「それいけパパラッチ」

*1*
 ゴンザロは、唐突に目を覚ました。背中が痛かった。
 ふと周りを見回すと、石作りの壁に囲まれた部屋。ベッドは……遥か右手にあり、手を伸ばしても届きはしない。そして真鍮のフレームのシングルベッドからは、彼のではないイビキが聞こえてきた。
「……マッシモ……?」
 ゴンザロは、仰向けに寝転がったまま首だけ寝台の方に向けた。
“何で俺は床に寝ているんだろう。”


*2*
 マッシモは、ゆっくりと覚醒した。夕べ声を出しすぎたせいか、多少喉が痛い。咳払いをしてから、毛布の中で大きく伸びをする。
 適度に効いた空調、汗を吸った上にだいぶ皺くちゃになったものの未だ糊の残るシーツ。なかなかいい目覚めだ。
 煙草を取ろうと手を伸ばして、ここが自分の部屋ではないことを、寝起きの頭でやっと思い出す。
“どこだっけ、煙草……。”
 手を伸ばして辺りを探った。何とか煙草の箱とライターを見つけ、今日の第一服目。これがないと、彼の朝は始まらない。
 枕に頭を落ち着けたまま、唇に煙草を咥えたまま、彼は灰皿を探すべく、もう一度周囲を手で探った。
“……あれ? そう言やゴンザロは……? 便所?”
 おもむろに上体を起こし、マッシモは薄明かりの中、まだぼんやりとしている目を凝らした。
「……ゴンザロ……?」


*3*
「おはよう、マッちゃん。」
 ゴンザロが、首を横に捻ったまま言った。
「おはようさん……お前、どうして床に寝てるの? 俺、寝相悪かった? もしかして蹴ったか?」
「……寝相が悪いのはいつものことでしょ。でも、今回ちょっと状況違うみたい……マッシモ、動ける?」
「何言ってんだよ。動けるさ。」
「首に鎖ついてっけど?」
「何!?」
 マッシモは首に手をやった。革の感触。マッシモの首には、知らぬ間に太い黒革の首輪が装着されていた。そして首輪から伸びた太い鎖は……パイプベッドの足に巻き付いている。
「何だよこれ……。」
「だから鎖だよ。」
 ゴンザロは、相変わらず寝そべって首だけこっちを向いて話している。
「ああでも、そっちの鎖、余裕があっていいね。俺なんて、こうだからさ。それにしても、一体ここどこなんだろう。」
 見れば、ゴンザロの首には鉄の首輪が嵌まっており、それは5センチあるかないかの短い鎖で床に打たれた杭に繋がっていた。
「ゴン……こりゃただことじゃないぞ。」
「おっしゃる通りです。」
「夕べ……俺達一緒に寝たよな?」
「寝た。」
「ミラノのホテルのお前とミミの部屋だったよな?」
「そう。アニキがマリオんとこ行くって言うんで、あなた呼んで、その、ナニを致して、ワイン飲んで、それから何故か二人でマリオの部屋覗きに行って、お二人が背面座位でなさってるところをデバガメして、部屋に帰ってもいっかいして、シャワーも浴びずに寝入ったはずです。」
「で?」
「気がついたら俺、床に張り付いてた。」
 マッシモは、ゆっくりとタバコの煙を吸い込んだ。
「不可解だなあ……。」
「そんな、呑気な。」
 ゴンザロが言った。


*4*
「ま、こんなもん外しちまえばいいだけだろ? どこのどいつの仕業だかわかんねえけどよ。」
 もう一度、手を首にやり、マッシモは革の首輪をぐるりと一周なぞった。どこかにバックルがあるはず……。
「……マジかよ、おい……。」
 バックルらしきものはどこにもなかった。打たれたビスに鎖がつながっているのと、一筋の縫い目があるだけ。
 マッシモは煙草を真鍮のパイプに押しつけて消し、それを床に投げ捨てた。両手を使って、更にもう一度、首輪を外す糸口を見つけようと、慎重に革の表面をなぞる。
「どうやって外しゃいいんだよ、これ!」
 見ると、ゴンザロの首輪は、彼の首に嵌めた後、溶接されているようだった。それよりはかなり有り難い状態にあることを、マッシモは神に感謝した。
「ミミとマリオの仕返しかな……?」
 そう呟き、ベッドの足に絡んだ鎖を思い切り引いた。しかし、絡んでいるだけのように見えた鎖は他端がパイプと同化しており、ベッドが多少傾いだだけに終わった。
「……悪ふざけが過ぎるぜ、まったく……。」


*5*
「そうだね……でも外さないと、トイレにも行けないし。」
 そう言うとゴンザロは、ぐっ……と首に力を入れて、何度か杭を引き抜こうとした。
「おい、無理じゃねえの? それ、鉄だし。」
 ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!
 マッシモの言葉には耳を貸さず、ゴンザロは首を振り続けた。段々首に赤い擦り傷が増えていく。
 そして、杭はだんだんと抜けていた。
 ガッ!
 鈍い音を立てて杭が抜けた。
「ふぅ……。」
 ゴンザロは、首から鎖と杭をぶら下げたまま立ち上がった。
「ちょろいもんだ……ちょっと痛いけど。」
 ゴンザロはそう言って笑うと、マッシモの繋がれているベッドに歩み寄った。首からは血が流れている。
「あらら、溶接されてるね、これ。」
 ゴンザロがマッシモの首とベッドを繋ぐ鎖を引っ張っても、モノがベッドの足だけにビクともしない。
「ちょっとこれ無理みたいだよ。俺、何か切る道具探してくるから待ってて。」
 ゴンザロは、そう言い残すと、ドアに歩み寄った。が、その鉄のドアには外から鍵がかけられていて内側からは開かない。それじゃ、と思ってきびすを返してトライした窓も、はめ込み式の窓枠で開けられそうにない。
 ゴンザロは、溜息を吐くと、再びマッシモのベッドに歩み寄った。
 そして、なんの躊躇いもなくマッシモの頭の下から枕を抜き取る。枕の縫製部分を引き破り、中に手を突っ込んで、即製のパンチング・グローブを作る。そして再び窓につかつかと歩み寄ると、その腕でたったひとつある窓のガラスをぶん殴った。
 窓ガラスは、あっけなく割れた。
「あ……マッちゃん、まずいわ。ここ2階だ。……行けるか? 3メートル強……行けるのか? あ、俺。行けるかも……。」
 ゴンザロは、一人口の中でブツブツ言いながら、ひらりと窓枠を飛び越え……落下していった。
 部屋に静寂が戻った。


*6*
 静まり返った部屋の中、マッシモは重大な1つの事実に思い当たり、ベッドを降りると、それを窓の方に引きずっていった。さして重くはない。ただ、真鍮の足が床の石板に擦れて嫌な音を立てているのと、注意していないと首が絞まるのだけが気障りだった。
 何度となく苦しい思いをして、やっと彼はベッドを窓際に移動させることに成功した。そして、窓の外を見る。
 ゴンザロの言った通り、地面までは3メートルほどの高さ。既にゴンザロの姿は見えない。周囲は木立に囲まれているものの、その向こうには別の建物も見える。少なくとも、ここはツアーライブのために泊まっていたはずのホテルではない。誰か個人の家のようだった。
「あいつ……脚折ったり捻挫してなきゃいいけど。」
 そう独り言を言う。ゴンザロのことを心配している自分が意外だった。
「ガラスの破片の上に飛び降りちまったりしてねえだろうな……? 首だってあんな赤くなってて……。」
 きびきびと対処していくゴンザロの姿を思い起こす。
「……格好よかったよな、あいつ――フリチンじゃなけりゃ。」
 そう、ゴンザロは――マッシモもそうなのだが――一糸纏わぬ姿であった。ホテルの部屋に散乱していたはずの服は見当たらない。さらに、この部屋にはクローゼットもドロワーもない。一体、誰がどこにやってしまったんだろう。
 この状況では、皆目見当がつかなかった。
 マッシモは、先刻ゴンザロがパンチング・グローブとして使った枕を拾い上げ、念入りにガラスの粉を叩き落とすと、枕カバーを外し、必要な部分を破き、必要な部分を縛って、即席のトランクスを作り上げた。履いてみて、満足を得る。
 それから、ゴンザロが登ってくる時のために、シーツを割いて編み、ロープを作った。その一端をベッドのパイプに括りつけ、他端を窓の外に垂らしておく。
 次にマッシモは、枕の中綿を抜いて、残った外袋で、ゴンザロのためにもう1つトランクスを作った。
 今、彼にできることは、これしかなかった。後はゴンザロの帰りを待つだけだ。
 一服しようとして煙草を探す。それは、壁からカウンターテーブルのように張り出した台の上にあった――元ベッドがあった所の。そこまでまたベッドを引きずっていくのは面倒だったので、マッシモはゴンザロが戻ってくるまで煙草を我慢することにした。


*7*
GONZALO SIDE
 窓から飛び降りた俺は、着地に失敗し、肘と腰を地面に叩き付けられて転倒した。転倒した際に膝も捻じっていて、裸の尻にはガラスの破片も刺さったようだ。
 だが、そんなことはいい。今重要なのは現状把握だ。
 俺は、辺りを見回した。どこにでもある石畳の裏道。夕べまで俺達がいたのがミラノのホテルだから、少なくともここは、市街から6時間以上は離れていないはずだ。ミラノから車で6時間移動すれば、まあどこへでも行けるから、ここがミラノという確信もない。 そして俺は全裸だった。冷静なつもりだったが、これでも気が動転していたんだろう。飛び降りるまでは自分がどんな格好かなんてことに気が回らなかった。
 と、その時、横道から出てきた一人の女が俺の視界に入った。
「あの……。」
 俺は声をかけた。
 女は、俺に気付くと、「ひっ」と一言叫んで走り去っていった。
 やっぱりなあ。全裸じゃなあ。俺は思った。まっちゃんみたいに、うまそうな体だったら多少は反応が違うのかもしれないけど、生憎と肉には恵まれていなくて。
 もうすぐ近所の家々も起き出すだろう。その前に、着るものだけでも得なければ。
 俺は、捻った膝のおかげで前衛舞踏のような動きになりつつ、裏道を走り始めた。


