私は一年前の第二大会草案に中央委員会で保留し、大会でその理由をのべた。私の批判意見は、基本的には次の三点に集約されていた。一つは、「戦後世界構造の変化」であり、二つは「ベトナム反戦闘争から労働者本体へ」といういわゆる「還流方式」であり、もう一つは「労働者民主主義」であった。
今回の草案を見ると、当時まだ不明確であった「戦後世界構造の変化」は、「戦後歴史ブロックの崩壊―世界危機―世界革命」論として「見事に」結実し、「反戦から労働者へ、街頭から生産点へ」という「還流方式」は「世界革命―階級形成・党形成」論として「立派に」体系化され、また、当時の、多分に理想的な「労働者民主主義」は、下からの社会革命の原点であり、従って将来の「労働者権力=ソビエト等」を志向するものとして「理論化」され、現に反戦青年委員会によって、その志向性が「体現」されつつあるという。
私は第二大会での意見の終わりに、「結局このような傾向は、近代化と闘う労働運動の停滞をはじめ、総じて先進国革命の停滞の下で、労働者階級に対する失望ないし悲観から、『内』では『左翼的学生反乱』に、『外』では『激烈な後進国革命』に期待する小ブル的なインテリ・ラディカリズムである」とのべたが、どうやらこの意見は変える必要はないように思う。
まず明らかにする必要があるのはこの草案の「立場」であり、わが党がどこえ向かって行こうとしているのかということである。
私はこの草案の中で、「第四回目の危機」あるいは「第三の危機」という言葉につき当たった。この危機についての考え方は岩田弘「経済学」(下)の「世界革命戦争・世界危機・世界革命」という論文などと、ほとんど同様の見地のように思われる。
つまり、時期的にいえば、第一の危機=第一次大戦後、第二の危機=第二次大戦前、第三の危機=第二次大戦後、第四の危機=現在ということらしい。第一と第三の危機は、いずれも大戦による裂け目を世界革命に連続転化させ得る点で、また第二、第四の危機は、それぞれがポンド・ドル体制の危機によってもたらされた戦後民主主義体制の崩壊という点で。そして最も注目すべき点は、いずれもそれぞれの「危機」における革命戦略の失敗とプロレタリアートの敗北・挫折という見方で共通なことである。すなわち、第一の危機は、「帝国主義論」で提起された世界革命が、その後あいまいにされ、ドイツ・プロレタリアートの敗北したことによって「ヴェルサイユ・ワイマール体制」=議会的・総合的取引体制が成立し、第二の危機は、ポンド・ドル体制の危機による戦後体制の崩壊にもかかわらず、コミンテルンの誤った反ファシズム人民戦線戦術によって敗北し、第二次大戦が起こった。さらに第二の危機は人民戦線戦術の延長としての戦後西欧革命の敗北によって戦後民主主義的取引体制(岩田)、ヤルタ体制(「前進」)、歴史ブロック(草案)が成立し、今またベトナム革命によって「加速」されたドル・ポンド体制の危機による戦後体制(戦後ブロック)の崩壊という第四の危機が生まれているが、一国革命戦略では闘えない、というように。
私は、【ロシア革命→人民戦線戦術→抵抗闘争→戦後西欧革命→民主主義・社会主義革命】という系譜が、何から何まで正しいとも思わないし、それぞれ時代と力関係によって制約された限界と弱点を持っていると思う。しかし、ここには一貫したマルクス主義的追求がある。レーニンは、「民主主義のための全面的な、一貫した革命闘争をおこなわないようなプロレタリアートは、ブルジョアジーにたいする勝利の準備をととのえることはできない」といい、同時に、「プロレタリアート革命への移行ないし接近の形態をさがしだすこと」にわれわれのすべての注意を集中するように要求した。この戦術は、労働者政府への接近という攻撃的な危機をはらみながらもさし迫る必要から防衛的な反ファッシズム人民戦線として追求され、さらにそれはファシズムの敗北という戦後条件の中で、防衛から攻撃に転じたプロレタリアートのヘゲモニーによる民主的・民族的統一戦線戦術として展開されていくつかの国で成功をおさめ、今日ではこうした諸経験は新しい状勢の下で一つの民主主義・社会主義革命をめざす反独占民主主義闘争の戦術を生み出している。われわれがマルクス主義戦術の追求と発展の道とみた同じ道を、彼等は正に敗北と挫折の道と見ているわけだ。草案も含めて。
もちろん、私は、だから間違っているというつもりは毛頭ない。私もまた小野同志とともに、「われわれに必要なのはそれらが過去から継承された『権威』による概念であるがゆえにそれを固守しなければならないという非革命的、保守的態度を棄てる」ことに全く賛成である。ただ、あきらかにしておく必要があるのは、今回の草案は、「大胆かつ創意に富んだ」追求が行なわれてはいるが、「一国革命戦略の歴史的な挫折と敗北に代わる世界革命」という点では、いわゆる「反日共」系各派という共通の基盤に立つものであるという「まぎれもない」事実である。
わが党は結党以来、マルクス主義の新しい段階での理論的、実践的追求をめざして闘って来た。とくに最近、多くの同志や「統一」読者から出された批判と問題は、いわゆる「三派」と同じではないのか、「三派」とどこがちがうのかという率直な声であった。そして今回の草案は、いわゆる「三派」に仲間入りをするという宣言であり、その中で主導権を競い合うということであり、その意味でこの草案は、「まぎれもない抜きんでた旗印」なのである。
第一に「戦後歴史ブロックの成立と崩壊」とはなあんであろうか。この草案の中では「戦後歴史ブロック」それ自体についてはほとんど説明らしき説明はない。「世界危機=世界革命」論の最も基礎的な土台だというのに。
簡単にいえば「戦後における社会主義ブロックと帝国主義ブロックの冷戦的対峙、その米ソ両極構造への世界集約、ドル・核帝国主義を主柱とする帝国主義的世界編成、先進国における国家独占資本主義的統合等」が、「要するに戦後型歴史ブロック」らしい。しかし、帝国主義と社会主義の関係、帝国主義相合の関係、帝国主義内部の関係が一つの「歴史ブロック」を形成しているとすれば、この三つの個々の関係を綜合し、あるいは結び付けている関係はなんであろうか、それはどの階級のイニシャチブによってもたらされてしまったのか。この「歴史ブロック」のヘゲモニーはどんな階級の手にあるのか。
「歴史ブロック」という固定的なとらえ方は、この「歴史ブロック」の崩壊を「先行的」にもたらしたといわれる「第三世界」との関係で、実に奇妙な結論を導き出す。この草案では、「第三世界」はこの「歴史ブロック」の「体制外」であるというのだ。この「歴史ブロック」は「抵抗戦争の勝利をプロレタリア革命に連続転化させることに失敗し、この革命的中枢の挫折によって、世界資本主義をゆさぶった第三の危機は、世界革命にまで連続転化することなく、反革命的に収拾されてしまった」ことの「歴史的結果」として形成されたもので、この「ブロック」の中からは革命的な運動は決して起きてこない、いわば「革命的なマヒ状態」にあるといえよう。
しかし、「第三世界」は、そうして「第三世界」だけは、この「歴史ブロック」の「体制外」にあり、従ってまた恐るべき「歴史ブロック」の「毒」を受けていないことになる。だからこそ「世界革命」はベトナムからやって来る。
「汚れた歴史ブロック」と「神聖な第三世界」――これこそ二〇世紀の神話ではないだろうか。
マルクス主義は情勢のバラバラなとらえ方を拒否し、発展過程と内的関連の総体をとらえることを要求する。帝国主義の植民地支配は、同時に、帝国主義内部の階級関係と帝国主義による植民地支配の関係との相互関係を不可分なものとして押し出す。それは古典的な植民地支配の時代ばかりではい。「予防反革命」といわれている今日のベトナム侵略戦争の場合にもかわりはない。こうした内的関連の故にこそ、ベトナム人民の闘争とアメリカにおけるベトナム反戦闘争、また日本を含めた世界の反戦闘争との連帯的発展がありうるのであって、根本的には、決して「外」からの刺激と影響によるものではない。
第二の問題は社会主義国とその「平和共存政策」である。
「過渡期プロレタリア国家」と呼ぼうと呼ぶまいと、今日の社会主義国家が原則的に「過渡期」にあることは間違いない。またチェコスロバキアに対するソ連の干渉と介入が、「主権侵害」という単なるブルジョア民主主義的基準の侵犯ということではなく、工業の発達した市民社会を持つ社会主義国における社会主義的民主主義の追求への逆行的介入として、正しくないことはいうまでもない。しかし、それは草案がいうようにソ連はじめ社会主義国の「一種の階級的矛盾」の故であり、従ってまたその「矛盾」は資本主義国の「階級矛盾」同質に、いわゆる「世界革命」の対象となるものであろうか。
実現された社会主義社会――社会主義的民主主義は、革命以前の社会の尻尾を当然にも持っているが、それは資本主義的階級矛盾とは質的に異った方法をもって改革されるべきものであろう。
また、草案は、力をこめて社会主義国の「平和共存路線」を批判している。私もまた「平和共存」を熱核戦争回避という今日の世界の第一義的な課題に応える政策以上に、いわば戦略論として固定化することには反対である。本来、両体制の実務的な関係として生まれてきた概念が、その後の社会主義の拡大という条件の中で一層積極的な意義――平和共存名ばかりかでなく可能になった――をもってきたとしても、この概念の中に「余りにも豊富な」内容をもりこむことによって動きのとれない自じょう自ばくにおちこむことも事実である。
しかし、歴史的な事実として見るならば、社会主義の「平和共存政策」が少なくとも二〇年間熱核戦争を阻止してきたことを何よりも積極的に評価すべきである。それとも草案でいう「現代資本主義にはもはや世界恐慌にも世界戦争にも耐えることができず、それを経済的「解決」形態として自律的に展開することができない」とは帝国主義は世界戦争を自発的に放棄したとでもいうのであろうか。経済的「解決」であろうと、非経済的「暴発」であろうと、それを阻止することを第一義的任務とした「平和共存政策」は「世界革命」をおくらせたとでもいうのであろうか。
たしかに「レーニンがのべていたように、『すべての国における革命を発展させ、支持し、めざめさせるために、一国で実行できるかぎりのことをおこなう』必要があるだろう。そうであってはじめて社会主義諸国は、『世界革命の基地』として、国際プロレタリアートの闘争手段となることが出来る」ことは、間違いない。たしかに一般的には、「『一国で実行できる限りのこと』は平和共存政策と、そのもとでの経済闘争に帰着するものではあり得ない」だろう。しかし、もしそうだとすれば一体何をなすべきなのか。「革命の輸出」をか。あるいは民族解放闘争への公然たる共同闘争か。その場合「大戦」を避け得る保障は何か。中国共産党のいうように核戦争の廃墟の上に社会主義を建設するのでない限り、また大戦への危険が存在する限り、帝国主義に対する一定の「ジグザグ」な戦術と政策は必要であろう。
ソ連をはじめとした社会主義国の「平和共存政策」を否定的に、あるいは消極的にしか評価しないとすれば、社会主義国が「世界革命の基地」として何をなすべきであったのか、また何をなすべきであるのか、を、「世界革命」の推進者は明らかにする必要であろう。そうでなければ、「平和共存政策」への一方的な批判は世界戦争の危険を無視した無責任な批判となるからである。
第三は、この草案がとくに強調している一国革命戦争の問題である。
過去における「世界革命」の折角のチャンスをのがし、「世界革命」の挫折をもたらしたのも、今日の社会主義建設の「不成功」もハンガリー、チェコ問題もすべて今までの一国革命主義から生まれているという、いわば、一国革命主義が諸悪の根源なのだ。これを「救済」できるのは「世界革命」主義だけなのだ。
革命とはすぐれて国家権力の変革であることはいうまでもない。
「先進帝国主義の一国において世界革命を志向するわれわれは、われわれの闘争の対象の全範囲をこのような戦後型歴史ブロックの世界的構成体の変革として規定しなければならない」は、一体どんな「権力」の変革なのだろうか。「国家権力」とでも言うのものがあるのであろうか。「世界革命」はそれ自体固有の実体を持つものとしてはあり得ない。もちろん「世界革命は一国の寄木細工ではなく、世界社会主義は一国社会主義の算術的合算なのではない」。それれは、一国革命の有機的な総体であり、一国から始まってやがて世界全体の社会主義へ至る過程の総体でもあるだろう。
草案では、世界革命と一国革命、世界革命と直接的な国際連帯との混同と混乱がある。もちろんそれは分離されるべきものではない。それどころか、国際連帯の闘争の発展の中でこそ一国の解放は一層可能となるし、一国の解放よってこそ帝国主義戦線の弱い環を断ち切ることによって一層国際連帯の闘争は発展するだろう。そこにこそベトナム人民の民族解放闘争の勝利が国際的な革命戦線の発展にとってもつ重大な意義があり、日本革命の成功がアジアの反帝戦線の勝利にとって決定的な意義がる。国際連帯の闘いによって表明されるプロレタリア国際主義は、帝国主義戦線の一角をなす帝国主義的国家権力の、人民の手による奪手によってこそ一層貫徹されるのだ。
