2019エイプリルフール週間『Forget me not』

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 ゴンといい音を立ててコーヒーカップが少女の頭にぶつかった。
「……。平気か?」
 テーブルの上で倒れていたコーヒーカップが落下しただけなのだから大した事はないだろうと思いながら、男は少女の胸から顔を上げ白い額を指でなぞる。
「……。?」
 不思議そうに男を見つめる少女の瞳が何かおかしい。その違和感の正体を暫し見つめ合った後に男は気付く。目を逸らさない。いつも一瞬目があっただけで赤面して俯く少女が、何故か目を逸らさない。まるで子供の様にあどけなく大きな瞳を自分に向ける少女に覆い被さったまま男は僅かに困惑する。
「瑞穂?」
「みず…ほ?」
 初めて耳にした言葉の様に不思議そうに鸚鵡返しに呟く少女が小首を傾げた。やや舌足らずな発音は幼げでどこか別人の様だが、今まで少女の身体を弄んでいた男は少女が別人でないのは当然判っている。状況が判らないかの様にきょろきょろと見回す少女に直前までの劣情を殺がれ、男はそっと少女を抱き起こしつつソファに座り、半脱ぎ状態の華奢な身体を膝の上に横抱きに乗せる。
 漸く自分の姿に気付いたのか赤面して身を縮込まらせる少女にやや調子が狂うのを感じ、男は少女の頤に指を添えた。
「?」
 不思議そうに瞬きをする少女が寝呆けているのではないかと思いながら顔を寄せてみるが、やはり反応はぼんやりとしている。
「舌を出せ」
 男の言葉に少女がした仕草は、恥じらいながら瞳を伏せそっと舌を差し出す常のものではなく、子供が内科医に指示されて舌を出す無邪気なそれであった。

 信じ難い事だが、現在少女の記憶は殆どないに等しいらしい。そうは言っても乳幼児程度ではなく幼稚園児かそれよりはマシと言った所だろうか?基本的な資質がよいのか躾の悪さに目も当てられない事態は回避出来ているのだけは救いだった。男の部屋にはブラックコーヒーか酒しかない為、男の膝の上で白湯をこくんと飲んでいる少女が少しはにかんだ笑みを浮かべた。
 頭部の衝撃で記憶の混乱を来しているとなれば病院へ連れて行きたくもなるが、元凶はたかがコーヒーカップである。しかも外泊許可で外出している少女が医者の部屋で頭を打ったなどと報告すれば問題になる…元より仮の宿、少女の身に何かがあるのならば男としては覚悟を決めるのは吝かではない。だが……。
 男の視線に気づいた少女がにこっと微笑む。
 どうやらこの少女…まさに少女は、男に懐いているらしい。
 子犬ならば尻尾を振るのではないかと思える程無防備に膝の上でリラックスし、目が合うと微笑む。常の恥じらいはやはりどこか残っている所が、男には可笑しい。
「何だ?」
 白湯の入ったコーヒーカップと男の顔を交互に見て少し物言いたげな姿に頭を撫でられ少女が恥ずかしげに大きな瞳を細める。幼児退行をしていてもなお愛らしい笑みは些か無防備が過ぎていた。これが精神年齢相応の幼女ならばもしかして父親の気分を味わえたのかもしれないが、男の目には寝呆けているか酔っているかの悪戯と映ってしまう。
「俺はお前の父親ではないぞ」
 男の言葉に暫し小首を傾げていた少女がコーヒーカップをテーブルの上に置き、そっと指で男の頬に触れてくる。その表情は無防備で、まるで信頼している様な幸福そうな笑みに少女の頬を撫でる男に、猫か犬が懐く様に手に頬を柔らかく擦りつけてきた。愛玩動物と言うのはこうなのだろうか、滑らかな毛並みと細い肢体の綺麗な生き物が素直に懐いてくるこそばゆさに男は目を細め、そして薄く笑う。何歳の瑞穂なのだろう。元から男と女の事柄に疎い少女だったが、今は社交辞令すらない。いや白湯を渡した時に嬉しそうに会釈をしたのだから最低限の躾は出来てるのだろうが…そう、演技はない。ましてや、嘘など。
 晩秋の柔らかな日差しが少女を照らす。漆黒の髪が白金の光を蓄え、白い肌の細く気付かぬ程の産毛が柔らかに光る。微笑む。元からやや内気だったのか、言葉少なだがとても穏やかに、柔らかに、微笑む。目を逸らさないで男に向けられる笑みの純粋さに、男は時折動きが止まる。
「俺は、お前にとって、何だ?」
 男の問いに、少女が不思議そうに小首を傾げた。何の説明もされず見ず知らずの男の膝に乗せられ恐がりもしないこの子供は肝が据わっているのか、警戒心が芽生える前なのか。――だが身体は十七歳の少女のものである。直前まで男が弄び、弄ばれて甘く喘いでいた身体は、変わらない。
 もしもこのまま退行が治らなければどうすべきなのだろうか。不安げな様子を微塵も感じさせない少女に、男はほろ苦く笑う。
「お前は怖くはないのか」
 いつも何かを遠慮している様な一歩引いている様からは想像も付かない、まるで父親の腕の中の赤子の様に安らいだ顔の少女がきゅっと首にしがみついてきた。甘い花の香りが鼻孔から肺の奥にまで染み渡り、温かな身体の感触に男は暫し動きを忘れる。細い非力な腕が絡み付いている…それだけで、何故か思考が固まった。
 何故それほど幸せそうなのか、何故警戒をしないのか判らない。いつものどこか悲しげな顔は何故なのか、今の少女を問い詰めても無駄だと判っていても、ぽつりと浮かび上がったもどかしい衝動が膨らんでいく。もしもこのまま戻らなければ……。
「……。俺は」
 怖がらせたくはないのか華奢な身体をそっと抱き締める男に、少女が頬を擦り寄せる。肩も腕も骨格全体が細い少女の頬の柔らかさと温かさに、自分が脆い硝子細工を抱いている錯覚が男を襲う。元に戻ればこの状態を忘れるのだろうか、無条件の好意を寄せられているのは今だけで、また触れるのも躊躇われる存在にされるのだろうか…いや男に触れられない貞淑さは嫌いではない、だがこの手や頬の温かさを知った後では物足りなくなる気がした。いやそもそもこの状況が仮初めなのだ。この温かさも、微笑みも。
「?」
 ソファの上から床の上に組み伏した少女が不思議そうに男を見上げてくる。あの少女ですら男女の行為に疎いのだから、今の少女ではこれから自分がしようとしている事など何一つ判らないだろう。だが試してみたい。最後までこの手は自分へ差し伸べられ続けるのか、離れずに、求められるのか。
 床の上で何度か瞬きを繰り返した後、少女がふわりと微笑んだ。じゃれあいのつもりなのか、首に腕を回して抱きついてくる少女を軽く剥がし、男は少女の頤に指を当てる。
 そこにコーヒーカップが落ちてきた。

END
FAF201904062149

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