*31*
MASSIMO SIDE
頭が痛い。身体がだるい。喉が渇いた。
あれから何時間経ったんだろう……時間の感覚ももうない。ほんの10分、の気もするし、もう一晩経ってしまった気もする。俺はしばらく気を失っていたようだが、何で気を失ったのかも覚えていない。……寝ていただけなのかもしれないが。
相変わらず暗いし、動けないし、時間を計る術もない。逃げられない。助からない。ゴンザロが来ない。……やっぱり最後は助からない。ないないづくしで、俺このまま死ぬんだろうか。殺されちまうんだろうか。
殺されるって、あの変態オヤジに? あの、腹の弛んだ醜いクソジジイに? 冗談じゃない。
……そう思った途端、急にアドレナリンが湧いてきた。殺されて、たまるもんか。あんな変態オカマになんか。
俺は、口に嵌められたボールに舌を這わせた。舌の感覚ももうかなりヤバくなってきているが、舌先に目一杯の力を込めてボールを前に押し出す。少しだけ前に出てきたボールを、俺は力一杯噛んだ。堅いプラスティックの表面にひびが入った。何度かボールを噛んでいるうちに、ひび割れは裂け目となり、ついには割れた。
俺は、プラスティックの破片で口の中を盛大に切った。血が溢れ出す。錆の味。まっずい。
そう言えば、最初の時……ゴンザロに無理矢理抱かれた最初の夜に、奴がいい気になって絡めてきた舌を噛んだことがあったっけ。あの時も、こんな味がした。決して甘くない。けど、忘れられない味。「ひっでえ。……噛まなくてもいいじゃない。」笑いながら言ったゴンザロの口の端から流れた血。思わずそれを舐めた俺。
あの時から、始まったんだったな、俺達。何度抱き合っても恋人同士の甘さなんて得られやしなかったけど。いつだって、ディエゴやモニカに後ろめたい気持ちを引きずったまま……ただあいつの皮膚と、唾液と、血と、体液と……俺のそれらが交じり合わせて、不安を忘れるくらいの陶酔をお互いに与え合ってきたんだ。
それで、何時の間にか俺はいい気になって……お前に惚れられてるって優越感に酔って……お前に冷たく当たったりもしたよな。
……ゴンザロ、お前、やっぱり、助けに来ないのか? 一人だけ逃げちまったのかよ。こんな風に、みじめに汚れた俺は、お前、もういらないのかよ。俺は……俺は、こんなにお前が恋しいのに。
俺は、口の中で潰れたボールの破片をペッと床に吐き出した。口の中に唾を溜めて、もう一度吐き出す。そうしてプラスティックの粉を口の中から全て吐き出した。これで、口で呼吸が出来るようになった。鼻が詰まって窒息死、っていう末路だけは避けられそうだ。
……さて、これからどうしよう。首は、ベッドに固定されている。手は、前で手錠が嵌められている。脚は、自由。視覚は……かなり暗いが、何とか家具の配置はわかる。
……とすれば、できることはやっぱり、「ベッドを引きずって起き上がる」……だろうなあ。
俺は、ゆっくりと寝返りを打ち、首に負担をかけないように捩じれた姿勢で脚を床に降ろした。それから、首輪をそろそろと回して体をベッドの方に向ける。両手でベッドのスティールを掴み、ゆっくりとそれを引っ張った。……ベッドが少し動いた。俺は、取りあえず最寄りの壁際までベッドを引きずって歩いた。
何か、武器になるような物が欲しかった。首の鎖を切ることは無理でも……今度奴がやってきた時に、枕の下に隠し持ったナイフで一突き……ってのは良い手のように思えた。……ナイフなんてあるとは思えないけど。百歩譲って、バールのようなものくらい有れば、頭に一撃、って手もあるし。俺は、手探りで壁際を探した。何か、キャビネットでもあれば。と、その時。
……聞こえた。壁の向うから微かな声……。泣き声だ。女……?
「ヒック……ック……ふぇ……ん……マッシモォ……。」
誰? 俺を呼んでる……? まさかゴンザロがまた捕まって……いや、待て。……嫌な予感が脳味噌を駆け巡った。あの声……背筋に来るようなあの泣き声……それを聞くと、切なさに何でもしてやりたくなるような、幼くて、可愛くて……半分くらいは嘘泣きっぽいけど、そこもまた良くて。ダイレクトに腰に来る、あの声。
ディエ……ゴ……? まさか!? ディエゴがここにいるわけがない!
でも……でももしかして……。
「マッシモォ……助けてよう……。」
また声が聞こえた。今度こそ間違いない、ディエゴだ。どうしよう。
どうしたんだ? どうしたらいい?
どうしよう……って、助けなきゃ。ディエゴは俺が助けなきゃいけない。ディエゴだから、俺が助けなきゃいけないんだ。
*32*
DIEGO SIDE
隣の部屋が静かになった。やっぱり隣にいんの、マッシモなんだ。だって、マッシモって、さっぱりした後すぐに寝ちゃうんだもん。ホントに速攻で。時々、後始末もしないで僕の上で寝ちゃうくらい。
寝ちゃったマッシモの重いこと! 象1個分くらいあるんじゃない?
重かったけど、それが幸せだった。髪の毛の上に涎垂らされたけど、それも幸せ……だったんだと思う。マッシモが僕のそばにいたんだもん。
僕、怒ってたはずなのに。マッシモとゴンザロの関係にムカついてたはずなのに。
でも、何だか僕の目には涙が浮かんでた。目とか鼻の辺りがジーンと熱くなって。
最初は、マッシモが僕を捨ててゴンザロを選んじゃったことに泣いた。何でゴンザロなんだよお……。チーロとかミミとかマリオじゃなかっただけいいのかもしんないけどさあ。もし、マッシモが僕の知らないどっか余所の男の人んとこ行っちゃったんなら、僕、邪魔してやったのに。僕んとこ戻ってくるように、いろんな努力したのに。やな奴、って思われてもいいから、マッシモとその人の関係、ぶち壊してやったのに。でも、相手がゴンザロじゃ、そんなこともできやしない。黙って泣いてるしかないじゃないかあ……。ゴンザロは僕の従兄弟だし、いい奴だし、背高くてカッコいいし……僕の方が魅力的だと思うけど。僕が万が一マッシモのことこんなに好きじゃなかったら、僕とマッシモの間に友達関係しかなかったら、ゴンザロとマッシモができちゃったのを祝福してあげられたと思う。でも、僕はマッシモのこと大好きなんだよお……。ゴンザロにも負けないくらい、マッシモのこと大好きなのにい……。
それから僕は、反省して泣いた。僕らしくないけど、何だか本気で反省しちゃった。だって僕、ゴンザロからマッシモのこと奪っちゃってたんだもん、一時にしても。マッシモはゴンザロの友達、ってことで僕らの仲間に入ってきたのに、すぐに僕とマッシモは音楽面でのパートナーになって、どっちから誘ったかは忘れちゃったけど、その後で割りとすぐにベッドの上でのパートナーにもなった。ただし、第2パートナーね。僕にはキアラがいるし、マッシモにはデボラがいるから。だけど、それは、ゴンザロとマッシモがただの友達だと思ってたから。ゴンザロがマッシモのことをどう思ってるかなんて知らなかったし、マッシモだってゴンザロのこと「単なる友達だ」って言ってたから。そういう関係なら、そうなんだって言ってくれなきゃわかんないじゃない。さっきまで、僕、二人の関係に気づいてなかったんだし。ゴンザロがマッシモのことそういう風に思ってて、マッシモもゴンザロとそういう関係なんだ、って言ってくれれば、僕だって遠慮して、ミミからマリオのこと取り返すのに命懸けたのにさ。言ってくれなかったから、僕、マッシモと結構長い付き合いになっちゃって、マリオのことはどーでもよくなっちゃって、今に至ってるって感じ。……あの頃はそうじゃなかったのかな、マッシモとゴンザロ。それとも、あの二人、わざと僕に隠してたの?
ということで、隠し事されてたことに、僕は泣いた。すごく悔しくて。僕たちみんな、あんまし隠し事しないから余計に。……でも、マッシモがゴンザロとのこと僕に言わなかったってことは、まだ僕のこと少しは好きでいてくれてるのかな? 好きじゃないにしても、僕との関係をまだ幾らかは続けたいって思ってんのかな? そー言えば、僕、マッシモから「好きだ」って言われたことないや。今までは、マッシモがすごく照れ屋さんだから言ってくれないんだ、でもホントは僕のこと好きなんだって思ってたけど、そうじゃないの? 僕はすごく沢山、マッシモに「好きだよ、愛してるよ」って言葉贈ったげたのに。僕は本気でそう思ってんのに。
それで僕は、壁の向こうに「マッシモ、好き。愛してる。会いたいよお」って言ったのに、返事はなかった。寝ちゃってるんなら仕方ないけど。そんなことは今までにも何回もあった。僕の上のマッシモに「大好き」って言っても、ぐーぐー寝てたり。それはよくあることだから別にいいんだけど、そう口に出して言ったら、やけにマッシモに会いたくなった。でも、会いにいけない。僕の首には首輪がついてて、犬みたいに床に繋がれてるから。犬よりひどい、動けないんだから。マッシモに会いたくて、会いたくて、僕は泣いた。だけど、会えないから、更に僕は泣いた。隣にいるのに、マッシモに会えないまま、僕はSMの奴隷として一生を終えるのかもしれない、と思って、もっと泣いた。マッシモ、隣にいんのに、どうして僕のこと助けにきてくんないの? 君も、僕みたいに繋がれてんの?
頭ん中がだんだんぐちゃぐちゃになってきて、今まで考えた全部のことがぐるんぐるん回って、どうして泣いてんだかわかんなくなってきたけど、僕は泣き続けた。髪の毛が涙でびちょびちょになってるのにも泣けてきた。マッシモの名前をもう何回呼んだかわかんない。
僕はマッシモの名前を呼び続け、そして泣き続けた。
「マッシモォ……助けてよお……。」
GONZALO SIDE
両手にフライパンを握り締めたまま呆然とミミを見下ろしていた俺は、はたと我に返って神父さんの顔を見た。ちょうど彼も、我に返ったところだったようだ。でも、まだ表情が戻ってない。
「何で……ここに……? ミミも……? で、どうして……?」
俺の言語機能も、まだショックから脱しきれてなかった。
「君こそ……何で……? それに彼……? しかし、どうして……?」
神父さんも、また俺と同様だった。
ミミを挟んで立ち尽くす俺たち。
その時、玄関に近い部屋から男の声がした。
「何の音だ、神父か?」
「は、はい、済みません、ちょっとフライパンを!」
彼は慌てて俺の手からフライパンを取り、書庫に入るように身振りで示した。俺もその意見には賛成だ。ミミを引きずって、書庫に隠れる。
「すぐ戻るから、ここにいなさい。」
小声で言うと、神父さんはドアを閉めた。何が何だかわからないが、神父さんの言うことには従った方がいい。俺は真っ暗な部屋の中で、ミミを踏まないように気をつけながら、ぶらぶらしていた。何か考えるべきなのかもしれないけれど、例えば何でミミがここにいるのか、とか、何でミミが神父さんを脅していたのか、とか、何で神父さんがここにいるのか、とか、ディエゴはどこに行ったのか、とか、考えるべきことが多すぎて、どれから考えたらいいのか見当もつかず、俺は考えること自体を放棄した。
と、その時。
“ガタ……ガタガタガタ……ガタガタガタガタガタ”
窓の方で音がして、俺はびくっとなり、危うくミミを踏みつけるところだった。ポルターガイストか?
俺は勇気を振り絞って、窓に近づいた。まだ窓はガタガタ言っている。カーテンと言うか暗幕に手をかけ、勢いよく開いて怖い目に遭うのも嫌だから、少しだけ開いてみた。人の手が見える。よかった、悪霊とかその手のもんじゃなかったんだ。ならいいや。と、俺は、もう少しカーテンを開いた。向こうの顔が見えるくらいに。
「マ!」
大声を上げてしまった俺は、隠れているんだ、ということを思い出して、慌てて口を閉じた。窓ガラスの向こうには、窓をガタガタさせる手を止めて、あんぐりと口を開けた――誰あろう、マリオ。そうか……ここにミミがいるんなら、マリオがいたっておかしくないよな。って言うか、ミミがいるならマリオもいなきゃおかしい。俺は納得して、窓を全開にした。
「……ゴンザロ……お前……?」
何か、どころじゃなくいろいろ聞きたそうな顔のマリオ。でも、何から聞いたらいいかわからないんでしょう。わかってるよ。俺だってそうだから。こういう時は、何も疑問に思わないのが一番。マリオがいる、俺もいる、神父もいる、ミミはまだ気絶している。それでいいじゃないか。
「ちょうどよかった、マリオ、ちょっと待ってて。」
外からの日差しで明るくなった部屋の中ほどに戻り、俺はミミを肩に担いだ。やっぱりミミはマリオと一緒にいる方がいい。
「ミミ……!」
窓辺に戻った俺のことを、マリオはもう見ていなかった。彼の視線は、ミミにしか向けられていない。それを、どっこいしょ、とマリオに渡す。
「どうしたんだ、ミミは。」
ミミを軽々と横抱きにしたマリオが、幸せ一杯という感じで、俺に尋ねる。
「間違って俺がフライパンで後頭部叩いちゃってさ、思いっきり。病院連れてくなり何なりしてくれるといいんだけど。」
「わかった。……ところで、お前、さっきこの辺で不吉な鐘の音聞かなかったか?」
「……きっとそれ、俺がミミのこと……。」
俺はもうそれしか言えなかった。でも、マリオは頷いてくれた――俺を責めることもなく。終わったことは仕方ないもんね。
マリオにそれ以上の疑問はなかったようだった。ミミが腕の中にいる――その事実だけで満足そう。
いいなあ、マリオ。何てお手軽。いつも簡単に幸せを手に入れてる。いや、簡単に手に入る些細なことでも、本当に幸せそうにしている。
俺は、ミミを抱いて去っていくマリオの後ろ姿を窓から身を乗り出して見送りながら、俺の幸せはどこに行ってしまったのかを考えて、気分を暗くした。どうしてだろう、俺の前にはいつも障害が立ちはだかっている。これって、不公平じゃないか? まあ、いい。その障害を乗り越えれば、そこには俺の幸せがあるはずだから。苦労して得た幸せの方がありがたいじゃないか。
そう思わないと、人生やってらんないよ、マジで。
俺は窓を閉めて、再び暗くなった部屋の中、ミミを踏みそうになることももうなく、神父さんが戻ってくるのを待っていた。
MIMI SIDE
俺は唐突に目を覚ました。後頭部が痛かった。
ここはどこだ? 確か俺は、青ひげの女王様の忠実な執事に呼ばれてバグリオ教会へ行って、神父に薬を盛られそうになったのを回避して、逆に神父を締め上げてゴンザロたちの居場所まで案内させている途中だったはずなんだが……何で俺、ベッドにうつ伏してるんだ? それも、後頭部にタオル乗せて。
それに、この匂いは……マリオの匂いだ。スパイシーシトラスのコロンに体臭が混じった、俺の大好きな匂い。ってことは、ここは……。
「ミミ!」
やっぱりそうだ、ミラノのあのホテル。昨晩、俺たちが寝た部屋。
タオルを手で押さえて、声がした方に顔を向けると、思った通りマリオがいた。もう1つのベッドに、嬉しそうな顔をして座っている。喜びにちょっと弾んで。
「ああよかった、このまま目え覚まさないんじゃないかと思った。」
「……何が起こったんだ? 何で俺はここにいるんだ?」
湿ったぬるいタオルを頭から取り、むっくりと起き上がる。
「ゴンザロが間違えてお前のことフライパンで殴ったんだと。」
マリオはそう言いながら、冷蔵庫から冷たいタオルを出してきて、俺の後頭部に当てた。そして、ついでに俺の身体を抱き締める。
そうか、フライパンで殴られたのか……ゴンザロに!?
「ゴンザロに、だと? ゴンザロがいたのか?」
「いたよ。首輪つきで。思ってたより元気そうだった。」
マリオは俺の首筋に唇を這わせ、シャツのボタンを外している。そんなことしてる暇なんかないんだって!
「で、ゴンザロは? 部屋にいるのか?」
俺はマリオの胸を押して、奴の身体を引き離した。残念そうなマリオ。それはまた、事件が解決した後だ。
「まだあの家にいると思うけど。俺、ゴンザロからお前のこと預かって、病院行こうかと思ったけど、取りあえずここに戻ってみた。病院行った方がよかったかな?」
「そんなことはどっちだっていいよ。で、あの3人はまだ戻ってないのか? マッシモは? ディエゴは?」
「マッシモとディエゴは見かけなかったな。ディエゴの靴と靴下は教会にあったけどさ。血塗れで。」
「何ィ〜?」
それでなくても後頭部の痛みで思考がまとまらないというのに、俺は尚更混乱した。ディエゴまで青ひげの女王に捕らえられてるのか? それに、何でゴンザロが俺のことをフライパンで殴る? 何でマリオがそこにいる?
駄目だ、何とか落ち着いて考えないと。
俺はマリオをベッドの上に押し倒して、胸の上に頭を乗せ、目を閉じた。
「何もするなよ、考え中だ。」
「……はい。」
素直にマリオは答え、タオルを押さえている以外は、本当に何もしないでいてくれた。
ゴンザロは割と無事だ。マッシモとディエゴはあまり無事じゃないらしい。あの家に神父が入っていったということは、そしてそこにゴンザロが――一度はここに戻ってきたゴンザロがいたということは、あの家にマッシモとディエゴがいるんだろう。ゴンザロはマッシモを助けに行ったんだ。あるいはディエゴを……いや、ゴンザロが一旦戻ってきて再びいなくなった後でディエゴが行方不明になったんだから、ゴンザロはディエゴを助けに行ったわけじゃないだろう。ディエゴの靴が教会にあったのは何でだ? まあ、それは後でディエゴに聞こう。ゴンザロが俺のことを間違えて殴ったのは仕方ない。間違えて、なら。あいつだって必死だったんだろう、マッシモを助けるために。ともかく、あの家にもう一度行かなければならないのは確かだ。それと――
「マリオ。」
俺は顎を上げて、マリオの顔を見た。
「ん?」
マリオは顎を引いて、俺の顔を見る。
「F.Fiorentiniって何者だった?」
「あ、Fiorentiniか。そうだそうだ。」
「そうだそうだ、って……お前……。」
「俺、その名前ど忘れしてさ。」
「調べてないってのか?」
「その通り。ごめん。今調べるよ。」
胸の上に俺を乗せたまま、マリオは片手を伸ばして、サイドテーブルの上から電話帳を取った。もう片方の手をタオルから離して、分厚い電話帳を俺の頭の上で繰る。マリオの手が滑ったら、と思うと、ちょっと恐い。それでなくても、俺の後頭部は無茶苦茶痛いんだから。マリオを心配させないように、「痛い」とは口に出していないが、本当は死にそうなくらい痛い。今、病院に行ったら、精密検査させられて、即刻入院になるかもしれないくらい、もしかしたら、明日にでも死ぬかもしれないくらい痛い。
「F.Fiorentiniだよな。……ラッキー、ミラノ市内にはFは1人だけだ。」
その後、マリオは口を噤んでしまった。
「どうした?」
「この住所……あの教会の近くだ。……ってーか、俺、今思い出したんだけど、この名前見た。」
「そりゃ見たろ。見たからこうやって探して――」
「いや、違う。あの家だ。お前とゴンザロがいた。あの家の周りを俺ぐるっと回ったんだ、鐘探して。」
「鐘?」
「教会にいた時に鐘の音聞いて、気になって、どこから聞こえてきたのか探しに行って、それでゴンザロと会ったんだ。結局、鐘の音じゃなくて、フライパンの音だったわけだけど。で、あの家の玄関に『F.Fiorentini法律事務所』って看板かかってた。マッシモの兄貴がこないだ弁護士になっただろ、それであいつもそのうちこんな看板かけるのかなって思って、何となく覚えてたんだ。」
ということは、やっぱり神父は女王様の執事で、女王様はF.Fiorentini弁護士で……でも何で隣の部屋にそいつの服があるんだ?
