遊上孝一著作リスト
No. 1
標題:「転向期」のひとびと/副標題:
著者:小林杜人著 遊上孝一編/出版者:新時代社/出版月:1987.9/頁数:326p
叢書:/請求記号:309-Ko12/番号:1010887
No. 2
標題:戦後農民運動小史/副標題:
著者:遊上孝一著/出版者:総合農業調査会/出版月:1954/頁数:166p
叢書:日本農業の全貌研究資料 第34輯/請求記号:369.1-Y96/番号:1128743
No. 3
標題:近畿型都市近郊における農民運動史/副標題:奈良農民運動史と金橋村争議の分析
著者:農民教育協会農民運動史研究曾編/出版者:農民教育協会農民運動史研究会/出版月:1953/頁数:71p
叢書:農民運動史研究資料 第2号/請求記号:山本文庫369.165-N94/番号:1135345
No. 1
標題:いまこそ必要な社会主義再生の試み/副標題:「プラハの春」から20年/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:223/刊年:1988.5/頁:2〜8/標題関連:
No. 2
標題:土屋祝郎著『予防拘禁所』(紹介)/副標題:/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:228/刊年:1988.10/頁:46〜47/標題関連:
No. 3
標題:シルビュ・ブルカン著『ルーマニア・二つの革命』(書評)/副標題:/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:284/刊年:1993.6/頁:44/標題関連:
No. 4
標題:アレクサンドル・ヤコブレフ著・月出皓司訳『歴史の幻影 ロシア失われた世紀』(書評)/副標題:/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:286/刊年:1993.8/頁:44〜45/標題関連:
No. 5
標題:アレクサンドル・ドプチェク著イジー・ホフマン編『希望は死なず ドプチェク自伝』(書評)/副標題:/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:291/刊年:1994.1/頁:44/標題関連:
No. 6
標題:六四中国近現代史研究者声明有志連絡会編『中国 民主と自由の軌跡 天安門事件の歴史的背景』(書評)/副標題:/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:297/刊年:1994.7/頁:44/標題関連:
No. 7
標題:社会保障闘争の前進のために/副標題:/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:73/刊年:1973.5/頁:17〜22/標題関連:
No. 8
標題:八二年の階級闘争とわれわれの課題(討論)/副標題:/No:
著者:/誌名:労働運動研究
巻号:147/刊年:1982.1/頁:2〜18,24/標題関連:当面する労働運動の問題点(長谷川浩)分立する新旧左翼の問題点(遊上孝一)われわれのめざす社会主義の問題点(松江澄)
No. 9
標題:不破・上田自己批判と『六〇年』/副標題:“意見の完全な同一”という墓場への道/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:167/刊年:1983.9/頁:26〜31/標題関連:
No. 10
標題:日本における農民層の階級分解/副標題:/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:199/刊年:1986.5/頁:17〜21/標題関連:
No. 11
標題:農業の現状と闘いの方向(シンポジウム)/副標題:/No:
著者:横田義夫 遊上孝一 佐久間弘 波多然 山本徳二 長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:66/刊年:1975.4/頁:23〜32/標題関連:
No. 12
標題:“農業基本対策”と地方自治体/副標題:農業基本法案について/No:
著者:遊上孝一/誌名:議会と共産党
巻号:14/刊年:1960.11/頁:〜/標題関連:
No. 13
標題:アメリカ帝国主義の告発/副標題:人間の崩壊―ベトナム米兵の証言―/No:
著者:遊上孝一/誌名:労働運動研究
巻号:29/刊年:1972.3/頁 4〜5/標題関連:
社会主義論によせて
―自分史随想−
労働運研究 1989年10月 No.240焦点
九月一五日号『朝日ジャーナル』は東欧諸国の動向を小特集しており、表紙見出しは「"社会主義"から脱走する東欧」としている。社会主義は共産党指導下の不動の体制であり、それを逸脱することは反革命に通ずるとする立場からすれば、「脱走」という表現は的をえている。ジャーナリズムだけでない。一部の社会主義国(例えばノイエス・ドイチェラント紙の主張)も同じである。
社会主義は動いており、社会主義の思想、理想に近づけるために革新すべきだとすれば脱走でなく改革過程と表現すべきだろう。「社会主義」という概念自体の理解が分裂し、多様なのが、いまの状態である。このことの理解をぬきにした社会主義論は反省したい。ポーランド・ハンガリーの社会主義の変革過程は後者の立場である。ハンガリーのイムレ・ポジュガイはいう。「(複数主義などの)様々な改革を行った結果、それが果して社会主義であり続けるかどうか。われわれはそれを問いかけられている。われわれは社会主義建設を捨てるつもりはない。」「将来の社会主義がどういうものになるかは分からない。確かなことは祭壇に祭られた神様を拝むようなものであってはならないということだ。」
わたくし自身、一九五六年のソ連共産党二〇回大会までは、社会主義を「神様を拝むようなもの」とみていたと反省する。「フルシチョフ秘密報告」の発表のされかたとその内容はわたくしをうちのめした。同時に、そこで提起された「平和を守ることは共産主義者の第一義的任務」とする方針、社会主義建設の多様性の承認、党各委員会の交代制提起などにみられる改革諸方針に期待した。しかし、粛清犠牲者の収容所からの釈放と一時の「雪どけ」とその後の一進一退の状態がつづいた。わたくしは二〇回大会方針の採択即その実現とみ、その過程でのジクザクの決定的要因である党「指導」のありようについて具体的事実の具体的分析を怠ったのである。
わたくしにとって転機となったのは六八年の「プラハの春」であった。「行動綱領」を始め指導部の諸文書はもちろん、それに批判的な文書をもフォローした。そして、情報の公開と知的自由のもとで、社会主義革新への全人民の参加が実現の過程につき始めていることを感じた。この過程が戦車によって中断されたことは現実の社会主義をマルクス主義的批判の対象にする決定的契機となった。「異端派」といわれている「社会主義」批判者の諸研究にとりくみ始めないわけにいかなかった。五三年の東独の反ソデモ、五六年のボスナニ事件、ハンガリー事件とソ連の軍事介入の時とちがって、七〇年のポーランドのストライキ、七七年「77憲章」の誕生、八○年のポーランドのストライキと自主労組「連帯」の活動、八一年の戒厳令、ポーランドの動きの評価と関連しての八二年のソ伊両共産党論争などには、自らの問題として研究の対象にするようになった。これらの諸事件にたいし、自らの分析とそこからの結論を引きだす努力を抜きにして、日本の変革過程を論ずることは許されないと考えられたからである。おそきに失したとの批判は甘受する。
社会主義の改革と共産党の改革は不可分である。ポーランド、ハンガリーでは党の改革として、その位置づけの憲法規定さえ廃止されるか、されようとしている。今日、社会主義を論ずることは、自らの党派生活における一枚岩主義とトータルな党論の克服努力を抜きにするわけにはいかない。そういう点も含めて、「自分史」の見直しを求められていると思う。(Y・K)
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