理知的な目と高い鼻、それに背くような半開きのぼってりとした蠢惑的な唇。毒薬を飲まされて朦朧としている大柄のイングリット・バーグマンが、ケーリー・グラントに抱きかかえられながら、敵方のスパイ、クロード・レインズの屋敷から逃れ出る。まさに一触即発、息の詰まるようなラストシーン。それでも二人は鼻を寄せ合い、ほとんどキスをしながらの場面なのだ。ヒッチコックの「汚名」は、私の中に居座る永遠の名画だ。 第二次世界大戦が終わった時、私は十歳。国民学校(小学校)5年生だった。 戦争末期、田舎に縁者を持たない児童が集められ、強制的に疎開させられていた岡山県の美作加茂町から、3カ月ぶりに兵庫県西宮市に帰ってみると、毎夜のように夢に見たわが家は、そろそろ興味を持って読み始めていた父の蔵書もろとも空襲で焼けてしまっていた。 知り合いの家の二階に同居するという、一変した生活環境の中で、無事だった両親と姉と祖母が私を迎えてくれた。一から暮らしを立て直さなければならない大人たちが、右往左往するのをよそに、私はたちまち元の極楽とんぼに戻り始めていた。 確か一九四八年頃(昭和二三年か、二四年頃)だったと思う。阪急西宮駅周辺でアメリカ博覧会が開かれた。ずっとあとに開催された大阪万博からは、比べようもない小規模のものだったが、椅子に掛けた大きなリンカーン像と、その前にできたモダンなホールや様々な売店、アメリカ博花売り娘コンテストなどを、中学生になっていた私の好奇心と夢をかきたてるには、充分だった。 何を隠そうこの博覧会こそが、少しあとになって観る「望郷」や「悲恋」「しのび泣き」「オルフェ」「双頭の鷲」「天井桟敷の人々」「田園交響楽」「情婦マノン」などのフランス映画の名作の数々を、そしてあのジェラール・フィリップをさえ袖にしてしまう執拗なほどのアメリカ映画大好き人間に私を仕立て上げてしまったのだ。 博覧会が終わったあと、そのホールが、アメリカ映画専門の上映館になった。 恋愛や、性に対する興味が目覚めかけていたが、まだまだ数少ない小説や雑誌だけでは満たされず、住まいの近くにあったその映画館に毎週通うことになったのである。 六年前、九十歳で亡くなった母が、神戸生まれの神戸育ちで、彼女の話によると、娘時代から錦座や聚楽館で、クララ・ボウや、ダグラス・フェアバンクスに親しんでいたとか。そのせいか時には、学校をさぼって映画館通いをする私に寛大だった。というよりも、毎日の生活に精一杯で、娘のことまでとやかくいう余裕がなかったのだろう。 今から思うと不思議だが、そこでは、一週間ごとに新しい映画が上映された。当時はそれほど夥しい映画が入ってきていたことになるが、その代わり、玉石混淆とでもいうのだろうか。ウィリアム・ワイラー監督の「我等の生涯の最良の年」や、アイリーン・ダンの「ママの思い出」、スペンサー・トレイシーの「少年の町」などの名作があるかと思えば、アボット&コステロの凸凹ものや、ボブ・ホープの腰抜けもの。ワイズミュラーの「ターザン」シリーズ。はたまた「ジキル博士とハイド」や「狼男」の怪奇ものなどなど。 そして西部劇。保安官に追われる男、ジュエル・マクリー、彼を慕って追う酒場の女ヴァージニア・メイヨ。次第に追いつめられ傷ついていく二人。アメリカ映画には珍しいアンハッピーエンドの「死の谷」のラストシーンに、ちょっぴり大人の情念をかいま見た私は、ジョン・ウェインや、クーパーはもとより、ジョエル・マクリーや、ランドルフ・スコットの二流三流の西部劇も見まくっていたのである。 グリア・ガースン、テレサ・ライト、エリザベス・テイラー、スーザン・ヘイワード、ジェニファー・ジョーンズ、などなどなどの女優陣。「キュリー夫人」や「ミニヴァー夫人」での気高さも忘れられないが、「心の旅路」で、喪失していた記憶を取り戻したロナルド・コールマンを見て微笑むガースンの美しさは、天下一品だった。正にハッピーエンディングアメリカ映画の極致だった。