「マスメディアとどう付き合うか」 井上遥
歴史をふりかえってみると、マスメディアの流す情報によって国民の判断力が狂ってしまった例があまりに多い。情報あふれる現代社会を情報の海でおぼれず生きていくためには、苦い過去に学ぶことがとくに必要となる。また、情報を受ける側も常識をもたねばならない。「真珠湾はどこにありますか?」と聞かれて「ハイ、三重県です」と答えるような若者は、心まで簡単に操られてしまうだろう。
マスメディアは何を伝え、何を「伝えなかった」か? 人々はマスメディアにどう影響されたか? そして、われわれはマスメディアとどう付き合うべきだろうか。満州事変から現代までの流れを追いながら考える。(注=今はテレビの影響が大きいが、テレビが現れる前の影響力第1位は新聞。あとは出版物・ラジオなどであった。以下、引用した『朝日』は単なる例示。他紙が優れていた、という意味ではまったくない)。
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@1931年9月18日、関東軍の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起こす。満州事変の始まりである。戦時国際法の適用を避けるための、「事変」と称する宣戦布告なき戦争であった。この事件について9月19日付『東京朝日』は「本日(注=18日)午後十時半、北大営の西北において暴戻なる支那兵が満鉄線を爆破し、我が守備兵を襲撃したので我が守備隊は時を移さずこれに応戦し、大砲をもって北大営の支那兵を砲撃し北大営の一部を占領した」と、事実関係を正反対に報じた。さらに9月25日付『朝日』でも「日支衝突の導火線 満鉄爆破現場を視る」「支那兵計画的の形跡歴然たり 島本中佐(注=北大営攻略を行った人物)の説明を聞く」の見出しで、ありもしない「支那兵の爆破方法」を紹介した。間違い情報を信じた国民の間には「反支那感情」が高まっていく。32年3月、満州国の建国宣言。33年3月、満州撤退勧告案を採択した国際連盟から日本は脱退する。
この間の報道について江口圭一氏は「柳条湖事件以下の謀略の真相を秘匿し、日本軍への感謝と賛仰の念を煽る一方、中国・連盟・欧米への敵意と憎悪の念をかきたて、民衆を排外主義・軍国主義へ動員する上でマスメディアは絶大な役割を演じた」と述べる(『十五年戦争研究史論』校倉書房)。だが一方で、中国民衆の視点による報道はゼロである。その結果どうなったか。江口氏が注目するのは、「生活に恵まれない人の方がむしろ好戦的であり排外的であった」点である。たとえば9月20日『神戸新聞』に載った「車夫」の言葉「一体から幣原があかんよって支那人になめられるんや。向こうからしかけたんやよって、満州全体、いや、支那全体占領したらええ。そしたら日本も金持ちになって俺らも助かるんや」など、事件への民衆の「怒りの」反応を引用しつつ、「恐慌でもっとも強く痛めつけられた無産大衆の憤懣は反体制的に結集されないまま国外の敵に向かって吐き出され、その敵を相手に酷寒の異郷で奮戦する同胞への同情に結実された」(同)と指摘する。民衆は情報操作に影響されやすいのである。
★同じころ、ドイツでは33年1月30日、ヒトラー内閣成立。2月27日、ナチスのゲーリングらが仕組んだと見なされる国会議事堂放火事件。国家秘密警察(ゲシュタポ)を作ったゲーリングはナチス幹部としては真っ先に放火現場へ駆けつけ、「そこで大喜びした」という(現場にいた兵士の話)。3月23日、全権委任法成立。そして33年5月には焚書。ゲッベルス宣伝大臣のもと、ドイツ各地で行われ、ヒトラー政権に禁止された書物を焼き払った。禁書の著者の1人、ハインリヒ・ハイネが記した「焚書は序曲にすぎない。本を焼く者は、ついには人間を焼くようになる」(戯曲『アルマンゾル』、1823年)との警告は無視され、のちに強制収用所で「人間が焼かれ」ていったのである。「本を焼く者」とは、「自分の気に入らない言論を抹殺する者」のことでもあり、言論抑圧や伏せ字まじりの戦争報道が行われた日本にも「本を焼く者」はいた。7月、ヒトラー内閣は新しい政党の結成を禁止し、ナチス以外のすべてが非合法化される。10月には国際連盟を脱退する。
