元の発言 [ Re: 布留(畿内は倭人の国ではない) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月2日(土)00時48分40秒 ]
>> >> 高句麗に押されて百済、新羅などの人々が一緒に九州まで来た可能性があり、これが九州にいた倭人と共に畿内まで攻め込んだ。
>> >> 主体が百済だった可能性が強いと思います。
>> 移住はあったかもしれませんが,
>> 攻め込んだ,というのはムリがあるでしょう。
応神天皇(神功皇后)は現に畿内を攻略したのだし、そのころから馬の痕跡が急に増える訳です。
百済から馬が泳いで来るわけも無く人が連れてきたのでしょう。
馬を運ぶのは大事業ですから倭韓の協力無しには出来ません。
そして馬に慣れた人がリーダーシップを取らなくてはなら無いでしょう。
>> 好太王碑文によると,倭が来りて支配したことになりますから。
倭は鉄を手に入れるため伽耶に駐屯くらいはしていたでしょう。
倭が韓を侵略していると言いがかりをつけて戦いを仕掛けたのでは?
高句麗側の侵略の口実ではなかったでしょうか?
>> >> 新羅、唐連合に敗れた大和王朝側がせめての腹いせに新羅の金春秋と同じ贈り名を架空の天皇につけて、極悪非道ぶりを書き連ねて
>> >> 溜飲を下げたのであろうと思うのですが。
>> どちらかと言うと,武烈天皇周辺の百済派や百済系勢力が,
>> 好き勝手をして自滅した,と読めないわけではありません。
>> >> 熊襲族は半島系という根拠みたいな物はあるのでしょうか?
>>
>> 現状としては,まだ思いつきのようなものなので,内緒にしておきます。
>>
>> ただし,すでに,いろいろと説としてあることはあります。
>> 牛頭さんの好きそうな議論の場としては,あの「半月城通信」ですかね。
>> 半月城通信No. 49/日本人のルーツ(3)、騎馬民族
>> http://www.han.org/a/half-moon/hm049.html
>> この中で,水野説について,
>> 「弥生時代に渡来したツングース騎馬民族集団は南九州に熊襲(クマソ)の
>> 国・狗奴国をたて、北の邪馬台国と攻防戦を繰り返した末に九州統一王朝をた
>> てた。」
>> というふうに引用だか解説だかしてあります。
>> ホントなら下戸遺伝子かも。
クマはインド(タミル)語という可能性はないですか?
たまたま町を歩いていてインド料理のクマーラという名の店を見つけたので。(^o^)
>> 他に,呉などの中国系との説もありますよね。
>> >> ニギハヤヒは「赤い剣士」だったのでしょうか?
>> 金色に輝く弓使いじゃないすか。なんて。§^。^§
首露王も金の箱に入ってましたね。(^^)
>> >> 唐子・鍵遺蹟の住人は本当に神仙思想を理解していたのでしょうか?
>> >> 「禹余糧」と言っても国産(和名で岩壷、壷石、袋石、樽石、鈴石)ですし、奈良でも産出するらしいじゃないですか。
>> 神仙思想からの理解があった,とする説がもっぱらです。
>> galleryサイバー古代/奈良・唐古.鍵遺跡の「鳴石」
>> http://osaka.yomiuri.co.jp/kodai/news/hozon1/011011.htm
同ページにも
「だが、現時点においては難問がある。鳴石が珍重されていたのがわかる最古の例は唐古・鍵遺跡の勾玉の容器であり、『抱朴子』を著した葛洪(283〜343頃)の時代とは、約三百年の隔たりがある。」
と書いてあります。
神仙思想も道教(太平道、五斗米道)の始まりが2世紀くらいだとすると紀元前後の遺跡から発掘されたものが神仙思想と理解するのは無理でしょう。
「禹余糧」などと言い出すほうがおかしいような気がします。壷石、袋石として珍重されていたと考えるべきです。
少なくとも薬ではないですよね。
その他発言: