1月号破損データの修復は少々お時間をください。
倭王武の昇明2年(478)の上表文に、
渡りて《海北》を平ぐること九十五国、… 道百済を遙て、船舫を装治す。
而るに、句驪無道にして、…
とあるが、この《海北》海北という表現は、どういうことだろうか。
この百済や句驪という朝鮮半島の南半部分を指して、《海北》といえる場所はどこであ
ろうか。
近畿大和から見て、《海北》といえるだろうか。
どうみても、近畿大和から見ると、《真西》としか思えない。
一方、「紀」の神代紀に、…
即ち、日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、
海の北の道の中に在す。号して、道主貴と曰す。
此、筑紫の水沼君等が祭る神、是なり。
とある。
この、「海の北の道」というのは、宇佐嶋や筑紫という九州の地に立ってみれば、適切
な方角といえるだろう。
ところで、「記・紀」をみてみると、まず、「紀」には、…
神功50年 千熊長彦・久氐等、百済より至る。是に皇太后歓びて久氐に問いて
曰く、
《西の海》の諸の韓を、既に汝が国に賜ひつ。
神功52年 (久氐)乃ち、孫枕流王に謂いて曰く、
今、我が通ふ所の、《海の東》の貴国は、是天の啓きたまふ
所なり。
是を以て、王恩の乗れて、海の**西を割きて、我に賜へり。
と、近畿大和からは、百済を《海の西》ととらえ、百済からは、近畿大和を《海の東》と
してとらえている。
次に、仲哀「記」には、…
天皇、訶志比宮に坐しまして、熊曽国を撃たむとしたまひし時、… ここに大后神
を帰せたまひて、言教へ覚し詔りたまひしく、『西の方に国あり。金銀を本と為て、
日の炎輝く種種の珍しき宝、多に其の国に在り。吾、今、其の国を帰せ賜はむ』との
りたまひき。
爾に、天皇答へて白したまひしく、『高き地に登りて、西の方を見れば、国土は見
えず、唯大海のみあり。』
とある。
ここでも、仲哀は、《西》を見てみたら、海しかなかったと正直に述べているが、これ
は、近畿王朝内のこれまでに知りえた認識をもとにしていることを吐露していることにほ
かならない。
しかし、先に記したように、倭王武等の倭国側の認識は《北》である。
よって、『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではないことが、これからも立証で
きる。
元の発言 [ Re: 主線行程・傍線行程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月7日(木)11時14分29秒 ]
難解で、わたしには良く理解できません。もう少しわかりやすく解説していただくことは可能ですか?
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その2) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月6日(水)19時14分36秒 ]
>>
>>
#よくわからないご意見です。
「東千里」は「東」へ、せいぜい対馬〜壱岐間と同じくらいの距離。実際の地理を知らなきゃなおさら、これ以外の理解は成り立ちませんが。
大和トンデモ説に固執しているおにりんさんの感覚では、どうなっているんですか。(意外と、まじめに琵琶湖北岸だの佐渡だのを考えていたりして ^ ^; )
元の発言 [ Re: あいかわらず ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月7日(木)11時03分30秒 ]
>> 何度も言うように、そういう人ばかりではないし、まだその説は主流でないです。石野博信氏あたりの本をきちんと読んでから発言するように。
>>
>>
>>
>>
>>
さすが おにりんさんの冷徹な見方では
邪馬台国畿内説の多くは理論ではなく、願望だと言う事ですよね。
理屈は後からついてくる。九州説にもこういう人が結構多いけど。
>>
>>
>>
>>
孫引きですが、多分福永氏だと思います。
安満宮山古墳の1号鏡について
「1号鏡は図像文様バランスや立体感を欠く点からみて、神獣鏡づくりの熟練工人の手によるものとは考えがたい」
と1号鏡の粗末な仕上がりを認めた上で、その理由に
「技量の劣る工人まで動員されていることは、最初期の三角縁神獣鏡の製作がかなり突貫工事的な状況下で行われた
可能性を示唆している。」
と言うような発言をしているらしいですがどう思われますか?
精緻に見ている人というのはこういう見方をするものですか?魏鏡であって欲しいという願望抜きで?
