ペレストロイカが問うもの
小島亮著「ハンガリー事件と日本」によせて
労働運動研究所 遊上孝一
労働運動研究 1989年4月 No.234
ハンガリーは動いている。
二月十一日の社会主義労働者党の中央委総会は複数政党制導入の方針を採択するとともに、一九五六年の動乱を「反革命」ときめつけてきた党の公式見解を「専門家の見解と世論に従う」形で実質的に撤回した。総会はまた昨年五月発足した歴史委員会(イムレ・ポジュガイ政治局員を長とする)の報告書(一三〇ぺージ)を承認し、近く党理論誌の特別号で公表するとともに、今後も真相解明を続けることになっている。
ハンガリー動乱は労働者党員を含む人民が参加した事件であるだけに、歴史の見直しには複雑な諸問題が伴っている。動乱によって粛清された者の名誉回復、犠牲者の氏名公表、亡命者の復権等。政府スポークスマンが無名墓地に埋葬されているナジ元首相らの正式な埋葬を「数ヶ月内にも許可する」といっているようにジクザクな形で進行しているといえよう。
一九五六年二月にはソ連共産党二十回大会でスターリン批判が行われ、六月にはポーラソドのボズナン事件、十月のハンガリー動乱とつづくのであるが、これら諸事件が国際共産主義運動にも衝撃をもたらした。
イギリス共産党のボブスボームはいう。「論争はハソガリー危機において頂点に達し、臨時党大会の準備と反対派の組織化が平行して進みました。」党内反対派は雑誌「ニュー・リーズナー」を発行した。
ねらいと構成
『ハソガリー事件と日本―一九五六年・思想史的考察』(中公新書)は「ハンガリー事件がわが国の広義の思想界に与えた影響を概観するものである」と著者はいう。ハンガリー事件が其の後の日本思想史の展開で注目すべき新潮流を生みだす直接の契機になったと著者はみる。「この新潮流(ヌユベルパーグ)とは、それまでの支配的思想範型であった日本マルクス主義と日本型近代主義の連合を、なんらかのかだちで超克せんとした知的営為の謂であり、大きくいって、ネオ・リアリズム論の諸形態とニュー・レフト理論に分類される」という。
本書の構成は次の通り。
序章スターリン批判からハンガリー事件へ
第一章 一九五六年の日本の思潮
第二章 思想的ヌーベルバーグの誕生
第三章 社会党・自民党とハンガリー事件
第四章 日本共産党とハソガリー事件
第五章 ニュi・レフトの創成
ハンガリー動乱をこのような形で分析した著作は皆無に近い。
今日国際的にも国内でも「社会主義再生」について論争が盛んであり、正に「百花斉放・百家争鳴」の観がある。トロッキーの名誉回復も遠くないとみられている。そのことは「再生」をめざす討論・対話もタブーであってはならないことを意味しており、対話の輪を広げることが求められている。ハソガリー事件についてのこのユニークな著作を紹介するのはそのためである。四・五章を中心に紹介したい。
日本共産党の対応をめぐって
ハンガリー事件から最大の打撃をうけた党として、「一丸となってハンガリー『反革命』の糾弾とソ連弁護に奔走したど思われるであろう。しかし事実はそんなに単純なものではなかった。」次章のテーマであるニェー・レフトの誕生があり、「内部においても、深刻な自己批判を行う一派を抬頭せしめ、結局『反革命論』によって最終決着がつけられるとしても、対応は単純に割切れるものではなかった。」
敗戦以来の党史を概観したうえで党の対応を分析している。「五〇年分裂」、第四回全国協議会(五一年二月)による軍事闘争路線。第五回全国協議会(同十月)での民族解放民主革命論を定式化した新綱領(五一年綱領)の採択。うちつづく武闘事件、二次にわたる総点検運動による党内粛清(千名を越す党員がスパイとして除名された)。五二年総選挙でのゼロ議席への転落、五五年八月の第六回全国協議会による混乱の一応の終止符。(六全協は志田・宮本の妥協による「宮廷革命であった」と著者はいう。)ハンガリー事件は六全協後一年余。
著者は『アカハタ』紙上のハンガリー報道を投書をも含め丹念にフォローし、分析している。そして、党がけっして一枚岩でなく、そこに微妙な対立のあるととを説明している。党の公式発表への尖鋭な批判を含む投書はとうぜん没にされるし、党員のそうした意見はまず活字にはならないだろう。著者は三十名の関係者へのインタビューを通じて分析を補っている。
「ハンガリー事件は、スターリン批判を行ったフルシチョフ指導部による所行であったから、党員の一部は、スターリン批判の限界を感じとり、さらに先へ進んでゆく動きが生じた。」そして党内には「宮本に代表されるスターリン主義者VS民主主義反対派という構図ができつっある。」(民主主義は非スターリン組織論のこと。)
