領土感情の抑制と戦後国際法の受容
−尖閣諸島、竹島、北方四島領土問題を考える―
行政評論家 野村 光司
尖閣諸島に日中衝突事件が発生し急遽この文章を書くことになった。もとより専門の学者ではなく詳しく事実や法律関係に通暁してはいないが日本及び日本人の近隣諸国との和解を強く望んでおり一つの雑感に過ぎないが日頃の考えている領土問題を述べて参考に供したい。筆者は常に独立の立場を維持しており、左右の両派のお叱りも覚悟しておるが我が蒙を啓くご指摘が頂ければ幸いである。
本能に根ざす領土愛国心
NHK番組「ダーウィンがやってきた」は、動物好きの人々の人気番組らしい。ここでは雌を巡る雄の決闘、家族・群の生活圏を賭けた縄張争い、ボスの地位を争う権力闘争が見られ人間社会をも考えさせてくれる。これは自己の生、種族の存続に必要な、原始より受け継いだ本能であり、人間に進化を遂げた我々も容易に離れ難い。特に縄張りの侵害に対しては最初に強力な反撃をしないと次々と攻め込まれ、群全体の流浪、滅亡を強いられる恐怖に駆られ、深刻な闘争を展開する。しかし動物たちの闘争はその破壊力、殺傷力は小さく、適当なところで敗者が静かに退散する。しかし現代人類、すなわちHomo sapiensすなわち「賢き人」が文明を発達させ、国家の強大な組織力と、大量殺傷の兵器を持つと、縄張り、領土の争いも対象価値を遙に超える甚大な損害を相互にもたらしときに民族の滅亡を招く「愚かな人」になってしまう。市場を争い他国を征服して植民地とすれば勝者の「国益」も大きいが、領土紛争は多く国境周辺部の、人も住まず経済的利益がないような些少の土地を国力を傾けた死闘を演じ、多くの人民を犠牲に供する魔力を持つ。今回、尖閣諸島をめぐり中国でも日本でも相互に敵視し争いを激化するデモもあったがこれらの人々の生活に尖閣の帰趨がどれだけ関係があるのだろう。しかし放置すればやがて本土に及び国が併呑される恐怖と怒りが叫ばれ、やがて互いの破滅をきたす戦争にも発展する要素をはらんでいる。領土は「止むに止まれぬ大和魂」や「愛国無罪」の感情を刺激してやまない。
日本の戦国時代、諸国の武家が互いにすきを狙い、勝てると思えば隣国を侵略し征服していたが徳川幕藩体制が成立し、国内相互の戦いに終止符を打たれ、秀吉の「朝鮮征伐」、「仮道入明」の侵略主義を根絶する鎖国体制もあって300年にも及ぶ平和がもたらされた。それは士農工商の身分、封建社会ではあったが「神君の遺法」を固く護る法治主義によって世界に冠たる平和と民衆文化の世をもたらした。縄張り、領地の争いに決して武力を用いさせず、予め定められた法に従い、当事者双方の上に立つ権威の下に決着されるのである。
戦前の一貫した領土拡張政策
この幕藩体制を倒した明治新政府も、国内において「富国強兵・中央集権・天皇専制」の国是の下、天皇官僚の強力な統制下、国内の闘争を鎮圧し国民を結集し、それなりの法体制を整備して国の経済力、軍事力を大いに高めはしたが、外に対しては西欧の植民帝国主義に倣い、発展の遅れた近隣アジア諸国に軍事力による領土拡張を進めた。維新日本が最初に征服したのは琉球王国である。琉球は既に1609年、薩摩が三千の軍勢で侵略し、国王以下を本土に連行し1611年に植民地条項たる「掟十五条」を国王に署名させた。薩摩への年貢納付、貿易制限、王府人事権の制限などを強制したが中国への朝貢関係は偽装、継続する両属体制を取った。署名を拒否した重臣謝名親方は斬首された。その琉球を明治政府は1879年軍隊を侵攻させ王国は滅亡、清と薩摩の両属は政府直属の沖縄県とした。琉球に隣接した尖閣諸島はいずこの国も支配しない無主の地であった。
侵略の次なる対象は朝鮮。既に維新当初から「征韓論」は盛んであったが日清双方の圧力を受けていた朝鮮に日本陸軍1894年6月仁川に上陸、海軍は7月清国兵船を撃沈、8月清に宣戦布告、9月黄海の海戦に勝利した上、1895年1月閣議決定で尖閣を日本領とし沖縄県に編入した。この決定は清その他の国際社会に通告していないが敗戦の清が異議を唱えることはなかった。4月下関条約締結、日本は巨額の賠償金を得、朝鮮の「独立」(?)認めさせ、台湾をも奪った。沖縄から台湾、「隴を得て蜀を望む」は実現した。尖閣は地理的にその間にある。問題なく日本のものとなった。翌1896年、民間人の尖閣「官有地拝借願い」を許可、リン鉱石採取、鰹節製造などの事業が起きた。官有地に日本人が不動産施設を作って事業をすれば先ず日本の実効占有は成立したといえよう。ただこの事業は採算が取れず1940年に閉業、撤退して島は再び無人の地に帰した、半世紀の日本占有にいずこの国も異議を唱えなかったことはここを日本領とするに殆ど問題はないだろう。
台湾の次は大魚、朝鮮の獲得である。さきに日清戦争で清の朝鮮に対する影響力を排除したが代わってロシアが来、これに接近した皇后閔妃を日本公使らが1895年10月王宮に乱入したこれを殺害した。ロシアとの支配争いは、1904年2月、日本陸軍が仁川に上陸、海軍が旅順のロシア軍艦を攻撃した後日露戦争宣戦布告。同時に韓国政府に日韓議定書に署名させ、軍事基地収用権を得た。翌1905年正月旅順のロシア軍を降伏させると14日の閣議で竹島を本邦領土として島根県に所属させた。3月奉天の会戦に勝利、9月ボーツマス条約でロシアに日本の韓国保護権を認めさせると11月には日韓保護条約で保護国とし外交権を奪い統監府を置いた。1907年ひそかに万国国際会議に救援を求めた高宗を退位させた後の10年、「日韓併合条約」により朝鮮を完全な植民地とした。軍国日本は着々と戦争による領土拡張の道を歩み、押しも押されぬ植民帝国になった。
次なる目標は中国本土。欧州戦争中の西欧を横に1915年、「対支21か条要求」を突きつけて中国利権を拡大し、ロシア革命の1918年にはシベリア出兵、大戦が終わった1919年のパリ講和会議ではドイツから山東利権と南洋群島を獲得した。大正デモクラシー・軍縮の時代を飛ばし昭和に入ると1928年満州軍閥張作霖を爆殺、1931年満州事変、1932年傀儡満州国建国、中国北東部を我が領域とした。1937年中国心臓部に向けて日中戦争を起こし中国大陸全域、さらにはインドシナにと軍を進めた。米国に撤兵を求められた1941年、真珠湾奇襲を敢行し全太平洋地域から南アジア、豪州に至るまで米英蘭の領土を席巻せんとした。明治以後一貫した軍事力による領土拡張は粛々と推進された。国民また大日本帝国の発展を祝賀した。
戦後国際法体制の創設
戦前の軍事力による領土拡張政策は日本だけではない。先進西欧列強はもとより遅れて参画したドイツはナチスが33年政権を取ると「優等民族」ドイツ人の生存圏Lebensraumを拡大する侵略をヨーロッパ全域に広め、次々と勝利してその野望は達成されようとした。しかし世界の大勢はこの日独伊枢軸に対決する連合国に結集し1945年5月ナチス・ドイツを壊滅させ、8月日本にポツダム宣言を受諾させた。これに先立つ4月、連合国はサンフランシスコで会議を開き6月に戦後国際秩序建設の国際連合と国連憲章を生み出した。世界での多くの戦争の発端となった領土紛争は、武力ではなく新たな国際法秩序の下、国際社会の協力と裁定とで解決する新たな政治理念を確立させた。それまでに主権国家内部で紛争があれば私人の暴力、あだ討ち、決闘ではなく国家の法による解決は実現していたが、国際社会においてようやくその法が実現した。一切の侵略は国連の承認がなければ違法とすることが確立した。
日本でも総司令部の圧力はあったけれども新憲法の原案が国民に示されて行われた総選挙により成立した議会が、当時の国際社会を代表する連合国と連携をとりながら1946年11月新憲法を制定した。世界の憲法史でも珍しい「条約憲法」といえるが広く国民に受け入れられ、保守勢力の幾度かの「改正」の試みに関わらず還暦を超える生命力を保っている。この憲法は言う。「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。いずれの国も自国のことのみに専念して他国を無視してはならず、政治道徳の普遍の法則に従って自国の主権を維持する」と宣言した。「人間関係を支配する崇高な理想」とは「愛と誠」、すなわち人類愛を実践し(人権尊重)、言葉を守り(契約、法律、国際法の尊重)、理性と良心とで対処することだ。中国、北朝鮮と問題を起こしても自国の主張に固執せず、相手の言い分を聞き、双方をカバーする普遍の国際法でことを処理せねばならない。軍事力をひけらかすハードパワーではなく、愛と誠と文化のソフトパワーで対応する。たとえ相手国が声高に攻撃的な言辞を弄しても憲法を頂く日本の国家機関は絶えず恒久の平和を念願し、政府高官がいたずらに相手の感情を激発させる発言があってはならない。外交では「外交辞令」も重要なのだ。
さらに憲法は第9条で「国際紛争を解決するに武力の行使も威嚇も永久に放棄し、この目的を達するため、陸海空軍その他の戦力を保持しない。交戦権も認めない」と規定する。特に領土問題では戦前、軍事力をもって威嚇し行使して着々と拡張した歴史を反省し、日本の公務員は大臣はもちろん、議員でも知事でも好戦的な発言、主張をしてはならない(第99条「大臣、議員その他の公務員はこの憲法を尊重して擁護する義務を負う」)。それは常に、日本をも含む「平和を愛する諸国民の公正と信義 (justice and faith)」の中で対処せねばならない。ここjusticeとは司法的正義を言う。国際法に基づき、必要ならば国際社会を通じて平和を回復する努力をすべきなのだ。また憲法第10章「最高法規」の第98条第1項は、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する国務に関する一切の行為は効力を有しない」とする。憲法が「国の」最高法規なのは当然だが、国際関係については第2項が「日本国が締結した条約及び確立した国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とした。ここの「条約と国際法規」は日本の法律にも優先する。
戦後領土の定着が一種の国際法
国連憲章は、他国を新たに侵略することを明確に違法としたが、既存の領土紛争にどう対処するかの明確な規定はない。しかし戦後の国際慣習としては1945年2月のヤルタ協定による領土分割が一つの既成事実として定着している。独裁者スターリンのソ連には種々不法がある。国内のそれはまことに過酷を極め政敵をほしいままに残殺し、国外でもカティンの森の虐殺など許すべからざるもの、日本に対しても中立条約を無視して満州に攻め込みポツダム宣言を受諾して降伏した後に千島に侵攻、多くの日本軍人を殺害して今も居座り、シベリアでは故郷に帰るべき多数の日本軍人を拉致し長年酷使し死にいたらしめた。そのスターリンが米英などと結んだヤルタ協定で、ポーランドは領土をソ連に取られ、ドイツもその故地をポーランドに譲らされたが、ドイツもポーランドもそれを正式に受け入れ、それぞれがヨーロッパ共同体の一員として再生している。ヤルタ協定ではソ連が樺太と千島列島とを日本から渡されると協定されていた。日独枢軸国と対決する連合国の一員として分け前を得たのだが、日本はポツダム・カイロの両宣言と違いヤルタ協定を受諾していない。でもソ連はヤルタ協定によって千島に侵攻して占領した。日本は既に軍隊もなく日本占領の連合国総司令部もヤルタ協定故にソ連に異議を述べない。僅かに北海道はダメだと言ってくれただけだ。ヤルタ体制の一環として北方四島もソ連の実効支配を許したままである。
かくて戦後の領土は今やそれが一つの国際慣習法として定着し、たまにそれを破る国があっても結局はそこに帰着する。北朝鮮は1950年韓国に攻め込み、中国の義勇軍も協力したが結局は押し返されて依然としてほぼ旧のままである。中国は1982年3月インドシナ戦争に介入してベトナムに懲罰の軍を送ったが目的を遂げることなく撤退した。アルゼンチンはフォークランドを「本来は我が領土」と1982年武力奪還に出たが英軍の反撃で再び奪還され、国際社会の支持もなく大統領は失脚した。イラクはクウェートを侵略したが国際社会一致の反撃を受けてクウェートは奪還されイラク大統領は結局絞首された。永年の係争地も解決している。中国はインドとの間でシッキム帰属に関して2005年7月に交渉を妥結させてインド領で決着させており、ロシアとの間でも大ウスリー島の帰属問題もこれを両国に二等分する形で2008年10月解決している。大戦後の領土関係を大枠で維持するのが国際社会の大勢、「確立された国際法規」、国際慣習法になったようである。
敗戦の事実を受け入れる勇気と理性