もちろん、一国の国家権力の変革である以上、国家権力自体を規定している歴史的な民族性と社会性が当然革命戦略・戦術に反映される。従って、また民族主義的偏向にもおち入りやすいことを警戒しなければなるまい。だからといって世界性の名の下に民族的特殊性を「灰色」の一般論に解消するならば、それは革命戦術の放棄になるばかりでなく、ただの、「大言壮語」になってしまうだろう。
この草案のなかから、いわゆる「世界革命戦略」の具体的な内容をさがし求めて見たが、「連続的・重層的革命」であり「政治・社会同時革命」であるという説明以外には、ついに見あたらなかった。「そうして現代革命を右にするようなものとして遂行するためのカナメは、今日におけるプロレタリアートの階級形成、そのための党の役割にある」と。結局、「世界革命」の戦略は「世界革命」の見地に立ったプロレタリアートの党をつくることにある。「世界革命」はついに「世界革命」イデオロギーに解消されてしまうのである。
草案によれば、現在、労働者とその組合は「体制内化」され、「消費者大衆化」され、したがって「労働者本体は『幻』」であり、体制内化された戦後民主主義的主体」の上に革命運動を発展させることも、七〇年を闘うことも、また労働運動の「左」転換を実現することも、いわば「木によって魚を求める」ようなもので、しょせん不可能であるという。従って「歴史ブロックの崩壊をもたらしつつあるベトナム革命を自らのものとして闘うベトナム反戦闘争をもちこむことによってのみ、「世界革命的階級形成」をすすめることもできるし、七〇年も闘えると。
「日本の国家独占資本主義支配そのものを根底から批判し、それに全面的に対決する主体としての自覚的労働者階級は、ベトナム戦争そのものとかわり、ベトナム人民の闘いから基準を与えられることによってはじめて形成可能となるのだ」。また「日大・東大・京大を先頭とするわが国の学園闘争は、戦後民主主義の地平では把握できない国家独占資本主義固有の社会的・政治的・文化的矛盾の展開と、そのなかにおける主体形成の論理をはっきり突き出しており、その意味において労働者階級の階級形成に巨大な衝撃と教訓をもたらしつつあるのだ」。つまり、「反戦運動の論理」と「大学変革闘争の論理」が「それ自体階級主体の形成過程そのものをなしている」というわけである。果たしてそうであるか。
第一に、現在、労働者は完全に体制内に「統合」されているか。
たしかに、見た目には、年中行事の春闘も、「相場」の範囲内で「買取られ」、反合闘争 も若干の譲歩をかちとることでなしくずしに合理化はすすめられている。多くの大組合はいわゆるアベック闘争で、闘う前にすでに結論が決まっており、時には職場の労働者が知る前に職制からその結論を知らされるときもある。
しかし、正に、そこにこそ問題があるのだ。合理化が上で取引された時、賃上げがアベックで勝手に収拾された時、職場では烈しい批判といきどおりが燃え上がる。しかし労働者は本能的に力関係を知っており、決してムヤミな暴走はしない。労働者はたとえ一時的には孤立しても、今日の孤立が明日の多数派になることを知った時決して立ち上がることにちゅうちょしない。労働者にとって重要なことは、「今日闘うか」ということだけでなしに、「明日どう闘うか」という問題なのだ。「日報労長崎分会」の活動家がどんなに闘ったかという以上に、今どうなっているのか、これからどう闘うか、という重大な関心をもっているのだ。
従って、外見、「平穏無事」に見えるからといって、現状に満足し、当局と組合の二重支配に惟々諾々としているわけではない。今もっとも求められているのは、こうした状況の中で「何をどう闘うべきなのか」「どうしたら合理化と闘って勝てるのか」というのである。だからといって、労働者が自然に革命闘争に立ち上がるわけではないということは言うまでもない。革命的な階級形成は、要求の自然発生性に依拠し、その闘争の発展法則に即しながらなおかつ「外」から持ち込むことによってのみ実現されるであろう。しかしそれは「ベトナム」からでも、「大学」からでもない。それは階級闘争に密着した前衛の目的意識的な運動からのみもたらされる。
私は、ベトナム反戦闘争の重要さを決して過小評価するつもりはないし、今日の大学闘争の画期的政治的な意義は極めて重要だと思っている。問題なのは、「ベトナム人民から基準が与えられてたり」「大学闘争から教訓をもたらされたり」しなければ階級自立や階級形成が生まれないという、その論理なのである。
階級形成の土台はどんな場合にも、生産と搾取の関係以外にはあり得ない。たとえ民同型労働組合が完全に体制内に「統合」されようと、当局が春闘を「買取」ろうとも、資本と賃労働が日々生産を通じて生み出す階級的な対抗関係そのものは「統合」することも、「買取」ることもできない。もし、「反戦運動の論理」としてではなくて「階級闘争の論理」をとおしてのみ現実に作用するからである。
街頭的なベトナム反戦闘争への参加者が、生産点での階級闘争をとおして真に階級的自立の自覚が生まれる理由はそこにある。また従って街頭的な反戦闘争から生産点での反戦闘争へと発展するためには、「反戦の論理」ではなく現実の生産点闘争を通じての「階級闘争の論理」によって実現される。従って「階級闘争の論理」へ媒介するものは必ずしも「ベトナム反戦」とは限らない。他のどんな契機もその媒介となり得るわけである。
そうして、労働者が、最も困難ではあるが最も重要な、自分の職場で生産を拒否する戦いの中でこそ、前衛の目的意識的な運動と結びついてはじめて革命的な階級形成は実現されるのだ。だからこそ疎外された生産の奪回へつながる「管理」の追及もそこから生まれてくる。そういう意味で、生産点の階級闘争は革命闘争と階級的労働運動の「細胞」であり、新しい社会主義社会の基礎的な「根底」ともなり得るのだ。われわれの不断に追及すべき目標はそこにある。しかし、この目標とすぐ結びつかないからといって、反戦・反安保闘争を過少評価することは、反戦・反安保闘争だけがこの目標と結びつく唯一のものであるということと同じように全く間違っている。反戦・反安保闘争と、生産点における一貫した追及とは、決して観念的に結合するのではなくてそれぞれの徹底的な追及の中でのみ実践的に結びつき得るであろう。われわれの七〇年にとっていま最も重要なことの一つは、労働者がゼネストで闘う体制をどうきずくかということである。そうしてそれが実現される時にこそ、二つの追求が実践の過程を通じて飛躍的に結合される絶好の機会となるであろう。「反戦の論理」と「階級闘争の論理」が闘いの過程で結合した時、七〇年闘争は反戦カンパニア闘争から真の意味での政治闘争として発展するだろう。
この草案では、「世界革命の弱い環」として七〇年闘争を闘うためには「ベトナム反戦」を媒介とした目的意識的な「世界革命的階級形成」が必要であるといいながら、実は「噴出する」「体制変革型」エネルギー=反戦青年委員会、べ平連、学園共闘にそれを解消している。こうして、前衛の目的意識的運動と、大衆の「非」変革型エネルギーとは双方からセクト的に「体制変革型」組織に吸収され、その組織作りに熱中することになる。ここには逆立ちしたセクト主義がある。
「体制変革志向型」でないと七〇年は闘ないのではなくて、七〇年を大衆的に徹底的に大衆的に闘うことによって「体制変革志向型」の闘いへと発展させることができるのだ。「七〇年安保が世界革命の弱い環」だから「革命的」に闘うのではなくて、七〇年を徹底的に大衆的に闘うことによって七〇年安保をアジア帝国主義路線の弱い環にするのだ。
この草案の基調の一つは「「戦後民主主義体制こそブルジョアジーの体制であり、抑圧の体制であり」従って民主主義・社会主義の路線は、この「民主主義の徹底に『切れ目なく』社会主義を接合すると主張することによって、事実上は社会主義のモメントを民主主義に解消すること」になったので「一般民主主義の地平を超える」「労働者民主主義」を「反独占民主主義」にかわって提起するのだといっている。
果たして「戦後民主主義」は体制内に統合されたのか。「戦後民主主義」は革命運動とはもはや縁もゆかりもないのか。反独占民主主義では闘えないのか。
現在あらゆる分野と領域で闘われている諸闘争はすべてといっていい程、「反独占民主主義」の徹底のための闘いである。労働者の賃金闘争から「原爆スラム」の住宅建設闘争に至まで、「反独占民主主義」に依拠しながらその「空洞化」と闘い、逆に「戦後民主主義」の徹底のために日夜闘っている。一体「戦後民主主義」に基礎をおき、それを手段としない現実の闘争が、どこにあるだろうか。
「安田講堂の闘い」、「新宿駅の闘い」は別だというのだろうか。
もしそうだとすれば、意識的な「革命闘争」以外の諸闘争は、どんなに闘おうとやがてそれは体制内に統合される運命にあるということになる。しかし、いかに「労働者民主主義」を志向するといっても、「真空」の中では闘えない。現実の闘いに依拠することなしに革命闘争への発展はあり得ない。
たしかに今日の民主主義闘争は自然成長的には民主主義闘争のままで終るし、決して「切れ目なしに」社会主義に発展するはずもないし、「体制内統合の回路に吸収される」可能性が常につきまとっている。ところが奇妙なことに、草案の「部分改良闘争の位置づけ」においては、「部分改良要求はけっして部分改良にとどまるを得ず、現代社会の根低的な否定にまでつながらざるを得ないという構造を、現代社会そのものがもっていること」また従って「一つの部分改良要求はかならずつぎの要求を生み、現代社会の構造的な矛盾の解決に向かって連続して進まざるを得なくなる」といっている。つまり現代社会では「改良と革命が不可分なものとして現れ」、いわば部分改良闘争が自然成長的に現代社会の根底的な否定に発展するというのである。これは一体どうしたことなのか。
部分改良要求はとりもなおさず民主主義的な要求であり、「現代社会の根底的な否定」あるいは「現代社会の構造的な矛盾の解決」とは体制変革内的な志向であり社会主義的な性質をもっているのではないのか。民主主義の根底にそれこそ「切れ目なく」社会主義が接合される条件をもっているわけだ。
だからこそ、一方で構造改革闘争、反独占民主主義闘争を否定しながら、他方では「革命過程は今までとは異質な連続改良闘争の形をとってあらわれる構造的闘争と政治権力をめざす闘争との独特の内的結びつき」だといっている。
「今までとは異質な」とはどんなに異質なのか、「独特な内的結びつき」とはどんな内容なのか、一体今まで追及されてきた構造改良闘争、反独占民主主義の闘いとどこがどう違うのだろうか。
この混乱は一方で「戦後民主主義」に基礎をおいた「一国革命戦略」であるという理由で構造改革闘争を否定しながら、他方では「世界革命」を現実の闘争から「万里の長城」でへだてないために、あたらしく、「連続改良闘争」なる戦術を発明する必要があったからであろう。
民主主義闘争といい、部分的改良闘争といい決して自然成長的に体制変革の闘いに転化するわけでないことは言うまでもない。しかし、同時に、社会主義革命がいつかある日に突然やってくるわけでないことも明らかである。部分改良闘争=民主主義闘争が体制変革の闘い=社会主義闘争に転化するのは、イデオロギーと力関係とりえわけ前衛の政策的実際的指導と力量にかかっている。それは決して「切れ目なく」接合されるのではなく、自然発生的運動と目的意識的運動が実践過程で適切に結合されたとき、「質から量へ」「戦後民主主義」の闘争から反独占民主主義の闘争へ転化するのどある。
もちろん草案が言うように、「それが改良闘争である以上、一つの部分的要求の実現は一つの闘争過程の終わりを意味することは明らかである。」しかし、「その場合、改良が体制に吸収され、労働者の階級的形成を崩壊させる方向を断ち切ることができるのは、その獲得物を主体的に管理し得る労働者の階級的自立、すなわち労働者民主主義・労働者権力の強化以外にはない」ともいっている。「労働者民主主義・労働者権力という」点をのぞけば至極あたりまえのことであり格別の新味はない。しかし、それが「労働者の階級的自立」の自覚というだけでなく、「自立」の形態としての「労働者民主主義・労働者権力」というならば、その具体的な内容はなんであろうか。草案によれば、「既成の吸収用の回路(ブルジョワ民主主義回路)とは別に、それを打ち倒すべき政治的、組織形態を完成するという課題は、究極的にはプロレタリア革命における革命のカリプロレタリア権力の基地−コミューン、評議会、ソビエト、レテなど―」現代的追及の問題につながってゆく」ものなのだ、現に生産原点における労働者民主主義への志向は今日、労働者の自主管理、工場占拠、労働者自己権力などの問題として次第に具体的な相をあらわしつつある」し、組織的回路は「噴出」しつつある「大衆行動委員会」としての反戦青年委員会、べ平連、学園共闘にほかならぬというわけである。