隣の部屋には、マッシモの服が一揃い残っていた……ってことは、マッシモとゴンザロは裸のまま攫われたんだ。しかし、ゴンザロは一度脱出してきた。服を着て。早朝に。その服があれだった。その後、奴は自分の服に着替えて、マッシモを助けに行った。よし、辻褄が合ってるぞ。どこでその服を手に入れたか、が問題だ。俺がもし、何も知らずに裸で早朝にあの辺りにいたら、どうするか。……教会に助けを求めるか。あのバグリオ教会に。神父は女王様の執事だから、Fiorentini氏の古着を持っててもおかしくはない。そう言えば、教会の外に「コソボ難民に愛の手を〜物資寄付をお願いします」ってポスターが貼ってあったな。その寄付物資の中からたまたまあの服を貰って……でも、何でゴンザロはそこで神父に連れ戻されなかったんだろう? 何で神父は、ゴンザロに服を与えてまで逃がしてやったんだろう? あの教会に他の神父がいるとも思えないし……。ともかく、ゴンザロは神父を信用しているに違いない。命の恩人、ってほどじゃないにしても、助けてもらったんだからな。まさか、神父が女王様の手先だとは思うまい……俺だって騙されかけたんだし。ああ、それでゴンザロは“間違えた”のか。誰かが心優しい神父を脅してると思って。俺の顔くらい覚えといてくれよな、まったく。
……ちょっと待て、俺が一撃食らって気絶した後、ゴンザロは神父と対面したよな? でも、奴はまだ捕まってないらしい――俺の身柄をマリオに預けるまでは。そして、それからどうなったんだ? 結局、振り出しに戻るのか?
ああ、畜生、やっぱり急いであいつら助けに行かなきゃ。でも、ありがたいことに、今の俺には、あいつらの居場所がわかってる。それが今までとは違う点だ。女王様が奴隷を別の場所に連れて行かない限りは。
「行くぞ、マリオ。」
俺は起き上がって靴を履いた。
「どこへ? 病院か?」
「法律事務所だ。……お前、痛み止め持ってきてる?」
起き上がると、たまらない頭痛。ここが俺とゴンザロの部屋なら、俺の鞄の中に頭痛薬が入ってるのに。
「痛み止め? あるわけないだろ。」
あるわけないよな、聞いた俺が馬鹿だった。
「痛むのか?」
痛んでるに決まってるだろう、ゴンザロにフライパンで殴られたんだから。でも、そうは言わない。
「大丈夫。念のため、って思っただけさ。」
目の前が白っぽくてぐるんぐるんしてるけど、吐き気はしないから、大丈夫だろう……大丈夫であってくれ。
「……ならいいが。」
俺たちはベランダに続く窓を開け放したまま、ドアから廊下に出た。
「ミミ、どっち行くんだ。こっちだぞ。」
正面玄関の方に行こうとした俺の腕をマリオが引っ張る。
「でも、タクシーは――」
ああ、そうか、とマリオは微笑んだ。
「これがあるんだ。」
と、車のキーをチャラつかせる。
「それ、マネージャーの?」
「そ、バンのキー。」
裏駐車場に向かいながら俺はマリオに尋ねた。
「このことマネージャーに話したのか?」
「何も話してない。ただキーを借りただけだ。」
「仕事の方はどうだった? 行ったんだろ、スタジオに。」
「スタジオには行った。でも、仕事はしてない。」
「え?」
「車に携帯忘れたんで、それを取りに行ったんだ。で、ついでに黙って車借りてきた。」
「マリオ……お前、最高だよ。」
バンに乗り込んでから、俺は運転席のマリオに、できる限りの熱いキスを贈った。小走りで歩いた後にそんなことをしたせいか、頭の痛みはさっきよりひどくなっている。目の前が、今度は黒くなってきた。本当に俺、大丈夫なんだろうか。
「行き先は弁護士事務所でいいんだな?」
ありがとう、マリオ。キスだけで済ませてくれて。それ以上のことをしようとしないで。俺のことわかってくれて。
俺はマリオの問いに頷いた後、どうやら再び意識を失っていたらしい。気がついたら、目的地に着いていた。
一段落したら、病院に行こう。
*33*
MARIO SIDE
後部座席で眠るミミの姿をバックミラーで時折眺めながら、俺はF.Fiorentini弁護士事務所に向ってバンを走らせていた。
ミミの言ってたことは、7割方理解したはずだった。マッシモとディエゴは、誘拐監禁されている。で、ゴンザロは、その誘拐犯と共にいる。……この2センテンセズを繋げるための情報が不足しているので、あとの3割、一体どうしてそういうことになったのか、は俺には皆目見当がつかない。だが、ミミがそう言うんだから間違いはないんだろう。ミミはいつだって正しいのだから。
地図を確認しながら、交差点を右折した。弁護士事務所はもうすぐだ。
電話が鳴った。俺の携帯だ。多分チーロかマネージャーだろう。
「はい、マリオです。」
あ、いかん出てしまった。
「マ〜リ〜オ〜。」
チーロ怒ってる。当たり前か。
「チーロ。済まない。だが緊急事態なんだ。」
「緊急事態? 本番直前に出演者の80%以上が不在であること以上の緊急事態が俺には思いつかない。」
「そうだろうとも。だがこれは、その事態を上回る緊急事態なんだ。今から全部説明する。だから黙って聴いてくれ。」
俺は、この状況を詳しくチーロに説明した。誘拐、監禁。ディエゴが怪我をしているだろうことも。ミミがゴンザロに殴られて怪我をしていることも。俺のサングラスが便所に落ちたが無事だったことまでも。
「それ、本当か?」
黙って聴いていたチーロが言った。
「本当だ。俺とミミは、今からそのフィオレンチーニっていう弁護士事務所に乗り込む。……きっとうまくやるから、心配しないで待っていてくれ。」
俺は電話を切った。うまくやるから、の根拠は、ない。だが、ミミが「行く。」って言うんだから、俺に他の選択肢はないのだ。
それにしても、ミミは大丈夫だろうか。さっきから、ピクリともせずに寝ているんだが。
CIRO SIDE
マリオからの電話を切った僕は、大きく溜息をついた。
ミミも、マリオも、狂ってる。もちろんゴンザロもだ。誘拐? 監禁? 助けに行くって? 僕たちはミュージシャンだ。ヒーローじゃない。探偵でも警官でもない。犯罪者を相手にするには、ちょっと以上に役不足だ。それくらいのこと、なぜわからんかお前たちは!
僕はマネージャーを呼んだ。マリオから聞いた情報をそのまま伝えると、彼は青くなって飛んでいった。行く先は、もちろん警察だ。ミラノ警察には知り合いがいる、交通課のGiussani警部。以前僕たちのバンが駐車違反で捕まった時に便宜を図ってくれた人だ。つまり、NPCのファンってこと。
彼なら、きっと何とかしてくれる。間に合ってくれればいいのだが。……手後れになる前に。
*34*
MASSIMO SIDE
ディエゴ、待ってろ、すぐ助けに行く。だから、泣くんじゃない。泣くなら、俺の目の前で泣いてくれ。
俺は必死にベッドを引きずって、ドアの所まで行った。(途中で俺は、さっき自分で床に飛ばしたアレを踏んでしまい、滑って危うく転ぶところだった。)しかし、案の定、鍵がかかっている。再びベッドを引きずって、窓の所へ。鎧戸を開け、真っ暗な窓の向こうを凝視して……俺は呟いた。
「何だこりゃ?」
窓ガラスの向こうには、夜の景色がちゃんとあった。緑濃い住宅地、家の窓には所々明かりが灯っている。ただし――書き割り。手を伸ばせば届きそうなくらいの壁に、その景色がリアルに描かれている。
ゴンザロがいた時は、あの窓は本物の外界に通じていた。確かにゴンザロは窓から飛び降りていったし、俺がその窓から見た表も本物だった。風も吹いていた。
でも、ここは違う。ずっと同じ部屋にいたと思っていたのに、そうじゃなかったんだ。
枕を両手で握り締めて、ゴンザロがやったように、俺は窓ガラスを割った。砕け散るガラス。手を伸ばして、壁に触れてみる。巧妙にあの景色が描かれた漆喰の壁が、手に冷たかった。
横を見ると、漆喰の壁と木製の壁の間に、何とか人が1人横歩きできそうな隙間があって、それは左右に伸びていた。暗いのでよくわからないが、隣の部屋に続いているかもしれない。
窓枠に残っているガラスの断片をもぎ取り、俺は首に突き立てた。死のうってわけじゃない。この忌々しい革の首輪を切ることができないかと思って。今まで鎖を切ることしか考えてなかったが、鎖より革の方が切れやすいのは、冷静な頭でもってみれば当然のこと。一度では切れなかったが、何度かガラスの破片で革を引っ掻いているうちに、だんだんと切れてきた。そして、俺の首の皮膚も所々切れた。血が胸の辺りまで滴ってくる。最後に、首輪に両手をかけて、思い切り引き――踏ん張りすぎて頭の血管が切れそうだ――千切った。ゴトリ、と重い音を立てて、首輪が床に落ちる。
これで、このベッドともおさらばだ。
身軽になった俺は、手錠も外したかったがそれはちょっと無理そうだったので諦めて、シーツを腰に纏うと、枕を持って壁と壁の隙間に潜り込んだ。
この時、ガラスの破片を踏んで足の裏が切れた。それから、やっぱりこの隙間は俺には狭かったようで、腹と背中を擦った。シーツを腰に巻いていなければ、尻とナニまで擦るところだったぜ……危ない危ない。
枕を持った手を上に挙げ、俺はディエゴの泣き声がする方へと、カニのように進んでいった。
GONZALO SIDE
今、俺はあの教会の奥の部屋にいる。服を貸してもらったあの部屋。妙に生活感のある、言っちゃ悪いけど、小汚い部屋に。
小さな食卓を挟んで向かい合い、俺と神父さんはまずいコーヒーを啜りながら、お互い何と切り出していいかわからずに、二人して視線をテーブルに落としていた。でも、俺はこんな所でゆっくりしているわけには行かないんだ。さっさとディエゴを助け出して、マッちゃんの救出に赴かなくちゃいけないんだから。
「……神父さん。」
俺は思い切って顔を上げ、口を開いた。でも、それから後に何て言ったらいいかは考えてない。
「サバティーニだ。ジャンカルロ・サバティーニ。」
「俺、ゴンザロ・カラヴァーノ。」
今更自己紹介し合うなんて変なの。
「知ってるよ。」
神父さんは微笑みながら何度も頷いた。
「そういうことはわかってる、全部。」
流石は神父さん。神のお告げってやつで知ったのかな?
「わからないことが君たちに関しては四つだけ、ある。」
俺はちょっと驚いた。神父さんにもわからないことがあるなんて。だけど、四つしかないなんて、やっぱりすごいなあ。俺なんかわからないことが多すぎて、聞くに聞けないってのに。まるでリチェオの物理の授業みたいに。
「教えてくれるかな、どうしてだか。」
「……俺が答えられることなら。」
神父さんが知らないのに、俺が知ってることなんかあるのか?
「まず第一に、なぜ君はここに戻ってきたんだ?」
それは答えられる。
「えーっと、マッちゃんを助けにきたんだけど、ここまで辿り着いたら連れ攫われるディエゴを見かけて、それであの家が怪しかったんで、悪いとは思ったけど忍び込んで――え、戻って、って?」
俺、あの家に行ったの、初めてのはずだけど?
「逃げ出した場所を覚えてたんじゃなかったのか?」
意外そうに神父さんが言う。俺は、それ以上に意外。覚えてなかったんです、はい。俺、みんなが言うほど利口じゃないんで。
「ディエゴ追ってただけだったんだけど……。じゃあ、あの家にマッちゃんもいるんですか?」
「ああ、マッシモもディエゴもあそこにいる。」
それなら早速助けに行かなきゃ。神父さんとの話が終わったら。
「二つ目は?」
俺は早くマッちゃんを助け出したくて、ついでにディエゴもだな、神父さんの話を促した。
「なぜミミのことを?」
叩いたことか。フライパンで。
「……ミミだとは思わなかったんで……神父さんが悪者に脅されてたから、助けなきゃ、って思って。」
「で、彼は?」
「マリオに預けてきました。たまたまいたから。今、病院行ってるんじゃないですかね。それが三つ目?」
神父さんが頷く。あと一つ。
「四つ目の質問は?」
「なぜディエゴがここに来て、ミミが面接に来たか。」
「は?」
チンプンカンプンだ。とても俺には答えられない。面接? 謎は深まるばかり。ただ一つ俺に言えることは、その質問は一つじゃなくて二つだってこと。
「済みません、俺にもわかりません。」
そう謝る俺に、神父さんは二杯目のコーヒーをくれた。
「……謝るのは私の方だ。」
席に戻ってから、彼は俺の腕に手を乗せてきた。あのー、何で顔赤くしてんスか〜?
「何で神父さんが俺に?」
「私を赦してくれたのか?」
話がさっぱり……。俺が神父さんの何を赦すって?
「もしかして、君はまだ……?」
まだ、何?
「だからか……。だから私を……なるほど。」
ちょっと、神父さん、勝手に納得しないでくれよ〜。
俺は、話を早く終わらせたいし、この何だかよくわからない状況もはっきりさせたかったので、神父さんに聞いた。
「全部、説明してくれますか?」
それから二時間、俺は神父さんの告解を延々と聞かされた。フィオレンティーニ弁護士と彼が幼馴染みであること、弁護士が「青ひげの女王様」であること(君も知ってるかもしれないが、って、俺そんな人知らないよ)、この教会に弁護士が多額の寄付をしていて、神父さんは弁護士に頭が上がらないこと、神父さんを手足のように使うために、教会を隠れ蓑にするために、弁護士はこの教会に他の神父を赴任させないでいること、弁護士がマッちゃんのファンであること(趣味はいいらしい)、神父さんは俺のファンであること(だから俺のこと助けてくれたんだって)、弁護士が計画を立てて神父さんが俺たちを攫ったこと(俺たちがミミとマリオの情事を覗きに行っている間に、ローションに薬混ぜたって……俺たち体大丈夫かなあ?)、俺たちをホテルから連れ出す時に俺のことをベランダに何回か落としたこと(道理でやけに体痛いや)、俺が逃げた後で神父さんは弁護士にさんざん怒られて、窓を直したりしたこと(俺のせいで、ごめんなさい)、ディエゴが突然教会にやって来て、棚からボタモチと思った神父さんはディエゴを俺の穴埋めとして連れていったこと、ミミが「青ひげの女王様」の奴隷の面接に来て、連れていこうとしたらバックを取られたこと(俺、それ聞いて、ちょっと勘違いした)……などなど。俺は仰天しっぱなしで、謝り続ける神父さんに腹を立てるゆとりさえなかった。
で、今、俺と神父さんは、フィオレンティーニさんちの地下室にいる。俺の首輪を取ってくれるって神父さんが言うから。
「私はこういうのが趣味でね。」
俺の首に首輪をつけたのも、マッちゃんの首に首輪をつけたのも、鎖とベッドを溶接したのも、神父さんの趣味?
「フェデリコの趣味よりはいいだろう?」
そんなこと、俺に聞かないでよ。俺、何て答えていいかわからない……。黙っていた方がいいかな。
工房のような一室で、俺に背中を向けていた神父さんが振り向く。手には仰々しい“機械”。チュイーン……って、それでこれ切るの? そのチェーンソウみたいなので? 俺、死ぬかも。
たじろぐ俺を診療台のようなベッドに寝かせ、神父さんが優しく言う。
「大丈夫だよ、傷一つつけないから……君が動かなければね。」
動くって。マジ恐い。俺、神父さんのこと信じてるけど、本能的に動いちゃうってば。
「ちょっと熱いかもしれないな。普通は薬で眠らせてから嵌めるなり切るなりするんだけど。」
“普通は”? こんなこと何度もやってるの? それ、まずいよ、人として。
神父さんは俺の首と首輪の間に硬い布のようなものを通して、俺の胸と顔にも布をかけた。
「これで熱くないはずだ。」
はず、じゃやだなあ。熱くなかったにしても、首が切れるのは、もっと嫌だ。俺、こんな恐怖は初めてかもしれない。両手で台を握り締める。脚が震えてる。ああ、ちびりそう……。
「神父さん!」
チュイーン音よりも大きな声で俺は言った。
「俺を薬で眠らせてからにしてくれませんか?!」
音がやんだ。顔にかかった布が退かされる。神父さんの困ったような微笑。
「……君が眠っている間に、私は君に何かしてしまうかもしれない。それでもいいのかい?」
「いいです!」
あんまりよくないけど。俺の知らない間に俺の身に何かあっても、俺が知ってる間に何かあるよりはずっとマシだ。
神父さんは泣きそうになっている俺にハンカチをくれた。泣きそうになってる、どころじゃなくて、もう目尻に涙が浮かんでる。……いい人……優しくって……。でも、このハンカチ、湿ってるんだけど……?
「それを口に当てて深呼吸して。」
……いい人は薬を染み込ませたハンカチをポケットに常備してないよな……。
ハンカチを口に当てて深呼吸をして、十からカウントダウンしたところまでは覚えている。それからふっつり意識がなくて、気がついたら俺は工房の診療台の上で、首輪もなく、体中の傷の手当てもしてあって、服もちゃんと着てて……神父さんの姿はなかった。シャツの胸ポケットに一枚のメモ。この家の見取り図を走り描きしたもの――でも、ちゃんとマッちゃんとディエゴの居場所はわかった。
「神に誓って、君にいかがわしい行為はしていない。私は警察に自首することにした。フェデリコには逆らえないので、マッシモとディエゴを助けることまではできないが、君になら彼らを助けられるだろう。本当に申し訳ないことをした。もう君と会うことはないだろう。私が罪人であっても、君は、私が君のファンでいることを許してくれるだろうか?」
許してくれるだろうか、って、俺が許さなくっても、ファンは勝手にファンなんじゃないか? 別にそんなことどうだっていい。俺はマッちゃんを助けに行って、見直してもらって、ちょっとは好きなってもらって、ついでにディエゴを助けて、俺の株を上げるんだ!
俺は工具の山の中からバールのようなものを選び出して、それを右手でぎゅっと握った。フライパンよりはずっと武器らしい。
さて、目指すはまずマッちゃんのいる部屋。廊下に出て、奥から二番目の部屋。
待ってて、マッちゃん、もうすぐ助けに行くからね!
