続・真夏のフェロモン大作戦

伊達 梶乃
 廃マネキン倉庫の裏に停めたバンの運転席に座って、コングは時計を見た。午後4時を少し回ったところ。
 今、ボクシング・ジムに向かうと、4時半には着替えも終わって、それから30分ジョギングして、30分マシントレーニングをやって、30分パンチングして……と考える。今日はスパーリングの相手がいるだろうか。いや、相手がいたとしても、リングを使わせてもらえるだろうか。
 実力はあっても1つのジムにプロとして所属できないコングは、各地のジムでビジターとして練習されてもらっている。ビジターでは器具を使わせてもらうのがせいぜいで、リングに上がらせてもらったり、スパーリングをさせてもらえることなどほとんどない。練習生たちの手前、プロボクサーたちも、そうそうコングをスパーリングの相手に選ぶこともできない。
 せめて、仕事を持つ練習生たちが来る前、もっと早い時刻にジムに行ければよかったのに、とコングは思っていた。
 とどのつまり、コングは気が乗らなかったのである。
 新しいジムに通い始めると、しばらくはそうした思いに囚われる。この時期を過ぎれば、ジム内でコングは特別な存在になり、ビジターであってもプロたちと同様に練習できるようになる。
 もう少しの辛抱だ、とコングは自分を奮い立たせた。

 その時、運転席のウィンドウがノックされた。反射的に左を見る。そこにはチャーリー(マネキン/白人男性/推定25歳/全裸)の手があった。ウィンドウを下ろし、窓から腕と頭とを出す。
「何だ、イカレ猿。」
 チャーリーの後ろでは、マードックがチャーリーの腰を両手でホールドしていた。
「俺じゃねえよ。チャーリーがさ、おうちまで乗っけてってほしいって。ほら、こいつ、自分で歩くの苦手だろ?」
 マードックのおうち、即ち陸軍退役軍人病院は、ジムよりもだいぶ先だ。ジムへ行くまでの通り道にあるのなら乗せてやっても構わないが、そうではない。断ろう、とコングは一瞬考えた。
 しかし、ここから病院までのかなりの道程、このアホンダラがマネキン(結構重い)を連れて歩くこと自体は“ざまあ見ろ”と思うが、その間に一体どれほどの一般人に迷惑をかけるか、わかったものではない。それを思うと、一刻も早く、この精神病患者を病院に送り届けた方がいいだろうし、迷惑を被る人数も極力少ない方がいい。となれば、コングがマードック(とチャーリー)を病院に送り届けることが、人類にとって最も適切であろう。これがボランティアー精神の最たるものであることも、コングは気づいていた。
 なので、コングは短く言い放った。
「乗れ。」
 マードックも短く礼を言うと、いそいそとバンの反対側に回り、スライドドアを開いた。コングの後ろの、自分の席に座るために。

 だが、マードック(とチャーリー)が席に落ち着くと、当然ながら問題が生じた。後ろからの圧迫感が尋常でないのだ。マードックがチャーリーを膝の上に乗せているために。それもチャーリー、前へ倣えのポーズで。したがって、コングの頭の左右にはチャーリーの手が。
 ぐう、とコングは唸った。
「てめェ、別んとこ座りやがれ!」
 コングの指示が悪かったのか、マードックの頭がおかしいからか、コングが無言で我慢すること1分。マードック(とチャーリー)は助手席に落ち着いていた。相変わらず、チャーリーはマードックの膝の上。
 とりあえず後ろからの圧迫感はなくなったが、右側の視界が狭い。右のバックミラーさえ見えないのだ、チャーリーが邪魔で。
 再びコングは、ぐう、と唸った。
「その目障りなマネキン、別んとこに置いとけ!」
 今度の指示は的確だったようだ。マードックは文句も言わず、チャーリーをポイッと後ろの席(フェイスマンの席)に投げやった。シートに頭で座るチャーリー。背凭れに腹這いになり、ホールドアップの手は下へ、エビ反った下半身の膝の間にヘッドレスト。とても赤い糸で結ばれた相手に取らせるポーズではない。しかし、そんな姿勢でも、どこももげていないチャーリーの根性も見上げたものである。