ここに問題がる。
この草案全体を色どっている大げさな表現や文学的脚色を割引いたとしても、一体どこに「自主管理、工場占拠、労働者自己権力の問題が具体的に相をあらわし」ているのか。もしあるとすれば、その具体的な実践こそ総括すべきではないか。
もちろん私は、草案のいう「短命の力−社会主義権力の基礎」が必要でないどころか、最も必要だと思っているしかし、ソビエトの経験は「自己権力の基礎が直接にイデオロギーに基づいてではなくまた党派の連合に基いてではなくまさに、徹底的、大衆的な行動に基いてつくられたこと。つまりはっきりと提示される敵と味方の階級戦線に沿って断固たる革命的行動が大衆自身の手でたえずダイナミックに拡げられてゆくこと、その意味においてそれは蜂起した大衆のみずからの直接民主主義的機関であったことを示している」かどうかは別としても、今が「蜂起」の時期でないことだけは誰しも否定すまい。
われわれにとって重要なことはプロレタリア権力、労働者権力一般ではなくて、何時プロレタリア権力の問題を提起するのか、ということである。「もとより日本におけるわれわれの闘争はまだ日本革命における自己権力の下部構造の組織的問題を具体的に語る地点に到達していないことは明瞭であって、いまの時点で固定的にそれを構想することは“革命ごっこ”にすぎないであろう。
しかし、「組織問題」として「固定的」に構想することは“革命ごっこ”にすぎないが、一般論として提起し、構想することは“革命ごっこ”にならないのか。
今この問題を提起するならば必ずセクト的な組織問題が先行するであろう。それは“革命ごっこ”にはならないかも知れないが、危険な“火遊び”になるだろう。
いずれにしても、「労働者民主主義」という概念の広範多岐な運用は、「反独占民主主義」批判の「仮説」としては便利かも知れないが、現実に闘うことによって「現代社会の根底的な否定」へ転化可能な「民主主義」との関係を抽象的に切断することによって、いわゆる「労働者民主主義」そのものを抽象化するとともに、現実の闘争と追及を抽象化し、セクト化することになるだろう。
この草案は、一貫してマルクス主義の「古い公式」の全面的な否定の上に「新しい公式」を提起している。ここには「古い公式」を新しい時代の流れの中で「革新」しようとする弁証法的な方法はない。過去の切断と過去の断絶の上に「新しい公式」を無証明に提起する口あたりのいい「自己否定論」がある。
それではこの「新しい公式」は真に新しいのか。
この草案が最も実践とふれ合う七〇年闘争と労働運動におけるセクト主義はどこから出てくるのか。「世界危機―世界革命」論は「危機」の具体的な分析を「世界危機」論に一般化する。そこから一国の危機の構成内容である客観的な過程、敵の状況と味方の力量彼我の力関係と同盟軍の状況、そこから引き出せる政策と配置、戦略と戦術はすべて「世界危機―世界革命」の前にはとるに足らぬささいな条件になる。ただ存在するのは急流のような「世界危機」であり、巨大な「世界革命」であり、「壮大な革命的予感に」満ちた「噴出する」革命的行動である。こうして「世界危機―世界革命」論は急進主義になり、イデオロギー先行主義となり、セクト主義となる。
しかし、これは今にはじまったわけではない。歴史的には常に、運動の停滞傾向にあるとき、新しい局面がはじまり出した時、大げさな「空文句」で武装された小ブル的なラディカリズムが発生することを教えている。これは決して「新しい公式」ではなくて、古い「新しい公式」である。とくに既成左翼の民族主義は新左翼の「国際主義」を、既成左翼の議会主義は新左翼の「急進主義」を誘発し、またその逆がくりかえされる。「古い公式」と「新しい公式」はこうして相互の対抗関係を通じて一層極限的対抗関係を生むだろう。
今、われわれにとって必要であり、重要なことは「古い公式」が新しい課題を追求し新しい時代の生きた問題を吸収し、自己改革を通じて「新しい公式」に転化することである。
私はこの草案に基本的に反対する。それはこの草案は党の団結を破壊し、党を武装解除し、党の闘いと戦闘的なエネルギーを孤立させるからである。わが党が結党してから二年経った。その当時「平和共存・反独占民主主義」は「抜きんでた旗印」であり「わが党の銘柄」とされた。二年間の実践はこの「旗印」「銘柄」を簡単に捨てきれるだけ豊富であったのか。われわれにとって大切なのは評論家のように新しい情勢を評価したり「解釈」したりすることではなくて、われわれの実践とどうかかあり合っているのか、日本をどう変えるのか、ということである。言葉で世界革命と結びつけたり、国際主義を宣伝したりする以上に、われわれの社会変革するために現実に闘う者こそ最も忠実な「世界革命論者」であり「国際主義者」であろう。
私はこの草案の採択に反対するとともに、未解決の諸課題――人民戦線戦術、平和共存、構造改革論、現代帝国主義と現代社会主義など――については、特定の委員会を設けて一年間追求、検討するとともに全党討議を十分組織し、第三回大会は当面する七〇年闘争の闘いで全党が団結できる方針を決定することを心から要望する。
活動の総括とその提起するもの(第三回党大会の成功のために)
「共産主義労働者党」機関紙 統一 第323号 昭和44年(1969年)5月12日発行
長谷川浩
総括
1、総括の基本的態度
七〇年を目前にして、反安保の闘争を徹底して闘いぬくためには過去一年余のわが党の活動を曖昧にすることなく総括し、大衆の要求と行動から真剣に教訓を学びとることが決定的に重要である。
われわれの総括の態度は、科学的社会主義、マルクス・レーニン主義に導かれる労働者階級の党としてのわが党独自の立場に立つものであり、それゆえに自らを最もきびしく点検する。
われわれは、この党の立場から「わが党を初め社共の左に進出した新しい戦闘的左翼」としてわが党を左翼諸党派と同列におき、あるいは諸党派一般に解消することはがまんならない。また、単なる「労働者反戦派・職場反戦派の党」に止まることもできない。反戦運動・労働運動・農民運動・学生運動・市民運動等々すべての分野と階層の具体的な闘争を通じて力の及ぶ限り革命の道を追求する党として自らを点検し鍛えてゆかねばならない。その意味で、たとえ好ましくないと感ぜられる問題でも、事実をありのままに具体的に直視しなければならぬ。
それは周知のように、今日、社会党がますます弱体をばくろし労働者の前衛と自称する共産党が議会主義に転落し、これに反発し対立する左翼諸党派が各々自己の正当性のみを主張して主導権を争い、戦線を混乱させているなかで、独占資本の支配に対立するすべての階層を領導し統一する労働者階級の革命的立場を明確にしてわが国における階級闘争の法則性を追求するうえで、このことがとりわけ重要となっているからである。
事態を掘り下げることなく、バラ色のムードをもってしても、革命は前進しない。
2、エンタプライズ寄港反対闘争の意義
「七〇年安保闘争」はすでに始まっている。そしてその端緒は一昨年秋の羽田闘争にあるといわれる。たしかにそれは「七〇年安保」を意識した学生の街頭行動・ラジカリズムの発端であり、日韓条約反対闘争以来とみに強化された弾圧体制に反発するものとしてまた、今日の一般的ニヒルな気分を反映して、一定の客観的理由をもつものであった。
しかし、「七〇年安保闘争」と七〇年代の階級闘争に、真に大衆的な発展の展望を与えたものは、昨年初頭の佐世保におけるエンタープライズ寄港反対の大衆行動である。
ここでも、学生部隊の行動は起爆的役割りを果たした。だが、佐世保の闘争が広範な層に闘争の確信を与え、その後の運動の発展を導いたのは、この闘争に佐世保SSKの労働者をふくめて、総評系・総同盟系の労働者、基地佐世保の市民、無党派進歩勢力がこぞって立ち上がったからである。この大衆的な動きに社、共、公明、民社の議会政党も動かざるをえなかった。各党各派の指導部のセクト主義から組織的な行動の統一は達成されなかったとはいえ、大衆は幹部の締付をのりこえ狼狽する彼らと尻目に、警官隊の暴力弾圧に共同行動をもって反撃した。
わが党は佐世保地区委員会を根拠に、この大衆的な連帯行動を推進することに全力を傾けた。
エンタープライズ寄港反対闘争の与えた数多くの示唆は重要である。
それは現行安保条約が締結されて十年、とくにアメリカのベトナム侵略に支配階級が積極的に協力し、直接その基地とされてきたわが国において、急速な産業の高成長と社会生活の近代化にもかかわらず、労働者と勤労人民の不満と政治不信はますます根深いものであることを示した。そしていまベトナム侵略におけるアメリカの敗北とその権威の失墜は、意識されると否とにかかわらず、権力にお対する抗議と反撃の意識を培い、いついかなる契機で爆発するかもしれない闘いのエネルギーを貯え、発展の可能性を秘めている。その点ではいわゆる「体制内化」された総同盟・総評の下部組合員も少しもかわらない。そしてこの力に依拠するなら、広範な市民層をふくめて行動の統一は可能である。
さればこそ、佐世保の闘争は支配階級とその政府に深刻な脅威を与え、人民の広範な層の勇気を鼓吹したのである。
3、王子野戦病院撤去の闘い
佐世保の闘争が「七〇年安保闘争」に重要な示唆を与えるとともに、とりわけ米軍基地撤去の闘争課題を改めて提起したのに応じて、わが党は東京北部地区員会を中心に王子米軍野戦病院開設反対の闘争を積極的に取り上げた。
二月下旬、従来の「米軍ベトナム野戦病院設置反対連絡会議」が代々木共産党の学生・反戦青年委員会に対するセクト的態度から分解し機能を喪失するにいたって、党は二・二〇の統一行動を出発点とするあらたな闘争の組織のイニシャチブをとった。たしかに闘争の初期において行動を激発すえで大きな役割を果たしたものは、ここでも「中核」その他の学生部隊であり、党も自治会共闘の学生、ベイ平連などに動員を訴えた。だが、三月十八日の開院強行と前後して「ゲバルトをただ止めろというだけではだめだ。地元が立ち上がらなければいけないのだ」という声がたかまり、地元区民の自主的な行動と組織が発展した。とくに開院が強行されべトナムからの傷病兵が送りこまれてくると地元の人びとはいっそうベトナム戦争を身近かに感ぜざるをえなかった。「昼は地元保守派ボスの牛耳る町内会主催のエプロンデモに参加し、三派全学連の暴力反対のビラを貼らされ」「夜はそのビラをはがして『反対する会』の『我家は野戦病院に反対する』のステッカーを貼る」「二つの顔をもつ区民」が次第に増していった(以上北部地区委員会ならびに都委員会青対部「中間報告」から)。
抗議の統一行動が二・二七、三・三、三・八をへて三・二八から四・一にいたる連続行動として展開されるなかで、地区党は何よりもこのような地元区民の自主的な運動と組織の発展のために一貫した努力を傾けた。
こうして王子野戦病院撤去闘争は「うちなるベトナム」のたたかい(青対部)、「首都に持ちこまれたベトナム戦争」に反対する闘争(北部地区委員会)としてたたかわれた。
たしかに大衆運動の次元ではそれはベトナム反戦の闘争であった。しかし同時にそれは砂川・板付の基地反対闘争、さらには水戸射撃場撤去と新島移転反対闘争など一連の全国的な基地反対闘争の一環であり、安保条約による日米軍事同盟を撤廃する日本人民の歴史的な闘争を継承・発展させたものである。そしてそれゆえにこそその根底には日本革命への課題とたたかいがある。
北部地区委員会の中間総括は、全国闘争の一環として現地闘争として、たしかに行動部隊を全国動員して王子に投入したとはいえ「七〇年へ向けてたたかうための党の全国組織の体制づくりにおいて、地域別・戦線別にかなりの不均衡をうみ出し」、また「現地闘争における地域住民の直接民主主義要求運動としての方向付けが指導面で弱かった」と指摘する。
ここに提起された問題の底には反戦運動を反戦運動としてのみ捉えるというよりむしろ反戦運動をそれ自体を革命運動と捉えて全国的カンパニアの連続的な行動のみを強調し、全国的な闘争のうちにも各階層・各地域に住民を規定しているわが国革命の歴史的条件・諸課題の関連を見抜く党の視点・革命運動の視点の不明確性に対する疑問と批判があると考えられる。
この闘争の過程において、党は再三活動者会議をひらき、意志統一を行なって組織的な活動を展開することに努めた。しかし、全国闘争と現地闘争の関連は必ずしも明確な結論を得られず、中央常任委員会と都委員会から編成された現地指導部は「固定せず」機能をほとんど発揮しなかった。