もっとも出来そこないだと言うことすら認めない狂信者もいますが。
こういう人たちと王氏との議論がかみ合わないのは当然です。
粗末な仕上がりの製品を魏鏡と言われては中国人のプライドを傷つけたでしょうね。
>>
>>
>>
たしかに感覚的ですが不良品に近いようなお粗末な鏡を魏鏡と信じろと言われても。
元の発言 [ Re: 主線行程・傍線行程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月7日(木)12時38分51秒 ]
新唐書地理志の末に引かれている賈耽の著述の書き出しに
次のようにあります。
「営州、西北・・・・・・・至湟水、(傍線行程)
営州東百八十里、至・・・又・・・ (直線行程)
至安東都護府五百里、府故漢襄平城也、(直線行程)
東南至平壌城八百里、(傍線行程)
西南至都里海口六百里、(傍線行程)
西至建安城三百里、故中郭県也、(傍線行程)
南至鴨緑江北泊シ勺城七百里、故安平県也、(傍線行程)
自都護府東北、・・・又・・・ (直線行程)」
ALEXさんは、
>> 列挙の間に「隣国nの説明」が挿入されることは皆無であります
といわれますが、「府故漢襄平城也」「故中郭県也」「故安平県也」
と挿入されているように思いますが、いかがでしょうか。
私は基本的に直線行程と傍線行程は接続詞によって書き分けられている
のだと思います。
榎一雄氏「魏志倭人伝の里程記事」
a型・・・A地よりDに至るB方向にC里
b型・・・A地よりB方向にC里でDに至る
『a型の表現方法を傍線行程とするのは、必ずしも無理ではない。』
高橋善太郎氏「魏志倭人伝の里程記事をめぐって」
『a型とb型によって、直線行程と四至が書き分けられているわけではない。
直線行程の表現にはほとんど例外なく「又」の字で次々につなぐ方法を
とっている。「又」の代りに「乃」の場合もあり、「又」や「乃」
がない場合には、前出の地名を受けてそこから出発する関係を明らかに
するなどの方法を用いている。そして四至の説明の場合には、
「又」或いはそれに相当する関係詞がない。直線・四至の区別は「又」
の有無によると言わねばならない。(正史のいくつかの里程記事により
例証している。)』
これは正史の記載法の原則なのでしょう。高橋氏はこの原則に従えば、
末盧国からの放射式となると述べています。
ただし、倭人伝では例外になっている部分もあるかもしれません。
私は「郡使往来常所駐」から、伊都国からの放射式も考えられると
思っています。そのためには「又」を省略、あるいは脱落したと
しなければなりませんが。
なお、高橋氏は梁書の記述に関しては、
(1)魏志とは別の史料によった
(2)魏志又は同系統の史料によって書き誤った
可能性を推定しています。私は(1)の可能性が高いと思います。
また、「水行十日陸行一月」は「水行すれば十日、陸行すれば一月」
と読むべきことも指摘されています。(「陸行一月」の妥当性は疑問が
残りますが。)
元の発言 [ Re: 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月7日(木)10時04分00秒 ]
「ム」との関連から言えそうな気がしたもので。
一音節の場合,「チ」「ヒ」「ミ」などがあり,
大野説流だと「極めて原始的な素朴な霊格の一つ」ということ。
#大野説では勿論,こういう考え方は嫌うだろうし,
#後世の言霊説については否定していますけど。
>> いままで印象として、神功皇后と天照大神をいっしょくた
>> にする議論はありませんでしたね。
>> トンデモ系ではどっちも九州の「ひと」で、ってこと
>> だったのに。
半島でインド人の姫が生んだ皇子と日本に渡り・・・
なんて例の伝承はどうでしょう?
いわゆる「あまてる」神社の件で,
九州一本槍というのは何ですが,
壱岐・対馬辺りの果たした役割は重大視されるべきかと。
神功伝承の場合,辛国息長大姫大目命だったかな,???
この辺りも,単純に渡来系と見てよいのかどうか,
よく分からないですけど。
記紀の神名の場合,後世の仮託とか,
言霊からくる観念的な命名とか,仮の命名とか,
神威を憚って二義的な神格で代用して,
上の上,奥の奥を暗示するとか,
そういう作りも気になりますねー。
天照る,という場合にも,「日の神」はよいとして,
昼間の広大な明るさに関わるのではないかとか,
もっと精神的な光明と関わる神名であろうとか,
まぁ,いろいろ耳にしますわな。
このように視点を広げてゆくと,
別の神様や他の神格とリンクしてくるという,
曼陀羅ふうな諸説があって,
伊勢の祭神なんかについてすら,
実は・・・なんてことが言われている。
名前を超えた実体・実在感との関わりもあり,
記紀伝承の場合,
ある一柱の神との感応を死守しているフシがあります。
あるいは,古代人が自然界から受けた,
素朴な実感と霊性との関わりからくる神観念で,
登る太陽,真昼の太陽,についての体験なんかも重要。
例えば,大和について,
「あまつみそらとよあきづねわけ」という場合の,
「あまつみそら(天御虚空)」とは?