そもそも法治国家の法治的解決には法の適用の前に関係事実の確認が必要である。今回検察が証拠を偽造して事実を捏造しようとしたと大問題になった。国家が人に罪を問い刑罰を科するには法の適用の前に正確な犯罪事実の確定が必要である。刑事訴訟法第1条「法の目的」には「事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正に適用する」としているが、すべての法の原則である。いかに犯罪を憎んでも事実を誇張して法治主義はない。男女の恋愛は甘美だが恋敵と争い恋人に拒絶されればその憎しみの感情は多く殺意にすら至る。その激情を抑えねば自他ともに身の破滅だ。これには関係者を包含して上位にある社会の倫理、国法によらねばこの世で生きられない。領土問題も人々に愛国の激情を誘発する。同じく他国との領土の争いをこの激情に任せたら領土の利益とは比較にならない巨大な国益をそこない、双方の国民を地獄に陥れる。為政者は激情を抑制して国際法で対応しなければならない。
今の日本の若い人の中には、戦前の日本が武力でアジア全域を侵略して完膚なき敗戦に至った事実を知らないらしい。戦前を生きた年配者も、ガダルカナルの敗退を「転進」と言われ、降伏も敗戦もなく「終戦」だけがあったと教育された。首相になった人も「日本は現人神天皇が治める神の国」と言った。「神国は不滅」、「皇軍は不敗」、「神風が吹く」思想を染み込まされている。国土を焦土と化し原子爆弾を落とされて初めて天皇が「敵は新たに残虐な爆弾を使用し、頻りに無辜を殺傷し、なお交戦を継続せんか、終にわが民族の滅亡を招来すべし」と民族消滅の大敗北を認めた詔勅を出してもなお神国不滅と抵抗する人々が現実にあった。詔勅の負け戦の判断と、神国不滅を信じて抗戦継続の判断とのどちらが、その後の日本国と国民の保全をもたらしたか明々白々であろう。戦後、ブラジルの邦人社会で日本は勝ったと信ずる「勝ち組」が長く「負け組」を凌駕した事実があるように、日本が先の大戦を仕掛けて敗北した事実を認められない「勝ち組」の人が結構多い。そして領土についても敗戦が結果する日本の国際法上の約束、条約があり、国民にとっていかに不愉快でもこれを認める勇気と理性が先ず必要であろう。戦争中、日本の負けを認めれば非国民とされ憲兵がつきまとわれ、ずるずると沖縄、広島、長崎と悲劇を拡大したことを想起せねばならない。負けるが勝ちということもあるのだ。
ここでアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーが提唱し日本でも有名になった「ニーバーの祈り」を紹介しよう。「天の神よ。変えることができないものはこれを受け入れる心の平静さ与え給え。変えることができるものはこれを変える勇気を与え給え。変えることができないものと、できるものとを見分けられる智慧を授け給え」である。この智慧は、全世界とアジアで流された数千万人の血と涙の犠牲が結晶した国連憲章と日本国憲法、特に前文、9条、98条だと思いたい。
この戦前の領土拡張への反省と新たな国際法、憲法を遵守する精神がなければ近隣諸国の信頼をかち得ない。今回の尖閣問題では、日本の政府高官の「粛々とことを進める」発言が中国側を刺激したようである。「いかなる理念の下に粛々と進めるのか」について認識が共通されていない。こちらの高官は「尖閣は日本の領土であるから日本法によって粛々と刑事手続きを進める」意味だったろうが、その割には検察庁が被疑者が強大国の人であり日本に利害が及ぶところが大きいから罪に問わないと宣言したことは、あわてて刑事法を曲げたもので「法治国の理念で粛々」ではなかった。侵略被害国は戦前の「軍事力を用いて粛々と領土を拡張する」再現かと警戒される。一地方自治体が「竹島の日」を制定しても日本国が攻めに行くことはないが、あちらでは「すわ侵略再開」のように大騒ぎになる。ここは「事実に基づき国際法に従い国際平和を願って粛々とすすめる」憲法の理念を確認し、これを諸外国に理解してもらわねばならない。日本は常に多くを取りたいのではなく、法に従い要求できない領土は敢えてそれを諦めねばならない。法治主義で一貫しなければならない。
そのためには先ず歴史の清算をする。戦前の領土侵略はドイツも同じだが歴史の清算が全く違う。ドイツは首相が犠牲者の碑の前で跪いて謝罪し、犠牲者たちすべてに莫大な国費を使って補償している。日本は被害国政府への賠償で日本企業の財貨・役務の調達を義務付けたが、被害者への個人賠償はしていない。法による解決は単に口先ではなく、「要物性」、何らかの実際に利益を提供して始めて有効である。
日本の領土関連の国際法
領土関係の国際法では国内の土地関連法が占有や登記を要求するように単に身内にあそこはわが国領土と言うだけでなく「実効支配」が重要な要素である。帝国主義時代は、他国人が現住していても実力で占領し、その後の他国抗議を排して実効支配を続ければそこが領土になってしまう。しかし実効支配の後も正規の国家間交渉があって新たな条約を結ばれるならそれが優先されよう。「成文法は不文法に優先する」。また同じ事項を定めた法の中で上下関係があれば「上級法は下級法に優先する」である。首脳会議の声明よりは成文になり関係国の批准を経た条約が優先する。また同級の法でも広く一般を定めた法より一部について特別に制定された法があれば「特別法は一般法に優越する」。同じ内容の事項につき同級の新法が成立したときは後でできた「新法は旧法に優先する」のである。これらを頭において日本の領土問題をここで簡単に検討しておこう。
1945年8月、天皇はポツダム宣言を受諾し、国民にこれを詔勅した。当時の帝国憲法第13条は天皇の大権として「天皇は戦を宣し和を議し及び諸般の条約を締結す」とあり、宣言で日本国と日本国民を有効に拘束される。この宣言第8項で「カイロ宣言の条項は履行されるべく、又日本国の主権は、本州、四国、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とあり、そのカイロ宣言は「1914年の第1次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し、又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国から剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。日本国はまた、暴力及び強欲により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される。朝鮮の人民の奴隷的状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものとする決意を有する」とある。これで南洋群島、満州、台湾、朝鮮で日本が主権を失ったことは間違いない。沖縄(尖閣諸島を含め)、千島、竹島については不分明である。
竹島についてはポツダムの「吾等が決定する諸小島」に関して、1946年1月のGHQ覚書677号が日本の政治・行政権」が出て、主権とは言っていないが国家の支配権が否定された。次いで6月のGHQ覚書1033号が日本の漁業操業権を竹島から除外し「ただし日本国領土の最終決定ではない」としている。今回尖閣諸島につき米国務長官が「日米安保が及んでいると言っても領土を確定したものではない」と言っているように領土の決定は、その関連国際法で決めることだからであろう。
そして51年9月、領土関係にさらに上級法で新法である対日平和条約が締結される。その2条は「日本国は、千島列島、樺太、これに近接するすべての諸島を放棄する」とし、沖縄を含む南西諸島については3条で「合衆国の信託統治に同意する」、いわゆる潜在主権で真の主権は凍結された。尖閣は米軍が射爆場に使ったりで沖縄と一体で米国統治下にあり、そのまま1972年5月、沖縄は尖閣諸島とともに日本に返還された。通じて中国のものであったことはなく日本の領土であろう。
竹島は日本に積極的な主権を認める連合国の決定がないまま1951年9月の対日平和条約にずれ込み、これを見た韓国が翌1952年1月、竹島を含め「海洋主権宣言」、いわゆる李承晩ラインを設定し日本漁船にも実力行使をし、順次、建物を建て、警備兵を置き、実効占有しているのに日本は許して今日に至った。奪還は非常に難しい。
千島については対日平和条約の後、1956年10月に日ソ共同宣言で、ロシアの実効占有中の択捉・国後に言及がなく9条で「平和条約が締結された後、歯舞・色丹を日本国に引き渡す」とされた。この宣言は両国議会での承認を得ており、現時点で両国間の最高法規である。そしてこれを受けて同年12月にソ連は受刑者を含め全員を解放、帰国させ、国連総会では常任理事国ソ連は日本の国連加盟に賛成した。
これが現在のわが国の領土関係をめぐる法律状態で、ここから出発せねばなるまい。もちろん今後平和的な交渉によって、それに優る状況を設定することは可能である。