金光達太郎講師講演会「人に好かれる話し方」    平成17年11月27日

一寸の虫にも五分の魂

 みなさん、こんにちは。お忙しい皆さん方がこんなに大勢集まっていただいて、大変幸せです。ありがとうございます。
 今日は、「人に好かれる話し方」ということでお話しをさせていただきますが、人間とは「考える葦」とかいろんなことを言われていますが、そんなことを言ってもよくわかりません。人って何だろう、という言う時、一番よく表しているのが、「一寸の虫にも五分の魂がある」という言葉ではないでしょうか。これはまあ、人間のことではないのかもしれませんが・・。
 一寸、三センチくらいの、こんなちいさな虫でもその半分の五分、一センチ五ミリくらいの魂がある」虫でも、人間でも体の半分位は魂ということです。
 この五分の魂というのはですね、たとえば、ベンチに座っているのに人が来て「俺が座りたいからからどけ!」こう言われたらどう思いますか。「何を言うのか。俺が先にすわっているのに何でそんなことを言われなきゃならないんだ」と怒りますね、これは一言で言うとですね、五分の魂が「なめんなよ」と思っているということです。
これで人間はしょっちゅうけんかしています。この「なめんなよ」というのは、例えば「こんなところにお茶おいたの誰!」
「置いたのが悪いったって!こわしたのは注意が足らんからじゃないか」
と五分の魂どうしがぶつかって、醜い争いがおこるのです。私は家族の中でこういう争いが起きると、「また醜い争いがはじまった」と思う。
「自分はいい、おまえはだめだと思う、これが醜い争いになるんだ」と、こう言っています。

 人は皆、この「なめんなよ」の五分の魂を持っている。そういった人間にどうやって好かれるのか。ただのなんでもない玉ではない。「なめんなよ」と思っている、やっかいな、ひょっとするとバーンと爆発する、この五分の魂を持っている・・。
 この5分の魂側からみてみると、他の人が近づいてきた時、どう思うか。こっちの五分の魂は、相手がなめているか、なめてないか見ている。近づいてきた人がむすっとした顔をしていると、俺がいるのに変な顔をして近づいてくるなんて、俺を無視している。「俺をなめているな・・」と思う。だからあっちの方から、人が恐い顔をして近づいてきたら「変なやつが来た、気をつけよう」となる。そんなことも知らないで、私は大学の先生をしていました。
 大学は学生の名前を一通り覚えれば、あとは講義だけしていればよい・・、と思って大学の先生になったのです。私はもともと、大の人間嫌いでした。皆さん笑うけど、そうだったのですよ。子供のころ父に「これを郵便局にもっていけ」といわれる。行くのはいいのですが、書留や何かですと、局員や大勢の客の前で大きな声を出して「書留でお願いします」とか「速達で」と言わなくてはならない。これがいやでした。はずかしくて仕方なかった。それで大学に逃げ込んだ。生徒さんから見ると申し訳ない理由ですが。

話し方教室へ

 どんな顔していいかわからない。ニヤニヤしていては馬鹿にされるし、すましたような、ムスッとした顔で講義していました。それですんでいると思っていた。ところが、すんでいなかったのです。
25〜6人のクラスで、そっちで眠り、こっちで眠り・・・、7人ぐらいが完全に寝ている状態でした。このままでは月給ドロボーといわれても仕方がない。何とかしなくては・・、と思い「良い人間関係を作る話し方」というポスターをみて、行って見ました。
 行ってみるというのは大事なことですね。始めは行かないで「あんなもの」と言っていました。行ってみると、知らないことが沢山ありますからね。
 とは言っても、うわさによると最初は「何でも1分ぐらい話をしなくてはいけない、こわそう・・・」と、そうっとドアを開けますと、大きな声で「こんばんは!!」やさしい目で、歓迎してくれた。1秒もかからない「こんばんは」で私を安心させてくれた。「いいところへ来た」と思いました。
 講義の後、自己紹介をしなくてはいけない。「名前を覚えられるように、そして、なぜここに来たのかを言って自己紹介をするように」と言われました。
「みんなこの人どんな人かな?と思っているのだろうな。私はみんなからバカにされるだろうな」そう思いました。でもとにかく一生懸命大声で『金に光ると書いて金光、配達の達に太郎と書きます。大学で授業をしていると居眠りをする生徒がいます。こんなことでは月給ドロボーといわれても仕方ありません。何とかしようと思い・・・』と、にこりともせずに言いました。
 すると講師の先生が「金光さん、いいお声ですね」と一応誉めてくれます。その後「しかしあの顔は何ですか。まるでゴジラがほえているようですよ。そんな顔では生徒さんが眠るのは当たり前です。顔つきを変えなさい」
話し方を習いに行ったのに、先ず顔を変えろと言うのです。話すのに顔なんて関係ないと思っていました。でもその顔だからみんなが居眠りすると言われ、人が安心する顔笑い顔を身につけなければと思いました。