こうして王子野戦病院反対運動は四月八日の集会・デモが禁止されたなかで、果敢な非合法でも遂行しゲイト前に座りこみをたたかいとったが、爾来漸次困難が加重されるようになった。同時に党の主たる関心も六月行動から八月沖縄原水禁大会、米タン輸送反対闘争とカンパニアを追って自然に王子から離れ、たたかいは地元同志のたゆまぬ活動のみに任される状態となった。しかし今日なおこのたたかいがねばり強くつづけられているところに「地元住民の直接民主主義要求運動」のエネルギーがあり、また「七〇年安保」の全国闘争をたたかう原動力ある。そしてこの区民のたたかいを支えるものものとして、経営細胞を基礎に居住の党員を結集した地区党組織が厳として存在したということは、政策上になお問題があったとしても、党の組織上に重要な教訓を与えている。
4、「六月行動」の意味するもの
日高氏らを呼びかけ人とするベトナム反戦の国際連帯行動は、一面では佐世保闘争から王子、三里塚の闘争をへて高揚した昨春の反戦闘争の頂点であるとともに、他面ではそのうちにあっての各派の激しい指導権争いをばくろする最初の契機であった。
六月行動をもりあげた一要因、三里塚について触れるなら、それは独占資本と政府の全般的産業近代化政策に対する農民の土地と農業を防衛する抵抗を軸とするものであった。わが党は王子の闘争に全力を傾け、この闘争に十分取組まなかったが、そこにはこのような問題の意義と発展方向を明確にする上での立遅れもあった。
地元農民のこの闘争の支援に最も力を入れたのは「中核」派を中心に“三派全学連”であったことはいうまでもない。そしてその「ゲバ棒」戦術は農民闘争の固有の性格もあって、一定の共感をもってうけいれられ、代々木共産党・民青の合法主義は無惨にその醜態をさらけだした。
しかし、この時点ですでに激化していた東大・日大を始めとする学園闘争とも関連して、三派全学連・自治会共闘と代々木共産党・民青の対立だけでなく、三派全学連内部の各派の対立・抗争がようやく先鋭化していった。
六月十五日の統一行動は、こうして昼の部ではベ平連その他の民主団体・各地の進歩的グループの動員を基礎に一万をこえる大衆を結集し、その後においても各地ベ平連グループを生みだす成果をあげながら、夜の部では日比谷野外音楽堂を埋める労働者・学生の面前で「中核」と「革マル」が正面衝突し、デモは全く支離滅裂となった。
爾来、「中核」「ブント」など対「革マル」「解放」の対立はますます激しく、そのことが積年の代々木共産党・民青のセクト主義との対立・闘争に加えて、その後の学生運動・反戦運動を制約する否定できない一条件となった。
われわれにとってこの対立の根拠とされているものに余り重要な意識をもたない。しかし、こうした客観的な不統一状態は、自主的な大衆行動の立場から無視することはできない。その意味でわれわれはこうした対立の基礎にある主観主義とセクト的なエリート意識――階級の利益と解放のためにたたかい大衆自身の行動を発展させることに貢献するのではなく自派の主張に大衆を従属させ運動を従属させようとする誤った指導者意識に対してはきびしい批判をもつ。代々木共産党とも共通するこのような自己中心主義は戦線を分裂に導くだけであり、本来労働者階級のものではなく、小ブルジョア思想であり議会主義とラジカリズムの共通の基盤である。
まさに、このような思想的分岐と戦線の混乱のなかでこそ、労働者の階級的立場を明確にする思想とこれに基づくわが党の政策が要求されるのであり、これを保障する党組織党機関の民主集中的な活動が必要となる。
5、10,21をめぐって
一昨年秋の羽田における佐藤訪ベト反対闘争で殺された山崎青年の一周年を記念して、共同で抗議と追悼の大衆集会・デモを行なおうという提案が砂川の宮岡氏、三里塚の戸村氏、物理学者の水戸氏らを呼びかけ人として提起され準備される過程で、行動の基本目標をどこにおくか各派の主張が入り乱れるとともに、その指導権争いは一段とすすんだ。だが結局問題の焦点はさきの六・一五問題にあり、「中核」の自己批判を要求する「各マル」「解放」派と「中核」その他が分裂し、各派それぞれ別個の行動をとるにいたった。その中で「五万人合理化反対」闘争を契機に国鉄の現場の労働者・活動家がもりあげてきた「米タン輸送反対」の闘争が大きく浮びあがった。とくに国鉄労組幹部がこれを当局との取引の材料として米タン増発を延期することを条件に闘争を中断するにいたって「民同指導下の組合」に対する不信と企業の外からこれを突破しようというラジカルな空気が急速にたかまった。こうして一〇・八、一〇・二一の新宿における駅占拠と街頭戦が遂行された。国鉄当局と政府は大きな打撃をうけ、遂に騒乱罪を適用して弾圧にのりだした。
このような行動が一定の政治的条件のもとで一定の目標に対して行なわれる必要がることは確かである。しかしその場合、問題の政治ばくろと行動の意義が徹底的に宣伝されなければならない。新宿の闘争が米タン輸送の危険とその政治的意義を大衆に明らかにしたえたであろうか。それは政府・マスコミ機関の「騒乱」の宣伝にかき消されたのではないか。
さらにこれは国鉄労働者の自発的な軍事輸送拒否の行動を再組織し発展させる行動とは異なるものであり、従って佐世保の闘争に内在する革命的なものとも性格を異にする。佐世保ではSSKの労働者が総同盟幹部をのりこえて自主的に立上がり組織的に行動した。新宿では労働者はあたかも「路傍の市民」であるかのようにして参加し非組織的に行動する以外になく階級を一般市民に解消する危険さえ感じられた。もちろん、国鉄労働者も動かなかったし、動きようもなかった。
この闘争はまだ王子の闘争とも性格を異にする。ここでも組織されない市民が学生のラジカルな行動に刺激されて街頭行動に参加した(今日政治に対する不信不満が明確に政治闘争の方向を与えられぬままに堆積している状況のもとでは、こうしたことは何時でも起こりうる。問題はこれに方向を与え組織することにある)。だが、王子の闘争の根底には、少ないといえども、経営を基礎としたわが党の細胞の組織があり、労働者階級の政治的ヘゲモニーの基礎がある。さればこそ、市民一般を組織された市民に成長させる端緒がひらかれ、「野戦病院の移転」ではなく「撤去」でなければならぬという意識を組織的な行動にまで育てあげてきているのである(本年四月一日デモ)。
このような闘争の質的な相異ははっきり確認されなければならない。労働者の階級としての革命における指導性・政治的ヘゲモニーを保障することにこそ、共産主義的党の第一義的任務があるからである。
これと関連して、わが党にとってより直接的に重要な問題であったのは、各派の対立と行動の分裂がすすむなかで、党自体の基本的態度と具体的行動方針が明確を欠き、組織全体の意志統一が行なわれぬままに行動スケジュールを追ったということである。
その結果、下部では「中核」とはげしい党派闘争を迫られているとき、上部では「中核」と共同の集会を組織する、一部の部隊は「革マル」「解放」派と統一行動をすすめるという現象が生まれた。その上、統社同との「前衛党結成」を目指す統一も間近いという話まで伝えられた。
「一体わが党は何を目指しているのか」という疑問が生まれ「七〇年に向かってどうたたかうのか」という声が上がったのも当然である。それは単なる「ぬきんでた党の旗印」ではなく、実践的なたたかいの指針と独自の原則的立場の明確化の要求である。
東京都党は九月臨時党会議をひらき、機関紙「統一」の四ページ化に備えるとともに、秋の闘争を控えて、地区細胞ブロック結成を主軸とする党建設と反戦青年委員会活動を職場を基礎に推進する方針を決定していた。
しかし、集会・デモを相つぎこれに追われて具体的行動の方針・総括を掘り下げて討議する余裕がなく、中間機関はただ闘争スケジュールを伝達するだけに終わった。
春の闘争では、集会・デモへの動員を組織するうえで活発に活動し、研究・討論集会なども計画的に進めてきた都委員会青対部は、その指導部内の意志不統一の問題も手伝って相つぐ大衆行動の組織的動員体制をとれなくなった。というよりはむしろ、青年労働者党員の活動の発展が、従来の動員組織的性格を主とした青対部の体制を不適当なものにしていたのである。
さらにこの間の機関紙活動についてみるなら、その読者の三分の一以上を占める東京では、漸次読者層が従来の層から若い層、主として学生、知識人層に移り、経営の部面ではほとんど増部はみられず結局増減差引き一〇部増に止まった。この傾向は全国的にも、労働者層で増さず学生層で増やすという形であらわれているように考えられる。
党員数は、東京では春の王子闘争の時期には漸増していたが、秋にはほとんど入党者を数えることができなかった。
1・17年頭政治集会の教訓
こうした状態の中で、東京都党では細胞から「独自の大衆集会を開け」という提案が出された。
都委員会はこの提案をうけて中央常任委員会と協力して十分な準備期間をとって、六九年年頭に千人規模の大衆集会を組織し「七〇年安保闘争」に臨む党の基本方針を打出す計画をたてた。その準備過程で一〇・二一を中心とする秋の闘争の総括をする討論集会を行い都委員会としての「七〇年闘争と七〇年代闘争の展望」に関する討論を行なった。しかし、総括討論集会は討論にならず失敗し、都委員会の討議は一定の基本問題について見解をまとめたまま、具体的な問題に立入らぬまま中断されている。
そうした条件のもとで、都党の細胞は一・一七年頭集会の動員を成功させるために全力をあげた。
それと同時に、同志たち、とくに若い同志たちは中央常任委員会との政治的意志の統一をはかるために努力した。「七〇年安保」を日本の社会主義革命との関連においてたたかう党独自の方針を全党の力で作りあげ、年頭集会を党派性ある政治集会にしたいというのがその希望であった。
年頭集会は動員においてほぼ成功をかちとった。しかし集会の形式と内容に関しては問題を残した。それはこの政治集会に参加した人びとから寄せられた批判の要望が明確に示している。
「七〇年闘争の日本の民主主義革命・社会主義革命の関連を捉える理論的中核の形成」「七〇年、七〇年代を通じて革命への道を確立する前衛の必要性と労働運動における拠点の必要性」など、党内外の共通の問題意識にもにもかかわらず「七〇年闘争と主体形成についての関連が不十分、すなわち反日共諸派のなかで真に前衛づくりについての方針をぜひ聞かせてほしかった」「生産点におけるたたかいを貴党は職場反戦を軸としてゆくとのことだけど、各種反戦組織全体を容認するのか?統一戦線に対する方針がみられない」「労働者党のカラーがほんとうに打ち出されただろうか。三派とのケジメをはっきりさせてほしかった。」等々。そして最後に「最も前衛党たるうる党でありながら、なれないでいる党」と批判は手きびしかったのである。
そしてここに提起されている問題こそ、公然ないし隠然と、あるいは党の指導について、あるいは機関紙「統一」編集の基調について各地の党組織から出されている意見・批判などの根底にある問題であり、来るべき第三回大会でわれわれが前進的に解決しなければならない課題である。
7、細胞活動と反戦青年委員会活動
一・一七年頭集会に参加して、「最も前衛党たりうる党でありながら、なれないでいる党」と感想を書きとめたものは、実はこの集会の動員に全力をあげてきた職場の一同志、ブルーカラーの労働者であった。
では、こうした職場の同志たちの活動はどうであったか。
東京都党の青対部が昨春の諸闘争の中で職場と産業別の反戦青年委員会の組織に取組み、デモの動員においても組織の拡大においても一定の成果をあげながら、やがて秋の闘争では中央ならびに都党の基本的な政治的立場、行動方針の不明確さのもとで(青対指導部自体の問題も含みながら)その活動を弱体化したことはすでに指摘した。しかし、そうした条件のもとでも、わが青年党員は着実な活動を続けていたのである。
たとえば印刷産業の同志は、はっきりした組合組織にさえなっていない会社の御用組合のなかで、とかく会社側に傾く共産党フラクションに対抗しながら、細胞新聞を発行し職場闘争を組織して、賃金体系改善の春闘を準備していたのである。
また、他の産業の同志は、極端に賃金格差のある会社の賃金制度を改善するために、従業員全体の年齢別賃金を詳細に調査し、その平均額に満たぬ過半数の労務者の要求に応えて格差是正の方針を大衆的に決定し、春闘で九日間のストを打つことに成功した。
これはそれ自体としては、組合運動であり、経済闘争である。しかもそれは「民同型」指導による「上からのスケジュール闘争」ではない。大衆の要求と自発性を組織するたたかいであり、党の活動である。
そして党員が先進的な活動家とともにこのような職場の闘争で大衆に責任を負うようになったことそこに簡単に電話一本でデモに出掛けるわけにはいかなくなった理由の一つがあり、政治行動の意義をあらかじめ明確にする大衆討議が必要になっているのである。
