元の発言 [ Re: Title高麗が原 ◎「大正解」だそうです ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 12月11日(水)21時50分12秒 ]
>> >> 邪馬台国の存在は魏志東夷伝に初めて記載されたのでありここから離れて邪馬台国を論じるのは賛成しかねます。
>> >> 解釈の上で他の文献を参考にするのは必要があるでしょうが。
>> 加えるに、「漢“倭”奴国」は九州ですしネ。
金印の刻字は、「倭」でなく「委」でニンベンがありません。
「倭奴国=北九州」であり、故に「倭=日本列島」であるとする論拠の一大物証として、この志賀島発見の「金印」が必ず提示されます。しかし、果たして重大な決定的物証として、その根拠はあるのでしょうか?
以下少々長くなりますが、『邪馬台国論争・終結宣言』より山形明郷氏の論を引用します。
東漢の光武帝が下賜したと伝えられる「印綬」が、志賀島で発見されたといわれる「金印」なりとすれば、なにゆえにそのような物が、かつて、その周辺に古墳群なり邑落集合蹟なりの存在が確認されていない田畑などで発見されたのか。
しかも、もう一つの疑問は、たかだか「金印」一つの発見でその後、他に何ら「倭奴国」所在を裏付ける程の決定的物証なり痕跡が発見発掘されていないのである。
このことは、近時、考古学界の努力の賜か、いたる所で我が国古代の歴史を語る遺跡遺構が数多く発掘発見されている。
しかしてこのことがマスコミを通して報道されるたび、それらの遺跡遺構の類を如何にして「邪馬台」と結びつけようかと努力しているにもかかわらず、いっこうに存在を立証し得る決定的物証が見当たらず、また、納得のゆく見解も披瀝されざるまま、いつの間にか、その試みの熱意もロマンの香りも薄れゆくのに類似している。
また、仮に、である。何らかの遺物が発見されたとしても、時代の推移変遷でどのようにでも動いてしまう物であれば、存在を裏付ける決定的物証にはなり得ない。
どのような物が決定的物証になるかといえば、高句麗広開土王の石碑の如く、鴨緑江北岸に千数百年の歳月を経ても、なおかつ、厳然として動かざるような物であれば、鴨緑江以北が高句麗の領域であり、文献記述にもあるように、その石碑の在る所からは「倭」の勢力を一歩も入れず、逆に追討し「倭」を潰走させたと言うことも肯けるのである。
「金印」が発見されたといわれる所から、倭奴国の存在を裏付ける遺品遺構の類は、恐らくは今後二度と現れないであろうが、先に発見されたという「金印」も、或いはである。至極短絡的に言えば、渡来者の遺品ないしは略奪物の廃棄されし物であった可能性もある。
その他発言: