忘れじの落とし穴 〜尻をはしょって〜
伊達 梶乃
“さようなら、薔薇和(ばらかず)さん。あなたを忘れるために、窓子(まどこ)は旅に出ます。”
 窓子を乗せた正露丸2世号は、広大な太平洋を西へ西へと向かい、極東の地に停泊した後、進路を北に向けた。
 そして窓子がその白い船体に別れを告げたのは、流氷の浮かぶロシアの港だった。古ぼけた小さなトランク1つを抱き締め、言葉も通じない見知らぬ異国の地で、窓子は自分の白い息を見つめていた。
 これからどこへ行けばいいのか。これからどうしたらいいのか。窓子には皆目見当もつかなかった。
 ただ、この傷ついた心を癒したい。未だに心の中の大部分を占めているあの人のことを忘れたい。――そんな思いだけが、今の窓子に何かしら行動する気力を与えていた。
“もっと……遠くへ行きたい……。”
 そう思い立った窓子だが、彼女自身、船旅にはいい加減厭きを感じていた。
“今度は汽車の旅がいいわ。……駅はどこかしら?”
 道行く人に駅の場所を聞くことができない窓子は、懸命になって駅を探し歩いた。
 足が棒になるまで歩き続け、日も暮れかけてきた頃、ようやく目的の場所を見つけることができた。そして、いざ切符を買う段階となって、彼女は重要なことを発見したのだった。
“英語って……世界共通語なのね……。”
 今日1日の努力は何だったのか。窓子は虚しさを覚えながらも、汽車に乗り込んだ。駅を無我夢中で探していたおかげで、一時は薔薇和のことを忘れられた自分にも気づかずに。



 汽車を幾度か乗り換え、シベリア鉄道の名もない駅で、窓子は汽車を降りた。
 眼前に広がる雪景色を眺めながら、そのあまりの白さに窓子は目眩すら覚えた。灰色の空が果てしなく広がり、遥か彼方の地平線では、白と灰色が接している。
「観光客? 橇、乗るか?」
 いきなり声をかけられ、驚いて振り返ると、貧相な男が立っていた。観光客相手に橇を貸し出しているらしい。男の指差す先には、2頭立ての小さな犬橇が見える。窓子は頷いて紙幣を何枚か手渡すと、慣れぬ足取りで雪道を橇に向かって進んだ。
 犬橇を操るのは、たやすいことだった。その辺りを何周かすると、窓子は先刻見た地平線の所まで行ってみたい衝動に駆られ、橇を真っ直ぐ向こうへ、北へと走らせた。貸し橇屋の男が後ろで何か叫んでいたが、風を切る音でほとんど聞こえなかった――聞こうとも思わなかった。
 最初のうちは爽快だった。しかし、何十分も何時間もすると、寒さが厳しくなり、犬も疲れを感じてスピードが緩んでくる。行けども行けども、風景は変わることを知らず、無限回廊を進んでいるかのような錯覚に陥る。
 遂に2頭の犬が相次いで倒れた。窓子は橇を降り、雪の上に体を横たえて荒い息をしている犬の横に腰を下ろした。そして、空を見上げる。灰色だった空は、暗黒に変わっていた。月も星も見えない闇夜。
“寒い……。”
 窓子を苦しめているのは、寒さだけではなかった。――空腹感。いつ何を食べたのかも思い出せない。
“本当に、どうしたらいいの、私……。”
 いっそ死んでしまいたい。そうすれば楽になる。窓子は瞼を閉じ、その身を柔らかな雪の上に横たえた。



 それから1年の月日が過ぎた。
「窓子、ストーブに薪をくべてちょうだい。」
 揺り椅子に座って編み物をしている老婦人が言った。
「はーい。じゃ、納屋まで薪を取りに行ってきますね。」
 質素な丸太小屋から窓子が出ていくと、婦人は言葉を続けた。
