風鈴がちりんと涼しい音をたてた。もう九月に入ったから外さないとなと考えながら私は食器を洗っていた。
八月に引っ越してきた新居にはまだ馴染んでおらず、どこに何があるのかを把握しきっていない状態で臨時で家事を担当する事になった私はやや苦戦している。
また視線を感じる。
どちらかと言えば気配を察するのは上手でないタイプの私でも感じるのだから、よく見ているのだろう。シンクに向かっている私の身体をじっと観察、いや痛いくらい食い入る様に見ている視線の主は、今この家にいるもう一人の存在のものだった。――八月に出来たばかりの、私の義理の弟。
私の父は十年以上前に癌で死んでいてそれからは母が女手一つで私を育ててくれた。そんな母が仕事の取引先の男性と結婚する事になっても私は別に抵抗はなかった。大学二年ともなると母に依存したりとうに死んでいる父以外の男性と結婚する事に子供染みた反発をする事もなく、ただ新しい家族に馴染めるかが心配だったけれど、でもそれは時間が解決してくれるだろう。
「ふぅ……」
布巾で拭いた食器を棚に戻して私はエプロンを外してフックにかけた。
庭から聞こえてくる水音に視線を巡らせると、小さな庭に水を撒いている義弟の姿が見えた。雑種の犬がホースから迸る水に気持ちよさそうに戯れていて、困った様に制止させようとしている義弟の声は本気でなく楽しげである。私より二十センチも高い長身に、大学受験で半年はロクに身体を動かせなかったという事だけれどよく引き締まっている身体つきで格好いいと言ってもいいだろう。成績優秀で、品行方正とまではいかないけれど普通の男の子で、力仕事などは嫌な顔一つせずに引き受けてくれるし、気が利く上、父親譲りの割と整った顔をしている。義弟として迎えるには申し分のない人間だろう。
でも母子家庭だった私は、義父よりも家に一緒に居る時間の多い一歳差の義弟の存在に戸惑っていた。洗濯物で男性用の下着が混ざっていると一緒に洗うのに抵抗を覚えるまではいかなくても一瞬凍ってしまうし、畳んだそれをどう渡せばいいのかを迷ってしまう。義父の存在は年齢差があり過ぎて異性として意識する事はないけれど、一歳差というのは生々し過ぎた。多分、義弟もそうなのだろう。
それでも親が家にいる時はまだいい。
再婚というのもあって地味な結婚式をあげた二人が貯まっている有給休暇を消化して四日間の新婚旅行に出たのは、今朝だった。
バイトでもしておけばよかったかもしれない。新しい家族に馴染む必要と新居の整頓もあって雑務で慌ただしくなる事が予想出来ていたから、この夏は丸ごと予定を入れずにいた事を少し私は後悔していた。友達ならまだしも好きな音楽すら知らない義弟と二人きりでは時間を持て余してしまう、いや、同じ檻に入れられた犬に警戒している様な微妙な空気が家に漂っていて、緊張が続いてしまう。一人っ子の私には兄弟の接し方が判らないし、困った事にこの義弟は結構格好良くて…多分同級生などだったら少し気になる異性になっていただろう。でも所詮義弟である。
それなのに、その義弟の視線がやたらと絡みついてくる気がしてならない。
新居と言っても義父と義弟が昔から住み続けている家に私と母が引っ越してきた状態だから、この家には先住者の癖がついている。義父は好きな様に変えてしまっていいと言うけれど、食器などの位置一つをとっても新参者が変えてしまうのも躊躇われ、一つひとつ覚えていく道を母と私は選んだ。義父側は奥さんをなくして五年だというから、まだ思い出が生々しいかもしれないという妙な想像が積極的に変えていく事を避けさせる。
九月にしては暑い日で、窓から流れ込んでくる風が結構犬臭くて私はテラス窓に向かう。
「匠君、茶々洗おうか?」
「姉さん犬洗った事あるんだ?」
「まだないけど…でも覚えた方がいいでしょ?」
少しずつ義姉弟として距離を埋めないといけないから多少視線などが気になっても声をかけないといけない。それに距離があるから妙に気になってしまうのかもしれない。
「耳に水が入らない様にしないといけないのと、あとこいつすぐにじゃれついて力がいるから俺が後でやるよ」
「いいのいいの、私だって世話出来る様にならないとね」
「どちらかと言えば遊ばれてるからな」
「こらっ」
