時代により言葉の意味は変る

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [7月24日(水)18時28分40秒]

元の発言 [ Re: おいおい ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月23日(火)20時33分00秒 ]

>> # 「冢」に大きいも小さいもないのです。
>> 巨大な始皇帝陵でも、中に馬車が通れるような墓道がある大型墳丘でも冢ですし、小さな土饅頭でも冢です。

だから、巨大な始皇帝陵と馬韓人の住居を比較して似ているとは言わないだろうと言っているのです。

時代が変って冢も小さくなり、土饅頭型の墓が馬韓人の住居と似ていると言う事を「形如冢」で表現したのだと思います。

問題は「形如冢」で晋の時代の中国人がどのような形を思い浮かべたかです。
時代によりもしいろいろな形をした冢があったにしろその時代に最も一般的な形が円墳で、「形如冢」と言う言葉は円墳を思い浮かべ
させる為の言葉です。
始皇帝陵を思い浮かべさせる事はないと思います。

>>  わざわざ墳丘を作らず山の中腹に横穴を掘って墓を作るというのは当時よくありました。
>>  孔明が遺言したのは、定軍山でそういう風にするか、あるいは山中でもたいらな場所に築くなら土盛りは最低限でいいと、平服で葬れ副葬品はいらないよと、そういうことなんです。

>>  それに、「棺が辛うじてはいる程度の大きさにしろ」とは言っていませんよ。棺がはいれば十分なのだから徒らに大きくする必要はないという意味です。
>> 「冢足容棺、不須器物」の「足」と「不須」の用法に注意してください。

>>  ただし勉県にある実際の彼の墓は20mくらいはありそうですが。

検索したら高さ6m周囲60mの円錐型と書いてありました。直径にすれば19m位ですね。
高さは初めはもっと高かったかも知れませんが直径は変らないでしょう。
諸葛亮墓のような形なら韓国の竪穴住居に似ていると言えるでしょう。
孔明の遺言にもかかわらず大きな墓が作られたんですね。
劉備の墓はもっと大きかったようですが「冢」だったんでしょうか?

私が思うのは三国時代「形如冢」と言う言葉で思い浮かべる形は諸葛亮墓のような円墳しかなく、冢と書かれた卑弥呼の墓は円墳だろう
と思われるという事です。
晋、三国時代は「形如冢」と言う言葉が「冢」は円墳を表していた事の証明です。

いずれにしろ円錐型の墓を思い浮かべつつ「形如冢」と言ったのでしょう。
そして「居處作草屋土室」が韓国の竪穴式住居を表しているのは間違いないでしょう。
三国、晋の時代は「冢」は孔明ほどの武将の墓も20m程度で、30mもあれば「大作冢」と書いても変ではない。

「山に因りて墳を為し」は大きい墓を作るなら自然の山を利用しなさいという意味ではありませんか?



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