「早いものですね、おじいさん。窓子が家に来てから、もう1年も経つんですからねえ。」
 話しかけられた老人が、ライフルの手入れをしながら深く2、3度頷く。
「あの時、わしがあそこまで狐を深追いしとらんかったら、どうなっていたことやら。たまたま通りかかったからいいようなものを……。」
「本当にあの時は驚きましたよ。おじいさんが兎と狐と、犬と、女の子を持って帰ってきたんですから。昨今まれに見る大猟でしたよね。」
 婦人はクスクスと笑いながら続けた。
「……でも、元気になってよかったですよ。ロシア語もすっかり上手になって。まるで娘が帰ってきたみたいじゃないですか……。」
 老婦人は壁に貼ってある写真に目を移した。老夫婦と、その娘と息子が写っている。
「全く2人とも、ちっとも便りをくれんとは、けしからん。」
「月々お金を送ってくれているんだから、きっと2人とも元気にしていますよ。」
 実のところ、息子の方は数年前の某原子力発電所の事故で他界しており、送られてくる金は慰謝料なのだが、老夫婦はそれを知らなかった。さらに、娘の方は両親にはタイピストを生業としていると連絡しているものの、昼は掃除婦、夜は体を売って生活しているのだった。げに恐ろしきロシアの実情。
 それはさておき、老夫婦に助けられ、シベリアで1年の間暮らしてきた窓子は、とりあえずストーブに薪をくべると、シャベルとツルハシを手に表に出た。
 この1年間、彼女は暇を見つけては穴を掘っていたのだった。それも、ただの穴ではなく、落とし穴を。薔薇和のことを忘れるために、何か熱中するものが必要だったが、このシベリアで熱中できることと言えば、窓子には薪割りか穴掘りしかなかった。
 1カ月に10個のペースで掘って、この間、第120号落とし穴が完成した。
“ということは、もう1年が経つのね……。”
 手帖に記した120個の落とし穴の配置図を見ながら、窓子は121個目の落とし穴の場所を考えた。もちろん、老夫婦にも落とし穴の位置は教えてある。
“この場所にしましょう。”
 手帖にチェックを入れると、それをポケットにしまい、ツルハシを握りしめた。力一杯、ツルハシを振り下ろす。氷のような堅い雪に、ザクッと先端が刺さった。
“こんなに穴を掘っているのに、少しも薔薇和さんのことを忘れられないなんて……。”
 幾度も幾度もツルハシを振ると、雪の下に土が見え始める。
“それどころか、日に日に想いが募っていくばかりじゃないの……。”
 窓子は無心になろうとして、黙々とツルハシを上下させた。だが、理性が薔薇和のことを考えまいとすればするほど、薔薇和への感情が窓子の心を支配していく。
“あの人に会いたい……。”
 別れ際に窓子に向けられた、薔薇和の冷たい台詞を思い起こす。
 ――所詮、俺たちは結ばれない運命だったんだ……。
“……運命が何よ。自分の生きる道は自分で切り開く、それが人生じゃないの。”
 今までそのことに気がつかなかった自分に対して憤りを覚え、窓子はガツガツとツルハシを振り下ろした。
 怒りのおかげで、ツルハシでの作業に早々と一段落をつけた窓子は、溜息1つつくと、思い切り伸びをした。樹氷が微かな太陽の光を受けて、キラキラと輝いている。
“……綺麗。まるでクリスマス・ツリーみたい。”
 と、その時。
「窓子!」
 遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
“誰? 私を呼ぶのは……。この声……!”