茶々というのは三歳の雑種犬で、ベースとしてシェパードだが他にいろいろ混ざっていて身体がかなり普通より大きく力もあり、散歩などでは私は引っ張られてしまう事が多い。その薄茶色の体毛は先刻からの水遊びでぐちゃぐちゃになっていて汚れが酷かった。私に飛びつきたくて仕方ないのか、リードの限界で首が引っ張られるまでこちらに身体を寄せて尻尾を振ってくれている姿は可愛いと言えなくもない。ちなみに茶々と言っても男の子で、まさにこの家は男所帯だった。
「じゃあ俺が洗うから一度それを見ていれば?」
「んー…それがいいかも」
シェパードというだけでも力のある犬種なのに更に巨大化している茶々が遊んで我を忘れると私は負けっぱなしになる。義弟や義父みたいに口の端に指を突っ込む様に抑えて叱るのはまだ勇気がいった。
前脚をあげると私の背中を簡単に倒してしまうその大きな身体をぐいと抱き上げる義弟に思わず私は拍手する。
「じゃあ風呂場で洗うから、姉さん犬用タオル出しておいてくれないか? 餌置き場の棚の上にあるから」
「はーい」
テラスから浴室への最短距離を歩く義弟の腕から少し身体を余らせながら、茶々が尻尾をばたばたと暴れさせて先刻の水を弾かせていた。後で廊下を拭かないといけないなと思いながらそれでも私は少し嬉しくなる。義弟と上手くやっていけそうな気がした。
母子家庭で淋しかった私にとって父子家庭だった義弟は同じ痛みが苦労が分かち合えるであろう存在で、今は戸惑いがあっても解り合って仲のよい義姉弟になれる気がする。今は視線が気になってしまっても、淋しい思いをしたであろう義弟にとってよい家族になってあげたかった。
広い浴室の洗い場に犬の鳴き声が反響する。それは悲鳴などの悲痛なものでなくてご機嫌な声だった。
「う…うるさい……」
「茶々、大人しくしろ」
ジーンズにTシャツ姿のまま茶々を洗っている義弟ですらシャワーを喜んでいる茶々には少し手を焼いているらしい。泡まみれになってもなお嬉しそうに暴れている大型犬の足音が浴室のタイルに硬い音をたてる。泡を振りまいている状態だから義弟も既に泡まみれになっていて、ジーンズもTシャツもずぶ濡れだった。
「水着着て洗った方がいいんじゃない?」
「いつもは自分もついでにシャワー浴びてるよ。――一応毎日風呂には入ってるから」
風呂嫌いで不潔だと誤解されたくなかったのか言葉を足す義弟に、私は思わず笑ってしまう。毎晩お風呂を沸かして順々に入っているのだから、お風呂をさぼっているかいないかなど判っているのにわざわざ説明する義弟が可愛いかった。もし本当に弟がいたらこんな感じに仲良くしているのだろうなと思うと少し楽しく思えてくる。いや実際楽しかった。
「何? 姉さん」
「え? ……。何て言うか、匠君とこうして話す事が出来て嬉しいな」
茶々を抱える様にして洗っている義弟を見つめながら、バスタブの縁に腰を下ろしたまま私は首を傾ける。
「ずっと母一人子一人だったから家族が出来れば嬉しいって思ってたけど、でも実際にお母さんが結婚するとなると私の夢とかそんな都合よくいかないかもしれなくて心配だったの。嫌われたら困るし、ぎくしゃくするのも嫌じゃない?」
「まぁ、ね」
私の話を笑いもせずに耳を傾けてくれる義弟が私は嬉しかった。大学一年の男の子なら私の夢や希望など鼻で笑われたり反抗されてもおかしくないだろうと最初身構えてしまっていた事が嘘の様である。
「お義父さんもいい人だし、お母さんがやっと幸せになれるから結婚を反対するつもりはまったくなかったの。でも私なんておまけがついているでしょう? 結婚の話を聞いてからずっと不安だった……」
「姉さんは俺や親父の事気に入った?」
「好きよ。……、う…ん。まだいろいろとは判っていないけれど現状では好き。とてもいい家族になれそう…あ、少し失礼な発言だったかしら」
今まで考え込んでいた事を一方的に話してしまっているのに気づき私は慌てて口に手を当てる。そんな私に義弟は少し大人っぽい苦笑いを浮かべていて、その表情をしている時の彼は私よりも年上に見えてしまうくらいでとても格好がいい。
「どんな家族が姉さんにとっては夢?」
「え…? うーん……今更皆で遊園地に行くのは変だけど…GWにどこか一緒にドライブ出来たり、初詣に行ったり、週末は買い物に行ったり……あ、何でそこで匠君笑うの?」
話の途中で少し吹き出した義弟に思わず私は唇を尖らせて睨み付ける。
「いや、微笑ましくていいんじゃない? でも姉さん、休みでデートに出かけて自分がいない可能性を考えていないんじゃないかい?」
「あ……そう言えばそうね…。匠君だってそういう年頃だものね…。折角の家族なのに互いに誰か見つけて結婚して出ていくまでか…何だか淋しい」
「別に嫁ぎ遅れてもいいよ」
「匠君ひどぉい」
「親はいつまでも娘が結婚しないと気を揉むだろうけど、折角手に入れた家族を満喫しないと損だろう?」
少し大人びた笑顔を浮かべる義弟に私は安堵して微笑みかえす。例の視線は気になるけれど、追い出したい対象というのでなければ恐らく自然と打ち解けていけるだろう。
「それなら、匠君の家族の夢は?」
私の問いに義弟はふいに視線を外してシャンプーの泡にまみている茶々を揉み洗い始めた。
「自立するまで一緒に居てもその後は冠婚葬祭とあとは年に数回会えば上出来なんだろうな…家族って言われても今更どう考えればいいのか判らないな、正直言って」
「……」
「老後の面倒は姉さんがみるのか俺がみるのか…一般的に長男としてなら俺になるけれど、実際に親の面倒をみて貰うかもしれない事を考えれば姉さんがこの家を継いでもいい気がする。そういった道理は、いろいろと浮かんでくる」
淡々と話す言葉に私は義弟をじっと見つめる。この家はそもそも義父と義弟の物なのだから私が継ぐなど想像もしておらず、その言葉と、年下の彼が将来まで考えている事に驚いてしまう。それは男の子だからなのだろうか。私がこの家を継いでいい筈がないのにその可能性まで考えてしまう義弟に感心すると同時に、家族への夢や希望でないそれに少し淋しくなる。
「私は匠君と仲良くしたいな……わ…ひゃっ!」
義弟に手を離された茶々が突然飛びついてきて、バスタブの端に腰をかけて眺めていた私は避ける事が出来ずにタイルに後頭部が勢いよく当たってしまった。そのまま凄い勢いで顔を舐め回す茶々のせわしない息が至近距離でかかってくる。
大型犬はおろか今までペットなど飼った試しのなかった私は茶々の躾や命令の仕方など判らなくて、恐らく飼い主の家族というより友達と思われているフシがあった。
「酷いー……」
「舐められてるなぁ」
もしかしてしんみりとしてしまったのを誤魔化してくれる為にけしかけたのだろうか、楽しげに笑う義弟は助けてくれる様子もなく、私が茶々に舐め回されるのを見ている。私の方が背が高くても茶々の力には到底敵わなくてはね除ける事など出来ず、義弟と仲良くなる事よりも茶々に命令する方が難しいのかもしれない。力がなくても命令するコツはあるのだろうけれど、とりあえずはそれが判らない。
「匠君、笑っていないで助けて」
ほとんど水のシャワーを使っている状態の茶々の身体は冷えていて気持ちいいくらいだけれど、犬にのしかかられて逃げられない状態を義弟に見られているのは義姉として少し威厳を保てない。小学生前後ならばたった一歳差でも優越感に浸ろうとしてしまうのかもしれないと思いながら、身長も高い義弟には義妹扱いをされてしまいそうで何故か私は大人げなく必要以上に威張ろうとしてしまう。
「ついでに洗ってやれば? 姉さんも茶々洗いたいって言ってたし」
「……。そうね」
せめてTシャツにホットパンツくらいの格好で犬洗いはしたかったなと後悔しつつ、私はのしかかってくる茶々の身体に頭を洗う時の様に指を立てて洗い始めてみる。茶々の体毛はあまり柔らかくはなくて短い。どうせペットを洗うのならば可愛らしくて長毛種の子がよかったなとこのゴツい愛犬を撫でていると感じてしまう。脇腹から背中をわしわしと指先で洗っている私の手つきは上手な筈はないのに茶々は機嫌よさそうに顔をひたすら舐め回してくる。鎖骨の上に両前脚を乗せているから少し腕が動かしにくい。
私が難儀しているのをにやにやと笑って眺めている義弟の視線がたまに妙な感じになるのが気になるけれど、それよりも思ったより洗う面積が広くてすぐに私は疲れ始めてきてしまった。
「結構大変」
「そうだろう? ちなみにどれくらいの周期で洗うつもりだった?」
「二日に一回……」
「一週間に一回で十分だろ?」
「かもしれない。というか、無茶。チワワとか子犬なら出来たかも」
こんなに犬洗いが重労働だと知らなかったから臭わない様に出来るだけ頻繁に洗ってあげるべきだと考えていたが、こんなに大変なのを二日に一度のペースでしていたらとんでもない重労働になってしまうだろう。
「最初に拾った時は小さかったんだ、これでも。ずんずん大きくなるから犬小屋を二回も俺のバイト代で買い換えたんだ」
「匠君が拾ってきたの? やっぱり橋の下とか段ボール箱に入っていたの?」
「親父と二人で。……、墓参りの帰りに」
誰のお墓参りなのかは訊くまでもない気がして私は口を閉じる。こちらが訊いたから答えてくれたのが判っているから余計にどうしたらいいのかを迷ってしまう。
「いや、気にしないでおいて欲しい。……。姉さんや母さんの事は嫌じゃない。親父も男盛りだからやっぱり奥さんは欲しいだろうし、母さんは俺から見てもいい女性だと思う」
「あー、それなら私は?」
自分の母親の評価がどこかこそばゆくて話を逸らそうとした私は、義弟のあの視線を真っ正面から浴びて思わず身を縮こまらせかけて、そして初めて茶々の身体が両脚の間に割り込んでいてもの凄い体勢になっている事に気づく。どくんと頭の中で大きく脈打つ音が聞こえてきて頬が熱くなる。それにミニスカートの裾を持ち上げているのは茶々の牡犬の器官で、腰を振ってはいない筈だけれどせわしなく暴れているそれがいつの間にかたまに内腿の付け根や下着を擦っていた。
「いい女なんじゃないの? ――もう少し料理が大味でなければ」
「こらぁっ!」
後半で茶化してはくれたものの、前半の口調が妙に抑えて真剣なものに聞こえ、私の脈は乱れて簡単には治まってくれそうにない。口元を舐め回す茶々の舌が急に卑猥なものに思え引き離そうとするけれど、その大きな身体は私の力でははね除けられなかった。義弟の目には私はどんな姿に映っているのだろう、犬に抑え込まれて顔を容赦なく舐め回されて脚を開かされて…犬を何とか洗っている姿ではあるけれど、でも一度卑猥に感じてしまったそれは恥ずかしくてたまらない。
「茶々、お座り」
義弟の短くて鋭い命令に茶々の巨体が私の上から離れ、そしてタイルの上に座り込む。まだ名残惜しそうな目で義弟と私を交互に見る茶々の頭を撫でる彼の目は、私に向けられていた。
「姉さんついでにシャワー浴びておく? ずぶ濡れだし着替えるだろ」
あれ程押し返したのに退いてくれなかった茶々が渋々でも義弟の命令に従ったその主従関係の差にやや呆然としていた私は、その視線がめくれ上がっているミニスカートと濡れたシャツに注がれている事に気づいて慌てて膝を合わせる。
「で、でも茶々のシャンプーを流す方が先じゃないの? 私、出てようか」
「ついでにシャワー浴びる?」
「姉をからかうんじゃないの」
怒ってみるものの、茶々のシャンプーの泡にまみれている姿のまま脱衣所に出るのは躊躇われ、私は腿の上に手を突いて何気なく胸元を隠す。茶々に舐め回された顔に塗りつけられた唾液が急に気になってしまっていた私に、義弟がシャワーの水流を横に向けてくれた。
「顔洗う?」
「ありがとう」
ぬるい水で何度も顔を洗いながらこっそりと盗み見た義弟の視線は、私の身体に容赦なく注がれている。その視線は中学生や高校生の子供の様な興奮しきった感じでなく、だからこそより一層私の羞恥心を煽り立てた。一ヶ月前に急に家族になった一歳年上の女を姉と考えるのは難しいのだろうか…私と同じ様に。
「夏休みなのに出かけないの?」
「それ言ったら姉さんもデートとか行かないで家で燻ってるだろう?」
「残念でした。引っ越し荷物の整頓とかまだ済んでいないから母さん達の旅行中に少しでも片付けておきたいの。それ言ったらそっちは?」
「こっちも男手一つだったから彼女なんて作る暇なかった。今後は少しは楽をさせて貰うからよろしく」
あまり目の毒になりそうな服装はやめておこうと考えながら、そんな視線に戸惑い動悸が激しくなり身体が火照っていく自分を私は持て余していた。再婚した両親はまさか子供が相手の子供を変な目で見てしまう事など望んでいないだろう。
「じゃ、お先に」
茶々にシャワーを浴びせてタオルで大雑把に拭いた後、軽く腕とジーンズと足を拭った義弟が浴室から出ていってしばらく待ってから、私は給湯温度を少しあげて濡れたミニスカートに手をかけた。
思春期の男の子のいる家というのは部屋に鍵がついているものなのだろうか、新居には鍵がついているドアが二つある。一つは義弟の、もう一つは両親の寝室だった。簡単な内鍵ではなくてドアノブに鍵穴がついている本格的なタイプである。以前は客間だったらしい私の部屋には鍵はついておらず、何だか一人だけ不用心の様な味噌っかすにされている様な感じがしなくもない。
畳んだ洗濯物を手に義弟の部屋のドアをノックしたけれど返事がなく、私はしばし迷う。わざわざ階下のリビングに洗濯物を置きに行くのは他人行儀な気がして、でもそれなりの年齢の男の子の部屋に勝手に踏み込むのは許されない、そんな警告が頭の中で瞬いていた。普通の姉弟ならばどうするのだろう。鍵付の部屋というのは人を拒んでいる様で、それがどこか歯痒い。
もしも鍵が空いていれば机の上にぱっと置いてくればいいだろう、そう考えるまでしばらく時間がかかった。鍵がかかっている事を期待している私の手は、だがあっさりとドアノブを回してしまえた。
まだ雨戸を閉めていない部屋には西日が射し込んでいて少し薄暗い。掃除も自分でしているらしいので治外法権になっている義弟の部屋に初めて踏み込んだ私は、かすかに漂う義弟のにおいに反射的に息を詰まらせてしまう。男臭いという負に感じる程ではないのに女性の部屋とは異なる男性の部屋特有のにおいはあの視線を思い出させた。
少し肩を縮こまらせながら足早に机に向かった私の目に、本棚が映る。有名な工業大学に進学しただけあって技術系の本や雑誌が並んでいる本棚には少年マンガなども混ざっていて少し微笑ましい。義父側とは異なり収入面の都合上あまり物のない私の部屋と比べれば雑然としているが、それでもそれなりに整頓してあって義弟の部屋は確かにわざわざ踏み込んで掃除をする必要はなさそうだった。
見回してはいけないと思いながらもつい見てしまう私の爪先が何かを蹴ってしまったらしく足下で音がした。
洗濯物を机の上に置いて床を見回した私はベッドの近くに転げている小さな精密ドライバーを見つけて手を伸ばし、そしてその奥に何かがあるのを見つける。まずいなと思いながら精密ドライバーを拾った私は更に指を伸ばし、そして予想通りの物をベッドの下から引っぱり出してしまっていた。それは、卑猥なグラビア雑誌だった。
そのまま元の位置に戻しておかなければいけないと思いながら、話には聞いていたけれど見た事のなかった雑誌のページを私はそっとめくってみる。ほとんど修正の入っていないそれは女性の性器をかなりはっきりと映し出していて、挑発的な表情でこちらを見ている女性の身体は女の私が見ても綺麗だったけれど…でもこちらが恥ずかしくなるくらいに大胆なポーズで脚を開いていた。次つぎにページをめくってみてもどれ一つとして抑えたものはなく、腰を突き出したり胸を自ら掬い上げてみたり凄い事になっていて見ているだけで頬が火照っていくのを感じてしまう。それもページを追う事に過激さが増していき、修正部分も徐々に小さくなっていってしまい性器を自ら指で開いているその周囲が映っている所にまでエスカレートしていく。自分のものすらまじまじとは観察した事がなくて、初めてじっくりと見るそれは生々しい肉の色をしていて、自分にもそんな場所があるとは思えない衝撃的な光景だった。
「……」
ぞくっと腰から背筋に甘い震えがはしって、私は雑誌を手にしたまま身じろぎする。こんな雑誌を義弟は読んでいるのだろうか。こんな写真で私の服の中を想像してあの目で見ているのだろうか。それにこういった雑誌の用途はほとんど決まっていて、ベッドの下という場所も私の想像を補強してしまう。でもこの雑誌はかなり新しいのか開き癖などもなく……。
「お客さん、立ち読みはご遠慮下さい」
「きゃ!」
不意に背後から声をかけられて跳ねた私の手から雑誌と精密ドライバーが落ち、フローリングの床の上で音をたてる。自分の行為の後ろめたさにぎくしゃくとした動きで振り向いた私の目に、ドアにもたれて腕を組んでいる義弟の姿が映った。
「駄目だよ姉さん、人の部屋を勝手に家捜ししちゃ」
「こ、これはドライバーが落ちてたのを拾って……」
落としてしまった雑誌を反射的にしゃがみ込んで拾い上げる私の背後に、義弟の気配がした。
「感想は?」
「……。何だか…身も蓋もないというか……あけっぴろげで……」
「風情がない?」
「そう、それ」変に絡まれてしまう事態から逃れられそうな雰囲気を崩すまいと私は上擦った声で同意する。「で、でも男の人はこういった大胆な構図の方が好きなのかもしれないものね、ほら、開放的というか恥ずかしがって隠していると仕事にならないだろうし」
「でもベッドの上だとこんなものなんじゃないかな」
「そんな事……」
ふと一年前の自分を思い出して一気に頭に血が昇ってのぼせた感覚になって私の語尾が消えてしまう。生活を助ける為に暇があればバイトか家事をしてはいるけれど、人並みの恋愛経験は私にもあった。でもごく一般的な相手とかなり切りつめている私では懐事情がだいぶ違っていて長続きはしなかったけれど。まぁ、遊園地に誘ってもほとんど断り続けてしまうし、ドライブでも割り勘に拘ってしまう結果短距離になってしまうのでは相手もつまらなかっただろうと諦める事は意外と難しくなかった。デートしていても財布の中身を気にしてしまう私にも問題があったのだから。
「姉さん、もしかしてした事ある?」
しばし昔を思い返していた私は至近距離で覗き込んでいる義弟に気づいて身を強張らせる。
「その質問には答えないでいいと思うんだけど」
「勝手に人の部屋を家捜しした仕返しだよ」
「……。少しだけだけどね」
鍵付きの部屋に勝手に入ってしまい、しかも隠してあった雑誌を読んでしまった非は認めないといけないだろう。私の答えに義弟はやや意外そうな顔をした。義姉として名誉挽回したい所だけれど今はばつが悪過ぎる。まさか両親にこの事を告げ口する程子供ではないだろうけれど、この件で嫌われるのは避けなければならなかった。
「勝手に入ってごめんなさい、本当に洗濯物届けにきただけだったの。で…本を見つけちゃって勝手に見たのは好奇心。本当にごめんなさい」
「本当にすまないと思う?」
「本当に許して欲しいと思ってる。――でも……」
義弟が多少駄々を捏ねても呑まないといけないとは思うけれど、でもあの視線を思い出すと警戒をしてしまう。何と言っても義理とはいえ姉弟の間柄なのだから性的な事だけは避けたかった…それは私の余計な危惧に越した事はなかった。おかしな色眼鏡で義弟を見て身構えてしまう自分を恥じるくらいであって欲しい。頭と胸の中でどくどくと脈が鳴って私の身体を揺さぶっていた。
「何を怖がってるのかな、和葉」
「や…、姉を呼び捨てにするなんて駄目でしょっ」
義弟に初めて呼び捨てにされて私は首を振る。的中させたくない予感が身体の中で膨らんで今にも弾けそうな焦りに義弟を見上げる事が出来ない。
「仲良くしたいと思ってるよ俺は。親の前でも、二人きりの時でもね」
あの視線が身体に絡みついてくるのを感じて私の肌がぴりぴりと緊張する。この感覚を私は覚えている。――前の彼と初めてホテルに行った時にお風呂から出た私を見るあの視線だった。浮ついた子供っぽい欲望でなく、女を品定めして見透かして絡め取る肉食獣の様な男の視線。それは義理であっても弟が姉に向けるべきものではなかった。
義弟の手が肩に触れる。
「姉弟なんだから……っ」
「そもそも疑問はそこなんだよ。血は繋がっていないから万が一子供が出来ても奇形が生まれる確率は一般の男女と変わらないし」
「や…だぁ……っ、匠君っ…嫌ぁっ」
身体を強張らせている私の身体をベッドの縁に強引に座り込ませる義弟に、私の全身から血の気が引いていく。緊張のし過ぎなのか軽い貧血の様な感覚で身体が崩れそうなのに、身体の芯が火照って疼いているのは先刻の雑誌のせいだろうか。
「春までお互いに知らなかったから当然姉弟の絆や道徳心もない。あるのは親が結婚した事実だけなのに、何で俺は和葉を抱けないんだろう?」
「法律でそうなってるから……っ、ん……ぷ…っ」
ぎしっと音をたててベッドが軋み、私の身体が押し倒されると同時に唇が重ねられた。男性経験は短期間の彼一人しかいなくてキスすら慣れてはいない私の唇を義弟が滅茶苦茶な激しさで貪る。彼自身キスには慣れていないのか、歯が擦りあってしまう慣れの欠片もないがむしゃらなキスなのに私の頭の中はそれだけで混乱して泣き出しそうになってしまう。義弟のキスは汚らしい印象のない清潔そうな歯磨きのにおいがして、それなのに舌も唾液も私を一方的に穢していく。
至近距離にある義弟とベッドのにおいは部屋に踏み込んだ時に嗅いだものよりもはっきりとしていて、何とか鼻で呼吸を繰り返す私の頭の中を侵して壊そうとする。
