山本徳二著作リスト

テーゼ草案に対する見解覚書

   山本徳二(京都)  

社会主義革新運動の「新しい時代」掲載? 8から10頁  1961年?

 

一、

 いま私たちは、マルクス主義の創造的発展という世界的課題の一翼をになっており、国際共産主義運動の統一にとって、新たな内容と形式の創出につながる課題に積極的に寄与していくこと。さらに、日本の労働運動がぶち当たっている指導上の「停滞」「低迷」の克服の課題にこたえていく社革(社会主義革新運動のこと、注 編集・荒川)としての総路線の建設の問題に、直面している。

 これらの課題は、多様であり、多くの未知の分野も含まれている。私たちは、何よりも、通俗的で常識的になっている「理論」?に大胆な検討のメスを加え、いまだ未解決であっても率直な問題提起をするところから始めるという任務をもっている。

 草案は、「新しい路線」「新しい党」の建設をめざす上で意欲的な備えをもっているとはいえ、率直にいって、常識的にさえなっている問題に解説を加えた程度のもので、社革がぶち当たり、したがって「新しい運動」が直面している理論上、実践上の問題の基本の解決の手がかりとなるかどうか疑問である。

二、

 運動の総括は、いま運動に参加してきている人たちの役に立つ教訓を引き出すこと。

 つきつめていえば、共産党は重要な時点で誤まってきた。社会党は日和見主義だった。それがうまく運動が進まぬ原因だ、といってみても「無党主義」に手をかしてはしても、党の建設はでてこないのではないか。百歩ゆずって、仮に草案のいう通りだとしても、労働者と人民が戦後つづけてきたいわば「自然発生的」運動の性格とその中で身につけてきたものは端的にいって何か。さらに、共産党指導が主観的には正しいと信じた上で提起した「路線」をうみだしている物質的条件とそれを認識する方法論上の問題をえぐること。

戦後の大衆的な政治的、経済的闘争の経験は、著しい現状の変更を要求する資本攻勢に反撃を加える「防衛」であり、それをなしうる範囲内で確保してきた民主主義制度である。これをしっかりとつかむことを出発点におく必要がある。これからかい離した政策や方針の提起は、大衆的規模を狭くするか、遊離していること。だからいくら「攻撃的」という言葉をつかっても評論家になるだけで「攻撃的」な要求スローガンすら提起しえない現状になる。

三、

第二章の中心問題は、現在資本主義世界体制はいかなる時点にあるのか。日本資本主義はいかなる時点にあるのか。それが社会主義世界体制との関連において、どうとらえるか、にある。

それぞれの発展段階の差異はあっても、いま帝国主義諸国は、高めてきた経済力とそれに投資した資本の回収の効率を高めるために市場競争を激化させている。「勢力図」の分割は、今世紀二度の世界大戦をひき起こした。恐慌→戦争で解決してきた要因は、依然として帝国主義の体内には働いている。しかも「猿の習性をもつ帝国主義ではなしに、平和と進歩の理想をもつ社会主義が世界の発展の決定的要因となりつつある」(フルシチョフ)時代で、それをどうしょうとしているのか。ここに、平和共存路線の重要性がある。戦争を阻止していく平和の戦いが、革命の条件を遠ざけるのでなく近づけるという条件を明確にすること。

結論を急げば、日本帝国主義は復活した。アジアにおける反動の支柱として、アメリカの冷戦体制の一部を受動的にうけもつだけでなく、能動的ににないつつある。という規定から一歩前に進める必要があろう。(復活という日本語は正しくない。再起と強化というべきであろう)

ソ連、中国と接し、民族解放運動と接し、「平和地域」と接している日本帝国主義は、かつての古きよき時代の如く「極東の憲兵」としてふるまおうとしているが、そのような時代は再びやってはこない。ここに、「高度成長」をとげた自信をもってしても、前途の不安は除かれず、その支配の基礎を不安定にしている。たえず、社会主義体制と国内の階級矛盾、人民の矛盾の圧力を政策樹立の前提におく、支配者が、いまその支配体制のイデオロギー的、政治的再編成を急いでいる原因もそこに見出すべきであろう。だから、いま、労働者階級と人民が、平和と民主主義の圧力を加え、強めていくことが、社会進歩をはかる巨大な可能性をもっている根拠となっている。言葉をかえていえば、人民的な道として、社会革命、政治革命へと労働者階級をみちびきつつある日本帝国主義、を明らかにすべきである。

「社会主義への平和的、民主的な道」の探究と建設の可能性はこうして生まれてきているといえよう。

四、

新しい条件、新しい可能性の認識をかたくなに拒否し、それを運動形態とその方向と方法に大胆に採用していくことを否定する代々木流の最大限綱領主義は、結局は、政治的待機主義と冒険主義に陥っていく。

反独占戦線の形成へのモメントは、多様な形で存在してはいるが、いま社革として、なによりも努力を集中すべき点は、一般的には反独占政治問題の形成、労働者政治の統一、単一の前衛党をめざす努力であるが、その基盤は、現実に、くりかえしくりかえし組織されてきている「改良的性格」をもって運動の充実と発展に、全革新勢力共同の事業として提起する位置に、みずからを置くことではなかろうか。

百年一日の如くつづけられている、値上げ、時短、最賃制の確立、社会保障などから「自治体斗争」、対政府の要求に至るまで、いわば最も大衆的規模をもつた改良的要求獲得の運動の上にのっかった政党の運動と民主主義運動は、改良的要求の獲得をめざす労働組合の組織力、戦斗力の成熟の度合いに規制されてきている。したがって、安保斗争はすばらしかったとしても、経済斗争はだめだった。という通俗的な評価の観点ではなく、安保斗争の限界は賃金斗争の限界の反映でもあったことをしっかりとつかみなおす必要があろう。

五、

日本資本主義の転換が、日本の労働運動、民主主義運動の転換を促し、国際的条件がまた、国内の条件を規制していることが、より密着しているなかで、中味のない、口先だけの「構革論」や、他人のふところをあてにする「構革派」ではなしに、われわれは、改良的要求の限界を限界としてみつめつつ、それを戦斗的に戦えるように充実していくことからとりかかること。その手始めは、例えば、値上げで生活がすべて守れるかの如き宣伝をまずやめること。その他、ウソやハッタリを運動の中からとりのぞき、あたり前のことをあたり前に、不自然なことを自然に、不正義なことを正義に、その通りを妥協なしにやることであろう。

ソ連共産党の綱領が、共産主義建設の課題をいろいろあげているなかで、つまるところは、人民に衣食住をふんだんに保障し、人民の精神生活を高い次元に発展させるための計画となっているように、日本人民の前途をきりひらいていくたたかいは、「今日の米」と「明日の米」を保障していく政治の課題を整えていくことが、民主主義を刷新し、より徹底した社会主義的民主主義への創造の道と結びついていくのではなかろうか。

かつて、革命的情勢は客観的条件に主として依存していたが、今日では、さらに主観的条件の例の断乎とした、能率的で、賢明な行動にかかわる要因が増大しているという現代における革命運動の新しい条件は、古い現体制とその支配者の路線を改革しようという志向をもつ勢力を、改良的運動はその胎内から新しく胎動させその出現を促す。

六、

「新しいタイプの党」の建設をめざす社革は、「防衛」から出発する大衆行動の諸分野において、平和の民主主義、社会主義をめざす諸斗争に積極的に参加し、他党派の活動家と協働し、組織を建設し、その知恵において戦斗力において、戦術において、独自性を発揮すること。

こうして、組織内生活においても、新しい民主主義を創造した戦いとっていく指導的な政治集団にふさわしい資質を形成することが可能となるのではないか。

社会主義への移行が、複数党によって展望される条件のなかにあっても、その方針、路線において、前衛性を発揮しうるものは、やはり一つであるという真理は、諸斗争の局面においても立証されている。

諸政党、諸団体が公然と活動できる民主的条件をもつわが国での革命運動の前進は、この条件を片輪し、制限し、核戦争計画にしばりつけようという志向をもつ支配者を、逆に民主的に、左への方向においてしばりつけていく、反独占の政治同盟の勝利へ、最大限に活用すること。社革の組織は、この条件を駆使し、重化学工業の労働者の間に、労働組合、平和運動、農民、知識人の間に、その要員を配置できるように活動すること。

いま、社革の構成員は、全く、自主的に、自覚的に社革に決集しているのであって、この自覚を一そう高めうるのは、思想的、政治的建設の作業の進行の度合にかかる。組織建設は、これと切りはなしがたく結びついているのであって、「党」名を名乗るか、どうかが、党をつくる速度を決するのではない。

一日も早く、「新しい党」をつくりだすために苦斗する全国の同志の問題意識を、高い段階において統一し発展さす課題にこたえることが、決定的な問題になっている。


三年分の賃金を三年分のストライキで――新産別京滋・七社共闘の報告――        

山本徳二    

労働運動研究 昭和四七年九月一日発行 第三五号  掲載

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 「企業別従業員組合」からの脱皮が議論されてから久しい。しかし、わが国の高度経済成長をささえてきた「秘密」=わが国の労資がつくりあげてきた「年功序列賃金」とそれをテコとする労資協調体制は、しばしば下からの反撃をうけてもびくともしていない。