「薔薇和さん!?」
 弾かれたように振り返り、声のした方に目を向ける窓子。
「……薔薇和さん……なのね?」
 遠くに見える人影は、見紛うことない、長年の想い人の姿だった。ゆっくりと窓子の方に歩いてくる。
「1年間、ずっと捜してたんだ……。俺が悪かった。帰ってきてくれ、窓子……俺の元へ。」
 一歩一歩、よろけるように歩み続ける薔薇和。心なしか、やつれた表情をしている。
「確かに、牛乳と小魚は男の夢だ。しかし、俺の夢は、牛乳と小魚と、窓子、お前なんだ。それに気づかなかった俺を許してくれ……。俺は、お前のためになら、全てを……運命を捨ててもいい!」
「来ないで、薔薇和さん!」
 窓子は叫んだ。
「なぜだ? 窓子、なぜ“来るな”と言うんだ? 俺のことが許せないからか? 怒っているからか?」
「いいえ、私は怒ってなんかいないわ。……最初からあなたのことを怒ってなんかいないもの。出会いの日から今まで、ずっとあなたのことを想い続けていた私が、一時もあなたのことを忘れられなかった私が、どうしてあなたのことを怒れましょう。あなたがこうして追いかけてきてくれた、それだけで窓子は幸せです。だから、それ以上、私に近づかないで。」
「1年間、太平洋を泳ぎ続け、ロシアの平原を歩き続けてきて、やっとお前に巡り合えたというのに、この手でお前を抱き締めることすら許してくれないのか?」
「いいえ、いいえ。私だって、今すぐにでもあなたの胸の中へ飛び込んで行きたいんですもの。この瞬間にでも、あなたに駆け寄り、あなたに触れたい。あなたのその力強い腕に抱かれたい。でも、今は駄目。こっちへ来ないで。お願いですから……。」
「せめて“来るな”と言う理由を聞かせてくれないか? それでなくては、俺の気も治まらない。」
「それは言えません。だけど、お願い、来ないで。」
「俺が嫌いになったのか?」
「違うわ。以前に増して愛しているほど。」
「俺以外の男の方が好きになったのか?」
「違うわ。あなた以外の男になんて興味がないもの。」
「俺を焦らしているのか?」
「違うわ。私はそんなに器用な女じゃなくってよ。」
「俺をぉをぉをーっ!」
 遂に薔薇和は、窓子の掘った落とし穴に落ちた。落とし穴第73号であった。
「……だから、来ないでって言ったのに……。」
 窓子は、このまま尻をはしょって逃げてしまおうかとも思った。しかし、逃げ続けていてはいけない。こうして再び薔薇和に出会うことができたのだから。覚悟を決めた窓子は手帖を取り出し、落とし穴の位置を確認しながら、第73号落とし穴に向かった。愛する薔薇和の元へ……ロープを持って……。
「薔薇和さん、大丈夫?」
「何だ、これは?」
「落とし穴よ。だから、何度も言ったでしょう、来ないでって。」
 薔薇和は穴の底で腰をさすっている。穴の深さ約3メートル。さらに、壁面は土と氷と雪のハイブリッド素材で、非常に滑らか。素晴らしい光沢を放っている。自力で抜け出すのは到底無理な深さと材質の落とし穴である。
「お前は、この穴の存在を知っていたのか?」
「もちろんよ。私が掘ったんだもの。」
「じゃあなぜ、この落とし穴のことを言わなかったんだ?」
「だって、恥ずかしいじゃない。女のくせに落とし穴を掘るなんて。」
 近くの木にロープを縛りつけ、穴の中に他端を投げ入れる。穴の壁面に足を滑らせながらも、薔薇和は持ち前の腕力でロープをよじ登ってきた。
 ひしと抱き合う薔薇和と窓子。
「私のこと、怒っていない?」
「怒ってなんかいないさ。落とし穴なんて、可愛いもんじゃないか。」
「よかったわ。嫌われるかと思って、心配してたの。」
 2人は抱擁を解き、窓子が先に立って歩いた。
「薔薇和さん、怪我はなかった?」
「ああ、少し腰を打って、足を捻ったくらいだ。」
「大事がなくて、本当によかった。」
 胸を撫で下ろす窓子であった。
「でも、まだ気をつけてね。」
「なぜ? また、落とし穴ぁあぁあーっ!」
「そう。」
 今度、薔薇和が落ちたのは、第59号落とし穴であった。
 注意する端から穴に落ち続ける薔薇和は、老夫婦の家に着くまでに、何と34回も落とし穴に落ちたのであった。全く、窓子の落とし穴掘りの腕も大したものである。



「おじいさん、おばあさん、どうもありがとう。1年間、お世話になりました。」
 今、窓子は薔薇和と共に、シベリア鉄道最寄駅にいた。犬橇ではなく、ちゃんとした馬の引く橇に乗った老夫婦が、目に涙を溜めながら見送りをしている。
「窓子や、また遊びに来ておくれ。」
 老婦人がショールの端で、目頭を押さえた。
