一九四九年六月 − 日鋼広島の闘い −松江 澄 労働運動研究 1972年11月 No.37号
は じ め に
一九四九年六月の日鋼争議は私にとって生涯忘れることのできない闘いであった。
それは、私が当時広島地区労、県労の委員長として地域労働運動の中心的な位置にあり、また日鋼防衛共同闘争委員長としてこの争議の共同闘争についてのもっとも責任ある立場にいたというだけではない。前年の暮、私が副委員長であった中国新聞労組が呉軍政部の干渉を排して一週間のストライキを闘う中でやっと入党した私は、その後丸秘の党員として経験もないのに党の地区と県の労働組合グループ責任者にされていた。したがって日鋼争議は私が名実共に共産主義者として最初に闘った大きな闘争になったからである。
この闘争は戦後広島における最大の争議であつたばかりでなく、当時も「平事件」「人民電車事件」などと並んで三大事件と称せられ、諸闘争と共に日本の労働運動、革命運動の重大な画期となった。私は闘争後、国会の考査特別委員会に呼び出され、また起訴されて生れてはじめての法廷闘争を闘うという忘れがたい事件となった。
当時の考査特別委員長篠田弘作は、「共産党と暴力事件の真相――四大事件の国会報告書」なるパンフを編集発行して、もっぱら反共宣伝につとめたが、運動の側からはその後どの労働運動史にも「血の弾圧事件」として二、三行書かれただけで、そのほんとうの「真相」と評価、反省も未だに書かれていない。
少なくとも責任者の一人であった私は、早くからこの争議について書かなければと思いつづけていたが、現実の闘争に追われて果さなかった。そこで広島平和運動前史のメモを『マルクス主義』に書いた時、(「八・六の歴史から」註1)自分をしばるつもりで、「次の機会に是非とも私の知っている限りでも書きとめておきたい」と書いたが、それからさえすでに七年以上たった。こんど、労研編集部のすすめでやっと書くことになったが、ごく短期間に少しずつ資料を読みながら記憶をたどって書いたもので、ほんの覚書でしかない。
日鋼争議に関するくわしい資料については、こんど書くことでその所在も知ることができたが、残念ながらまだ公開される時期になっていないので見ることができず、また党の資料も僅かしか発見できなかった。何時か――できれば早い日に――こうした資料が公開され、当時の運動上いくつかの重要な問題点をもっているこの争議と闘争の全ぼうが明らかにされ、その闘いが正式に評価されることによって今日の教訓となることを心から祈っている。
そういう意味で、私の反省ともいうべきこの文章が、今後の本格的な検討のためのメモともなれば幸いである。
註1『原水禁運動を生きて』松江 澄著 青弓社 発行 に収録
一九四九年の夏――当時の情勢――
日鋼争議のことを書く前に、争議のおこった一九四九牛の夏がどんな情勢の下にあったのかを明らかにすることは、とくに重要であると思う。
それはこの争議が、当時の共産党の方針であった地域人民闘争の典型として闘われ、それはニ・一スト以後次第に明らかとなった占領政策の転換とそれへの労働運動、党の対応、また戦後日本資本主義の位置づけの中でこそはっきり評価もされ批判もされるべきものだからである。
そこで分りきったことではあるが、この争議の前後二年間の重要事件の年表をかかげておく(これは、藤田若雄 「日本の労働組合」掲載の労働運動略年表に必要だと思われる事項を補足追加したものである。)
重要事項略年表
○昭和二十三年(一九四八年)
二・二〇 片山内閣総辞職、芦田内閣成立
二・二三 差別民主化同盟結成
二・二五 全逓地域スト――三月闘争
四・一六 東宝映画スト(来なかったのは戦車だけ)
六・二八 総同盟、全労連を脱退
七・二三 マ書簡発表、十日後政令二〇一号公布
一〇・七 芦田内閣総辞職、吉田内閣成立
二・一九 産別第四回大会(産業復興闘争)
一一・二九賃金三原則発表
三・一二 公共企業体関係労働法成立
三・一八 G・H・Q、経済九原則発表
○昭和二十四年(一九四九年)
一月 総選挙で共産党三五名当選(前回四名)
社会党四八名に転落(前回一一一名)
一・三一 全労連、世界労連に加入承認
二・一四 労働法改正試案発表
三・七 ドツジ経済安定策指示
四・四 団体等規制令公布(特審局設置)
四月 日電、沖電等企業整備
産業防衛闘争はじまる
五・三 炭鉱七六六組合スト開始
つづいて五・六金属鉱山スト開始
五・二二 定員法成立
五・三〇 東京都公安条例反対闘争で橋本金二虐殺さ
る。国鉄新交替制反対闘争
六・九 人民電車事件(京浜線、横浜線)
六月 全逓秋田大会実力行使決議
六・一五 日鋼広島製作所で血の弾圧
六・二六 国労熱海大会実力行使決議
六・三〇 平事件(福島県平市駅前掲示板)
七・四 国鉄第一次人員整理発表
七・五 下山事件(国鉄下山総裁轢断)
七・一五 三鷹事件(東京都三鷹駅で電車暴走)
