2000年 8月22日 |
HARIの私的考察 |
恋愛シミュレーションゲームについての私的考察 |
「ギャルゲー」や「恋愛育成ゲーム」と呼ばれ、一般には「暗い」と思われがちな恋愛シミュレーションゲーム。 架空世界で体験する恋愛とは、いったいなんなのだろうか? (なお、本稿は「18禁」物を除外して書いております。) |
何故、恋愛シミュレーションにはまるのか とかく「暗い」と思われがちな恋愛シミュレーションではあるが、実際にプレイしてみると「意外に面白い」事に気が付き、気が付いたら「はまっていた」人も少なくないだろう。 では、何故「ゲーム上の恋愛ゴッコ」にはまっていくのだろうか? その原因の一つは、「様々なタイプの女の子」が設定されている事にある。 恋愛シミュレーションでは、大抵の男性は一人くらいは好みの女の子がいる様に、「子供の頃からの幼なじみ」や「自分を慕っている後輩」、「相手を女性と意識せずに付き合っている女の子」、「学年のマドンナ的存在」、「スポーツ万能少女」、「お嬢様」等々、様々な設定の女の子が設定されている。 (もちろん、ゲームの展開上「設定されていないタイプ」も存在するのだが、そのようなタイプの女の子がタイプの男性は、この手のゲームをプレイしないだろう。) 自分の好きな女の子をより好みできる点は大きい。 また、実際の恋愛と違って「途中からのやりなおし」も出来るし、「リセット」も出来るし、現実世界の様に自分自身が傷つく事も無い。 そして、ゲームを進めていくと、お目当ての女の子に「ときめいて」してしまうから恐い。 何故、架空世界の恋愛体験にときめいてしまうのだろうか? 女性に恋愛シミュレーションは受けないのか? さて、ここまで男主体のゲームであるかのように書いてきた恋愛シミュレーションではあるが、女性ははまらないのだろうか? もちろん、そんな事は無いと断言できる。 (「アンジェリーク」シリーズが女性に人気があるのも、この事を証明している。) 現実は「女性をターゲットにした恋愛シミュレーションが無いだけである。 では、女性向けの「恋愛シミュレーション」を作ったら、ヒットするのだろうか? 多分、無理であろう。 なぜなら、家庭用ゲーム業界の女性ユーザーは男性ユーザーに比べて少なく、また「先入観」から「恋愛シミュレーション」に手を伸ばすとはおもえないのである。 また、ゲーム制作側が男性中心である以上、「真に女性の感性を掴んだ」恋愛シミュレーションの作製は難しいだろう。 隠れたマーケットは存在するのだが、そこに切り込むべき方法を持たないのが、現状ではないだろうか? 果せなかった想い 話を元に戻そう。 恋愛シミュレーションで「ハッピーエンド」にたどり着くには、ゲームデザイナーの準備したシナリオに沿ってゲームを進める必要がある。 (もちろん、複数の選択枝が用意されており、ストリーは分岐していくのだが。) そのシナリオも様々なイベントが用意されており、「あぁ、こんな事が現実にあったらなぁ」と思ってしまう事も少なくない。 設定されている女の子だって男にとって「こんな女の子が身近にいたらなぁ」と思うタイプばかりであるし、どう見ても「男性から見て、理想(=都合の良い)の女性」に設定されている。 そんな女の子と、いっしょに帰ったり、デートしたり、様々なイベントを一緒に過ごしていくうちに、自分も相手も思いが高まってくる。 プレイ上の「最終日」に向けて、まさに「感情も愛情も盛り上がっていく」様になっている。 そして、登場人物は「ほとんどが主人公に好意的」であり、「横恋慕」したり「邪魔をする」存在はちょっとしたイベントとして存在する位で、ハッピーエンドを阻害する事はない。 (そもそも、順調に進んでいるストリーの「ハッピーエンド」を阻止するイベントなど、聞いたことが無い。) これらを考えると、男にとって「果せなかった想い」がゲーム(シナリオや設定されている女の子達)に込められているように感じるのはHARIだけであろうか? ありえない世界だからこそ楽しめる シミュレーションとはいえ、現実とは大きな隔たりがあるのがゲームの世界である。 ゲームほど、世の中は「都合よく」動きはしないし、攻略本もない。 相手の女性が自分をどう思っているのか、客観的な数値で知る方法も無い。 ゲームでは主人公と会っている時だけがが彼女たちが存在している時間であり、主人公と会っていない時は彼女達は存在していない。(もちろん、イベント等などで「主人公と別に行動していた時間」は設定されているが。) しかし、現実には、相手の女性だって「自分の生活」があり、周りから影響を受け、周りに影響を与えて存在しているのだ。 多くの人間が複雑に絡み合い、「自分の想い」がともすれば空回りし、誤解され、受け入れられない事が多いのではないか。 うまくいくと思っていたら、相手は「お友達」だとしか思っていなかったなどどいう「どんでんかえし」だってある。 (ゲーム上でも「恋愛感情が低い女の子」に告白したりすると、同じような目にあるが、それは「相手の愛情が解っていて」の行為である。) そんな現実に対して、実にすっきりとしている(ゲームだから当然である)恋愛シミュレーションは、現実を忠実にシュミレートしていないが為に面白いのである。 見果てぬ夢の叶った後 恋愛シミュレーションは、「恋愛」の一番ときめき、一番わくわくし、一番楽しい時期をプレイできる。 それがゆえに、これらのゲームは、実は無責任な終わり方で終了する。 憧れの人と相思相愛になって・・・、そこでゲームを終わらせるのは実に御伽噺的な終わらせ方「お姫様と王子様は、仲良く暮らしました」である。 現実は、そこからが大変である。 (もちろん、苦しいことばかりではなく、楽しい事も多いが。) そんな「後日談」を一切省き、「一番良い時間だけを体験できる」からこそ、人気があるのではないだろうか? ゲーム上とはいえ、自分の想い通りに進んだ疑似恋愛体験が残る。 だからこそ、「ほのかな想い」を体験したくて、「果せなかった想い」を果したくて、恋愛シミュレーションにはまるのではないだろうか? だが、勘違いしてはいけない。 しょせん、ゲームの世界はゲームの世界なのだ。 恋愛シミュレーションは、他のジャンルのゲームと同じように「自分を主人公」にしてくれるだけである。 そして、ゲームが終わった後には、実際にはなにも残らない。 ゲーム上での体験は「記憶」でしかなく「想い出」には決してなりえないのだ。
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