 さて、これで問題もなくなり、コングはエンジンをかけるべくキーを挿した。
「嫉妬してるわけ?」
 いきなりマードックが尋ね、コングはキーを回そうとしていた手を止めた。
「はあ? 何だと?」
「だから、嫉妬。ジェラシー。俺とチャーリーがラブラブだから。」
「何で俺がマネキンに嫉妬しなきゃなんねえんだ?」
「俺に、かも。チャーリー、イイ男だし。コングちゃんがチャーリーに惚れてても、残念ながら、チャーリーが愛してんのは俺だかんね。」
「そう言われたのか? マネキンに?」
 コングは意地悪く、そう言ってやった。マードックのことだ、幻聴を聞いている可能性もある。
「……。」
 しかし、マードックは黙ってしまった。懸命に過去を遡っているかのように、視線を宙に漂わせて。そして、ポツリと呟いた。
「言われてねっかも……。」
 チャーリーが人間で、加えて、できれば女性なら、コングもマードックに少しは同情しただろう。いや、やはり、しないか。ともあれ、チャーリーはマネキンなのだから、マードックが今回は幻聴を聞いていない、というだけのことだ。
「そりゃ言われてねえだろな、マネキンなんだからよ。」
 コングは少し肩を竦めた。
「マネキンなんだから、何も言わねえ。何もしねえ。ただ、じっと、そこにいるってだけだ。そんなの相手にして、何が楽しいんだ?」
 マードックは口をヘの字にして、コングの方に顔を向けた。そして、おもむろに口を開く。
「一緒にいてくれるぜ。コングちゃんみたいに意地悪言わないし、俺のこと殴ったりもしない。俺の話、最後まで聞いてくれるし。」
 コングはしばらく黙っていた。
「……で、てめェの話は終わりか?」
「あ、うん、まあ。」
「じゃ、俺もてめェの話、最後まで聞いてやったぞ。それに俺ァ、こんなでくの坊と違って、てめェを病院まで車で送ってやるんだ、感謝しろ。」
「……あんがと。」
 しおらしくマードックが礼を言う。話を聞いてくれたのが嬉しかったのか、送ってもらえるのが嬉しいのか、微かに口許に笑みを浮かべて。
「おし。そうやってマトモにしてりゃあ、てめェも可愛……!」
 慌ててコングは、自分の手で自分の口を押さえた。

“何言ってんだ、俺ァ……。ミラクルカカオ、また食ったっけか?”
 30分前を思い起こす。チョコレートは舐めたが、それは1時間以上前のことだし、それも薬効成分が入る前のものだったはずだ。30分前は何も口にしていない。もしや……。
「おい、モンキー、てめェ、ミラクルフェロモンつけてねえか?」
「ミラクルフェロモン? あのエンジェルにくっついてたやつ? つけてねえよ。何で?」
「何でもクソもあるか。どっかについてるはずだぜ、こん畜生。」
 コングはマードックの革ジャンの胸倉を掴み、運転席の方に引き寄せた。ジャンパー、ネルシャツ、Tシャツ、チノパンと、隈なくチェックしていこうという目論見。緑色の染みがついていないか、妙な匂いがしていないか。
「ちょっとォ、コングちゃん!」
「るせい、じっとしてろ!」
 助手席のシートを倒し、マードックを押さえつける。だが、倒したシートと後部座席に頭を挟まれたチャーリー、その足が衝撃でガクンと折れ、うつ伏せのマードックの上に馬乗りになったコングの頭をガツッと直撃。
「マネキンはすっこんでろ!」
 コングが腕でチャーリーの足をなぎ払うと、チャーリーの両足はバンの後部に飛んでいった。
「チャーリー! の足〜!」
 後部座席に向かって手を伸ばすマードック。手を伸ばしたのが災いし、ジャンパーをスポーンと脱がされてしまった。
「これにゃあ怪しいとこはねえ。」
 革ジャンにはミラクルフェロモンがついていない、と納得したコングが、革ジャンをチャーリーの足の方に投げる。
「帽子も……問題ねえ。」
 放り投げられる帽子。
「シャツは……問題ねえか。」
 破り取られ、丸めて放り投げられるシャツ。
「Tシャツは、と……。」
「ちょっちょっちょ、ちょっとストップ、コングちゃん。」
 コングの下で180度寝返りを打ち、マードックは両手をコングの方へ掲げた。
「どうしたんよ? オイラ、ミラクルフェロモンなんてホントつけてねって。」
「いんや、絶対ついてるぜ。何かの拍子についちまったんじゃねえか? てめェの知らねえ間に。」
「あ、そりゃあり得る。」
「だろ。だーかーら、そいつを見つけて早えとこ処分しちまわねえとな。ヤベえことになる前に。」
 マードックは、コングが視線を合わせないようにしているのを見て、ああ、と気づいた。
「ミラクルフェロモン、効いちゃってんだ。」
「おう、ばっちりな。ったく、厄介なモン作ってくれたぜ。」
 そう言う間にも、コングと目を合わせようとしているマードック、および、マードックと目を合わせまいとしているコング。
「でも、別にいいんじゃねーの? 薬効いてても。俺とコングちゃんの仲なんだしよ。えーと、今月はこれで3回目? どうせここまで脱がされたんだしー。」
「気色悪いこと言うんじゃねえ。てめェが俺とやんのは構わねえ。だが、俺がてめェとやんのは、俺として許せねんだ。」
「同じだと思うけどなあ。」
「全っ然違えよ。」
「じゃ、俺がコングちゃんに“しよ?”って言えばよくね?」
「そんだけじゃねえが、まあ、取っ掛かりはそうだな。」
 マードックの手がコングのネックレスを掴み、ぐいっと引き寄せられる。
「コングちゃん……しよ?」
 間近で目が合い、コングはゴクリと唾を飲み込んだ。
「しょうがねえなあ……。」
 なけなしの理性でそうは言ったが、荒い鼻息は隠せなかった。