もちろん、細胞ブロックが成立し、地区委員会の機能が一応働いている地区や、闘争の伝統のある職場では、活動は政治的により高度のものがあった。
北部では、細胞は春闘を準備するとともに国鉄労働者の反合理化闘争、運賃値上げ反対闘争と連帯して宣伝活動を行い、また「王子野戦病院」撤去の闘争を再組織した。そのなかで反安保の行動集団も生まれている。
都職では「体制内」といわれる今日の組合の諸条件のうちにあって、それをも運用しながら反戦青年委員会が結成された。
しかし、こうした政治的行動とその組織――反戦青年委員会の発展の基礎に、日常的な職場活動・労働組合活動の積上げがあることを無視することは許されない。若い同志たちが職場の組合活動に取組むようになったことは後退ではなく前進であり、組合の戦闘化と団結の強化のために不断の努力を傾けてこそ、組合員の信頼をかちとり反戦青年委員会活動の拡大の基礎も作られるからである。
反戦青年委員会は単にいまラジカルになった青年をかり集めて街頭に動員するだけの組織でもなければ、組合を破壊しこれにとってかわる組織でもない。職場の労働者の政治的自覚をたかめ、行動を強化し、労働組合を組合員の圧倒的多数の意志を持って、政治的ストライキ・デモに動員してゆく推進力である。
こうした反戦青年委員会の性格と任務は「都職反戦」の結成に際しても激しい対立の基礎となった。
社会党・総評の自主的反戦青年委員会の改組、組合への従属の方針の誤りはおくとして(社会党・「民同」幹部ははじめから組合員の自主的な政治活動を恐れ、今日共産党フラクションまでこれに同調している。しかし、労働組合は本来組合員の政治的活動の自由を保証し資本の攻撃からこれを防衛しなければならない)。そこには二つの方向が対立し激しくせり合った。一つは、反戦青年委員会を集中組織とし指令一本で街頭戦に引出す戦闘部隊としようとするプチブルジョア・ラディカリズムの「街頭主義」の方向であり、他の一つは具体的な政治目標で職場の労働者を結集し、生産点を基礎に政治行動を推進し、これを政治的ストライキとデモストレーションを結合してたたかう原動力としようとするものである。
反戦青年委員会のこのような性格と任務の規定は明確にされなければならない。そこには「七〇年安保」と七〇年代の闘争に対する基本的な政治方針と闘争戦術の相異が根底にあるからである。
「職場反戦」の組織はこうして急速に青年労働者の間に拡大しはじめ、総評の改組・組合への従属政策を大衆的に批判攻撃し、自主性を公然と獲得しつつある(四月二十五日日比谷集会)。
しかし、それとともに反戦青年委員会と党の相異を明確にすることがいっそう重要となる。
反戦青年委員会は、当面の反戦反安保を政治目標に結集される政治的行動委員会であり、反戦反安保の闘争と日本の革命の関連を必ずしも明確にするわけではない。反戦青年委員会をそれ自体として革命を志向するものとするなら、それはこの組織のセクト的集団にするとともに、党を反戦青年委員会に解消して、それこそ党を「労働者反戦派の党」「職場反戦派の党」に引きさげてしまう。
党は反戦反安保の闘争を推進し反戦青年委員会活動の先頭にたつ。しかし、同時に党はこれをわが国の社会主義革命を実現する展望にたって指導する責任を負う。
党は七〇年安保と七〇年闘争を単に反戦闘争の側面からだけ捉えるのではなく、現代社会の階級矛盾を基礎に、すべての分野の問題を取上げて、そのうちに革命を推進する具体的契機を明確にしその集中点としての権力との闘争――日米帝国主義の軍事的・政治的・経済的同盟の打破、日本独占資本の支配の転覆・労働者階級の領導する新しい政権の樹立を目視してたたかう。
8、国鉄労働者の反合理化闘争の教訓
以上、われわれは過去一年の主要な政治闘争・反戦闘争と党活動を検討してきた。
だが、党が現代社会の矛盾をすべての分野にわたって取上げ、革命の発展の契機を追求するという立場つなら、少なくとも国鉄労働者の反合理化闘争、東大・日大を中心とする学園の闘争、そして沖縄県民の日本復帰と基地撤去の闘争を検討し、その意義と教訓を明らかにしなければならぬ。
すでにわが党の第二回大会の時点で国鉄労働者の反合理化闘争首都を中心に強力な順法闘争で闘われていた。そのなかで実際にたたかいの指導的役割を果たしてきた国鉄の一活動は「われわれは長年にわたって抵抗を続けてきたし、これからも抵抗を続ける。しかし、抵抗の先に何があるのか」と問題を提起していた。
国鉄の経営が現代の技術的進歩に対応する設備投資のすべてを独占資本の高利の貸付けに依存し、巨額な借金の利払いに追われてその負担をすべて従業員の合理化と乗客の運賃の相つぐ引上げでカバーしていること、しかもその経営は政府・与党の介入により、一方で赤字路線の廃止がいわれているさなかに他方で到底採算の見込みのない新線が建設され開通していることなど、もはや現在の政府と独占資本の体制が国鉄経営の資格と能力を喪失していることを余りにも明白にばくろしている。それは今日日本産業が国際市場で強力な競争力を持ち大型景気を謳歌しているなかで、信用による先行投資に依って達成された高度成長の矛盾を集中的に現すものであり、その基礎には現代の発展した技術――生産力と独占資本主義の生産関係の矛盾の発展がある。
国鉄労働者の反合理化闘争はこの破綻した国鉄経営とののっぴきならぬたたかいであり、まさにこのような闘争のなかでその戦術・順法闘争が展開されたことに重要な意義がある。それは職場の労働者一人一人の決意と自発的な職場の闘争組織――闘争委員会による行動であり、本来輸送管理の性格を包蔵し、「民同」思想――自然発生的なストライキの思想による「労務拒否」の「上からの画一スト」とは本質敵に異る。その根底にあるものは労働者の生産の主人公としての意識であり、それはダイヤ編成に対する闘争、軍事輸送反対の闘争を発展させ、さらには安保反対・軍事同盟破棄の政治的ストライキをたたかいぬく基礎となる。
合理化の重要な争点の一つ「二人乗務廃止」問題で国鉄当局がその実施を延期すると引換えに、これを「学識経験者」による「中立的」審議会にゆだねる協定を組合指導部との間に取付けたとき、これをめぐってわが党内には裏切りか否かの論争があったが、そこには一面では現場の強硬な反対に対する譲歩があるとともに、他面反合理化闘争の発展が必然に提起する労働者の経営・管理への介入・規制の要求と闘争に備える用意、これを議会主義的型態にねじまげ協調的企業意識に封じこめる企図がある。
闘争はこうして順法闘争の内包する思想と戦術型態をいかに前進させるかの問題を提起している。
しかし、重要なことは国鉄労働者のこの闘争の基礎には一九四九年の定員法による首切り以来二十年にわたる苦闘があり、そのなかで広島のわが党の組織をふくめて沼津その他いくつかの地域に拠点が築きあげられ、実際の指導的役割を果たしてきたということである。そこには不断の地道な闘争で防衛されてきた一定の自由がある。しかし、それは、「解放区」でも「労働者権力」でもない。まさに日々当局の締付とたたかっている拠点であり、今日の困難な反合理化闘争における抵抗の拠点である。
それを真に「解放の拠点」にするためには、全労働者・全人民を結集して独占資本の集中した国家権力との対決が必要であり、そのために拠点を拡大してゆく不断の努力が必要である。
「抵抗のさきに何があるのか」という問題提起はこの苦闘のなかから生まれた言葉である。もしこれに「一国革命でない世界革命だ!」と応えるなら、いかに空疎に聞こえることだろう。
ともかく、この一年間順法闘争をたたかっている国鉄労働者は一人もわが党に加盟しなかった。いつも「いま一歩」というところに止まっている。彼らがか、われわれ自身がか、いずれにしろ、わが党は現在、日本の階級矛盾の焦点にたち、多くの産業の労働者にその行動で大きな影響を与えている国鉄労働者の闘争の外側にいることだけは否定できない。これは真面目に考えねばならぬ問題である。
9、学園闘争とその根底をなすもの
東大・日大の闘争を中心とする各大学の闘争は、いよいよ中教審の答申に基づく政府の逆攻勢との対決を前にして、重要な段階に入っている。政府は大学当局を叱咤しながら、その頭をこえて容しゃなく警官隊を学内に侵入させ学生を弾圧して、体制の建直しを強行しようとしている。
これに対して、大学制度の根本的改革ないし変革を志向する側には依然として一致した明確な目標がない。「日本帝国主義大学打倒」のスローガンは、学生の激しい憤慨と破壊的な気分を表現しているとはいえ、具体的な政治的内容は不明確である。
沖縄基地が「核ぬき、本土なみ」となっても、ポラリスを主力とする今日の核戦略のもとではこの点は本質的に変わらない。さればこそ、佐藤政権はいまこれをもって返還交渉の出発点に臨もうとしている。彼らはそのために「即時無条件返還」の大衆行動でさえ一定の限度で利用できると考えている。
ところが、佐藤政権のこのような態度に対し安保反対を叫ぶ諸党派はかならずしもはっきりした攻撃を加えていない。四・二八におけるわが党の行動といえども問題の政治的対決点を明確にしていたとはいえない。
あらためて指摘するまでもなく沖縄同胞の「祖国復帰」「軍事基地撤去」の悲願は「復帰」と日米軍事同盟体制――日米帝国主義の階級同盟――打破ることと固く結びつけられてこそ真に達成される。
沖縄同胞の「祖国復帰」「基地撤去」の闘争が、現実に沖縄がベトナム侵略の基地とされ戦争の負担を押し付けられるとともに、核兵器の持込と関連する脅威が増大するなかで急速にたかまったことは確かである。しかし、その根底に戦後引続くアメリカ帝国主義の直接支配を通しての日米帝国主義の合意の重圧があったことを無視することはできない。それはアメリカの直接支配が佐藤の「施政」となっても本質的に変らない。(日本憲法の適用と日本独占資本の経済的進出によって一定の自由の拡大と物質的条件の改善はあるであろう。日本独占資本がそれによって現在の沖縄同胞の闘争を緩和しようと考えていることも否定できない)
沖縄同胞の過去二十余年の苦悩と闘争は、それゆえに単なる民族的反戦的なものではなく階級的、革命的な要因をその根底に内包しているのであり、さればこそ「島ぐるみ」の闘争の中に漸次労働者階級の指導性が明らかな姿を視しゼネストが日程にのぼってきたのである。
二・四ゼネストが所期の発展を示さなかった経緯から、そこになお多くの困難のあることは十分推測できる。だが、まさにそれゆえにこそ、本土の労働者階級の「七〇年安保」と七〇年闘争を、明確な階級的立場にたった社会主義を展望する日米軍事同盟打破の闘争に発展させることが決定的に重要となる。そうしてこそ、沖縄に対する本土の連帯の意義は明確なものとなり、労働者階級のへゲモニーのもと、わが国社会主義革命の過程における民族的課題、反戦的課題の正しい解決を達成する方向と可能性が得られる。(次号へつづく)
活動の総括とその提起する課題(下) 長谷川 浩
「統一」昭和44年(1969年)5月19日 第324号 (改題118号)
学園闘争とその根底をなすもの
東大・日大の闘争を中心とする各大学の闘争は、いよいよ中教審の答申に基づく政府の逆攻勢との対決を前にして、重要な段階に入っている。政府は大学当局を叱咤しながら、その頭をこえて容赦なく警官隊を学内に侵入させ学生を弾圧して、体制の建直しを強行しようとしている。
これに対して、大学制度の根本的改革ないし変革を志向する側には依然として一致した明確な目標がない。「日本帝国主義大学打倒」のスローガンは、学生の激しい憤慨と破壊的な気分を表現しているとはいえ、具体的な政治的内容は不明確である。
過去一年の闘争は、東大・日大を中心に数十の大学をまきこんで発展し、とくに大学当局の学生処分・学園への警官導入に抗議して拡大した。そこでは闘争の性格はなお一般的な大学の自治・学園の自由の擁護にあるかにみえた。しかし、やがて教授会のもつ学生の
処分権が問題になり教授会そのものの不合理性がばくろされるなかで、東大安田講堂の占拠とその機動隊による弾圧(本年一月十八・十九日)を契機に、権力との衝突は急速にエスカレートし全国に波及した。その過程ではじめ「学園の自由」を要求して立上がった一般民主主義的な学生の要素は分解・後退し、ラジカルな要素が今日の広範な学生の間にひろがる「自己を否定し一切を否定する」空気を代表して「全共闘」に結集し、代々木共産党・民青のろこつな「現体制擁護のゲバルト」と衝突しながら前面に突出した。
しかし、本来東大・日大の闘争はきわめて具体的な学生の要求から出発している点に特徴的なものをもっていた。それは従来の学生運動、いや今日にも各派によって指導される学生運動が、内外情勢の分析から当面の政治課題を設定し、学生の正義感に訴えて行動を組織するいわば「頭から出発する」運動と対照的なものを示している。そして日大のように今まで一度も学生運動に参加しなかった学生が立上がったのである。
