2003年11月 9日
HARIの私的考察

そして(まともな登場人物は)誰もいなくなった。
〜ギャクマンガの末期症状についての私的考察〜



 非常識な世界や不条理な世界、訳の解からない世界を舞台にしたギャグマンガ。
 そんな世界にも存在する「常識人」とは、もしかしたら作者の分身なのかもしれない。
 そんな彼(彼ら、彼女ら)は、話が進むにつれて、どう変化していくのだろうか?

 
・彼(彼ら、彼女ら)がいるから、面白い
 
 ギャグマンガにおける名脇役、ギャグの引き立て役として登場するのが「常識人」キャラクターである。
 彼(彼ら、彼女ら)の存在によって、非日常的な世界に日常を垣間見せ、そのギャップによってギャクを引き立てていく。
 彼(彼ら、彼女ら)は、主人公(と、その仲間達)の非常識な行動に、時には翻弄され、時には怒り、そして稀に「(常識人である)自分には無い何か」を感じる。
 もし、彼(彼ら、彼女ら)が存在しなかったら、どうなるだろうか?
 主人公(と、その仲間達)の暴走を止める者が存在しなくなり、短期的には「大いに盛り上がる」かもしれないが、長期的な成功は難しいだろう。
 何故なら、読者は物語が進むにつれて「より大きな非常識」を求めており、常識無き世界では、それを実現するのが難しいからである。
 
・禁断の実
 
 しかし、話が進むにつれて、彼(彼ら、彼女ら)は過酷な運命が待っているケースが多い。
 前にも書いたように、読者は常に「より大きな非常識」を求めており、作者は文字通り「わが身を削って」それに応え様とする。
 それが、人気を長続きさせる「唯一の道」だからだ。
 だが、作者側の「打つ手」(すなわち、ネタ)が無くなって来ると、「禁断の実」に手をつけ始める。
 すなわち、常識人たる彼(彼ら、彼女ら)に、非常識な事をさせるのだ。
 これは、彼(彼ら、彼女ら)が常識人であればあるほど、効果がある。
 始めは些細な「非常識」をさせ、受ければ「より大きな非常識」を演じさせる。
 この手法が「禁断の実」である理由は、これを行なう事によって「常識人」が存在しなくなってしまう事に他ならない。
 繰り返しになるが、彼(彼ら、彼女ら)の存在は非日常的な世界に日常を垣間見せ、そのギャップによってギャクを引き立てていく事であって、「非常識」を演じる事では無い。
 そして、登場人物が「総非常識人」となったギャグマンガは、かつての面白さを失い(すなわち、人気を失い)、連載終了(すなわち、打ち切り)へと確実に進んでいく。
 
・壊れていったのは誰?
 
 ギャグマンガの作者は「変わった人が多い」という話を聞いた事がある。
 だが、様々なメディアの情報から考えるに、これは間違っていると考えるようになった。
 作者はギャグマンガを書き続けていくうちに「壊れて」いくのだ。
 ギャグマンガの作者は、鏡に向かって自分自身で「そのギャグ(のポーズ)」を試してみる人が多い。
 (そうしないと、本当に面白いか判断できないそうだ。)
 そんな事を繰り返していれば、そして日々「非常識な事」を考えていけば、自分が気づかないうちに壊れていくのは当然だろう。
 実際、ギャグマンガの連載が終了してから「まともに社会復帰」するまで、時間がかかったと作者自身が発言した番組を観た事もある。
 (この「社会復帰」がどんな事なのかは、解らないが。)
 段々と壊れていく彼(彼ら、彼女ら)、実はその姿こそ、作者が無意識に自分自身を投影した姿なのかもしれない。
 


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