八・一八 松川事件(福島県松川で列車転覆)
一〇・一 中華人民共和国成立
一〇月末 公務員行政整理完了
(公務員一六四、五〇〇名 地方公務員二
五、〇〇〇名以上)
一一・二八 国際自由労連結成大会
一二月 年末までに残った民間全産業首切発表
○昭和二十五年(一九五〇年)
一・六 コミンフォルム日本共産党批判
五・二 総同盟解体方針決定、分裂
六・六 共産党中央委員会公職追放
六・二六 朝鮮戦争勃発
七・一一 総評結成大会
七・二四 レッド・パージはじまる
八・三〇 全労連に解散命令
以上の年表で明らかなように、四八年後年から四九年にかけての一年半は激動する情勢の下で、日本労働運動の重大なる転換点となった時期である。
この時期の重要な特長は、二・一スト以来、占領軍の労働政策がきびしく転換し、マ書簡に見られるようにアメリカ帝国主義の労働運動への弾圧が急速に全面化したことであった。またその反面、アメリカの援助と国家補助金という日本経済の二本の「竹馬の足」が切られ、ドツジ・ラインによる経済安定政策とその物質的な基礎としてのシャウプ税制改革等、早急な日本経済自立の準備が占領軍の手で進められていったことでもあった。
それはまた、すでに一ドル=三六〇円のレートによって世界資本主義との循環性を回復した日本資本主義が、今までもっぱら低賃金、低米価、財政インフレによって回復した生産と資本蓄積を基礎に、今や直接生産過程での搾取の強化による経済の拡大へと進みはじめ、戦後国家独占資本主義の土台が形成される過程がはじまった時期でもあった。その上、中国では揚子江以北はすでに完全解放されて革命の勝利は目前にあり、アメリカ帝国主義の戦後世界経営に占める「極東の工場」としての日本の位置は明らかであった。
戦後数年間の占領政策が、アメリカ帝国主義の強力な競争相手である日本独占資本の解体とそれに見合う限度内での民主化と労働組合育成にあったとすれば、この時期は、ようやく占領軍への重大な脅威となりはじめた労働運動と人民闘争への弾圧と、自らの足手まといにならぬ範囲内での資本に対する援助と協力がはじまったともいえよう。
しかし資本の法則は決してその範囲と限界にとどまることを許さなかった。それはやがて朝鮮特需による戦前水準への回復からそれ以後の急激な生産の拡大を経て、今日の日米矛盾を生み出す日本帝国主義復活の最初の重要な礎石となったのである。
もし戦後一、二年を完全な「全一支配」というなら、この時期はアメリカ帝国主義が支配的なイニシアチブをとりつつ、早くも講和後の日米同盟の基礎が準備されつつあったといえよう。占領軍が決して「解放軍」でないと同じように、資本もまた決して味方ではなかった。もし共産党得意の語法を用いるならば、正にこの時期こそ「二つの敵」と闘う必要があったのである。―― この点では翌五〇年の「コミンフォルム批判」も決して正確ではないと思う。
資本はかつての生産サボタージュから四八年後半すでに傾斜生産方式へと転換し、やがて集中生産方式へ移りつつあった。そうして正にこの時に、賠償指定工場日鋼広島製作所の闘いは郷土産業防衛地域人民闘争の典型として闘われたのである。
血の弾圧―― 争議の経過
日本製鋼広島製作所は広島市外船越町にあり、戦時中兵器生産をおこなっていたことで占領軍により賠償指定工場とされていたが、戦後は動力用ミシン、機関車バネ箱、炭鉱用機械、ミキサー(輸入食料加工用)などの生産をおこない、従業員は約二一〇〇名で月産六八〇〇万円から七〇〇〇万円前後であった。しかし、その後月産四五〇〇万から四〇〇〇万円へと生産が低下し、とくに経済安定政策〔ドツジ・ライン)によって国鉄予算が大幅に削減され、炭鉱危機の影響もあって生産は低滞していた。
労働組合は二一年二月に結成され、はじめは現場労働者が中心であったが、まもなく職員が指導権を握りはじめ、早くから経営協議会が設置されていた。また上部団体は全国組織としては全鉄労に参加していたが、争議当時は三車三原分会とともに日鋼広島分会として全金属に所属していた。組合では二三年頃から僅かな力ではあるが、党と現場の活動家が影響をもちはじめ、二三年十二月の役員選挙では現場の党員が委員長に当選した。しかし会社の圧迫もあって組合の中にも動揺があらわれ、二三年十二月から二四年三月までの間に三回も組合の役員改選
がおこなわれたが、委員長はその都度再選されつづけた。
労働組合としては、この争議がおきるまで特別に戦闘的な要素が強いわけでなく、会社も組合員自身もあれほどの大争議になろうとは誰しも思わなかった。
三月下旬、賃金値上問題と五月三日期限が切れる労働協約問題で中央経営協議会がひらかれ、数度にわたって協議がおこなわれたが、貸金値上問題は次第に貸金遅配問題となった。また労働協約問題は五月に入っても解決せず、期限が切れた後も一日ごとに延長しながら交渉をくり返したが、改悪労働法、労働次官通牒を骨子とした会社改訂案に組合は強く反対し、五月四日ついに双方妥結の見込みなしとの覚書を交換し、労働協約廃棄の宣言をおこなって無協約状態のまま六月に入った。
