(1)正始六年の詔勅は、いつ執行されたのか?
正始六年の「倭の難升米に黄幢を賜い、郡(太守は弓遵)に付し仮授す」との詔勅の執行記事が、正始八年条に「塞曹掾史の張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に拜仮す。爲檄告喩之。」とある。(張政等の任務は詔勅の執行と共に、「爲檄告喩之」に主任務がある。)
このため、張政等を倭国へ遣わしたのは八年時の太守、王[斤頁]であると解されている。(例えば古田武彦。張政の倭国滞在は正始八(247)年から泰始二(266)年までの二十年間とする。)
六年の詔勅が八年になって執行されているのは、執行の任にあった弓遵が、帯方郡崎離営事件に端を発した対韓国戦で戦死した(韓伝)ためということであろう。
しかし、崎離営事件は韓の那奚等三十国が魏に降ってきた七年五月(三少帝紀齊王)、そのうちの辰韓の八国を楽浪郡に与えたことに韓が怒ったものである。
従って、弓遵戦死は七年五月以降のことであり、これを詔勅が六年中に執行されなかった理由には出来ない。
そもそも郡太守の死亡ごときで天子の詔勅の執行が二年も滞ったとは考えられない。(景初二年十二月の詔勅が正始元年になって執行されているのは、景初三年正月朔に明帝が崩御したため、その喪明けを待っていたからである。)
張政等を遣わしたのが八年の王[斤頁]であるならば、景初二年条(六月、十二月)の「太守劉夏、吏(使)を遣わし」、正始元年条の「太守弓遵、建忠校尉梯儁等を遣わし」との前例に倣って、ここも主体(主語)を明記して「太守王[斤頁]、張政等を遣わし」とした筈である。
正始六年には弓遵は存命しており、張政等を倭国に遣わしたのは弓遵である。
(2)何故、「黄幢を賜う」との詔勅が出されたのか?
黄幢の幢とは、軍事指揮や儀仗行列に用いられる旌旗のことであり、旌旗のうち特に黄色の軍旗(黄旗)は天子の旗を意味する。
黄幢とは軍事指揮権の象徴であり、これを与えるということは魏が軍事的後ろ盾になることの証しであろう。
従って、六年には魏帝は倭国からの軍事要請を受けていたということである。(対韓国戦は不測の事態であり、これに備えての魏から倭国に対する軍事要請とは考えづらい。)
八年条の「倭の女王卑弥呼と狗奴國の男王卑弥弓呼は、素より和せず、倭の載斯烏越等を遣わし、郡に詣り、相いに攻撃する状を説く」は、卑弥呼の女王国と男王卑弥弓呼の狗奴国が戦争状態にあることを、載斯烏越等が郡に至り太守に説明したということである。
ただ、女王国と、いわば男王国との争い自体は、倭国のお家の事情による内紛に過ぎない。
これをわざわざ載斯烏越等を遣わし郡太守に説明しているのは、狗奴国戦に対する軍事援助を魏に要請するためである。
載斯烏越等が帯方郡に遣わされたのも六年のことであり、倭国の軍事要請を太守弓遵が洛陽の天子に伝えた。
(3)何故、詔勅は卑弥呼ではなく難升米に下されたのか?
載斯烏越等を遣わしたのが卑弥呼であれば、景初二年条の「倭女王、大夫難升米等を遣わし」、正始元年条の「倭王、使に因りて上表し」、正始四年条の「倭王、復た使大夫の伊聲耆掖邪狗等八人を遣わし」の前例に倣って、ここも主語を「倭王」と明記していた筈である。
八年条に「卑弥呼以死」とある卑弥呼の死が、これが八年のことであれば「卑弥呼死」とするだけで足りる。
卑弥呼の死因は何処にも書かれていないので、「以死」を<もって死す>とは読みずらい。
「以死」は<すでに死す>と読む他はない。
卑弥呼は六年には死んでおり、載斯烏越等を郡に遣わしたのは、「魏の率善中郎将」の難升米である。
難升米は載斯烏越等を郡に遣わし、魏への軍事要請と共に卑弥呼の死を弓遵に知らせしめた。
弓遵からの報告によって「親魏倭王」の死を知った魏帝は、(難升米は「倭王」ではないが)、「魏の率善中郎將」に取り敢えず黄幢を賜うとの詔勅を下した。
(従って、張政等が詔勅を執行した際の「爲檄告喩之」の之は難升米である。張政等は<壹与を立て、王と為し>た際も「以檄告喩壹與」した。)
(4)六年中の出来事が、どうして八年条に記されたのか?
八年条冒頭句の「太守王[斤頁]、官に到る」は、勿論、八年の出来事である。
これを六年には玄菟太守だった王[斤頁]が、転任地の帯方郡に「着任」したことと解する向きもある(例えば古田武彦)。
しかし、王[斤頁]の一経歴に過ぎない「帯方太守着任」が、倭人伝のなかで記録されるべきものでもなかろう。
帯方太守の交替は景初二年の劉夏から正始元年の弓遵にもあったが、弓遵の着任記事はない。
八年条は「壹与は倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還す」という張政の帯方郡への帰還と、「因って臺に詣り、男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を献上す」という、張政を送っていった掖邪狗等の朝貢記事で結ばれている。
張政は帯方郡へ帰還したならば、弓遵に復命がなされる筈だった。
しかし、張政が帯方郡へ帰還したときには、弓遵は七年の対韓国戦で戦死していた。
復命は後任太守の王[斤頁]になされ、天子への報告は王[斤頁]からなされた。
臺とは天子を意味し、掖邪狗等が貢ぎ物を献上するために「臺に詣る」とは、張政を送り還した帯方郡から洛陽に到り<天子に見える>ということである。
「因って」とは<事寄せて・便乗して>という意味であるから、掖邪狗等は単独行動で洛陽に到ったのではない。
掖邪狗等は張政の復命を天子に報告するため洛陽に向かう、王[斤頁]に同行して洛陽に到った。
魏晋朝では天子を官とも称し、冒頭句の「官に到る」も王[斤頁]が洛陽に到り<天子に見える>ということである。
六年中の出来事が八年条に記されているのは、王[斤頁]が同行してきた朝貢の主が、黄幢を下賜した難升米ではなく、卑弥呼の宗女の壹与であったからである。
王[斤頁]は朝貢の主が壹与になった経緯について、張政の復命に基づいて冒頭句以下のとおり報告した。
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安本美典は冒頭句を「その八年、(帯方郡の)太守王[斤頁]が(魏国)の官(庁)に到(着)した(そして以下のことを報告した)。」と読んでいる。
その他発言: