『誘惑〜Deduction〜 STAGE-4』

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 何も変わらない。
 何も。
 ほら。

 電子カルテの入力が終了し、男が首を回すとこきりと音が鳴った。予想外に診察が立て込み、気付けばもう夜である。仕事中は雑念から切り離される性質のお陰で現実に引き戻されると個人的には何らかの支障が生じている場合も多いが、看護婦に何も言われていなかったから問題はなかっただろう。食事も一食忘れる事も少なくない。
 息をついた直後に最初に過ったのは、嫋やかな十七才の少女の事だった。何事もなく戻って来れただろうか、動けただろうか、恥辱的な交わりにショックを受けてはいまいか…いや傷付ける為の行為だったのだからそれで正しい筈なのだが。
 ぎしりと音を立てさせて椅子の背凭れに身を預け、暫し何も考えない様に意識して息をつく。
 正直な話足腰が立たずにまだ男の家で横になっていればいいと思う。外泊申請は一日だったが少女の症状では延長しても問題はない。だが生真面目な少女は恐らく無理をしてでも戻っているだろう。遮断していたものを開放してみれば殆どの容量を少女が占めていて驚く。
 泣いて、いないだろうか。
 傷付けておいて何を考えているのか自分ながらに呆れる。マンション前から病院までのタクシー代に、あと付けすぎた情交痕を気にした場合に寝衣等を購入するには恐らく不足しないであろう現金は託してきたが、タクシー代ですら受け取らない可能性は高い。何着か寝衣姿を見ているが自分が選んで送るべきだろうか…いや婦人に相談すべきかもしれない。気になり院内ネットワークで調べると少女は既に戻っているらしい、だが体温が高い。他に懸案事項は見受けられないが、無理をさせた自覚に男は息をつく。
 静まりかえった診察室の端末を終了させ、男は席を立った。

 夕食時間はとうに過ぎ消灯時間には若干早い病棟は微妙に忙しない。就寝前の歯磨きなどで洗面所に向かう入院患者と擦れ違う事も個室の並ぶ一画になると減り、看護婦詰所で氷枕と蒸しタオルを一つずつ取り、軽い会釈や挨拶を済ませ男は個室に着く。
 静かな病室に、TVを見ている事はそういえばなかったなと思い出す。そっと覗けば少女は眠っていた。首回りまである滑らかな白い寝衣は情交痕を上手く隠せており、男は僅かに安心する。この少女が看護婦達の好奇の目で見られるのは忍びなかった。
 熱の為か身体の不調か、やや魘されてる様に眉を潜めて息遣いの苦し気な少女の寝顔を男は言葉もなく見下ろす。無理をさせた自覚はある。薄い掛布団に浮かび上がる身体の曲線は荒々しく扱うのを躊躇われる華奢なものである…それを昨夜犯した。最初は加減をしていたが最後は欲望を吐き出す様に激しく抉り、揺さぶり、朦朧として達し続けている身体を力任せに抱きしめていた。寝室では淫らな白い獲物にさえ思えた少女は、こうして魘されている姿だと触れていいのかすら迷う。悪い夢を見ていないといいのだが。起こした方がいいのかもしれないが、何故か躊躇われる。
 氷枕をそっと少女の頭を抱えて枕との間に差し入れる。確かに熱い。少女の小さな頭を抱え込むとどうしても昨夜の行為を思い出してしまい、ぞくりと背筋が疼く。うっすらと汗を掻いている為に少女の甘い匂いも強い。思ったよりも眠りは深いのか、目を覚ます気配はない。
「――み……」
 声を掛けかけ、止まる。どう接すればいいのか判らない。抱えている腕を解き、熱を持った頭が氷枕で冷やされるのを期待する。サイドテーブルに置いていた蒸しタオルを手に取りそっと額を拭う。やはり昨夜は無理をさせたのだろう…それでも医者としての後悔よりも、男としての満足と申し訳なさが勝る自分は救いようがない。
 椅子に腰掛け、少女の寝顔を見る。