以下、まず日を追って争議の大よその経過を明らかにして見よう。
争議の経過
「
六・二一 会社側、各製作所に企業整備案を指示し、六
月六日までの期限付回答を組合に要求。
△企業整備案(カツコ内は従業員数)
(1) 製作所関係
広島(産別全金属) 六二二(二〇八五)
横浜(総同盟・メリヤス機械) 三四八(七四二)
武蔵(産別全金属・農器具) 二三八(六六○)
室蘭(中立・鉄鋼) 整理なし(四〇〇○)
宇都宮(産別全金属・ミシン)整理なし(九〇〇〕
(2)営業所関係
本社・大阪・福岡 一五(二一三)
計 一二二三(八五九九)
この日以来、党は社宅、地域等で演説会をひらいて
首切反対、郷土産業防衛を訴える。
六・三 組合大会をひらき、「首切撤回、賃金即時支
払、吉田内閣打倒」を決議。
直ちに撤回の署名運動で職制つきあげると共
に職場闘争、サボタージュに入る。
六・九 団交で組合対案提示。
ミシン月産五〇〇台を一〇〇〇台に引き上げ
九〇〇万円増で完全雇庸確保案、会社側わず
か二〇分で拒否。
六・一〇 会社、解雇者に通知郵送、希望退職者の募集
掲示、組合はぎとり再掲示。
六・一一 団交で会社側整理強行を通告し首切りリスト
を手交し交渉決裂。
直ちに所内広場で大会を開き人事課長等を呼
び出してつるし上げ、所長との団交を迫り強
引にリストを返却。
六・一二 職場大会をひらき所内、職場内をデモ、団交
を要求するも会社拒否。午後一時から広場で
集会をひらき板垣所長代理等会社幹部を引っ
張り出して集団交渉をおこない、翌日朝六時
に及ぶ。
六・一三 漸く団交再開するも交渉進展せず。周交打切
り、この日より労組、団体の応援しきり。呉
軍政部よりダガー大尉来所、会社、船越警察
署長に部外者の立入禁止を指示し、その実施
を要求するも退去せず。
六・一四 午前六時会社側工場を閉鎖。
ダガー大尉一〇時五分退去を命令するも県労
正式文書を要求し口答命令を拒否、気勢上
る。後米呉軍政部長トルーデン少佐賠償指定
工場管理責任者広島県知事に対し、「賠償指
定工場に関する覚書、米第八軍作戦命令」に
もとづき工場保全措置に関する指示を文書で
手交、十一時警官三五〇名、つづいて警察管
区学校生徒六〇〇名加わる。
県労は所内で緊急敏行委員会をひらき日鋼防
衛共同闘争委員会を設置、直ちに各組合に指
令を発し共闘関係続々来援、この日武蔵工場
正午から二十四時間スト。
六・一五 大量の警官隊日鋼へ派遣の情報により、党地
区委員会の指令で市内各派出所へ押しかけ動
員の阻止、分散をはかる。
夜来、現地に二五〇〇―三〇〇〇名の警官集
結し、工場を包囲。未明マイクで知事の退去
命令布告、共闘サイレン、労働歌で応酬し各
門を防衛隊で固める。
五時軍政部命令により警官隊突入、正門で最
も激突、六時三〇分全員強制退去さる。負傷
者、組合側五九名警察側三二名(考査委調査)
住居侵入不退去罪で三二名逮捕さる。
午後に入り正門前に再結集、午後七時より争
議団を中心に家族、支援労組、団体等五〇〇
〇人で集会をひらき、かけつけた英壕軍一コ
小隊銃を構えての警備と対時、午前二時に至
る。
六・一六 再び正門前で人民大会をひらき工場奪回を宣
言、この日以来近くの松石寮(引揚寮)に本
部を置き随時出撃。
共闘関係引きつづき大量動員。
六・一七 知事、労使双方代表を招請して団交あっせ
ん、午後九時警官隊ようやく退去。
この日以来ほとんど連日広島検察庁へ約一〇
〇〇人前後で不当逮捕抗議デモ。
六・一八 交渉団、知事交渉。
市内平和広場で共闘委大会を開催、西署へデ
モをかけつつ市役所へ集結、市長、市警局長
を呼出し、市長に争議解決要請と公安条例反
対を確約させ、局長に響官の暴行を謝罪させ
る。
六・一九 県労緊急執行委員会をひらき地域ゼネストを
決定。
六・二〇 産別菅議長外調査団来広。打合せ会議、知事
交渉、据り込み。
六・二一 共闘委、人民広場で不当弾圧反対県民大会を
開催、東署へデモをかけつつ県庁へ集結、知
事、国警隊長と交渉、知事に工場閉鎖解除と
解散を確約させる。この日広船二四時間の支
援スト。
拘置理由開示公判、一七名釈放。
以後引き続き団交、抗議。
六・二四 船越人民大会で四時間に亘り町助役に首切反
対、主食掛売等の町議会議決要求。
この外、連日、海田市、府中、矢野、畑賀、
中野等周辺町村長、議長へ押しかけ同様に要
求。
この日広島市会解決要請決議(県会は否決)
六・二七 第二組合日鋼再建会の名称で中国新聞に広告
掲載、分裂公然化。
六・二九 不法監禁の名目で十二名逮捕状、四名逮捕。
七・七 第二組合入所の情報により争議団共闘正門前
