Titleよもやま話

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月15日(火)21時12分40秒]

倭人条に出てくる官名の音訳は一度に行われたものでしょうか、それとも幾度にも渡って行われたものでしょうか。
以下の考察はありふれたものなので、たぶん既出と思いますが、とりあえず素人推理を行ってみます。

まず三国志魏書の倭人条の官名と、魏略逸分に出てくる官名を比べます。
異なるのは以下の二つです。

1.卑奴母離 卑奴
2.泄謨觚  曳渓觚

翰苑残巻の状況から、1.は脱字を疑うことも出来ます。
2.はどうでしょうか。
翰苑は唐代の成立で、唐代では太宗の諱「世民」を避け、「泄」を「洩」に改めたようです。
また「渓」と「謨」は誤写の可能性がありそうに思います。
どちらがどちらに間違えたかですが、翰苑残巻の状況から「謨」を「渓」に間違えた可能性が高いようです。
「渓」は日本書紀α群でも日本語の音写文字として現れるので、それ自体変な字ではないようですが、次清音字であり、倭人条全体に一時も次清音字が現れない傾向にも反します。
したがって以下のような推理が出来ます。

唐代初期翰苑成立期まで、「泄謨觚」として伝わっていた。
翰苑においてこれが太宗の諱「世民」を避け、「洩謨觚」に改められた。
翰苑残巻が書写されるまでのいつかの時点で、「洩謨觚」がさらに「曳渓觚」に誤られた。

でも本当に一度で音写されたものでしょうか。
「泄謨觚」がオリジナルとすると、「多模」の「模」と同音異字が現れます。
「多模」の「模」は誤写でしょうか。
同一人物が音写して、こんなに近くで、同音異字を使うのでしょうか。
倭人条全体として同音異字は極めて少ないそうです。
伊都国までと奴、不彌では、里程の表現方法が異なるようですが、これは書いた人間が異なる可能性はないのでしょうか。
「卑奴母離」の「離」が「り」を現し、「彌彌那利」の「利」が「り」を現すなら、なぜ書き換えたのでしょうか。
ここでも、不彌までと、投馬以降では、里程の表現方法が異なります。
字の対立と、表現方法の変化のタイミングの一致は偶然でしょうか。
「離」と「利」の場合は、日本語をよくしらず、日本語の異音を聞き分けてしまったのでしょうか。
それにしては、「卑奴母離」のような難しい音を良く拾っているようにも思えます。
疑問は尽きません。


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