「必ず、避暑に来ますわ。」
「手紙、待っとるぞ。住所はわかっとるな。」
「大丈夫、ちゃんと手帖にメモしてありますから。月に一度、いえ、週に一度、お手紙します。」
 窓子の瞳も潤んでいる。
「汽車が来たぞ。」
 薔薇和の声に、窓子はコートの袖で涙を拭った。
「それじゃあ、また来ます。」
 2人は汽車に乗り込んだ。ゆっくりと動いていく汽車の窓から手を振る窓子と薔薇和に向かって、老夫婦が声の限りに叫んだ。
「今度来る時には、2人の子供の顔も見せておくれ!」
 顔を見合わせる薔薇和と窓子。頬を紅く染めた窓子は、にっこりと微笑みながら、老夫婦に向かって、さらに大きく手を振るのであった。



「麗しい物語ね……。」
 シベリア鉄道の質素なコンパートメントのシートに座って、屁子(ぺこ)がしゃくり上げながら呟いた。大粒の涙を流し、鼻の頭は真っ赤、アイラインは流れ出してタヌキかアライグマのようである。
「ああ。一時はどうなることかと思ったがな。」
 埴春(はにはる)がポケットから男物の白いハンケチを出して、屁子に渡した。
「そうね、彼女が雪の中で永遠の眠りについてしまうかと、私、本当に心配していたの。でも、あの時の姿、白い雪と青白い肌と紅い唇が……綺麗だったわ……雪の精が眠っているようで……。」
 うるうるとした目で、窓の外の遠くを見つめる屁子。
「俺が言ったのは犬のことだ。泡を吹くまで走らせるなんて動物虐待じゃないか。しかし、あの老夫婦のおかげで犬たちも元気になってよかったよ。」
「埴春さんったら。窓子よりも犬の方が大切だと言うおつもり?」
 屁子が、ぷっと頬を膨らます。それを見た埴春は、楽しそうに微笑み、話を変えた。
「それにしても、薔薇和の体力と気力も大したもんじゃないか。文字通り、自分の足で追いかけていったんだからな。」
「もし私が一人旅に出たら、あなたは追いかけてきて下さる?」
 拗ねた表情で屁子が聞く。
「もちろんだとも。」
「本当? ……嬉しい。」
 屁子は満面に笑みを湛えながら埴春にすり寄り、甘えるように埴春の肩に頭を凭せかけた。
「だけど、埴春さんが太平洋を泳いで横断する姿や、飢えに苦しみながら汚れた衣服を纏って歩き続ける姿なんて、私とても想像できなくてよ。」
「そりゃあ、できなくて当然。俺だったら、絶対、文明の利器を使うからな。船に飛行機に汽車に電車に自動車。存在するものは使わなきゃ損でしょう。それに、あれほどのことをする体力も気力もありませんよ。特に、追いかける対象が君じゃあねえ。」
「もう、埴春さんなんて、知りません。」
 ツンと顔を背け、シートから立ち上がる屁子。当の埴春は何食わぬ顔で、懐から葉巻を取り出すと口に銜えた。
「立ち上がったついでに、洗面所に行っておいで。そんなに化粧の崩れた顔じゃあ、旅立った君を追いかけて捜そうにも、顔がわからないじゃないか。……それに、君の魅力も台なしだよ。」
 屁子は慌ててハンドバッグからコンパクトを出すと、小さな鏡を覗き込んだ。
「まあ、何てひどい顔なのかしら!」
 コンパクトをパチンと閉めると、埴春に極上の微笑みを向けた。
「これじゃあ、埴春さんが私を追いかけてきて下さらなくても、仕方ありませんわ。」
 埴春は火を点けた葉巻を深々と吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。
「早く化粧を直しておいで。あの2人の愛の物語は、いつ何時、何が起こるかわからないからね。」
 ごく小さな投げキッスを埴春に返答として送ると、屁子は洗面所のドアの向こうに消えた。

*      *      *


 地味なジャージ(ジャージィでもスウェットでもトレーナーでもなく、あくまでもジャージ)に身を包んだAチームは、小高い丘を眼前に、広葉樹と常緑樹の林を背に、晴れ渡った冬の朝の空気を、しみじみと肺胞に行き渡らせていた。準備体操のラスト、深呼吸の最中である。
 今日はAチームの訓練日。しかもハンニバルの言葉によれば、特殊訓練日。一体どんなことをやらされるのやら。
“ハンニバルのことだから、また何か、とんでもないことを考え出すんじゃなかろうか。”
 部下3名は不安で不安で、今にも胃潰瘍になりそうな状態だった。フェイスマンの自慢の髪型はぐちゃぐちゃだし、マードックも今朝から口数が少ない。コングに至っては、朝食の牛乳を半分以上残して、グラスにラップをかけて冷蔵庫に戻したほどだ。
「さて、諸君。」
 ハンニバルが、ふざけているとしか思えないほどのクソ真面目な口調で言った。両手を後ろに組み、ゆっくりとした歩みで3人の前に立つ。