*8*
MASSIMO SIDE
 ゴンザロの奴はなかなか戻ってこなかった。あんな格好だから、警察に捕まっているのかもしれない。でも、その方が、こんなどこだかわからない部屋で家畜か奴隷みたいに繋がれて閉じ込められているよりはまだマシだ。
 奴隷。
 その言葉に、俺は背筋を冷たくした。もしかしてこれ……SMってやつ?
 首とベッドとを繋いでいる鎖を手に取ってしみじみと眺めた。
 俺とゴンザロが奴隷? ゴンザロは逃亡したけど。で、女王様は誰なんだろう? ゴージャスボディの美人な女王様ならSMしてもいいかな、なんてちょっと思っちまった俺を許せ、ゴンザロ、ディエゴ、それからデボラ。
 その女王様が俺たちを拉致監禁したんだろうか。ミミとマリオの仕業にしては、手が込みすぎている。たかがデバガメの仕返しにいちいちこんなことしてたんじゃ、金がかかって仕様がない。奴等がやるとしたら、俺かゴンザロのステージ用の靴の中に画鋲を1個入れる程度だろう。
 それにしても、ゴンザロまだかなあ……。
 まあ、SMは夜に行われるもん、と相場が決まってるから、まだしばらく女王様は現れないだろう。
 それはいいんだが、俺は煙草を吸いたくて仕方なかった。ニコチンが切れてきて、何だか落ち着かない。かと言って、ベッドを引きずって元の場所に戻るのも面倒臭い。
 俺は窓の外を見つめながら、ゴンザロが戻ってくるのをひたすら待ち続けていた。
 と、その時――。
「おはよう、私の子猫ちゃんたち。」
 施錠されていた扉が開き、女王様が現れた。俺は何も言い返せず、口を開けたまま、その姿を下から上へと凝視した。黒いピンヒール、網タイツ、ぴっちりとフィットしたボンデージ・コスチューム、黒革の長手袋をはめた手には鞭とロウソク、目元をバタフライ・マスクが覆っている。これを女王様と呼ばずして何と呼ぼう、といったスタイルだ。
 ただ1つ、俺の想像と大きく違っていたのは、女王様が萎れかけたオッサンだったことだ。筋肉の落ちた腕と脚、貧弱な骨格、年のせいで腹だけぽっこりと出ていて、それはレザーのボンデージ・スーツでも隠しおおせられなかったようだ。
 奴はカツンカツンと靴音を響かせて、俺の方に近寄ってきた。俺は、込み上げてくる笑いを抑えるので必死だ。なぜかって、完璧に磨かれた石の床に、オヤジのピンヒール。転ばないように必死になりつつも靴音高く歩こうと懸命になっているのがおかしいほどわかるからだ。
 そして何とか俺の前まで来ると、奴は鞭の柄尻で俺の顎をぐいっと押し上げた。
「もう1匹の子猫ちゃんはどうしたのかしら?」
 間近で囁くように聞かれ、こいつの口の臭いに辟易する。朝メシのメニューがありありとわかってしまった。ラズベリーのペイストリーとゆで卵とトマトジュースとコーヒー。 何て朝食だ。俺ならゴンザロにそんなメニューは食わせない。
「返事をおし!」
 こいつ……昨日の夕飯、ニンニク食いすぎたな。
 あまりこのオッサンに喋らせたくなかったので、俺は返事をした。
「逃げた。」
 さっきまで俺はゴンザロが俺を助けに戻ってくると信じていた。でも、この女王様の姿を見てからは、下手に戻ってこないで、ただ救助の要請をしてくれるだけでいい、と思い始めていた。ゴンザロがこのオッサンの毒牙にかかるなんて、俺にとってはかなり許し難いことだ。
 それにしても、煙草が吸いたい……。


*9*
GONZALO SIDE
 俺は、人目を避けながら裏道を走り続けた。何せ、人影を見る度に角曲がったり隠れたりするので、今自分がどこにいるかはさっぱり分からない。起点からどのくらい離れたのかも。
 マッちゃん、大丈夫かなあ。でも、首輪のついたマッちゃん色っぽかったなあ……。助け出したら、一度試させてもらおうかな、首輪プレイ……。
 俺は、マッちゃんの裸を思い出し、思わず笑みを浮かべた。
 全裸で、前衛舞踏で、体の所々が擦り切れていて、大男で、しかも薄笑い。冷静に考えると相当ヤバイが、もちろん今の俺は冷静ではない。さすがの俺も、拉致監禁されて首に鎖つけられて冷静で要られるほど神経太くはない。
 と、その時、目の前に十字架マークのついたドアが現れた。ローマン・カトリックの教会だ。
 やった、ここで服を借りられるかも……。俺は、夢中でドアをノックした。
 しばらくしてドアが少し開いた。顔を出したのは初老の神父さん。
「……どうしたのかね。こんな朝早く。」
 俺は考えた。正直に拉致監禁されていました……と言いたいところだったが、それはあまりにも荒唐無稽な方便に思われた……真実なのに。
「……強盗に遭って身包み剥がれました。」
 俺は嘘をついた。
 神父さんは、俺の姿を上から下まで眺め回し、もう一回上に戻って俺の喉元に目を留めた。
 しまった、鎖ついてんだっけ……。
「来なさい。何か着るものを貸して進ぜよう。」

