2018梅雨時リハビリ『Overreach oneself』

表TOP 裏TOP 裏NOV BBS

 幽霊を見た、と思った。
 何度目の転校だろう、小学四年にしては諦めのいい僕は学校への挨拶の後、父の運転する車で家へと帰る所だった。麗らかな日差しの降り注ぐ閑静な住宅街には緩やかな風が吹いていて、時折どこからか桜の花びらが舞い降りてくる。今度の学校はどんな感じだろうか、不安がないと言えば嘘になるが、そんな事を気にしていたら身が持たない。親の転勤に反対する程の拘りを持つには執着心が足りないのかもしれない。天秤に掛ければ自ずと結果は見えてくる。その場その場で楽しめばいいだけだった。『さよならだけが人生だ』。自分ながらに可愛げのない子供だろう。泣いて寂しがった同級生の子の顔が脳裏に浮かんで、そして、消える。
 ふと視線を動かした先に、その子がいた。
 同い年位だろうか、淡い山吹色のワンピース姿に胸元までのココア色の豊かな髪、遠目で判りにくいけれど整った顔立ちは温かそうで柔らかそうで可愛らしく…そして、虚ろな瞳と、首の包帯。並木道と交差する形の広い散策路の桜の木の根元に腰を下ろしているその子をゆっくりと静かに埋めていく様に、桜の花びらが降っていく。
 見てはいけないものを見た気がして、だが僕はその子の手を掴んで引き寄せたい衝動に駆られた。胸が一瞬でざわついて、鼓動が速まる。昼日中に幽霊とか映画や小説でもあるまい。だが、その子は…まるでもう存在しない愛しむべき過去の残映の様だった。遥か遠い昔の写真の中の笑顔の様な、手の触れられない相手。脇にあるランドセルからして恐らく近くの、今先刻挨拶に行った学校の生徒だとして、まだ授業中なのにその子は何故ここに居るのだろう。手を掴んで、そうしたらどんな反応をするのだろう、驚いた顔で僕を見上げるのだろうか。それとも掴んだ筈の手がすり抜けるのだろうか。
「父さん、車止めて」
 ほんの数秒がとても長かった気がした。
「どうした?」
「散歩して帰る」
 適当過ぎる説明でも息子の地理感を信頼して車を止めてくれた父親へのお礼もそこそこに、僕はその子のいた場所へと走り出す。
 桜の花びらがひらひらと舞う。淡い、あわい、白に近い花の色。まるでスローモーションの様でいて、捉えられない動きの欠片が緩い風の中で舞う。どんな声なのだろうか。手は温かいのだろうか、冷たいのだろうか。どんな顔で僕を見るのだろうか。一瞬でも早く、会いたい。消えてしまいそうで。
 そして散策路への角を曲がった瞬間、僕は見た。
 桜の降る中、その子を抱えている長身の学生服。高校生位の、すっとした立ち姿に穏やかそうで頭も良さげで…それでいてぞくりと寒気を感じる存在が、桜の木の下に居た。上着は丈が短く身体にフィットしたシンプルな学生服。腕にランドセルを掛けその子を大切そうに抱えている横顔は穏やかなのに、僕が連想したには、罪人だった。幼女誘拐の現行犯でなく、幽霊と、それに取り憑かれた…もしくはその子を殺した犯人。
「……」
 想像力過多だと自分でも思う。でも直感が嫌な位に当たるのも知っている。――桜の下で、そいつの口元がゆっくりと動き、目が細まる…穏やかな笑み、の筈の表情だが、それはとても幸せそうではなかった。疲れた様な、しかし安堵の表情。桜舞い散る麗らかな春の日差しの中で、墨の様な黒い服と髪の男が、その子を抱えながら微笑む。
 穏やかな光景の筈のそれは、まるで……。

 転校してからの僕は毎日の様に苛立っていた。
 ご都合主義のドラマの様にその子と教室で再会出来た僕は、首元を隠す服装のその子の笑顔を毎日目にする事となる。よく笑う。大笑いではなくふにゃっとした柔らかな笑みを浮かべて、あと少し鈍くさい。成績はいい方で、声も可愛い。アイドル系ではない癒し系。多分、その子を憎からず思っている奴が三人いる。友達もいる。
 それなのに、何で泣いているのだろう。ぱっと見は朗らかにのんびりと笑っているのに、泣いているのが重なって頭の芯がどくどくと鳴る。苛められてはいない。多分人並みの幸せを体現している様な、平凡で大いに結構な日常なのに、笑顔のすぐ下で、泣いている。何で周りは気付いてやれないんだろうか、それとも僕が強烈な第一印象で妄想しているだけなんだろうか。――それでもまるで犬の嗅覚が嗅ぎ取る様に、感じてしまう。その子の、悲鳴を。
 あの学生服の事はすぐに判った。その子のお隣の面倒見のいいお兄ちゃん…見栄えの良さとまるでお姫様の様に扱う所からクラスの女子の間では高評価で、ロリコンのヤバい人物という冷静な判断は期待出来ないらしい。この小学校の卒業生で成績優秀温厚篤実と先生方のウケも良くやや特別視されている。まったく大人も子供も皆冷静に考えよう、彼は恐らくロリコンだ。そんな冗談はさておき、第一印象の危うさは僕の中から消えてはいない。
 転校を繰り返している僕を案じて、両親と親類が勉強にだけはとにかく注力してくれたお陰で授業で苦労する事はない。教室の窓際一番後ろの席からは校庭をよく見下ろせる。ここ数日雨が降らず乾いたグラウンドには珍しく体育の授業の生徒もなく、スプリンクラーが水を撒いていた。そして、教室内へと視線を巡らせると、その子が見える。
 素材的には悪くない。いや造形的にはかなりいい。それでも美少女と押し出し強く感じないのは表面的に漂うほんわりと柔らかで暢気な空気のせいだろうか。口を閉じていても漂う平凡な幸せ臭。あの桜の下での姿が嘘の様な…ドン引きする位に環境の異なる双子の姉か何かが居ると考えた方が自然かもしれない。

「……君、帰らないの?下校時間だよ」
 不意にかけられた声に首を巡らせると、その子が居た。
 普段は友達と一緒に帰宅するが、週一で図書室にずっと残っていると判り、何となく密かに見ていたのだがいつの間にか眠っていたらしい。
「すごいね。英語の本読めるの?」
「え、あ……ああ。まだたまに辞書いるけどね」
 わざわざ洋書を買うのがもったいないと親の本棚から借りているペーパーバックの推理小説を鞄に仕舞いながら見回すと、図書室には他には誰もいない。日の沈む直前の茜色の日差しが低い角度から差し込み、古い紙の臭いの漂う図書室は金と赤銅色に染まっていた。ココア色の髪が綺麗に光を弾き、さらりと肩先から流れる。シャンプーの匂いか、とても甘い桃の香り。
「そっちは何読んでた?」
 妙に気恥ずかしくなり鞄を背負った僕は、彼女の抱えている本へ視線を向ける。少し前にハリウッド映画化した児童小説辺りかと思いきや、料理の本。実に平凡で家庭的。
「お婆ちゃんの誕生日が近いからケーキ作ってあげたいの」
「ふぅん」
 家庭も平和らしい。ならば、何故。
 実用書の棚に本を戻す彼女とぽつりぽつりと雑談を交わしていると、不思議な違和感を覚えた。柔らかであどけない物腰なのにどこか子供らしくない…いや子供っぽいのだが、大人に囲まれてばかりで同年代とあまり遊んでいない子供特有の落ち着きがある。自分もそうなのだが、もう少し落ち着きがなくてもいいのではなかろうか。転校生に気遣っているのか美味しい和菓子屋の話もどこか年寄り臭い。洒落た喫茶店や洋菓子の方が嬉しい年頃だよな、と彼女を見た瞬間、僕はそれに気付いた。
 不意に立ち止まった僕に、彼女は不思議そうに小首を傾げる。髪と同じ甘そうなココア色の大きな瞳と柔らかそうな唇と可愛らしい表情に、強烈な違和感の、それ。
「どうしたの……?」
 僕は指を伸ばす。細くて折れそうな首を包む白い柔らかな薄いカットソーの縁に指を掛け、そして下ろす。
 赤黒い、指の痕。
 子供の手ではなく、だが成人男性の手にしては華奢なもので、締め付けないと出来ない、悪ふざけなどではなく、本気で、殺そうとしないと付かないレベルの、はっきりとした手の形の痣。絞殺、いや扼頸。こめかみの辺りがどくんと大きく脈打つ。いつ? 赤黒いと言っても少しは色褪せているだろうか?いや僕は推理小説や映画が好きでも実際の鑑定など出来ない。誰が? こめかみで鳴る脈が全身を揺さぶり、血の気が引いていく。義憤。あの日見た首の包帯。いつも首が隠れる服装。金色の図書室の中、凍り付いている彼女は呼吸すら忘れた作り物の様で…柔らかな空気を失った彼女は、あの桜の木の下よりも鮮明で……。
 まるで桜の花びらみたいに、砕け散って落ちていく最中の無数の硝子片の様に、綺麗だった。

 指先が当たっている綺麗な肌の温もりが嘘の様で、僕は彼女を確かめたくなる。――抱き締めたい。小さな頃に親に抱き付いた気恥ずかしい甘えの記憶とは異なる衝動。意識の片隅でこれが同級生の男子なら同じ様に友情やら同情で抱き締めたくなるものなのだろうかと疑問が浮かぶ。ノーだ。この、柔らかそうで、いつも泣いている、この子だから、抱き締めたい。悲鳴をあげていい、泣いていい、堪えなくていい。柔らかな笑顔は嘘ではないのだろうけれど、泣いていると感じたそれが本当なら、泣く場所が必要だろう。
 ごくりと乾いた喉が動く。
 こんな場面で思い出したくない学生服の横顔。軽々と抱き上げている腕。僕とて男なのだから彼女を背負う事なら出来るだろうが、あんなに絵にはなりはしない…純然たる年齢差なのだから仕方ない。人より本を読んでいても落ち着いていると言われても所詮は小学四年生に変わりない。だからと言って、諦めるのは話が違う。
 気付けば、彼女を強く抱き締めていた。
 でも、何を言えばいい?
 それと同時に、予想外に細くて柔らかな身体と甘い匂いに僕は動転する。あれ?考えてみれば、女の子にキスされた事はあるけれど、こうやって自分から抱き締めたのは初めてかもしれない。何だ?この生き物は、その、柔らかくて、とんでもなく頼りない。そして、こんな弱そうな存在の…首を絞める暴挙に、全身の毛が逆立つ気がした。怒りと戸惑いが渦巻いて、思考力がゼロになる。考えよう。何を。児童相談所や警察など色々と頭に浮かぶけれど論理立てて考えられない。これが子供の限界か?いや言い訳したら絶対に後悔する気がする。
「話を、聞かせて欲しい…嫌じゃなければ」
 何があったのかを知らないと何も出来ない、いや余計な事をしてしまう恐れがあった。それは間違っていないだろう。焦りながら、彼女の為に出来る事を模索する。転校してきたばかりの同級生にこんな重い相談をする奴などいまいと思いながら、でもだったら気付きもしない友達とは何だ?と憤りもする。気付いていて触れない可能性もあるが、それは何だ?友情か?
 そっと、腕の力を緩めて顔を覗き込もうとした瞬間、彼女は腕をすり抜けて僕から逃げ出した。
 当然の反応だと頭のどこかで思いながら、僕は彼女の後を追う。ストーカーみたいだ。瞬足とは言い難い危なっかしい後ろ姿を見失わない様に、でも追い付かない様に走る。拒絶されたのはショックでもだからと放っておける筈がない。
 あの日の首の包帯…外傷でないのに首にわざわざ包帯を巻く必要はない。今見た限り手の痕だけで怪我はなく、隠すだけならばここ数日みたいにハイネックな服で首を隠すのが普通だろう。だとしたらあの日は何故?首を絞められた当日…例えば病院の帰り?他に何か傷があるのか、既に警察沙汰になっているのか?それを僕はずけずけと踏み込もうとしているのか?でも、放っておくには彼女はあまりにも痛々しくて、可愛らしくて。

 金と茜色に染まった閑静な住宅街の並木道で、不意に彼女の足がそれまでより速くなる。まるで散歩の最後に家を見つけた子犬の様な一直線の駆け足に、何故か僕はどきりとしながら後を追う。軽やかに揺れるスカートと弾むココア色の髪。
 一直線に、一直線に、彼女はそいつにしがみつく。黒い学生服と髪が淡く金色を反射する長身の男。彼女が飛び込んで来るのが日常の当然の様に軽く身を屈め、そのまま抱き上げる自然な動き。まるで小さな子供の様に首にしがみつく彼女を抱き締め優しく頭を撫でるそいつの顔はとても穏やかで心配そうで、見ていると胸の深い場所に苦く熱い胃液みたいなものが溜まる不愉快な感覚がした。あまりにも自然で滑らかで、誰も割り込めない完成品な光景。何故か今過る、甘いあまい桃の匂い。
 そして、そいつが立ち尽くしている僕を見た。
 頭の良さそうな整った顔立ちで同級生の女子の王子様扱いも何となく判る。仕草も落ち着いていて例え本性がロリコンでも教師陣が大目に見るのも判らなくもない優等生らしさと……。
 笑っていない目。
 表情は穏やかなまま、彼女が逃げてきた方向にいる僕にその目は問いかけている。彼女に何かしたのか?と。
 こちらに敵意などない。逆に僕は彼女を守りたいのであって、でも、彼女の首の痕に無造作に踏み込んだのは僕だった。彼女が逃げたのも、僕からだった。安易に踏み込んではいけない問題だろうし、僕はまだ小学四年の子供でしかない。だからと言って、だから何だと言うんだろうか。泣いてるのに、いつも、泣いているのに。
「四年二組、川根啓です」
 僕は名乗る。彼女にとってこいつが守護者でもシェルターでも宝物を守る竜でも、二十四時間守れないなら、泣かす隙があるなら、泣かす原因が他にあるなら、泣くのを止められないなら、怯んでなどいられない。
 殺意すら感じる冷たい目が意外そうに軽く開かれ、そしてそいつは微笑んだ。殺害対象から小さな虫への昇格、いや降格か?
「誠陵学院大附属第一高校三年A組、久邇貴柾」
 穏やかそうな滑らかないい声が応える。子供だからと揶揄っていない、相手に向き合う口調だが、小学生でも知っている超難関校をさらりと自己紹介する圧力が半端ない。確かにこれは先生受けがいいだろう、末は高級官僚か犯罪者。
 ぴくっと敵の腕の中で彼女が動いた。何があったのかとそいつの顔からこちらへと視線を巡らせ……。
 可愛かった。逃げ出した時はあの無機質な人形の様な綺麗な顔が、いつから泣いていたのか、教室での笑顔と重なる悲痛な泣き顔でなく、無防備で温かな涙を容赦なく零す幼児の様な、見た者に無条件な庇護を余儀なくさせる卑怯なまでの可憐な泣き顔。大粒の涙と染まった頬と柔らかそうな唇と濡れた綺麗な瞳。
 思わず棒立ちになる僕など眼中にない仕草でぽんぽんと彼女の背をあやす様に軽く叩き、後頭部を撫でつつその泣き顔を肩に埋もらせ、軽く頭を当てる。愛しげな仕草。一瞬だけそいつは僕を見た。
「さぁ帰ろう」
 何か語りかけるでもなく逸れる視線。もう意識にすら残されていないのだろう。くるりと踵を返して歩き出す長身。肩幅の広い均整のとれた身体。足が長い。年の離れた兄妹に見えなくもないし、気合いの入ったロリコンには見えない真っ当そうな優等生の安心感が大きい。だが待て先刻の目は絶対にヤバい奴だった。
 金色に染まる並木道でしばし後ろ姿を見ていた僕は、敗北感とは異なる疲労と奇妙な高揚感にその場に座り込みたくなる。行儀悪く胡座を掻いて頭を掻き毟りたい衝動を堪えながら、息を吸う。
「やば……」
 何なのだろうこの感覚は。もう完全に勝てない気分がするのに闘争心が激しく脈打ち叫びたくなる。何に勝ちたいのか判らない、何をしたいのかも…いやそれだけは判っているかもしれない。いつもの笑顔と無表情とあの泣き顔。おかしいだろう、笑顔が嘘や演技っておかしいだろう、まだ子供なのに…いやそれは思い上がりか、嘘や演技でなく本気で笑って、そして、多分壊れてる?いや壊れかけているのか?判らない。考えろ。自分に何が出来るか。今何が起きているか。
 座り込んでいる場合じゃない。
 きゅっと足を踏み締めて、前を見る。
 慌てず、急いで、正確に。まずは情報。学校からの情報では同級生でも住所も電話番号も判らないし、搦め手で外堀を埋めるのは数日かかる…それでは遅い。歩き去る背中がかなり小さくなったのを確認して、僕は歩き出す。これは確実にストーカーだと自認して心の中で親に手を合わせる。貴方がたの息子は目的の為に手段を選ばない人種でした。犯罪者も下衆な好奇心じゃないとか弁明するのだろうしどこが境界線か説き伏せる自信はない。
 でも、たった一つだけ判る。
 僕は、彼女の心からの笑顔を見たいんだ。

END
FAF201806172150

■御意見御感想御指摘等いただけますと助かります。■
評価=物語的>よかった/悪かった
メッセージ=

表TOP 裏TOP 裏NOV BBS