪れずベッドの中で瑞穂はギプスに包まれている右腕を抱き締める。事故で骨折しているこの腕以外は全て健康に問題がない気がする…ならば多少不自由があってもすぐに退院出来るのではないだろうか。邪な思いで人を傷つけそうな自分はここにいては更に迷惑をかけてしまいかねないし、授業を休んでいる事も気懸かりで、香取氏側も被害者が軽傷にも係わらずいつまでも入院していては杞憂が晴れないのではなかろうか…そして両親にも深刻な怪我かと心配をかけてしまうのだから、一日でも早く退院し通常生活の中で安静を心掛ければいい気がする。今度担当医師に会えたら質問をしてみよう。そう本心から考えているのは事実であり、だが見つかっていない症状を危惧する慎重さも残ってはいた。
 消灯前の検温での微熱は骨折が原因なのだろうか、それとも湯当たりか…だが後者の可能性は誰にも言えない。人間ドックよりも丁寧な検査は何日で終わるのかを気にしていて不注意で熱を出しては元も子もなかった。――湯当たり等だとすれば医師も発熱してはいないだろうか、睡眠時間が不足してはいまいか、疲れてはいまいか、一人暮らしなのか実家暮らしなのか食事や家事の苦労はないか、誰か助けはあるのだろうか…気付くと医師の事ばかり考えている自分に少女はぎゅっと身を縮込まらせる。
 衣擦れの音に続いて軽い足音が聞こえ、看護婦の夜の巡回に気付いた瑞穂は眠ったフリをした。少なくとも消灯後と深夜三時頃に声もかけずに看護婦が病室を巡回するとこの数日で気付いてはいる。病院という場所柄当然必要なものだと判ってはいるが、寝付けずにいる罪悪感の為に疾しく感じてしまうのは何故だろう。
 学生の身としては過分な個室は扉の前からではベッドを覗く事が出来ず、看護婦のナースシューズの柔らかく軽い足音が近付いてくる。眠ったフリを続ける瑞穂の薄目を開けた視界の中でペンライトの光が動き、部屋を全体を軽く舐めた後最後にベッドの上と枕元を軽く撫でた。
 直接照らさず間接的な光で患者を確認し病室から出て行く看護婦に、瑞穂は息を付いた。眠れる気がしなくても無理にでも眠っておくべきだろう。骨折の痛みが酷くて眠れない時は看護婦に頼めば薬が貰えるとは聞いているが、それは痛み止めなのだろうか睡眠導入剤なのだろうか、だが精神的な問題で薬を処方して貰うのは別問題な気がしてならない、だが看護婦には不便があれば何でも伝える様に最初に言われて……。
「……。だ……」
 不意に感じた気配に誰何しかけた瑞穂は消灯時間内であるのと眠ったフリをしていたのを思い出し、口をつぐみかけてそのまま凍り付いた。

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改訂版1612022259

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