「我が分隊の隊長が、敵の砲撃に倒れた。」
「はあ?」
 フェイスマンが拍子抜けした声を出した。マードックとコングも、口をポカンと開けて“何言ってんだ?”といった顔をしている。
「……いいから続きを聞け。」
 厳しい表情を続けるリーダーの命令に従い、3人は口を閉じて耳を傾けた。
「隊長は重症を負った。命には別状ないが、現在は意識不明のままだ。つまり諸君は、隊長の力を借りることなく、この戦線を生き抜いていかなければならない。」
 ここでハンニバルは、一旦、言葉を区切った。
「しかし、あの丘の向こうから敵の歩兵1個小隊が攻めてくるという情報が入った。偵察部隊からの連絡では、敵軍の人数は20余名、火器はフル装備。まあ、小銃に機関銃、グレネードランチャーにバズーカ砲、手榴弾辺りは無尽蔵にあると思っていればいい。我々の使命は、敵軍を後方の林の中に一歩たりとも踏み入れさせないことである。だが、我が隊に残された武器は、これだけだ。」
 と、足元の黒い木箱を指差す。
「以上、何か質問は?」
「敵はいつ来るの?」
 マードックが眉を顰めながら聞く。
「さあねえ。」
 ハンニバルの答えは冷たかった。
「……俺、隊長役やりたいんだけど……。」
 媚びるような目をしながら、フェイスマンが言う。
「ダメ。隊長は、俺。」
 フェイスマンの媚にも、ハンニバルは屈しない。
「歩兵ってからにゃ、戦車にも乗ってねえし、車にも空飛ぶもんにも乗ってねえんだな?」
 さすがにコングはマトモである。
「もちろん。馬にもロバにも、ラクダにも乗っていない。――もう質問はない? それじゃ、俺はバンに戻ってるから。」
 シビアな表情から一転して、いつものハンニバル・スマイルに戻ると、ジャージのポケットから折れ曲がった葉巻を取り出し、口に銜えた。
「ま、精々頑張って。」
 すたすたと林の中を掻き分けて去っていくハンニバル。
 残された3人、どうする?



 呆然と立ち尽くすフェイスマンと、悪態をつきまくるコング、そして、短いジャージの裾を気にしているマードック。
「……武器って何?」
 フェイスマンが恐々と箱に目を向けた。でも、自分では動かない。仕方なく、コングが木箱の重いフタを開ける。
「何でえ、こりゃあ? M16が3挺、マガジン3つ、シャベル3本、無線機1台。これで何しろってんだ?!」
「無線機があるってことはぁ、ハンニバルが何か通信してくんじゃないかって思うんだな、俺。」
 箱の脇にしゃがみ込み、ジャージの裾を引っ張りながら、丸出しになった背中を一生懸命に隠そうとしているマードックが呟いた。
「そんなこと、言われなくたってわかるってば。コング、無線機のスイッチ入れてみてくれる?」
 フェイスマンに言われて、コングが無線機のスイッチをオンにした。しかし、いくら周波数を変えてみても、無線機はウンともスンとも言わない。もちろん、ガーともピーとも言わない。
「畜生、壊れてるぜ。」
 耳に当てていたレシーバーをかなぐり捨て、コングはフェイスマンを仰ぎ見た。
「直せる?」
「工具がありゃあ何とかなると思うけどよ、ここにゃ何にもねえんだぜ。」
 本当に何もない。叩いて直る昔のテレビとはわけが違うんだから。
「M16のクリーニングキットで、どうにかならない?」
 フェイスマンは、M16のストックを開いて、クリーニングキットをコングに手渡した。
「……ロッドとブラシで何しろってんだ? ま、何もねえよりゃマシか。」
 諦めの表情でコングは地面に腰を下ろすと、ポンコツ無線機に対峙した。
「さ、あっちはコングに任せて、俺たちは穴でも掘りますか。」
 シャベルに手を伸ばすフェイスマン。
「何? 落とし穴掘るの?」
 マードックもシャベルを手に取り、フェイスマンに続く。
「何で俺たちが今、落とし穴掘んなきゃなんないの? 掩体を掘るに決まってるでしょ。タコツボだよ、タコツボ。こんな隠蔽物のない所で撃ち合いやったって弾に当たるだけでしょうが。……もう、しっかりしてくれよ、モンキー。この3人の中じゃ一番上級なんだろ?」
 フェイスマンが早口でまくし立てる。自分より上の階級の者に対する行動ではないと思うが。
「でも、俺、ヘリのパイロットだもん。歩兵じゃないもん。いーもん、どーせ、みんなみたいにいろんなこと知らないもん。俺なんか、ヘリを飛ばして物や人を運んだり、上空からベトコンを掃射したり、ナパームで森や村を焼き払うしかできねーんだもん。」
 普通、それだけやれば充分じゃないか?