笑顔の効用

 帰りの電車の中でも「こんな顔かな、あんな顔かな」電車の窓に顔を映してみました。周りのお嬢さんがびっくりした顔をしているのであわててやめ、駅から家に帰るまでの間笑顔を作りながら歩きました。10分も笑顔をつくっていると精神状態も変わるのですね。玄関のドアを元気よくあけながら「ただいま!」にこやかに入っていったもんだから、家内がびっくりしました。それまでの私は、考え事をしながら下を向き、そのままむずかしい顔をして帰っていましたから。「たった1日でこんなに変わるのなら、どうぞ話し方教室に通ってください」と授業料を出してくれることになりました。

 翌日、教室の前で笑顔を作ってから、ガラッと戸を開け「おはよう!」と入りました。授業の中身は変わっていないのですが、顔を変えただけで寝ていた学生が7人から2人に減りました。この2人は徹夜でマージャンをしていたので、どうやっても起きない学生でした。「よかった」先ずは一つ問題を乗り越えました。今までまじめな(恐そうな)顔で講義していたのが、「あ、この先生何か感じよくなったな」とイメージがアップしただけで、聞く気が起きてきたわけです。
 相手の5分の魂に入っていくには、先ず「なめんなよ」と身構えている固い殻を、少しやわらげていくことなのですね。

あいさつ

 さらに和らげていくにはどうするか。「あいさつする」たったこれだけのことです。
 話し方教室に通い出して、次に先生に言われたことは、「あなたは大学の先生だそうですけど、学生にちゃんとあいさつしていますか」
「されたらしています」
「されなかったら、しないのですか」
「親子ぐらい違うんですよ。子供くらいの人にこちらからおはよう、なんていったらごますりとおもわれますからね」
「ごますりと思われるかどうか、試したことがありますか。あなたは科学者だそうですが、実験もしないであきらめるんですか」

 それまでは「あ、こっちへ顔見知りの学生がくるな、あいさつしてくれればいいのに・・・。あー、すれ違っちゃった。近頃の若い人はあいさつもできないのか、と言う調子で、1/3ぐらいの学生とはお互いに目をそらしてすれ違っていました」
 今までしていなかったのに急にこちらからあいさつすると言うのは、勇気が要ります。「もし無視されたらどうしよう」ビルから飛び降りるつもりで、向こうからいつも目をそらす学生に「おはよう!」と声をかけてみました。すると「あ、金光先生。おはようございます」喜んで返してくれました。
向こうもあいさつをしたかったんだ。それからはバリバリ、あいさつをしました。そのうちに人間関係が変わってきました。

 ずっと教室に行く廊下を歩いている足音で私とわかるのでしょう。楽しそうに雑談していた声が急に静かになり、通り過ぎるとまた笑い声が聞こえてくる状態でした。皆から敬遠されている、無視されている、と思うといやな感じでした。
ところが、あいさつをこちらからするようになって、しばらくするとだんだん声が静かにならないことに気が付きました。1ヶ月ぐらいしたある日、にぎやかな声がしている研究室の前をとおりかかり、ドアが少し開いているので様子を見ようとしたとたん、「金光先生、今コーヒーが入りましたから飲んでいってください」と呼び込まれました。初めて学生の方からどうぞ、と言われたのです。
このころになると、授業中、居眠りをする人はゼロになっていました。
@表情、顔をにこやかに 
Aこちらから声をかける
 この2つのことは「なめんなよ!」と思っている5分の魂に「安心してください」というイメージを与えることだったのです。

5分の魂を守る言い方

 イメージを良くする3つ目は言い方です。同じことを言うにも、特に苦情を言うような場合を考えてみましょう。
成人式の日に、日本髪を結った振袖のお嬢さんが満員電車に乗っていました。隣にスポーツ新聞を広げて呼んでいる男性がいました。ごそごそと新聞を動かすたびに、お嬢さんの髪に触るので、「いやな人」という顔をして彼女はよけようとしたり、にらんだりします。ちょっとエッチな記事が目に入るのか、下を向くとまた髪に触りますが、一向に気づく様子がありません。
 とうとうたまりかねて、「何よ、気が利かないわね! 髪が乱れちゃうじゃないの!」
皆の前で罵倒された青年は名誉回復とばかり「バカヤロー! そんなこと言えたガラかよー!」お嬢さんは真っ赤になって、次の駅で降りました。「彼女、かわいそうに」という目で皆に見られた青年も、いたたまれずにその次の駅で降りてしまいました。
 言いたいまま、思い通りに言うとこうなるのです。確かに気が利かないのですが、正直に思ったまま言うと、相手の五分の魂が「カー」となって、売り言葉に買い言葉になってしまいます。
話し方を知っている人はそんなことにはなりません。こまったと思ったら我慢しない。我慢すると爆発します。
「すみません。新聞がさわって髪が乱れます」
「あ、気がつきませんで。すみません」
 相手の五分の魂を大事に言います。五分の魂は見えませんから、それを考えないでつい思うまま言うと、全部だいなしです。苦情などは特に「相手が悪い」といったら、必ずひっかかります。

 私は、汽車に乗ってあちこち行くのが好きで、青春18切符を利用します。一万円で五枚つづり、その日のうちなら一枚でどこまで行ってもいいんです。
ある時、銚子へ行こうと列車に乗りました。昼の各駅停車はすいています。四人がけのボックスに一人でいるのはいい気分です。
あっちに高校生が二人、コカコーラを飲んでカシャ!とつぶすのが楽しいのか、また逆の方からカシャ!違うつぶれ方をするので、またカシャッ!何でもない音ですが、気になりだすと気になるんですね。向こうの車両に逃げ出すことも出来るが、話し方を習っている者として逃げ出していいのか?何とか気持ちよくやめさせる方法はないだろうか。
「うるさいからやめてくれ」では相手を責めることになる。よく考えて
「あのね。すまないけど、その音、私苦手なの頼むね」
「あ、気が付かなくてすみません」率直に聞いてくれました。
 私が苦手なのであって、相手のせいではない・・。五分の魂に触れない、守る言い方です。誰でも「お前が悪い」と言われると「絶対悪くない!」と言いたくなる。
 夫婦間でも「結婚前はこういったのに!」と前のことを持ち出します。いったん怒り出すと、全部思い出して言いはじめ、性格の不一致とか言って別れることになってしまう。些細なことから、醜い争いになるんですね。

同じような人をどう見るか

イ メージをあげるために、表情・あいさつ・ものの言い方を見てきました。次は、自分自身が人をどう見ているのか、ということが話にかかわってきます。日頃考えていることをお話してみます。
たいていの人は自分が一番大事です。こういうと人を汚く見ているように思いますか?
自分のことは気が付かないのですが、スーパーで肉などでも上からさっと持っていく人は少ない。「これは脂が多すぎる。これはちょっと黒ずんでいる。賞味期限は先のものがいい・・・」
 人がやっているのを見るとあさましいと軽蔑する。それがいけないんです。軽蔑するようなことでしょうか。お互い様ではないでしょうか。その人の立場でみると、家族が糖尿病にならないように脂が多いものを避けている。家族が大事と一生懸命です。自分を守るのは先ず一番大事なこと。そうやって進化した遺伝子があり、その遺伝子のおかげで、我々はこうして生きているのです。

 青信号で、「あの人大丈夫かな、この人ちゃんと渡れるかな・・・」などとやっていたらいつまでも渡れなくなってしまう。自分が轢かれないようにするのが精一杯で、各自がそれをやっていれば良いわけです。