*35*
MARIO SIDE
俺はバンを走らせ、目的の弁護士事務所に急いだ。
ミミは、まだ後部座席で寝息を立てている。……ミミが眠っているうちに全てを片付けてしまいたい。俺だって、たまにはミミの役に立ちたいと思うから。
もちろんミミだけのためじゃないけどさ。一応ゴンザロもディエゴもマッシモも心配だし。でも主に、ミミのために。
程なく俺はフィオレンティーニ弁護士事務所に到着した。
ドアの前で、深呼吸をひとつ。
さぁ、行くぞ!
MASSIMO SIDE
俺は、ディエゴの声がする方に向かってカニのように進んでいった。
通路は狭い。腹を引っ込めて進まないとつかえてしまう。……腹を引っ込めてさえ、肋骨の一番出っ張ったところが挟まり気味で苦しい。
だが、行かねばなるまい。俺の可愛いディエゴが泣いているんだから。
腹を引っ込めて、一気に体を進めた。いいぞ、50センチは一気に進んだ。ディエゴのいる部屋が見えて来た。よし、あと1メートルで通路の端に手が届く。俺は、更に腹を引っ込めて、体に巻きつけたシーツがよれてかさばらないようにタイトに体に巻きつけ直し、また1歩体を進めた。
進めた……とりあえず1歩は。が、その先が進めない。通路は、段々狭くなっていたようだ。無理に体を押し進めても、もう10センチたりとも前には進めない。……これは……戻るしかない。
ディエゴ、済まん。別のところから助けに行くから待っててくれ。
俺は、来た道を引き返そうと体を捩った。……進めなかった。戻ろうにも、壁と壁の間に挟まった体はピクリとも動かない。
どういうことだ? 来る時は楽勝(嘘)だったのに。戻れないなんて、そんなのありか?
俺は通路の壁と壁の間でもがいた。しかし、状況は改善されなかった。
……これは、ゆゆしき自体じゃないだろうか。いわゆる、レスキュー隊出動、っていうような……。
俺は、しばらくそのままじっとしていた。引っ込めたままの腹が苦しい。そして暑い。
そのうち足も痺れてきて……。だめだ、このままじゃ、俺、死ぬ。ディエゴを助ける前に俺が御陀仏だ。何とかしなくっちゃ。
俺は覚悟を決めて、無理やりな深呼吸を1つした。そして叫んだ。
「ディエゴー!! 助けてくれー!!」
*36*
MIMI SIDE
ああ、ここがフィオレンティーニ弁護士事務所の表玄関なのか……。俺、裏口しか知らなかったからなあ。あれが例の看板だな。実に大したもんだ。
俺はぼんやりした頭でそんなことを考えながら、窓の外を薄目で眺めていた。後頭部はガンガンしてるし、少し吐き気もする。
マリオがドアの前にいる……何してんだろ、あいつ。もしや……!
慌てて俺は跳ね起きて、バンから飛び降りた。マリオに駆け寄り、背中に抱きつく。
「待て、マリオ!」
片足を上げていたマリオは、今にもドアを蹴破りそうだったが、俺が抱きついた勢いでその足を地面に下ろした。
「……どうした、ミミ? 俺がいなくて寂しかったのか?」
…………バカか、こいつは? と、思った俺もバカかもしれない。マリオがちょっとバカだってことは、俺も承知しているのに。
「寂しいわけあるか!」
そう叫んだら、頭がぐわんぐわんした。そこで、声を落とす。
「お前、何考えてんだよ? ドア蹴破って殴り込むつもりだったのか?」
「他に……どうしろと?」
「裏からこっそり入って、みんなを助け出すに決まってるだろ。正面から殴り込んだって、家の中を知らない俺たちには不利だ。確固たる証拠を掴んだわけじゃないんだから、家宅侵入罪で訴えられるかもしれないぞ。」
マリオの背にしがみついたまま、俺は言った。まだ何とか頭は回っている。でも、足が背筋が、何となく痺れている。……俺、かなりヤバい感じ……。
「ミミ……お前、震えてる? 恐いのかい?」
恐いんじゃなくて、具合悪いんだってばよお!
俺は泣きたくなった。マリオって、こんなにバカだったか? バカだったかも。頭が痛くて、もう何も考えたくないし、動きたくもない。でも、マリオは当てにならないらしい。俺が何とかしなくちゃ……何とか……。
その時、俺は大変なことに気づいた。ここは表通りだ。人通りも多い。そして、マリオは帽子とサングラスで顔を隠しているものの、俺は無防備だ。今は顔をマリオの肩に埋めているから、まだいいけれど。いや、あまり良くない。俺たちは注目の的になっていた。天下の往来で縋りついてる俺、縋りつかれているマリオ。普通の男同士のスキンシップにしては妙な雰囲気。
俺はこの状況下でどうしたらいいかわからなかった。今、俺がマリオから離れたら、俺の顔は白日の下に曝され、俺がNPCのミミだということが通行人にバレてしまう。そうしたら、どうしたってマリオがマリオであることもバレる。かと言って、このまま抱きついているのも、あまりにも“ホモの痴話喧嘩”的すぎる。まるで俺がマリオに捨てられかけているみたいだ。冗談じゃない。
そうこうしているうちに、通行人は通行しなくなってきてしまった。俺たちの周りに、来ては立ち止まって、そのまんま。俺たちを取り囲む人垣に、マリオも気づいてる……気づいてなかったらマジでこいつバカだ。
「これ……何で?」
小声で、振り返らずにマリオが聞く。
「シッ……声聞かれたら俺たちの身元がバレる。」
俺も小声で返す。特に俺たち2人は声に特徴ありすぎだ。
どうしたらいいんだ、この状況?!
ゴシップ誌の見開きが頭に浮かんだ。俺とマリオの写真。タイトルは「仕事をすっぽかして白昼の抱擁〜女王様の家の前で」。
ダメだ! ダメすぎ!! ……ああ……気が遠退いてく……こんな時に……。
ジリリリリリ!
その音に俺は意識を取り戻した。マリオが……事もあろうか弁護士事務所のドアベルを押してる。何考えてんだよ、マジで?!
ドアを開けたのは、初老の紳士。神父ではない。俺はマリオの肩越しにそれを確認した。彼が青ひげの女王様だろうか?
マリオが普段よりかなり高めの声で、紳士に向かって口を開いた。
「済みませんが、急に連れの具合が悪くなりまして。休ませてもらえませんか?」
俺たちの後ろからの視線に気づいてか、紳士はにこやかに微笑んでドアを大きく開けた。
「どうぞどうぞ。」
そして俺はマリオに隠れたまま、マリオに引き摺られて事務所の中に入っていった。
俺がそっと後ろ手にドアを閉めた瞬間、マリオは機敏な動きで紳士を床に組み伏せた。体を足で押さえておきながら、空いた手でポケットからバンダナを出し、素早く猿轡を噛ませる。俺はドアに凭れて、その一連の動作を見ていた。それは、あまりにも見事だった。まるで訓練された軍人のようで……やたらと格好いい。惚れ直しちまった。
「どう? こうすりゃいいわけだろ?」
紳士のベルトを鮮やかな手並みで外し、それを使って両手を縛り上げ、マリオは俺の方を振り向いて得意げに笑った。今、俺がクラクラしているのは、頭の怪我のせいなんだろうか、マリオの魅力のせいなんだろうか。それを悟られまいと、俺は必死になった。
「ああ、大したもんだ。……で、これは誰なんだ?」
「お前の言う神父じゃないよな?」
俺は頷いた。うわ、頷くと最高に頭痛い。もう頷かないぞ。
「じゃあ、これがフィオレンティーニ弁護士だ。」
「……間違いなく、弁護士なのか、これ?」
「多分ね。」
マリオのお蔭で窮地を脱した俺たちは、弁護士(だと思われる男)を書庫のような部屋に閉じ込めて、他の部屋の捜索を開始した。……それにしても、人気ない家だな……。
DEIGO SIDE
僕はまだ泣いてた。きっと目が腫れぼったくて、すごい顔になってると思う。でも、いいんだ。ここには誰もいないし。
その時、ガラスの割れる音がした。マッシモがいるはずの部屋の方から。マッシモに何か悪いことが起こってなきゃいいけど……。今のこの状況でも、かなり“悪い”んだもん。
窓の方で、何か変な音がする。時々、ベキとかパキとか言ってる。それから苦しそうな唸り声。
すごく気持ち悪かった。何? 何なの? 恐いよう……。
その音は、少しずつ少しずつ、こっちに近づいてくる。僕は泣くのをやめた。すっごく恐くて、悲しかったことなんか忘れちゃえるくらい。
何か恐いもんが窓から「ガーッ!」って襲ってきたらやだなあ。僕、繋がれたまんまだから、逃げらんなくて、すぐ殺されちゃう。……あ、血みどろの僕も結構いいかもしんない。僕としてはやだけどね、そんなの。でも、ファンの女の子たちは、鮮血に塗れて死んでる僕が超綺麗だから、失神しちゃうだろうな。
どんなに危機的な時にでも、いろんなことを考えられるのって、僕の特技。考えたことが役に立てば、チーロも何も言わないんだけど、実際はそうじゃないから、いつも「ほらまたボケーっとして!」って怒られちゃう。だけどね、ボケーってしてる時の僕って、可愛いんだよ。マッシモがそう言ってた。えとね、すごく無防備で放っとけなくて守ってやりたくなるんだって。んふ。僕もね、マッシモが守ってくれるって思ってるから、何かあった時は助けてくれるって信じてるから、そうやって可愛くいられるんだ。女の子たちの前では格好いくいなきゃいけないから、ちょっとめんどい。僕、大体は格好いいんだけどさ、どっちかって言うと、可愛いタイプだからあ。
そして僕は、ふと、マッシモがゴンザロに取られちゃったことを思い出した……んだけど、それと全く同じ瞬間に、マッシモの声が聞こえた。
「ディエゴー!! 助けてくれー!!」
はい?