「わかったわかった。じゃ、掩体の掘り方を教えてあげるから、その通りに掘ってよ。」
「はーい。」
 そして30分経過。
「フェイス、M16を1挺とマガジン1個、バラしていいか?」
 コングが叫んだ。
「何すんの?」
 穴の中から答えるフェイスマン。
「ハンニバルの奴、無線機の部品を抜き取ってやがった。そんでパーツが必要なんだけどよぉ。」
「M16とマガジンで直せんの?」
「やってみなきゃわかんねえけどな。」
「OK。任せる。」
 さらに1時間経過。
「直ったぜ!」
 コングの声に、土にまみれたフェイスマンが穴から這い出してきた。拍手しつつ。
「何か聞こえる?」
「変なモールス信号が聞こえるな。……125キロヘルツ刻みで入ってくる。」
「ハンニバルだ!」
 フェイスマンが指をパチンと鳴らす。
「どうしてわかる?」
 怪訝な顔のコング。
「ハンニバルのウエストサイズが、125センチなんだ。」
 眉間に皺を2本寄せて、コングは肩を竦めた。
「はい、紙とペン。」
 ジャージ姿でも、紙とペンと計算機だけは手放さないフェイスマン。
「俺に書き取れってのか? こんな無茶苦茶な信号……。」
「暗号かもしんないし。」
 溜息1つついて、コングは信号を紙に書き取り始めた。
「……こいつの繰り返しだ。」
「どれどれ?」
 コングから紙片を受け取り、フェイスマンはそれを読んだ。
「LIVEA VEVISEG VEERUE VMEL GEZ PEXZGEGZ……? やっぱり暗号だね。」
「わかんのか?」
「考えてみる。他のが入らないか聞いてて。」
「おう。」
 わけの判らないアルファベットの連続を睨みつけながら、うろうろと歩き回るフェイスマン。レシーバーを耳に、手持ち無沙汰のあまり、銃の点検をするコング。
「Eの頻度が高いのは普通だけど、何でこんなにVが多いんだろ? Gも多いしなぁ……。XとZにも引っかかるんだよね……。」
 独り言を呟きながら暗号解読に専念するフェイスマンに、コングが声をかけた。
「ファイアリング・ピンの折れてんのが1挺に、ボルトにヒビが入ってんのが1挺。マガジンも1つ、スプリングが死んでやがる。どうする?」
「ん? 銃、不良品だったの? さっきバラしたヤツと交換しといて。」
 上の空でも、適切な指示を与えるフェイスマンであった。
 時刻は午後2時を回ったところ。いい加減ハングリー。
「やった。できた……。」
 フェイスマンが、やっとのことで暗号解読を終えた。
「で、何て言ってた?」
「もー、思ったより簡単な手だったんで、惑わされちゃったよ。俺の頭も固くなったもんだよなあ……。」
「で、一体、何て言ってきたのかって聞いて……!」
「まあまあ、そう急がない。」
 いきり立つコングを、フェイスマンがなだめる。
「では、発表しまーす。“午後3時30分(ヒトゴーサンマル)に攻撃開始”!」
 意気揚々と解読文を読み上げるフェイスマン。それを繰り返し唱え、頷くコング。
「“午後3時30分に攻撃開始”か……。つまり、3時半がタイム・リミットってこったな。」
「…………3時半だって!?」
 フェイスマンが素っ頓狂な声で叫んだ。
「ちょっとちょっとちょっとコング、今、何時?」
「2時10分。」
「あと1時間20分しかないじゃん!」
 暗号解読で頭が一杯だったフェイスマンは、大事なことを忘れていた。――掩体掘り。慌てて辺りを見回したが、それらしいものは、自分で途中まで掘ったタコツボ1つしか見当たらない。
「どーすんだよ、あと1時間20分でコングの分のタコツボを掘らないと……。それに銃も2挺しかないし……。」