 教会で服(コソボ難民に送るための寄付物資の中から、カーキのチノパンと黒のポロシャツ、水色のサンダル)を貰い、ついでにお金も少々借りた。絶対返しに来るから、と、名前と宿泊先のホテルを書いたメモを渡そうとしたが、神父さんは受け取らなかった。
「人生、色々あるからお互い様。」
 と言って笑った彼の目の奥には、何か含みのようなものが伺えたが、それについては考えないことにした。
 確かに、人生はいろいろありすぎて手に余る。俺なんかマンガとモニカとマッちゃんで手一杯だ。

 教会の住所はミラノの市街だった。てことは、俺達が監禁されていた家も、市街に違いない。
 俺は借りた金でタクシーを拾い、ひとまず宿泊先のホテルに戻ることにした。
 ホテルに着き、フロントで締め出し食らった旨訴えて鍵を借り、自分の部屋に戻った。 部屋は、夕べのまんまだった。マッちゃんと飲んだワインのボトルが転がり、グラスがひとつ床に落ちて割れていた。ベッドは……寝乱れたままだった。ああ、帰ってきた。
 俺は、ホッと息をつくとベッドに倒れ込み、そのまま寝てしまった。


*10*
MASSIMO SIDE
「逃げた、だと?」
 女王様は一瞬自分の口調に戻って言った。俺は頷いてから、窓の方に首を振った。
「あそっからね。」
 さあ、どうする、女王様? あんたの奴隷は1人逃げちまったんだ。あんたのこの悪事を警察に通報するかもしれないぜ。そうしたら、あんたの人生はおしまいだ――あんたが何者かは知らねえけど。一応有名人の俺たちを拉致監禁したんだからな。
 奴はベッドを避けながら窓辺に寄り、シーツのロープを引き上げて鎧戸を閉めた。部屋が再び薄闇に包まれる。それから奴は、手に持っていたロウソクに火をつけて……壁の燭台に刺した。
 何だ、ロウソクはそうするためのものだったのか、と俺は少し安心した。
「……逃げてしまったものは仕方ないわ。去る者は追わず、が私の美学。」
 不敵な笑みを口元に貼り付け、女王様口調に戻って奴が言った。いいのか、それで? という言葉を飲み込む俺。
「それにしても、まるで手負いの黒豹ね。」
 ゴンザロが杭を引き抜いた跡に指を這わせてから、奴が俺の方に戻ってきた――相変わらず覚束ない足取りで。
「で、あなたは逃げないの? 黄金のアザラシちゃん。」
 アザラシ?! ゴンザロが黒豹で、俺がアザラシ!? 失敬な! さっきは“子猫ちゃん”って言ってなかったか?
「ベッドつきじゃ逃げらんねえだろ。」
 俺は完璧に不貞腐れた声を返した。
「そう、よくわかってるわね。とってもいい子……。」
「いい子に煙草取ってくれよ。ご褒美にさ。」
 鞭がピシッと鳴り、右肩に鋭い痛みが走った。
「口の利き方から教えてあげなきゃいけないようね。」
 女王様は胸元に隠し持っていた(と言っても別に凹凸があるわけじゃないが)アトマイザーを俺の顔に向けて吹き付けた。俺は咄嗟に顔を背けて息を止めたが、時既に遅く、頭が朦朧としてきた。
 耳に女王様の高笑いを感じながら、薄れゆく意識の中で、俺は煙草のことしか考えてなかった。


*11*
GONZALO SIDE
 電話の音に夢から引きずり出される瞬間。
 俺は、寝返りを打つとベッドサイドの電話に手を伸ばした。
「……はい……。」
「しゅうごー!」
 電話の向こうで叫んでいるのはディエゴ。ああ、もう集合時間か。
「わかった。5分で降りる。」
「待ってるよ! あ、ねえ、ついでにマッシモ起こしてきてよ。」
「マッシモ?」
「電話出ないのぉ! どーせまた眠りこけてんだろうから、ゴンザロ得意のカラテ技で起こしてきて!」
「……オッケ。」
 電話を切って、俺はゆっくりと半身を起こした。そして、唐突にすべてを思い出した。……マッちゃん、いないんだっけ。


