2015年初夏甘味『川景色』(『休暇便り』より)

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「貴柾兄さんはもしも生まれ変わったら何になりたい?」
 不意に浮かんだ問いをそのまま投げ掛ける私に、浴衣姿で腕を組みながら歩いていた貴柾兄さんは少しだけ戸惑った表情を浮かべた後、微笑んだ。
「虫、かな」
 例えば鳥とか犬とかそういった類のものを想像していた私は、大家さんから借りた古ぼけた提灯を手に思わず立ち止まる。夏になったばかりの夜道は少し温い風が吹いていて、古い提灯が手の先でゆらりと動く。
「蜻蛉とか?」
「もっと目立たなくて何気ないのでいいかな」
 困った様なそれでいてすっきりとした微笑みを浮かべる貴柾兄さんの髪が風に揺れる。土が固められただけの無舗装な小道に下駄の音を鳴らせて、私は貴柾兄さんの浴衣の袖をきゅっと握った。
 よく判らないけれど科学雑誌で記事を書いたり大学で難しい研究をしたりしている貴柾兄さんは私にとって凄い人なのに、たまにどこかに消えてしまいそうな位悲しげで、でも表面は微笑んでいて、胸が痛くなる。
「葵ちゃん?」
 戸惑った様な問い掛けの後、組んでいる腕を解いた貴柾兄さんの手がぽんぽんと私の頭を撫で、手にしていた提灯を持ってくれる。
「貴柾兄さんが虫になったら私は菜の花とか貴柾兄さんの為になる花でいいかな」
 そう言うと貴柾兄さんは微笑んだ。今度は悲しくない笑顔で私はほっとする。
 多分貴柾兄さんは小さな虫ではなくて、私は貴柾兄さんが止まれるほど立派な花でもなくて、見つけて貰うのも大変な河原や原っぱのちっぽけな花になってしまうのだろうなと思いながら、ゆっくりと歩いていると貴柾兄さんが口を開く気配がした。
「葵ちゃんが小さな花になったら虫だと見守れなくて困るから、人間のままでいて欲しいかな」
「だったら貴柾兄さんも人間のままでいてください」
 何故かこそばゆく同時に少し胸が痛くて、ちょっと澄まして即座に言い返した私に、貴柾兄さんが微笑む。いつも優しく微笑んでくれるこの人が私は大好きで大切で、虫になんてとんでもないのに何故そんな事を考えてしまうのだろう。でももしかしたら虫もそんな馬鹿にしてはいけないのかもしれない、例えば食物連鎖の観点や人間より虫の数の方が圧倒的に多い事や……。
「危ない。――と、ごめんね」
 不意の貴柾兄さんの声とほぼ同時に小石を踏んで転びそうになった私の身体を、しっかりとした腕が抱き留めた。浴衣の上からむにゅっと胸を掴まれてしまった手よりも、細そうなのに筋肉が付いている腕の感触にどきんとして動けなくなる私をあまり意識していない様子で起こしてくれた貴柾兄さんが降参のポーズの様に手を挙げる。
「へ?あ、ああ、えと、助けてくれてありがとうございます」
 胸を触ってしまったのより転びそうになった方が問題なのに貴柾兄さんは紳士だから…でも女の子扱いをしてくれているのかなと少し恥ずかしくなるには、ちょっと慌て方が致命的に足りなくて本当に紳士として胸に触ってしまった問題を気にしただけなのだろうなと微妙に落胆してしまう。
「足、捻らなかった?」
「一瞬かくんとしただけだから平気です」
 心配そうな貴柾兄さんに両手を前に出してふるふると振って私は歩き出す。貴柾兄さんは私の胸位では慌てないのかなぁとがっかりする様な先刻の貴柾兄さんの腕の逞しさにどきどきする様な、変に赤面してしまっている気がして顔を見せられない。
「やっぱり葵ちゃんが転ばないかが心配になるのかな」
「そうそういつも転びませんよぉだ」
 歩き出す貴柾兄さんの手の先で提灯の灯りが揺れる。川沿いの小道をゆらゆらと動く暖かな色の灯りと照らされる藍色の浴衣以外は濃い闇なのに、貴柾兄さんがいるだけで少しも怖くなくて、都会での街灯の下の一人歩きよりもずっと心が落ち着く…少しどきどきして浮かれてしまうけれど。
「葵ちゃん、待って」
「はい?」
 立ち止まって振り向いた私は提灯を消す貴柾兄さんにちょっと驚くけれど、消す直前の少し悪戯っぽい微笑みに首を傾げる。
 しばらく先まで外灯のない小道が夜に溶けて、そう言えば七夕を過ぎたばかりだと夜空を見上げようとした私に、貴柾兄さんが川面を指す。
 黄緑色の小さな光がふわりと揺れて瞬き、私は小さく感嘆の声を漏らしてしまう。蛍を見たのは久しぶりだった。
 提灯の灯より弱く小さな光はじっと静かにしていると徐々に増えていく、川面から視線を上げれば天の川。こと座のベガにわし座のアルタイル、貴柾兄さんが教えてくれた一等星はとても目立っている。小川のせせらぎの音だけの静かな世界の中、ぽんと肩に置かれた貴柾兄さんの手が温かい。
「もし貴柾兄さんが蛍になるなら、私も蛍がいいな」
 あまり考えずに目の前の綺麗な景色に呟いた私の声に、貴柾兄さんの手が頭をぽんぽんと撫でてくれた。

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