 ですから、人が自分のことばかりやっているのを嫌と思わず、
「オレと同じだ。恵まれた遺伝子を持った人達だ」
「宇宙からもらった性質で、一生懸命自分を守っている」と思えばいいのです。
特に利害がぶつかった時、「コノヤロー」と思わない。すぐ私たちは「あんなヤツ、だめだ!」と言ってしまいやすいのです。
こうやって自分の回りの人に×をつけていったら、悪い人ばかり住んでいることになって、いやになってしまいます。周り中に×をつける人は、皆にきらわれてしまいます。
 「自分本位」は皆が持っている性質と思いましょう。自分も同じと思えば、嫌がることはないのです。

自分と違う人をどう見るか

 例えば私は郵便番号を書くとき、ピシッと入れて書きます。でも番号がはみだしていたり、切手を斜めに貼る人がいる。「これでも着きますよ。着くからいいじゃない」と平気です。こういう人を「だらしない」と決め付けて友達にしない、付き合いたくないといったら、世の中の1/3の人をはずすことになってしまいます。
 世の中の人を大ざっぱなタイプに分けると3つのタイプに分かれます。

@丸型タイプ:何でも「まあいいや」ですます。切手を斜めに貼る。1時半の約束でも2時までに行けばいいだろう、と思っている。お人よしで、人のことを良い方に見る・・・。こんなタイプです。
A四角型タイプ:約束の時間に遅れたくない,10分前には行こう。切手も曲がらずピシッと貼る。規則はキチンと守る・・・。こんなタイプです。
B菱形タイプ:顔も菱形であごがとがっている人が多いのですが、物事を徹底的に考える凝り性で、他のことは考えない。人との付き合いも好きじゃない。一人静かに考えているのが好きな性格です。何を考えるかと言うと、「人間は何のために生きるのか・・」「声を電波に変える方法は・・」
これがこうじて、芥川竜之介や川端康成のように、「いい作品が書けなくなったら生きている値打ちがない」と自殺してしまったり、ベルやエジソンのような発明をする・・・。こんなタイプです。

 四角型タイプの奥さんを持ったらどうでしょう。大学の後輩が尋ねてきて話しているうちに、夕食でも、となり奥さんにたのみます。
「夕食を、これからですか?今5時ですよ。これから作るんですね」(念を押して)
料理の本を引っ張り出して選ぶのに30分、それから買い物に行って、8時ごろにやっと出来上がります。バッチリとしたものが出てくるんですが、言葉は「何もございませんが・・」後輩は尊敬しますね「こんな料理をばっちりする。すごい奥さんだな」
 しかし「これでお歳暮の心配をしなくてはいけないな」と、ほうほうのていで帰ります。そして、後が大変です。「困りますわ、急にあんなこと」「だって」「だってじゃありません。これからはお断りしますよ!」
 丸型タイプの奥さんは「ちょっと頼むね」と言われると「ハイハイ」と気軽に引き受けます。「じゃぁ」とガスに火をつけ、湯を沸かしたまま、ちょっと危ないけど、まぁ大丈夫でしょう。すぐ帰ってくるから、と近所のトンカツまで走って、トンカツを2枚買って帰ります。帰ると、もうお湯が沸いていますから、ウチにあったインスタントラーメンをぽんと入れ、トンカツを4つに切ろうとして、「いや縁起が悪いから」と5つに切り、出来上がったラーメンの上にのせて、「何もございませんが」とあっという間に出てきます。
言葉は同じですが、後輩はお腹もいっぱいになるし、お歳暮の心配も要らない、相手にはこの方がいいわけです。
 ライオンズクラブで、性格テストをさせてもらう機会がありましたが、経営者は丸型が多いんですね。四角型から見るとだらしない、いい加減に見えるが、大まかにものごとを捉えられるところがあります。
 丸型から四角を見ると「堅くてどうしようもない」と思うが、四角型がいないと汽車が時刻とおり動かないなんてことになります。
 菱形は文化、芸術、科学を進歩させてくれるが、菱形だけではうまくいかない。欠点も多いのです。だから丸型、四角型の人もスタッフに入れる必要があります。菱形も他の型から見ると、「変わり者でどうしようもない」と見えるのです。

