元の発言 [ Re: Title 承前 24国比定問題(土佐説) ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 4月8日(月)22時53分04秒 ]
山佐留さん、こんばんは。
>> 不充分なデータを地図にまとめていただきありがとうございます。
>> 私ももうすこし勉強して、4月中には地図で説明出来るようにしたいと思っています。
どのくらい良い比定案ができるのか、ぜひ知りたいところです。
ただ、現代の考古学の成果はかなり信用おけるものだと考えますので、
遺跡との対応はやはりあるべきだと思います。
そのためには、日本の古代遺跡シリーズの「高知」「愛媛」「香川」
「徳島」をしっかり読んでおいたほうがいいと思います。
急いで比定しないでもいいと思います。
>> 私の父は物部村の出身ですが、青年時代(昭和10年代)に物部村から
伊尾木に行くのは、山越えの道を通ったそうです。
>> 昭和の初期でさえそのような山道が実際に使われていたことを考えると、
卑弥呼の時代には主要官道以外のこうした道が多く存在したと思われます。
そのような山道もあったでしょうが、現在の配置だと順番だとは言いにくいのでは
ないでしょうか。例えば、番号をつけずに点で表した時に、
どういうふうに線で結ぶか、いろんな人に試してみるといいと思います。
>> また、魏志倭人伝に書かれた、この21カ国の配置自体、必ずしも
主要道に沿って配置されている訳ではなく、おおまかな並び順でしかない、
とも考えられるのではないでしょうか。
日本のどこにもそのような配置がなければそう言わざるを得ないですが、
私は比定案を示すことによりそうではないと私は主張しているわけです。
もしこの比定案が偶然だと考えるならば、同様な比定案を他にも提出できれば
それを実証できます。例えば、山陽道、山陰道あたりで順番に
仮の比定ができればいいのです。
>> >> (3)邪馬台国の比定範囲はどうなっているのでしょうか?
>> >> 四万十川流域と南国市あたりに分離しているということですか。
>> (3)については、倭国が四国全体であり、倭国の都である邪馬台国は高知市、
南国市と考えています。
邪馬台国の戸数が7万戸ではなくて、旁国を含めた戸数を7万戸に
するわけでしょうか?倭人伝の記述とは少し違う気もしますが・・・。
その場合は、窪川、中村あたりの遺跡をどの国にあてるのか
説明するべきでしょうね。
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