「よう乃愛、後で体育教官室に来いや」
視聴覚室からの移動の中、不意に聞こえた蛮声に乃愛の身体がびくっと揺れた。周囲の男子生徒の顔がまるで毒虫か何かを見つけてしまった様に歪むのが見える…体育教師の木下は生徒にそういう顔をさせる男である。古き悪しき時代の象徴の様な高圧的態度と親密さを勘違いしているのか、いつ保護者から訴えられてもおかしくはない暴力性の上、授業のない時間に飲酒しているとも言われていたがそれは流石に盛られすぎかもしれないが事実であってもおかしくはない、そう思われてしまう教師だった。
「――気をつけてな」
同級生が乃愛に気の毒そうにそう声をかけてくる、そんな教師である。
教師からの呼び出しとなると流石に同級生達の悪戯よりも優先される為、乃愛は昼休みに体育教官室に向かっていた。
ミニ丈ではあるものの一応高校の制服にパンティも身に着けているのは同級生達からの配慮だった。生徒を苗字でなく名前で呼ぶ…しかも男子生徒は普通通りの苗字呼びなのだから無神経なのではなくある種の勘違いの様なものを感じざるを得ない。自分の娘だと思って、でないのは体育教師が四十路に突入したばかりの年齢から違うだろうし、そして、異常に馴れ馴れしく自分に触れてくる行動はセクシャルハラスメントとしか思えない。何故なのだろう。同級生達の行為は確かに同質なものである筈なのにここまで嫌悪感を感じられないし、あの教師の場合は嫌悪感とは異なる奇妙な感覚が存在している…敢えて例えれば信頼感の様な、だが体育教師に触れられた瞬間に乃愛は鳥肌が立つ。そんな違いだった。
今まで乃愛が体育教師の深刻な悪戯に晒されていなかったのは急性虫垂炎で木下が入院していた為だった。普通ならば即入院手術で早く職場復帰出来たのだろうが不摂生の為に身体に問題があった体育教師は術前術後に一カ月以上かかり夏休みも挟み、縁がないとしか言い様がなかった状況のお陰だった。だが復帰したからにはそうはいかない。入院前の授業中に乳房を触られたり尻肉を撫でられたりと、乃愛には良い記憶がない…その上同級生達だけでなく学校全体に知れ渡っている状況を知られたらどうなるのか。ぞくりと鳥肌立つ乃愛の歩みが僅かに鈍る。同級生よりもあからさまな悪戯を平気でしてきそうな教師が何の為に自分を呼んでいるのか想像するだけで憂鬱になる。
体育教官室は校舎内にはなく体育館にある。校舎からの二階の渡り廊下の先にあり体育館外周の回廊に面しており体育館内からも回廊からも内部が見える開放的な構造、である筈だが保健室の様なパーテーションが配置されてその中の一角は見えない。体育館にはシャワールームも更衣室もあるのだから何を隠したいのかよく判らない…が、その陰に見えたものに少女の足が止まる。
床に転げている小麦色の、尻肉。
「……」
男子生徒のものとは異なるそれには真っ赤な手のひらの形の跡が生々しく浮かび上がり、ショートヘアの女生徒の憎々し気に睨みつけている顔が見えた。同学年でたった2人の女生徒の一人。中腰になり隠れながら歩を進めた乃愛の目にパーテーションの裏が更に見えた。
男と女が交わっている。椅子に腰かけている体育教師の上でもう一人の女生徒がよがり狂っていた。同意の上ではないと直感してしまう程の口惜し気な顔だがその口が嬌声を上げているのは音が聞こえなくても判ってしまう。太い、とても太い中年男の剛直が女生徒を真下から犯していた。校内で見ても少し絡み過ぎている様に見える女生徒二人がどういう関係なのかは判らないが、彼女達と体育教師が良い人間関係を築いているとは到底思えない光景である。ぞっと、背筋が震えた。
自分は、何をしようとしているんだろうか?
二日後に、何がある?