周知のように、東大の闘争は長年にわたる医学部のインターン制度、無給医局員制度撤廃の闘争から出発した。それは学生・研究者を無給で医療活動に奉仕させ、その研究の成果をわが物として少しも不思議としない教授会制度、講座制度―ギルド的な師弟関係を軸とする制度とのたたかいであった。このような制度はブルジョア民主主義の通念からさえ許容できないものであるばかりか、今日ますます分岐し専門化し、かつ統一的体系を要求する現代科学・技術の研究と教育にとって全くの妨害物に転化しているのである。そしてそれは多かれ少かれ各学部に共通し、内外の大学に共通する。
さらに、いっそう本質的な問題は、そこに今日の科学・技術の発展そのものの要求する研究と教育システム(東大精神科医師連合、東大工学部会議化学科大学院製などの発言が示唆する自由にして創造的な研究・教育の集団的組織的な協力の)体制と独占資本主義の研究・教育体制の根本的対立がり、自然科学・社会科学をふくめての研究と教育を貫くブルジョア・イデオロギーと真に科学的なイデオロギーの対立をも内包する。
他方、日大闘争は資本主義的企業としての私大のろこつな営利主義と腐敗に対する闘争であった。
独占資本の高度成長のもとで進行したいわゆる核家族化は広範な農家や商家の弟子を大学に入れることをその生活保証の一条件とした。独占資本はそこに新しい労働力、資本に忠実な技術者・事務員等の給源を求めたが、その構成・「教育」がここであくどい利潤追求の対策となっている。
日大の闘争はそういう条件のもとでいっそう労働者的であり、非合法の行動委員会から各学部の公然たる闘争委員会を発展させた。ここでは右翼学生の暴力攻撃に対抗する自衛の実力闘争は全く正当であり必然的であった。
こうして、東大・日大の闘争は単なる大学制度粉砕の闘争ではなく、たたかいのなかに新しい科学的研究、教育の体制を創造する法則性を包蔵する。そこに社会主義への意向があり、先進国革命としての日本革命に、科学を科学として発展させるとともに生産活動、労働と結びつけ大衆的知識水準の向上と一体のものとする保証を作り出す具体的課題を提起する。
それは、資本主義的合理化と結びついた技術的進歩、戦争と結合した技術的進歩と戦いながら、これを規制し、ついにはこれを掌握して真の技術的発展を保証する任務をもつ労働者階級の闘争と不可分の連帯関係におかれる。
いま、政府が中教審の答申を楯に、もはや学問研究、教育の邪魔物以外の何ものでもない旧体制の建直しを企図して攻撃をかけようとしているとき、学園闘争の現在の行動と戦術派は、現代科学の研究と教育そのものが要求する発展の法則性にもとづいて攻撃目標を明確にし、各学部のクラス、研究室、医局などのたたかいに依拠する大衆行動の再組織としっかり結びつかなければならない。日大闘争をもりあげた経験はその意味で重要であり、また、水戸厳氏が「統一」紙上に投稿されている素粒子研究計画のための闘争など注目しなければならない。「大学管理」の問題なども、そこから具体的内容をもって発展するだろう。
沖縄県民の闘争と本土の闘争
沖縄全県民を包含する「祖国復帰」「基地撤去」の闘争は昨年四月の沖縄全軍労の布令一一六号撤廃、労働基本権確立と賃上げの十割休暇闘争以来、首席選挙那覇市長選挙の勝利、B/52撤去の闘争と急速にたかまると同時に、全軍労、教職員組合の積極的な役割と権威のたかまりなど漸次労働者的性格を強めるようになった。
それは「七〇年安保」をたたかう本土の労働者、各層の人々に大きな影響を与え、その闘争を鼓舞している沖縄と本土の連帯はこの一ヵ年を通じて著しく強化し、数百人の沖縄代表団を迎えての四・二八沖縄デーの大衆行動となった。
しかし、「沖縄の即時無条件返還」のスローガンの意識とそのたたかいの内容はいっそう明確にしなければならないものがある。
いうまでもなく日本の独占資本と佐藤政権は「沖縄施政権」の返還によって、安保条約による日米軍事同盟体制を堅持、補強し、そのなかで日本の発言権をたかめて東南アジアに対する帝国主義的進出の保障にしようとしている。
沖縄基地が「核ぬき、本土なみ」となっても、ポラリスを主力とする今日の核戦略のもとではこの点は本質的には変わらない。さればこそ、佐藤政権はいまこれをもって返還交渉の出発点に臨もうとしている。彼らはそのために「即時無条件返還」の大衆行動でさえ一定の限度で利用できると考えている。
どころが、佐藤政権のこのような態度に対し、安保反対を叫ぶ諸党派は必ずしもはっきりした攻撃を加えていない。四・二八におけるわが党の行動といえども問題の政治的対決点を明確にしていたとはいえない。
あらためて指摘するまでもなく沖縄同胞の「祖国復帰」「軍事基地撤去」の悲願は「復帰」と日米軍事同盟体制――日米帝国主義の階級同盟――を打破ることと固く結びつけられてこそ真に達成される。
沖縄同胞の「祖国復帰」「基地撤去」の闘争が、現実に沖縄がベトナム侵略の基地とされ戦争の負担を押し付けられるとともに、核兵器の持込みと関連する脅威が増大するなかで急速にたかまったことは確かである。しかし、その根底に戦後引き継ぐアメリカ帝国主義の直接支配を通しての日米帝国主義の合意の重圧があったことを無視することはできない。それはアメリカの直接支配が佐藤の「施政」にもなっても本質的に変わらない(日本憲法の適用と日本独占資本の経済的進出によって一定の自由の拡大と物質的条件の改善はあるであろう。日本独占資本がそれによって現在の沖縄同胞の闘争を緩和しようと考えていることも否定できない)。
沖縄同胞の過去二十余年の苦悩と闘争は、それゆえに単なる民族的反戦的なものではなく階級的、革命的な要因をその根底に内包しているのであり、さらばこそ「島ぐるみ」の闘争の中に漸次労働者階級の指導性が明らかな姿を現しゼネストが日程にのぼってきたのである。
二・四ゼネストが所期の発展を示さなかった経験から、そこになお多くの困難のあることは十分推測できる。だが、まさにそれゆえにこそ、本土の労働者階級の「七〇年安保」と七〇年代の闘争を、明確な階級的立場にたった社会主義を展望する日米軍事同盟打破の闘争に発展させることが決定的に重要となる。そうしてこそ、沖縄に対する本土の連帯と意義は明確なものとなり、労働者階級のへゲモニ−のもとに、わが国社会主義革命の過程における民族的課題、反戦的課題の正しい解決を達成する方向と可能性が得られる。
「自己否定」と「ゲバルト」
過去一年の大衆行動を通じて顕著に現われている思想的変化は、若い者の間に「まず自らを否定することによって一切の現体制を否定する」、ことによって「人間解放」に到達しようと思考である。それは例えばベイ平連の吉川氏がいった「ベイ平連運動を通じて形成された全体の統一的な意識は『被害者、加害者』の自覚である」というような形でも表現されている。
このような意識の基礎が、今日に著しい集中化され組織化された独占資本主義社会の機構に組込まれて人間性を喪失させられようとしている広範な人々、とくに高度に自動化した機械設備に従属してその部品にまで転化されている労働者の疎外感にあることはすでに多くの指摘のあるところである。
その意味で、このような意識は独占資本主義の発展した体制のそのものからはみ出されたその否定であり、革命的意識への一つの成長過程として今日を特徴づけるものである。
しかし、それ自体は自然発生的な意識の成長過程であって重要な変化・発展であっても、なお労働者的階級意識ではない。「自己否定」の指向するものは「人間解放」であり「自我の解放」である労働者の階級的自覚はそれをさらに否定し止揚する。労働者は「人間解放」が現実の階級止揚・労働者階級の解放なしにはありえないことを自覚、階級の一員としてのたたかいのなかに新しい連帯の規律と統一の秩序を創造しつつ権力に迫ってゆく。そこに科学的社会主義のイデオロギー、鍛えられた政治的革命的意識の基礎がある。
しかも、厳密にいうならば「帝国主義的国民意識の一員としての受益者的日常的自己をプロレタリア国際主義によって否定する全体的志向」(政治報告原案一ノ一)というのと「いまや体制の耳であり口でしかないマスコミ労働者の意識を内部から変革するオルグ活動を開始しなければならない」((一・一七集会アンケート)というのでは、言葉のいいまわしの差ではすまない相異が存在する。何故ならわれわれは「受益者的な日常自己」を享受しうる人々の「自己否定」を決して軽視するものではないが、労働者は「帝国主義的国民の一員」であっても決して「受益者」ではないからである。基地労働者は基地で働く以外に生活する道はなく、そのことによって収奪され戦争の負担を背負わされているのであり、国鉄労働者は軍事輸送を拒否すれば首がとぶ状態におかれることによって搾取されているのである。その労働者の自己否定いや自己犠牲の決意はより深刻であり、それは階級の力、組織の力への信頼、確信と直結してのみ行動に発展する。さればこそ「意識を内部から変革するオルグ活動」が不可欠であり、職場における組織的討議と行動、ストライキ運動(初歩的な要求から高度のものにいたる)。積上げが必要であり、そのなかで自己犠牲的活動家の集団と大衆に責任をもつ指導部が形成されねばならないのである。
今日、大衆運動における一つの問題は、そのなかにこの「自己否定」「自我主張」の思想的潮流が強く反映していることである。それは一面では行動の積極性を促しながらも他面では、各派がおのおの「自己」を主張してますます分散する根底となっており、また、一切を否定し「徹底的な破壊!」を主張するラジカリズムの根源となっている。
ここ一年間の大衆行動における「実力」抵抗は本来六〇年安保、三池闘争から日韓条約反対闘争を通じてろこつとなり組織化された支配階級の暴力弾圧に対抗する自衛・対抗の手段としてとられたものであった。
そして今日、政府がこれら過去の大衆行動の経験を考慮して、警察機動隊の武装を機械化し、訓練を重ねて大掛かりな弾圧体制を整え、首都の政治的中枢部の防衛もおこたりないという情況のもとでは、大衆行動の規模の発展にしたがってその自衛の体制――戦術、行動形態、配置、機動性等々に注意深い考慮を払うことはますます必要となっている。
しかし、現在の行動は本質的にいって、労働者を主力とした政治的大衆行動とその自衛の体制ではなく、学生運動から生まれ、その固有の街頭主義的、小市民的性格を脱し切れない。それは今日の学生の抑えがたい社会的不満と若いエネルギーの奔流であるとともに、いまの「自己否定」的ラリカリズムを集中的に表現している。
労働者の階級としての指導性が闘争のなかで明確にされない今日の条件のもとで、ある意味ではさけられないこのような傾向から、それはますます事態が必然的に要求するものに正しく適合しないものとなる。
最大の弱点は、行動に際しての政治目的がきわめて主観的で大衆的に明確にされず、戦術を政治目的に従属させて、行動に広範な支持を結集する配慮に欠けていることである。
政治行動の発展と大衆的な力の結集が現段階における主要な課題として設定されず、徒らに戦術の先鋭化のみが自己目的化し、そのショックで大衆を動かそうとする。それは「自己否定」的潮流に一定の反響を呼ぶとしても、真に政治的組織的な革命勢力の結集にはならない。
しかし、そこにあるエネルギーは労働者階級の革命運動にとって一つの有力な友軍であり、現代における統一戦線の発展に新しい問題を提起するものである。
したがって今日の混乱した戦線のなかでわれわれは基本的政治見解の必ずしも一致しない他党派集団と行動を共にし、共通の敵に対し協同してたたかわねばない場合に当面することも少なくないまさにこのような闘争をたたかいぬくためにも、われわれはわれわれの基本的な階級的立場を明確にし堅持してゆかねばならぬのであり、小市民的ラリカリズムに追随したり模倣したりするわけにゆかないのである。
われわれは支配階級の武装攻撃に断固として反撃する。そしてこのような攻撃に対抗し反撃する闘争を発展させるとともに自衛の体制を強化してゆくことは漸次重要性をますであろう。このたたかいに関するわれわれの基本的態度は、権利を防衛し自由を拡大する労働者の行動を主力とし、生産の主人公としての組織性と創意にもとづく戦術を、デモストレーションとストライキの結合のなかから発展させることになり、支配階級を孤立させ、権力を麻痺させてゆこことにある。
その基礎は、今日拡大しつつある職場の反戦委員会活動と党活動が大衆に依拠し大衆を信頼して不断の日常活動を遂行することによって、闘争に当たって合法・非合法の諸条件を運用して機動的に行動しうる条件、能力を獲得することにある。
その具体的な闘争経験を通じて、現在の街頭主義、ラリカリズムのうちにある「自己否定」と「焦燥」の思想、「戦術左翼」の「革命的敗北主義」の本質的弱さを克服することは党の重要な任務である。