*12*
MASSIMO SIDE
 頭が痛い。身体がだるい。喉が渇いた。
 ロウソクのジリジリという微かな音に、俺は覚醒した。真っ暗な部屋に、ロウソクの黄色い明かりだけ。もう夜なんだろう。
 ベッドは元あった位置に戻されていた。枕もシーツも新しくなっている。もちろん俺の首には依然として革ベルトがついていて、ベッドと鎖でつながっている。
 そして新しい2つの器具が俺に加わっていた。
 口の中に硬いボールのようなものが押し込まれ、それは顔を横切る細いベルトで固定されている。呼吸には支障ないが、口が開きっ放しなので、枕が涎でベトベトだ。
 俺の両手は、前でまとめられ、鎖のないコンパクトな手錠で縛められていた。後ろ手になっていないのがせめてもの救い。
 身体を起こして辺りを見回したが、俺の煙草はなくなっていた。
 畜生! あの変態オヤジめ! せっかく作ったトランクスどころか煙草まで盗みやがって!
 それから俺は、再びベッドを引きずって窓の方へと向かった。手前の鎧戸を開けると、ゴンザロが割ったはずの窓ガラスは綺麗に修理されていて、だんだん俺は、ゴンザロがいたのは夢だったんじゃないだろうかという気がしてきた。
 誰も俺のことを助けに来てくれないかもしれない……。もうこんなに暗くなっているのに、ゴンザロは現れないんだから……。
 俺はベッドに座って項垂れ、大きく溜息をついた。すごく泣きたい気分だ。
 きっと俺は、ゴンザロが助けに来てくれるのを、自分が思ってる以上に心の底の方で期待していたんだろう。
 マジで泣けてきた。ゴンザロに会いたくて。
 口に嵌められたもののせいで声を殺すこともできず、俺は泣き続けた。身体が涙と涎に塗れるのも気にせずに。
 泣きながらも俺は、ゴンザロとの夜を思い出し、手錠のついた手で自らを嬲り始めた。


*13*
MIMI SIDE
 移動用の車の中で、ゴンザロとマッシモのことを考えていた。何か良くない予感が胸に巣食っていた。
 ゴンザロは、集合時間を過ぎても起きて来なかった。マッシモも。そんなことは、今迄で初めてのことだった。

 ゴンザロとマッシモがデキてるってことに、俺とマリオはもう大分前から気がついていた。遠征先のホテルで、誰かのパーティで、ディエゴの目を盗んでちょいちょいいなくなる二人に、気がつかない方がおかしい。だが、奴等は、自分たちの関係を隠すことに多少は神経を使っているらしく、現にチーロとディエゴはまだ気付いていない。まぁ、ディに関しては、気付かないフリをしているだけかもしれないが。
 ……その二人が「二人して起きてこない。」となると……。
「開き直ったのかな。」
 俺は無意識にそう呟いていた。
「どうかな。」
 俺の呟きを聞きつけてマリオが言った。
 移動用のバン(トヨタハイエース)の一番後ろの座席に、俺とマリオは並んで腰掛けていた。運転席にいるのはマネージャーで、チーロとディエゴは前の席で今日のテレビ収録の打ち合わせをしている。
 それでも、1メートルも離れてはいないから、俺とマリオは自ずと小声になった。
「夕べ自制できなかったのかな?」
 俺はマリオにそう尋ねた。
「……そうかもな、朝方までなんかドタバタやってたみたいだし。」
「朝? ……じゃ、あの物音はゴンザロの部屋からか?」
「……だろ?」
「情事……にしちゃ変な音だったと思わないか?」
「ドタンバタン言ってたよな、ベランダのところで。」
「喧嘩でもしてたのかな。」
「マッシモとゴンザロが? そりゃないだろ。何せ、ほらあの通り……。」
「ああ……。」
 マリオの言いたいことは、すぐに分かった。あの通り、の後に続くのは、「ゴンザロはマッシモにゾッコンだし」だ。しかし……。
「喧嘩じゃないとしたら。」
 俺は言った。
「……ああ、何か、嫌な予感するな。何事もなく来てくれればいいんだが。」
 マリオが、窓の外に目を遣りながら呟いた。