 ドルの切下げは、わが国の労働組合運動にとって、とくに、その賃金闘争にとって、大きな警告でもあったが、一向にその改善の様子もない。

 「年功序列賃金」と「長期雇傭」を主柱として成立つ「企業別従業員組合」は、現実の労働運動の主軸であり、これら組合の集団によって組織される運動の実態のなかにこそ、「革新」と「脱皮」の道を模索する以外には道はなさそうである。七二年春闘において、一ヶ月半にわたるストライキを組織した、新産別京滋地連傘下の七社共闘の賃金闘争は、こうした意味から、一つの示唆を与えていると考えるのでレポートした。取材に当たって全面協力をおしみなくいただいた地連幹部に感謝する。(山本徳二)

 

層別要求の考え方

 新産別京滋地連が「層別要求」方式を賃金闘争にとり入れたのは、もう七〜八年も前からである。層別要求の考え方の基本は、年功序列賃金と訣別しようとするところから発している。

 周知のごとく、わが国の賃金実態は、低い初任給という単身者生計費的高さの最低の賃金から出発して、年齢、勤続、性別など、全く、個々バラバラに分断されている。しかもこの額が決められている。しかもこの額は、経営者によって、ほしいままに買いたたかれているのである。労働組合の存在が公然と合法化された今日でも、労働力の買手ある経営者よってのみ、労働力の価格決定がおこなわれるという、全く、労働者の権利を無視した賃金政策の横行を、労働組合はゆるしているのである。

 いかなる商品でも、売手と買手が、その売買価格を話し合って取引価格を決めるのに、労働力のみは、日本では、買手がその価格を一方的に決めている。売手である労働組合は、その売値を示さず、経営者に都合のいい「年功序列賃金」(労働の質と量の関係のない賃金)の上に何%かの積みあげ要求を毎年春闘として獲得しようとめざしてきているのである。このため、労働者の生活基盤をなす労働力の価格決定、賃金決定に際して、労働者側が売値を示さず、買手のみによって価格の決定がなされる結果、わが国の労働組合は、小売商の同業組合的機能にすら及ばないし、労働者に統一して守るべき権利の中心点をぼかしているのである。

 賃金の経営者による一方的決定という事態は、資本家的合理化の最たるものでこれをテコに経営者は、労働者の分断をはかってきているのである。したがって「資本家的合理化粉砕」をいくら叫んでみても、最高に、資本家的に合理化さている「年功序列賃金」政策に手をふれようとしない闘争は、合理化政策を進める資本にとって、これほど都合のよいことはないのである。ドル・ショックを経営者とともに悲しみ、なぐさめ合う労働組合の出現も、当然といえば当然、必然の結果でもある。

 「層別要求」は、現実の賃金実態に照らし、そのなかから、男子成年労働者の賃金水準を設定し、その水準の引上げ、それへの到達テンポをはやめ、この男子基幹層の賃金水準を引上げとの関連で、女子の賃金水準を決定する。かくて、一定額一律の引上げと是正によって、若年層や中途入社者の賃金は、かなり改善されてきたが、まだまだ、要求そのものがもつ弱さゆえに、バラバラに切下げられてきた賃金を改善していくまでに至ってない。

 そこで、新産別京滋地連は、層別要求の強化をはかるため、昨年秋の定期大会で「低賃金層の賃金を一定水準に急速に引上げる」方針をとくに強調した。

 七二年春闘方針は、これを具体化し、昨秋来、要求討議を開始する。

 要求討議の中心点は、賃金水準の統一引上げ率、「低賃金層」の水準到達分、水準到達年齢若年化の協約化である。そして、最終的には、新産別京滋全体の賃金実態からみて、三十歳八万円水準、十五歳費金(三万五千円)との関連からみて、一歳ごとの年齢上昇巾を三千円とし、現行八万円水準に到達している年齢点を、一年一歳若年化していくことを協約化することにおいた。この要求をかちとること=協約化することで、当該労使間において、貸金条件を客観化することを通して、同時に、労働組合の貸金闘争の結果を、その果した役割、機能の状態を、常に組合員の前に明らかにすることを求めた。

 この方針を全部採用しない単組でも、単年度要求の獲得結果を最低限の協約として、貸金水準、最低保障など次年度への前進の足固めとすることをめざした。

 

 統一要求・統一交渉

 要求にもとづく組織方針として、過去の賃金闘争水準から、地連方針を忠実に守ってきた組合を軸にして、七社共闘が組まれることとなる。

 この七社は、山科精工(三五〇名)山科精器(三〇〇名)、市金工業(二六〇名)、菊水製作所(二〇〇名)、藤堂製作所ハ一入○名)、京利工業ハ二五〇名)、京都製作所(一五〇名)であるが、要求の統一に時間をかけた討論が、長期の闘争を支える原動力となったのである。

 三月二十五日、統一要求書が、七組合の組合長と地連委員長名で提出され、始めての試みとしての、統一要求、統一交渉を求めたのである。(資料@)

 資料@の要求に簡単な説明を加えると「2群賃金率および賃金水準」において、三十歳8万円と現行水準を設定し、引上げ率 (物価上昇と生活水準跳ね返り分)を十二%として、四七年度は三十歳八万九六〇〇円、四八年度は同歳で一〇万〇三五二円、四九年度は一一万二三九四円水準となる。値上げ額からいうと、二一歳男子で四七年度一万五六〇〇円、四八年度一万八八九四円、四九年度二万〇八二四円の要求となる。これと関連して女子の賃金は、二一歳で四七年度一万三三九四円、四八年度一万四六二五円、4九年度一万六八五八円の賃上げ要求である。

 組合側は、経営側が統一交渉のテーブルにつくかどうか、統一交渉をめぐって一波乱があるのではと案じていた。しかし経営側も、従来の労使慣行をあえてこわす必要もないとみたか、三月三十日の要求説明会をへて、四月十日、第一回交渉がすんなりと決まった。だが、要求内容からみて、また、初めての統一交渉でもあるので、各社とも、リーダーシップをとるのをためらいがちのうちに、経営者ベースの団交にのせようと、組合側の足もとをにらんでいた。

 四月十日の第一回交渉で、経営側は、現行賃金水準を七万円に設定し、単年度引上げ率十二%、八四〇〇円一律を回答してきた。当然、この回答では、組合側を納得させえない。四月十一日第二回、四月十五日第三回交渉となる。十五日に経営側は、文書で回答取消し回答をおこなった。          

 七組合共闘は、「@昨年までの貸闘経過を基準にして各社なりに、低い条件に抑えこむという立場を堅持しており、A誰かを悪者にし、自らを善人に仕立てるセリフを並べようとも、統一回答を防波堤にしようとしている、Bしかし、団交の権利を否定するが如き、明文化した回答を取消し、改悪するが如き暴挙を許す弱さが共闘側にもある。C組合側は、要求への統一をより強化し、統一ストの体制強化とあわせて組合体制のより統一強化をもって、会社画答を名実ともに引上げさせる方向を強める、Dつまり『平和で話し合いの統一交渉』を『要求を獲得するための統一交渉』に転化させる力関係をつくりだすこと、E七社共闘全加盟単組は、闘争委員会にスト権を集中し、各社段階でも『つきあげ』て、交渉の促進をはかる(七社共闘委資料)という判断と戦術方針をきめた。

 四月二十九日の統一交渉の最終日まで組合側の誰であろうとも、親合代表の発言は、統一婆求の内容について、理路整然と統一していた。逆に、経営側は、足並みが乱れ、統一交渉から脱落する会社も出てきた。最後まで、統一交渉に残ったのは、市金工業と菊水製作所の二社であった。

 組合側は、統一要求・統一交渉であるかぎり、二社のみであっても、七組合が了解できる回答ならば、最終回答として会社側が統一交渉に参加しようがしまいが、批准手続をとるという態度をもって臨んでいた。

 四月二十九日、組合側要求どおり、八万円水準を認め、十二%の引上げ九六〇〇円、一歳当り上昇幅三〇〇〇円を認める回答をおこない、八万円水準とそれに達しない層の賃上げ一万二六〇〇円は、満額回答となった。残されたのは、一年一歳ごとの若年化を進める三〇〇〇円と協約化であった。交渉は、この点をめぐって停滞した。

 

 無期限ストへ

 

 組合側は、統一交渉の残された中心部分をめぐって決裂したことをもって、連休あけの五月九日より統一ストを設定する。                                                                                                                                  

 市金工業は五月四日、京利工業五月八日、菊水五月九日、おくれて五月十二日に京都製作所と、各単組は無期限ストに突入していくのである。

これより早くし四月二十九日、連休に入る前日、山科精器は、要求引上げ分一万四一〇〇円一歳ごとの若年化源資一五〇〇円で妥結した。

 ストライキは、六月十七日に中止した京都製作所をしんがりに、市金工業、菊水、藤堂、京都製作所の四組合は、一カ月以上のストでたたかうのである。

 京都製作所の場合、四月十日の第一回統一交渉以前に、単組独自の実力行動を背景にして、四七年度分として一万五六〇〇円要求は満額獲得しており、若年化要求と協約化は、統一交渉の結果にゆだねるという労使協薙が成立していた。したがって、ストをかけた要求は、「若年化の協約」にあった。つまり、統一交渉の結果にゆだねるということで、経営側が何もしないということは、この点を御破算にすることを期待して見守るということであり、共闘関係組合がストに入るのに、労使間協定にジッとしているのは達者にもとり、共闘体制強化にはならぬという判断からであった。