そのことは、ここでは詳細に触れる余裕はないが、自ら前衛を僭称する代々木共産党の民族主義、議会主義、日和見主義を徹底的にばくろし、克服して、マルクス・レーニン主義に対するすべての歪曲を打破して、その革命的純粋性を防衛し擁護することと切り離せない関連を持つものである。
総括の提起する課題
総括の教えるもの
第一に、佐世保・王子そして沖縄の闘争は、たしかにアメリカのベトナム侵略と佐藤政権の侵略加担のもとで、基地としてフルに使われてきたわが国人民の反戦の要求を直接の契機とする闘争であった。だが、その根底には安保条約の締結以来二十年(新旧を通じて)にわたる日米帝国主義の軍事同盟に対する憤慨と抵抗のたたかいがあり、単なる反戦闘争でも民族的な闘争でもなく、帝国主義的軍事同盟に依拠する独占資本の支配体制を打破り、社会主義を目視して前進する革命的本質を包蔵するものであった。それゆえにこれらの闘争では労働者の行動が重要な意義をもち、まさに、そのヘゲモニーの強化が切に望まれたのである。そしてこそそこに含まれる民族的課題・反戦の課題も達成されるからである。
具体的には、これの闘争を通じて「七〇年安保」闘争と七〇年代の闘争における帝国主義の同盟体制との対決が前面に押し出され革命への展望が明確にされることによって、労働者階級を主力とした戦線結集への一歩前進が約束されねばならないのであり、すでにその端緒と可能性が示されているのである。
しかし、新宿の闘争は、すでに指摘したようにこれと性格を異にする。そのころは、一般的に言われる「羽田・佐世保・王子・新宿の連続的な闘争の昂揚」という通俗的概念が決して正確なものではなくそのような行動の延長上に真に強力な軍事同盟粉砕の闘争もなければ革命もないということを意味する。
われわれは佐世保・王子闘争のうちに、学生の行動をもふくめて新しいたたかいの昂揚をはっきり確認するとともに、そこにある闘争の本質的性格を前面に発展させなけねばならないのである。
第二に、日本の労働者階級は、社共両党指導部の議会主義と日和見主義、組合指導部のトレンドユニオニズムの厚い壁にさえぎられて、困難な立場にあるとはいえ、その革命的階級としての本質をうしなっていないということである。
日本の独占資本主義が高度成長を遂げ、国際市場でも強力な競争力をもち「大型景気」を謳歌しているさなかに、国鉄労働者・炭鉱労働者はその矛盾の焦点にたち、「資本の生産手段の私有」に基づく経営権・管理権に闘いを挑み、生産の主人公としての創意ある闘争を発展させ、拠点を拡大しつつある。そしてそれは多くの労働者に影響と教訓を与えている。
もちろん、この闘争手段をそのまま自己目的化し、そこから直ちに「工場占拠」「労働者権力」を夢想して、独占資本の集中した国家権力との闘争を忘れ、あるいは単なる反戦の政治行動に止めるなら、それは幼稚なアナルコサンディカリズムに転落するであろう。
まさにそれゆえに、反合理化闘争自体の推進とともに、これを基礎に「七〇年安保」七〇年代の政治闘争を、日米帝国主義の同盟を粉砕することによって独占資本の支配権力に迫る労働者階級を主力とする革命的なたたかいとして提起しなければならないのであり、また、その素地が現実に培われてきているのである。
第三に、東大・日大の闘争は、独占資本主義体制と今日の発展した科学(自然科学・社会科学を含めて)そのものの矛盾を、その研究・教育の制度の解決しがたき矛盾として余すところなくばくろした。同時にそれは新しい研究・教育の在り方を追求することによって、資本主義体制変革への志向を漸次明瞭にするとともに、先進国革命に一つの課題を提起し、一つの展望を与えている。
それは、今日の発展した技術――総じて生産力――と独占資本主義の生産関係との矛盾と切離せない関係にある。こうして技術的進歩の導入による産業合理化とのたたかいを通じて、資本の生産手段私有の廃絶をますます明確な目標に掲げざるをえなくなっている労働者の闘争は、新たな意味で「研究の自由」「学園の自治」を要求してたたかっている学徒に有力な同盟軍を見出す。
一般的に、発達した科学・技術と今日の独占資本主義体制の矛盾はいまや広範な分野の人民生活をまきこまずにはいない。大学制度の問題は医療制度その他の社会制度の問題に深くつながるし、三里塚闘争・鹿島闘争が示すように農民運動といえどもはやこの問題と無縁ではりえない。
これらの問題から生起する闘争は、佐藤政権の「安保体制」を堅持し沖縄施政権を手に入れて、西太平洋の反動の支柱となり帝国主義的進出をはかる野望と直接対決して軍事同盟を粉砕する「七〇年安保」と七〇年代の闘争を、わが国独占資本の支配を打倒し、社会主義を志向するたたかいとして発展させる基礎であり、広範な統一戦線の基盤である。
第四に、このような闘争をわれわれは「戦後民主主義」の現実的諸条件のもとでたたかいぬかねばならない。
すなわち、支配階級がなお多数の与党を擁し、議会を通じて広範な層の同意をとりつける形と行政権で強制することを使い分けながらその政策を貫徹してくるのと対決しなければならない。それはかりにブルジョア民主主義の自由のもとで、マスコミも手伝って、あらゆる思想――右は議会主義から左はサンディカリズムまでもろもろのブルジョア的・プチブル的思想が流布され、かつそれに従って種種の党派・集団が自己を主張し政治舞台に登場する。労働者の真に階級的革命的思想が不断に歪曲される危険にさらされているなかで、たたかいを進めなければならないのであり、かつ、広範な聡がこの自由を擁護しいっそう発展させようと望んでいる、その要求に依拠してたたかわねばならないのである。
それは具体的な政治課題に対する行動の統一と、その中で労働者階級の独自の革命的立場の貫徹をなしとげる高度の政治能力を要求する。そしてそこにこそ党建設の基本課題がある。それは諸党派の単なる調和をはかることでもなければ、迎合追随することでもない。またセクトテキ孤立を誇ることでもない。
われわれがこのことをいかにきびしく要求されているかは過去一年余の闘争と党生活の経験が之を物語る。してこのことを成しとげることなしに、七〇年と七〇年代の闘争における労働者階級のヘゲモニーは確立されないし、権力を打倒し新しい政権を樹立することは出来ない。
すべてこれらの問題は、わが国の階級闘争自体の提起している課題であり、外部から持込まれたものでも持込まれるものでもない。そしてそれはすぐれて先進国革命の課題であり、いわゆる「第三世界」の革命の課題ではない。
また、過去の革命の諸経験をこえる課題でもある。
「七〇年安保」と七〇年代闘争の展望
以上の総括とその提起する課題を前提にして、われわれは「七〇年安保」と七〇年代闘争を通じて、以下の方向でたたかうべきと考えている。
1 闘争の中心課題は、独占資本とその政府―佐藤政権の「安保」を堅持し沖縄施政権を手に入れて、社会主義と民族解放運動に敵対し、国内の階級闘争を抑圧して帝国主義的発展を策するすべての反動的侵略企図とたたかい、条約を破棄するとともに、日米帝国主義の軍事的・政治的・経済的同盟を全体として粉砕することである。
特に、軍事同盟にもとずく、ベトナム、朝鮮、中国などアジア諸国に対する侵略的行動を阻止し安保条約締結以来おしつけられてきた軍事基地の撤去、原子力艦船の寄港の拒否、軍事生産、輸送の拒否、さらに自衛隊の増強・装備の強化に反対して、大衆行動を発展させる。
2 当面最大の政治焦点である沖縄問題については、沖縄同胞の「祖国復帰」「軍事基地撤去」の闘争が、日米軍事同盟粉砕の決定的な一環となっていることを明確にし、このたたかいの完全な勝利を保証するために、本土における安保破棄の闘争に全力を注ぐ。いまや本土・沖縄を通じての労働者階級の指導性の確立が急務であり、沖縄ゼネストに連帯する本土労働者のゼネストこそ決定的である。
3 しかし、日米帝国主義の同盟体制の完璧な粉砕のためには佐藤政権の打倒だけでなく、それに替る新しい政権―いかなる形でもアメリカ帝国主義との同盟を拒否する政権を樹立することが必要である。「七〇年安保」と七〇年代闘争はこの反軍事同盟政権樹立のたたかいに集約される。
議会もそのために運用されねばならないが、このような政権は議会主義的手段のみによっては成立させることはできない。決定的な力は労働者階級を主力とするすべての反軍事同盟勢力・反独占勢力の結集による圧倒的な大衆行動ある。あらゆる階層をそれぞれの政治意識と要求にしたがい、それぞれの行動形態で立ち上がらせ、労働者の政治的ストライキを中軸に広範にして多面的な戦列を形成することであり、これによって支配階級を孤立させ権力を麻痺させるとともに、新しい階級的性格を異にする政権を支える体制を作りあげねばならない。
佐藤政権を打倒しただけでは問題は解決しない。これに替る政権の階級的性格を決定する力、統一戦線を築き上げてこそ勝利は保証される。
4 ドル危機・国際通貨信用体制の動揺、アメリカのベトナム侵略の破綻とその権威の失墜、最近の客観的諸条件の発展は日米の軍事同盟体制に一転機をもたらすとともに、その矛盾を発展させている。そしてそれは日本独占資本主義の体制内部の矛盾と不可分に関連し、そこから生起する変革の要求と行動によってのっぴきならぬものに追詰められる。国鉄の労働者の闘争が示すように、いま日本の労働運動は漸く、発達した技術の導入による合理化を通じて独占資本の生産手段の私有とそれにもとづく産業支配の全体系とたたかわざるをえなくなっており、学園の闘争は、科学研究・教育の自由な発展のために独占資本主義体制そのものと対決している。このような本質的な諸矛盾は今後いっそう拡大するであろう。
してそれは日米軍事同盟に依拠する独占資本の政権を打倒し新しい政権を樹立する力の根源であるとともに、一度このような政権が樹立されるなら、これを拠に情勢を急速に社会主義に向かっておしすすめる原動力である。
5 今日の情勢から、このような大衆行動を推進し、独占資本にその政権の明け渡しを迫るにいたるまでには、なお多大の困難のあることは否定できない。しかし、「七〇安保」の闘争そのものがこれを提起しているのであり佐世保闘争はたとえ指導政党がいかに無策力になり堕落しても、わが国の大衆の間には革命的エネルギーが生き生きと蓄積され醗酵しつつあることを証明した。
問題は、ここに啓示されたというべき、七〇年と七〇年代の闘争の展望を目的意識的に追求・組織してゆくことにある。
6 そのためには党建設が決定的な課題となる。
党の建設はまずその思想建設である、今日潮流化していわゆる「自己否定」の思想を小ブルジョア的なものから労働者的な「自己犠牲」−階級と革命の利益のための自己犠牲にたかめることは重要な課題であろう。
それは大衆の要求行動と行動のうちに革命への発展法則を見出し、その確信にもとづいて大胆に行動する革命的科学的精神の基礎である。
党の性格をこの自己犠牲と科学的精神にもとづくものとしてこそわれわれはいま多くの困難の中で闘っている労働者、国鉄や鉄鋼の労働者に受け入れられるであろう。
それはまた、近代労務管理と発展した技術大系の中で、規則正しく働かされ、したがって闘いのなかに必然的にきびしい規律を要求される労働者の行動の原理を学び取ることと切離せない。そのことなしに、例えば逮捕された時の対敵態度もされない。
そのために、何よりも上級機関が党生活を厳正にし、全党員の意志を統一するより民主的規律を厳格に実行しなければならない。
この前提なしには、具体的な闘争に際して右するか左するか党員が迷うような事態は克服できないし、職場の労働者を獲得することもできない。
そこに当面の党建設の最も重要な問題の一つがある。
最後に
われわれは以上の大綱をいっそう具体化して七〇年と七〇年代の闘争に臨むべきだと考える。
しかし、大会に対する政治報告は、一国革命主義を否定して「世界革命への日本の道」を強調しながら、当面する七〇年と七〇年代の闘争については、その革命的観点は不明確である。それは「第一に沖縄・安保闘争の中核をなす闘いは沖縄プロレタリアートと職場反戦部隊を主体とする労働者的反戦闘争である」(ゴヂック筆者)「それは・・・・・沖縄労働者の基地撤去ストの運動系列に体現される」
「第二にこの拠点における軍事生産=軍事輸送拒否ストに結びつき、これをささえる地域的政治闘争ならびに侵略拠点での現地闘争を輸送拒否ストに結びつき、これをささえる地域的政治的ならびに侵略拠点でのいっそう強力かつ持続的に発展させる」
そして「第三にこの拠点ストと地域的政治闘争を支点にしながら、佐藤内閣打倒を展望する全国的反政府闘争的権力闘争を発展」させることにある。
これは全く反戦闘争であり、その観点からの内閣打倒運動は出ない。たしかに軍事輸送反対スト、基地反対の現地闘争それ自体は重要であるが、それをいかなる方向でやるか、反戦の観点か革命の観点か、そこに党の問題がある。もし革命の観点が欠如すれば党は反戦闘争集団に必然的に解消する。したがって