とかですねー。
こういうのは,観念的なものかもしれないが,
取りあえず,実際に空でも眺めて,
実感するしかないかもしれないですから。
空気の澄んだ高地で天頂を眺めると,静寂にして,
紺碧というか昼間なのに漆黒にすら見える,
とかの経験ってありませんか?
この辺りのことは,民俗学のほうで,
沈む太陽や磐座の霊力を説く方もいるので,
奇異ということはないはずですねー。
「天照らす日霤女尊」という場合には,一応,
「さしのぼる日女の命」との対応がみられる,と。
「天足らす」という場合,何か対応があるだろうか,
というわけで,調査続行。
元の発言 [ Re: 主線行程・傍線行程 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月7日(木)14時40分33秒 ]
営州、西北・・・・・・・至湟水、(傍線行程)
営州東百八十里、至・・・又・・・ (直線行程)
至安東都護府五百里、府故漢襄平城也、(直線行程)
東南至平壌城八百里、(傍線行程)
西南至都里海口六百里、(傍線行程)
西至建安城三百里、故中郭県也、(傍線行程)
南至鴨緑江北泊シ勺城七百里、故安平県也、(傍線行程)
自都護府東北、・・・又・・・ (直線行程)」
>ALEXさんは、
>>> 列挙の間に「隣国nの説明」が挿入されることは皆無であります
>といわれますが、「府故漢襄平城也」「故中郭県也」「故安平県也」
>と挿入されているように思いますが、いかがでしょうか。
# 今回は「陳壽が参考にしうる先行史料であるところの漢書から傍線行程の法則性を抽出すると、却って直線行程を証明してしまう」という論点ですので、漢書から抽出される法則性が新唐書に適用できるか否かは別の問題であります。
また、ここでの「府故漢襄平城也」「故中郭県也」「故安平県也」はすべて旧地名を示した注釈的な挿入句ですので、注釈の竄入である可能性もあります。いづれにせよ、漢書や倭人伝の例で規則的に各国の戸数や官名を記載しているのとは少々文脈が違うように思います。
しかし、面白い機会ですので、試してみましょう。
まず、「府故漢襄平城也」が挿入されている位置を見ましょう。
営州からは直線的に安東都護府まで説明してきました。それでは「東南至平壌城八百里」は、どこから東南八百里なのでしょうか?もちろん安東都護府(旧襄平)から東南八百里で平壌に至るのであって、営州からではありません。つまり、これまで営州基点で表記されていましたが、「府故漢襄平城也」という説明が挿入された箇所から安東都護府(旧襄平)を基点とした表記に変わっています。
東南至平壌城八百里、
西南至都里海口六百里、
西至建安城三百里、故中郭県也、
この3つは傍線行程で、安東都護府(旧襄平)を基点として放射的に記載されています。
次に、「故中郭県也」と説明されている建安城ですが、これは現在の営口市近くですから襄平から「西至」という方位は少々狂っているようです。
さて「南至鴨緑江北泊シ勺城七百里、故安平県也。」の「南至」の基点は何処でしょうか?鴨緑江北岸の泊シ勺城といえば現丹東市近くであって、安東都護府(旧襄平)から平壌城に至る街道の丁度中間地点あたりに位置します。となると、襄平基点では「東南至平壌城八百里」と「南至鴨緑江北泊シ勺城七百里」は方位的にも距離的にも不整合です。シ勺城から平壌まで差し引きたった百里ということになってしまいますし、だいいち同じ街道上にある城市ですから別々に書くのも変です。
これを、「故中郭県也」という建安城の説明が挿入されているから基点が建安城に変わったのだと考えると、営口から丹東は山脈越えルートになりますから迂回路を考えると距離的な不整合はいちおう解消します。やはり説明の挿入によって基点が移動したようです。
ここで「故安平県也。」と挿入されていますから、何もなければここから丹東基点に変わるはずだったところですが、南部主要都市はひととおり網羅し終わってしまってたため、再び「自都護府」と起点を明示して北部遼寧方面の地理に話題転換しています。
以上、「『至○○』で目的地を示したあとに○○のことを説明すると、特に指定されない限り次の『至△△』の基点は○○になる」という法則性は新唐書でも適用できるようです。
>これは正史の記載法の原則なのでしょう。
# いいえ。これは純粋に文法の問題でしょう。
「又」は現代日本語と少し違って「引き続き」という意味ですから「又」で話が続けば確実に直線行程であります。べつに正史記載方の原則というレベルではなく、語学の常識なのであります。
しかし、だからといって逆は必ずしも真ならずでありまして、「又」で接続されていなければ必ず放射的に読むのだとは言えないでしょう。ちなみに梁書は「又」を補っています。
>また、「水行十日陸行一月」は「水行すれば十日、陸行すれば一月」
と読むべきことも指摘されています。
