テンテン&キョンシー回想
〜キョンシーブームからHP開設まで〜
|キョンシーブームこと始め|キョンシー旋風とその終演|その後のテンテン|
1985年に、香港からけったいなゲテモノ映画が輸入された。『霊幻道士』と題された映画で、両手を前に突き出し、口には鋭いキバを光らせる中華版ゾンビ(=キョンシー)が暴れ回るという作品だ。香港屈指の映画会社、ゴールデンハーベスト制作、サモ・ハン・キンポー監督による作品で、日本で劇場公開されると、そこそこのヒットを飛ばした。日本人の思い描くゾンビや幽霊とはまったく違う概念で、明るくさっぱりと描写された死人達と、香港お得意のクンフーアクションがミックスされ、目の肥えた日本人にも新鮮に映った。このヒットに続いて翌年には『霊幻道士2』も公開。スケールアップされ、ユン・ピョウなどの大物スターも出演し、やはりそこそこのヒットを記録した。しかしこれらは、日本を揺るがすキョンシーブームへのプレリュードに過ぎなかった。
テンテンの初登場シーン(幽幻道士)
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87年の春先に、当時小学4年生だった僕の同級生が1本のビデオを貸してくれた。クンフー映画は好きだし、『霊幻道士』の事も少しは知っていたが、キョンシーものにはさほど興味はなかった。それでも「スゲー面白いから」と言われて貸してもらったのは、台湾で作られたキョンシー映画で、TBSがその年の年頭に『月曜ロードショー』枠で放映したものだった。これが『幽幻道士』だった。香港のソレと同じく、キョンシーを題材にしたホラー&コメディアクションで、友人の薦め通り抜群に面白い作品だった。子役達とキョンシーとの戦いは理屈抜きに痛快だし、作品内で描かれる人間ドラマも興味深く、比較的しっかりした内容だった。中でも一際目を引いたのは、作品内でも紅一点の“テンテン”という美少女だった。可愛らしい顔だちと、気の強い性格が絶妙に噛み合い、神秘的ですらあった。この1本でキョンシーとテンテンに完璧にハマった。それからは『幽幻道士』のビデオ(特にテンテンが出ているシーン)をテープが擦り切れるほど繰り返し見るという日々が続くことになる。
ところで、この『幽幻道士』は85年の作品らしい。香港の『霊幻道士』も85年の作品なので、どちらが先に作られたのかは断定はできないが、おそらく『幽幻道士』のほうがパクリだと思われる(『霊幻道士』は大会社のゴールデンハーベストの作品だし)。パクリと言うと聞こえが悪いが、香港や台湾の映画界ではこういう事は日常茶飯事で、ヒット作の類似作品が次々に出てくるという光景は別段珍しい事ではない。しかし、日本においては『霊幻道士』も『幽幻道士』も元祖と本家ぐらいの違いしかないし、『幽幻道士』はその他の亜流作品に比べ、映画テクニックや脚本も良く、群を抜いた完成度だった。さらに子役達の活躍を前面に押し出すという点でオリジナリティが見られ、これが『霊幻道士』以上に人気を呼ぶ事となるのだ。
話を続けよう。87年の夏に、『月曜ロードショー』で再び『幽幻道士』が放送された。しかもこの時は、日本のスタジオにテンテンや金おじいさんらがゲストとして招かれ、撮影の裏話などのトークが映画本編の前後に入った特別版だった。秋に放送予定の新作『幽幻道士2』の宣伝キャンペーンのために、出演者達が来日していたのだ。この時にテンテンの本名を知り、吹き替えではない本人の声を初めて聞いて感動した。共演していたスイカ頭(劉至翰)がテンテンの実兄であるという事実が明かされた事と、日本語をしゃべれる金おじいさんが通訳をしていたのが印象的だった。
同年10月に、“秋のファミリー映画スペシャル”と題した特別枠で『幽幻道士2』が放映された。後に判った事だが、この映画の制作にあたっては、徐々に盛り上がりつつあったキョンシーブームに先駆けて、TBSが色々と注文を出したとか。映画の冒頭で入るキョンシー隊に関する解説や、「キョンシーダンス」の演出などは、この作品で新規のファンを掴もうという意図を感じるが、この辺はTBSの狙いだったのかも知れない。これが当たった。放送の翌日、学校へ行くとクラスは『幽幻道士2』の話題でもちきり。視聴率も20%を超え、テレビ局にもたちまち反響があったという。キョンシーブームの到来である。
幽幻道士2はシリーズの人気を決定的なものにした
88年が明けてすぐの事だった。その日の夕方、僕はドラマ『スクール・ウォーズ』(TBS)の再放送を見ていた。ドラマが終ってもそのままチャンネルを変えずにCMを見ていたら、いきなりテンテンが大映しになって驚いた。そして高田由美(テンテン役の声優)の声で、次のようなナレーションが入ったのだ。「幽幻道士のテンテンです。私たち、毎週キョンシー退治に大活躍する事になったの。『来来!キョンシーズ』1月22日スタート」。幽幻道士シリーズのあまりの反響を受けて、TBS側が台湾に発注して作らせた、いわば幽幻道士のテレビ版である。日本発注→台湾制作→日本での連続放送という、過去に類を見ないシステムで作られ、木曜日のゴールデンタイムに放送される事になった。制作費はすべてTBS持ちで、その額も3話程度で映画が1本作れるほどの額だったと言うから、TBSの気合いの入れようが伺える。幽幻道士のキャストによる連続ドラマ……毎週テンテンが見られるなんて、夢のようだった。放送の開始日が近づくと、各テレビ雑誌で大々的に紹介された。「美少女道士」「台湾のゴクミ」などのキャッチフレーズとともに、どの雑誌にもテンテンの写真が大きく載り、ファンにとっては幸せな日々が続いた。