に集結、夜に入り一部突入。
七・八 第二組合日鋼労組設立(八〇〇名)。
七・一二 工場再開(閉鎖解除)第一、第二組合別々に
入所、地労委のあっせん開始。
七・一五 第一組合正式に職場復帰と作業開始を指令。
七・二一 会社側最終案提示。
七・二三 第一組合、大会をひらき受諾決定。
七・二八 第二組合、七・三〇第一組合それぞれ調印。
△ 被解雇者は希望退職扱い、一〇〇〇円支給、
新規採用時には優先採用。
残留者は立上り資金として基準内賃金(七二
二〇・六二円)の五三・六二%を前払等。
(以上、日綱広島製作所労組「二〇年史年表」に労働省「日本労働運動史」、篠田編「考査特別委員会報告等」その他により補足)
この闘争がはじまる一、二カ月前、私は党の方針にもとづいて広島県郷土産業防術会議を組織した。しかしそれは、前年三月労働組合を中心につくつた物価値上反対共同闘争委員会と、同じく前年形だけはととのえた労農連絡会議とを主体に、若干の中小企業を加えたものであり、具体的には何一つ活動しない内にこの争議になった。
この闘争の指導は一応は地方―県―地区―安芸郡の各委員会ということにはなっていたが、実際には工場と道路をへだてた在日朝鮮人連盟の建物の中にあった中国地方委員会(委員長内藤知周氏は一時ここに住んでいた)が中心になって指導し、日鋼細胞会議もしばしばここで開き、また私も直接内藤氏と連絡をとって活動した。方針はもっぱら弾圧反対、産業防衛闘争として地域人民闘争を闘うことであった。
私は前年暮中国新聞の闘いで占領軍の介入には経験があったが、日鋼の場合は賠償指定工揚でもあり中国新聞の時のように生易しいものではなかった。しかし、どこまでも退去命令を拒否し、呉軍政部と正面から対抗した。
十五日未明、警官隊に包囲されていた時、角材に五寸釘を打ってプラカードをつくる者もあり、竹槍をつくつて対抗しようという者もあったが、材料がないこともあってどこまでもスクラムで闘うことにした。ただし組合旗とプラカードは恰好の武器となってしばしば警官をたたきのめし、つきたおして悩ませた。後年、「武装闘争」が論議されていた頃、労働者の武装要求としてこのことが引き合いに出されたと聞いたことがあるが、今なら新左翼の諸君が喜んでとびつくに違いない。
なお、考査委員会での上田市警局長の証言によれば、警官隊突入の際、軍政部から武末国警隊長等へ、違反者は軍事裁判にかけるから指導者二、三名を逮捕するよう命令したという。
こうして弾圧や強制退去もすべて呉軍政部の命令と指導でおこなわれ、日鋼の労働者は首切りについても経営者以上に占領軍と占領政策に憎しみをもっていたが、党の方針としてほ占領軍の役割を明らかにすることが特に中心にはなってはいなかった。
私は党の指令によって警官隊突入後すぐその包囲線を鋭出して広鳥に帰り、緊急に会議をひ
らいて引返し、再び日鋼正門前で集会を組織し夜に至った。不穏な情勢を察知した軍政部の命令で一コ小隊の英壕軍がかけつけ、銃をかまえておどかしたが、全員退去せず雨の中で対時した。そこへ党の指令が連絡され、近くの松石寮へ引揚げろというので、不満を押えて撤退したが、まもなく寮へ乗り込んで来た党の代表団からどうして引いたのかとなじられた。党の連絡がいつわりだったのか、党の方針が動揺していたのか、未だに不明である。
退去以来、松石寮に本拠をおいて市内各労組と連絡をとりながら連日動員をかけたが、始めの一過間ぐらいは毎日一方人近くの労働者が船越街道を絶えず往来し、広島市内も騒然たるものであった。電鉄労組は連日無料バスで労働者を輸送し、バスの中で会議を開いたこともある。共闘、支援は党の指令で全県に及び、県北の農民からは米俵がトラックで運びこまれ(十四日)大いに鼓舞激励した。また、たまたまソ連からの帰還者が広島駅を通過するというので出迎えにかけつけ、共に歌うインターの声は夜半駅頭にこだました。
党は地域闘争に全力をあげ、もっぱら県・市および周辺町村の「地方権力」へ圧力をかけつつ「味方」にさせるためにかけ廻った。この間
県市町村の有力者の自宅へ押しかけたり、いやがらせをした(「考査委員会報告」)こともまんざら根も葉もないわけではない。しかし争議団も共闘労組も支援の民主諸団体も、連日不眠不休で火のようになって活動したが、こうしたことは後にも先にも経験したことがない。
争議団もはじめの内は意気盛んであったが、次第につかれはじめ、共闘の中にも私らの引き廻しにカゲで批判する組合も出はじめた。(この争議の直後、県労は分裂した。) 会社は秘密裡に巧妙な分裂工作を地域ごとにはじめたが、会社と連絡をとって動いたのは社会党系の反共
幹部だった。
