天使を見たと思った。
湾岸副都心から官庁街への大通りは通勤時間帯になれば目も当てられないラッシュになるのだがまだ街が動き出す早朝は静まり返っている。ベッドタウンからこちらに向かってくるサラリーマンはもう通勤途上にあるのかもしれないが、こちらは徹夜明けの疲れ切った状態で駅に向かうサラリーマンと清掃業者位しか見かけない。道途中の一大歓楽街もカラスがゴミを突いている程度。
野外音楽堂の脇を抜けて池を見下ろす高台のランニングの折り返し地点で志貴は足を止めてしまった。
冬枯れにはまだ遠い早朝の蒼に染まった公園は都心の更に中央部としては別格の木々の多さで土と草木のにおいが心地よい。鳥の囀りに耳を傾けている様に瞳を閉じている少女の髪は腰まで届く見事なプラチナブロンド。風にさらりと揺れるそれが溶け込む様なドレスかワンピースか判断の難しい洒落た服は白地に金糸縁取り、刺し色は紺と風信子。太腿の半ばまで届く白いブーツと絶対領域を垣間見させるミニ丈の服が悩ましい…いや風が裾を揺らす度に下着が見えてしまいそうで危ない。繊細な美貌は触れれば壊れてしまいそうな程に儚げで、暫し志貴は見惚れてしまう。白い花の様な少女だった。
不意に一羽の鳥が近くの枝から飛び立った音の大きさに、びくっと身が動き、こちらを見た少女と目があう。
ドレスの刺し色と同じ風信子の色の瞳の美しさに志貴の胸がどくんと鳴った。
「おはようございます。いい朝ですね」
背はそう高くない微笑む美少女はあどけなく無垢で、だが胸の発育は悩ましい程、しかし声は舌足らずな幼女の様で志貴は戸惑う。
「……。おはよう。ごめん驚かせたかな」
「いいえー。もう小一時間位のんびりとしていたので…素敵な公園ですねキラキラしています」
「いや今まだ明るくないから」
天使にしては人懐っこいのか柔らかく微笑みながら公園を評価する少女に、気に入っている場所を褒められてまんざらでもないものの思わず志貴は突っ込みを入れてしまう。と、少女が破顔した。
「キラキラはキラキラですよ?夜空の星もキラキラですし、明け方の公園の池も小道もキラキラです」
「ああ…成程?」
高台から見下ろす池に面した街路灯が照らし出せばそれは幻想的かもしれない。
くう。
不意に響いた不似合いな音に反応に悩む志貴の目の前で少女の頬が真っ赤に染まる。
「……。朝御飯食べた?」
「はわ…いえ、何ていうか、あの、その、だって……この辺りお店全然開いていなくて!」
「官庁街だから土日の朝は駅から寄れる所しか開かないよ。……。ホテルに泊まってる観光客とかじゃないの?」
「いえ今度引っ越してくる予定なので下見に来たんです。もう少し海側なんですけれど」
湾岸地区は高層マンション建築ラッシュであり志貴の住むマンションもその中の一つである。ふむ、と空を見上げ志貴は少女を見た。
「少し歩くけど美味しい店があるから案内しようか?俺はこんな格好だからパスだけど」
ランニングと言っても片道5キロ程度の軽いものだがかなりのハイペースで走っている為にうっすらと汗は掻いている上にランニングウエア姿であり、ドレス姿の少女をエスコートするには気が抜け過ぎている。早朝の公園で一人ぽんやりとしているおっとりとした印象の少女はやや危なっかしいが、ここで志貴の誘いに乗って来るなら更に危なっかしい。人気の少ない区域で男の誘いに乗ってくる事はまずないだろう…そう思っていると。
「わぁ♪何のお店ですか?」
実に無警戒に少女が微笑んだ。
早朝から開店している古くからの喫茶店の飴色のテーブルに乗っているスフレパンケーキを一口頬張った少女は痺れた様に身悶えた。
「おいひぃです…っ、ほわあーって溶けちゃう」
店の前で別れる予定が店内まで引っ張り込まれた志貴は少女の正面の席で焙じ茶を啜る。悪い子ではないのは道中の会話でよく判ったのだが警戒心が薄過ぎでなかろうか。蜂蜜とバターとホイップクリームを山程乗せたスフレパンケーキを恍惚として食べている姿はとても愛らしいが、その皿は見るだけで胸焼けしそうである。あっさり目のクロックムッシュを薦めたのだが乙女のスイーツ好きは早朝でも関係ないらしい。
「志貴さんはこれからご用ですか?」
「いやのんびりと」
「じゃあちょっとだけこの辺りの事教えて貰えませんかー?このお店とっても美味しい…♪」
ランニング中であり財布も持っておらずスマートウォッチ決済だけで女の子を案内はとても気拙いものがあり志貴は肩を竦める。
「無理。こんな格好だから」
そう言いながら残念に感じるのは志貴にとって少女が好みそのままの為だった。公園から二十分程歩く場所にある喫茶店まで少し回り道をしながらの観光案内は楽しいもので、どうやら志貴と彼女の好みは似通ったものらしいのも好印象だった。所謂盛り場案内ではなく史跡や感じのいい小道に開店前のシャッター越しでも展示を楽しめる画廊や骨董店に書店…その中でも一番彼女が反応したのが最新式プラネタリウムだった。当然まだ投影時間外だったが、横になって転がってみる円形ソファの話を聞いて風信子の大きな瞳を輝かせていたから恐らく近日中に見に行くだろう。
「志貴さん格好いいからそのまんまでも問題ないですよ?」
こてりと首を傾けてとんでもない事を言い出す少女に志貴は内心焦りながら軽く手で払う形に振る。ドレス姿の完璧に決まった美少女相手にランニングウエアでは余りにも違い過ぎるし汗も掻いているのだから実は隣を歩くのも気恥ずかしい。
「シャワー浴びて着替えてからならね」
「はーい♪」
志貴の御断りの言葉に明るく答えぱくっとスフレパンケーキを頬張った次の瞬間、固まった少女の頬が真っ赤に染まる。幸せそうに味わっていたその口が躊躇う様にもぐもぐと控えめな咀嚼を繰り返し、何故か身を小さくさせつつ時折志貴とケーキを交互に見、落ち着きなく頬に手を当てその手が顔全体を覆う。子供の様な小さな手で全体を覆える顔はやはり小さく、華奢な指の間から風信子の瞳がじっと志貴を見つめている。
「で、で、で、で……」「で?」「デートの申し込みですかあ!?」
きゃーと恥ずかしそうに小声で奇声を漏らしつつ身を捩る少女に志貴は湯呑を落としかけて固まった。いや彼女は何を聞いていたのだろうか、まぁ身形を整えてから待ち合わせて観光案内をするなら場所に困らない街ではあるが、それは観光案内であってデートと言っていいものではないだろう。
「あのですね?志貴さんが綺麗だって言ってた離宮庭園とお勧めしてくれた本屋さんはコースに入れて欲しいです♪あと水族館とタワー展望台に何段階もある中の一番濃いお抹茶ジェラート…あのっあのっあの…っ多分とっても苦そうなので一口だけいただいてみてもいいですか…?志貴さんいつも食べられるってお話だから、ちょっとだけ食べてみたいです♪私志貴さんが二番目にお好きなのを頼みますからそちらとちょっとだけ交換で♪あと硝子細工屋さんもお願いします♪あと絶対にプラネタリウム!円形ソファなんて初めて聞きました!わぁ…全部楽しみですがもっともっと見たい場所あるんですよ?あと先刻まだ開店していなかったチョコレートショップ!お礼に志貴さんにプレゼントしたいからあそこも絶対に寄ってください♪志貴さんのお薦め全部がとっても楽しみで、どこから行けばいいのか悩んじゃいます」
デートと言うより観光案内希望だったらしく安心する志貴だが既に耳まで真っ赤になっている少女は嬉し恥ずかしと言った空気を全身から漂わせている。テンションが上がってるのか一気に希望を述べる肺活量と乙女の勢いに気圧されながら焙じ茶を啜り、ふっと息をつく志貴も内心楽しみになっているのは否めない。最初の印象より大分落ち着きのない面もあるが、一旦上がったテンションが落ち着けば騒がしくはなく、真っ赤なまま何故か志貴を盗み見続けては時折きゃーと小さく奇声をあげる。前言撤回。やや落ち着きがない。
「どうしたの」
「お、お背中、流せませんよ?」
「……。はい?」
「混浴は結婚してからじゃないと駄目なので、シャワーだけはご一緒出来ません。――駄目ですか?」
焙じ茶が気管に入りかけ噎せる志貴を心配そうに見つめる少女にハンカチを差し出され紙ナプキンで口の端を拭い、不思議そうに小首を傾げている無邪気な顔を半目で睨みつける。
「はい?」
「え…?やっぱりお背中流せないと駄目ですかー?私としてはちょっと段階的に早いんじゃないかと思うんですけれど…だって、だってまだ手も繋いでいませんし」
「いやそこじゃない。いやそこだけど。――君、俺を何だと思ってるんだ?」
「志貴さん」
会って小一時間の相手とする話ではない。いや男としてはドレス姿の可愛らしいお嬢さんに若干怪しからぬ妄想をされてしまうのは光栄なのかもしれないが。ちまっと座っている少女の白いドレスの胸元は意外と谷間を露出しており、道中たわわな白い乳房の揺れを盗み見てしまっているのを再認識してしまった志貴の背骨と腰骨の付け根あたりがざわざわとする。絶対領域といい、この少女の服装は清楚可憐でありながらも立派に煽情的であり身体のアピールポイントを正確に主張していた。
「案内はするけど、三助はさせないから。絶対に」
「志貴さん……」
「何?」
「三助は男性の役割ですよ?」
「問題はそこじゃない」
土地に不案内な少女をマンションのエントランスロビーのソファに残し自宅に戻った志貴はそのまま浴室に直行して熱いシャワーを頭から浴びる。拙い。非常に拙い。高校三年生男子、性欲がないと言えば嘘になる…いや現在進行形で青春真っただ中と言っていい筈である。実際今火傷をしそうな程の湯を浴びているのに下腹部のモノは猛りきっていた。当然だろう。背中を流すのは『ちょっと段階的に早い』等と言われて期待しない男はいない。もしかして観光案内ではなく本気でデートだと考えているのかもしれない、だがまだ出会って二時間弱である。それなのに、それでも好み過ぎる美少女に無防備に好意を寄せられて無視出来る程志貴も朴念仁ではない。遊んでいる子には見えないのだが実は経験豊富なのだろうか?とふと考えるとあの白い豊かな乳房が誰かに揉まれている図を考えてしまい、眉間に皺が寄る。どうせなら自分が初めての男になれればいいのだが、志貴自身まだ女を知らないのだから危なっかしい事この上ない。
「一度抜いてから行くか」
ぼそりと呟きかけ、大きく首を振る。シャワーを浴びているとしても精液臭が残っていたら目も当てられない。いやそういう問題か?迷走しかける頭を荒く掻き毟り、志貴は大きく息を漏らす。
背中流しは当然だが、もしも彼女を家にあげていたら危険だっただろう。押し倒してもいいのだろうか?と期待してしまう程度には彼女の言動は刺激的過ぎた。もしものこのこ上がり込んでしまっていたら居間で押し倒していたかもしれない、いやシャワーの間位は我慢出来ただろうか?判らない。彼女の考えが全く判らない。
「OK出して来たら、食うからな?こら」
ぼそりと呟いて志貴はシャンプーのボトルを掴んだ。
財布に全財産とキャッシュカードを放り込み、暫し迷ってから鞄の中に悪友との話の流れで冗談交じりに購入した避妊具を二・三枚潜ませかけた志貴はやや長考してからその倍量を追加した。
ご希望通りに濃い抹茶ジェラートで少女の顔を盛大に顰めさせ、観光地巡りをしてから志貴と彼女は漸くプラネタリウムに辿り着く。
通常シートと異なり座席数の少ない円形ソファは予約もすぐに埋まる人気であり何とか見つけた空きに合わせた結果、昼下がりの半端な時間となってしまったがプラネタリムらしい天文学優先な番組を選べてほっとする。設備は最高なのだがアイドルグループやアニメとタイアップしている内容も多い為番組によって当たり外れが大きい。
長身の志貴では靴を脱いでもやや足がはみ出る円形シートは少女には大きく、ころんと転がってクッションの位置を直したり周囲を見回したりと慌ただしい様子を微笑ましく眺めていた志貴に、不意にその頬が真っ赤に染まる。
「だって珍しかったんです」
孔雀色のソファに埋もれて頬を膨らませる少女の豊かなプラチナブロンドが滑らかな生地に広がっているのは金糸を散りばめた様に見え贅沢な光景だった。観光案内をしている間もドレス姿の金髪美少女は目立つのであろう男共のやっかみの視線が向けられるのは一種の快感である。と、上映開始の放送が流れ少女が慌ててソファの上で身体を伸ばした。すうっと暗くなっていくドームに光学メーカーのCMが流れたのが肩透かしだったのかこちらを見て少し唇を尖らせる少女にスクリーンを指差し志貴は苦笑いを浮かべた。CMから更に一段暗くなり上映の予感に引き締まる空気の中、すぐ隣の少女が期待で息を飲むのが伝わってくる。ああ、嫌いじゃない…と言うか好きなのだろう、儚げな外見なのに些細な事に風信子の大きな瞳を煌めかせる無邪気な子供の様な少女に今日はどれだけ振り回されているのか。不快ではない、寧ろ、もっと知りたい。リクライニングチェアよりも深く横たわる円形ソファで少女と並んでドームを見上げる志貴の目に、地上では見えない深い夜空が映り、流星が過る。星が好きなのだろう、プラネタリウムに特に食いつきがよかった少女といつか本当の夜空を見せられたらな、と思いながら身体の力を抜く。
「……」
ふと、手の甲に少女の指が触れた。
それは意図しての動きではなかったのであろう、びくっと固まった指は軽く触れたままで重なるでもなく離れるでもなくそのままになる。温度調整されている館内で、小さな指先が不思議と熱い。ちらりと見やると暗い中少女の輪郭だけが辛うじて見えるだけだった。もしかして意識していないのかもしれない。そのまま触れたままにしている手の甲にどうしようもなく意識が集中してしまう。
『手を繋ぐのは恋人同士でする事なんですよ?』
何かの話で、確か観光客の多い有名神社仏閣でカップルを見て少女が言っていた気がする。この状態は偶然指が当たってしまっただけなのであろう。だが、何故か離れていかない。女の子とつきあった事は短期間ならば何度かある。手を繋いだ事もある。だが接吻止まりでありそしてここまで相手が気になって仕方がないのは初めてだった。もし、これで、指を絡めたらどんな反応をするのだろうか。――背中流しなんて馬鹿な発言とは比べ物にならない細やかな悪戯心が頭をもたげた。いや、触れたいのかもしれない。
ゆっくりと手を動かす志貴に、細い指はその場に縫い留められた様に動かない。円形ソファーの上で熱を持った石像の様に固まっている華奢な指をそっと指で触れ、眠っている子猫の反応を確かめる感覚で微かにタッチしてみると、ぴくりと指が震えた。どうやら眠ってはいないらしい。もしかして驚かせているのかもしれないが、最初に驚かされたのはこちらだと妙に開き直る浮かれた感覚に口の端が綻びそうになる…だが少女を戸惑わせて困らせて怖がらせるかもしれない。まぁ…悲鳴をあげるまで騒がれる事はないであろうと若干不安を覚えながらそっと手の甲を滑らせ、指と指を背で重ねてみる。
視界一面の夜空を見上げながら、意識は手に集中し、胸の鼓動が流麗なアナウンスを掻き消してしまう。高校生にとっては決して安くはない特別な円形シートだが、上映に集中出来ない事を悔いる事は恐らくないであろう。少しだけ指が動く度に、眩暈すら覚える。
上映が終了し明るくなった館内に、ちらりと見た少女は耳まで真っ赤になりとろんとした瞳ですこし恨めし気に志貴を見つめてきた。
「意地悪です……」
志貴の指先が絡め取っている華奢な指先は熱く火照りきっていた。
円形ソファから起き上がろうとする少女に手を貸した後もとても恥ずかしそうなのに繋いだままになっている手に、真っ赤に染まったままの顔を志貴は覗き込む。
「もしもし?」
「え?あ?も、物足りない、ですかあ!?」焦った顔で慌てて指を深く絡めてくる…と言うより握手の様に繋いでくる手の汗に気付いたのか更に顔を真っ赤に染めて聞こえない悲鳴を上げて少女は両手を高く上げた。「どうしたらいいんでしょうかー!手を洗いたくないのに手を洗わないといけないです!」
「……。知らん」
不満げに洗面所から出てきた少女に思わず吹き出しそうになりながら冗談で手を差し出した志貴は躊躇いがちにジャケットの袖を摘ままれ苦笑いを浮かべる。
「次は何処に行きたい?」
「お散歩…ゆっくり一緒に歩きたいです……駄目ですか?」
「チョコ屋と本屋は?」
「後でいいです……」
妙にしおらしくなっている少女に戸惑いながらプラネタリウムを出れば街はかなり混み合っており、朝の様に歩くには無理と判断した志貴はコミュニティバスに乗り湾岸地区へと移動した。百貨店やブランドショップの立ち並ぶ街から移動した湾岸地区は高層マンションと商業施設と観光施設が広大な区域に点在する形になり要所要所での混雑はあるもののそれらを結ぶ街路はかなり閑散としている。犬の散歩や散策を楽しんでいる人々と時折擦れ違うだけの海に面した街路をゆっくりと歩き、運河沿いに見える対岸の施設を教える志貴だが少女は妙に上の空だった。小春日和の日差しは僅かに熱を帯び、その火照りを風は心地よく撫でて冷やしてくれる。短い秋の陽気を楽しむには最適な日かもしれない。通りすがりの犬を撫でたそうに一瞬近寄りかけては立ち止まり志貴にぴったりと貼り付く少女は犬が好きなのか苦手なのか判らない。
「疲れた?」
志貴の問いに首をふるふると振り、そして暫く悩んで何度も口を開きかけては閉ざす少女の頬が赤く染まる。
「キラキラどきどきして、頭がふわふわします」
「……」
何が言いたいのか全く判らない乙女の表現に困惑し、志貴は話の糸口を探しかけてそして薄く笑う。黙って散歩をしたいのならばそれはそれでいいのかもしれない。秋の陽光を反射する運河の煌めきに目を細めながらゆっくりと歩を進める服の袖を摘ままれている微かな抵抗が心地よい。焦って何かを探す使命感も徒労もなく、ふと隣を見ると好ましい少女がいるのはとても心地よい。
それなのに、下半身はそうはいかない。
名前しか聞いていない少女とキスをしたいなと思う事常時。こうも無防備だと本気で色々な事をしてしまいたい欲望が屡々。大体男側がおかしな事を言う前に背中を流すだの言いだすのはどういう事だろう。その割に手を繋ぐだけで真っ赤になる少女のアンバランスさに眩暈すら覚える。
「……。ここって泳げるんですか?」
「いや…無理だろう?」
オリンピックだトライアスロンだと都市部での水泳競技が話題になるものの、近代都市の悲しい性で限界を超えた降雨は下水処理限界を超えてそのまま海に流れ込む。結果牡蠣すら育たない運河だったりするのだが湾の深部にある湾岸地区は海の潮の香りもしなければ汚水の臭いもしない微妙な海である。昔は江戸前などと言っていたが目の前の運河で釣れた魚を食する度胸は志貴にはない。少し残念そうに運河の先にある砂浜のさして寄せない波を眺める少女に、暫し悩んでから指を差す。
「行ってみたい?」
「はいっ」
にこっと笑う少女に志貴は笑い返す。もっと暖かい時期ならば波打ち際で遊ぶ子供もいなくもないが、今は熱心に遊ぶ人影はない。商業地区の人工砂浜は大規模で人気があるのだがそれでもこの季節はもう厳しいだろう。公園の管理が行き届いているのか空き缶一つない小さな砂浜へと階段を下りた志貴は嬉しそうに波打ち際へと走っていく少女に置いて行かれて苦笑いを浮かべる。陽光を反射する運河を通過する船の波が届く時だけ寄せてくる小さなうねりに風信子の瞳を輝かせている少女がえいやと小さな声をあげてブーツを脱いでその場に放り出して波打ち際へと繰り出すのを見、慌てて志貴は追いかける。
「泳ぐのは拙いなら遊ぶのも……ってあああああ……」
足首より上まで運河の水に浸けてはしゃぐ少女に志貴の口から絶望の呻きが漏れた。自分なら出来ない。いやしない。それなのに波打ち際ではしゃいでくるくると舞う少女はとても無邪気で愛らしく楽し気に明るい声をあげている。
「志貴さん!思ったより水冷たいですー!きゃー♪嫌ー♪」
ロングブーツを脱ぎ捨てている少女はストッキングはそのままなのか、じっくりと見る事はなかったのだが取り合えず志貴の眺めている限り生足を曝け出してはしゃいでいる様だった。砂浜に放り出されていたブーツを手に取り呆れ半分の息を漏らすが、志貴のその目は本人は気付いていないが柔らかい。くるっくるっと駒の様に回る度に少女のドレスの裾が花弁の様に舞い上がり際どい所まで見えてしまうがそんな絶景を独り占めしている贅沢が堪らない。プラチナブロンドの髪が軽やかに舞い、陽光を弾く。早朝の公園で見た天使はどうやら本物だったらしい。白い脚も白金の髪も眩しくて目を細めずには見られない。
秋冬物のドレスは素材的に薄くはない筈なのだが少女の身体にぴったりとフィットしているそれは悩ましい豊かな乳房から頼りなく細く縊れたウエストまでの曲線を見事に晒しており、ふんわりと揺れるスカート部分の腰は脚の細さから考えると余り大きくはないと思われる。帰国子女なのだろうかあまり正座をしない外国人特有の膝の出ていない脚の曲線が美しい。煩悩と賞讃が混ざり合いどんな表情をすればいいのかが判らなくなる。
「志貴さんもいらっしゃいませんかー?楽しいですよー?」楽し気に身を屈めて届きもしない水をかけてこようとした少女のバランスが崩れた。「あ、あ、あ?やだ?え?足、ぐにゃ……っ」
波打ち際の砂の流れに足元を掬われたのかよろよろと転びそうになる少女に慌てて志貴は手を差し伸べ、そして縺れる形で尻餅をつく。日差しの熱が嘘の様に冷たい水に一気に腰まで浸かり、そして辛うじて膝立ち状態で留められた少女の身体を受けとめていた志貴の顔を少女の髪が撫でる。
「……」
志貴の腰を跨ぐ体勢になっている少女の顔が至近距離にあった。白い顔と風信子の瞳が水面からの陽光を反射してきらきらと光っている。どくんと脈打つ全身に腰まで浸かっている水が微かに寄せては引くを繰り返す。観光案内用に若干気の利いた服装をしていたのでクリーニング行きは確定だろう、が、少女のドレスの方が心配だった。志貴の革靴が無事かは自信がない。そんなくだらない事を考えていると、驚いた顔をしていた少女の顔が申し訳なさと恥ずかしさの混ざったものへと変わっていく。
違う。そんな顔をさせたい訳じゃない。
気付くと、背筋を伸ばして少女の唇に唇を重ねていた。
ただ重ねているだけの時間が暫く続き、そしてそっと離し、また口づける。
恐らく誰も見ていないであろう人気のない海浜公園の小さな砂浜で、尻餅ついでに腕も後ろ手に突いてしまい相手の身体を抱き締める訳にもいかないまま何度も唇を重ねる志貴に、徐々に少女の全身から力が抜けていきやがて身体に覆い被さる形になる。思った以上に豊かな乳房が胸板に重なり、甘い匂いが鼻腔を擽る。プラネタリウムを見る前に飲んだカシスフロートの甘い味のする唇をそっと舌で舐め、ぬめる唇の裏側に差し入れると堪らなく艶めかしい口内粘膜の感触が志貴の腰をぞくりとさせた。ぁ……と小さく零れる舌足らずな声は子供っぽい高い声を悩ましい艶を帯びている。軽く吸い付くと、キスらしいちゅっと短い吸引音が鳴り、思わず志貴はそれを繰り返してしまう。顔を重ねている角度を軽く変え、互いの呼吸をどうにか確保しながらの悪戯の様な接吻を暫く続け、そして漸く志貴は息をつく。
「こら」
「ごめんなさい」
蕩け切ってもう何も考えられそうにないと言った様子の声を漏らす少女に密かな満足感を覚えながら、志貴は冷静になろうと目を閉じる。接吻の間猛りきっていた自分の分身と火照りきっている少女の下腹部が密着していた事に気付かれていないかが心配で仕方ない。怖がらせたくない。それなのに獰猛な衝動が皮一枚下で舌舐め擦りをしている。
「立てる?」
「ごめんなさい……無理です」
「ドレス、どうせクリーニング確定だろうからもう少し濡れていい?」
腰が抜けている理由を聞くのも馬鹿らしく、志貴は諦め答えも待たずに後ろ手に突いていた手を少女の脇に回して華奢な身体を掬い上げた。ドレスをクリーニングに出すのはもう確実だろうが、それを何処でどうするのか。一つの最善策を思いついてはいるものの、それを口にする勇気が今一つ足りない。
「あの…その…あのですね……?」
とりあえず腰が抜けたままの少女を背負いながら歩く志貴に、背中から声がかかる。
「はいどうぞ」
「志貴さん…私の事が…す、す、す、す、す、すっ、すっ、す……っ!」
「好きだよ?」
「何でそこで疑問形なんですかー!?」
まだまだ力が入らないのかぺったりと背中に貼り付いてる少女が不満そうな声をあげた。
「で、君は?」
「ふぇ……っ!?」
「意外と重要なんだけど…。これからウチに連れ込んで風呂貸して着替えて貰っている間にクリーニングにドレスを出して、戻ってくるまで大人しく出来る?それとももう少し先のショッピングモールで着替え買って着る?」
平然と言っているつもりなのだが志貴としては声が上擦りそうになっているのを必死に抑えていた。ずっと火照ったままの軽い身体の熱が悩ましい。身体に力が入らないのだから仕方ないとは言え男に背負われて無防備に甘えられてしまうとどうしようもなく身勝手な気持ちになりそうで志貴が先刻から深呼吸を繰り返しているのに恐らく少女は気付いていない。日差しの熱が少女を背負う志貴の首筋に当たり静かにじりじりと焼く…後ろめたい事をするなと咎められている気分になる。しかし抱えている腿が堪らなく細く、そして背中に貼り付いている乳房が残酷に柔らかい。
「早めに決めてくれると有難い。ウチのマンション、すぐ近くだから」
「ふぁい……」
こつんと志貴の後頭部に重ねられた恐らく額がぐりぐりと擦り付けられる。
「志貴さんのご家族は…?」
「今日は母親出張中。そして母子家庭。つまり今夜は俺一人」
「ふぁい!?」
悲鳴に似た大声を耳のすぐ至近距離で張り上げられ耳鳴りの様な余韻が響き続ける。
「故に紳士的にも限度があるのでよく考える事」
「あがっちゃ、駄目ですか……?」
「はい?人の話聞いているかな?」
男一人きりの家に上がり込んで風呂に入る…それが性的同意だと考えるのは短絡的かもしれないが期待をしていいと思う男は世の過半数だと志貴は思いたい。いや枯れた老人や子供は例外として、接吻をした直後に許していい範囲を超えられてしまい健全な男子として困惑する。
「志貴さんのお部屋見てみたいなー、と。……。えっちな本があったら恥ずかしいから隠して下さいね!?あとお背中はやっぱり流せません」
「……。襲われる危険性は考えているのかな?」
背中にしがみついている手が一瞬ぴくっと震えるのを感じながら、止まりかけた足を志貴は先に進める。腰まで水に浸かったスラックスは日差しと風に当たり微妙でなく熱を奪っていく…それが今は有り難い。逆に少女を早く温めたいが志貴の覚えではこの辺りに温泉施設などはない。恐らく着替えただけでは風邪をひかせるであろう。
「……。でも、あの……その……呆れないで、聞いてくださいますか……?」
不安そうな小声に志貴は首を傾ける。もしももう寒気があるのならば彼女の入浴中に志貴はショッピングモールに出向いて着替えを買って来ればいいだろう。クリーニングは後日家でやって貰えばいい。とにかく無防備な少女に近寄らなければいい。
「どうぞ?」
「もっと…キスしたいです……きゃああああああああああああああああああああ♪」
その場に崩れ落ちなかったのを褒めて欲しい。そう志貴は思った。
Next
141『見せるだけでは終わらなかった』
FAF202310210316: