板倉君を思う(1976年7月10日 『労働者』)
松江 澄
板倉静夫氏急逝
板倉静雄氏は1976年7月7日午前7時急逝骨髄性白血病のため急逝された。享年五十歳。
昭和20年、私が共闘委員長だった日鋼争議の闘いの中で、当時三菱広島造船労組の青年部だった彼と会ったのが最初の出会いだった。若くてスマートで、それでいてたくましかった彼と、以来今日まで 27年間、心許した同志の仲だった。
彼は、レッド・パージで三菱を首切られてから、機関紙活動、労組書記の活動など地味な仕事を続けながら、五十七年の第三回世界大会以来、広島原水協、つづいて広島原水
禁の事務局次長として十数年もの間、縁の下の力持ちのような、しかしこの運動にとって他の人に替えられぬ大きな貢献を果たした。早くから運動に参加した被爆者で彼を知らぬ人はいないであろうし、また被爆三県はもちろん中央、地方の原水禁運動の活動家の多くが広島に来れば必ず訪れたものだった。ほんとうに彼は広島の運動の生き字引であり、案内人であった。
彼ほど、几帳面で器用な反面、奔放で自由な、その上鋭いカンをもっている男も珍しい。彼には、初めての人でも一夜飲んで意気投合すれば一生のつきあいになるほどの人間の深さがあった。彼は多くの人々を愛し、多くの人々もまた彼を愛した。しかし、あの頑健な彼もついに逝った。彼が何度もそのために奔走した白血病のために広島の原水爆禁止運動はまた一人かけ替えのない宝を失った。
仮題『被爆動員学徒の生きた時代』 小畑弘道著 出版に寄せて 評者 米澤鐵志(高雄病院元事務長)
出版社 たけしま出版 定価1500円 (4月出版予定)
広島の小畑弘道さんが故近藤幸四郎氏の原水禁,被爆者運動を軸に書かれた本が出版される。
著者の小畑氏に始めて会ったのは、彼が同志社大学在学中時の、ある集会だった。彼が「私は政治にはあまり興味がないが、いいだももに興味をもっている」と言うような発言をしたのを聞き、彼は文学青年だなと感じたのと、広島出身で私と同郷だと知り好感を持ったのが最初だった。
先日労研編集部の室崎氏から「今度、小畑氏が近藤幸四郎氏の本を出すので書評を書け」と依頼された。
私が「まだ見てもいない本の書評は書けない」と言うと、「小畑さんに言って原稿を送らせるから、とにかく書け」と押し付けられた。
間もなく小畑氏からA5サイズ 百二十七枚のコピーが送られてきた。
原稿を読んでみると、その中身が豊富で、近藤幸四郎氏への愛情と彼の運動への信頼感が溢れていて素晴らしい本になると感じた。
私が近藤氏に会ったのは、この本にも述べられているが、広島駅前の小さなビルの二階に置かれていた松江澄の事務所だった。私が帰郷したとき事務所を訪ねたところ、たまたま近藤氏がいて、松江さんか久保田さんに紹介された。
その時は全電通の活動家で、ここの家主の息子さんと言うことだったが挨拶程度で終わったと思う。
二度目は山口氏康氏が宮崎安男氏と近藤氏を連れて、当時私の勤めていた京都の高雄病院に二泊三日の検査入院したときだった。帰広する前の晩は、私の手作りの醸造酒を飲んでよもやま話(もちろん運動や政治の)をして大いに意気投合した。
話の中で「明日の帰りは、途中で金閣寺によって金箔を少し剥いでいこうか」などの冗談も出て検査とはいえ入院中の患者との会話を遥かに超えていた。
その縁もあって、会えば「てっちゃん」「近ちゃん」と呼ぶ仲になり、八・六に帰広するたびに近藤氏と一緒に食事をしたりした。近ちゃんは忙しい人で、いっしょにいるのが原水禁大会に来た外国代表であったり、国連の事務局職員であったり、又本書にも登場するデルタの会のメンバーだったりが一緒で実に多彩な話が聞けた。
九十九年だったと思うが八・六集会のあと平和会館に寄ったら石田氏(原爆投下の時、爆心七百五十米の地点で私と同じ電車に乗っていて、氏は兄を、私は母を喪うという奇跡の生き残り同志)と、これも旧知の朝被協会長の李実根氏と近ちゃんと私の四人がそろい、「七日の午後一杯やろう」という話が出た。私は七日の昼迄には京都に帰らねばならず、またの機会ということになったが、残念ながら実現しなかった。
