1997年(平成9年)8月15日撮影 |
高角砲陣地が存在した千畳敷山(湘南平) |
神奈川県中郡大磯町と平塚市にまたがる尾根の高所に存在した千畳敷山(湘南平)防空砲台は、横須賀海軍警備隊の手によって、1942年(昭和17年)に完備された。当初8cm単装高角砲4門のみを装備していたが、1944年(昭和19年)12月1日に12.7cm2連装2基高角砲4門、25mm2連装機銃1基2門、25mm単装機銃1基1門に強化された。
平塚市近辺には、多数の防空砲台が構築されたが、周辺地域で最も早く構築された千畳敷山(湘南平)防空砲台を中心に焦点をあてて色々と検証してみたい。
下記の2枚の航空写真は、千畳敷山(湘南平)防空砲台が同縮尺になるように編集してみたが、2枚の写真はお互いに真上から撮影されていないのだろう。写真の上下、左右共に多少のゆがみが生じているのが判る。各自でご覧になって、それぞれ比較・検討して欲しい。
○1946年(昭和21年)撮影 航空写真 |
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「米軍撮影の空中写真(昭和21年撮影)」 |
山頂に大きな円形砲座のような物が3〜4ヶ所と小さな円形砲座のような物が見受けられる。また、直線に伸びた通路(恐らく交通壕)も見える。 恐らく大きな円形砲座のような所に、12.7cm2連装高角砲が据えられていた事だろう。小さな円形砲座のような所には、25mm機銃が据えられていたのか、はたまた探照灯なのか収音機なのか電探か・・・。詳細は遺構がほとんど現存していない為、不詳。 千畳敷山(湘南平)に構築された独立重砲兵第36大隊構築の28cm榴弾砲陣地もはっきりと写っている。 |
○1977年(昭和52年)撮影 航空写真 |
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「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」 |
かつての防空砲台の面影は全くない。綺麗に公園として整備されているのが判り、周辺地域のランドマークと親しまれるテレビ塔が見受けられる。 また、かつて構築されていた独立重砲兵第36大隊の28cm榴弾砲陣地もすっかり消滅している。 |
○1946年(昭和21年) |
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「米軍撮影の空中写真(昭和21年撮影)」 |
○印の所に不明瞭であるが、何やら存在するように見える。 |
○1977年(昭和52年) |
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「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」 |
○印の所は、現在は小さな展望台が設置されている。 現地へ行ってみると、下記写真参照の遺構が見受けられる。 |
○8cm高角砲座跡全景 |
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直径は、約5m。以前より高角砲台 跡として流布している遺構。そう判 断して差し支えないと思われるが、 構造がイマイチ判然としない。 恐らく、武装強化前の8cm高角砲 台座跡と思われる。 |
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1997年(平成9年)8月31日撮影 |
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○8cm高角砲座跡を真上より見てみる |
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右半分が埋まりかけている。綺麗 な円形を呈する。 戦時中は、周囲に土嚢が積まれ ていた事だろう。 |
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1998年(平成10年)3月4日撮影 |
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○散桜と8cm高角砲座跡 |
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散った桜のじゅうたんと砲座跡の 対比が、何と言えない組み合わせ。 忘れ去られる遺構が一年のうちで 最も美しく見受けられる。 |
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1998年(平成10年)4月11日撮影 |
歴史的価値の存在すると思われる海軍境界杭が転がっている。 海軍境界杭の存在は、千畳敷山(湘南平)防空砲台が海軍管轄 下にあった事を物語る。 粗末に扱われている遺構を目の当たりにすると、少々もったいな い気がする。(既に平塚市博物館に保管中なのでご安心を。) |
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撮影:栗山雄揮氏 平塚市教育委員会 社会教育課 |