「和葉、チャンスをあげるよ。俺が和葉とセックスしてはいけない根本的な理由を説明して俺を納得させられたら、勝手に部屋に入った事も雑誌を見た事も許してあげよう。――でも出来なかったら…抱くよ」
ねっとりと唾液の糸を引いて少し顔を離した義弟の言葉を、乱れた呼吸を繰り返しながら私は真っ白になりかけた頭で何とか反芻してみた。
両親が悲しむから…いやこれは確かに悲しむけれどでもそれは親が義姉弟の仲を求めているからであって、親とて子供同士が所詮は他人同士である事は認識しているだろう。法律上結婚出来ないから…これもしっかりと避妊してのセックスならばいいのだろうか? そもそも結婚を前提に出来ない間柄の男女がセックスをする事は道徳に反しているけれど、その道徳は貞操観念などの話でそれは結婚せずに昔の彼氏とセックスをした事のある私が説く事は出来ない話だろう。考えれば考える程、その確固たる理由を見つけられずに私は無力感に襲われてしまう。
「気まぐれで…していい事じゃないから……」
学術的でない理由をようやく口にする私を、義弟が至近距離から見下ろして嗤った。
「嫌いだからじゃないのか」
「嫌いな筈ない…よ、義弟だから……」
「和葉は俺の事を義弟だって実感した事あるのかい?」
薄っぺらな理屈をあっさりと見抜かれ返され私は反論する事が出来なくて、そして彼がずっと私を義姉だと見てくれていない事を感じ取って更に逃げ道を断たれてしまう。愛し合って結婚した義父と母と違い、義理の姉弟など思い込もうとして理屈をつける事が出来なければ短期間で簡単にその絆など出来るものではない。ましてや相手に肉欲を憶えてしまったら反撥してしまうだけだろう。
「でもそんな事したら…、義姉弟として…やっていけなくなっちゃう…っ」
顔を逸らす私の頬に義弟が何度も口づける。その手がスカートをめくりあげ、下腹部に伸ばされる。
「血も繋がっていない赤の他人の同年代の男と女のスキンシップにセックスがあって何が悪いんだ? 義理の姉弟と言っても俺と和葉がスキンシップを図るのはいい事なんだろう?」
「セックスは気軽にしちゃいけないのっ…い…やあっ!」
ベッドに押し倒された時点で脚の間に片膝を割り込まれ無防備になっていた私の下腹部を、義弟の指が下着越しにぬるりと撫で上げた。雑誌を読んでしまった時よりも酷くなっているそのぬめりに私は義弟を突き放そうとするのに、体格差でそれは簡単に封じられてしまっていた…いや、抵抗する力は、何故か弱かった。
夕日が沈み欠けている薄暗闇の部屋の天井を背に、義弟が口の端をにやりと歪ませる。
「和葉、濡れてる」
「嫌……ぁっ…いや…っ、ん……く…ぷ……んむ……っ…あ……、ぁ……っ」
「一目惚れって言ったらどうする?」
首を振る私に二度目のキスをした後、不意に義弟が問いかけてきた。
下着の上から下腹部を弄ばれて何度もおかしな声が出そうになるのを堪える私は予想外の問いに反応出来ずに義弟を見る。びくびくと内腿が痙攣して義弟の指に身体が応えてしまう。昔の彼でなく義弟なのに、身体は与えられる快楽を得ていいものなのかいけないものなのかを区別する事が出来ない。
「確かに男子校に工大で女に縁が薄かったけど、これでも告白してくる女子はいたよ。でもどうしても欲しいって思う子はいなかった…和葉以外には。好みも親譲りなんだろうな、義母さんはいい人だと思ったけど、でも抱きたいとか感じたのは和葉だけだ」
「だ……駄目……っ…それ…だめぇ……っ」
私の胸の横に片肘を付きシャツのボタンを外していく義弟の言葉を耳に心地よく感じてしまうのが怖くて、私は何度も首を振る。
義弟の動きは慣れには程遠くて、本当に童貞なのかもしれないと私に感じさせるものだった。そして今更義姉弟になってしまった私達がどう交わっていけばいいのか彼を導くだけの力も理屈も私は持ち合わせておらず、拒むだけの理由を削られて逃げ場を失っていく。
まるで動物実験をする様に私の反応を探ってクリトリスを執拗に擦り続ける指に、乱れた呼吸を繰り返す口の端から混ざりあった唾液がとろりと溢れて涙が滲んでこぼれそうになる。もっと優しく撫でて欲しいのに加減が判らないらしく、びくびくと跳ねる私を更に義弟の指は責め立てる。痛いくらいなのにそれすら爪先まで痺れそうな淫らな刺激として受け取ってしまう自分の身体が信じられない。ぐちゃぐちゃに濡れた下着は既にお尻の方まで湿っていて、その腰を割り込んでいる膝が双丘の間にまで進んで持ち上げさせる。近くになった身体が跳ねるたびに義弟の腰の前の硬いこわばりが擦れて腰の奥から頭まで一気に恥ずかしさと疼きが電気の様に突き抜けていく。