分裂工作に気がついた時はすでにおそかった。分裂がすすむほど争議団にもあせりが出はじめ、党も収拾にほん走した。地域人民闘争はその本来の目的よりも、結果としては早期解決をはかるために役立った。分裂が急速に拡大した理由は、もちろん、首を切られた者と残った者とのすき間が日が経つにつれて大きくなったことではあるが、すでに始まっていた全国的な戦線分裂(民同派)も間接には影響を与えた。
また、党が細胞から機関に至るまで、あまりにもその指導と引廻しをかくさなかったことも利用された。
私たちも始めから簡単に勝てる闘いとは思っていなかったし、日鋼労働者の中でも、会社がつぶれても闘おうという空気は始めから強かった。結局、会社はつぶれず、分裂で敗北した。 しかし、「広島をゆるがした一カ月」は、日鋼労働者はもちろん広島中の労働者に深い感銘と大きな影響を与え、経営者や地方自治体、そして占領軍にも多大の衝撃を与えた。私も、もし革命というならこのようなものであろうかとさえ思った。事実、この闘いの最中に九月革命説が誰いうとなくささやかれていたのだった。
九月に入って私を含めた関係者十数名が国会考査特別委員会に召換された。当時の党の委員は徳球と神山茂夫氏だった。私の記憶では徳球は忙しかったと見え、もっぱら神山氏と打合せて闘った。少し高い椅子で前の方へ引きすえられた私に「お前は徴役十年だぞ」と叫んだのは、確か後に労働大臣になった大橋武夫だったと思う。神山氏も持前の大声で応酬していたのを覚えている。
国会から帰るとまもなく二十数名と一緒に住居侵入不退去罪、共同謀議で起訴された。これまた生れて始めての経験で、前年内藤氏が国鉄闘争阻止の宇品事件で闘った法廷闘争を支援傍聴していたので、暑い時に二日に亘って五時間ばかり冒頭陳述をしたのを覚えている。私は被告団の責任者だったが、翌年の五十年分裂で被告団も割れ、後半は闘争が内輪もめでむつかしかった。一審ではもちろん有罪になり、七、八年かかって最高裁までいった時には被告団も三、四名になっていた。もちろん有罪だったが、この裁判は宇品事件と共に戦後広島でもっとも大きな法廷闘争となった。
闘争の評価と党指導の問題点
この闘いは首切り反対闘争として出発したが、当初から単に一企業だけの闘いとしてではなく、ドツジ・ラインによる全般的な企業整理への反撃として位置づけられていただけに、「内閣打倒」等のスローガンに見られるように自然発生的にも政治的性格は強かった。とくに賠償指定工場であっただけに、直接占領軍と対決することで理屈抜きに「敵は誰か」は明らかであった。また闘いの中心であった金属系組合は広船のストをはじめ、三菱三原車輌、笠戸造船等も抗議闘争をおこない、党の指導によっては地方的な規模で金属統一闘争が資本と占領政策に対決して発展する条件もあった。しかし、こうした条件は当時の党中央の眼中にはなかった。
当時中国地方の統制委員代理として中央統制委員会に出席していたものを呼び返されて、急いで帰広した内藤知周氏の話によれば、本部から帰る時、政治局の部屋で志田から「平和都市を血で汚すな」というスローガンを書いて渡され、すぐ弾圧反対闘争を組織しろといわれただけで、日鋼自体の闘争をどう発展させるかということでの指示は何もなかったという。また、弾圧直後(六・一八―一九)にひらかれた拡大中央委員会総会に出席した当時の原田中国地方委員会議長が、日鋼闘争に中国地方の金属労働者が連滞して立ち上ったこと、闘争がアメリカ帝国主義との正面からの対決になっていることなど力説しても、中央はあまり評価しなかったと、帰ってから不満をもらしていたという。(内藤氏談)
弾圧後調査のため来広した産別のグループからも、特別の指導・連格もなく、ただ産業防衛地域人民闘争が強調されただけであった。したがって金属の統一闘争に発展させようと努力していたのは、今、大阪にいる樽美君をはじめとした金属のオルグ諸君だけだったように思う。私も党の指導で地域ゼネストをと努力して見たが、すでに民同派は非公然に組織されつつあり、県労で決議はしたが、あれだけの大動員にもかかわらず、ストライキ等生産点で抗議闘争に立ち上ったのは県下の金属系組合だけだった。
したがってこの闘争に対する党の指導を検討するとすれば、占領軍とその政策の位置づげ、産業防衛闘争方針および地域人民闘争戦術の三点につきると思う。もちろんこの三つは決して別々のものではなく、結びついて一つの日和見主義的な戦術体系となっていた。
(1) 占領軍の評価と位置づけ
戦後以来の「解放軍規碇」が直接の経験で確かめられたのは二・一ストであった。もちろんニ・一スト禁止に示された占領軍の性格は突然あらわれたものではなく、基本的にはすでに占領の瞬間から決定されていたものであり、ただ情勢と条件によってその態様を変えたにすぎない。したがって正確にいえば、それは占領政策の自発的な転換ではなく、闘う労働運動、人民闘争の発展がいや応なくその本質をひきずり.出した転換であつた。闘ったからこそ明らかになったのであり、闘わなければ占領箪の性格が暴露されるのはもっとおそかつたかも知れない。日鋼闘争のもっとも激しい場面でも、直接対決したのは製作所の幹部でも「地方権カ」でもなく、その主人公である占領渾だったのである。