 自分と違う性格の人と仲良くしないと、世の中うまくいかないのですが、どうも理解できないと許せない、と思いやすいのです。どの型も欠点だらけ、自分が一番いいと思ったらいけません。
性格の違う人を「自分と違う」と断ち切らない。人を心で殺してはいけないのです。けんかしながら育っていくことも大事です。
 性格の違う人をきびしく排除しない。利己主義の人も排除しない。いろいろあっていいじゃないか、私と同じ弱い人間じゃないかと見ること。人を見て、どう思うかが非常に大事なのです。
変なことをしている人を見て「人間じゃない」と大半の人は付き合おうとしない。例えばホームレスのような人、汚いし少し臭いもする、でも人間じゃないとおもったら大変です。れっきとした人間です。話してみなければ分からない、私などよりずっと達筆な人もいます。人を見かけだけで判断してはいけないのです。

 岡山から40キロほどのところに金光という駅がありますが、ある時そこから岡山まで列車で行き、岡山から特急で東京へ帰ろうとしていたときのことです。大変疲れていましたので、60分かかるが、せめて座れると良いと各駅停車に乗りました。ところがどこも空いていない、丁度満席といった状態でした。ただ、入り口のそばの3〜4人座れる座席に、そこだけ一人で寝ている人がいました。
「こんな所に寝ちゃって、今何時だ?朝の10時からウィスキーを片手に4人分の席をとって寝ている。人の迷惑も考えないで、人間のクズだ。いや,こんなヤツ人間じゃない」
心の中で怒っていました。「しょうがないナ!でも、人間じゃない人をどうしよう」
しばらく怒っていましたが、「いや、まてよ。人間じゃないと思ったけど、どう考えても人間だ。イヌ・ネコではないぞ・・・。それなら頼んでみよう」
「もしもし」反応がありません。「狸寝入りかな?しょうがない、もう一度」
(大きな声で)「もしもし!」
「ウォ、ウォ、ウーン〜、アッ!(びっくりした顔で)」この時、初めて目をさましました。
『あ、すみません。どうぞ、お座りください』
 手を見るとしわだらけの70〜80歳位の人でした。その時私は50歳前後、しわに土がにじみ込んでいます。
「どんなお仕事をなさっているのですか」「桃をやっています」
どうして話し掛けたかと言いますと、この人に「ずうずうしい人が来てたたき起こされた。その人が来なけりゃ、そのまま寝ていられたのに」と、ずっと思われるのは悔しいと思ったからです。
「桃をやっている?じゃぁ、白桃ですか?あれは種がはがれにくいですね」などという話からはじまって、いろいろな話になりました。
「戦争でロシアに勝ったとき、村でも提灯行列が行われ、村の人がみんなで歩きました。提灯がゆれている情景を子供心にも覚えています」「ホー、おいくつでしたか?」
 そのうちに「ご両親はご健在ですか」「まだ母は元気です」
「どこも悪くないですか?」「悪くないですね」
がっかりした顔をしているので、「悪かったら、どうなんですか?」
「実は私、リューマチで困っていたんです。漢方医見てもらったら、山口県の○○温泉につかれば良くなると言うので、行ったら良くなったんですよ。そこで、先生にお酒を持ってお礼に行くと、3年続けて行ったらもう行かなくてよくなるよ・・、といわれました。その通りになったんです。お母さんが、もしどこか悪くなったら、行ってみるといいですよ」
 電話番号まで覚えていて、教えてくれました。岡山につくころはお互いに別れがたくなっていました。握手をしながら「お母さんをお大事に、お元気で」「桃を大切に育ててくださいね」お互いに、涙が出るほどでした。
 人間じゃないと思ったままだったら、何事も起こらなかった。
「変なおじいさんが寝ていて、疲れているのに座れなかった。損した、損した!」という気分がいつまでも残っていたでしょう。ところが、人のお母さんのことまで考えてくれる、暖かい人でした。

 人間じゃないと思ったら、何も起こらない。人間と思ったところから始まるのです。
 人は皆、大事なものを持っている。自分がその大事なものを見つける努力をしなければいけないのです。話をしてみる、そして聞くことが大事です。