「いんや、1挺だ。」
 コングが、フェイスマンの混乱に追い打ちをかける。
「1挺? 何で、何で?」
「さっきな、もしかしたらと思って完全分解してみたんでい。そしたら案の定、ちゃーんと使えんのは1挺分しかなかったってわけよ。全く、何考えてんでえ、ハンニバルは。」
「銃……1挺…………。」
 気が遠のいていくフェイスマンであった。
「こうなったら、シャベル構えて突撃するしかねえな。」
「シャベル……?」
 ハッと思い出すフェイスマン。何か忘れていたような……。
「そうだ! あいつ、どこ行った? モンキー!」
 既にフェイスマンの目は三角。しかし、返事はない。
「モンキー! どこだーっ?!」
「おい、伸び切ったラーメン野郎! どこ行きやがった!!」
「モンキーってばー! 怒ってないから出といでよー!」
 逃げたペットを捜しているわけではない。
「いい加減に出てきやがれ、このベータ・エンドルフィン野郎め! ……どっかで寝てやがるんじゃねーか?」
 次第にムカつき始めているコング。そりゃあ、自分たちが懸命になって作業をしている時に、寝ているか遊んでいる奴がいたら、ムカつくのも当然だな。
「仕方ない。時間切れまで掩体を掘ろうよ、コング。」
「ああ。しっかしホントに、あのS字結腸野郎、どこ行っちまったんだ?」
「さてね。どっかに埋まっちゃったんじゃないの?」
「そんならいいがな。」
 超大急ぎで掩体を掘るフェイスマンとコング。その早いこと早いこと。既にフェイスマンの掘っていた掩体を拡大して、2人用掩体にするまでに、1時間とかからなかった。



 そして、午後3時30分。
 掩体に隠れて1挺しかない銃を構えるフェイスマンと、木の枝で作った即席投擲装置に石をセットするコング。じっと丘の方を見つめる。緊張の一瞬。
「やあ、ご苦労さん。」
 林の中からハンニバルが現れ、2人の緊張を解く。
「どんな感じかな? 銃1挺に、投擲機を作ったか。」
 満足気に頷く。
「掩体はどうかな? ……ちゃんとグレネード・サンプも掘ってあるね? でも、何で掩蓋部がないの?」
「……時間がなかったから……。」
 俯き加減のフェイスマンが答える。
「敵は丘を越えて攻めてくるんだから、斜め上方からの攻撃でしょ。掩蓋部がなかったらおしまいでしょうに。盛土も低すぎるし、壕の深さも足りない。――掩体は40点。以後、地形をよく考えて掩体を構築すること。」
 次にハンニバルは、フェイスマンの手からM16を取った。
「1挺分しか使えないことに気づいたのは誰?」
 フェイスマンがチラリとコングの方を見る。
「コングか。銃については100点だ。」
 無線機のスイッチを入れ、レシーバーを耳に当てて頷くハンニバル。
「これを直したのも、コングだな?」
「ああ、俺だ。」
「暗号文はわかったか?」
「“午後3時30分に攻撃開始”でしょ?」
 これは自信を持って、フェイスマンが答えた。
「そうだ。解読までに、どのくらいかかった?」
「……2時間半くらい。」
「60点。」
 きっぱりと言い放つハンニバル。
「えー?」
「30分で解読できれば100点だったんだがな。……で、これだけで、1個小隊と渡り合うつもりだったのか?」
「……うん。」
 フェイスマンが、しおらしく頷いた。と、その時。
「たーいさー!」
 丘の中腹部でマードックが手を振った。
「モンキー! ……あいつ、今までどこ行ってたんだ?」
「あのセンジュナマコ野郎!」
 コングが掩体から飛び出すと、マードックに向かって一直線に走り出した。罵詈雑言喚きつつ。