しかし、二・一スト禁止によって闘った労働者は身をもって感じていたにもかかわらず、党としては占領軍の位置づけを改めて明確にすることはなかった。恐らく当時の党にとっても実際にはその性格は自覚されていたのではあろうが、公然と語ることによって受ける弾圧を戦術的に「配慮」したのではあるまいか。しかし、もしそうだとすればそこにこそ重大な問題がある。知らなかったのではなく、知ってさけていた所に日和見主義が戦術から戦略にまではい上る根拠がある。ちょうどストライキの時にもたらす失敗への度重なる「配慮」が、やがてストライキへの軽視と無関心を生むように。
その結果、あれほど戦後日本の闘いにとって画期となったニ・一スト禁止の教訓も、四八年暮にひらかれた第六回大会では、「これまではストライキヘの偏重傾向が過半を占めていたが、この、失敗を充服して、大衆交渉、サボ戦術、生産管理闘争、地域闘争、ストライキ戦術等複雑多岐にわたる総合戦術を運用しうる程度に発展しつつある。」「ニ・一スト後、これまでのストライキ戦術では前進することができなくなったために、‥・・・(前述と同じ)一般人民大衆との幅のある共同闘争戦術に転換し、戦術をきわめて総合的にすることに発展せしめていった。」(日本共産党宴伝教育部編「日本共産党決定報告集」)と、統一ストライキから総合的地域戦術への転換という「戦術的」な教訓をもたらしたにすぎなかった。
したがってアメリカ政府の中間指令であった経済九原則に対しても、党はこの原則を承認し、問題は「誰が誰のために」するのかというところにあると主張し、産別もまた、「九原則を労働者の手で」実施することを強調した。しかしこの九原則こそひきつづくドツジ経済安定政策、シャウプ税制改革などとあいまって、労働者を犠牲に日本独占資本を再建して目下の同盟者にするためのアメリカ帝国主義の政策に外ならず、日鋼をはじめ嵐のようにおそった企業整備の根源でもあつた。
「誰が誰のために」するのかはすでに明らかであった。結局、アメリカ帝国主義の占領政策を明らかにするためには、残念ながら翌五〇年一月の「コミンフォルム牝判」を待たなければならなかった。
(2)地域人民闘争について
地域人民闘争については、すでに引用した第六回大会で萌芽的に示され、その後なしくずしに一つの体系として発展させられ、グループを通じて労働組合にも浸透していったが、その典型は産別の第五回拡大執行委員会で決定され、第四回大会(四入年十二月)で採用された産業防衛闘争の方針である。
(一) 職場の要求を職場綱領に結集し、これによって大衆行動を組織し、職場を自主的に管理して経営を大衆の要求する方向に動かす。
(二)進歩的な民族資本をして大衆の要求に従わせ、独占資本の集中生産方式と闘う。
(三)産業防衛闘争を職場、経営の中から拡大して関連産業、基幹産業と結び、市民農民と結びつけて地方自治体をして郷土産業を守る闘争に立たせる。
(四)各地域における闘争を全国的にもり上げて吉田内閣を打倒する政治闘争に発展させ、政府と団体交渉し、臨時国会の開会を要求して闘う。」 (海野、小林、烹編『戦後日本労働運動史』)
これには、民族資本との共闘や企業防衛のもたらす危険と偏向についての必要な反省もつけ加えられてはいたが、こうした闘い方自身の本質的な検討がないため、結局は、「職場権力に対する職場闘争→地方権力に対する地域闘争→共闘による上下権力の中断→孤立した中央権力の打倒」という図式的な方式の機械的な適用を生んだ。日鋼闘争がこの図式をもっとも忠実に実行したことは事実の示すとおりである。
地域人民闘争については、その後党の第七回大会で自己批判をおこない、「戦略的基本方針の不明確さとむすびついて、戦術においてもしばしば重大なあやまりをおかした。一方では、占領下の平和革命論にもとづく右翼的、合法主義的戦術がとられ、また同時に他方では、小ブルジョア的あせりによる情勢と力関係の主観主義的な評価からくる左翼日和見主義戦術があらわれた。地域人民闘争、職場放棄などがこれである。」 (第七回大会政治報告)と指摘した。
また長谷川浩氏は、「一九四八年・全逓全官公の三月闘争」 (『労研』二七号)で、「・・・・・日本が植民地化されたのだという理解から、中国革命の影響が入り、その戦略戦術を機械的に模倣する考え方が生れ・・・・・日本の階級闘争を民族解放闘争とし、敵との正面衝突をさけてゲリラ的にいくのだというような考え方、職場や地域で敵権力を打倒して解放区を建設するのだという幻想が生れていたのです」といって、小ブルジョア民族主義の偏向であると指摘し、この考え方が整理されて五一年綱領の一つの基礎になったとしている。