僕はしばらくその言葉を頭の中でぐるぐる回してみた。僕の名前+助けてくれ。僕の名前+を+助けてくれ、じゃなくて? マッシモが僕に助けを求めてるってことかな? んな、まさかあ。僕は、マッシモに助けてもらう立場なんだよ? 僕がマッシモを助けられるはずないじゃん。
ちょっと待って……マッシモがそう言ったってことは、マッシモは僕がここにいること知ってるってことだよね? やったあ、僕、マッシモに助けてもらえるかも!
……あれ、助けてって言ってるのはマッシモの方で、僕もマッシモに助けてもらいたくって……ってことは、どっちも助けてもらいたがってるわけだから、どっちも助けてくれないってことで……ダメじゃ〜ん!
「ディエゴ! そこにいるんだろ?! 助けてくれ!!」
も1回、マッシモが叫んだ。
「いるよ。でも、助けてあげらんないんだ、ゴメンね。」
「なぬ〜?」
「僕、鎖で繋がれてて動けないの。君はどこにいるの?」
「窓の外っつーか中。壁と壁の間。」
……それって……どこ? 四次元空間か何か?
「じゃあ、こっち来て、僕の首輪外してよ。そしたら助けてあげられると思う。」
「うがー!」
マッシモ、怒ってる。何で怒るの?
「壁の間に挟まっちまって動けねえんだよ! だから、助けてくれっつってんの!!」
ありゃりゃ。お腹が挟まってんだね。僕が何度も「ダイエットした方がいいんじゃない?」って言ったのに、無視したからだよ。僕のせいじゃないからね。
僕はしばらく黙ってた。マッシモの怒りが治まるまで。
「……お前、どういう風に繋がれてる?」
早々に穏やかになったマッシモの声が僕に尋ねる。普段もこのくらいさっさと怒りやめてくれるといいんだけどね。
「んとね、首に鉄の首輪がついてて、それが床にくっついてんの。」
「床に杭みてえのが打ってあって、そこに短い鎖で繋がれてんのか?」
「そう。君んとこから僕見えるの?」
「いんや。ゴンザロがそうやって繋がれてたからな。」
ゴンザロがいたんだ! やっぱり! でも、僕は怒らない。穏やかな性格だから。ちょっとムカついてるだけ。
「ゴンザロはどうしたの? もうそこにはいないの?」
「逃げた。」
「どうやって?」
「あーっとな、首をゲシゲシ振って、杭を抜いて、窓割って、飛び降りた。」
「じゃ何で君は一緒に逃げなかったの?」
「俺、ベッドつきだったから。」
わっかんなーい!
……全部わからなくてもいいか。ゴンザロのパワーだったら、首を振るだけで杭が抜けるってことはわかった。僕のパワーじゃ無理だよなあ。色男はお金と力ないから。今月もCD買いすぎちゃったな、僕。
「お前、杭抜けないか?」
「さっき頑張ってみたけど、ダメだった。」
「上に引っ張るだけじゃ無理だぞ。斜めに押さえつけるようにして、周りの石を割りながらだな――」
「やってみる。」
何でマッシモはそんなことまで知ってんだろ? 僕が上にしか引っ張らなかったことまで。
で、僕は両手で杭を握って、倒すようにしながら、ぐりぐり回してみた。僕の力でも、石はぺきぺき割れた。そんでもって、案外簡単に杭は抜けた。こうやればいいなら、こうやんだぞって、やり方早く教えてほしかったよなーって感じ。
「抜けたよお!」
僕はそう叫んで、立ち上がった。ちょっと足がふらふらする。すっかり忘れてた靴擦れが痛い。
「窓んとこ来い!」
「はいはい、窓ね。」
鎖と杭をぶら下げたまま、僕は窓のとこに行った。手前っ側に鎧戸があったんだあ。わかんなかったなあ。
「鎧戸は開くだろ?」
何の問題もなく、開いた。
「窓は開けられねえようになってっから、枕使ってガラス割れ。」
ベッドの上から枕を取ってきて、窓ガラスに叩きつけた。でも、割れない。
「割れないよお!」
「枕をグローブにして殴るんだ。」
言われた通り、やってみた。ちょっと手が痛かったけど、何とかガラスが割れた。
「割れたよお!」
「わかってる。窓枠に残ってるガラス、外しておけよ。」
手を切らないように、僕は細心の注意を払いながら、窓枠からガラスの破片を取り除いた。
窓の外は、よくある夜景だった。家があって、窓に明かりが灯ってて、木が所々に立ってて、空には星が綺麗だ。
「ねえ、マッシモ、オリオン座が見えるよ。オリオンってウエストのくびれがセクシーだよね。」
「何言ってんだよ、バカ。」
バカ? そりゃマッシモはウエストくびれてないだけじゃなくてでっぱってるけど、「バカ」はないんじゃないかな? どう?
「よく見ろよ。それ、絵だぜ。」
確かに絵だった。手を伸ばしたら、すぐそこに壁があって、そこに絵が描かれてる。……ここが、壁と壁の間? で、マッシモは? 僕は窓枠から首を突き出して、左右を見た。
……いた。左の方にマッシモが。腰にシーツを巻きつけて、両手を挙げて、手に枕を持ってて、手には手錠がついてて――壁と壁の間にばっちり挟まっていた。
「よ、久し振り。」
マッシモは顔だけ僕の方に向けて、照れ臭そうに笑った。
「ハイ。」
僕も笑って、マッシモに手を振った。
「……ちっとばかし助けてくれるとありがてえんだけどよ。」
「どうすればいいの? 僕にもできる?」
「シーツ巻いてこっち来て、俺の体、向こうっ側に押してくれ。」
それは、とっても簡単そうだった。
「うん、わかった。」
僕はベッドからシーツを取って体に巻きつけると、ガラスの破片を踏まないように窓枠の外に出て、カニみたいに横歩きでマッシモの方に向かっていった。
ううん、向かっていこうと思って、一歩横に進んで……そこで僕は挟まった。主に顔が。
*37*
GONZALO SIDE
俺はバールを握り締めて進んでいた。左右に十分注意を払いながら。長い廊下は、左右にたくさんの扉があるから、どこからフィオレンティーニやその他暴漢強盗の類が現れても対応できるようにしておかなくちゃいけない。
あ、そうだ、俺が拾ったバールのようなもの、は、やっぱりバールだと思う。ちゃんと先っぽが先割れしてるし。
暗い廊下をしばらく進むと、突き当たりだった。てことは、ここから二つ戻った部屋がマッちゃんのいる場所だ。
俺は、用心しながら目的の扉の前に忍び寄った。耳を当てて中の様子を伺ってみる。……音はしない。そっとドアノブを回す……カギが掛かっている。俺は、バールでドアノブを殴りつけた。ノブは、一撃で壊れた。ゆっくりと扉を開ける。
薄暗い部屋。ベッドが1つ、部屋の中央に斜めに置かれている。正面の窓は、割られている。窓の向こうには、何か絵のようなものが描かれている。……人はいない。
俺は、ドアの陰に注意しながら内開きのドアをゆっくりと押した。よくあるじゃないか。誰かが入ってくるのをドアの陰で待ってて、入ってきた瞬間に頭を一撃、とか、ナイフでグサリ、とか。そういう悲しい展開は絶対に嫌だったから、俺は部屋に入るなり一歩後ろに飛びのいた。……何も起きなかった。俺は改めて部屋に足を踏み入れた。
部屋はガランとして、人の気配はない。マッちゃんの姿もない。身を隠せるようなスペースもない。
俺は落胆した。あの神父、嘘を教えやがったのか?……いや、あの人の改心は本物に見えた……ってことは、フィオレンティーニがマッちゃんをどこかに移しのか?
俺は、ベッドに歩み寄った。そして、ベッドの足に巻きついた鎖と、その先の……切り取られた皮の首輪。これは、マッちゃんのだ。てことは、もうマッちゃんは脱出したってことか? 俺の助けを待たずに、一人で逃げ出せたってことだろうか。
俺は、部屋を出た。そっとドアを閉め、壊してしまったドアノブを無理やり元の位置に押し込んだ。触ればすぐわかるだろうけど、ちょっと目には壊れてるとはわからないだろう。
それにしてもマッちゃんはどこに行ったのだろう。まだこの屋敷にいるんだろうか……それとも、もう逃げてしまった?
もう逃げちゃったなら徒労かもしれないけど、また捕まってるかもしれないから、この際、部屋を一つ一つ調べていくか。ディエゴもいるはずだし。
俺は、隣の部屋のドアノブに手をかけた。やはりカギが締まっている。またバールにご活躍願って、同じように用心しながら室内に足を踏み入れた。何もない殺風景な部屋。俺は注意不覚部屋の中を見回した。
窓は割られている。そして……。床に穴を見つけた。砕けたコンクリ。細くて深い穴。……これは……杭が刺さっていた跡だ。誰かが、俺と同じ方法で杭を引き抜いてここから脱出したんだ。誰か……って言ったら、やっぱりディエゴだろうなあ。
……てことは、マッちゃんは、ディエゴを助けて二人で脱出したってこと? それとも、ディエゴがマッちゃんを助けて?