 どうすれば泣かせずに済むか、笑顔になるのか、そんな事をぼんやりと考える。他人の顔色を覗う…しかも年端もいかない少女の。馬鹿らしい。だが、それでも欲しいのだから度し難い。
 少女の苦しげな呼吸は発熱の為だと考える男は長い睫毛に滲み溜まった涙に僅かに息を詰まらせる。散々昨夜泣かせている。それなのに数滴の涙に戸惑う自分が理解出来ない。と、少女の左手に指輪がないのに気付き男の眉間に皺が寄る…一般的に見れば普段使いのものではないのだから就寝中等に身に着けないのは当然かもしれないし、傷を付けたくない心配も判らないでもないが、何故かそれは不快だった。目に見える範囲にあればそのまま嵌めてしまいたいが、残念ながら見当たらない。個室であっても出入り自由な病室なのだから剥き出しのまま置かないのは当然だろう。貴重品収納に仕舞われているのかもしれない。――手軽な普段使いの物も与えるべきだっただろうか?そんな馬鹿げた懸案が浮かぶ自分に呆れる。
 見舞いの花は香りの淡い物が基本だが数が増えれば濃くもなる。いつの間にか増えている花束で花屋の店先とはいかないが相部屋ならば周囲への配慮を求める程度には花の香気は濃くなっていた。消灯前の、だが個室の並びの病室は詰所で鳴るブザーや話し声が遠くで聞こえるだけであり、聞き慣れている医師にとっては静かな部類である。ふと、自分も少女に花束を贈るべきではないかと思い付く。何の花束がいいのか判らない…だが少女が一番気に入るものがいい。何がいいのか、白系の甘い香りの花…それなりに一般的な知識はあるが実践に結び付かない。芍薬、鈴蘭、薔薇…花言葉等の知識は男にはないが少女は密かに意識する気がした。実に面倒臭い。いや、純白でなく仄かに薄桃色を含んだ方がいいのか、まるで上気した柔肌の様な……。
「随分と御執心ね」華やかな声に、男は視線を向けた。洒落っけのない制服に身を包んでもその豊かな胸も悩ましい腰もありありと判る美貌の女が僅かに皮肉そうな笑みを浮かべている。「大胆に出入りしていると小煩い雲雀に騒がれましてよ?」
 上質な女である。面倒になる事もなく、誘ってくるタイミングも中々いい。この病院に勤務する様になってから一番抱いている女だろう。セックスの相性も悪くない。
 だが、今は疎ましい以外の何者でもない。
 男は椅子から立ち上がり廊下へと歩き出す。少女と二人きりの空間にこの女を入り込ませるつもりにはなれなかった。愉しげにくすりと微笑む唇が紅い。元から美しい女であり勤務中ですら女優並に華やかであり女王然としている。連れ歩くだけで自分の格が上がる錯覚を齎すであろう『高い女』は珍しい。――だが色褪せている。いや元からの評価は変わらずいい女のままだが、性欲を発散する気にならない。
「……。早く行きましょう?もうすぐ看護婦が回ってくるわ」
 女の誘いに乗るのには引っかかりを感じたが確かに他の人間に見られるのも面倒に感じた男は女の隣を擦り抜ける。と、向きを変えた瞬間に女が不意打ちの形で重ねてきて唇を奪われた。可愛らしく重ねる悪戯ではなく舌を積極的に差し入れてくるそれは卑猥な感触であり、悪くはないものの筈だった。
 常ならばそのまま愛撫に雪崩れ込むものがあっさりと解かれる。
「さぁ移動しましょ」
 愉しげな声の女に感じたのは物足りなさでなく疎ましさだった。あと一秒接吻が長ければ邪険に振り払っていたかもしれない。技巧は少女と比べものにならない、この女との情交は群を抜いて快感を得られた…だが今は微塵も欲していない。例の試供品を使ったのか甘いシャンプーの匂いは嗅ぎ慣れたものであり、そして異なるものだった。同じ香料でも使用する人間の体臭により変化が生じる。女から漂う華やかな印象の香りに、男は薄く嗤う。――これではない。求めるものは、吸い込んでしまえばそれだけで劣情を煽る甘さの癖に儚く脆く余韻が溶けて消える香りである。腕の中で香るそれがあれば、他はいらない。
 肩越しに振り向いた女の口元を愉しげに歪めた笑みに、夕食でも奢らさせられるかと考える男は気付かなかった。
 ベッドの中で目を覚ました少女が、悲しげに涙を零して自分達を見ている事に。

 その後すぐに何故か機嫌よい看護婦と別れ、男はマンションに戻った。家政婦が来たのかいつも通りに丁寧に済まされた清掃を何故か不快に感じながら居間に入った男は、テーブルの上の物を理解するのに時間を要する。
 少女の諸費用の為に置いて出勤した封筒の上に乗っている小箱は、昨日購入した指輪の入っていた化粧箱である。ネクタイを弛めるのも忘れて、立ち止まっていた男はやがて歩を進め小箱を手に取り、そして小箱の底とそれに接している封筒の部分が湿っている事に気付く。白い封筒は新品だった筈だが、小箱の乗っていた場所以外は波打ち固まっている。――まるで酷く濡れていたかの様に。
 何があった。
 当然の様に化粧箱の中に収められている指輪と封筒の中の紙幣を確認した男の思考速度は酷く鈍っている。指輪が気に入らなかったのだろうか。指に嵌めた時の困惑と、特別な贈り物や花束に喜ぶ様な、見ているだけでこそばゆさを覚える笑みを思い出し、男は呼吸を忘れて固まる。少女に似合う意匠だと思い購入した指輪で、少女も気に入ったと思ったのは間違いだったのだろうか。状況認識が出来ない。
 抱き締めないといけない。
 病室で涙を溜めている寝顔を思い出す男の眉間に皺が寄る。何故あの時に少女を起こさなかったのか、つまらない理由でいい、発熱以外の症状でも問診するなど理由はどうにでもこじつけられた。この部屋で少女が泣いた。無理強いが過ぎたのか、穢された事実に苦しんだのか…男を恨めばいい、恨み、嫌悪し、憎めばいい。嫋やかな少女の綺麗な心に自分の存在がこびりつく。――いや判っている。あの少女は簡単に人を恨みはしない。昨夜の過ちを恥じて自分を責めるのだろう。綺麗過ぎて反吐が出る。誰も傷付けられず痕を残せず自壊する。
 それなのに、胸が掻き毟られている様な異常な苦々しさが身を焦がす。放り出してしまえばいい。面倒臭い。それなのに、今少女を激しく抱き締めたい。
 手の中で少女の涙に濡れた封筒がぐしゃりと潰れ、昨夜の飲酒で今日は通勤に使わずカウンターの上に置いていた車の鍵を掴んだ瞬間…、
 電子音が鳴った。
 相手の時差に合わせて予定していたミーティングの五分前を知らせる警告音に男の動きがぴたりと止まる。
「……」
 まだ泣いているのか、いや熱は下がったか、痛みは続いているのか、今為すべき事は、自分が選ぶべき事は。
 切り離しきれない残滓を抱えたまま、男はノートパソコンに手を伸ばす。

 あれから少女の姿を見ない。
 何度も病室を訪れたが少女の姿はなく、だが退院している訳でもない。検温や検査の類いの記録は残っている…だが少女は病室に戻ってこない。担当医でもない男が病棟看護婦に問うのも躊躇われ、苦々しい日が続く。最悪な可能性として老害の手が伸びた危険を想像したが、これは逆に特別室の患者の体調悪化で免れているだろう。
 隠れて吸う煙草の本数が増えたが、落ち着きはしない。晩秋…いやもう初冬と言っていいだろう屋上を吹き抜ける風は冷たく、空は重い鈍色の雲に覆われている。暑さを好まない男には快適な季節である。肺の奥まで煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。白衣の裾を風が揺らす。
 音にならない息で名前を呼んだ事に男は気付いていない。
 あの夜は気のせいではないかと思える程に脳裏を離れない。性質の悪い幻覚の様だった。――気が抜けると、男の意識を浚っていく。
 三日に一度は女を抱いていたが、今は面倒としか思わない。
 時間制限がある。自分と少女の接点はこの病院の入院患者と医者でしかない。携帯の番号は知っていても、肉声でなければ意味はない。――今はその手段ではいけない気がした。退院の後は何もないのだと思い知らされる。精算しようとすれば簡単だろう。
 空を仰ぎ目を閉じた男の脳裏に、初めて会った日の少女の姿が過る。見ず知らずの男の口元から煙草をそっと取り上げようとし、咎められた驚きの顔。風に軽く靡くしなやかな黒髪に、大きな瞳…妖精画の様な綺麗な顔立ちと嫋やかな身体。綺麗な少女だと思った。男を知らないのは嗅ぎ分けられる…いい獲物だと思った。それなのに。
 嫋やかな身体に触れたい。柔らかな唇を奪いたい。激しく抱き締め腕の中に捕らえたい。全てを、自分の物にしたい。焦がれるとは、こんな感情なのかと驚かされる。
 ぽつりと頬に弾けた雨粒に雨の降り始めに気付き、男は携帯灰皿に吸いかけの煙草を放り込む。屋内へと戻りながら短く息をつきふと階下を見下ろした男の目に、少女の姿が映る。
「……」
 雨を免れられる庇付きのカフェテラスに少女が座っている。テーブルに広げられているのは教科書かノートか、相席をしているが誰かは判らない。情報的には入院継続中だと判っていたがその姿に男は安堵し、そして走り出す。エレベーターの到着も待てずに職員用非常階段を駆け下りていく。誰かに見咎められる可能性は頭に浮かんでこなかった。ただ、男の最後の記憶が泣き顔である少女に触れたいとしか考えられない。
 一気に一階まで駆け下り非常階段から人気の少ない通路に出、そしてカフェテラスに面した中庭に出た直後、不意に視線を漂わせた少女と目が合った。
 どくりと、心臓が鳴る。
 壊した。
 清楚可憐な顔立ちはそのままだが、瞳から光が抜け落ちた人形の様な顔が男を見た瞬間に強張る。相席しているのは件の青年の様だがそれすら気にならない。瞬間的に失敗を自覚した男の足が凍り、だが次の瞬間最短距離の小雨の降り出した中庭へと踏み込んでいた。勉強を教わっているのか筆記具も出ているテーブルをそのままに何かを言っただけの少女が立ち上がり踵を返し、男に背を向けて走り出す。
 垣根の葉に乗った雨粒が白衣に跳ね、濡れた飛び石の水が靴底で音を立てる。
 病院内で医者が走るなど言語道断だろう。ましてや中庭は人目に付きやすい。それでも足を止められなかった…ただでさえ脆く壊れやすい少女が砕けてしまえば無防備過ぎて誰でも手に入れ易くなるだろう、心を手に入れなくてもいい、身体を手に入れて甘やかし続けて傷を癒やしていけば堕とせてしまえる。刷り込み効果の様に感謝させればほぼ成功したのも同じだ。優しくすればいい。
 冗談ではない。そんなに気軽に手を出すな。
 白い寝衣がふわりと揺れ、しなやかな黒髪がヴェールの様に舞う…後ろ姿だけでももう男は少女が認識出来てしまう。折れそうに細い足首、男の小指と比べるまでもない繊細な指、緩やかな布の上からでも判る華奢な身体…抱える腕の中でどれだけ白い腰が淫らにくねるのか、男の牡槍を銜え込んだ窄まりの卑猥な締め付けとその奥の熱、突き上げる度に鳴く声のか細さと上擦る音色がどれだけ嗜虐心を煽るか、快楽を隠そうと恥じらう清楚な美貌が繰り返しの執拗な絶頂に浚われる手折る恍惚、敏感過ぎる身体が汗に濡れさらりとした肌が柔らかな陶器の様な感触になり、立ち上る汗と牝臭の溺れる様な甘い匂い。汗も涙も愛液も身体中が蜜で出来ている様な少女。
 中庭の遊歩道ではなく最短距離を駆ける男の白衣が掠める度に生け垣の葉が跳ね、降り始めの雨が弾ける。思ったよりも足の速い少女だが男が追いつけない程ではない、だが男を認めた瞬間に逃げ出した小さな背中が胸に刺さる。何故泣いた。何が壊した。じっくりと時間をかけたあの夜、丁寧に理性を奪い蕩けた痴態と無防備に男に委ねきった愛しい少女が壊れた理由が…そう考えかけた瞬間、病室で看護婦が唇を重ねてきたのを思い出す。いやあれはタイミング的に合わない。だが少女に誤解されかねない疎ましさに男の眉間に皺が寄る。――いや誤解とは何だ?