「このダイダイイソカイメン野郎! アンドンクラゲ野郎! タテジマイソギンチャク野郎! ケハダフクロムシ野郎、サメハダオウギガニ野郎、ホンダワラコケムシ野郎、イガグリキンコ野郎スカシカシパン野郎オナガオタマボヤ野……!」
 3人の視界からコングが消え、ズウンという地響きが辺り一帯に響き渡った。
「ふむふむ、落とし穴ね。誰のアイディア?」
 心から感心したように、ハンニバルが聞く。
「俺じゃないよ。」
 もう、どうでもいいフェイスマン。
「大尉、こっちに来てくれないか?」
「ほーい。」
 落とし穴を避けて、マードックが小走りにやって来る。
「お呼びで、大佐?」
「落とし穴計画を企てたの、モンキー?」
「いや、それが、掩体掘ってるつもりだったんだけどさ、フェイスがちゃんと教えてくれなくって、だんだんわけわかんなくなっちゃって、気がついたら落とし穴になってたってわけなんだけどね。」
「で、いくつ掘ったの?」
「8つくらいかなあ……。3、7、2、1、6……。」
 頭の中で数えているマードック。呟いている数字が数列をなしていないのは、この際、気にしないでおこう。
「ん、今コングが落ちたの入れて8つ。」
「掘ったの、どこら辺?」
「書くものと書かれるもの、ある?」
「フェイス、紙とペン貸して。」
 ずいっと出されたハンニバルの手に、無言でフェイスマンが紙とペンを押しつける。
「ここに丘があって、こっちに林があって、今、俺たちがいるのがここだとすると、ここと、ここと、ここと……………。で、合計8個。」
「うむっ、完璧! これこそ、俺の求めていた配置、俺の求めていた作戦だ。モンキー、満点!」
「ヤッホーイ!」
 勝利のVサインを高々と掲げるマードック。
「ハンニバル、俺は?」
 じっとりとした目つきでマードックを見るフェイスマンが、ハンニバルに聞いた。
「お前は50点。」
「50点? 暗号解読は60点だったじゃない?」
 不服そうに文句をつける。
「掩体の件で、10点マイナスだ。」
「俺、100点〜♪ フェイス、50点〜♪ 俺はフェイスの2倍〜、フェイスは俺の半分〜♪ やっぱり〜〜俺のほ〜うが〜〜、えっら〜〜〜いんだあ〜〜〜〜〜♪」
 久し振りに出た、マードックの変な歌。
「さてと、訓練も終わったし、腹も減ったし、半端な時間だけど、食事に行きますか。払いは最下位のフェイス持ちね。」
 葉巻を銜え直して、ハンニバルが言った。
「そういうつもりなら、ファストフードか何かにしてほしいんだけどなあ……。」
 フェイスマンの呟きは、相変わらず誰の耳にも入らない。
「モンキー、何食べたい?」
「俺、シーフード食べたい。飛びっ切り新鮮なヤツ。ロブスターの足がもげてたり、クルマエビのヒゲが折れてたりしてないのがいいな。」
「シーフードか。それじゃ、ちょいと値は張るがいい店があるから、行ってみる?」
 肩を組み合ってシーフードの話に花を咲かすハンニバルとマードックの後ろについて、木箱を引きずりながら、とぼとぼと歩いていくフェイスマンであった。
“こんな訓練、もうイヤ!”



 道路脇に停めたバンに乗り込んだAチーム。いつもの自分の席について、ふと、忘れものに気がついた。空っぽの運転席……。
「よし、モンキー、お前が運転しろ。」
 リーダー・ハンニバルが即座に機転を利かす。
「了解っ!」
 土煙を立てて、猛烈なスピードで走り去る紺色のバン。こうして、Aチームは特殊訓練地を後にしたのだった。
 その後のことは、考えたくない。
【おしまい】
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