本の中身に入るが、彼が本格的に組合活動に参加する契機になったのは共産党との関係だった。
《六十二年当時の全電通広島県支部大会は執行部側と共産党系代議員側との対立が極度に先鋭化し、荒れた大会になった。
その背景には、前年、共産党中央指導部の方針を批判して共産党を離党した林田史朗副委員長に対する理不尽とも言える個人攻撃が行われていた。
彼は、電通細胞のリーダーで「林田学校」といわれて人々の信望を集めていた存在であったが、硬直した組織による人身攻撃の横行を嫌っていた。
大会での議論は合理化、生理休暇、政党支持、国際問題に至るまで事案ごとに蒸し返され、聞かされた側の代議員はうんざりだったというが、この中で行われた役員選挙で異例なことが起こる。
支部役員の定数通りの立候補で信任投票になったが共産系の候補者(屋敷代議員、後に日共広島市議)が不信任になり再投票、再々投票でも不信任に終わり、欠員になった専従役員の補選は次期委員会に持ち越された。
屋敷は共産党系代議員が多数を占める支部委員会で信任を得ようとして再び立候補した。
近藤は所属する分会の有志と相談して負けを承知で対立候補として出ることにした。
支部大会で三回にわたる投票で信任されなかった人が少数の委員会で信任されることは、どうしても我慢できなかったである。
立候補に当たっては、相手陣営から厳しい攻撃にさらされたが、投票結果は、意外にも彼が当選したが、彼にしては予想外の当選で、家族、職場の仲間にも賛成してくれる者がなく困難な状況であったが、止むなしとして、専従役員として活動することになった。》
しかし党の独善的方針で、運動で敗北し、職場で孤立した党員を論功行賞で市会議員にする日共の姿勢は一般には理解できないことだろう。
翌六十三年が激動の年だった。日本の平和運動は、前年の原水禁大会でソ連の核実験をめぐってゆれにゆれ、全電通内部も対立と決別の渦に巻き込まれていた。
いわゆる、いかなる国の核実験問題に対する共産党系の態度は、原水禁運動を分裂させ被爆者団体も分裂させられた。
近藤は「ヒロシマ」の体験者として、核実験およびその被害を絶対に許すことが出来ず、ソ連の死の灰なら喜んで浴びるとか、ソ連の原爆は放射能がないなどの暴論を許すことが出来なかった。
近藤は政治に強い関心を持っていた訳でもなかったが、それでも全電通の組合員になって以降は共産党にシンパシーを抱くようになり、選挙では共産党の候補者に投票していた。
共産党の硬直した、独善的路線が近藤幸四郎という稀有な活動家を生み出したことは間違いないと思う。
またこの本の特徴は、近藤の本分である現場主義をあらゆる章で紹介していることだろう。
彼が全電通被爆者運動を下からの運動に広げた動機に、ある女性の夏期手当てが異常に低いのに驚いて当局にただすと、「その女性は上司にも無断でよく休む」と言われた。近藤が当人に聞くと、彼女は被爆者で、肉親を喪い自身も肝機能障害や無力症で原爆病院に入退院を繰り返しており、職場に知れたら首になると悩んでいた。それを知った近藤は反核運動が職場の被爆者を置き去りにしてカンパニアに走っていたと反省した。他にも職場の中で悩みを持った被爆者がいるに違いないと考え、全電通広島の「被爆者対策結成準備会」を結成し、被爆者がどのくらいいるか調査した。
当時多くの被爆者は結婚問題や被爆者差別を恐れ、内緒にしていた。被爆手帳の申請をしない人も多かったし、実態調査も困難を究めたが、彼は運動を通じて被爆実態を明らかにし、当局に被爆者の健康管理を求めて「全電通広島被爆者連絡会」を結成し交渉を始めた。
しかし当局は当然の如く、「それは国の問題だ」として一蹴されるが、国や自治体が被爆者援護法の問題として知らんといっても、現に電電公社に働く被爆職員が健康に不安を持ち、病弱で職務遂行にも支障をきたしている以上、公社は責任を持って問題解決にあたれと迫った。まして公社は政府機関の一つであり、国家の戦争責任、補償の要求に答えよと交渉を続け、72年には被爆者、被爆二世の健康管理の充実、二世を含む実態調査の実施などを勝ち取った。
