元の発言 [ Re:荒神谷遺跡銅剣 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月26日(月)07時07分06秒 ]
奴国があるとき侵攻軍の攻撃を受けて金員紫綬は紛失、平原女王は殺害されているようです。(この侵攻軍と邪馬台国の関係は不明ですが、邪馬台国が旧銅鐸圏を継承する農業国家的であるのに対して、侵攻軍は海洋的、悪く言えば海賊であったのではないでしょうか。)その後、卑弥呼時代に入っては「東南して「奴國」に至るに百里。官曰く「[ジ]馬觚」、副曰く「卑奴母離」。二萬餘戸有り。」 と「じまこ」という相当個性的な名前の首長がいて、人口も邪馬台国の7万、投馬国の5万に次ぐ倭国3大国にまで失地を回復しています。ここまで来ると殺された女王の後継者も立てられ、志賀島あたりで宗教活動に専念、旧銅剣銅矛文化圏の首都までにはなっていたことは考えられますが、中央政府にもいわゆる奴国派(古賀ちひこといって旧銅剣銅矛文化圏南部の道路建設推進を唱える人がいたかどうか(^^;)は当然いたはずですが、そこまでくるのに半島倭人勢(これは現地駐在員、大使館員的なものでエリートではあったが余り実力発揮はできなかった。華僑半島系は居住国に対する服従の念はまったくなく政権の移るに任せて移動した。)列島奴国派は中央進出には熱心ではなく有明海方面、沖縄、華南方面での密貿易など後の島津藩的な性格を帯びていった。中央政府とはあまり馬が合わなかったのではないでしょうか。西郷隆盛も新政府には長くいられなかった、ましてや旧前漢の窓口で日本代表であったものが、中央政府にへこへこするはずがない。イヤー、私の頭ではいくら絞ってもこの辺のことはよくわかりません。失礼の段はご容赦ください。
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