 今すぐにでもマードックに覆い被さりたかったし、眼前に迫る薄い唇に吸いつきたかったが、コングは振り返ってフロントガラスの向こうを見た。倉庫街の裏道と言っても、まだ西日は差しており、人が通らないとは限らない。コングのバンは窓ガラスにスモークをかけてはいるものの、さすがにフロントガラスのスモークは薄く、外から内部が見えないわけではない。最後部シートに移ろうかとも思ったが――普段はそこが彼らの“お決まりの場所”なのだが、今日のコングは「あんなとこばっかじゃいけねえ」と思った。ミラクルフェロモンがそう思わせているのだ、とも思う。
 ネックレスを掴むマードックの手に自分の手を重ねて放させると、コングはマードックの上から退いて運転席に戻った。
「10分待て。」
 不服そうなマードックの返事を待たず、コングは車を発進させた。
 タイヤを軋ませ、慌てているかのような勢いで、車は倉庫街を出た。そして、町外れの商店の前に車を停め、コングは何か買い物をしているようだった。マードックは何が起こるのかわからないまま、車内で待っている間、Tシャツの裾をズボンの中に押し込み、放り投げられた革ジャンを拾って羽織り、帽子を被った。コングに破かれたシャツは、チャーリーの上半身に着せておく。
 紙袋を抱えて戻ってきたコングは、袋の中からコークの缶を出し、助手席でおとなしくしているマードックに突きつけた。
「ほらよ。」
 理由もなくコングに物を貰ったことなどないマードックが、非常に複雑な気持ちで缶を受け取る。
 マードックがプルタブを引くより早く、コングは再び車を発進させ、商店から離れていった。
 次に車が停まったのは、倉庫街とはまた別方向の町外れにあるモーテルの前だった。コングはマードックに降りるように言うと、紙袋を抱えてずんずんと先に歩き、“フロント”のドアを押して中に入っていった。
「よう。」
 カウンターの奥に座って古びた雑誌を読んでいた、50代と思しき黒人女性が、コングの声に顔を上げる。
「何だ、コングかい。」
「“何だ”はねえだろ。また世話んなるぜ。」
「いつもの部屋でいいのかい? 珍しくお連れさんがいるようだけど。」
 窓ガラスの向こうにマードックの姿を認め、女性が尋ねる。
「ああ。奴は泊まるわけじゃねえからな。俺ァ明日の朝まで客になってやるが。」
「ま、ツインの部屋なんてここにゃないけどさ。」
 笑いながら、女性はカウンターの上にキーを投げた。その横に代金を置き、コングがキーを受け取る。
「ゆっくりしていきな。」
 現金をエプロンのポケットに素早く入れると、女性は再び雑誌に目を落とした。
「そうさせてもらうぜ。」
 言いながら、コングは紙袋の中からマシマロの大袋を取り出し、カウンターにボスッと置いた。
「一遍に食いすぎんじゃねえぞ。」
 女性は、顔を雑誌に向けたまま嬉しそうな表情になったが、何も言いはしなかった。
 “いつもの部屋”のドアを開けながら、後ろで静かにコークを啜っているマードックに、コングが説明する。
「てめェは知らねえだろうが、フェイスの奴が俺の分のねぐらまで確保してくんねえ時、ちょくちょくここに泊まってんだ。」
 部屋の中は、マードックの“おうち(個室)”とそう変わらなかった。狭い部屋にベッドが1つと、サイドテーブルに、1人掛けソファが1つ、テレビなし、ラジオなし、電話なし。
「こんなとこで済まねえとは思うが、俺にゃあフェイスみてえな才能はねえし……。」
 コングが椅子の上に荷物を置いて、もごもごと言いにくそうに言う。その間にマードックは、この部屋にはそこそこ清潔なトイレとシャワーまでついていることを確認した。
「オイラ、結構好きだぜ、こーゆーとこ。」
「そう言ってくれると助かるぜ。」
 コングが埃まみれのブラインドを下ろし終えた時には、マードックは既にサイドテーブルの上にコークを置き、ベッドに腰掛けていた。
「いつか、豪華なホテルに連れてってやるぜ。でかいベッドのな。」
 その横にコングも腰掛け、ナイキの靴紐が解かれる。
「それまでミラクルフェロモンが効いてれば、ね。」
 ナイキのスニーカーの横で、靴紐を解いていないコンバースが、無理矢理、足から引っこ抜かれる。さらにその横には、裸足のチャーリーの足。
「おう、その通りだ。」
 ネックレスの束が、どさりと椅子の上に置かれる。
「そー言えば俺たち、ベッドでやんの初めてじゃね?」
 ネックレスの上に、飛んできた革ジャンがどすっと乗る。
「だーかーら、ここに来たんだ。」
 床に置かれたチャーリー(の上半身)の頭の上に、帽子がぽそっと乗った。

