武道とは、伝統的な日本武術から発展したもので、人を殺傷・制圧する技術に、その技を通じて人格の完成をめざすといった道の面が加わったものである。 合気道は気の武道である。「合気」は相手の力に力で対抗せず、相手の気に自分の気をあわせ、相手の攻撃を無力化させるような技法や原理を指し、合気道では他者と争わず、自然や宇宙の法則に和合することによって理想の境地を実現するといった精神理念を表すものになった。とある。
日本人の原点である縄文人は集落を形成し、狩猟、二次植生(里山)からの木の実、山菜等を必要量だけ採集し集落で分配するという自然と一体化した生き方をしていた。(後期には蕎麦、大麦などの畑作から、焼畑による稲作も行われていた)動物は生命維持に必要な狩りしか行わないし、勢力争いでも優劣が決まれば深追いはしない。縄文人は共存することがともに生存していける方法であることを自然から学んでいた。食物連鎖の大きな輪に組み込まれ、種の保存を維持してゆくことも宇宙の法則である。
一方、弥生人は水稲技術を持ち、米の収量が貧富の差や上下関係を生み、集落の大型化が進み、労働力、耕作地、水利をめぐって戦いが発生し集団の統合が繰り返された時代で好戦的であるといえる。
この二つの時代を例にしたのは欲望を少なくし自然と調和した生き方をすれば争いを避けられるのではないかと考えたからである。 合気道では気・心・体の三位一体を実現して宇宙そのものの存在になることが戦わずして勝つ境地である。合気道を続ける以上は一歩でもその境地に近づきたいと思う。
体は合気道の技を身に着けることにより自分の重心(丹田)が出来き、重心が安定することによりバランス感覚が良くなりスムーズに動けるようになる。自分の意識によって重心の位置を変化させることによって筋力に頼らない力を発揮することが出来る。
修行で身についた忍耐力、集中力、等によって我欲をコントロールすることにより、心が自由になり、心が自由になれば体も自由になり余分な力が抜ける。(失うことは開放されることでもある。)
気についてはまだ良くわからないので合気道の修行によって丹田力と脱力が身に付けば「気」を感じることが出来るのではないかと思う。
以上が私が合気道を選んだ理由と今現在の理解と目指す方向です。 まだ修行も足りず、未熟であるが自分の弱さを克服し、いついかなる時も、どのような場面においても平静を保ち、宇宙との一体感を感じられる日まで更なる修練に励んでゆきたいと思います。
思考しつつ、行動しつつ、祈りつつ・・・ 道を究めるとは、体験を通して人として完成すること。
並木正俊 |