被爆60年のヒロシマ かけはし2005.8.15号 |
NPT再検討会議
の成果なき閉幕
被爆六十年のヒロシマの反核平和集会は、被爆者の高齢化の中で、その言語に絶する体験をどう継承していくかが改めて突きつけられるものとなった。この五月、ニューヨークで開催されたNPT(核拡散防止条約)再検討会議は、実質的な成果のある文書を取りまとめられないまま閉幕した。最大の核兵器保有国であるアメリカは、核兵器の廃絶に向けた努力をいっさい放棄したまま、CTBT(包括的核実験禁止条約)の批准も拒否ししただけではなく、「テロとの闘い」を名目に「使用可能」な超小型核兵器の開発に着手している。
湾岸戦争、コソボ戦争、アフガニスタン戦争、そしてイラク戦争で、米軍は劣化ウラン兵器を大量に使用し、子どもたちや一般市民を今日にいたるも殺し続けている。そして被爆国・日本の政府は、このアメリカの戦争に自ら加担・参加し、MD(ミサイル防衛)という先制攻撃戦略の一翼を担い、憲法改悪と戦争国家への道を突き進んでいる。
今年も原水協、原水禁や数多くの市民団体などが、核兵器と戦争のない世界を求めて広島で集会やさまざまな企画に取り組んだ。しかし原水禁が初めて連合や核禁会議と共催して八月四日に開催した「被爆60年 核兵器廃絶2005平和ヒロシマ大会」は八千六百人を結集したものの、その「ヒロシマ・アピール」には、イラク戦争や自衛隊派兵や憲法改悪などが一言も登場しなかった。
「忘却」にあらがう
意識的な努力を
こうした中で、八月五日午後六時から広島YMCA地下コンベンションホールで開催された「8・6ヒロシマ平和へのつどい2005」には二百人が参加した。今年のつどいは「60年・忘却・継承」がテーマとして掲げられた。主催者あいさつを行った原発はごめんだヒロシマ市民の会の木原省治さんは、今年亡くなった広島の運動を代表する二人の先達、つどい元代表の松江澄さんと詩人の栗原貞子さんを追悼して、今年のつどいを開催する意味を語った。
長崎・ピースウイーク実行委員会の舟越耿一さん(長崎大教員)は、中国の「反日」デモに対する日本人学生の反応では三分の二が「中国が悪い」という意見で、「今こそ自虐史観に決着を」とする者も多く、他方中国人留学生の多くは「原爆投下は当然の報い」という意見だったと紹介し、この現実をなんとかして変えていこうと述べた。
カナダ、アメリカの先住民族とアイヌ民族の浦川さんが次に紹介された。代表して発言した浦川さんは、「戦争をなくすためには武器を作ることを止めさせなければならない」と訴えた。
二人の先達の思
い出を語りながら
今年九十二歳で亡くなった詩人・栗原貞子さんの思い出を友人の伊藤真理子さんが語った。伊藤さんは「特高から目をつけられ、アナーキストの夫が準禁治産者だという理由で家族からも縁を切られた栗原さんは、天皇制への深い違和感を抱いた理想主義者だった」と述べ、娘さんの栗原真理子さんは「六十年目の今こそ正念場」と決意を語った。
次に松江澄さんの思い出を米澤鐵志さんが述べた。米澤さん自身、一九四五年八月六日、爆心地から七百五十メートルの地点で市電に乗っていて被爆し、九死に一生を得たという経験の持ち主だ。
米澤さんは、松江さんが戦後の中国新聞労組副委員長や日鋼防衛闘争委員長としての労働運動の経験を出発点とした「革命運動・階級闘争としての平和運動」からビキニの第五福龍丸事件以後、独自の領域としての原水禁運動に転換していった経過を述べ、「あらゆる国の核実験反対」という原則に立って妥協を許さなかったこと、などを語った。
全国被爆二世教職員の会の岸本伸三さんは「ヒロシマを忘れさせないための闘い」という故石田明・被爆教師の会会長の言葉を思い起こし「平和や人権」を自己規制してはならない、と述べた。在ブラジル原爆被爆者協会の被爆者は、日本に来れないため被爆者手帳を持っておらず、そのため手当てを貰えない在外被爆者への差別を糾弾した。