ちなみに大好きなヴィヴィアン・リーが演じた「哀愁」「アンナ・カレリナ」は、両作品ともヒロインの自殺で終わる悲劇でありながら、片方の眉をこころもち上げた美しい彼女の表情には、凛とした涼やかさがあって、死を越えて未来を見るといったようなある種の明るさが感じられたのは、やっぱりアメリカ映画のオプティミスティックなよさだろうと、私は思っている。 男優では、ジェームス・スチュアート、モンゴメリー・クリフト、グレゴリー・ペックやジョセフ・コットンetc。 そんな中で、私が傾倒していったのは、ヒッチコックの作品だった。殊にケーリー・グラントの洒脱で都会的な個性が、そのラブサスペンスとでもいうべき作品の中で発揮されたとき、身震いするような悦楽と共に、私は、映画館から中々立ち去れないでいた。そんな私なのに、この頃既に「映画の友」で活躍されていた若き日の淀川長治さんの記事を毎号読みながら、そして彼が呼びかけ、度々神戸で催されていた「友の会」に何故か参加しそこなったのは、返す返すも残念でならない。 考えてみると、後年、「自閉症」の次男の深刻な問題を考えたり判断するときの私の気持ちは、これらのアメリカ映画の楽観性と無縁ではなかったと思うし、さらに拙著『トミーの夕陽』(つげ書房新社)が山田洋次監督から「澄みきった秋空のような気持ちのよい明るさと透明な哀しさ、『トミーの夕陽』の不思議な魅力が、ぼくをとりこにした」という評を戴き、さらにさらに、それを映画「学校3」に取り入れて戴けたのは、私の、まれな楽天性と共通のいくばくかを、監督ご自身もお持ちだからなのだと想像するのは、監督に対して失礼だろうか。
97年の暑い夏の昼下がり、ほんの気まぐれに通り過ぎた涼風が、私と山田洋次監督の出会いをつくってくれました。本人は真剣で一生懸命なのに、外から見ていると何だかおかしい。そんな主人公を中心に据えた山田監督の映画作りに常々参っていた私は、初出版の小説「トミーの夕陽」を一面識もない監督に送りつけたのです。
『前略、ご著作「トミーの夕陽」確かに頂戴しました。僕にとって、とても関心のあるご本です。読ませて頂きます。右御礼まで。草々 97年8月24日 山田洋次』
十日ばかりを経て手にした山田監督からの葉書は、過去に貰ったどんな素敵で甘い恋文よりも、私を有頂天にさせたのです。「一家に一人寅さんがいると大変だが、地域に一人寅さんがいるのはとてもいいことだ」(正確ではないかも知れません)と、どこかに書かれた山田監督の言葉を読んだことがあります。寅さんどころか、ずっと、はずれっぱなしで、今の社会では生きにくい「自閉症」の息子と共に、それでも何とか普通の家族の一員として生活していけるようにと願いながら、三十数年生きてきた私にとってこの言葉は励みになりました。
「どうでしょう先生、ひょっとするとひょっとするんでしょうか・・・」「馬鹿者!読んで頂くだけでも有り難いと思いなさい」せっかちでおっちょこちょいの私が先走って報告する電話機の向こうから、文章教室「嵯峨野塾」以来の師、瀬戸内寂聴先生の高い声が響いてきたのは当然のことでした。
初夏5月12日、山田監督と深澤プロジューサーが、「カーサン」役の大竹しのぶさんと「トミー」役の黒田勇樹君、平松監督助手と共に再び来宅されたのです。画面で見るよりもっときれいでキュート、しかも気さくな大竹さんを目の前にして感激。ようやく私にも「トミーの夕陽」が映画「学校。」の原作になるという実感が湧いてきたのです。黒田君と平松さんは一泊して翌朝の息子の新聞配達につきあったり、ビデオをとったり。さすがプロだと感心しながら、これはきっと上等の映画になるに違いないと確信しました。
にじんでくる涙を浮かべたまま、思わず笑ってしまう人間の素晴らしさ。そんな人間賛歌の映画「学校3」に乾杯!
1.書店店頭 2.当社広告 3.映画の広告 4.映画を見て 5.その他 該当の番号をご記入下さい→で知った。 その他をお選びになった方へで知った。