いずれにせよ、それじゃ俺の出番ないじゃない。そりゃないよマッちゃん。
俺は、肩を落として部屋を出た。後ろで、カサコソ音がしたような気がしたが、きっとネズミだろう。ここ屋敷の衛生状態はあまりよろしくないからなぁ。
*38*
MASSIMO SIDE WITH DIEGO
ずっと暗がりの中にいた俺は、闇に目が慣れ切ってしまっていた。やけに嬉しそうなディエゴの表情も、よくわかる。顔が挟まってるってえのに。
こいつに期待してた俺は、自分で自分を責めた。所詮ディエゴにゃ無理なんだよ……音楽以外のことで、奴が俺を助けてくれる、なんて。ま、一人ぽっちじゃなくなっただけ、いいか。
俺のいた部屋からディエゴのいた部屋に向かって、この隙間は段々と細くなってる。ってことは、ディエゴが今いる所は、今俺が挟まっている所よりだいぶ狭いはずだ。なのに、奴は顔しか挟まってねえ。それが無性に腹立たしい。俺は胸と腹がつっかえてんのによ。ついでに言えば、尻も。
斜め60度で俺の方を向いたディエゴは、バカみてえに手をバタつかせている。
「マッシモオ……。」
「……何だよ。」
「僕、挟まっちゃったあ……。」
嬉しそうだったのが、トホホな表情にじわじわと変わっていく。
「わかってる。」
俺は溜息をついた。そんなこと、言われなくたってわかってるっつーの。
「今、君……溜息ついた? 僕がちゃんとできなかったから? ゴメンね。」
……可愛い……。やっぱ、こいつ可愛いわ。うはー、たまんね。
「ディエゴ……気にすんな。お前は、お前にできる精一杯のことやったじゃねえか……俺のために。」
「うん、僕、頑張ったの。……でもね、ダメだったの……。顔と頭痛いよお……。」
トホホが、更に泣きべそに変わっていく。俺も泣きたい。でも、さっき散々泣いたし、ディエゴの前だから、もう泣かねえ。俺も男だ!……少なくともディエゴとデボラの前では。
「ほら、ディエゴ。」
と、俺は奴の方に手を伸ばした。落ち着きのない手をきゅっと握ってやる。
「大丈夫だ。心配すんな。」
根拠皆無だが、言ってみる。俺、完璧に足痺れてるし。多分、俺の足の裏からは血がドクドク流れてるだろうし。引っかかった腹だけで体勢保ってるようなもんだし。何一つとして大丈夫じゃねえよ、畜生。
「……だいじょぶだよね……君も、僕も……すぐこっから出られるよね?」
「ああ、すぐにゴンザロが助けに来てくれるさ。」
「……ゴンザロが……?」
無茶苦茶不安そうなディエゴの声。
「ゴンザロが。助けに。」
奴の不安を取り去ってやろうと、俺は確信を持った口調で繰り返した。
「ゴンザロはやだ。」
何だと?
その時、俺がいた部屋の方から破壊音が聞こえた。それから、ドアの蝶番が軋む音。誰かが部屋に入ってきたようだ。
俺とディエゴは咄嗟に口を噤んで、体を硬直させた。女王様だろうか? にしては、あのピンヒールの音は聞こえない。女王様が普通の靴でやって来たんだろうか? それとも、別の誰かか? ひょっとするとゴンザロが本当に助けに来てくれたのか? ……いや、まさかな。
しばらくして、再び蝶番が軋む音。出て行ったのか? そして、ディエゴがいた部屋の方からも、今と同じような音が。
その間、俺たちはじっとしていた。ディエゴが左右の足に交互に重心を移す以外は。
もしゴンザロが俺たちを助けに来てくれたんなら、俺の名前を呼ぶはずだ。部屋に俺がいなかったら、「マッちゃん?」って呼ぶはずだ。……はずだ……が、この部屋に俺がいるってこと、ゴンザロは知らないんだよな。俺、部屋移されちまったんだから。
そうこうしているうちに、両方の部屋から、そいつの気配は消えた。
「……マッシモ……。」
部屋の方に静寂が戻るなり、ディエゴが呟いた。真剣なトーンで。
「何だ?」
「君、ゴンザロとできちゃってんの?」
ヤバし! バレた。か?
「な、何言うんだ、突然……。」
「僕のこと嫌いになっちゃったの? で、ゴンザロと? ね、どうなの? ホントのこと言ってよ! マッシモ!!」
ディエゴは力一杯俺の手を引いた。
「うわっ!」
更にヤバし! 俺の体は、つっかえていた腹を中心にして、ぐりんと回った。胸と尻を思いっきり擦りながら。もう俺の足は床面についてない。
そしてディエゴは、と言うと、窮地を脱していた。顔にものすごい擦り傷はついていたが、奴のでかい顔は、最早、顔より広い場所に移動できていた。
「……抜けたあ!」
「……おめでとう……。」
斜めったまま、窮地が2倍になった俺は言った。でも、そのお蔭でディエゴは俺とゴンザロの話題を忘れてくれたようなので、窮地は半分以下になったと言っても過言ではあるまい。
短いキスを交わした後、ディエゴは俺の足元を無理矢理通りぬけ、俺の右側に来た。これでもう、奴はどこにも挟まらない。ただし、問題は俺だ。今や俺の体は、腹を中心に90度回転し、水平になっていた。それもこれも、ディエゴが移動しながら俺の足を押したからだ。そして、より狭い方へ潜り込まざるを得なくなった俺の上半身は、そこで申し分なく挟まっていた。もちろん、顔も、だ。
「マッシモォ、ドア開いてるよお。」
俺の足の裏辺りで、ディエゴが言った。俺は、返事できる状況じゃなかった。生きているのが精一杯だ。
「僕、助け呼んでくるね! 待っててね! 今度こそちゃんとやるからね!」
待ちたかなくても、待つしかねえだろ。
ディエゴのペタペタという足音が遠ざかっていき、俺は再び一人ぽっちになった。
DIEGO SIDE
廊下に出た僕は、足音を忍ばせて歩いていった。途中の部屋で、ガサゴソって音が聞こえたから、敵だろうなって思って、その部屋の前は特にこっそり歩いていった。
階段があったんで、それを昇った。昇り切ったとこに木のドアがあって、それを開けると、なあんとそこ、物置だった。怪し〜、この家。
物置のドアを開けると、明るい光。目がチカチカするう。だから僕は、シーツで顔を覆った。誰かと会った時に、擦り傷だらけの僕の顔、見せたくないしー。
シーツの隙間から周りを見ると、そこは誰かの家の廊下だった。やっぱ、お金持ちの家なんだな、廊下にフカフカのカーペットが敷いてあるんだもん。そんなら、部屋にもカーペット敷いてくれればいいのにね。そしたら、床に寝てても冷たくないし、背中やお尻が痛くもならないのに。
正面にある玄関のドアが開く気配がして、僕はすぐそこのキッチンに隠れた。人が入ってきたみたい。誘拐犯? 僕はこっそりそっちを見てみた。あれは……どう見たってマリオ! マリオだ〜!!
ここで嬉しくって叫んじゃって、他の誰か、例えば敵なんかに見つかっちゃうと、僕もマッシモもマリオもまずいから、僕は一所懸命口を閉じて、できるだけ足音を立てないように、でもできるだけ急いで、マリオの方に駆け寄った。
あ〜ん、マリオ〜! 助けて〜!!
って、心の中で叫びながら。……でも、そこで僕の意識は途絶えた。
MARIO SIDE
相変わらずミミは具合悪そうにしながら、俺の後ろについてきている。本当に大丈夫なんだろうか。
俺たちは1階の部屋をあらかた調べた後、2階の部屋を調べた。この家の中には、俺たちとあの弁護士らしき男しかいないのか? ゴンザロもいないし、神父とやらもいないし、マッシモもディエゴもいない。でも、ミミはここに絶対いる、と言い張っているんだから、奴ら、どっかにはいるんだろうなあ。
3階には上がれないことがわかった。2階から上に上がる階段も縄梯子もなかったからだ。きっと3階より上には、玄関の脇にあった階段で昇っていくんだろう。
念のため、俺はミミをリビングルームらしき部屋のソファに寝かせて(何も言わなかったから、よっぽど具合悪いんだな、ミミ)、一旦表に出てから、その階段を昇っていった。3階より上は、貸し事務所と貸し家だった。旧友の家を訪ねる男を装って、俺は全部の家と言うか部屋を覗いて回った。怪しい影は全然なし。知った顔も全然なし。
調査を終えた俺は、1階に戻った。玄関の鍵を締め、廊下の方を振り返った途端、信じられないものが俺の目に写った。廊下の先の方に、白い幽霊が! 乱れた髪がのっぺらぼうの真っ白い顔にかかっている。最初はミミの悪戯かとも思った。だが、ミミは具合が悪いし、髪もない。
幽霊は音もなく俺の方にすごい勢いで近づいてくる。恐え!