「宮本は、徹底的に事件の原因を外部に求め、自己反省の材とすべきは"党の分裂" のみと断定する。」民主主義反対派は事件発生の原因を内部に求め、「ハンガリーの党の内部の混乱ぶりは"われわれ自身の問題として考えてみる必要がある"と述べ、党改革のための"他山の石"たらんと究明する。」
日本共産党は『日本共産党の六〇年』(一九八二年公表)において、ハンガリー事件=反革命論を正式に撤回した。
「事件への評価修正は、当然、現指導部への批判的反省を伴わなけれぽならないのである。」
ハンガリー事件をめぐる党内闘争で除名され、あるいは離党した旧党員との対話を求める動ぎはまったくない。
ニュー・レフトの創生
ニュー・レフトは、ハンガリー事件を契機に日本共産党員であった青年たちによって組織形成が始められたことは知られている。
著者は真継伸彦の小説『光る声』(一九六六年刊)の叙述をかりて、ハンガリー事件をめぐる党員の苦悩の姿を再現している。離党した人、それに反しヒューマニズムを自ら扼殺することによって党員に留まる道を選んだ人たちの記述は、「並大抵の受信機ではとらえ得ない」佳作である。
ついで創成期の代表的人物、大池文雄と黒田寛一の略歴とハンガリー事件をめぐる動きを述べている。大池は高校時代の一九四八年入党する。学内運動にとどまらず、四九年には学校を中退し、職業的革命家の道を選んだ。黒田は一九四七年に青年共産同盟に加入した。黒田は皮膚結核のため視力を失うことになり、四九年高校中退を余儀なくされる。体力と視力の弱まりと闘いながら、黒田は哲学を研究し、五二年処女作『へーゲルとマルクス』を出版する。
二人の歩みの共通点は同時代の若いコミュニストであること、五〇年分裂、武闘戦術、そして党内粛清を経験したことであろう。さらに二人とも主体性論争に強い関心をいだき梅本克己の影響をうけたことである。それは問題意識として武闘戦術、流血を伴った党内粛清に象徴される人間の道具視と人間不在の「マルクス主義」への多感な青年の疑問がめばえていたといえよう。
スターリン批判後の大池の其の後の動きについて六全協後の諸論文(没になった文章も含めて)をフォローしている。
それらは党内改革の提言の性格をもっていた。しかし、細胞機関紙『風』の発行停止と全冊回収が命ぜられる。大池は党内改革でなく、党との絶縁を決意し、上京して同志十人と雑誌『批判』を創刊する。五七年八月であった。
大池はいう。「共産党との最後の訣別の動機は、ハンガリー事件に際し、日本あげく共産党が思考を中止し、挙句に嘘を吐いたからだ。」彼によればハンガリー蜂起者こそ正当な革命の側であり、共産党政府、ソ連軍の行為は反動的だということになろう。ハンガリー事件を機にして、日本共産党は根本的な自己批判をすべきだが、それが望まれない以上、絶縁し、ニュー・レフト組織を創っていったのである。
一方、黒田は失明のなかで音読してもらいながら、ソ連共産党二十回大会報告を研究し、スターリン批判のやり方が、スターリン的であることを感じていた。
再起の決意をもかねて「スターリン批判の基礎」を執筆した黒田はいう。「過去の失敗を自己批判し、それを是正するやり方が、きわめて表面的でプラグマティヅクであるから、思想的に混乱がまきおこされないわけにはいかない。民衆の不満はあるキッカケをあたえられさえするならば、爆発しないと誰が保証できようか。」
同書が印刷に廻された翌日ハンガリー事件が勃発する。黒田はハンガリー民衆を流血のうちに圧し去ったソ連の自己回生に見切りをつけ、即座にソ連弁護に廻つた共産党、知識人と絶縁し、ニュー・レフトの組織形成を考えていった。
スターリンの盲目的信仰に辟易していた黒田にとって、トロツキズム信奉はいま一つの"主体性喪失" と印象されていたが、大局からみて共同で日本トロツキスト連盟を旗上げし(五七年一月)、機関誌『探究』を創刊する。同十二月にはトロ連は日本革命的共産主義者同盟と改称される。
この時期には大池の『批判』グループ、黒田の『探求』グループが相互に連.絡をとりあい、それにニュー・レフトではない津田道夫の『現状分析』のグループも参加し、相互に機関誌への投稿、エールの交換を行っている。著者は「この時期こそ"日本共産主義史の星の時間" であった」といっている。
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