2019エイプリルフール週間後編『No count』

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 額の痛みと湯の暖かな感触に、少女はびくっと身を震わせた。
「え……?」
 自分の耳のすぐ脇にある頭が医師のものだと判るが、何故湯を浴びているのかが判らない。だが取り敢えず自分よりも医師の頭の方に湯が多くかかったのに気付き、少女は慌てて身を起こそうとする。右腕のギプスと組み伏されている体勢もあってもぞもぞと足掻いていると、医師が不意に小さく呻き身を起こしてくれた為、漸く男と少女は床の上に座る体勢へと変わる。
 頭のあった位置近くに転がっているコーヒーカップを拾い、テーブルの上に戻した瑞穂は慌てて左右を見回す。確か珈琲を飲み終わった筈だったが何故医師と自分は湯を被ってしまったのか判らないが、浴びて火傷をする温度ではないが医師を濡れ髪のままでは居させられない。初めての家でタオルの場所が判らず途方に暮れつつ取り敢えず洗面所を探そうとして中腰になった少女の手首を、男が掴んだ。
「――君は、誰だ?」
 言葉の意味が判らず手首を掴まれるがままにぺたりと床に座る少女を、男が口元に手を当てたままじっと見つめてくる。湯に濡れた髪からはぽたぽたと滴が零れ落ちているがそれを気にしている様子はなく、食い入る様に見つめる男の目に少女の頬が熱くなる。
「あの」
「ああ言わなくても大体は判った。君は俺の妻らしい。平日の昼日中から自宅に女を連れ込むのは俺の主義に反するし、怪我人ならば遊びである可能性は更に低い。随分と若い妻だとは思うが、それ以外の可能性は思い浮かばない」違いますと言いかけた少女は頬の熱さに俯いた。医師の言葉の意図がまるで判らないのだが、すらすらと語られた言葉の端々に自分が受け入れられている様な気がして頭が混乱してしまう。「――つまり、俺は今記憶が混乱しているらしい」
「……。はい……?」
 まるで他人事の様に語られた重大事項に、俯いていた少女は思わず医師を見返した。

 ソファに座った医師に手を取られ腿の上に横座りした少女の腰を抱く様に、男の手が回される。
「腕に痛みはないか?」
「はい。あの、先生こそ、頭の痛みは……?」
 恐らくは落ちてきたコーヒーカップの湯を被って頭を強打していると言うのに少女の腕を案じる男に、瑞穂は問い掛けた。出来ればタオルで髪を拭い頭の打った場所を確認したいが医師は少女の身体から手を離そうとしない。せめてポケットにハンカチでもあれば…と思っていた少女は、至近距離からの男の視線に気付き赤面する。自分の見立てよりも医師の方が確実なのだろうが、それでも心配はしてしまうものである。
「僅かに痛むが、気にする程ではない」
 その言葉の後、沈黙が流れた。
 痛まないのならば問題はないのかもしれないが、少しでも痛むのならば冷やすなり何なりした方がよいのではないかと心配するものの、医師の腕の抱える強さに瑞穂は何故か動けなくなる。医師の髪も床の湯も拭いた方がよいのにと考える少女は、不意に身体に寄せられた頭に戸惑う。
「悪くない」
 ぽつりと呟かれた言葉の意味が判らず首を傾げる少女に、すっと自然に男が唇を重ねてきた。
 温かい唇の感触に全身が固まる少女をそのままに、男が何度か柔らかく唇を重ねた後、腰に回していた手で滑らせ、抱き締める。珈琲の味のする舌がそっと口内に差し入れ、愛しげに柔らかく口内粘膜を舐り回され、少女は大きく瞳を見開く。
 ずっと憧れてきた医師との接吻だった。どの様に抱き締め、どの様に唇を重ねるのか、何度も想像しては溜め息を繰り返してきたそれに少女の頭が真っ白になる。その間にも柔らかく抱き締める医師の腕に更に引き寄せられるがままに、少女の身体は接吻の相手へと重なっていく。いつもの巧みとしか言い様のない恍惚とさせそればかりに引きずり込み意識を奪う舌遣いとは異なる、優しげでゆっくりとした舌の動きに戸惑い、やがて少女は無防備に男の求めるままに唇と舌を重ねていく。
 静かな居間に詰まり蕩けた甘い吐息と唾液を乗せて舌を絡ませ合う音と、男の腕に抱かれている少女が身動ぎする微かな衣擦れの音が籠もる。
 夢に似た恍惚感と同時に胸を刺す様な痛みがはしり少女は僅かに身を引く。この接吻は勘違いであって自分に向けられたものではない…医師は昔結婚を前提として付き合った女性がいて、その人物と間違われているのだろうか?その人を相手にする時はこんなに優しく柔らかく抱き接吻をするのだろうか。
 ねっとりと糸を引いて離れた唇の唾液を指先で拭う医師が怪訝そうに少女を覗き込む。
「そんなに泣きそうな顔をするな。記憶喪失と言っても…極短い期間のものだろうし、焦って治せる類でもあるまい。君が憂う必要はない」男の言葉に少女は別の意味で泣きそうになる。何日分何年分の記憶がないのか判らないが、冷静で客観的な部分は変わらないらしい。「――いやどちらかと言えば記憶喪失になっている俺を安心させようと考えてくれてもいいのではあるまいか?」
「……。はい?」
 何年前の医師なのだろうか何処か悪戯っぽく覗き込み頬や額に唇を重ねてくる男に、少女は首を傾げる。
「まるで赤の他人の様に無反応なのではなく、抱き返すなり抱き締めるなりで俺を慰めようとは思わないのか?」
 その言葉を聞き暫し意味を考えた少女は一気に顔を赤くしてしまう。妻だと勘違いをしている医師に付け込み接吻をしてしまった罪悪感はあっても、自分から何かをしてしまおうとは考えていなかった少女は一瞬恥じらい、そして困惑する。冷静な分析が出来る人でもやはり記憶が欠ける事は恐ろしいのかもしれない。そして自分を妻だと勘違いしてしまったからには正しい奥方の記憶はないのだろう…そもそも医師が未婚だと確認もしていないし、もしかして過去に離婚や死別している可能性もある。それにあの看護婦と既に恋仲である可能性もあった。
 だが、今医師は自分に慰めを求めている。
 本来抱き締めるべき相手が存在しているとしても、記憶を失った医師にとっては今のこの誤解の方が正しくなってしまう。それは医師を穢す事に他ならない。だが、ならば看護婦を呼ぶべきなのだろうか?でもまだ医師と看護婦が出会う前の状態だとすれば?
「それとも、安心させるに値しない男なのか?」
 口の端を歪める嗤いはいつものものでありながらどこか痛々しく思え、暫し戸惑った後、少女はそっと腕を伸ばし医師の身体を抱き締める。
「あ…あの…、本当は、私は妻ではないのです…。でも…、ですが、あの……元気を出して欲しいと、願っては…いけませんか……?」
「妻以外…? 恋人か許婚か…それでも君が俺にとって特別である事に変わりはない」
 やや驚いた様な呟きに続いた医師の迷いを感じさせない声に、少女の瞳から涙が溢れた。
 抱き締めている医師の逞しさに胸が高鳴り締め付けられる少女の唇に唇が重なり、優しげな接吻が徐々に熱を帯び、やがて深く重ね舌を捩じ込まれる淫らなものへと変わっていく。強く抱き締め激しく身体を弄るその手が助けを求めている様で、少女は背中に回している手を解く機会を失い、身体を重ねたままソファの上に倒される。何故医師は自分を特別などと言ってしまうのだろう。記憶のない状態での藁をも掴む不安がそうさせているのだろうか。愛し合う男女の様な濃厚な接吻を浴びせる様に繰り返す男に身体中が蕩けそうになりながら、少し待って欲しいと精神が悲鳴をあげる。
「これは俺が付けたものだろう?」
「は…ぃ……」
「妻かどうかはさておき、君は俺のものに間違いないらしい」
 ぐいと押し下げた総レースのブラジャーに中途半端に隠されていた幾つもの唇の跡に男が嗤う。常の気難しげな皮肉な嗤いに近いが記憶の足りない年数分かどこか屈託がない。今目の前の人物は何歳位なのだろう、自分とは何歳違いなのだろうか…手を伸ばせば届いてくれるのではないかと思える思いがけない表情に、少女の唇が揺れる。
 今の医師はもしかしたら自分のみを愛してくれる存在なのかもしれない。妻だと誤解して、誤解が解けてもまだ自分が医師のものだと囁き、そして抱き締め、唇を重ね貪り……。
「泣くな。君に泣かれるのは、思いの外堪える」唾液の糸を引き荒く乱れた呼吸を互いに繰り返しながら、医師が苦く笑う。 「――どう愛した?いつも泣かせるのか? ……。それでも、君は俺を慕うのか?」
 すっと医師の手がコーヒーカップを手に取り、少女へと差し出した。
 医師を抱き締める腕を解く事を暫し躊躇った後、それを受け取った少女は僅かに離した身から消えていく男の胸板の温もりに胸の痛みを覚える。
「これが当たって記憶を失ったのならば、もう一度打ってみるか。記憶が戻るかもしれない」
 冷静な分析と比べるとかなり乱暴な提案をしながら男は目を細める。
 随分と乱暴な提案だが、記憶が失われた状態では医師が困るのは確実だった…少なくとも明日からの仕事には支障が出るだろう。記憶がないのならば休みを取れるのだろうか?以前に大学病院からの転勤や出向はあると聞いているから欠員を埋める事は不可能ではないかもしれないが、それは医師にとって不本意だろう。記憶を失っている間の行動は戻った記憶と繋がるのだろうか?今の接吻は医師の中に残るのだろうか?今の医師に甘えてしまい続けるのは恐らく無理で…いや、騙し続けるのが辛いのだ。あの看護婦の存在を隠して医師に求められる事は許されない。
「……。あの…、一つだけ、知っておいていただけますか……?」
 掌に乗せられた空のコーヒーカップを見つめた後、少女は薄く笑って自分を見る男に向き、小さく唇を動かす。

END
FAF201904082258

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