「火薬廠のある街で」戦時下の県立平塚高女を記録する会編や、平塚市博物館にて防空銃座跡と称されている遺構である。 左右の鎖に防空機銃を固定して射撃をしたとの見解が示されている。しかし、遺構を良く観察すると、不規則に遊歩道沿いに配 置されており、千畳敷山(湘南平)の東に続く浅間山や高麗山北西側麓にまで設置され、その数は30〜50基に及ぶだろうか。ま た、防空機銃の配備標準からも外れている。 序章で既に述べたが、千畳敷山(湘南平)防空砲台の防空機銃は、25mm連装機銃1基、25mm単装機銃1基で合計3門である。 ちなみに、当時の防空砲台の一般的な戦力は、高角砲4門、防空機銃4〜6門で一群と定められていた。つまり千畳敷山(湘南平) 防空砲台は、当時の一般的な戦力をも下回っていたのである。決して30〜50基の機銃が配備された事はあるまい。 従って、銃座跡とは考えられない。また、私は戦時中か戦後の遺構であると判断する能力を持ち合わせていないし、用途も不明 な為、正体不明の遺構と称する事としたい。 しかし、先に防空機銃座跡と称した団体等を否定的に捕らえるのは、お辞め頂きたい。なぜらなら、研究・調査と言うのは常に書 き換えられる宿命にあるからだ。私は、10年近く前に刊行された「火薬廠のある街で」を拝見し驚嘆した事が記憶に新しい。むしろ、 当時「火薬廠のある街で」のような本が刊行されて、良かったと思うし、非常に有難い事であった。私は、まだまだ学ぶべき立場に ある。 |
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1997年(平成9年)8月31日撮影 |
1998年(平成10年)4月11日撮影 |
正体不明の遺構を実測してみた。直径は広い所で82cm、狭 い所で80cmで、厚さは15cm程であった。基礎部分には、荒い 石が敷かれていた。所々、壊れていて、鉄筋は入っていないよ うに見受けられた。また、実測した正体不明の遺構は、何故か2 つある鎖が切断されている。 正体不明の遺構を写真撮影したり、実測をしていると、山頂で 掃除をしている一人の老人に声を掛けられた。「銃座の寸法を測 っているの?左右の鎖、3〜4ヶ所に機銃を固定して、撃ったとか 言う話しだよ。」 当時の兵隊さんから聞いたのか尋ねると、「平 塚市の観光課で説明しているよ。」との返事が聞かれた。私は、 余程、「でたらめを言うな。」と反論しようと思ったが、「参考になり ました。有難うございました。」と謙虚に受け止め、その場を立ち去 るのだった。すると「ご苦労様。」と労をねぎらう言葉を頂いた。ち なみに、この老人は地元民ではないとの話し。 しかし、この正体不明の遺構は、10年近く「銃座跡」として沢山の 人々にそう思われていた。結局は、「銃座跡」とは断定出来ない訳 だが、それにしても遺構冥利に尽きる!? |
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切断されている鎖。 2006年(平成18年)4月24日撮影 コンクリートが破壊されているが、最近になって壊れたように見える。 |
千畳敷山(湘南平)山頂には、色々なコンクリートの破片や、基礎があちこちに見受けられる。戦時中の遺構であると思われるものの、用途が全く判らない為、解説は省略したい。
1942年4月の米軍による本土初空襲に際して、山より低く来襲した敵機に対し、千畳敷山(湘南平)防空砲台は、8cm高角砲を俯角で発射した。しかし、砲弾は命中せずに、平塚市旭地区(当時:中郡旭村)の民家の庭を直撃した。その為に、新婦さんが怪我をしたと言う証言が聞かれている。防空砲台から応射があると、非常に大きな発射音が、附近に響いたとの事。近隣住民は、その大きな音をはっきりと記憶している。
1945年(昭和20年)に入ると、平塚市近辺は執拗な米軍機の空襲に見舞われた。そんな中、千畳敷山(湘南平)防空砲台は、3度の大きな対空射撃を行なう事となる。
1度目は、1945年(昭和20年)2月16日で、来襲した小型の米軍機に対し、12.7cm高角砲159発の発射を以って応戦。1機を二宮海岸沖8kmに撃墜し、1機を撃破した。翌2月17日にも米軍機は来襲したが、何故か応戦せずに機銃掃射で砲員4名が負傷し、砲弾2発が焼失した。
2度目の対空射撃は、1945年(昭和20年)7月8日で、12.7cm高角砲33発、25mm機銃160発を以って応戦。2機撃墜、2機撃破の戦果を挙げた。米軍機の墜落場所は、大磯海岸であった。
そして最後の対空射撃は、1945年(昭和20年)7月30日だった。来襲した小型米軍機に対し、12.7cm高角砲31発と25mm機銃648発を以って応戦。1機を撃破した。翌7月31日にも米軍機は来襲したが、千畳敷山(湘南平)防空砲台は沈黙していた。
上記が千畳敷山(湘南平)防空砲台の戦闘経過であるが、1945年(昭和20年)2月16日と2月17日の他、7月30日と7月31日の連日の空襲に対して、初日目の空襲は盛んに応戦しているが、2日目の空襲に対しては、沈黙している。それは何を意味するのだろうか。考えられる原因は2つ程あるが、1つ目は砲弾供給が間に合わなかった。2つ目は、砲弾が少ない為、射弾制限があった。真実を知る由はないが、恐らく前者の理由によるものだろう。
また、1945年(昭和20年)7月16日夜間の平塚大空襲に際しても、千畳敷山(湘南平)防空砲台は、全く沈黙している。その理由は、空襲により早い時期に停電し、自力発電機を持ち合わせていなかった為、惜しくも射撃不能に陥ってしまったもの。
テレビ塔のそびえ立つ千畳敷山(湘南平)は、どのような角度から眺めても一目で判る。角度によって色々な表情を見せる美しい山である。ちなみに千畳敷山(湘南平)の標高は、179m。テレビ塔の頂は、201mで、多くの人々から親しまれている観光名所である。
1997年(平成9年)6月6日撮影 |
2006年(平成18年)4月24日撮影 |
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近辺のテレビ中継を担う千畳敷山(湘南平)のテレビ塔。定点撮影を 行なってみたが、9年後の姿はアンテナの数が増えている事が見受け られる。 |
1997年(平成9年)7月6日撮影 |
1997年(平成9年)8月15日撮影 |
1998年(平成10年)6月22日撮影 |
○花水川河口附近より望む |
○大磯海岸より望む |
○平塚市日向岡より望む |
2003年(平成15年)10月5日撮影 |
2006年(平成18年)4月24日撮影 |
2006年(平成18年)4月24日撮影 |
○平塚市松岩寺附近より望む |
○平塚市日向岡附近より望む |
○大磯町西小磯より望む |
2006年(平成18年)4月24日撮影 |
2006年(平成18年)4月24日撮影 |
2006年(平成18年)4月24日撮影 |
○大磯町東小磯より望む |
○大磯町鷹取山方向より望む |
○花水川河口附近より望む |
平塚近辺の防空態勢の整備は、まず1942年(昭和17年)に千畳敷山(湘南平)防空砲台の竣工で始まった。翌年には、北防空砲台と、須加防空砲台が相次いで竣工する。そして、1944年(昭和19年)〜1945年(昭和20年)にかけて、最も防空態勢が充実した。そんな頃、平塚近辺は最大の悲劇に見舞われる事となった・・・。
@〜Jは、防空砲台が存在していた場所を表す。火薬廠を中心に防備が固めれれていた事が判る。
この他にも、防空機銃等が存在した場所は把握しているが、どれも所属不明だったりイマイチ信憑性に欠ける為、割愛させて頂きたい。
名称 | 12,7cm4門 | 12cm4門 | 10cm4門 | 40mm | 25mm | 13mm | 高角砲残弾 | 備 考 |
@千畳敷山防空砲台 | ○ | ・・・ | ・・・ | ・・・ | 3門 | ・・・ | 550発 | 150cm、110cm探照灯3基 |
A平塚防空砲台 | ・・・ | ・・・ | ○ | ・・・ | 4門 | ・・・ | 410発 | ・・・ |
B城所防空砲台 | ○ | ・・・ | ・・・ | ・・・ | 4門 | ・・・ | 503発 | 150cm探照灯2基 |
C大野防空砲台 | ・・・ | ○ | ・・・ | ・・・ | 4門 | 2門 | 598発 | ・・・ |
D萩園防空砲台 | ・・・ | ○ | ・・・ | ・・・ | 3門 | 1門 | 567発 | 150cm探照灯2基 |
E須加防空砲台 | ○ | ・・・ | ・・・ | ・・・ | 4門 | ・・・ | 512発 |
150cm3基110cm探照灯1基、90cm探照灯2基、対空レーダーあり |
F東防空砲台 | ・・・ | ・・・ | ・・・ | ・・・ | 6門 | 12門 | ・・・ | ・・・ |
G西防空砲台 | ・・・ | ・・・ | ・・・ | ・・・ | 15門 | 6門 | ・・・ | ・・・ |
H南防空砲台 | ・・・ | ・・・ | ・・・ | ・・・ | 6門 | 6門 | ・・・ | ・・・ |
I北防空砲台 | ・・・ | ・・・ | ・・・ | 4門 | 6門 | 12門 | ・・・ | ・・・ |
J馬入川防空砲台 | ・・・ | ・・・ | ・・・ | ・・・ | 12門 | ・・・ | ・・・ | ・・・ |
何処も同縮尺ではないが、航空写真の解析により判明した各防空砲台の姿を掲載したい。現在は、全て消滅して見る事が出来ないが、当時の写真を見る事によって、防空砲台の構造等の理解を深める事が出来ると思う。
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最新式の10cm高角砲装備の防空砲 台。しかし、B29の平塚大空襲の際は、 電力の不備からその真価を発揮する 事はなかった。 |
イマイチ遺構が判然としないが、写真 中央附近に写っている3つ程の点が、 防空砲台なのだろう。 銃座は土嚢で囲まれているように見 える。単装の防空機銃が据えられてい たのだろうか。 |
明らかに防空砲台だと見て取れる。 25mm連装機銃を3〜4基程、据えた のであろうか。はっきりと写し出されて いる銃座を囲う土嚢に注目。 |
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八幡神社西側に装備された防空砲台。 明瞭ではないが、連装の25mm機銃が 据えられていたように見える。 |
かなり拡大してみたが、遺構がイマイ チ判然としない。13mm機銃が据えられて いたのだろうか。残念ながら、事実を知る 由はない。 |
本来、並列に準備された4つの半円 形の遺構が須加防空砲台だと思われ ていた。しかし、真の須加防空砲台は、 茅ヶ崎の西浜附近の海岸に存在した 事が判った。 証言等から、上記写真部分は、演習 場か電柱を砲に見せかけた偽砲台であ ろう。 |
上記写真は全て 「米軍撮影の空中写真(昭和21年撮影)」より |
市街地よりも工場の方が大切と言わんばかりに火薬廠を中心に防備が固めれていた事が判る。
工場ではそんなに重要な物を作っていたのか!?
結論から言うと、残念ながら旧日本軍は国民を護る軍隊ではなかったと解釈出来る。
米軍では、平塚近辺の防空態勢はかなり充実していたとの評価を下している。その根拠は、平塚地区は比較的強固な重砲73基と118基の中型砲で固められているとの理由。反面、探照灯は6基しかなく、B29の作戦高度3,500m前後では、ほとんど被害は出ないとの見解を示していた。
1945年(昭和20年)7月16日に実施されたB29による平塚空襲の際は、米軍側に全く損害は出ず、彼らにとっては予想通りの結果だったようだ。米軍側から見た旧日本軍の反撃は、まず伊豆大島方向から精度の悪い対空砲火を受け、その後に小田原方向からかなりの砲撃があり、更に平塚上空でもかなりの対空砲火を受けたとの事。しかし、いずれも砲撃精度が悪く、全く米軍機に損害はなかったとしている。また、探照灯に関しては、2〜4基が点灯していたとの事である。
しかし、事実はかなり違ったようだ。米軍機に損害がなかったのは正しかったと思われるが、1945年(昭和20年)7月16日に限って言えば、旧日本軍からの対空砲火は全くなかったのである。その理由は、「C実戦における千畳敷山(湘南平)防空砲台」で述べた通り、米軍機の空襲が始まって間もなく、その被害によって平塚近辺は停電し、それに伴い各地に配備された防空砲台は、有効な砲の旋回等が出来ず、射撃不能に陥っていたのである。探照灯に関しては、当初は点灯していたと推測出来るが、停電によって間もなく点灯不能に陥ったと思われる。平塚上空で発生した日米両軍の食い違いは、米軍側に同情的な言い方をすれば、暗夜で何かが爆発すれば対空砲火の炸裂と勘違いしたであろうし、大きな物音一つ、エンジン音一つでもそう感じたからであろう。米軍の平塚空襲の詳細については、「平塚の空襲と戦災を記録する会」と言う有力な団体から説得力のある刊行物が出されているので、そちらを閲覧するのが最適である。
また、旧日本軍によって配備された平塚近辺の防空砲台の実態は、合計高角砲24門、機銃106門、探照灯13基であった。狭範囲の割りに、かなり充実した防備だったが、米軍公表のデータとは一致しない。この食い違いは何を意味するのだろうか・・・。
米軍は、航空写真の解析よって、旧日本軍の防空砲台等の陣地を全て把握していたと豪語している。航空写真の解析については、対する旧日本軍についても例外ではない。当然、防空砲台等の陣地の出来具合や、偽装の効果等を、高度3,000mから撮影した航空写真で確認していた。また、丸太や電柱を砲台に見立てたり、ダミー陣地を設置したりと言う巧妙な事も行なっていた。旧日本軍では、偽装工作を行なった事によって、ある程度、米軍の目を欺く事に成功していたと言え、米軍が行なった航空偵察で、旧日本軍側の防空砲台等の所在を全て把握するには、限界があった事を物語っている。しかし、どれだけ米軍の目を欺く事が出来ても、所詮、彼らとの対戦は旧日本軍にとって勝算がなかった事に、全く疑う余地がない。ちなみに、千畳敷山防空砲台周辺に駐屯していた陸軍からは、「海軍は空から丸見えの場所に大砲を据えて。」と陰口を叩かれていた。
ほか、小型の米軍機による空襲に対し平塚近辺に配備された各防空砲台は、以下の教訓を残している。「急降下目標に対する25mm機銃、40mm機銃の威力は絶大にして、至近距離では命中率極めて大なり。尚、40mm機銃は故障多き為、不適なり批評あり。」反面、「わが方機銃相当に命中して命中により火を発するもの多数ありしも、間もなく消火して撃墜に至らざるものがきわめて多い。」との教訓もあり、機銃による射撃が有効だったのか否か判らないが、少なくとも命中率は思った以上に良かったようだ。