自分の五分の魂が反乱をおこさないために

 外では、何とか冷静になれても家庭の中は、また難しいですね。
例えば、「トイレの電気つけっぱなし!」のようなこと、ガスでも、水道流しっぱなし,のようなことでもいいのですが、やさしく言う人が少ないようです。
 「つけっぱなしですよ!!」こう言われた時は、「負けた!」悔しい気分になるものです。
息子が、いい年をしているのに「お父さん! また電気つけっぱなし! また、だよ!!」
「また!」まで強調して言う。
「何言ってんだ!お前だって、この前電気ストーブつけっぱなしだったじゃないか。あのほうがよっぽど電気代かかるぞ!」と醜い争いになりやすい。
 それは、「お前は悪い、私は悪くない。悪いとしてもほんの少しだ」と思いたいところからくるのです。5分の魂がごりごり踏みにじられた時、反乱をおこさないために、自分の5分の魂をどうするか考えましょう。

 人様に思わず無礼なことを言って、「言わなきゃよかった」と後悔しないための工夫です。
息子は道広と言いますが、得意になって「お父さんまた・・」という。自分の位置で聞くと責められた気がして嫌です。そこで、視点を変えて見るんです。聞く場所を変えて、言っている本人の咽のあたりへ行って聞く・・。自分が言っている気持ちになって聞いてみます。
 つまり道広の気持ちをわかりながら聞いてみると「また・・。年をとっているから、何度も言われないといけない、悪い癖だ。又、ということをはっきり言って・・。また、なんてしないでね・・・。分かってちょうだいヨ。」
責めに来ているわけではない、「また」の意味がわかります。言っている本人の気持ちがわかると、「よう言うてくれるわい」という気になり、電気ストーブなんか持ち出さなくて済みます。「またやっちゃったか。消しておいてくれた?ありがとう」となります。
 精神的労働が必要ですが、練習によっては出来ないことではありません。
 5分の魂を治めるのはむずかしい、特に近しい人、夫婦、親子・・・などは遠慮がありませんから。先生のなかでも、もめごとがたえません。たえず工夫を繰り返すことが大事です。

 どこからながめて聞けばいいのか。「この人、こういう気持ちで叫んでいたんだろうな」と気持ちをわかるように聞いてみる。少しずつ工夫をしていくことです。
「よし、やってみよう」といっても明日からすぐに出来るわけではないでしょうが、10年、20年かかっても努力していくべき大事なことです。

何のために生きるのか

 今日は「人に好かれる話し方」という講題でお話していますが、人に好かれるためではなく、自分は何のために生きているのか、自分なりに決めています。何も意識しないで、生きている人が多いと思います。普通の人は安全に生きるために、お金をできるだけ儲けようとする。うまくいかない人もいますが、うまくいったらどうなるのか?幸せになったか?お金をいくら儲けても、あの世へ持っていけるわけではありません。

 安心して死ねることが一番大事です。
「これで死んでいのか」と問うた時、「いいのです」と自分で言えるだけの生き方をしていきたいものです。

 岸井勇という教育学の先生ですが「人間は何のために勉強するのか。偉くなりたいとか、お金持ちになりたいとか、多くの人は履き違ええている。勉強しておけば人の役に立つ時があるからだと言うのです。水泳も同じで、人が溺れているのを助けることが出来るために泳げるようにしておくのです。」とおっしゃっています。
 自分自身の欲望はいくら満たしても、満たしてしまえばそれで終わりです。死ぬ時、満たしたからそれでいいと言えるでしょうか?人は人の役に立てるために生きているとすれば、人の役に立つ意外に「やった」と言うことはないのではないでしょうか。大勢でも、一人でも、人が喜んでもらえるために今日一日生きることを心がけています。
 人間、人類は必ず死ぬのです。人類の世界も1億年も続く訳はないのです。10億年先は太陽が飲み込んでしまい、昔人類がいたという人もいなくないます。生きている間、いい格好をして歩くのことに意味がありますか。何か人が喜んでくれるもののために、一生懸命やったということは、確かなものが残ります。
 
 私は20代の若いころから、人が喜ぶことのために何かしたいと、少年団や話し方の活動をしてきました。人さまが喜んでくださるのを見て、話し方を学んでよかったと思っています。本格的に喜んでくださる方が続々と出て下さり、若いころからずっとやりつづけてきた幸せを感じるこのごろです。
 「こういう生き方をしたい」とやたらにしゃべる必要はありませんが、人から見て「あの人好き」「何だかいいな」と思われる生き方をしていただきたいと思います。
 
 長い時間、どうもありがとうございました。

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