「Heaven..., I'm in heaven... and my hear beats so that I can hardly speak....」
 シーツにくるまってベッドに座るマードックが、呟くように途切れ途切れに歌っている。コングの裸の背に凭れかかって、チャーリーの肩を抱いて。いつの間にか、チャーリーの上半身と下半身は修復されている。
「And I seem to find the happiness I seek... when we're out together dancin' cheek to cheek....」
 コングはと言えば、ベッドの縁に腰掛けて、脱ぎ散らかされたマードックの服を丹念に端から端までチェックしていた。ミラクルフェロモンがついていないか、をだ。
「Heaven..., I'm in heaven...」
「畜生、服にも靴にもついてねえ。」
 コングはマードックの黒ビキニをぽいっと投げ捨てた。
「ついてねえのかもよ、ミラクルフェロモン。」
「いーや、そんなはずァねえ。」
 座ったまま、くるりと振り返るコング。その背の動きに従って、マードックがとすんとベッドの上に倒れた。そちらの方に体を捻ったコングが、マードックの髪に顔を寄せる。
「何? まだやんの? オイラ、もうくたくた。」
「髪についてんじゃねえかと思ってな。」
「汗臭くね?」
 それには答えず、コングは腕を突っ張って体を起こした。逆光の中でニヤリと笑うコングの顔が、マードックにも見えた。
「ビンゴだ。」
「え? 色ついてる?」
「色はついてねえが、また更に効いてきたようだからな。やってる間も、なーんかおかしいと思ってたんだ。」
 腕立て伏せをするように、コングがマードックの額に短くキスをする。
「マジかよ。洗ったら取れるんかな? あー、でも、シャワー浴びんの、めんどい。このまんま寝ちまいてえ。」
 マードックが、ふあああ、と欠伸をし、目を擦る。
「おめェがこんなバテんのも珍しいな。」
「オイラがコングちゃんとやんのと、コングちゃんがオイラとやんの、全然違えのわかった。……違いすぎ。気持ちよすぎて死んじまうかと思った。」
「だから言ったろ? ……俺もくったくただぜ、畜生。」
 マードックの横、チャーリーとは反対側に、コングがドサリと体を横たえる。もぞもぞとマードックがにじり寄ると、コングは鼻でフッと笑ってマードックの頭の下に腕を潜り込ませた。
「……枕、高すぎるぜ?」
「悪ィ、力入ってた。」
 コングの腕から力が抜け、頭の位置が低くなる。
「慣れないことして緊張したとか?」
「まあな。……おめェ、泊まってけよ。朝んなったら送ってってやるぜ。」
「じゃ、その線でよろしく。チャーリーももちろん一緒に。」
 マードックはコングの方に寝返りを打って横向きになると、占領していたシーツの1/3をコングにかけ、反対の1/3をチャーリーにかけ、目を閉じた。
「何でい、もう寝ちまうのか。」
 返事はなかった。いくらマードックでも、これほど早く眠りに落ちるのも珍しい。コングは腕枕にしていない方の手で、マードックの額にかかった髪を後ろに流した。ミラクルフェロモンをまた吸い込んでしまったかと思いながら。
 それからコングは、マードックの胸の傷痕に触れた。ハンニバルを庇って受けた銃創。処置が遅くなったせいか、素人が銃弾摘出したせいか、かなり大きな傷痕になっている。
「あんま心配させんじゃねえぞ。」
 そう呟くと、コングは細い鼻先を指でつついた。マードックの瞼がひくひくと動き、その手を払い除けようとシーツの中から手がニュッと出てきたが、鼻に行き着く前にコングの胸の上で動きが止まった。コングがククッと笑う。
 点けっ放しの電気をどうするか、ということにコングが気づいたのは、それから30分後、マードックの寝顔を堪能し終えた後だった。
【おしまい】