 妄執だ。たった一度犯しただけの小娘に何を執着しているのかと嘲る己を感じながら、男は少女を捕まえようと手を伸ばす。指先に黒髪が触れ、するりとすり抜ける。人混みに紛れれば逃れられる可能性も高いであろうに、少女が病院内でも時間によって人が立ち寄らない検査棟方向に走るのは迷惑をかけまいとしているのだろう。その配慮が愚かしく、だが愛しい。そう、逃れたいのならば退院してしまえばよいだけの話である。あの老害の要望に応えて検査入院をずるずると引き伸ばす必要はない。それなのに居続けるから、こうして追われる。
 指が触れた。
 ぐいと力任せに細い手首を握り、少女が体勢を崩すのも構わず抱き寄せる。午前の診療時間を過ぎしんと静まった検査棟の薄暗い通路の隅と男の間に華奢な身体を隠す様に覆い被さった男は、腕の中の少女の感触を確かめる事すらせずに唇を重ねた。甘いキャラメルとホットミルクの味の唇が硬く結ばれているのも構わず強引に舌を捩じ込む男は更に深く少女の身体を抱き締める。三日いや四日だけか触れていなかった身体が腕の中にあるだけで男は少女と己の鼓動を不思議と強く実感する。欠けていたものがあるべき形に収まった感覚に近い。唇も舌も口内も甘い。無理矢理に抱き竦めている身体は身長差で爪先立ちになってしまっているであろう、だが軽い。この身体の重みならば全て掬い上げても苦ではない。
 手放しはしない。誰にも譲らない。愚かな妄執であっても、これだけは離さない。
 今まで大勢の女と情事を重ねてきたが少女を相手にしている様な貪る接吻も執拗な吸い跡も噛み跡も残してきた事はなかった。自分の執拗さに内心嗤いながら、少女の舌を卑猥に舐り、唇を啄む。頭の芯をくらりとさせる甘い匂いが鼻腔を満たし、男の肉槍がスラックスの内側で痛い程天を仰ぎ限界まで硬く隆起する。それは少女も同じだった。発情している身体の火照りに膝で脚を割ると奥になる程熱と湿り気が増していく…柔らかな布の内側でひくひくと震える華奢な脚が頼りなく男の脚を挟み込むのは快楽を強請るものではなく恥じらい脚を閉ざしたいものだと判っている。この様子ではもう下着にまで愛液が染み出し嘸や心地悪いであろう。最初拒む力が僅かに籠もっていた少女が氷菓が蕩ける様に男の腕の中で頼りなく崩れていく。あ……と零れる吐息は悲痛でありながら甘い。背に回した指はいつの間にか愛撫の動きを繰り返しており、指だけでなく舌を這わせたい欲望に駆られながら深く唇を重ね少女の唾液を啜る男に、淫らな嗚咽が小鼻から零れた。互いに欲情しきっている昂ぶりに呼吸が浅ましく乱れ、男は少女の寝衣の釦を一つ二つと手早く外し露わになった首筋に顔を埋めた。あの夜執拗に付けた歯形は流石に消えてはいないが吸い痕の幾つかは薄くなっているそこに新たな痕を付け、それを確認した目が満足に細まる。
 どうすれば、泣かない。
 どうすれば、微笑む。
 まだ壊れた人形を思わせる瞳から涙を零している少女の顔を直接見る事が出来ず、男は小さな頭を胸に深く抱く。膝に伝わる脚の付け根の火照りよりも、シャツ越しに伝わる泣き顔の熱の齎す胸の苦しさに男は途方に暮れる。――こうも対応が思い浮かばない事象はかつてなかった。
 不意に一つだけせねばならない事を思い出した男は少女を抱き締めている腕を弛め、胸ポケットに入れている小さな指輪へと手を伸ばす。
「これだけは受け取……」
 びくっと身体を強張らせた少女が予想外の力で男の腕の中から身を引いた。
「嫌です……」悲鳴の様な小さな声は震えていた。「――もう…お願いします…、どうにか、捨て置いてください……っ」
 部屋で泣いた時も、こうだったのだろうか。
 思考速度が限りなく停止に近くなる。泣くなと叫びそうな口が強張り、少女へと手を伸ばせばすぐに抱き締められる位置にある腕が固まった。怯えきっている。大粒の涙を零している顔は男を見ようとはしていない…古臭い貞操観念からではなく心を閉ざし距離を取ろうとしている事が嫌と言う程伝わり、泣き顔すら愛しい少女なのに刃を胸に突き立てられた様に呼吸が出来なくなる。目の前で震えているのに、身体が動かない。今抱き締めなければいけない。もう何日触れていない?次はいつ抱ける?貪りたい。気が狂いそうな渇望が意識の蓋の隙間から溢れかけていると言うのに、何故動けない。――次は、ない。来ない。訪れない。少女が望んでいない。そんな事は最初から判りきっていた。
 犯せば手に入る、そんな安易な考えが通用しないのは己の未熟さか住む世界が違うのか。傷付ければ逃げられなくなる?いや傷こそ許せない。他の誰かも自分自身もこの少女を傷付けるもの全てを許せはしない。憎みもしない恨みも怒りもせずに壊れる少女を、自分が壊した。
「み……」
 渇いた口から漸く音を紡ぎかけた瞬間、白い少女を何かが奪った。
「――何をしてる」
 壊れた少女を抱いているのは、見覚えのある青年だった。

 静まりかえった、午後の検査時間にはまだ早い廊下は薄暗く、漆黒の長い髪に白い寝衣の少女のコントラストが強烈だった。男が開けさせた首筋から胸元の柔肌が酷く艶めかしい…まるで魔物に襲われている乙女の様だと御伽噺の感想が過る。そんな少女を抱き締め庇っているのは騎士か勇者か。
 触れるな。
 それは俺のものだ。
 喉まで出掛かっている恫喝は煮え滾った溶岩に似ていた。吐き出さなければ酷い火傷どころでは済まない熱量に目の前の青年に殺意が滾る。善良そうな育ちのよさげな青年から向けられる敵意はいかにも当然の義憤の類だった…見舞いに訪れる程度には距離が近いのであろう、いやそもそも少女が恋い慕う相手なのだから何の苦もなく自然と好意を受け止めているのだろう。接吻もせずその淫らな本性を内に秘めた白い身体に手を出しもせず男に貪り喰われた間抜け。その気になれば少女は笑みその手をそっと重ねた筈を。手遅れだ。もう壊した。お前と共にいても壊れたままの少女に何が出来る。
 床に落ちている枯葉色のショールから少女へと労る視線を動かした青年の目が驚きに見開かれた。今男が付けたばかりの吸い痕や噛み痕が開けた寝衣から露出しているのが見えたのだろう。この短時間で付けられる数ではない。ましてや噛み痕は若干薄れかけた時間の経っているものである。
「貴様…この子に何をした……!」
 お前に何の権利がある。
 不快と嫌悪と気拙さの入り混じった歪んだ顔が男に向けられた瞬間に苛烈な敵意へと変わり拳が握られる。そのまま殴ろうと振り上げられる腕に、男は口の端を歪めた。正当防衛が成立したら何処まで傷付けてやろうか。関節を壊すか、筋を駄目にするか。人体の治し方も壊し方も熟知している。久々の暴力の衝動に全身の筋肉にふるりと揺らぎが走る。職場での暴力沙汰。馬鹿らしい。だが構いはしない。やればいい。煮え滾る不快な衝動が喉の奥で咆哮に似た形で開放を待つ…成る程これが破壊衝動か、いや破滅願望だろうか。暴発しかけているが意識の半分は酷く冷え切っている。面倒臭い。どうでもいい。何処までも己は実感を伴えないのかもしれない。欠落している。
 それでも、だからこそ、欲している。求めて止まない。
 儚い、妖精の様な少女を。自分に熱量を与える唯一の存在を。
 真面目で堅実な家庭の青年であり喧嘩慣れはしていない様子だが運動神経は鈍くはない、しかし人を殴り慣れてはいない拳に、男が間合いを外そうと半歩引きかけた瞬間……、
「駄目……!」
 少女の華奢な腕が青年に縋り付いた。
 びくりと強張り相手を殴りつける体勢のまま動きを止めた青年と、暴力を止められる力などない細い身を挺した少女が、男の目に映っていた。
 両腕が、青年の身体に回されている。
 ギプスの右腕は安静が必要などと余計な事が掠め、ただ、指先で男の頬に触れる事すら躊躇う頑なな貞操観念の少女が迷いなく青年の胸に腕を回ししがみついている姿に、男は凍り付く。
 驚きと躊躇と苦さの混ざった表情で腕の中の少女を見下ろした青年の目からは凶暴な敵意が削げ、まるで傷を負った小動物を見る様な痛ましげな表情をし、その振り上げていた拳が力を失いそっと頭を撫でる。震えている華奢な身体を宥める様に何度も頭を撫で抱き締める青年の腕の中の少女は、男に背を向けたまま振り向く事もなく抱き付いたままだった。
 やがて少女を手放さないまま身体を曲げて床に落ちたショールを手に取った青年は、踵を返す。肩越しに男へと向けた目に浮かぶ敵意を隠さないその腕で少女を抱いたまま歩き出した後ろ姿がやがて廊下の角を曲がり、午後の検査時間が近くなったのであろう人の気配が世界の音を取り戻させるまで。
 男は動く事が出来なかった。

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改訂版第二稿202311090642

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