元の発言 [ Re: Title高麗が原 ◎「大正解」だそうです ] お名前 [ 牛頭 ] 日付 [ 12月11日(水)00時02分51秒 ]
>> 山形先生は帯方郡を何処に、狗邪韓国を何処に比定されているのですか?
>> そして對海国は?一大國は何処に比定されているのですか?
帯方郡は、定説として現韓半島ということになっておりますが、これは古代東アジア史の大きな誤謬の一つです。正しくは、中国・遼寧省・現「海城市」で、遼寧省「熊岳城」が300年代後半の最後の帯方郡治であり、その後、百済の台頭によって消滅しているそうです。
狗邪韓国、封海国、一大國の比定について、山形明郷先生は、朝鮮海峡・対馬海峡の間に点在する島嶼名であろうと思うが、それ以上言及してみても無意味ではないかと危惧しております。その理由は、次のレスポンスの箇所に記します。
>> 邪馬台国の存在は魏志東夷伝に初めて記載されたのでありここから離れて邪馬台国を論じるのは賛成しかねます。
>> 解釈の上で他の文献を参考にするのは必要があるでしょうが。
通称『魏志倭人伝』は、撰者・陳寿が自ら出向して実地踏査・輯録したものではありません。陳寿は洛陽以北へは一歩も踏み出していないとのことです。しかもその伝の内容は、陳寿とほぼ同年代の魚拳(ぎょけん)が撰した『魏略』を母胎とし、他の多くは伝風聞が主であり、『帝紀』以外それ程信憑性のあるものとは言い難いそうです。
山形先生は、この伝をもって日本の国の史書とするには余りにも粗雑すぎるとし、敢えて附名すれば「韓半島古伝雑記」或いは「韓半島古伝風聞雑録」とでも言い得る程度のものでしかないと断じています。
>> >> 山形明郷先生は、古代東アジア史をその第一歩の「古代朝鮮」の所在地の解明から検証し直しし、古代東アジア史の従来の定説が間違っていることを指摘しております。
古代東アジア史の第一ページ「古代朝鮮の所在地」の定説に重大な誤りがあるため、その後に続く上記「帯方郡の所在地」も一瀉千里、韓半島に在ったと誤謬を重ねているのだと論じています。
この所在地は、ともに韓半島ではなく中国・旧満州であり、この所在地・検証を出発点としない限り、正確な古代東アジア史も古代日本史も理解することは全く不可能とのことです。
在野の研究家・山形明郷先生による、古代東アジア史研究者中で前人未踏・最初である極めて重大なこの問題提起に対し、日本のアカデミズムは依然として沈黙し口をつぐんでおります。
>> >> もと韓国国民大学学長・李鐘恒(イチョンハン)氏は、『古代韓国と倭の豪族』の中で、次のように主張しています。
>> >> 「倭と言えば、すぐそれは日本列島内の住民で、大和政権下にある人達であると考えるのが常識になっている。この常識は新羅の統一以後は正しい。然し、紀元前後から六世紀中頃までは、この常識は通じないばかりでなく間違いである。」
>> 倭が呉越地方に源を発し朝鮮半島南部、及び九州に住んでいたという話なら今では大方の人が賛成している事でしょう。
>> 私はここで畿内は倭人の国ではないと言う考えの下、議論してきました。
上記、イチョンハン先生の言は下記に続きます。
『倭人は韓半島の南部、すなわち慶尚南道の海岸地帯から、全羅南北道の広範な地域にわたって住んでいた「在地原住民」である。これら倭人の居住地は非常に広く、彼らの数を全部集めたら厖大なものになったものと思われる
る。』
李教授は、六世紀以前の「倭・倭人」を指して「在地原住民」、或いは「土着せる倭という名の朝鮮人」として記しています。このような指摘は、今日現在我が国で定説化され、かつ常識とされていた説を大きく揺るがす存在で、我が国の史家や研究者らとは雲泥の差のある卓見と言えよう。 ― 山形先生が論評し絶賛しています。
「倭人」と「日本人」とは、厳密に区別されるべきものではないでしょうか?
その他発言: