今先刻まで聞こえたゲーム音が止んだ。
いや音は聞こえているけれど直前までの勇ましいゲーム音楽とは異なるそれはスタート画面などゲームオーバー後のものだろう、操作をまったく感じさせない音楽が居間に籠っている。
黒いブラジャーの背中のホックを外した溟はしなやかな黒髪越しに弟を見た。ソファに転げてゲームに耽っていた弟が、じっと溟を見ている。昔の様に無防備に着替えようとしてはいけなかったのかもしれない。両親の事故死から親類を頼ろうかとしたものの高校も決まった弟をこの時期に転校させるのも躊躇われ姉弟の二人暮らし。未成年なのもあり程々の生活費を貯蓄から得ての暮らしは思いの外穏やかなものだった。元から穏やかで賢い弟は中学三年生。既に進学先にも合格しており、四月からは寮生活になる。自分だけで家族と住んでいた広い一軒家に住むのも躊躇われ2DKの手軽なマンションに引っ越しての短い間の姉弟二人暮らし。
音楽が変わった。
つい無防備に着替えようとしてしまった自分の迂闊さを反省しながら溟はもう弟がゲームに戻ったのだと思い、ブラジャーをゆっくりと脱ぐ。姉と弟、しかもまだ中学三年で多少は性を意識してもおかしくないがまだまだ子供である。豊かな乳房がたぷんと揺れ、夏の暑さに貼り付く布地と纏わりつく髪の毛が気持ち悪い。大学二年の溟はまだ就職も遠いが両親の事故の慰謝料と保険金に生活に困らないだけの貯蓄には出来るだけ手を着けたくはない…これは弟が将来何の進路を選んでも不自由のない様に残しておきたかった。その為にアルバイトを始めたが、弟には好評ではない。飲み屋などではないのだが、まだ甘えたい盛りなのか、いや、両親を失ったばかりの弟は一人に慣れていないのだろう。
「溟、バイト?」
「うん。十時には帰るから」
「やだな」
ぽつりと呟く弟に軽く肩越しに振り向いた姉は、自分をまっすぐに見ている弟に言葉を失う。
いつから背比べをしていないのか、下駄箱の靴はもう溟のものより大きく、洗濯する服も大きい。肩幅も胸板も既に大人の男の入口に差し掛かりつつある弟に異性を垣間見てしまった気がし、姉は豊かな乳房を腕で隠す。柔らかな大きな乳房に沈み込む自分の腕が、とても淫らなものに思え頬が染まる。
「甘えんぼ」
弟を窘める口調で言いながら脱いだばかりのブラジャーを抱え、溟はシャワーへと向かった。
汗を流そうとシャワーを浴びている溟は不意に背後に視線を感じて動きを止める。
確かに締めた筈だったのに、微かに浴室の扉が開いている。
気のせい。これは気のせい。自分の勘違いに過ぎない。そう思いながら溟は扉の向こう側を確かめたい欲求と恐れに混乱しながら洗いかけの身体にスポンジを滑らせる。汗を掻いた身体に花の香りのボディソープが撫でる感触が心地よい…それなのに自分の動きがふしだらに思え、溟は自然と柳眉を顰めてしまう。ぬるぬると滑る身体に纏わりつく白い泡が尻の谷間に乗り、ゆっくりと滑り降りていく感触が酷くいやらしく、まるで未知の愛撫の様に思えた。溟はまだ男を知らない。弟も女を知らないだろう。まだ自分も子供なのだと、言い聞かせる様に頭の中で繰り返す。特に汗が溜まりやすい胸の谷間や裾野にスポンジを滑らせるとぬるんぬるんと卑猥に乳房が形を歪め、それが今日は何故かとてもいけないものに感じられ溟は密かに熱い吐息を漏らす。
シャワーを止めた風呂場は湯気がゆったりと漂い、換気扇の音が微かに鳴っていた。
はぁっと、息が聞こえた気がした。一度でなく、何度も繰り返す獣が息を潜めている様な熱い呼吸。
こっそりと脱衣所の方へと視線を流した姉の瞳に、扉の向こうの人の姿が映る。まだ夕方であり明るい脱衣所は磨り硝子越しに朧げに様子が判ってしまう。誰かが、浴室を覗いている。頭髪の黒と、白いランニングにカーキ色のハーフパンツ…だがその顔と腰にある黒いものは何だろうか。濡れた髪が隠す視線の向こう側の腰のそれが細かに上下に揺れ動く。
微かに、姉は口の中で悲鳴を漏らす。
脱衣所に脱いだばかりの下着の黒がそれだと本能的に理解してしまう。やめて。そう言いたくなる。汗ばんだ下着を、顔と腰に当てて何をしているのか。気のせいだと思いたい荒い息遣いと、腰の辺りで激しく忙しなく上下する黒い布…自分の下着で、弟は何をしているのか。
ぬるりとボディソープの手が滑り、溟は思わず声を漏らしてしまう。
あん、と、女の甘い声が浴室に反響した。
アルバイトで出かける時間ぎりぎりまで浴室から出られなかった溟は、脱衣籠にある筈だった黒いブラジャーとパンティがないのを見て微かに吐息を漏らす。声に出して嘆いてはいけない、そんな気がした。確かに置いておいた筈の着替えもバスタオルもなくなっている状態に瞳が揺れ、溟は浴室に持ち込んでいたタオルで身体を拭う。搾ったタオルでは豊かな髪も肌も水分を拭いきれず、何度も肌を這う自分の手に、姉の唇が震える。気のせい。いや、気のせいではない…下着を持ち去れるのはたった一人で、そして脱衣所に漂う異質なにおいにぞくりと身体がざわめく。気付いてはいけない、におい。何をしていたの。――判っている。今までも何度か洗濯前の下着に憶えのない液体がべっとりと絡み付いていた事があった。パンティが硬く強張っている事もあれば、広げるとねばりと大量の白濁液が絡み付いている事もあった…。子供だ子供だと自分に言い聞かせている自分が滑稽であり、そして、呪わしい。
ぬちゃりと、タオルが下腹部の上で滑った。
浴室で洗ったばかりの下腹部がぬるぬるとぬめっているのを感じ、溟は息を漏らす。
汗を掻いていたのだから洗わなければならなかった。だから、洗った。扉に背を向けて、乳房も下腹部も。
どう見えたのだろうか。どんな目で見ていたのだろうか。
早く四月になって入寮して欲しい。それなのに、最後の家族である弟が遠くに行ってしまうのが淋しい。
「駄目ね……」
ぽつりと呟いてタオルを身体に当てて脱衣所を出た溟は、視線を感じて首を巡らせた。
「麦茶。よく冷えてるよ」
「ありがとう」
夏の夕方。オレンジ色の陽に染まった台所に立つ弟が麦茶の入ったグラスを差し出してきた。
いつの間にか追い越している身長。先刻と同じ白いタンクトップにカーキ色のハーフパンツ。まるで何もなかったかの様に不愛想に差し出されたグラスを溟は受け取る。胸に当てているタオルで身体を隠している裸身で、手を伸ばせば相手に触れてしまえる距離で、姉は弟の差し出した麦茶を口にした。火照った身体に冷えた濃い麦茶が心地よい。
グラスの麦茶を飲み干すまで、じっと、弟は姉を見ていた。
「ありがとう。帰ったら洗濯機回すから、汚れ物は出しておいてね」
「判った」
姉の落ち着かない動悸が弟に気付かれない事を祈りつつ、溟は着替える為に背を向けた。
おまけ
「お疲れ様」
夜も遅いのだからもう夕食は食べずにおこうと帰ってきた溟は弟がテーブルに置いたグラスにどの様な顔をすればいいのかが判らず小さく「もう…」と声を漏らしてしまう。梅酒。父が梅酒が好きで毎年漬けていたそれは引っ越しの際に確かに持ってきたのだが存在を忘れていた。母と一緒に漬けた思い出などが一気に押し寄せてきて涙が滲みそうになった溟は、グラスの中でからんと音を立てる氷にその香りを嗅ぐ。
「引っ張り出してきちゃったんだ」
「懐かしいし、夏だし」
小皿に開けられたナッツは確かに父の好んだ組み合わせであり、溟は懐かしさに泣き笑いに似た表情を浮かべそうになりながらソファの脇に鞄を下ろす。夏の夜は蒸し暑いが今宵は少し風があって心地よい。家から持ってきたものを極力使おうとする溟に、窓辺に吊るした南部部風鈴がちりんと涼し気で硬質な音を鳴らし、網戸の外の簾がうっすらと見える。一軒家とはもう違うがどこかそのままなのは食器も何もかも基本的には変えていないお陰だろうか。
「でもどうするのこれ」
「飲めばいい」
ミックスナッツの中からカシューナッツを探しぽりぽりと食べる弟に姉は苦笑いを浮かべる。小さな頃から晩酌をする父の膝の上で同じ様にカシューナッツばかりを食べていた姿がそれに重なる。ただし、今はその前に梅酒の入ったグラスがあるのが問題なのだが恐らく薄く作ってあるのだろうほんのりと琥珀色がかった液体を見てから姉は息をつく。
「一杯だけだからね」
暑い。身体中が熱くてぼんやりと滲む感覚に溟は息を漏らす。たった一杯の梅酒で酔ってしまったのか酷く身体が熱くて身体が動かない、目が開けられない。眠りたいのに、何故か眠れない。温かな湯に浸かっている様な気持ちよさが所々に広がる。夜風が気持ちいい…ベッドの上だろうか?まったく現状が確認出来ないのに堪らなく心地よい。薄く汗ばんだ肌を夜風が撫でる。暑い。熱い。身体に籠った熱を持て余して身を捩ろうとすると、少しだけ身体が動いた。
夕方の浴室を思い出してしまっているのかもしれない。乳房を這う手の感触。身体を洗っているのだから触れるのは当然なのだけれど、記憶は何故かとても執拗にそれを繰り返す。洗う動作とはやや異なる、揉みしだく様な動き。微かに、吐息が零れる。ベッドの上でほんの僅かに身体が揺れる。行儀悪く開いた脚。ぺちゃりと胸元で鳴る音。乳首に沸いたもどかしく切ない感覚に溟は鳴く。こんな淫らな洗い方をしてはいけない。聞こえてしまう。恥ずかしい。でも浴室ではない。夢の中なのだから弟もいない。――いやらしい疼きを認めるしかない甘い快感に溟は首を振りたくる。弟に知られなくない性的な快楽に、酩酊状態の溟は僅かに溺れてしまう。
執拗な乳房の快感は身体中を通ってから下腹部へと進む。
風鈴の音色の中、最初はくちゅくちゅと可愛らしい音を立てていた溟の秘部が、あからさまな濡れた音をたてる。下腹部を髪が撫でる。ぬめぬめとよく動く何かが這い回り、啜り、抉る。恥ずかしいからもう脚を閉ざそうとしても何か熱い存在がそこにあり閉ざす事が出来ない。堪えきれず鳴く溟は、首を振りたくる。知られなくない。覚えてはいけない。それなのに判ってしまう。女の快楽。弟が無事成人するまでは姉として見守らなくてはならないのだから恋愛も何も疎遠でありたい。それなのに、身体は、疼いて炙られてしまう。身体の芯に何かが挿し入れられ緩やかに動く。酷い妄想。弟だけには知られたくないだらしのない喘ぎ…夢の中であっても酷過ぎる。自分はこんなに淫らな女なのだと思いたくない。それなのに。
全身を汗まみれにして溟はよがる。声が抑えられない。夢の中でよかった。荒い、肉食獣の様な息遣いが至近距離で聞こえる。微かな声。ぐちゅぐちゅと身体を掻き混ぜられ何度も火花が弾ける感覚が襲う溟の肌に、熱い液体が繰り返しかけられる。記憶にあるあのにおいを感じた瞬間、姉は激しく喘ぎながら更に達してしまう。こんな夢はよくない。まるで…まるで弟を冒涜している様な、酷い夢。
それなのに、夢は、とても長く続いた。――いや夢なのだから、一瞬かもしれない。
朝日の眩しさに、一瞬唸ってから溟は勢いよく跳ね起きた。
「……」
昨日のアルバイト帰りの服装そのままでベッドに横になっている自分に、何故か混乱しながら見回すとベランダで洗濯物を干している弟の姿があった。昨日洗濯機を回すと言っておきながら梅酒を飲んでからの記憶がない。姉失格だと思った瞬間、何かが引っかかった気がしたのだがその正体が判らない。よれよれに皺の寄った服に落ち込みながらベッドから下りようとした溟は、何故かよろけてしまう。身体に妙に力が入らない。グラス一杯の梅酒でまだ酔いが抜けないのだろうか?奇妙に怠くて腰が重く身体中に違和感がある。
「おはよう、溟」
シーツを干していた弟が振り向いた。今日は少し機嫌がいいらしい。
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127『不公平な勝負』
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