今までの中で一番はっきりと義弟の望む事が伝わってくる。身体の昂ぶりが同調して、部屋を乱れた呼吸が満たして、そして唇を塞がれた鼻のかかった甘く淫らな鳴き声が私から漏れた。欲しいほしいと訴えてくる義弟の身体の熱さを受け止めたくなってしまうのは私が既にセックスを知ってしまっているからなのだろうか、それとも義弟が好きだからなのだろうか…それは世間一般の義姉としてなのか、遅れて出会ってしまった存在としてなのか。
スキンシップという言葉がのしかかってくる。身体が求めてきて、そして精神が身体の訴えに揺さぶられてその着地点を探し始めてしまう。もっと義弟を知りたい、仲良くしたい、触れたい、好きになりたいという事に嘘はなかった。――ただその手段と限度を制限する方法が私に見つけられないだけで。
義弟の指が私を追いつめる。加減のまだ掴めていない指が容赦なく私を責め立てて、そして限界を超えさせてしまう。
「和葉」
何度目か抓られて激しく腰を痙攣させてしまった私を探る様に覗き込んできた義弟に、私は涙と唾液を溢れさせたままぼんやりとその顔を見つめ返す。
「……、お母さん達の前では前みたいに呼んで…お願い……」
せめてあと五年早く義姉弟になっていたら、私は彼を本当の義弟として見る事が出来たかもしれない。
「当たり前だろう? 義姉弟なんだから」
動きの激しさを増していた彼の指が、私の下着のレースを破った。
すっかり夜も更けた窓をぼんやりと見上げ、私は悲鳴を上げている全身を何とか動かそうとする。古くからの住宅街ではいつまでも雨戸を閉めずにいる家などなく、いつまでも雨戸をしていないのを周囲の家に見られればおかしく思われてしまう。
「和葉はまだ寝てていい。雨戸なら俺が閉める」
まるで疲れを感じさせない動きでベッドから降り、彼は脱ぎ捨ててあったシャツを掴んだ。汗にまみれた身体が通りの街灯の灯りにうっすらと照らし出され、そのシルエットはどきっとするくらいに精悍で…そして身体の重さと同時に私に罪悪感を刻み込む。もしも彼が義弟でなければきっと私は恥ずかしがりながらも密かに嬉しかっただろう。でも両親の望まない関係になってしまった胸のしこりはそれに理屈がつけられない今でも重くのしかかってくる。
身体が鉛の様に重くて、私はまた枕に頭を沈める。先刻までは枕の他にも腕もあって、その分の空間が空いていてそれは安堵と奇妙な淋しさと疚しい充実感を私に感じさせた。
彼が窓を開けた瞬間部屋に空気が流れ込んできて、二人分の汗と性臭で噎せかえりそうだった空気を夏の終わりの風が掻き乱す。風鈴がちりんとかすかに鳴った。
雨戸を閉めてオーディオなどのかすかな灯りだけになった部屋で、彼の気配が動く。まだその暗さに慣れていない目では彼の姿は見えないけれど、でもドアに向かっているのだけは判る。
「ねぇ……、いけない理由が見つかったら…終わりにしていいんだよね?」
ドアノブの回る音がした。両親不在の今の家にはまだこの部屋の鍵はいらない。玄関の鍵が私を逃がさない鍵なのだから。
「……。どうしていけないのかが納得出来れば、いいよ。探していい。――でも見つかるまでは…判ったよね?」
昔の彼との時とは比べ物にならない激しすぎる交わりは、しばらくセックスに縁のなかった私の身体にはかなりきつかった。この数ヶ月の欲望をぶつける様に私を貪る彼の中の獣には限度がない様にすら思える。でもそんな彼に私の身体は途中から溺れてしまい、どこで得ている知識なのか様々な交わりに貪婪に耽り、そして数え切れないくらいにキスを繰り返していた。身体を貪られる心地よさにのめり、そしてこれからの三日間、私は答えが見つからない限り彼に奪われ続ける事になる。
両親不在の三日間が過ぎても、答えが見つかるまでずっと私は彼の求める義姉にしかなれないだろう。そして、私も彼に問いかけられた義弟としてしか彼を認識出来ないままになる。見つけられない限り、ずっと、ずっと。
「うん……判ってる……」
すべての雨戸を閉めてまた彼がベッドに戻ってくるのを知りながら、私は瞳を閉じた。
『絶対温度』 END
改定3稿20050917002