Re: 正始六年の詔勅

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [7月5日(金)02時04分59秒]

元の発言 [ 正始六年の詔勅 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 7月3日(水)18時51分08秒 ]

> 張政等を遣わしたのが八年の王[斤頁]であるならば、景初二年条(六月、十二月)の「太守劉夏、吏(使)を遣わし」、正始元年条の「太守弓遵、建忠校尉梯儁等を遣わし」との前例に倣って、ここも主体(主語)を明記して「太守王[斤頁]、張政等を遣わし」とした筈である。 

この箇所なんですが「張政等を遣わし」た主語が無いというのはおかしいですし、既に八年条なので弓遵は鬼籍の人です。そこで

 「其八年、太守王[斤頁]到官
 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状
 遣塞曹掾史張政等因齎詔書云々」

この(倭女王卑彌…説相攻撃状)を挿入句とみると
主語が「王[斤頁]」
  述語1が「到」官
  述語2が「遣」塞曹掾史張政等
という具合に
 「…新太守王王[斤頁]が赴任したところ
 倭女王が…してきたので
 張政を派遣して…させた。」
という時間的経過と因果関係を追って述べられた一連の文章として読めるのではないでしょうか?

「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状」

「倭女王卑彌呼(與狗奴國男王卑彌弓呼素不和)遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」
と挿入句を括り出してやると主語が明確になります。
この挿入句も「遣倭載斯烏越等…」の原因をあらわす説明の挿入句と読めると思います。

そうすると、なぜ六年の詔勅が遅々として実施されなかったのでしょうか?
「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。」
の前に何も假授の理由が明示されていないことに注目したいと思います。
なぜ権威ある黄幢の下賜を決定したのでしょうか?

卑彌呼が狗奴國の男王ともめていたことはこの後に書いてあるのですから、六年の魏側の行動の理由はそれではなく、この文より前に書かれている何かだと考えるのが順当でしょう。
言うまでもなく倭人傳というのは一個の書物ではなく東夷傳の1チャプターに過ぎません。
倭人傳を読む人間は(今日びの古代マニアと違って)高句麗傳から韓傳から順々に読み進んでくるのですし、当然書いた本人もそういう順番で筆を進めてきました。
ですから読者は、黄幢下賜の理由は対高句麗戦を睨んだその側面支援、つまり高句麗に同調しそうな勢力の背後に強力な味方を配置して動きを牽制しようという戦略の一環であると容易に察知するであろう。そういう前提での陳壽らしい(彼らしく簡潔に過ぎる)文章なのではないでしょうか。

いづれにせよ、遼東郡治から洛陽まで片道100日。これが4千里ですから、樂浪まで5千里を単純計算すれば4か月。ゆえに往復8か月。
帯方太守弓遵は死亡して帯方太守は欠員という状況で、「現」玄菟太守の王[斤頁]が倭国の使いに同道して任地を8か月留守にするというのは、半島の政情不安を勘案せずともリアルな想定とは言えません。

それ以前に、「到官」が詣臺朝見と同義に使われている実例というのはあるのでしょうか?


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