元の発言 [ Re: 馬が出た ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月15日(日)10時21分13秒 ]
>> 出土したのは箸墓から一世代ぐらい後の文化層で、一番有力視されている説では、四世紀初頭でしょう。
>> また古いほうにとって三世紀中葉まで引き上げたとしても矛盾はないでしょう。
# そうですね。
纒向第109次調査で発見された輪鐙は「古墳を取り巻く周濠の上層から出土しています。(橋本輝彦)」これが「出土した層位から布留1式期(出典 同)」ですから、箸墓の建造時期である布留0式期(寺澤による)とは然るべき時間差があります。
これを石野・豊岡の以下の年代観(数値はA.D.)
纒向3式:250〜280
纒向4式:280〜340
と照合すると、布留0が纒向3式後期、布留1式が纒向4式に対応するわけですから
倭國に馬がいないという情報が収集された時期が240〜280とすれば、西晋代とされる馬具の時期(265〜316)ときちんと整合性が取れるように思います。
桜井を闊歩した馬は、魏末晋初頃に中華世界から備品とともに寄贈された可能性を考えることが出来るでしょう。
馬具を伴うという理由で布留1式の時期を引き下げようという考えは賛同者はいないと思います。布留式の年代幅や須恵器の登場時期と整合性がないですし、中華世界での実用鐙の登場も最古の副葬品の時期よりもう少し繰り上げて考えてよいと思います。既に三国時代、激しい騎馬での戦闘が中原で繰り広げられていたのですから。
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