俺は目を閉じ、奴の腹の辺りに拳を放ち、続いて奴を投げ飛ばした。ああ、マーシャルアーツ習っといてよかった……。
……それにしても、幽霊って、こんなに殴ったり投げ飛ばしたりする実感あり? もっとスカスカなもんかと思ってた。
そう思いながら、俺はゆっくりと目を開いて、そして愕然とした。
そこには、幽霊ではなく、白いシーツを纏ったすっぽんぽんのディエゴが引っ繰り返って気絶していた。
……あちゃ〜……。
*39*
MIMI SIDE
唐突に向こうからディエゴが走ってきた。
俺が、「あ、ディエゴ」と言う間もなく、マリオがディエゴに殴りかかって投げ飛ばして蹴って打って失神させた。すばらしい手際だった。……相手がディエゴじゃなければ
の話だが。
得意げに服の埃を払い、マリオは、動かなくなったその物体(ディエゴ)にゆっくり近づくと、それを覆っているシーツに手をかけ、一気にそれを剥ぎ取った。出てきたのは、勿論ディエゴ。それを見たマリオが、小声で「あちゃ〜。」と呟いた。
……どうやら、誰だかわからずに投げ飛ばしたらしい。そりゃそうか。ディエゴと分かってたらやらないよな、いくらマリオでも。
……それにしても頭痛ぇ。どうにかして治らないかなあ、この頭痛……。
「ミミ。」
しばらく呆然とディエゴを見つめていたマリオが俺の方を振り返った。
「これ(ディエゴ)、どうしよう。」
マリオは、ちょっと足りない子供のような口調でそう言った。どうしようも何も。
「起こす。そして、マリオに殴られた以外に何があったのか尋ねる。そして、ゴンザロとマッシモの行方も。」
痛む頭を押さえながら俺なりに正しいと思うことを言う。だが、多分脳味噌は半分くらい麻痺しているので、俺の判断が本当に正しいかどうかはわからない……。
「そうだよな、やっぱり起こすよな。」
マリオは、そう言うと、おもむろにディエゴの肩を掴んで揺さぶり始めた。ディエゴの頭がガクンガクンと前後に揺れる。見てるだけで頭痛ぇよ。
「……ん……う、うーん……。」
しばらく頭を振っていると、ディエゴが目を覚ました。
「ディ、大丈夫か!?」
抱き起こしながらマリオが問う。
「うー、あー、あれ、マリオ?」
ぼんやりと目を開いて掠れた声でディエゴが言った。
「ああ、俺たちが来たからにはもう大丈夫だ。さぁ、教えてくれ。ゴンザロとマッシモはどこだ。でもって、何があったんだ、一体。でもってフィオレンティーニはどこにいる。」
失神から復活したばかりの人間に、そんなに立て続けに質問しない方がいいなじゃないだろうかと思うのだが、マリオの真剣な様子を見ていると、口を挟むのも悪い気がして俺は黙っていた。
案の定、ディエゴは、眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。
「どうした、ディエゴ。まだ具合悪いのか?」
俺は優しくディエゴに問うた。
ディエゴは、全く困りきった、といった顔で口を開いた。
「ミミ……マリオ……ここ、どこ?」
「どこってお前、お前たちが捕まってたフィオレンティーニ弁護士事務所だよ。」
マリオが言った。
「……捕まってた? フィオレン……何? 何それ、僕知らないよ?」
「はぁ? ……じゃマッシモとゴンザロの行方は?」
マリオが畳みかける。
「……マッシモ? マッシモがここにいるの? 僕、マッシモを探してるうちに迷子になっちゃって……あれ、それからどうしたんだっけ? 覚えてないや。」
「言わんこっちゃないぞマリオ。」
俺は溜息をついた。
「何がだ?」
「お前があんまりひどく投げ飛ばしたから、ショックで記憶が飛んでるんだよ。」
「何だと?!」
「え? ねえ、マッシモ見つかったの? 無事? ねえ、マッシモは?」
……とりあえず、俺たちは1/3の救出に成功した。無傷ではなかったけれど。
あとの2/3をどうすっかなあ……あったま痛ぇ。
CIRO SIDE
僕とマネージャーは、覆面パトカーに載っていた。パト、と言っても、この車両はバンだけど。
運転席に制服警官が1人。後部座席は、バスのように長いシートが向かい合わせになっている。片方のシートには、僕と、マネージャーと、ミラノ市警のジウッサーニ警部。
警部は、チャコールグレーのダブルのスーツの前をはだけて、怒った顔で一点を見つめながら、ネクタイ替りのスカーフの先っちょを弄んでいる。
そして、僕らの前のシートには……黒1色の上下を着て揃いのサングラスをかけた屈強な男たちが6人、盾とライフルを持って無表情に鎮座していた。
彼らが即ち、ミラノ警察の誇る「対テロ用スワット部隊」であることについては、僕はさっきからあまり考えないようにしていた。日ごろからネリペル・フリークを自称するジウッサーニ警部が、ファン専用魚眼レンズのついた目で事態を検討した結果、ミラノ警察の超エリート部隊が事に当たることになった……らしい。
でもこれ、いくらなんでも、やりすぎじゃないだろうか。大騒ぎにならなきゃいいけど。
*40*
DIEGO SIDE
すっごく頭と体が痛い。靴擦れしたのは覚えてる。でも、何で僕、こんなにあちこち痛いの? 顔とか。でもって、超疑問なんだけど、何で僕、首に鉄の首輪がついてて、裸なの? ねえ、どうして? いつ僕、脱いだ?
ここにいるのは、マリオとミミ。この2人の前で、どうして僕、裸なのお?
それに、ここ、どこ?
どっさり疑問があるけど、ちょっと聞けない雰囲気だった。ミミの顔、真っ青だし。マリオも無言。何があったんだろ? ああっ、また疑問だあ……。
とりあえず僕は、シーツを体に巻きつけた。別に僕、露出趣味ないからさ。
「お前、どっから現れたんだ?」
さっきはいろんなこと一遍に聞いて僕を混乱させてくれたマリオは、黙って質問を絞ってたのか、僕にそう聞いた。どっから? ……どっからだろ?
「んと……ちょっと待ってね……考えてみるから。」
「無駄だろ。」
きっぱりとミミが言った。口調はきっぱりだったけど、ミミは壁に凭れてぐったりしてた。
「お前こそ、どっからこいつが現れたか、知ってんだろ? 俺はリビングからこいつの姿見て出てきたけど、お前はここにいたんだろうが。……ああ……ダメだ、ソファに戻るぞ。」
ミミは壁伝いに1つの部屋に引っ込んだ。
「ミミ、具合悪いの?」
「ゴンザロにフライパンで後頭部殴られて、それでずっとあんな感じだ。」
マリオはとっても心配そうだった。僕も、ちょっと心配。あんなミミ、見たことないもん。……んなことないか。彼女に振られた後は、いっつもあんな感じかも。
……ちょっと待って。今、マリオ、何てった? ゴンザロ?
「ゴンザロがいたの? いるの? どこに? マッシモと一緒? 一緒じゃないよね?」
「この家にいたんだが、またいなくなっちまった。マッシモは見かけてない。」
僕は安心して溜息をついた。ゴンザロ、いなくてもいいよ。ゴンザロがマッシモと一緒じゃないんなら、もうどーでもいい。
「さて。」
マリオは廊下を奥の方にずんずん歩いていった。
「俺は最初、お前をこの辺で見た。何か覚えてないか?」
僕も立ち上がって、マリオの方に歩いていった。途中でミミが引っ込んだ部屋の中を覗いたら、ソファにうつ伏したミミが、頭抱えて唸ってた。大丈夫?
「んー……覚えてないや。」
廊下の突き当たりはキッチンだった。見覚え全然ない。僕、記憶をどこやっちゃったんだろ?
「……ミミ!」
マリオがいきなり叫んだ。
「……何だよ?」
リビングルームの方から声が帰ってくる。
「お前、物置の中いじったか?」
「いや。」
「どしたの?」
物置のドアを手で押さえているマリオの横に行って、僕は尋ねた。
「俺な、こん中、こうじゃなかったと思うんだよ。もう少し片付いてたような……。それに、俺、さっきここ調べた後、ドア、ちゃんと閉めたはずだったんだけど……。」
「開いてたの?」
「微妙にな。」
マリオは狭くて暗い物置の中に足を進めた。進めたって言っても、1歩でおしまい。マリオの後ろから、僕も物置の中を覗いてみた。掃除機とかバケツとかモップとかが両脇にぎっしり。やけにカビ臭い。
あ、鼻がムズムズするう……僕、埃とかカビ、平気なはずなんだけど……シーツだけだから風邪引いたかな?
「ヘ……ックシュッ!」
「おわあああああ!!」
僕……クシャミしただけだったんだけど……その勢いでマリオを突き飛ばしちゃって。マリオは叫び声を上げて、ドンガラガタゴトドデデデデデって音立てて……姿を消した。
MIMI SIDE
マリオの叫び声とものすごい音がした。何が起こったんだ? あと、ディエゴのクシャミ。あいつのクシャミはオーバーアクションだからなあ。
俺は仕方なく、ソファから起き上がった。あの2人に物事を任せていた方が悪かったんだ、と反省しながら。
それにしても、頭が痛い。できることなら、頭もぎ取って捨てちまいたいくらいだ。ふと後頭部に手をやったら、そこはやけに出っ張ってて、妙に熱かった。
誰でもいいから、早くこの事態を解決して、俺を病院に行かせてくれ!
廊下に顔を出すと、ディエゴがボケラーっと立っていた。マリオの姿は見えない。
「マリオは?」
ディエゴはゆっくりと俺の方を振り返って、呆然とした表情で言った。
「物置に入ったらね……転送されちゃったの。」
転送? どこへ? エンタープライズ号へか?
せっかく1/3を救出できたと思ったのに、また1人消えた……。マリオめ……どこまで俺に苦労かけさせるつもりなんだ、あいつは?
MASSIMO SIDE
俺は相変わらず挟まってる。挟まっていながらも、俺の体重と地球の重力のせいで、俺の体はじわりじわりと落下している。
そして俺は気づいた。上の方より下の方が狭い!
つまり俺は、刻一刻と更なる狭まりに嵌まり込んでいる、ってわけだ。段々、呼吸もできなくなってきてる。
俺の救助は時間との闘いだっつーのに、ディエゴの奴、何モタモタしてんだ?!
今、部屋の外ですっげー音したけど、まさかディエゴに何かあったんじゃねえだろうな?
GONZALO SIDE
地下にある全部の部屋を回ってみたけど、俺なりに慎重にじっくり探してみたけど、マッちゃんもディエゴも見つからなかった。俺が首輪取ってもらってる間に、弁護士が連れ去っちゃったのかなあ?
仕様がないんで、俺はバールを両手で構えたまま、1階に上がる階段に腰かけた。この家で一番お粗末なの、この階段だろうな。雰囲気はあるんだけど、木製。朽ちかけてる、っていう表現がぴったり。神父さんと一緒にここに降りてきた時、俺、危うく階段壊しそうになったもんな。
緊張しっ放しだった俺は、そこに座ってぼんやりしていた。だって、これからどうしたらいいか思いつかなかったし。こうしている間にも、マッちゃんは危機一髪って言うか、もろ危機なのかも。ついでにディエゴも。やっぱり初めっから警察行くべきだったんだよな。
2階で、違う、1階で、人の声が聞こえた。誰だ? クシャミ?
そして叫び声と共に何か大きなものが降ってきて、俺は逃げる間もなくその下敷きになって……意識を失った。
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