*14*
DIEGO SIDE
 ここんとこ、僕はイライラしてる。何でかって言うと、すごく簡単なこと。マッシモが僕に全然構ってくれないから。
 そりゃあ僕だって忙しい人だから、マッシモにばっかり構ってらんないのは確か。チーロと打ち合わせをしたり(他のみんなは、そんなことどーでもいいって顔してるし)、曲作ったり、ピアノの練習したり。それから、サレルノにいるキアラに電話したり。
 それでも僕は、マッシモが好きだから、彼が“溜まってんだよなー”って顔で「いいか?」って聞いてきた時には、やんなきゃいけないこと全部放り出して、「いいよ」って答えてあげてる……てた。
 それが最近、聞いてこなくなっちゃった。だから、僕の方から「今晩いい?」って聞いたんだけど、「また今度な」だって。今度っていつのこと??
 そんな風に僕を放っといて、マッシモはゴンザロとベタベタしてる。……って言っても、どうせゴンザロとは変な(僕とマッシモみたいな)関係じゃないんだろうけど。ゴンザロがマッシモとあんなことやこんなことできるわけないし。背は高いけど、ゴンザロってまだまだ子供だもん。僕はとっても大人だから、ゴンザロがマッシモを占領してても許してあげられてる……今んとこ。そのうち、僕の身体が欲しくなってマッシモの方から戻ってくるに決まってるから、僕はそれまで、でーんと構えて待ってるつもり。
 昨日の夜も、僕とチーロがちょっと仕事してる間に、ミミとマリオはHモードに入っちゃってるし(マリオは僕の友達だったんだぞ! あとでゆっくり……って思ってるうちに、よりにもよって、ミミに取られちゃった。すんごい屈辱)、マッシモはゴンザロのとこ行っちゃったみたいだし。仕様がないから、僕、とっとと寝ちゃった。
 そして、珍しいことに、僕は早起きした。シャワーを浴びてさっぱりしてから、ホテルの中庭を散歩したりして、やっぱり早起きっていいなあ、って思う。
 部屋に戻ったらチーロが起きてて、朝ごはんのルームサービス頼むって言うから、僕も便乗した。で、軽くごはん食べて、も一回寝た。
 チーロに起こされたのが、集合時間の十分前。僕はも一度身支度して(着てた服がシワシワになっちゃってたし、髪の毛もヘンテコになってたから)、チーロと一緒に部屋を出た。
 マネージャーはもうとっくに車を温めてて、僕たちは前の席に乗り込んだ。集合時間5分過ぎ。全然余裕。
 まだマッシモとゴンザロは来てなかったんで、僕はチーロに言われて、モーニングコールをかけにいくことにした。マリオとミミにルームナンバーを聞いて。
 僕が遅刻するなら当たり前のことだけど、それからマッシモがちょっと寝坊するのは時々あることだけど、ゴンザロが起きてこないなんて珍しいや。きっと、夜中に面白い映画か何かがテレビでやってたんじゃないかな。
 まず僕は、マッシモがいるはずのマリオの部屋に内線電話をかけた。14回もコールしたけど、マッシモは出なかったんで、諦めて今度はゴンザロがいるはずのミミの部屋に電話したら、割とすんなりとゴンザロが出たんで、僕はゴンザロを起こすことに成功したらしい。で、ゴンザロにマッシモを起こすようにお願いして、電話を切って車に戻った。
 早起きをした僕の頭は(二度寝したけど)今日ちょっと回転がよかった。昨日の夜、ミミがマリオの部屋にいたのは間違いない事実(ドアに耳当てて聞いてたから)。ってことは、マッシモはその時ゴンザロと一緒にミミの部屋にいた。よね? 僕とチーロは自分たちの部屋にいたんだもん。じゃあ、マッシモは結局どこで寝たの? ミミに「終わった後、どこで寝た?」って聞きゃいいんだけど、そんなプライベートなことは聞けない。よね? マリオはマッシモが起きてこなかったことについて何も言ってなかったから、多分、ミミはマリオの部屋で寝て、マッシモはミミのベッドで寝たんだと思う。ゴンザロの隣のベッドで。……ちょっとムカつく。そしたら、僕がさっき電話したマリオの部屋って空っぽだったってことだよね。そんでもって、電話取ったゴンザロの横のベッドではマッシモが寝てたってことだよね。ジェラシー。
 あ、僕、ゴンザロにすんごくバカなお願いしちゃった。「マッシモ起こしてきて」って。隣のベッドにいるんだったら「マッシモ起こして」だよー。それに、もし、マッシモがちゃんと自分のベッドで寝てたら、オートロックかかってるからゴンザロ、マッシモのいる部屋に入れないじゃん。カラテチョップする前にピンポンの嵐でマッシモ起きるよね。でも、14回コールしても起きなかったんだから、ダメかも。
 そんなことを考えながら、隣のシートで今日の仕事のことを話しているチーロの言葉を、僕は全然聞いてなかった。