しかし、当時の平塚での対空射撃の経験者によると、敵機に25mm機銃を命中させるのは至難の業で、やっとの思いで1機を撃墜したとの事。この方によると、25mm機銃弾が1発命中し撃墜に至ったと鮮明に記憶している。また、高角砲に関しては、「分散態勢を以って各方向より急降下せるものに対しては射撃効果なきため爆撃直前の定針時に対し猛砲撃を行なうを有利とす。」で、機銃よりも効果が薄かった事が伺えるが、防空については全体的に問題の方が多かったように思える。米軍の攻撃力については、エレクトン焼夷弾命中に関しての場合、「消火容易なり。浴室、倉庫に数十発命中せるも直ちに消火し得たり。」と強気の分析をしていた。それは、果たして本当だったのであろうか。
筆者は、米軍公表の資料は100%正確であると信じ込んでいた。しかし、本項作成によって、必ずしも米軍が公表するデータが正確でない事を認識させられた。また、旧日本軍については、平塚近辺の防備が頂点に達しつつあった頃に、その実力を発揮するチャンスが訪れた。しかし、電力の不備から宝の持ち腐れとなり、結局あの防備は何だったのだろう?と首をかしげずにはいられない。その答え探しが今後も自分なりの結論が出るまで続く事を認識した。
日本の防空砲台の砲弾はB29の飛行高度に届かない為、明治時代後半〜昭和時代初期に生まれた方々より、「射撃しても無駄だった。」と言う話しを良く耳にした。そのような事を耳にされた方々も案外多いのではないだろうか。この証言には少々、疑問を感じるのだが、B29の最大上昇限度は、タイプによっても異なるが、大体11,000m前後である。しかし、日本本土の空襲の際には爆撃精度を高める為に3,000m前後の低高度を飛行する事もあったと言うのが現状のようだ。
対する日本側防空砲台の最大射高は、これもタイプによって異なるが大体11,000m前後である。充分とは言えないが、B29の飛行高度に対して射程内に納まる事が判る。B29が低高度で飛来すれば尚更である。これは、小学生程度の小さな子供にも容易に理解出来る事だろう。
何故、「射撃しても弾が届かない。」等の証言が巷に定着したのか、推測の域を出ないが自分なりの結論を出してみたい。既に述べた通り、各地の防空砲台は、B29の空襲により早期に電力をやられ射撃不能の陥っていた事が推測される。旧日本軍にとっては、その事実を周辺住民に知られる事が士気の低下を招く為、最も恐れていたに違いない。所が射撃出来ない事実を、周辺住民に「射撃はするがB29には届かない。」と変えて伝えてみたらどうだろう。周辺住民は、旧軍は精一杯対応していると感じ、若干ではあるが士気の低下を防ぐ事が可能であったのではなかろうか。
上記の結果から「射撃しても無駄だった。」とか「撃っても届かない。」等の証言が出現したのではないかと推測する。各地の防空砲台の砲弾は、射撃をすれば容易に撃墜出来ないだろうが、低高度で飛来したB29には充分に到達したのである。現実には、「B29には、弾が届かない。」ではなく、「撃ちたいけど、撃てない。」「撃ったところで当たらない。」が正しい表記だと感じる。
臼井 敦氏「赤星直忠博士文化財資料館研究員」
藤野敬子氏「平塚の空襲と戦災を記録する会」
川嶋隆史氏「平塚市企画部秘書課」
栗山雄揮氏「平塚市教育委員会 社会教育課」
謝意を申し上げます。
「44万7,716本の軌跡/平塚市博物館」
「市民が探る平塚空襲・証言編/平塚の空襲と戦災を記録する会」
「聞取り調査/ネーモン著」
「横須賀海軍警備隊戦時日誌1・2/横須賀海軍警備隊」
「砲台見張所接収関係綴/復員省」
遺構探訪
千畳敷山(湘南平)防空砲台
2006年(平成18年)5月14日制作
2006年(平成18年)10月31日加筆、訂正、公開