恐らく椅子が激しく軋んでいる。結合部を無二の友達に見せつける様な位置で体育教師に貫かれ激しく犯されている女生徒の下腹部から迸った液体が、床の上に転がっている少女の顔に降り注ぐ。憎々しく睨みつけている女生徒の顔が髪が失禁の液体に濡れ、口にそれが入ってしまうのを避けるのも忘れたかの様に彼女が怒鳴る。声は、音は、聞こえない。だが判るのはその光景には思いやりも配慮も何もない、無残な性の搾取だと言う事だけだった。
自分は、何をするのだろうか?何をされるのだろうか?
膝からかくんと崩れてしまいそうになる乃愛の身体が誰かに支えられた。
今は誰の顔も見たくはない。誰を見ても校内の人間ならば恐怖の対象になりかねなかった。
「あいつはやり過ぎなんだよ。――こちらも言えた話じゃないけどな」
冷めた口調での侮蔑にぎくしゃくと見上げた乃愛の瞳に、二日後に自分の処女を捧げる予定の男の顔が映った。
科学予備室の奥まった場所にある教卓の脇にあるパイプ椅子に座り、乃愛は教師に手渡された紙コップを両手に持ち、傾ける。ココアの甘い匂いが胸の奥にじんわりと染み込み、冷え切っていた様な身体に温かな部分が生じる。
「あくまでも生徒の自主性を尊重する」口の端を歪めて嗤う教師の顔を正面から見る事も出来ない乃愛の瞳に、午前中から曇り出していた空から雨が降り始めてきたのが映る。「俺がやりたいのは和姦であって強姦じゃない。その後、餓鬼どもがお前に無理強いをするのも正直関係ないが、教師として保護を求められるのならば指導もする」
面倒くさそうに言う教師の声音に凍り付いていた少女の首がゆっくりと巡り、目の前の男へと向けられる。
「あくまでも自由意志だ。お前がやりたいのならばやってやる。心の底から嫌がるならば抵抗しろ。中出しも避妊もお前が決めろ」
教師の発言はとても正しい気がしたが、逆にとても残酷な気がした。言い訳が出来ない。自分が求めて自分で抱かれる…それは相手の責任には出来ない。だがそれが正しいあるべき状態なのだと納得出来てしまう、だが逃げ道がない。今中止を決めれば止められるのだろうか?まだ脳裏から離れない体育教官室の光景が少女を竦ませる。だが温かくて甘いココアの味は少女の不安に寄り添ってくれている様な気がして、乃愛の心は揺れた。もし目の前の教師が自分の恋人なら目撃してしまった光景への怯えを取り払う様に抱き締めて口づけして欲しいとねだってしまったかもしれない。だがあくまでも教師は教師だった。
――それは、二日後も今も変わらない。
ふん、と鼻で軽く笑われ顔を上げた乃愛に、教師が珈琲の入ったカップを軽く揺らせる。
「餓鬼が即答出来ると思うな。明日一杯精々悩め。今でないといけない問題だけを考えろ」
この教師は元から問題がある。乃愛のこの窮状の原因も教師の脅迫によるものなのに何を悠長に構えているのだろうかと思うものの、心の何処かの重苦しいものが消えていく感覚が不思議で少女は少し息をつく。決して考えを放棄してはいけない問題ではあるが、今思い悩んでも確かに空回りなのかもしれない。それでいいのか?と自分でも心配になるが今決断するのは確かに難しい気がした。
「木下先生の所に行かなかった言い訳、お願いしていいですか?」
「いきなり態度が大きくなったな」
「……。ほ…保護を依頼しろと言ったのは、先生ですから」
乃愛の虚勢を張っている震える声に再びふんと教師は笑い、それを見て少女はココアの残りを一気に飲み、少し揺らす両手で持つカップを男の手が取り上げた。
「授業に帰る前に男性恐怖症を少し治してやるから脱げ」
本当にそれでいいのかが全く判らないまま、乃愛はパイプ椅子から立ち上がった。
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