幽幻道士2のポスター
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同じ頃、 TBS系列のパック・イン・ビデオがここぞとばかりに『幽幻道士2』のビデオを発売。レンタルビデオ店のおばちゃんに、店に貼ってあったポスターがほしいとお願いしたら、ポスターと一緒にシールもくださった。こうして鳴り物入りでスタートした『来来!キョンシーズ』は大好評を博した。前宣伝が十分だったとは言え、19時30分という中途半端な時間帯、それも強力な裏番組がズラリと並んだ、決して恵まれているとは言えない枠で放送された全10話だったが、軒並み高視聴率をマーク。キョンシーブームは最高潮に達した。どれだけキョンシー人気がスゴかったかと言えば、今のポケモンブームにも匹敵するほど。小学生を中心に圧倒的な支持を得て、街中に関連書籍や玩具、文具などが溢れかえり、休日ともなれば、日本のアクション団体によるキョンシーショーが各地で催された。前述の通り、1本当たると同種の作品が雨後のタケノコのようにウジャウジャと湧いて来るのが香港・台湾の映画界。日本でキョンシー映画がウケると見るや、そのマーケットを目指して次々とキョンシー映画が粗製濫造された。そんな安くヒドい作りのキョンシー映画がビデオ店にずらりと並び、各テレビ局で放映されまくったのだ。
「今が旬」と見ていたのは本家のTBSも同じで、『来来!キョンシーズ』が終了するや、すぐさま4月に『幽幻道士3』を放映。前作の時と同じく、出演者たちがプロモーションのために来日。後に特集本を見て分かった事だが、この来日時には、八王子のサマーランドや日比谷シャンテなどでイベントが行われたらしい。だが小学生の僕にはそんな情報を事前に入手するすべはなく、後で本を見て悔しい思いをした(映画が終わった後の、出演者が挨拶をするシーンは、サマーランドで収録されたものだと思われる)。放映に先だって、休日の昼間に『春休みだよ!キョンシー祭り』という宣伝を兼ねたバラエティ形式の番組が放送されたのを覚えている。ブームの絶頂期に放映された『幽幻道士3』であるが、TVシリーズと平行して制作されたか、クランクアップ後に制作を開始したはずだから、いずれにしても作り込みという点では今一歩で、それほど高く評価できる内容ではなかった。また、『来来!キョンシーズ』あたりから、視聴者層のターゲットを小学生低学年あたりに設定しているためか、ストーリーがやや稚拙で、キャラクターに頼った作りになって来ていた。すでに小学校高学年だった僕には物足りなく感じたが、それでもテンテンが見られるだけで嬉しかった。
同年7月に、池袋のサンシャインで「キョンシー博覧会」(確かそんな名称だった)なるイベントが数週間に渡って催された。『幽幻道士』シリーズや『来来!キョンシーズ』で使用された衣装や小道具の展示、グッズの販売、キョンシーショーなど盛りだくさんの内容で、僕は2回ほど足を運んだ。“さわらないでください”と書いてあったテンテンの衣装にペタペタと触ったりした(笑)。
日本全国どこへ行ってもキョンシー、キョンシー、キョンシーの初秋。シリーズの完結編として『幽幻道士4』が放送された。大人気だったシリーズが終わりを告げると共に、日本中を席巻したキョンシーブームも序々にフェードアウトしていった。
当時発売されたグッズの数々
テンテンから来た年賀状
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あれほど盛り上がったキョンシーブームも人々の記憶から消えた頃、タイガースタジオプロモーションというところから何やら封筒が届いた。テンテンが日本で活動する事になったとかで、ファンクラブの入会案内だった。なぜウチに届いたかと言うと、おそらく『キョンシー大百科』などの懸賞やアンケートハガキ等を送ったからだと思う。これは仕掛けが遅かった。どれだけの人が入会したのだろうか(僕は入会してない)。そのFCの案内書とどちらが先だったかは覚えてないが、テンテン主演映画のオーディションの案内書も来た。全国でオーディションを開催し、審査員にはテンテンも参加するとの事なので、ちょっとだけ心が動いたが、やはり受けなかった。91年の正月には、やはりタイガープロからテンテン直筆(のコピー)の年賀状も届いた。その後テレビ朝日系のアニメ『21エモン』を見ていたら、エンディング曲をテンテンが歌っていた。そのCDのプロモーションか何かで、兄が持っていたアニメ雑誌にテンテンの写真が載っていて、「随分大人っぽくなったなぁ」と思った。
93年頃、またハガキが届いた。テレビ東京系の『アイラブSMAP!電撃キッズ隊』にレギュラーで出演している事と、シングルCD『静かなシナリオ』をリリースする事、そのキャンペーンを池袋サンシャインの噴水広場で行う事などが書かれていた。これは看過出来なかった。SMAPの番組はちょこちょこ見るようになり(SMAPと一緒に料理を作っていた)、シングルも発売日に購入した。イベントのあった日は、別な用事があったのだが、急いで駆けつけたら何とか間に合って、後半の半分ぐらい見る事が出来た。憧れだったテンテンを生で見たのは、この時が初めてだった。事情があって握手会には参加出来なかった事が悔やまれる。日本語がかなりうまくなっていた。
黒BUTAのメンバーとして活動した
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それからしばらく経って、黒BUTAオールスターズのメンバーになった事を知る。このグループに関しては一応説明しておこう。黒BUTAオールスターズは、ヤングマガジンから誕生したグループで、1期生から3期生、その後のニュー黒BUTAオールスターズまで続いた。テンテンは3期生。現在も芸能界で活躍しているのは、ELTのボーカルになった持田かおり(現・香織=2期生)ぐらいか。他にも細々と活動しているメンバーもいるようだが…。黒BUTAの活動としてはテレビ、ラジオともにレギュラー番組があった。僕はテレビのほうは見ていなかったのだが、文化放送で深夜に放送していたラジオ番組『黒BUTA天国』は、テンテン担当の曜日をよく聴いていた。かの和田アキコをゲストに招いたりもしていた。番組最後に決まって言う「この後は、テンテンと夢の中で会おうね」というセリフが印象に残っている。
しばらくしてテンテンは黒BUTAを卒業。台湾に帰り、我々の前から姿を消した。
96年秋に日本テレビ系で放送された『あの人は今!?』で、テンテンが取り上げられた。髪型をショートカットにしたテンテンが、通っている高校でバスケなどをしていた。少し前に交通事故に遭って、療養していたというエピソードなどを話していた。
インターネットを初めてから、テンテンやキョンシーものを扱ったサイトがないものかと探してみたのだが、まったくと言っていいほど見つからなかった(「テンテン」で検索すると、『花さか天使テンテンくん』がたくさんヒットする(^^;;)。98年の春、再び『あの人は今!?』にテンテンが出演。マダムヤンの捜索で台湾ロケが行われたのだが、その時についでに出たという感じだ。それによると、テンテンは自動車会社に就職して秘書の仕事をしていたようだ。日本語が喋れるからそういう仕事にも就けるのだろう。カッコイイ。
大人になったテンテンは、小さい頃とはかなり雰囲気も変わってしまっているが、それでもやはり胸にグッとくる感覚は押さえられない。久々にテレビでテンテンを見て、あの頃と同じようにドキドキした。このホームページの制作を決意したのはその時だった。かつての憧れだったテンテンの事を、どうにかして形に残しておきたいと思ったのだ。当初は98年の10月10日(テンテンの20歳の誕生日)のオープンを予定していたが、なかなか制作ははかどらなかった。もっとも、彼女やキョンシーの事を覚えている人はほとんどいないと思うし、完成させてもあまり更新する事もないと思っていたので、時間をかけてじっくり作る事にした。だがそうこうしているうちに制作は中断してしまった。99年になって久々にインターネットで「キョンシー」を検索すると、意外にもいくつかヒットした。そしてそのリンクを開いてみてビックリ。『誰か教えて!』というBBS(すでに閉鎖)で、キョンシー映画や、それに出演していた子役達の話題が、熱く交わされているではないか。そしてついにキョンシーのHPを作ってしまった人まで。こうしちゃいられない、と、僕もテンテンHPの制作を再開。いろいろ資料を集めているうちに、オリジナルビデオや写真集などがリリースされている事を知り、HP完成後も、まだまだ研究の余地がある事を実感した。
いろいろあったが、ようやくHP開設に漕ぎ着けた。いま、テンテンやキョンシーについて語ることに、果たしてどれだけの意味があるのか。そう問われたら答に窮する。しかし僕が少年時代にテンテンに夢中になった事は、その後の僕の生き方に、確実に影響を及ぼしている。大学に入って中国語を勉強したのも、毎年台湾へ旅行するのも、昔からどうも中華娘に弱いのも、テンテンと出会った事が多少なりとも関係しているのだと思う。そして、僕と同じような境遇の人達が、必ずいるはず……あの時のブームは、多くの人々に潜在的に影響を与えていると思うのだ。しかし、そんなテンテンのHPを作れる人・作ろうと思う人が、この日本に果たしてどれだけいるのだろうか?そんな事を想った時、抑えきれないほどの情熱が沸いて来たのだ。
十年以上前、彗星のように我々の前に姿を現し、日本中を席巻したテンテン。多くの人々に影響を与えたその果てしなく大きい功績を称え、彼女の名前をここに記しておきたい。
(99.5.7)
(2021.10.4一部改訂)