「七〇年に向かって大衆的先進的な攻撃立っているすべての自立的運動体を無条件に行動に結集する連絡・調整のために全国的・中央的連合機関の創設」がその組織方針の基本となり、「反戦青年委員会、全共闘、ベイ平連など自立的運動をいたるところ・・・・に拠点を形成し、その大連合が実現することが決定的である」ことになる。それにしてもこの大連合は、歴史的な「七〇年安保」の闘争に対してはあまりにもスケールが小さい。
労働者の党、共産主義の党は仮にその力がなお小さくとも、全労働者階級に責任を持って、闘争のたたかわるべき方向を明示しなければならない。単なる反戦闘争でなく、その革命との関連と展望を与えなければならない。
しかも、いま「七〇年安保」のたたかいがそれ自体のうちに日本革命への重大な問題を提起している。その時点でここには革命の観点が全く欠如している。
もし、「社会主義の日本の道」でなく「世界革命への日本の道」を以ってその理由とするなら、われわれは今日一先進国の社会主義革命が世界革命の発展に決定的な意義をもつことを以って答えとする。
それは、発達した現代科学・技術、それに基く生産力と生産関係の矛盾を解決する。
それはベトナム人民の勝利を保障するだけでなく、一九六〇年代にアジア、アフリカ、ラテンアメリカを席捲した民族革命がインドネシア・ガーナなど重要な地域で民族ブルジョアジーの指導下に陥ち右傾化した、それを再び社会主義に向って発展させる保障となるであろう。
それはまた、ブルジョア民主主義的自由を大衆的な政治経験としてもった人民の社会主義建設への結集として、チェコ問題の解決など今日の社会主義における思想問題、政治問題の解決と発展の重要な基礎となろう。
われわれはまさに、七〇年と七〇年代のたたかいを、この先進国革命の未踏の地を開拓する決意をもってたたかうものである。(おわり)
前号の「長谷川意見」は「学園闘争とその根底をなすもの」の一部と「沖縄県民の闘争と本土の闘争」の一部を組みちがって掲載いたしましたので、改めて「学園闘争・・・・」からを掲載いたします。編集部「統一」
反独占民主主義のための闘いをつうじて社会主義革命へ 一柳茂次
「統一」昭和44年(1969)年5月19日 第324号 (改題118号)
(共産主義労働者党第三回大会成功に向けて)
1
ぼくは紙に書かれた方針書のなかに、自分としては賛成できない部分がかなりあってもあまり気にしないほうだ。方針書が遂一実践されるわけでもない。現実ははるかに豊かで複雑あり、一筋なわに行かない。どうせしばらくたてば、方針そのものが書き換えられることになる。もちろん、ぼくらの組織がまともに実践に取り組んでいることを前提としての話だ。
ぼくは何故今日共産主義者になったか、そこには人さまざまのアクセントがある。そして多かれ少なかれぼくらには、この「一点」というとこがあるようだ。こんどの大会議案に対して、元来方針書なるものに、いまいったような「ずぼら」な考えをもっているぼくが、常任委員会、中央員会をつうじて、終始反対の立場をとってきた理由は、ぼくにとっての「一点」が、この原案では質的な意味で否定されており、この否定をぼくらは承認できなかったからだ。
原案でその「批判と克服の方向」を提起された「構造改革路線」なるものが、日本の革命運動・労働運動のなかで、どれだけ実践の検証にかけられたか、ぼくは、自らの経験に照らして、イタリア共産党の構造改良の方針にたいし、深い関心と共感を持ったことはまぎれもない事実である。「自らの経験に照らして」という意味はこうである。
農地改革と地主制の解体、国家独占資本主義のもとでの独占と農民の経済関係に対する現状分析に基づいて、日本の社会主義革命は、直接生産者である農民全体が労働者階級の同盟となりうるかという立場を、ぼくらはとった。ブル民革命では、全農民と、プロレタリア革命には貧農と(中農は中立、富農は敵)という古典的な労農同盟論にたいする修正であることはいうまでもない。農民が土地の私有と個人経営を何者と引き換えまいとしており、農業の社会主義的集団化に関心を示さないとしても、独占資本の支配と搾取に反対して、労働者階級との政治同盟にくわわる可能性にかわるはない。反独占農民闘争が、理論的には資本主義のもとで実現できる民主主義的要求に終始し、社会主義的な要求の萌芽さえ名とも、資本主義を倒して社会主義をめざす労農同盟は可能であるという立場は、農民の民主主義的要求の発展は、徹底化をめざし、徹底民主主義の実現の場として、社会主義権力の実現を自らの課題とするにいたる言う展望にたつものだ。つまりここでぼくらは、階級的政治同盟と思想的獲得とを、隔絶したものではないとはいえ、やはりことなった別の事柄として理解する。日常的要求―深い改良要求・構造改良要求のコースは、同時に独占の側にとっても現状のままほっておけず、何らかの対応をせまらている。そのような事態をめぐって闘われていくコースである。反独占闘争の主体的条件としては、高い良質の大衆的実体が気づかれてゆく過程での発展のコースである。「過剰米」・食料管理問題、地域開発、公害農産物価格保証など、どれひとつとっても、独占の犠牲において、人民の犠牲において、人民の利益を拡大するための戦線転回がかんたんな代物でないことはわかりきっている。に本の「構造改革」は、どんな実践的検証をへて、この原案の評価におちつくのか、ぼくは知らない。
農民運動は、農民一人一人の自覚にもとづく団結に基礎をおくひおかはない。構造改良、反独占民主主義、反独占民主改革、構造改革、深い改良など、どう表現を変えてみても、巨大な反独占勢力の結集はいかにして可能かの設問に、運動が実践的にこたえないで行くなかでしか問題は発展しない。構造改革計画を、階級闘争の人民要求として、現状にくらべよりよい計画一般から峻別するものは、それが恣意的につくられるのではなく闘争をつうじて結集した反独占勢力の量質に、規定されということであろう。構造改良をつうじてではなしに、構造改良のための闘争をつうじて(この闘争のなかで達成され、新しい闘争の出発点となる成果に依拠しながら)社会主義に到達するという見解は、すでに破産したという原案の立場にたいし、ぼくは、農民一人ひとりの自覚にもとづく団結とその民主主義的要求の実現のために、日程にのぼる深い改良闘争のために、社会主義権力をめざすたたかいのために、今日こんな条件のなかでたたかっている年来の友人たち(党にいる、いないにかかわらず)の立場に、たたざるをえない。
たしかに、構造改良が過程としてとらえられないで、最終目標となり、改良主義そのものになりさがる危険はすくなくない。戦前から農地改革までの反地主闘争のなかで、たたかう農民は、社会制度的な目標をはっきりもっていた。「地主のいない農村」(地主制度の否定)である。それは労働者階級の資本主義否定にくらべ、はるかに感性的な一般的な自覚となっていた。反地主闘争のもつ「豊かな自然成長性」というぼくらの規定は正しかったと考える。これと対象的に反独占農民運動は、どんな社会制度を目標に展開できるかという点に、大きい困難をかかえている。たたかう農民にとって、社会主義とは何かという問題である。民主主義の徹底化のための権力掌握だとぼくらは考えてきた。これを具体的に検討しようとするならば、ぼくらは、社会主義を承認する仕方が、多様になっているところに今日の特徴をみとめ、農民と社会主義革命の関連の場合も、この視点をいれてゆくべきだと考える。社会主義は、現在、たんに生産関係の一般規定にとどまらず、一個の社会経済的構成態として、多様な具体的内容をもつ世界体制として存在している。それにともなって、資本主義人民の社会主義にたいする承認は、上部構造の部分的なもの、経済構造の部分的なもの、一般的生産関係など、さまざまな観点から、それぞれの生活経験に即しておこなわれている。もちろん承認のなかには肯定的と否定的を、ともに含めるべきであろう。反独占農民運動は独自の論理をつうじて、労働者階級の階級的政治同盟をつくりだす主体的条件のひとつになる。ぼくらは、この可能性を現実化するために、所属する戦線に責任をおわねばならない。
労働者階級と反独占階層との階級的政治同盟の問題は、革命のための多数は形成の問題の一つだがこの同盟にしめる農民の位置づけについて、ぼくらは、教条からではなく、現状の具体的分析の上に立ち、また階級闘争に農民はいかにして参加するかという、国民運動の課題に理論的・実践的に答えながら、正確に規定をみちびきながら任務を果たすべきである。
このような追求は、他の反独占諸階層について、また労働者階級の内部構成についても、とうぜんおこなわれるべきであろう。
2
ぼくらは、農民運動のひとつの特徴として、運動の自然成長性を一概に悪としてかたづけ、意識的計画性を対置する立場をとってこなかった。もちろん前衛党や革命の「自然成長」を主張したわけではない。それは階級的矛盾の深化にたいする被搾取大衆の抵抗円得るギーの無条件的な承認を意味した。こうした自然成長的な大衆闘争のなかから、多くの教訓をぼくらはひきだしたつもりだ。原案の「階級形成論」は、ぼくのこういう素地からみると、どうもひっかかる。「労働者階級はまだその革命的、政治的役割について十分な自覚をもっていない。そのために事実上、労働者階級はまだ革命的前衛ではない」。これは労働運動が社会民主党の影響にはまりこんでいるヨーロッパのいくつかの国についての評論であるが、「したがって、これらの国ぐにの労働者は階級として解体している」とはいっていない。ぼくらの原案は、善意にとれば、ここに引用したスペイン共産党員の評価のような状態を日本にみとめ、この左翼化・革命化に全力をつくそうと訴えているととることもできる。そういうことなら、日本の労働者階級が他階級を指導する力量をそなえる点で大いに欠けていると考える農民戦線のぼくらは、経験からいって、そのとおりだといっていい。夜良自大のハッタリを言うなら、労働者党がのびないのもそのせいだということになる。しかし原案はどうもちがうようだ。
「大産業がたがいに一面識もない多数の人間を一カ所によせあつめる。競争が、彼らの利害関係をまちまちにする。しかし賃金の維持が、主人公たちに対抗して彼らがもつこの共通利害関係が、反抗という同一の考えで彼らを結ばせる。――これが団結である。賀から団結は、つねに二重の目的、すなわちなかま同志の競争を中止させ、もって資本家にたいする全般的闘争をなしうるようにするという目的をもつ。
たとえ最初の抗争目的が賃金の維持にすぎなかったとしてもつぎに資本家のほうが抑圧という同一の考えで結合するにつれて、最初はこりつしていた諸団結が集団を桔成する。そしてつねに結合している資本に直面して組合の維持のほうが彼らにとっては賃金の維持よりも重要になる。・・・・・経済的条件がまず第一に国民大衆を労働者に転化させたのであった。資本の支配が、この大衆にたいして、共通の一地位、共通の諸利害関係をつくりだした。かくして、この大衆は資本にたいしてはすでに一個の階級である。しかしまだ大衆自身のための階級ではない。・・・・われわれがその若干の局面だけを指摘したところの闘争において、この大衆は結合する。大衆自身のための階級に自己を構成する。大衆の防衛する利害が階級の利害となる」(マルクス「哲学の貧困」)。
「階級それ自体」と「大衆自身のための(対自的)階級」の区別をどこでおさえるか、ぼくは、マルクスをとる。自然成長的な運動にたいする積極的評価をうみ、天皇制弾圧下に「解体」させられた農民運動にたいし、持続する農民の抵抗エネルギーをみとめ、ひとりの共産主義者も参加していない大衆闘争のなかに死命をかけた献身をみとめる。総じて階級闘争の前進的側面を、その萌芽においてとらえる敏感さは、労働者階級の階級的水準にたいする、過重評価によっても、過少評価によっても、ひとしく失われる。思想的獲得と政治的同盟を区別する見解も、国民の圧倒的多数を反独占の戦線に結集し、民主主義・社会主義革命に立ちむかう布陣のなかに、確認されるべき傾向を指摘したものだ。人間の窮乏の概念は、社会の発展につれて、また国によってことなる歴史的概念である。しかし、社会主義革命が、貧しさからの解放という本質的な目標をなくすることはない。そして、原案に欠けているのは、表現はどうであれ、まさに貧しさからの解放をめざすたたかいの基盤にたいする配慮である。
農民同盟の問題から、討論に入ったのは、意見に責任をもとうという考えからだが、農民部長の責任をもとうという考えからだが、農民部長の責任を、結党以来、開店休業のまま店ざらしにしてきた責任はまぬがれない。病弱にはなったが、これからもささやかでも努力したい。
松江澄意見書
古い「新しい公式」と新しい「古い公式」 松江 澄 「統一」(昭和44年)1969年5月12日 第323号(改題117号)
目次
1.はじめに
2.わが党はどこへゆくのか
3.「世界危機―世界革命」とは何か
4.労働者は眠り込んでいるのか
5.「戦後民主主義」はブルジョアジーの体制か
6.おわりに