*15*
GONZALO SIDE
 さて、これからどうするか。
 俺は、ない頭を絞って考えた。
 手がかりになるのは一つしかない。……あの教会。全裸で傷だらけで首に鎖の俺に何も言わず服とお金をくれた、あの裏道の、親切な神父のいる教会。
 俺とマッちゃんが監禁されていた場所からあの教会までは、徒歩で一時間以内のはず。いや、怪我をしていない状態で、ついでに服も着ている今なら30分以内、ってとこだろう。
 あの教会に辿り着く、それが今俺に出来る最善の行動だと思った。て言うか、今俺、それしか思いつかない。

 俺は、近所の本屋に駆け込み、ミラノ市内の地図を買った。レジでマーカーも買い、広場の噴水の縁に腰を下ろす。地図を開く。パタパタと畳みを解いていくと、それは、1メートル四方にもなった。全部開いたままでは作業ができないので、俺は、地図を折り目通りに畳み、1面ずつチェックしていくことにした。
 まず、青いマーカーで、地図中にある教会マーク全てにアンダーラインを引いた。それは200以上あった。それから、有名な教会と、大通りに面しているものに黄色のマーカーで抹消線を引いた。残った個所にピンクのマーカーで丸をつけた。48個所あった。
 気がついたら地図はやけにカラフルだった。せめて抹消線はボールペンで引くべきだった。今更遅いけど。
 教会の名前からもう一段階絞り込もうかと思ったけど、何せ浅学なもんだから、どれがローマンカトリックの名前か皆目見当がつかない。
 この際、全部行ってみるしかない。愛するマッちゃんを救い出すためだ。オトコだったらやるしかないでしょう。

 俺は、タクシーを拾った。運転手さんに、地図を差し出す。
「あの、このピンクのマーカーの教会、全部回って下さい。」
「はい?」
 運転手さんの訝しげなまなざしもこの際気にならなかった。
 気持ちは、もうスーパーマン。攫われたお姫様の救出作戦だ。
 待ってて、マッちゃん。今、助けに行くから。俺が絶対あなたを助けるから。そしたら、あなた、俺のこと少しは好きになってくれるのかな。ちょっとくらいご褒美期待していいのかな。
「じゃ、近いところから回りますね。」
 しばらく俺の説明を待っていた運転手さんが、諦めてそう言った。
「はい、お願いします。」
 俺も、それ以上説明する気もなかったので、そのまま窓の外に目をやった。通りは、明るいお洒落な、ミラノの町並み。恋人達が楽しげに通り過ぎていく。

 俺達は、まだ恋人ですらなかったけど。
 マッちゃん、俺……もうただの浮気じゃ済まないみたい。……あなたが、欲しいんだ、マジで。嘘偽りなく心から。ディエゴには悪いけど、あなたを悪党の手からカッコよく救い出して、そのまま攫っちゃってもいいかな? そうしたいな……そうしちゃおうかな。
 流れる町並みを見つめながら、俺の不埒な妄想は暴走し始めていた。

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