この二つの指摘は、一方がアメリカ帝国主義の占領支配を軽視した占領下平和革命論にその基本的な要因を求め、他方は二・一スト禁止後生れた植民地化論に根拠をおく中国革命論の模倣だという点で根本的にくいちがっている。一方は民族的課題を放棄した右翼日和見主義といい、他方は小ブルジョア民族主義のゲリラ戦術という。たしかに宮本報告が指摘するように、占領下平和革命論の所産だといえば万事かたがつくし、また結果として長谷川氏のいうように中国革命の解放区方式に似ていることは間違いない。しかし、くいちがいは別としても、これだけでは極めて不充分であるばかりでなく不正確である。
この偏向の生れた動機の一つは二・一スト禁止による戦術的後退にあり、他の一つは四九年一月総選挙で党議員が一挙に三五名に踵進したところから生じた議会主義的「自信」と幻想にあると思う。そうして闘争の後退と議会的躍進という相反する二つの動機を結びつけるのに一役買ったのが、「職揚権力論」「地方権力論」というあいまいな権力論であり、これは後にアメリカ帝国主義と日本独占資本によるゆ着権力論として開花し、折衷主義的革命論を生んだ。
結局、地域人民闘争は、一見くいちがう平和革命論と解放区戦術をまちがった権力論で接着した奇妙な混合物の議会主義的日和見主義に外なるまい。
(3)産業防衛闘争について
地域人民闘争にはもう一つ重要な側面がある。それはこの戦術が産別の方針に見られるように産業防衛闘争の戦術であるということだ。そうして産業防衛闘争は決して九原則、ドツジ・ラインによって突然登場したものではなく、その醍は早くから産業復興闘争として存在していたものである。したがって生産管理闘争―直業復興闘争――産業防衛闘争という一連の体系をつきとめることによってこそ、その性格を明らかにすることができる。
戦後最初の時期の生産管理闘争は、党の意識的な指導があったにせよ、多くの場合資本の生産サボタージュに対する企業内対抗戦術として多分に自然発生的な性格を帯びて登場した。これについても斎藤一郎氏は次のように云う。
「徳田書記長が四五年十月の解放運動出獄同志歓迎大会で生産管理を教え、全員の工場復帰を要求する失業反対闘争との結合を強調した。しかし書記長はそこにだけとどまっていたのではない。書記長ははっきりと生産管理を戦術とする闘争を準備の要素として、資本主義生産一般の管理と没収の方向をさし示しながら、この生産管理を食糧の人民管理と結びつけ、さらに食糧管理委員会と労働組合および農民委員会の三者が結合し、人民協議会を結成し、果敢に闘うことこそ『民主主義革命達成の道』である。」と。(『二・一スト前後』)
しかし、もしそうだとすれば占領軍の位置づけは別としても、闘いは当然個別企業にとどまらず産業別統一管理闘争へと発展させられなければならなかったはずだ。しかし残念ながら多くの場合は、企業内経済要求の闘争手段以上に出ることはできなかった。
そうしてこの戦術が資本の抵抗によってゆきづまると、替って登場したのが産業復興闘争だった。これも、四七年一月の党第二回全国協議会では、「ゼネストを先頭とする大関争が生産増強の鉄のムチとなると同時に、反動勢力を一掃する強力な力を結集する『第一段階』から、革命的大動揺が起ったときに労働者農民を中心勢力とする人民の結集力は人民協議会の役割によって生産と流通を管理し、人民の生活を安定の方向へ導く『第二段階』へ、さらにこうした過程を通過して民主人民政府がたてられ、その統制の下で全面経済復興がなされる『第三段階』へと発展させられ、結局、革命の遂行が産業復興」だと結論している。(筆者要約)
しかし、これでは革命一般に解消されて、特殊な性格をもつ産業復興闘争として革命的な発展の環を形成することにはならない。もし破壊された産業の人民の手による復興闘争を権力へ接近する特殊な形態として追求しようとするならば、戦後ヨーロッパで闘われたように、「平和のための労働計画」を明らかにしつつ、産業別生産管理闘争、逆ストライキ、失業者委員会による完全雇庸闘争などをたくみに組合せて闘う必要がある。そうしてこのような闘いは同時に、戦争中から大衆的基礎の上に反戦抵抗闘争を闘い抜いた党のみが得ることのできる、経験と事実を通じての人民の信頼と、具体的で高い政策と組織の力量で裏付けられていなければほとんど不可能であったろう。
結局、産業復興闘争も「誰が何をどうして復興するのか」は明らかにならず、危機突破会議―産業復興会議に見られるように、せいぜい宣伝的役割か共闘一般に解消されてしまった。その結果、産別も高野実と経済同友会の合作による労使協調の「経済復興会議」を最後まで批判しながら、四七年度末ついに参加してしまったのである。
こうした産業復興闘争の裏がえしが産業防衛闘争であったとすれば、「郷土を守れ」 「産業
を守れ」と叫んでも結局スローガンに終ってしまうのも無理はなかった。現に日鋼闘争に参加した労働者も、スローガンは棚上げにしてただ力強い共同と連帯の闘いとして認識し評価したのであった。