 市金工業が、五日間ストを早くうったのは、連休期間中に、製品の強行出荷の動きがあり、より直接的効果をねらって早くストに入ったのである。ストは当然長期化の様相を帯びてくる。

 五月十四日に山科精工、翌十五日に京利工業が、統一交渉最終回答(四月二十九日回答)で妥結するという動きとなりいわば、脱落現象が始まってくる。以後攻守ところをかえ、経営側は、ストの切崩し工作を活発化する。そして、六月一日に菊水、六月十七日の京都製作所を最後に、いずれも四月二十九日回答で妥結せざるをえなくなる。

 ストライキ論にふれて

 

 ストライキについて少しふれると、注目していいのは、市金工業の場合であろう。

 会社は、五月二十三日、遂に、製品の強行出荷をはかり、裁判所の仮処分命令と機動隊を動員させてきた。

 争議の通例として、組合側も大衆動員をかけ、ピケをはり、バリケードがはられる。しかし、結果は、突破されて出荷されるということになる。市金の場合も同様だ。

 経営側は、強行出荷により、スト中の労働者に敗北感を与えることをねらっていることは明らかである。従来のストはしばしば、この時点を境にして、急速に動揺をはじめるのであるが、ここでは、これ以後、まだ一カ月近くもストはつづくのである。

 ストライキは、個別企業にとって直接的打撃が大きいほど効果のあることはいうまでもない。だが、個別企業への直接的打撃効果のみをねらうストライキ論からは、不況下のストをうつサ戦闘性を労働者から引き出せない。景気が悪いからとして敗北主義におちいらせる危険が多い。賃金闘争におけるストライキは、労働力の価格を社会的に問うという態度をもって、売手と買手の間で、取引価格が合わないから、労働力の売どめをするのだという、初歩的原理的態度を貫ぬく必要がある。世界の労働運動、ストに学ぶということは、個別企業の労使間という小さな単位のストで運営されてきた組合運動論ではなく、小さな企業であっても地域社会の単位としてとらえ、そこへの労働力の売どめをするのだという。この指導方向が、五月二十三日時点の傷をいやし、スト続行へのエネルギーをくみあげてきたのである。逆に、会社側は、もち出すものは何物もなくなった。ストを正しくうちつづけるならば、会社側の打撃の方が大きく、勝利への展望を開く可能性をもっていることを説得した。

 最後までたたかった四組合の労働者は「三年分の貸金をとるために、三年分のストライキを」を合言葉にし、とくに、青年層の交流は相互に友人を大勢つくり合った。

 精一ばいたたかったが、「ネタ」切れの圧力にストを収めざるをえなくなった。 スト資金の問題も頭の痛いことであった。労金からの借入れに労勧者の抵抗感はなかなか一椅できなかったことや、自動車、住宅、電化製品などの月賦購入をしている労働者の生活が、長期ストにつれで、逆に、労組への圧力に転嫁する問題などえぐり出す必要のある問題は多い。

 ともあれ、一般的な春囲相塘からすれば、一万二六〇〇円は、それなりに評価はなり立つだろうが、協約化をめざしたストを中止せざるをえなくなったという事態は、明らかに敗北であるといえる。

 

 帰休が待っていた妥結後の職場

 

 四組合の妥結後に待っていたのは、菊水製作所を除いて、帰休であった。

 市金、京製では、一カ月半のストから現湯の生産を再開する条件――何よりも生産を進行させる図面が流れない――を充たすまで自宅待機ということである。

一〜二日は、草むしり、溝掃除で間に合っても、何もしないでぶらぶらさすわけに注いかないというのである。両組合とも、六〇%という会社の条件を一〇〇%にさせて自宅待機をうけ入れた。

 藤堂製作所では、受注状況が現人員に対応した生産再開になりえないとして、

当初、首切りを申入れてきたが、七〇%の保障で自宅待機となる。しかし、ここ

は、四カ月間という長期間であるため、自宅待機という名杯変更の首切りに実質的になる可能性をもつ。

こうして、会社側は、再びこのようなストをやらせない、やらない組合にしたい、という念願の第一歩を、帰休のなかに秘め、今後の労務対策を進めてくることはまちがいないだろう。また、労働者の間にも、会社側にのめりこんでいく傾向をもつものも出てくるだろう。

 いずれにせよ、このストの教訓を実践的に引き出して、一そう組合活動の強化に役立ててほしいし、三〇歳入万九六〇〇円水準を統一設定した七組合が、一そう、統一への条件を強まるか否かに、その回答を見出してゆけるだろう。

 

 敗北の教訓

 

 統一要求への七組合の結集は、当初、経営側を圧したかにみえた。事実、統一要求は、単年度要求だけではなく、水準到達年齢の若年化をねらい、大衆討議のくりかえしのなかで、賃金闘争のエネルギーを発揮する労働者層の要求を集約した。

だが、要求の統一はかなり進んだが、要求の性格からして、長期のストの必要であることまでを含めて、スト権の統一まで、きちんとしていたかとなると、そうではなかった。

 だから、四月十五日時点での経営側の態度に対する大衆的反撃の敏速な組織、四月二十六日時点における統一交渉からの二社の脱落を引き戻す抗議の実力行動がうてず、従来的団交ペース、ストはできるだけ短く、できるなら「平和裡」にという考え方が根強くあった。

 労働組合運動である以上、運動のシンは、共闘委を構成する闘争委員会メンバーと各単争経験の差異、要求の理解度によって強弱が生れることは避けがたい。さらに、共闘を組んだ以上は、「一、二、三」の統一行動をという統一への力点を置くと同時に、単組独自の行動との関係、とくに組執行部となる。ここの統一が大衆的統一の軸とならねばならないし、どうしても、闘戦術行使の問題での「指導部」の統一の課題がある。

 労働組合に組織?(加入)されている労働者が、単一の層でない以上、要求への統一をはかり、正しい指導が展開されることで、多数派を形成していくのである。

 統一協約の締結という「企業別従業員組合」べ−スから労働組合ペースに転嫁する萌芽を要求に秘めている以上、統一の中味を、厳密に点検する必要が、現在強調されているが、現実の組合運動の条件のなかで、統一をかちとる要求と行動のための政策、つまり、労働者の生活上の利害を一そう統一させていく努力を探り出さねばならないことをこの闘争は改めて教えている。

 具体的にいうと、

 @「年功序列官金」という賃金政策とそれを基礪にした秩序のなかで、永年にわたって培養されてきた大衆的生活思想―例えば、二十歳の「ボン」でも、一万五六〇〇円あがるということへの反感が、中高年齢層にある。

 Aこの現実を従業員組合的に対応しな                                                                             がら当面の要求のあり方。

 Bそれは、当面の賃上げ分としては、水準引上げ額を、年齢減額(各年齢点賃金水準)×%+到達分とし、

 Cこれによって、各年齢点賃上げ額に較差ができるが、要は、水準への到達年齢点を若年化することにある。

 Dまた、水準(貸金上昇線の屈折点)以上の貸金層と層内の是正。

 Eこれらを賃上げ額の基本的あり方として、それを基礎に若年化、水準以下の層の到達についての保障をさせる協約。

 F見習い期間中の貸金の資格条件充足にともなう自動昇給制度の協約化。

 G毎年一回の春闘時だけでなく、年齢昇給分の「満年齢到達」時昇給制度の協約化。  

 などを方針に具体化することが必要ではないか。これが、ただちに「年功序列賃金」を崩すものではないが、若年化を急速におこない、全体としての賃金水の上昇への条件を充足することは可能となると、そこに突破ロが見出されるのではないかと考える。

〔資料1

   統一要求書

 新産別京滋地方連合会に加盟する市金工業社、菊水製作所、末利工業、京都製作所、藤堂製作所、山科精器、山科精工の組合は昭和四十七年度の貸金改訂期に                                                               

あたり、貸金水準と貸金率、貸金水準への到達年令の若年化、水準到達後におけるそれまでの年令減額に対する補償、最低保樺貸金と見習い期間および見習期間中の貸金保障などにわたる貸金協約の締結およびその具体的内容について統一交渉することを含めて決定しましたので、下記通り統一要求します。

                                                                         昭和四十七年三月二十五日

 株式会社 市金工業社

 取縞役社長 川口 文志郎 殿

株式会社 菊水製作所

代表締役社長 島 田 泰 男 殿

株式会社 京都製作所

 代表取締役 丸 瀬 雄一郎 殿

京利工業株式会社

 取締役社長 清 水 保 之 殿

株式会社 藤堂製作所

 取締役社長 藤 堂 顕一郎 殿

山科精器株式会社

 取締役社長 池 田  殿

株式会社 山科精工所

 取縮役会長 横 井 英樹 殿

  新産別京滋地連

委 員 長 吉 岡 新 一

 株式会社 市金工業社

 組 合 長 尾 崎 与 三 郎 

株式会社 菊水製作所

 組 合 長  二 階 堂 弘  

株式会社 京都製作所

  組 合 長 山 内 ア

京利工業株式会社

  組 合 長  森 下 照 男 

株式会社 藤堂製作所

  組 合 長 柏 木 正 

山科精器株式会社

  組 合 長 樽 谷 実 好 

株式会社 山科精工所

  組 合 長 中 口 一 男 

 以下資料



本の紹介

中村仁一著 老いと死から逃げない生き方 講談社 定価1500円

労働運動研究19948 No.298号掲載

 