A37年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日本は中国との泥沼の戦いへ突き進んでいく。事件から3か月後の11月5日未明、日本陸軍は杭州湾岸の金山衛に敵前上陸する。南京攻略戦の始まりである。11月8日付『読売』には「敵軍唖然たり・奇襲の杭州湾上陸」の特大見出しの下に「突如潮の如き大兵団 我陸海軍の威力発揮 上海戦史上を飾る圧巻」「百万の皇軍上陸」「日章旗の下支那良民が道案内」の見出しがおどる。ここで、「『我』陸海軍」は軍隊と一体化した表現であり、今の第2次イラク戦争でのアメリカのテレビと同じ報道姿勢である。「皇軍」とは天皇の軍隊を意味する皇国史観用語。そして「支那『良民』」とはなんと自己中心的な言い方であろう。文中には「○○隻の護送船」「○○部隊」「○○基地」「○○から顔を出して」「○○機」など、「○○」が並ぶ。
12月17日に南京入城を迎えるまでの1か月余りの攻略戦の過程で日本軍による20万人とも言われる中国人大虐殺がおきたが、その実態は国民に知らされないままであった。三越は南京占領直後の15付『朝日』に「南京陥落を祝す」「皇軍万歳」と大きくかかれた半ページ広告を載せ、18日付『東京日日』は「青史に燦たり・南京入城式」「武勲の各隊・粛然堵列 松井大将堂々の閲兵」「敵首都に『君が代』 高く掲ぐ日章旗 瞬間、全将兵感激の涙」と報じた。紙面には喜びが満ちあふれている。しかし、家を焼かれ食料を奪われ家族を殺された中国人への気づかいは、どこにも見あたらないのである。
B39年5月、ノモンハン事件(ハルハ河会戦)が発生し、関東軍はソ連軍との戦いで多数の犠牲者を出したが、実態は国民に知らされなかった。
C雑誌も戦争を強く支える。40年8月21日号『アサヒグラフ』は「ぜいたくは敵だ!」と題する記事を載せた。「戦争はまだ続いている。兵隊はまだ戦っています。しかし、一度街頭を瞥見すれば其処(そこ)には新体制も七・七禁令も興亜奉公日も忘れた旧態依然たる虚飾と有閑とが豊富に取り残されているのに気付きます」と書き、町を歩く女性の服装を写真入りで採点した。「20点」の女性は「三〇度に傾いた帽子(ベレエとルビ付き)、その下にパーマネントと首飾り、腕に腕輪を、手には手袋、しかもどこで手に入れたかシルクの靴下にハイヒール、右手に持ったお買い物、完全無欠の欧米風俗。まさに有閑令嬢の感じ濃厚。『支那で戦っているのは一体何処(どこ)の国だ』とお聞きしたくなります」との酷評を受けている。「なぜ支那で戦う必要があるのか。引き揚げるべきだ」という記事は当然ながら出ない。こうして、雑誌も国民の暮らしを窮屈なふん囲気へと追いやっていったのである。
D41年12月8日の真珠湾攻撃から敗戦までのあいだ、マスメディアは軍隊の宣伝機関と化し事実をゆがめながら先頭に立って国民をあおり続けた。ミッドウェー海戦での敗北を「勝利」であるかのように描き、ガダルカナル戦では「撤退」を「転進」と書き、餓死・病死が続出した悲惨な現実は伝えなかった。原爆投下の翌日、8月7日付『朝日』に出たのは「B29二機は
E戦後の動きを見よう。
56年5月8日、『西日本新聞』が「水俣で伝染性の奇病」と報じる。しかし熊大研究班は「工場排水が原因」と指摘し、伝染病説を否定した。その後、すでに42年には水俣病患者が発生していたことが病院のカルテから判明した。だが、水俣病は長いあいだ軽視され、報道はまったく不十分であった。
ベトナム戦争報道についてはあまりにも問題が多いので、ここではごく1部だけ例をあげる。64年8月、ジョンソン大統領がトンキン湾事件を口実に北爆開始。ニクソンに代わったあとの71年6月、『ニューヨーク=タイムズ』が国防総省秘密報告を暴露したが、事件当時、米国民は北爆へ向けた謀略の真相を知らされなかった。ジョンソン時代の68年に起きたソンミ虐殺事件もニクソン時代に同紙が記事にした。だが、ソンミの2倍の村人がアメリカ軍に殺されたといわれるニクソン時代のバランアン虐殺は黙殺された。これら同紙の報道の仕方には情報操作のにおいがする、との指摘がなされている。
67年のベトナム戦争の報道で、『朝日』は見出しに「ベトコン」、文中では「民族解放戦線(ベトコン)」を使ったことがある。ゆれ動く報道姿勢の象徴ともいえる。また、ベトナム戦争を命がけで取材し、『戦場の村』など多くの優れた報告を世に送った本多勝一氏によれば、ベトナム戦争時、南ベトナムにいた米人ジャーナリストのほとんどはアメリカ軍から情報を得ることが圧倒的に多く、「○○軍曹はいかに勇敢にベトコンを殺したか」式の記事を書いていた。戦争批判はせいぜい、「今のやり方ではアメリカ合州国にとって戦術的に良くない」といった程度のものであり、「ベトナム人のために良くない」との批判ではなかったというのだ(『ジャーナリスト』本多勝一集18巻、朝日新聞社)。さて、今の第2次イラク戦争の場合、「イラク人のために良くない」との戦争批判は日本のマスメディアにどれだけ登場したのか? 第2次大戦中、「中国人のために良くない」「朝鮮人のために良くない」との批判がどれだけあったのか?
89年1月の天皇死去報道の際、『朝日』『毎日』『読売』は1面で「崩御」を使っている。異論を許さない非寛容な「自粛一色」社会への雰囲気をつくる上で、マスメディアは戦前の経験にこりず、またしても先導役を果たしたといえよう。
94年6月、松本サリン事件でマスメディアが被害者の河野義行氏を初めから犯人扱いし、人権を侵害した。たいへん罪深いことである。
96年には、「ナチ『ガス室』はなかった」を掲載して廃刊となった『マルコポーロ』(文芸春秋。田中健五社長)の花田紀凱編集長を、朝日が創刊誌『uno!』編集長に迎えた。この人事は社の内外から強い反発を招き、雑誌は大赤字を出してまもなく廃刊に終わったが、桑島久男出版担当役員は失敗の責任を取らなかった。また、2005年、朝日が『週刊朝日』の企画に関して武富士から5000万円を「編集協力費」名目で受け取っていた事実が発覚した。朝日にはそもそも「編集協力費」なるものが存在しない。バレたのは、事件から4年以上も後のことである。この間、自浄作用はまったく機能しなかった。おまけに、このときの箱島信一社長以下への処分は非常に軽い。会社の体質がおかしいのだ。
2006年1月15日付『朝日』には、山名「エベレスト」が12回も書かれた記事が大きな写真つきで載っている。紙面製作者には何も問題意識がないのだろうか。「エベレスト」はイギリス人のインド測量局長官、ジョージ・エベレストにちなむ名だ。そこに生活している人々が使う言葉を少しは尊重してはどうだろうか。チベット名「チョモランマ(大地の母)」、ネパール名「サガルマータ(世界の頂上)」くらい記載すべきだ。ついでだが、アラスカのマッキンリー山は米大統領名にちなむ。これも勝手な言いかただ。先住民はデナリ(偉大なもの)と呼ぶのだから。
2005年、自民党政治家、安倍・中川による、NHK番組への介入事件が明るみに出た。介入を進んで受け入れたNHKの報道が信頼性を欠くのは当然であろう。2005年12月21日、番組改変当時の担当デスク・長井暁氏が東京高裁で証人として述べた言葉の中で、次の個所は『朝日』『毎日』『読売』には載らず『東京』『赤旗』に載った。「NHKの職員がNHKにマイナスになることを言っていいのか、かっとうがあった」(『赤旗』)。「でも、ここで本当のことを言わなければ一生、後悔すると思った。組織人として正しくなくても人間として正しく生きようと思った」(『東京』。『赤旗』もほぼ同文)である。彼は「責任を感じる能力」を持ったジャーナリストの1人だ。
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ここで、「責任を感じる能力」、そして「恥を感じる能力」の意味を、音楽家の生き方を例に考えてみよう。
パブロ・カザルスは、独裁者フランコ(スペイン)への反対を貫いたカタルーニャ出身のチェリストである。ピアニストのコルトー、バイオリンのチボーとトリオを組んでいたことがある。そのコルトーが戦後、フランスのプラードに住むカザルスを訪ねた。そのときの様子が『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』(朝日新聞社)に描かれている。
「だれかが玄関のドアをノックした。私がドアを開けると、アルフレッド・コルトーが立っていた。彼を見ると私はひどい痛みを感じた。悲しい過去の日々がまるで昨日起ったかのようによみがえってきた。私たちは立ってお互いに顔をみあわせたまま、一言もいわなかった」
実はこの来訪の数年前、ナチス支配下のフランスで力添えを頼んできたカザルスに、コルトーは冷ややかな態度で接していた。そのころコルトーはナチスへ協力しており、反ファシズムのカザルスとは立場が違っていたのである。
「そのとき彼の行動が理解できなかった。しかし、まもなく、コルトーが公然たるナチの協力者になったときに、なぜ彼が私にこんな仕打ちをしたか、悲しいかな、わかった。恐ろしいことだ、人は恐怖や野心でとんでもないことをしでかす」
そして、かつての演奏仲間を前に、コルトーは言う。
「彼はぽっつりぽっつり話しだしたが、目は伏せたままだった。(中略)初め彼は自分のおかした行為を弁明しようと、もそもそと話しだしたので私は止めさせた。すると、せきを切ったように、『ほんとなんだ、パブロ。世間で言ってることは本当なんだ。私はナチと協力したんだ。私は恥ずかしい、ひどく恥ずかしく思っている。君に許しを乞いにやってきたんだ・・・』。これ以上なにも言えなかった」
しかし、そんなコルトーはまだ、「恥を感じる能力」を持っていた。カザルスは「責任を感じる能力」をも備えていた。「能力」を有するこんな人々がマスメディアに登場すれば、その影響で「考える読者・視聴者」は増えていくだろう。だが一方で、それは権力者にとって危険なことだ。
ヒトラーは『わが闘争』(角川書店)の中で大衆操縦法に触れている。「ジュンイチロウ・コイズミ」(アメリカ式読み方。この人が従うブッシュ大統領も恐らくそう読むであろう)という名の日本のコイズミ首相の手法ときわめてよく似てはいないだろうか。
「宣伝はだれに向けるべきか? 学識あるインテリゲンツィアに対してか、あるいは教養の低い大衆に対してか? 宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである!」「(宣伝の)知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない」
「最も簡単な概念を何千回もくりかえすことだけが、けっきょく覚えさせることができるのである。変更のたびに、宣伝によってもたらされるべきものの内容を決して変えてはならず、むしろけっきょくはいつも同じことをいわねばならない」
大衆を引き込むためには難しい言い方をしてはならない、と説くのである。そしてヒトラーは影響力拡大の手段として新聞が重要であることを良く分かっていた。「新聞は一般的に言って、いくら高く評価しても過大評価されるということはありえない」と彼は言う。そして読者を3つのグループに分ける。第1は読んだものを全部信じる人々、第2はまったく信じない人々、第3は読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳をもつ人々である。
「第1のグループは数字の上からは、けたはずれの最大グループである。かれらは大衆からなっており、したがって国民の中では精神的にもっとも単純な部分を表わしている。(中略)自分で考えるだけの素質もなければ、またそのような教育も受けていない人々は、みなこのグループにはいる。そしてかれらは半ば無能から、半ば無知から、白地に黒く印刷して提供されたものを全部信じる」
「第2のグループは数ではまったく決定的に少なくなる」
「第3のグループはけたはずれて最少のグループである。かれらは生まれつきの素質と教育によって自分で考えることを教えられ、あらゆることについてかれ自身の判断を形成することに努力し、また読んだものはすべてきわめて根本的にもう1度自己の吟味にかけて、その先の結論を引きだすような、精神的にじつに洗練された頭脳をもった人々からなり立つ」
ヒトラーは批判精神の持ち主をきらう。だから、第3グループは目ざわりな存在である。しかし、心配はいらない。
「(かれらは)ジャーナリストなどは通例として、真実をただたびたび語るにすぎない詐欺師とみなすことに慣れてしまっている。しかし残念なことは、このようなすぐれた人間の価値が、まさにかれらの知能にだけあるにすぎず、その数にはないことである」
これで、ヒトラーは安心できる。
「このことは賢明であることに意味がなく、多数がすべてであるような時代における不幸なのだ。大衆の投票用紙があらゆることに判決を下す今日では、決定的な価値はまったく最大多数グループにある。そしてこれこそ第1のグループ、つまり愚鈍な人々、あるいは軽信者の群集なのである」
ヒトラーは「愚鈍な人々、あるいは軽信者の群集」を取り込むことに神経を使う。だから、「これらの人々がより低劣な、より無知なあるいはまったく悪意のある教育者の手に落ちるのを妨げることは、もっとも重要な国家および国民の利益である」と考える。では、そのために何をすべきか?
「国家はそのさい、特に新聞を監視しなければならない。なぜなら、新聞の影響はそれが一時的ではなく継続して与えられるから、これらの人間にきわめて強烈でしかも効果的であるのだ。こうした教育が変らぬ調子で、永遠にくり返されることの中に新聞のもつまったく比類のない意味がある」
だから、言論の自由が保障されると困るのだ。というのは、「あらゆる手段は1つの目的に役立たせなければならない、ということを国家は忘れてはならない」からである。
「国家は断固とした決意で民衆教育のこの手段を確保し、それを国家と国民の役に立たせなければならない」
「事実と真相を語れ」「自由な言論を」とは決して言わない。だれよりも強大な権力を愛したヒトラーは、だれよりも言論の自由をきらったのである。
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いま、当時と同じ誤りを繰り返してはならない。ヒトラーの言う「第3グループの読者」が増えれば世の中は良くなっていくのだ。そのためには情報に受け身で接するだけではいけない。飛びこんでくる情報を鵜のみにせず、「自分の座標軸」を持って受け取る必要がある。そしてマスメディアには意見をどんどん言うべきである。それによって報道する側の緊張感も高まり、情報の流れが一方通行のまま終わらなくなる。意見が紙面・番組に反映されていけばマスメディアの質は高まっていくだろう。もっとも、「いかなる国民も自分の水準を超えるマスメディアを持つことはできない」のかも知れないのではあるが・・・。しかし、もし読者・視聴者の意見が反映されないのであれば、納得のいく新しい媒体の出現に期待せざるをえない。いや、現れるべき時はもう今、きているのではなかろうか。
マスメディアとどう付き合うか 井上遥