いち早く国労は被爆者対策協議会を設置し、当局に入院する被爆職員を「公傷扱い」にすることを当局に認めさせていた。
広島被爆協は、一、被爆体験記の募集 二、実態調査と被爆者手帳申請の呼びかけ 三、略 四、運動を全国化する を決めた。ついには七十三年、全電通被爆者協議会が結成され、近藤は事務局長になる。
同じ頃広島県教組も「被爆教師の会」を結成した。長崎県にも呼びかけ、同じく「被爆教師の会」が結成され、間もなく「全国被爆教職員の会」に発展する。以後、動力車労組、自治労、全専売、高教組、全水道、放影研、広和労などに次々と被爆協が設立された。各組織の全国化と、総評被爆連に発展し援護法作成のため「政府に直接交渉できる総評を窓口に、統一要求として取り組む」ことになる。
近藤が取り組んだ一女性労働者の、被爆者の悩みが対政府交渉にまで発展したのだ。
近藤の仕事で凄いのは広島被爆者団体連絡会議の結成とその事務局長に就任する。
国労広島地本の呼びかけにより広島県教組と全電通広島の三者で、被爆二世について地域で輪を広げながら共同で取り組むことを確認し、「被爆二世問題連絡会議」を発足させた。この連絡会議に十年前に分裂した広島県被団協(原水禁系、森滝理事長 原水協系、田辺理事長)が被爆二世問題で同一のテーブルに着いたことであった。
連絡会議は県、市に対し被爆二世の健康診断の無料検診の実施と一部治療費の援護措置として具体化させた。
当初七団体でスタートした連絡会議は、二つの県被団協も正式参加し、最後には十三団体となり、消極的だった行政を被爆二世問題に前向きにさせていった。
「被爆二世連絡会議」はフランスの核実験抗議の座り込み、被爆者援護法のシンポ、援護法制定中央行動への派遣、ABCC問題での同労組との相互討論、自衛隊十三師団の広島市内パレードに対する抗議行動をおこなった。「広島被爆者団体連絡会議」準備会が「広島被団連」になり近藤事務局長の腕の見せ所となった。援護法制定のための知事交渉、市長交渉、中央交渉への参加、広島県警の教組弾圧、平和教育への弾圧抗議、核保有国の相次ぐ核実験に対する慰霊碑前の抗議の座り込みなどなど多岐にわたる共同行動がおこなわれたが、中でも特筆すべきは広島市民を巻き込んだ「自衛隊市内パレード阻止闘争」だった。
自衛隊は六十五年から創立記念日として市中パレードを行ってきたが、年々これに抗議する人が増え、七十二年には県労会議など労働者、市民三千人が抗議したにもかかわらず、翌七十三年、来栖師団長は例年通り開くと発表した。これに対し広島被爆者団体連絡会議準備会(近藤幸四郎事務局長)が「陸上自衛隊が予定している広島市中パレードは被爆市民の心を踏みにじるものだ」と中止を求める抗議声明を発表し、「私たちの親、兄弟の血が流され、おびただしい白骨が眠っているこの地を軍靴と戦車が踏みにじるのを黙ってはいられない」とした。
知事への申し入れ、市長室前の座り込み、数多くの団体の師団長への抗議など運動は広がり、パレード当日は自衛官一七〇六人、戦車七台など車両一九三台、航空機十二機が参加した。県警は二千百人体制で臨んだが、対する総評系組合員や被爆者、学生ら一万二千人、さらに、これを取り巻く市民四万五千人余が詰めかけ騒然としたなかで終わった。
翌年、来栖に代わった新しい師団長は「交通事情への配慮」を理由にパレードの中止を発表、隊内で行うとした。
この闘いは広島の平和運動の中でも画期的な出来事で、多くの新しい平和の担い手が作られ、多様な形で運動が繰り広げられている。
近藤の被爆死者と被爆者への哀悼の念は誰もが認めるところであり、その私心なき運動は、十余年前役員選挙で手痛い打撃を受けた日共さえ人民の敵近藤を運動のなかで認めざるをえなかった。
原水禁運動の分裂と七十三年の中央から頭ごなしの統一という、現地を無視した問題についても、この本は詳しく触れている。「運動は地域から起き、具体的課題で大衆の行動から進んだが、分裂は中央の党派や大労組、団体などのセクト主義が無理やり現地無視で強行されたが、今また現地を無視して中央からの統一という運動の規制(組織統一の条件に一致したこと以外の行動、たとえば反原発運動は認めない)が始まろうとした」と鋭く批判している。
これに関連し、ミニコミ紙で「被爆列車と統一列車」と題しての原稿に、七十五年二月に広島、長崎から被爆者、被爆二世が夜行列車を仕立てて大挙上京し中央行動を展開したときのことを書いている。
「大成功の中央行動の総括会議の後の雑談で、総評のA氏と原水禁中央のH氏と単産本部のO氏が異口同音に広島、長崎現地代表に「被爆列車はすんだ、次は統一列車だ、今度は東京から統一列車を仕立てて広島、長崎に向かうからよろしく」だった、しかし問い返した、「誰と誰がのってきますか」と、返事は今のところまだはっきりしてないが、同乗の誘いを二、三かけている。なんとか統一列車を走らせたい」ということで、どうも統一列車を走らせることが目的のように思われた(中略)広島、長崎の痛みと訴えを知りすぎる程知る者にとって、このようなことが批判、反発なしに受け入れられるはずがない。以後、不統一列車が走り、来たり、来て“統一世界大会”と銘打つセレモニーが開かれた(中略)がその間、老いた被爆者が苦しみつつ命を奪われていく、と痛烈に結んでいる。
また近藤は国際的活動についても数度にわたる渡米訪欧で現地の運動と交流し具体的行動の経験をし、自らの現地主義(西ドイツの緑の党など)に自信を深めた。
交友関係でマスコミのことにも触れているが、毎日新聞宇治支局の記者も近藤さんに貴方のことを聞いたと私を訪ねてきた記者も数人おり、中には記事で紹介したりもした。
広島の被害と加害については、八十年代から加害責任の問題がクローズアップされたが、これに対して八十九年八月の「毎日新聞記者の目」に「語り部を問い詰めないで」という記事が載った。内容はある中学生グループが平和公園周辺を歩いて「平和学習」をした時のことだった。語り部のAさんが韓国人原爆犠牲者の碑の前で碑とそれに関する日本の加害責任、民族差別に触れなかったとし、A子さん宅にA子さんの“不勉強”を責める手紙が数多く来た。
A子さんはそれ以後語り部活動を殆どしていない。(中略)
記者は被爆者が体験を人前で語るに至るまでの心の葛藤は大変なものだとし、他の語り部の言葉を紹介している。
「被爆者であると同時に、加害者の立場にあったことは免れない。でも、自分の被爆体験を語ることだけで精いっぱいで加害責任は?と問われたら、何も答えられない。」(中略)老いた被爆者には「八月六日、九日に起きた事実」さえ語ってもらえば、それでいいのではないか。
格時代の原点で人間は何をしたか、その悲劇を干からびさせることなく、生々しく後世に伝えるという一点で被爆者と若い世代が結びつくことがまず第一だ。
「広島は加害者か被害者か」という検証を被爆体験のない側から押し付けるのは慎むべきだろうとし、戦争の根元=加害責任を問いただす姿勢が原水禁運動や平和運動に課せられているのは当然だが、それを語り部に求めるのは筋が違うと思う、と結んでいる。
近藤はこの意見に賛成し、加害責任や差別の問題は大切で勉強しなければならない。
「だが、最近まで家庭の主婦として沈黙を守ってきた証言者もいる、そんな人に加害について語れとは私は言えない。三十六万人の被爆者のなかで、増えたとはいえほんのひと握りの人がようやく重い口を開き始めたに過ぎないことを考えて欲しい」『一億総懺悔』は責任をあいまいにするだけである。
被爆者はまず被害者である。そこに立脚して、問題を掘り下げていくことによって被害者同士が連帯できるはずである。そこにこそ、国を超えて結び合うことが出来るであろう」
被爆者援護法の問題はこの運動の中では原点であり「国はまどえ(補償と謝罪)」を五十五年頃から一貫して主張してきた。
この本は、野党四党で被爆者援護法を国会提案させ、村山内閣で被爆者援護法というまがい物が出るまでの長い道のりを近藤の活動を通して紹介している。
国家に謝罪させる、戦争の責任を取らせるという被爆者の願いは、村山内閣でも果たされず、当時社会党広島県本部委員長石田明(全国被爆教師の会会長)氏は次のように批判している。
《政府与党が「決着した」被爆者援護法案は、悲憤の声とともに社会党村山内閣への不信感をヒロシマに巻き起こした。村山総理は、政府与党案を「最善のもの」だと言った。しかし、この法案が出来るまでの社会党や政府内の動きを見てきた私は、とうてい同意できない。「核兵器廃絶」というヒロシマ、ナガサキの純粋な願いは、政争の具とされ、社会党政権維持のために利用された。私はヒロシマの地の社会党委員長として、戦後最大の耐え難い憤怒の念を心に抱いている。広島、長崎の生き地獄は何であったのか。》
被爆者援護法の大きな壁であった、国との雇用関係や官僚の言い分に対する批判も随所に出されている。
近藤は国が慰霊碑の横に造った国立原爆死没者追悼平和記念館に対し「核廃絶、平和への政府の決意を感じさせる建物でないと作る意味がない、また、外国人被爆者にも触れるべきだと主張」し、執拗に被爆七団体の事務局長として数度の癌手術で余命が見えていたが、最後の力を振り絞った。建設理念を示す説明に「この館に納められた遺影が、誤った国の政策の犠牲者であること。核兵器廃絶を国家が誓うこと」と明記させた。
《単なる追悼記念館ということだけでなくて、国があそこで死者に対する、きっちとした謝罪をして、今後、反戦、反核を誓うという館にしたかったのだ。
ちょっとニュアンスが薄れたけれども僕はそれで満足している。だからアジアの人がきても、日本はこういうことをしてくれたんだ。国が負の遺産である戦争と原爆を刻んだということが大きな意義があると思う。(中略)記念館は、人間の心、亡くなった人の心の問題に踏み込んでいる。そういう意味では破壊力と違う意味での重みがある。原爆の破壊力はよく知られているがそれによってどれだけ家族崩壊が起きたのか、個人個人がどんなに苦しい思いをして亡くなったか、遺族はどれだけ悲しんだか追悼記念館に行くことによって分かると思う。『風化』は最大の犠牲者である死没者に対する慰霊の気持ちが薄れたときから始まる。国の施設として、日本の過去に対してどのような認識を国の内外に示すことが適切なのか。国民みずからが戦争犯罪を考えることなく『全体』の責任があいまいにされてきた》と近藤は語っている。
また原水禁運動が始まって以来の多くの人たちや近藤と運動をともにした組合の仲間についても、その運動の紹介とともにヒロシマの運動史とも言える詳しい紹介がされている。
ただ、この本で紹介が洩れていると思われるのは五十七年から十数年広島原水協、原水禁の事務局次長として活躍した故板倉静夫氏に触れられていないことだ。私は五十八年、六十年と平和会館に板倉氏を訪ねたが森滝、伊藤満、伊藤壮先生に囲まれて平和会館を仕切っていた感じがする。
訪ねてきた被爆者や大学の偉い先生の中でいつもニコニコ人の話を聞き、相談に乗り、いろんな人と酒を酌み交わし信頼されていた。近藤も、伊藤さかえさんも、高橋さんも日詰さんも当時平和会館に出入りしていた人で彼と話をしなかった人はいないと私は思う。藤居平一氏も然りで信頼できる次長で、家業に専念するときも板倉氏に期待し任せたのではないかと思う。
また日共系が勝手に自分たちだけで被団協をおん出て分裂したときも、多くの人は板倉氏を信頼して日共の執拗な分裂工作も、彼の説明で多くの人が跳ね除けたのではないかと思う。
その他戦後処理の問題でも、軍人・軍属・一般戦災者、外国人被爆者、在外被爆者のそれぞれ差別についても詳しく触れている。
最後に、近藤さんが亡くなったとき山口氏康氏が「日本の平和運動は、いや世界の反核平和運動にとっても大きな痛手である」と嘆いたのを紹介しておく。(引用は原稿(草稿)に拠る)(2007.2.14)