評者 山本徳二

 

高齢者の増加にともなって、老人向けのさまざまな情報が氾濫している。

 死ぬ直前まで元気でいて、ポツクリ死にたいということは、あくまで願望であって、現実は宝くじに当るよりもそれが難しいと考える著者、財団法人高雄病院院長は、何事もそのまま受け入れていく覚悟が必要で、あまり健康にとらわれすぎると、結局は″医療づけ″ ″病院づけ″となって、悲惨な人生を送ることになるという。

 この本で述べられている著者の見解、主張は、著者本人の体験を通してつくり上げられてきた老人向け人生入門書であり、気軽に読める本となっている。

相容れない「老い」と「健やかさ」。老い支度。現代お年寄り事情。ひとりを生きる。死にさざまは自分で決める。以上の五章から、評者が興味を感じた部分を少しだけ紹介する。

 発達した科学技術を使って、病はもとより、死すらもコントロールできるような錯覚抱くに至っている向きがある。また、医療保険制度のおかげで、医者にかかりやすい状況になっているので、病気のことはすべて専門家に任せれば安心というのは、自分の主体性を放棄することである。

 人間には寿命があり、死亡率は百パーセントであり、決して九九・九パーセントにはならない。

 人体の諸機能は、時間の経過とともに少しつつ衰えていくのが自然であるのに、気だけは若いつもりで、身体のほうがついていかない現実をなかなか認めがらない。衰えたもの、失ったものを嘆くのではなく、残っている部分に感謝して、これを十二分に活用するといぅ、否定ではない肯定の人生観で生きてゆくことに、長生きを嘆きにしない要諦があるのではないか。

 半永久的に人工呼吸器を使ったり、鼻から管を入れたり、おなかの上から穴を開けて胃袋に管を差し込んで流動物を流したり、頸の根元から心臓の近くまで管を差し入れて高濃度栄養の天滴注射をしたりして、無理矢理に延命を図るのは、以上のような立場から問題だ。そんな中途半端なことをしてみても、何の展望も開けない。

老人医療の限界はかなり浅く、暮らしの援助手段にすぎない。

 以上のように著者は、人生模様の縮図ともいうべき病院生活を通して、医者というより、人間として生き方を深究していくなかで、「こだわるな」「とらわれるな」「捨てよ」「任せよ」「あるがまま受けよ」などの払教の教えに哲学を見つけている。そして、老年期の医療

に関して、医師、愚者双方の過大視に対して再考をうながしている。

 「色即是空」「空即是色」の境地に立った高僧の説話を聞く思いのする本である。 

 

 


 

運動にささげた生涯を偲ぶ  小森春雄さんの一周忌に集会

                  労働運動研究 19945月 No.295 掲載

 山本徳二

(文責・『偲ぶ会』世話人、大阪労研・樽美敏彦)

 

 『偲ぶ会』は午後六時十分、山本徳二さん(世話人)の開会宣言ではじまった
  (このときすでに参会者は五十人に達していた)。 
 開会挨拶(山本徳ニ) ただいまから、故小森春雄を偲ぶ会を開会します。
 本日は寒さの厳しいなか、大勢の皆さんにお集まりいただきありがとうございます。戦後の労働運動のなかで、すざまじいまでに学び、経験を身につけてきた小森さんの、そのとき、そのときをごま化さずに生きてきた生きざまが、今も目に浮かぶようです。今晩のこの・会が、久しぶりに会われた方々との懇談、友好を深める機会となれば幸いに思います。会の進行を世話人の樽美敏彦、生駒敬の両君にお願いして開会の挨拶とします。


年頭所感

 順応の思想でなく、変革の思想の輪

労研通信 No5 1985120日    発_行  大阪労研

         大坂市北区神山103新谷ヒル

 063123930

 

≡≡l≡ も く じ ≡≡≡

 

年頭所感…・・・……・……・・……・…・…・‥……山本徳二

 

 

         山  本  徳  二

 あけましておめでとうございます。

 おめでとうと心の底から祝える年を本当に早く迎えたいものである。

 労働組合の有力な幹部の間でも「どうしていいのかわからん」という運動の現状をにらみ、人間としての生き方として、職場から世界に至るまで、いろいろな課題を、マジメに議論し、或は、放談し合い、知恵を集め、ささやかでもカを合せ、少しでも、愉快なことをやろうと、若い人たちが中心になって、新しい発足をした「大阪労研」も、いよいよ正念場を迎えたといえる。黒衣の応援団の一人として、読者の皆さんに、一そうの御支援・御協力をと、月なみな挨拶でなく、協働の場として、これを共通の広場にしていってほしいとねがっている。

 労働者が目の色を輝かせ、スクラムを組み、燃えるが如きエネルギ−を発揮している美しい団結の婆が消えてから久しい。かわって、九割がたの日本人が「中流意識」にとらわれているという状態は、高度経済成長期に、名目賃金の引上げと合理化とをバーターにして、団結を切り売りして得たものである。先の労働力までタンポにして、月賦で購入したものを大事にしたいという意識を生み、賃金は多いほどにこしたことはないが、要求を出す時点で妥結が判断できを運動に、カを入れて、にらまれてアホをみるよりは、と、残業かせぎでつじつま合せをやったり、競馬や麻雀で小遣いをという風潮が一般化して、志の小さい人間が増えて、わずかに出来た温りを大切にしたいということになっている。

 かくて、当局や経営側が、決定した問題を、変更させる力をもった労働組合が殆ど少くなり、職場における、労使の力関係は、圧倒 的に「使」の側の優位の下に事態は進行していく。労働条件の維持改善を主な目的にしている労働組合がその機能を十分に発揮せず「どうにもならぬ」現状となっている。春闘連敗のツケは行革改勢をよび、七四・五年恐慣と石油ショック以来の十年間に、省エネで人べらしをやった資本は、賃金を低位平準化へ再編成してきた。三〇才から初任給に至る基準内賃金(標準労働者の) のカーブをみれは明らかに後退している。

 寄らば大樹のカグとかで、小ブル意識は大ブルに順応しようとする傾向が働く。政党や労他組合幹部は大資本にすり寄っていく。賃金要求がうまくいかぬからでもなかろうが、制度要求や政策闘争をロにする。しかし、団体交渉力のない労勧組合、ストライキのでき

ない労働組合が交渉を申入れても、当局や政府は、それなりにメンツを立てて、テーブルにつくだけである。だから、野党連合をめざして、なんとか政権に近づけないかと動く。

 ヨーロッパで、社会民主党が政権の座について、労働組合の社会的地位が高まり、福祉面で前進した経験を、わが国でもという発想だろうが、経済の高度成長期が絶ったとたんに、保守党がとってかわった、あと追いをしようとしても、すでに発想は古い。ミッテランの苦悩が教えている。

 原料、資源の殆どを輸入にたよる日本資本主義が、資本主義世界第二位にのしあがった発展要因は、だんだん日本独占にとって、マイナス方向に作用する要因にもなっている。技術革新と生産性向上、勤勉な労働者と低賃金による強力な国際競争力をもった工業製品は、外国独占資本の最烈な抵抗に会っているし、発展途上屈のより安価な労働カの圧力は日ましに強まっている。農業は、日本独占資本にとって弱い環になっている。発展途上国に進出するに当って依拠したそれらの国の保守的反動的支配層の政治的不安は近年その度を加えてきている。さらに、社会主義国からの圧力がある。米国からの軍事費増額の圧力は強まる一方である。帝国主義世界体制を維持していくための政治的役割を応分の負担をしつつ、いや応なく強めねばならない。こうした条件は、労励者をはじめ勤労人民の負担に転嫁された独占資本本位の政策に、さまざまな反発を呼ぶ。

 かくて、労働運動の活性化が緊急の課題となってくる。独占の組適利潤によって育てられた組合官僚や国家官僚制のはりめぐらされたおさえこみ政策を突き破っていく運動がである。

 どこからどうして手をつけていくのか。いろいろあろうが、バラバラにされた団結を職場から回復することである。一時期、職場から労働運動をというスローガンが叫ばれたことがあった。団結権、団体交渉権、罷業権は三位一体のものであるが、これを中央にすべて集中しておいてこんなスローガンを叫んでも信用できない。しかし、どんな小さな要求でも、職場の労働者が力を合せ、統一した闘争態勢を確立する努力を絶えずはかり、それを拡大していき、闘争の発展をはかるべきであり、機会のある毎に、三権を職場に確立させるよう主張していくべきである。本来、労働者は、支配者が非合法といおうが、ストライキをやる権利をもっている。組合上層部の一部に良心的幹部がいても、指導部として戦闘的指導が期待され従い以上、逆に、下部の闘争を圧殺されるケースとの闘争でもある。労働力の提供者であるテメエが、自分の労働力を管理する、という考えを、しつかり土台にすえることである。

 大きな人類的課題となっている問題は、反核反戦がある。宇宙にまで拡大した軍拡とものすごい浪費は、地球と人類を一瞬にダメにする危険をもっている。恐らく八〇年代後半にかけて軍縮への交渉は再開され合意への努力が続けられるだろう。しかし、われわれは、唯武器論の立場には立たない。この危機を救う道は、人々の知恵と大衆の団結だといいたい。この中心に、労働運動がすわるためにも、企業と組織の枠をのりこえて、ささやかな流れを大きな流れにする努力以外にない。               (山徳)


本の紹介・槌田 劭著

 「工業社会の崩壊」

            山本 徳二

 

          関西統一通信 No.10号 1979925日掲載

 

 「工業社会の崩壊」という槌田 劭さんの本がでている。内容は、

T章 大工業主義の神話 行詰る現代文明

U章 高エネルギー社会と原子力の愚

原子力にみる「安全」 の押しつけ

 

V章 ゴミに埋まる現代文明

腐臭を発して崩れる文明

 

W章 生活常識と価値

個人の健康と社会の健康

 

X章 幻の豊かさに混迷する社会

幻の「豊かさ」と生命の危機

 

Y章 農業と安全な農産品

   私たちに未来はあるか

 

 槌田さんは、金属物理学を専門としていたが、このままでいいのか、という深刻な自己追究の結果、京大工業部助教授を最近やめた。「使いすてを考える会」を組職して、実践にかかわりつつ、学者として自己の信じた道をゴマ化さずに歩み続けようとつとしている。

 大量生産、大量消背の工業社会は、必ず萌壊する。この沈むことの不可避な泥船の上での 「豊かな」文明にどっぶりつかっている日本人に警告する著者の考え方は、非常にユニークで、鋭く説得力をもっている。

 朝鮮戦争という隣国での悲劇の上にためこんだ金をもと手に高度経済成長の逓礎をつくり、そして、GNP大国を誇る状況をつくり出したが、季節のうつりかわりの如く、夏から秋へ、秋は冬にと確実に変りつつある。乎清盛じゃないが、沈む太陽をもう一度のぼれと願望するが如き、泥船の寿命をのばそうとするさまざまな政策も、工業社会の崩壊を避けるわけにはいかない。冬に備え、新しい春への条件を整えていく道は、根本的な考え方の転嫁が必要である。人間が生きていくのに必要な物の量は知れている。多くを求め、多くをかかえ込むから、あくせく働かねばならないし、大量の地下資源を消耗し、自然を破壊していく。

そして、多くを得ながら幸せだというわけでもない。

 日本は、工業資源には乏しい。しかし、世界にまれなほどめぐまれた豊かな自然がある。地下埋蔵の資源は堀りつくせばおしまいであるのに対し、豊かな自然―暖かい太陽と潤沢な水は、でたらめをしなければ永遠である。 現在の日本の耕地は約六百万ヘクタール。都市と工業が不当に支配する土地や未開墾の原野山林が、その気になれば農地に変えれる。江戸時代に、生きられなかったのは、支配、差別、収奪の社会的不公正と投術的未熟があったからで、発想を転換し、正しく「生きる」道をさまたげるものをとり除いたならば、充分に生きていける。こうしてこそ、地球上四〇億の人口のうちの僅か十億の人口部分が、地球上の資源の大部分を浪費している。三〇億の犠牲の上に「文明」を栄えさせている。こうした泥船文化と手を切る道が拓けてくる。というのである。 時々の講演や雑誌などに発表してきたものをまとめたものであるが、人間としての到達した理性の判断をゴマ化されずに生きぬこうと努力している本当のインテリの姿をこの書はみせてくれる。

 

        「工業社会の崩壊」

          槌田 劭著

           四季書房 一、二〇〇円

 


思想と運動、組織と人間の問題を鋭く提起

松江澄『ヒロシマの原点へー自分史としての戦後五〇年』

評者 京都 山本徳二

労働運動研究199510 No.312

 

  ことしの八・五、八・六の広島を久しぶりにたずねた。五〇年という節目であるせいか、各地からの人出で、広島はざわついていた。

 とくに、中国の核実験、フランスの核実験の噂で、原爆禁止・反核運動は、いきおいを加速させ、いまや、全人類的性格を帯びた運動として、国際的な広がりをみせている。この巨大な波のうねりに背を向けた大国の論理は、いかにもわびしくみすぼらしいものという印象を与えている。

 原爆反対の原点ともなる広島で、運動の原点をつくり出したともいえる有力な一人、松江 澄が「自分史」を出版された。

ここ数年来「『私の昭和史』のようなものを書いておきたいと思いつづけてきた」ものを仕上げた労作である。

 

天皇も人間じゃないか

目次にそってかけあしでふれてみよう。

現在史の幕が切っておとされたロシア革命から三年目の一九一九年(大正八年)に、広島で生をうけた松江澄(以下私はでのべる〉は、「貧乏さむらいの子」で「寡黙で小心ではあるが律儀一徹」それでいて「寛容な」父、長兄が物心がつくと自ら東京に出て裁縫学校に学び、自宅で若い娘たちに和裁を教え、家計をたすけた気丈な母との間で、きびしくはあっても心豊かに育まれていった。もう一人、嘉永二年生れの祖母がいた。

「母にしかられるといつでもかばってくれたし、いっしょに出ると帰りにはきっとおぶってくれた。だが家が見えはじめると……私をおろし、何くわぬ顔で二人で玄関を開ける」「昔話をしてくれたのはこの祖母であった」祖母の背中をとおして感じたあたたかさを私はいつまでも忘れない。

大正七年、死者十五万とも十六万ともいわれているスペイン風邪というインフルエンザが猛威をふるった。カチューシャで名高い島村抱月もこの風邪がもとで急逝する。発病後わずか数日で。偉い医学博士が二人もついていてもダメだったと貧乏人は、病魔から逃れるすくいを、民間信仰に求める。松井須磨子のあと追い自殺とともに大正期の有名な話である。米騒動はあまりにも有名である。

大正十五年、広島県立師範学校付属小学校に入学、ついで、広島高等師範学校付属中学校に入学。兄も同じコースをたどっている。

小学校六年生の時のこと、級長の私は、先生の指導をうけながら、余り成績の良くない同級生に放課後、教室で補修授業をやられる。この同級生たちは、通学途上の用心棒の役割を買って出てくれる。また、大人の世界のことを教えてくれる。学校からの帰路に、遊廓の前を歩き、きれいな女性の写真が飾ってあるのを指さして「家の人にきいてみろ」という。たずねた母は、びっくりしたような顔で、何も教えず、二度と行くなときびしく言い渡す。

また、ある日、人通りの少ない町にきて、「天皇はどうして子供をつくったか知っているか」と問いかける。悪童たちの試しである。「現人神」という「神話」への挑戦である。[瞬考えたうえで「天皇も人間じゃないか」と答えた。「人間だから」ということばにこめられた「神」という虚構への抵抗は、その後も私のうちにひそんで動かなかった。

昭和初期、二九年恐慌の痛手からの脱出をはかる支配階級は、対外侵略を本格的に進め、満州に手を染めていく。国内では治安対策を強化する。代表的なものは、張作罧の乗った列車爆破事件であり、共産党の大検挙である。

「私は子供心に推理した。朝鮮人も、部落の人も、日本共産党も、中国人も、従って張作森も、みなそれぞれに違うのに、ある]点で共通のものがあるということだった。その共通な一点とは、日本一えらい人である天皇に敵対する人々であるということであった。しかし私は、それを口にすることはこわかったので、自分の胸におさめておくことにした」

中学四年、軍人の学校志望の学友がふえるなかで、何としても一高へと志を固める。

兄と同じように医者にしようという母の強い希望で、広島高等学校の理乙を強引に受けさせられた。いやいやだから見事に落ち、母にあきらめさせ、文科、一高を認めさせた。一年浪人ののち一高入学。

「愛も真理も木の葉のように吹き散らすファシズムの嵐とは絶縁した別世界」の一高生活を満喫する。青春をかけて人生を勉強する所だった一高を卒業。東大法学部政治学科を受験。また落ち、第二回目の浪人となり翌年入学。二十三歳である。

六月。ミッドゥェイ海戦で連合艦隊の敗北。日米の軍事力の差はひらくばかり。十一月には、スターリングラードでのソ連軍の大反攻。洋の東西で、日独の敗北をつげる鐘が鳴り出した。翌、昭和十八年十月、ついに在学徴集延期臨時特例公布で学徒動員となる。「少々やせていようが、病歴があっても消耗品としての兵士」の必要な軍隊は、十一月に下関重砲兵連隊に入隊せよといってくる。

「軍隊に入ったら馬鹿になれ。考えるな。要らぬことは言うな」と父は懇々と諭し戒め、

母はおろおろと気づかうばかり。

 

 

四〇年前の「借金」を返す

学生服を軍服に着替え、二等兵の新兵生活が始まる。十日も経たぬ間に、満州へ。ソ連との国境間近の牡丹江重砲兵連隊に入る。

「初年兵にとって、人間による「真空地帯一として内務班生活のきびしさと合わせて、自然のきびしさ・:…つき刺すような寒痛は遠慮なく初年兵の皮膚をおそい、油断すれば凍傷となって指や鼻を失うことになるのだ」

五ヵ月のち、見習士官教育のため内地の教育隊に派遣となる。眼前に広がる富士山、静岡県富士岡村にある教育隊の八ヵ月の生活の仕上の卒業試験のなか、トーチカ爆撃の実弾演習で成績をあげ、恩賜賞をもらうことになった。

「一高以来さめた目で批判的に見ていた天皇から物をもらうことには抵抗があった。だからといってことわるだけの勇気もなかった」恩賜の「文鏡」は戦後いつまでものどにささったトゲのように私を刺した。

「七、八年前、私にとって最後の県会が開かれる前に県会事務局長がきて、藍綬褒章がおりることとなったがと問い確かめた。私は、天皇からもらうものは何もないとことわった。……このとき私は四〇年前の借金を返したような気になった」

「文鎮」のおかげか、教育隊付教官として学校に残ることとなった。

八月十五日、「天皇放送」をきいた日、「無慈悲で無茶な戦争に賛成でもなく反対でもなく、ともかく命をながらえ解放された。……お前は生を得るために何を失ったのか。学友や戦友は死を得るためにどれほど多くのものを失ったか」私にとって生涯の課題となった。「まず急ぐことは広島を確かめることだった」

原爆をうけた広島出身ということで、五日目の八月二十日復員できることとなった。

廃嘘の広島に立って

二六歳の復員兵士の目にとびこんできた広島は、のっべらぼうの瓦礫の原だった。

荒野に立って「ふたたびこのような無残な虐殺と殺戮をくり返さないために、私は一生をかけて戦争と原爆に立ち向かうことを心に誓った。それは私の義務であり、それは死んだ人々へのささやかな供養なのだ」

この決意から戦後が始まる。人間として到達した理性の判断をゴマ化しなく生きようとする松江澄の苦闘が始まるのである。

マルクス主義への接近は急速だった。マルクス主義の書物やかつての発禁本を財布をはたいて買った。米にかわるべき兄の医学書の何冊かも書物となった。入党は時間の問題であった。

「日共に入党するまではあらゆるものにたいして批判的で、けっしてのめりこむことのなかった私が、戦争中の反省と転回によって入党して以来、私は私を捨てて党に没頭した。それは私の転生でもあったはずであった」

しかしそれは長くつづかなかった。神のごとき存在だった党を、客観的な考察の対象として見るきっかけは「五〇年分裂」であった。

「戦前の胃春時代に私の精神生活の地中から生えてきたたけのこのような『自立一であり、すべてを疑う.「自由」」が頭をもたげてきた。

「最大のものは虚構の論理11倫理としての「一枚岩』の団結であった」そしていま、「日本的集団主義」とかくれた中心の「天皇」の問題にとりくんでいる。これが、戦前と戦後のけじめをあいまいにしたものではなかったか。

思想と運動、組織と人間の問題を鋭く提起する愉快な本である。

〔社会評論社刊、定価二六七八円、本誌取扱い〕

                          




No. 1
標題:総評四十年をふりかえって(座談会)/副標題:金属労働運動の経験から/No:
著者:山田丑一 山本徳二 小西節治 小森春雄 巣張秀夫 原全五 妹尾源市 司会:樽美敏彦/誌名:労働運動研究
巻号:242/刊年:1989.12/頁:26〜31/標題関連:


No. 2
標題:農業の現状と闘いの方向(シンポジウム)/副標題:No:
著者:横田義夫 遊上孝一 佐久間弘 波多然 山本徳二 長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:66/刊年:1975.4/頁:23〜32/標題関連:


No. 3
標題:徳さんの美学/副標題:No:関西労働運動の気風
著者:山本徳二 /編集 山徳会 誌名:
巻号:刊年:2004.4/頁:標題関連:


No. 4
標題:寄稿 現情勢にいて/副標題:No:闘うために情勢分析をする
著者:山本徳二 /編集 京都大学現代資本主義研究会 誌名:現代資本主義研究
巻号:創刊号より5刊年:1973より1975頁:標題関連: 京都大学工学部自治会(準)アジビラ寄稿 [京都大学同学会]発行ビラ寄稿


No. 5
標題:「三年分の賃金を三年分のストライキで」副標題:新産別京滋・七社共闘の報告/No:
著者:山本徳二/誌名:労働運動研究
巻号:35/刊年:1972.9/頁:28〜36/標題関連:徳さんの美学には収録されていません


No. 6
標題:企業再建、合理化反対のたたかい 副標題:中小企業の経験から/No:関西労働運動の気風
著者:山本徳二 /編集 山徳会 誌名:徳さんの美学(別冊)
巻号:刊年:2004.4/頁:標題関連:企業別組合の枠をのりこえ、職場組織んいおける労働者の英智と統一によるたたかいの成果


No. 7
標題:企業再建、合理化反対のたたかい 副標題:中小企業の経験から/No:
著者:山本恵造(本名 山本徳二) / 誌名:前衛
巻号:刊年:1958.6/頁:標題関連:企業別組合の枠をのりこえ、職場組織んいおける労働者の英智と統一によるたたかいの成果


No. 8
標題:テーゼ草案に対する見解覚書 副標題:No:
著者:山本徳二/誌名:新しい路線?
巻号:刊年:1960./頁:8〜10/標題関連:徳さんの美学には収録されていません




徳さんの美学
副書名 関西労働運動の気風
著者名 山本徳三/[著]
  山徳会/編

徳さんの美学(別冊)―山徳会―

企業再建、合理化反対のたたかい

―一中小企業の経験から―

企業別組合の枠をのりこえ、職場組織における労働者の英智と統一によるたたかいの成果

山本恵造

(本名山本徳二)

「前衛」(日本共産党中央委員会理論政治誌)

一九五八年六月号

 

  戦後日本の労働組合がもっている「企業別従業員組合」ともいうべき特殊な性格は、労働運動の発展にもかかわらず、しばしば大事な資本との対決点において弱点を露呈しており、とくに分裂は日本の労働組合の「宿命」であるかのようにうけとられている向もある。こうしたことから"ポツダム組合ではだめだ〃"企業別組合ではたたかえない〃ということがいわれ、闘争を手控える合言葉になっている場合さえある。

  労働運動にたずさわる者にとっては、階級敵がうつであろう一切の手段を見越し、主体的条件の欠陥や弱点を冷静にとらえて戦術樹立を決することは常識問題である。

  したがって問題は、現在の労働組合組織がもっている性格を現実的にしかも諸闘争の中で発展的に変化させてゆく方策こそ大切である。

これから紹介しようとする大阪特殊製鋼労働組合の闘争経過は、以上のことに一つの回答を与えている。

  この組合は、産別系の全鉄労から全日本金属の分会となり、そして、最近の金属戦線統一により、現在、総評全国金属労組の支部になっている。

  時期的には五三年から五四年頃までを中心とした主要な闘争を紹介したい。

 

赤字経営でのたたかい

 

  五二年の日本経済は、「朝鮮ブーム」が下火となり、部分恐慌にはいった。政治的には講和条約の発効、GHQの廃止にともなって軍国主義復活をめざして独占資本は支配体制の再編成を急いでいた。他方、共産党は極左的傾向を強め、社会党は左派が前進した。

  労働戦線では労闘ストが大規模に展開され、秋から年末にかけては炭労と電産がストでたたかい、占領軍の申し子総評が変化を示し出した年であり、これに反対する新しい分裂が起った年でもあった。

(新産別中央の総評脱退、常磐炭鉱労連の炭労脱退、海員、全繊等四単産の総評批判、電産の分裂)

  鉄鋼業では、春以来普通鋼関係の薄板、線材の操短が実施される中で、独占資本は企業系列の再編成=カルテル化を進めつつ、設備の近代化を行っていた。

  五二年暮の越年闘争を進めるについて、大特労組常任委員会は、慢性化している賃金遅配からくる組合員の間に生れているなげやり的な態度を、恒例の行事として越年資金を要求するだけでは解決できない、経営の無計画性をつき、中小企業と労働者を苦境におい込んでいる政府と独占資本の戦争準備政策を大胆に暴露し、職場からの要求をすべてとりあげてゆく中で、組合活動に活を入れようと計画した。

   一一月中旬の要求提出から一二月二〇日の妥結まで、大特は組合結成以来の経験をした。「ストライキは常に大衆的な支持によって敢行され、連日の職場大会、職場からのデモを重ねる中で、われわれの生活を守るたたかいが、生産復興と経営民主化の原動力であり、会社の経営計画、生産管理に対する労働者の発言力と実行力の確立がいかに必要かということを大多数の組合員が体験した」(大会報告五三年一月)

  越年資金は二万円の要求が一万二〇〇〇円で妥結したが、経営者との間に生産、労働、営業、経理の四専門委員会を設置し、闘争の中で選出されていった職場闘争委員会をそのまま存続させ、組合機関を通じて専門委員会に要求を反映させることとなった。

  職場からは、設備改善、人員増加、臨時工の本工化、自主的労働規律の確立等の要求や決議が組合機関に集中し、かなりの要求が実現していった。けれども翌年四月頃になると中だるみがみえた。

そこで常任委員会は、金属大阪支部常任、金属傘下の各主要分会代表をまじえた批判会を開き、ついで五月七、八日の両日の討議によって次のような方針を決定した。

 

@大阪特殊製鋼の現状

 