しかし、たとえ「郷土産業防衛」というスローガンが実際には毒にも薬にもならなかったとしても、それは重大なあやまりだった。何故ならば、占領軍も、独占資本も、党がいうように「産業を破壊した」 のでもなく、「日本を焼土にした」 のでもなかった。それどころか、この時期、経済安定政策と傾斜生産、集中生産方式によって日本のもっとも重要な産業を着々と彼らの手の中にしっかりと握りはじめていたのである。彼らこそ産業を「防衛」したのであり、「破壊」しなければならなかったのはわれわれであり労働者であったのだ。
こうして解放軍規定、産業防衛闘争、地域人民闘争は誤った情勢評価の下で一定の右翼日和見主義戦術の体系となった。しかし闘争は党のどんな誤った指導の下でも、暴発的に噴出し、すばらしく発展する。最後には分裂で敗れたとはいえ、日鋼闘争の大きな影響とその革命的伝統は消えることはない。
そして、当時の指導者のあやまりもまた今日まで生きつづけて日本革命運動の重大な障害となっている。「解放軍」のまちがった規定は逆転して今だに日本をアメリカ帝国主義の「半占領従属国」規定として。また「産業防衛闘争」はストライキの追求を回避し冒険を恐れる日和見主義戦術として。そうして「地域人民闘争」は議席の獲得を最大の目標とする地域選挙運動戦術として。
日鋼闘争のただ中から始まった定員法による国鉄等の首切りに反対する闘いは、機を移さず組織された下山・三鷹・松川のフレーム・アップによって坐折し、米日支配層はこの年にほとんどの行政整理、企業整備を完了し、つづく翌二十五年のレッド・パージで労働運動の完全な制圧に成功したが、その時すでに朝鮮戦争ははじまっていた。
こうして日鋼闘争等を最後にして歴史は大きく流れを変えて行ったのである。
おわりに
この闘争の革命的伝統は長い年月の間に薄れたとはいえ、今でも多くの広島の労働者の心の中に生きつづけている。当時二〇歳すぎの人びとも今は四五、六歳になり、当時の中心的な活動家はいずれも五〇歳を超えている。時に思わぬ人から、私は日鋼争農のとき〇〇で闘っていたとなつかしそうに話しかけられることがある。そうすると私の記憶はたちまち二十数年をさかのぼって昨日のようによみがえる。そうして、その中の一人に今は亡い峠三吉がいる。
彼は戦後まもなく私のいた中国新聞の懸賞募集論文に「十年後の広島」を書いて当選し、その後次第に頭角をあらわした。私とはたしか二十三年頃から話し合うようになったと思う。
今でも思い出すのは、たしか二四年に入ってからのある夕方、当時、朝連会館の中にあった県労の事務局でただ二人、電燈もつけず薄暗い中で運動のことを話し合ったときのことである。前後の話はすっかり忘れてしまったが、そのとき彼は「コミュニズムとヒューマニズム」の関係についてどう思うかと、思いつめたように私にたずねた。私もまた党に入る前まで考えつづけていた問題でもあっただけに、二人とも時間を忘れて話しこんだが、その情景が今でもあざやかに目に浮ぶ。クリスチャンだった彼が次第に共産主義運動に接近しながら、今なお思いなやんでいるなと私は感じた。
その後彼は入党し、「原爆詩集」を書き.「われらの詩の会」をつくり、誠実に活動した。五〇年分裂の時、他の文学者、詩人と一緒に手分けして基地バンプをつくつたが、私はそのグループの指導責任者でもあった。
彼は以前から肺壊疽におかされていたが、その後何度も喀血し、手術し、そうして死んだ。
彼が党員であることが誰にも分ったのは、彼の遺言でその棺が赤旗でおおわれたときだった。
その彼が、はじめての経験として闘いの中にとびこみ、労働者にふれ、激動の中で意識と情熱を燃焼させたのが日鋼闘争であった。彼は筆で闘い、大きな影響をあたえ、そうしてまもなく入党した。労働者の怒りは彼の怒りであり、彼の怒りは一層多くの労働者の怒りとなった。
怒のうた 峠 三 吉
昨日迄ミシンや鍋を生んでいた
労働者は追われ今日工場の屋上に
憎むべき警察の旗ひるがえる
折れた旗竿をつなげ!おお!
縛られた両腕はふりほどけよ!
たとえわれ等の血は涙に吸わるとも
吾等の喉は警棒に絞められるとも
擬されしピストルをとつとつと老労働者は語り
首折りて背の児は眠れど女房等は去りもやらず
刻々と数を増し工場を囲む組合旗のゆるぎの中に
唄となる怒りの涙
かなた夕となる木蔭の土には日鋼の労働者
倒れて眠りそのあたり静かにつよし
※この詩は六月十八日午前十一時から広島市本町平和広場(今はないが、当時浜井市長が平和宣言を発表した所)で、日鋼防衛共闘委が主催し約六、七〇〇〇人の労働者、市民が集った人民大会で朗詠されたものである。(「日鋼二〇年史年表」より)
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