Re: 倭国の乱と卑弥呼即位の時期

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [4月13日(土)23時37分21秒]

元の発言 [ 倭国の乱と卑弥呼即位の時期 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 4月12日(金)18時03分31秒 ]

大場嘉門さん こんばんは 
 マルセも基本的に卑弥呼の即位は3世紀と思っていますが、

>> 後漢書は「倭国乱」を「倭国大乱」とし、これを「桓霊間」とする。桓霊とは、桓帝(147-167)と霊帝(168-189)のことである。
>>晋書は漢末(220)とし、梁書は霊帝の光和中(178-183)とする。晋書と梁書との間には40年程の差がある。

#晋書の漢末も後漢書や梁書とあまり変わらない時期を指していたのでは?
 三国志の烏丸伝に「漢末・・・(略)・・・中山太守張純叛人丘力居衆中,自號彌天安定王,爲三郡烏丸元帥,寇略青徐幽冀四州,殺略吏民。靈帝末,以劉虞爲幽州牧,募胡斬純首,北州乃定。」とありますから、中国史書のいう漢末というのは、霊帝の末より前からのもっと広い時期を指したのだと思います。


>>梁書が霊帝の光和中としているのもこう読んで、この男王を後漢書永初元(107)年条の倭国王帥升にあて、帥升在位の七八十年(177~187)頃と解釈したのであろう。

#光和という時代は、黄巾の乱が起こったときで、國乱の代名詞的な年号だったという解釈が通説なのではないでしょうか。


>>後漢書が桓霊間としているのも、「住七八十年」を帥升の在位期間と見てのことだとするのが一般的な解釈であろう。
>>しかし、帥升在位の七八十年(177~187)は、桓帝の治世を越えてしまう。
>>『桓』霊間としているのであるから、後漢書の撰者范曄は「住」を<とどまる>と読んではいないのではないか。

#范曄は、AD107年の遣使の年が、倭王の始まった年と考えないで、もう少し前から始まったと考えたのなら、特におかしくないと思います。


>>三書のうち、晋書の解釈が妥当と考える。理由は、
>>@「其國本亦以男子爲王」は、・・・
>>A「住七八十年」を一人の王の在位期間としてみたら、・・・
>>B梁書がいうように霊帝の光和中に倭国の乱が起こったとすると、・・・
>>C魏志の対象読者は、晋の時代の人である。陳寿も晋朝の読者に対して、今から七八十年前に倭国の乱があったといっているのであろう。

#(1)〜(3)についてはよいとしても、(4)は、卑弥呼が朝貢にやってきた240年前後を倭人伝では「今」としているとも思えるのですから、その70〜80年前の170年頃ということでもよいのでは。


>>倭国の乱の「歴年」とは数年から10年位であろうから、卑彌呼の即位は漢末魏初から230年の間とするのがいい線なのかもしれない。

#古代の女帝6人の即位後の平均余命は22年と約8か月。卑弥呼の死亡年が240年代だとすれば、220年ころに卑弥呼が即位したというのは妥当な推定ですよね。
 ただ、マルセは後漢書の記述もそこそこ信じているので、後漢書に卑弥呼の記載があるのだから、卑弥呼の即位は後漢末期(210年代)だったのではないかと思っています。
 倭國大乱(170年頃)の直後に卑弥呼が即位したと考えなくて、応仁の乱の直後に徳川幕府が始まったのではないように、倭國大乱のあと、いろいろあったけれども、210年代に卑弥呼が即位して、ついに太平の世の中になった(この場合はあまり続かなかったのですが)と考えてはいけないですか。




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