  われわれはたえず遅配でいじめられている。国光製鎖や西島製作所はじめ支部の他の分会では、毎月二五日にはビタ一文かかさず賃金を払うのに、大特では、チビリ、チビリの分割払い、それも大事なスクラップや二級品を売ってやっと賃金を払うしまつだ。

  現組合員の中には、慢性の遅配を仕方ないものとあきらめて、「バタバタしてもあかん」「中小企業のやってゆける道理がない」と考える人もいるが、これらはごく一部の人で、本当にみな「大特はどうなるのや、なんとかして大特をよくしたい」とあんじている。

  じっさい今の大特の経営は重大な危機にきている。このままほっておいたら、会社はつぶされてしまい、われわれはロクな退職金ももらわずにほうり出されてしまうだろう。

 

A大特のふんづまりはこうだ

 

(1)まとまった注文がない。大特の設備に合った鋼種の注文がまとまってとれない。大特は「すし屋」だといわれるぐらい、バラバラの小口注文ばかりだから、しょっちゅう段取りに追われて仕事の能率があがらない。

(2)そのため歩留りがわるい。オシャカの多いのもそのせいだ。

(3)一人当りの生産量がすくない。よそにくらべて六割から七割くらいだ。一月から四月までの平均をとってみると、一人当り生産量は一トンたらずだが、よそでは一・五トン〜一・六トンぐらいが多い。

(4)能率の悪いのは、注文のせいばかりでなく、設備がわるいこと、熟練工が少いことも大きい原因だが、それでもまとまった注文さえあれば、仕事もグングン進んで能率もあがるし、そのもうけで設備をよくし、優秀な熟練工を入れることもできるわけだ。

(5)新圧延に数千万円をそそぎながら、完全稼動ができず、しかも工程をふやし、原価を高くしている。

(6)こんな事情で、自然、大特の製品はよそよりネダンが高い。トン当り一万円ぐらい高いのもある。

(7)巾価より安い特需をとり、このために赤字を増やした。

(8)銀行は金をかさない。これは会社経営にとって命とりだ。

このような原因結果が相互にかさなり合って、大特のジリ貧は日ごとにひどくなっているのだ。

 

B原因はなにか

 

  根本の原因は、日本の国が日本人の自由にならないからだ。そしてアメリカの戦争政策にまきこまれて、政府が再軍備して、二重、三重に中小企業をしぼっている点、大特も他の中小企業とかわらない。

  組合員諸君の中には、きっとこんな考えの人が多いにちがいない。戦争や再軍備反対だとか組合はいうが、大特はそれでもっているのじゃないか。ヂャンヂャン戦争が拡大したら、大特はずっとはんじょうするにきまっていると。

  だが、これはとんでもない考えちがいだ。大特の現状でのべたように、特需は命とりになっているし、再軍備の金で学校や変電所、住宅、汽車等をどんどん作るなら、大特の注文はふえるだろうし、アメリカがいなくなって日本が諸外国と自由に貿易ができたら大特もよくなるし、再軍備の重い税金をとらなくなれば、労働者の暮しはよくなる。購買力がふえれば平和産業がはんじょうする。

  アメリカのいいなりに戦争準備をしているからこそ、()大資本が独占している材料のネダンは高く、製品のネダンは安い。電気代もべらぼうに高い。特需がいい例だ。

()材料の稀少物資がアメリカに統制されてネダンが高いので割当てがあっても思うように買えない。

()政府や銀行は中小企業に金をまわしてこない。

()労働者も農民も市民も貧しいからみなほしいものが買えない。

 

C会社の無能ぶり

 

  第二の原因は、大特の社長はじめ経営者が能なしだからだ。彼らは大特を足場にしてかせげばよいという考えしかもっていない。大特が今のように苦しい時なら、社長はじめ経営者は、寝てもさめても、注文を、金融を、材料を、コストをどうするかと考えて対策をねり、骨身をけずって大特のことを心配すべきだ。

  だが、彼らは万事ゆきあたりばったりじゃないか。

そのため、本社と工場、各部課の対立があり、おたがいに責任をなすりつけ合っている。経営者はバラをわって組合と相談しようともしていない。

 

D会社はどうするハラか

 

  経営者の歩む道は次のいずれか以外にない。

(1)アメリカの戦争政策のしり馬にのって労働者を苦しめるか

(2)労働者と協力して平和産業の拡大に向ってたたかうか

(3)両方の間をふらふらおよぐか大特の経営者は

@遅配をつづけて金ぐりをごまかすこと

A折あらば生産手当を引下げて人件費をけずること

B首切り

C人殺しの兵器会社との合併

等の動きを示している。

 

Eわれわれの要求

 

  大特が本当に発展し、労働者の生活が守られ、日本経済を復興させ、独立をかちとる道は、平和産業を拡大させる政策の実現に向ってたたかう以外にない。

  われわれは次のことを要求する。

(1)賃金遅配をなくすこと

(2)経営を民主的にやること

(3)営業、経理の兼任をやめること

(4)銀行融資の確保に努力すること

(5)最低四〇〇〇万円以上の受注をとること

(6)新圧延を早く完全に動かすこと

(7)赤字の原因をはっきりさせること

(8)良い材料を安く買うこと

(9)高周波に仕事をとぎれさせないこと

(10)外注、下請の検収をはっきりせよ

(11)歩留り最低六五%にせよ

(12)臨時工を本工にせよ

(13)中国貿易に努力せよ

(14)職場の要求を即時とりあげること

(15)社長も重役も丸裸になって再建にとりくめ

(16)大特あげて平和と独立のためにたたかえ

以下略。

 

  常任委員会はこの方針をもって、職場会議を組織した。職場会議は五月一一日から五月二〇日の臨時大会までつづいた。職場会議とは別に執行部は職場責任者の会議も開いた。

  組合員の中には、この方針を歓迎したものもあったが、半信半疑で、〃結局は会社のいいなりになるのではないか〃という考えが根強い状態であった。自分たちの努力により、労働者がもっている集団的英智と組織的行動力によって事態を変化させてゆくという意欲を引き出すために、常任委員と執行委員はねばり強く大衆討議を続け、職場会議の結果を検討し、また職場会議へと向かった。

  五月一六日には、六つの職場が独自の要求をきめて現場長と交渉しはじめた。主力職場の圧延では、臨時工の本工化を要求して課長と交渉し、労働委員会で会社側より具体的回答を行う確約をさせた。

臨時大会は、執行部提案に、@電気炉用重油加熱装置、圧延中型、小型重油炉に切りかえメーターを設置せよ、A遊休施設を使えの要求を追加して、一七一対一で要求を提出することを決定した。

  そして、いままでの職場闘争委員会を再編成し、全工場を四ブロックに分けて再建職場委員会を確立した。各職場委員会には常任委員が二名ずつ配置されて職場闘争を推進させ毎週定例会議を行い、その結果を合同職場会議、現場別会議にかけていった。

要求書を提出した五月二一日から六月初めまでに、製鋼では一一項目、技術部では七項目、鋼材では七項目、総務では一三項目の要求が追加されて自主的交渉を行った。

  この間、遅配賃金支払日の確約、組合要求に対する回答促進の大衆行動と団体交渉がつづき、夏季一時金要求の準備にはいった。

この組合が「再建闘争」と呼んだこの闘争の成果は、次にのべる合理化反対闘争の中に引きつがれて実っていく。

  以上の闘争を進めるにあたって考慮した主な問題は、戦後間もなく展開された「生産管理闘争」の中で生れた経営協議会と職場闘争の経験の批判的摂取とその発展的復活であった。

  経営危機にたいする労働者の間にあるさまざまな考え方をそのまま引き出し、企業第一主義的要求から階級的要求にいたるまで組合機関に反映させ、職場委員長活動を争議手段としてのカンパ的なものにとどめず、日常的・恒常的な職場活動の組織として組合機関は指導していった。

  さまざまな意識の段階にある労働者の創意を吸収し自発性を高めることになり、職場内の統一は拡がり、組合活動の基礎は拡大強化し、労働者の集団的英智と行動は組合に反映する度合の強弱に応じて組合機関の合議制は成長し、これまでにあった特定幹部の個人プレーは闘争の発展と組合の強化という方向において機関の指導を豊かにするのに役立ったのである。

 

首切り・賃下げとのたたかい

 

  この年の八月末、取引銀行である帝国銀行の働きかけによって、帝銀十万株、トヨタ自動車五万株、トヨタ織機五万株、新専務五万株と株式所得が行われ、トヨタの系列化に組み入れられ、同時に社長以下全重役が一新された。

  組合はこの動きを探知して、帝銀、トヨタ自動車、愛知製鋼の各労組に代表を送って今後の連絡の強化をはかった。

  そして、新しい経営者を臨時大会で迎え、現状の労働条件、組合の民主的諸権利の確保等、一〇項目の要求を提出した。

 

  会社側は、労働条件、組合の諸権利は従来のまま認めるが、そのうち人事と経営に関する組合の承認事項はつっぱねた。

  「協力しないものは去れ」という新専務の布告は、いままでよりも強い壁に組合を突きあたらせたばかりか、資本の宣戦布告となったのである。

  会社がうった圧迫政策の主なものを列挙すると、まず、職制の強化、そのための課長級の大移動と組合脱退、組合幹部も含めて大量の抜擢による役付の増員、日刊大特時報の発行による宣伝と教育、停年退職制度の実施、課長から休日とりあげ、事務所部門でのサービス残業の強制、組合役員選挙への干渉、時間中の組合活動の制限と賃金カット、離席票の記入、組合費天引き拒否、専務室に呼び出しての組合脱退と第二組合結成の説得、闘争資金返還署名運動の組織等々である。

  丸七か月にわたって執拗な赤字宣伝と@賃金が高い、A退職金制度がよすぎる、B結婚資金が高い、C労働時間が短いなど労働条件に対する宣伝のくりかえし、組合幹部の孤立化と組合費の不払い工作、組合幹部にたいする脅迫と差別待遇等を合わせた攻撃によって、頃はよしと判断したのであろう。八月一二日「縮小案」を提示してきた。

  一九五四年だけをとってみても、鉄鋼業では、組合側の賃上げ要求(普通鋼二五社、特殊鋼一三社で要求)は、賃上げ-五社(普通鋼一社、特殊鋼四社)、賃下げー七社(普通鋼五社、特殊鋼二社)、定期昇給―九社(普通鋼六社、特殊鋼三社)、拒否―一七社(普通鋼一四社、特殊鋼三社)という結果で解決している。一方人員整理は臨時工、本工を含めて二〇社、八六〇〇名におよんでいる。

  大特の賃金は、五三年八月にくらべて五四年七月には、二万七五〇〇円から一万七六四〇円と約一万もへっており、五三年暮の増産手当の改悪や残業規整がひびいている。人員は、五二年八月に本工二九七名臨時工五〇名、計三四七名であったが、五四年七月末には二六一二名(内臨時工二三名)と八○名が大特を去っている。この数字の中には職場と専務の板バサミになって退職した課長や自殺した組合員、精神病にかかった組合員が含まれている。いわゆるノイローゼは事務部門で「職業病」として一般化した。

  組合は、五三年暮の闘争で一時金七〇〇〇円と増産手当改悪承認で妥結し、しかも組合幹部には一時金平均三〇〇〇円という茎別配分を見送らざるをえなかった。五四年夏の一時金闘争では「胸をはって要求し、たたかい取ることが出来なかった」。職場闘争も部分的・散発的で、非常な意気込みでつぎつぎとうたれてくる攻撃に、組合と組合員は「低姿勢」の強要をうけ入れるかにみえた。

  受注量の増加と損失金の減少傾向中に経済局面変化のきざしを鋭く本能的につかんだ常任委員会は、各職場別に現状を検討して首切りなしの生産計画をたてた。他方では職制を通じて行われている「肩たたき」と分裂策動を暴露追及し、各労組に共同闘争を訴えて決戦体制をとった。

  一時は組合の動きに縮小案を撤回し、懸案の労働協約を締結することで解決したとみられたが、再度、首切り、一割の賃下げ、一時間の労働時間延長、週五日労働制が示されてきた。直ちに闘争体制をとった組合は、一〇〇%保証による週五日労働制の承認以外は拒否する態度をきめた。

一一月一日、会社側は、時間延長を組合が認めることで解決しかけたやさき、四〇名の指名解雇通知を発送した。

  「われわれが日常不断に他労組との連繋を深める努力をしてきた成果が今次闘争にあらわれている。金属支部あげての応援体制、金属北摂地協、吹田地区労連、北摂青婦協等の支援体制は進展し、西島製作、田辺空気機械両分会のカンパと動員、大谷製鋼分会からのデモ、日本触媒のカンパ(二回の残業手当)、日本鋳鋼分会のカンパ、国鉄労組青年部のカンパ活動をはじめ、尼崎の日亜製鋼、尼崎製鍼、大谷尼(大谷重工業尼崎工場)、大阪の大和製鋼、淀鋼、野村製作、大阪送風機の支援、さらに大阪総評からの支持も具体化し、広範な共闘がわが大特の上にあたえられている。」そして「主婦の会は、徹夜団交における二回のたき出し、二〇回にわたる押しかけ」(大特労組報告書)等、職場からの大衆的交流、幹部の交流、闘争資金カンパと融資、社宅を中心にした主婦の動員等の結果、一一月中旬に首切り案は撤回され組合は時間延長を期限づきで受諾し、会社は組合と協力して再建に努力すること、労務課長を配置転換すること、越年資金は赤字でも支給する、組合活動の自由を認めること、組合費天引きの復活、離席票の廃止を会社は確認して妥結した。

この闘争を通じて組合は「独占資本とたたかって勝つための戦略戦術の確立」()の必要を改めて認識した。

  この闘争は「再建闘争」の大衆的経験を土台とした資本家的合理化反対と組合の自由と民主的権利を守るたたかいであった。そして労働者が、資本家的再建方式が真の日本経済発展に役立つものではないということを見抜き、いわゆる生産性向上運動の中にあらわれた思想攻勢になやまされず、組合の分裂と御用化を防いできたことが大きな特徴である。

 

むすび

 

  以上要約して経過を並べてきたが、この経験からいくつかの問題点をのべてみたい。

  「企業再建闘争」と合理化反対闘争における職場委員会の活動を、同じ時期にたたかわれた日産自動車と比較してみよう。いうまでもなく日産自動車と大特は、その企業の規模や業種、業界での位置と役割、所属単産、闘争の経験、幹部の質等に大きなちがいがあるし、経営者や経営者団体の組合攻撃に対する心構えも異っているだろう。けれども共通性・一般性も非常に多いのである。全自日産分会の職場委員会活動は次のような欠陥があったといわれている。

  「(1)職場委員会(工場委員会)を組合の下部組織とし、それに組合がのっかり、闘争においてもそれに依存した結果、小職場委員会によって組合活動ができるという遺産に押れ、いわゆる本格的な組合的団結や結合がよわく『職場委闘争』ができなくなると組合の闘争態勢が混乱してしまう。敵が工場閉鎖戦術をキメ手と考えたのもこの弱点をついたものであった。(2)職場で職制の態度が頑固になり会社が職場委活動を無視し強圧に出ると職制の圧力に容易に参ってしまう。圖職場における活動が非常にせまくなり、教育、宣伝噛研究、文化サークル、平和闘争などが実際は地道に行われえない。但企業主義セクトが非常につよく、階級的な統一闘争の思想がなかなか入らない。」(関西労調、労調協発行「職場闘争と職場組織」一八頁)

  要するに、職場委活動は生産や職場管理上の要求が中心となり、この活動が組合の主要な闘争だという考えを労働者の間にうえつけてきた。そして、闘争に際して組合幹部が敵を甘くみたという情勢判断の誤りもあって、全自動車は日本労働戦線の貴重な陣地から後退せざるをえなくなったのである。

  大特の場合は、日産ほど職場委員会活動の歴史はないが、労働組合の指導によって、経営の民主化をめざし、労働者のもっている多種多様な諸要求を職場において統一し、労働者の自発性を引き出し、自主的行動を高める職場組織であった。けれども、この組織の活動は職制の地位にある人たちを吊し上げて対決していくことに重点を置かず、経営危機にある中小企業に働く労働者の生活と職場を労働者の団結力によって確保し、経営の民主化をはかりつつ、独占資本を暴露し、それとたたかう方向において職場からの統一、組合の強化をはかろうとしたのである。このため労働組合は、地域、産業の共同闘争のための教育宣伝組織の活動、大衆的な職場交流をも重視したのである。

  戦後たたかわれた産業復興会議や産業防衛闘争、平和経済転換闘争という労働者的復興闘争は、組合幹部のみの会議闘争であったり、政治闘争への動員手段であったり、他階層との連携を急ぐあまり労働者の要求と行動は「ぐるみ」の中に解消したり、スローガンが上すべりして不況下の困難な個々の経営での闘争をそらす役割りを果す等々の欠陥をもち真に大衆的要求にもとつく大衆行動の集約点として政府に政策転換を迫る政治闘争として正しく展開されなかった。もちろん一企業や一単産だけがたたかって、政府に政策転換を迫ることに成功するわけではないが、ここに紹介した時期に流行した「一企業ではたたかえない」という思想は非常に有害であった。

問題は、単独でもたたかうという決意をもって企業と組織の「枠」をのりこえるため、労働者の集団的英智の集中と統一行動発展の起点として職場組織を再認識すべきである。

  このため単産は、単位組合が個々の企業において「最高の賃金」を獲得するために奉仕し、中央、地方組織の幹部や活動家はオルグ活動を旺盛にすることによって、職場からの統一、階級組織の高揚、単位組合の質的強化のために献身して、共同闘争の発展に努力せねばならない。同時に経済的・政治的要求を統一し、経営者団体や政府、国会、地方議会にたいする統一行動を組織する単産としての全国的な統一的機能の発揮を通じて「企業別従業員組合」の脱皮をはかることである。

  現在、党は、戦前から根深くもっていたセクト主義と戦略上の不確定とが結びついて発生した誤りと欠陥を克服しはじめているが、日本の革命運動の前進のために国際的な経験と理論から多くを学ぶと同時に日本の運動の経験から一番学ばねばならない。

そういう意味で党が経てきた「不幸な分裂と混乱」の時期におけるひとつの経験を紹介した。

(一部省略)(筆者は労働運動活動家)

()文意をそこなわない程度で若干の字句の

訂正を行った。(山徳会)

二〇〇四年一二月一〇日

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