再び出撃基地と
なった被爆地
戦争被害者を悼む英文を刻んだ重さ1トンの石碑を、長崎から広島まで山車に載せて六百キロの道のりを運んだ「ストーン・ウォーク」のヨーコ・ワトキンス・カワシマさんの発言の後、日本軍性奴隷被害者でフィリピンからやってきたイサベリタ・デラクルス・ビヌヤさんは、一九四四年十一月二十三日、マパニケ村で日本軍の襲撃を受けレイプされた体験を語り、「日本政府の被害補償責任は果たされていない。私はアジア女性基金を受け取らなかった。それが政府による補償ではないからだ」と述べた。
一坪反戦地主で沖縄ピースサイクルの比嘉さんが、辺野古の海上基地建設反対の闘いを訴えたあと、最後につどい代表の湯浅一郎さん(ピースリンク広島・呉・岩国)が「もはや職場には戦争の記憶を持つ仲間がいなくなっている現状だが、この被爆六十年の年に海田基地から自衛隊がイラクに出兵し、呉は海外作戦行動を担う町になっている。岩国への米艦載機の夜間離着陸訓練の移転も取り沙汰されている。こうした現実に対して闘おう」と訴えた。
ダイイン・ピース
ウォーク・座り込み
八月六日は「市民による平和宣言」を平和公園内で追悼式典参加者に配付した後、原爆ドームの前で、原爆投下の午前八時十五分に合わせてダイインを開始する。ドーム前で「グラウンド・ゼロ」の集いを行った後、午前九時から市内をピースウォーク。この行進には二百五十人が集まった。ピースウォーク解散地点の中国電力本社前では、座り込みを行っていた仲間と合流して、上関原発建設反対などの訴えを行った。(K)
狭山事件の再審を求める江東集会
特別抗告棄却を糾弾!第三次再審請求で無罪を
【東京東部】七月十四日、東京・亀戸カメリアプラザで、特別抗告棄却を糾弾し狭山事件の再審を求める江東地区集会が、石川一雄さん夫妻を招いて行なわれた。主催したのは江東・江戸川地区の労働組合や市民団体でつくる江東部落解放共闘会議。会場には仕事を終えた仲間たちが集まり、開会時間には会場一杯となった。
今年三月十七日、最高裁第一小法廷は証拠調べを行なうことなく棄却した。翌週には「追加補充書」の提出と面談の約束をしながら、反論を避けるような突然の棄却であった。
弁護団は来春にも第三次の再審請求を行なうよう準備をしている。この集会は、最高裁の棄却を批判し、再審請求が出されたら、ただちに行動をおこすための意思一致の場としてもたれた。
部落解放同盟狭山闘争本部の安田さんは、「第三次再審闘争では何としても事実調べを勝ち取ろう」と述べ、最高裁は今回の棄却にあったって、証拠を調べないだけではなく、こじつけとも言える棄却理由を批判した。第一に筆跡の問題。弁護団は十九通の鑑定書を提出し、犯人と石川さんの筆跡が違うことを示した。最高裁は、文字の違いを認めながらも、「書字条件には心理面等でかなりの相違があり、……差異が生じたとしても、何ら不自然とはいえない」と、心理状態の違いによって文字が違うと結論づけている。
これに対し、キャスターの鳥越俊太郎氏もザスクープで「書くたびに文字が違うというのならば筆跡鑑定は成り立たない」と批判していることを紹介した。次に、万年筆発見の場所についてわざわざ「鴨居上の奥」と、あたかも「奥」があるかのように表現し、さらに「さっと見ただけでは万年筆の存在が分かるような場所とは必ずしもいえず」と、現場を見てもいないのに発見しづらい場所のように断定している。このように事実調べをしないため、間違った結論がだされている。
石川一雄さんと
早智子さんが発言
石川一雄さんは、自作の歌を披露しながら、「『裁判官に字を知っていると思われるから、石川さんはは字を覚えない方が良かったのでは』と辛いことを言う人もいる。しかし、刑務所で勉強したから、皆さんがご苦労されていることもわかってきて、三十九年間は無駄ではなかったと思っている」と述べた。
抗告審では、検事長が最高裁判事になって狭山の担当になり、不安もあった、それが的中してしまった。しかし、第三次も厳しく闘っていくと決意を語られた。また、早智子さんは、「ザ・スクープで、となりの同級生が出演し証言してくれたことが一番心強かった」、また「一緒にやろうという声がたくさんあり、風を受けている実感がある」と述べた。
つづいて、東京清掃労働組合、ふれあい江東ユニオン、NPO法人「共に結」から決意表明があり、江東部落解放研究会の仲間から決議が提案され、国家権力による部落差別を利用した権力犯罪を満天下に明らかにし、石川一雄さんの「見えない手錠」を解き放つために第三次再審闘争勝利に向けて闘うことを参加者全員で確認した。 (T)
b最高裁第ニ次再審請求・特別抗告棄却決定(全文)等は、部落解放同盟東京都連合会のサイトに掲載されている。
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/
b狭山事件の経過、無実の証拠、石川さんのインタビュー(なぜ自白したの)などを特集したザ・スクープスペシャル「えん罪の構図」(メインキャスター 鳥越俊太郎)は、ニ月十三日に全国放送されたが、テレビ朝日のサイトで動画配信され、現在も視聴できる。
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/
神奈川ピースサイクル
「守ろう九条・止めよう原子力空母と第1軍団」を訴えて疾走
【神奈川】2005神奈川ピースサイクルは今年も炎天下の中を各自治体への反核・平和のメッセージ伝達と各地域での交流を重ねながら県内をくまなく駆けめぐった。
神奈川ピースサイクルはここ数年は走行日程を二回に分けてまず六月にミニピースを実施、この時に本走行時(7月)には訪問しきれない自治体(南足柄、開成町、秦野、伊勢原、厚木、海老名、座間、相模原など)にメッセージを伝達し終えてから神奈川ピースサイクル結成集会へとつなげてきた。今年も六月十二日にミニピースサイクルと05年結成集会を早々と終えて七月の本走行に備えてきた。
七月二十日には川崎市役所前で東京からの走行グループからタスキと広島・長崎へのメッセージを受け取り横浜・横須賀の米軍施設の現況をつぶさに見学、夜は地元横須賀の中間たちとの交流へ。
二十一日は炎天下の中を走行し仲間たちの肌はみるみる日に焼けていく。逗子市、鎌倉市、藤沢市、大和市、綾瀬市の各自治体に反核・平和のメッセージを伝達し、また広島・長崎へのメッセージを受け取る。
逗子の米軍住宅池子ゲート正面前では地元市民から米軍と日本政府による新たな米軍住宅建設強行について報告を受け、また米海軍厚木基地正門前では「空母艦載機離発着訓練即時中止」と「横須賀原子力空母母港化反対、座間への米軍第一軍団移駐反対」を申し入れ、応対した担当者に対して「第一軍団移駐計画はどうなっているのか?」と口頭でたたみかけたが「何も聞いていない」と応答するのみだった。
夜は宿泊先で平和コンサートが行われ、沖縄民謡をメインに三線(サンシン)とギターの声のハーモニーに酔い、炎天下走行の疲れを癒す。
二十二日は寒川町、茅ケ崎市、平塚市、大磯町、二宮町、小田原市、真鶴町、湯河原町の各自治体にメッセージを届ける起伏に富んだロングライド。相模湾に面するこのエリアには大戦末期に激しい空襲を受けた地域もあり、日本の無条件降伏がなければ米軍が大々的な上陸作戦を予定していた地域でもある。こうした歴史的経緯もあり多くの自治体が平和都市宣言を採択して記念のモニュメントなどを設置し、ピースサイクルの仲間たちは今年も温かく迎えられた。
「守ろう!憲法九条」「止めよう!原子力空母と第一軍団」を訴えて県内を駆け抜けた05神奈川ピースサイクルは三島の地で静岡の仲間たちに平和のメッセージをつないだ。 (H)
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