# これは唯一の類例が「水路○○、陸路○○」なので、意味合いが違いますから根拠薄弱でしょう。ORではなくANDで読むべきところと思います。
元の発言 [ Re: (里程について)訂正のついでに、、、(承前) ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 2月5日(火)18時15分36秒 ]
>> ・・・お気づきの点がありましたらご指摘ください。
おおむね異論は無いのですが、細かい点をいくつか述べてみます。
1.帯方郡治は、ソウル近郊という説と沙里院という説が有力なようです。要するにどちらもたいして根拠がないということらしい。それなら、倭人伝の記述に基づいて、仁川あたりの海岸に面したところと考えた方がいいかな、と最近考えています。
2.私は古田の島廻り読方はピンときません。部分里程の合計と全体里程は一致すべきだというのはそのとおりですが、古田の天才をもってしなければ発見できないような難しい理解が必要だとすれば、普通の読者がそう読むことは期待できません。
3.したがって、不彌国〜邪馬台国が距離ゼロというのも納得できません。もっとも、1400里=100km以上離れているはずだとも考えませんが。
4.不彌国は今宿。
元の発言 [ Re: Title:三世紀倭国の方言について ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月7日(木)21時24分52秒 ]
>> 面白いです。私もこういう分析を考えて弥馬升。
ありがとうございます。
前半部分の開音閉音の部分が強引にすぎたので、
全体のロジックをもう一度見直しています。
閉音の分析なしで、サ行の分析から入ったほうがもっとも
らしくなりそうです。
どうも数字の部分がこけ脅かしっぽいので・・・
ようするに戴斯が北部九州人であることを推測できれば
言い訳で、むしろ倭人伝の文脈から推理するほうに
切り替えています。
戴斯のときの使いは、倭王などの主語がなく、正式な魏への
使いと言うより新任の帯方郡太守への急使で、もしかしたら
一大率が外交の実務を急ぐために派遣した使いのようにも
思えるのです。
すると戴斯が北部九州人である可能性は高いです。
いま各子音ごとの分析をやっていますが、その結果分離した
前漢時代に成立したと思しきテキストの部分には、
濁音がほとんどなく、陽声が全くなくなるようにみえます。
入声が北部九州テキストに多いのは、もしかしたらtuの
ような音を音訳しづらかったからかも知れません。
あと休みにはいったら、可能性のある母音で分析してみます。
ところで、21ヶ国リストや国名の一部を、前漢まで
もっていっても、まだオ(甲)が多いんですよね。
他にも色々不審な点もあるし、台与ちゃんの問題もあるし、
全部上古音も捨てきれませんね。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月6日(水)23時58分12秒 ]
こんばんは。
私の申し上げる意図が伝わらないのは残念ですが、本来これは私が調べるべ
き事ですのでこれ以上率善中郎将さんをわずらわす訳にも参りません。
このあたりで終わりたいと思います。
>> そこに終末新相までの土器がかなり入っていることから、そこまで機能
>> したと考えるのが、むしろ考古学の遺構論の通常の解釈です。
これについては、同じ溝でも例えば運河や用水路のようなものであれば溝が
ある程度の深さ残っていれば機能しているといえますが、吉野ケ里の内濠の
場合、“首長の居館”なりといった特別区を区画すると言う意味を持った溝
です。このような溝の場合、埋まらなければ機能しているというわけにはい
きません。大量投棄がはじまった時点でそこの住人にとっては区画の意味が
なくなったと見られる訳ですから、大量投棄開始の時点で機能を失ったと見
るべきではないでしょうか?(これは防御の壕でも同じで、大量投棄の時点で
防御の意味がなくなったということで、機能を終えたとみていいのではない
かと思います。)
このように考えておりますので、新しい土器があるということでは承服いたし
かねます。
それから、突然のことでしたので、ろくな準備も無いまま記憶であれこれ書い
てしまい議論を混乱させてしまいました。その点大変申し訳なく思っています。
元の発言 [ いろいろやってます ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月7日(木)22時56分36秒 ]
#閉音に対する分析は、いかんせん対象の字数が少ないですから
#例えば「不」の子音韻尾は考えなくてもいいとかなると、
#全部覆ってしまいます。
#また21ヶ国のリストが前漢時代というのも異論が多そうですし
#肝心のサ行の議論に行き着く前に異論反論続出になりそうです。
#そこで私は以下の様な筋にしようと思っています。
伊都国の官名に現われる、サ行音と考えられる文字「泄」と
邪馬台国の官名に現われる、サ行音と考えられる「升」とでは
あまりに子音が違いすぎる。
サ行音には二種類有ったのではないか。
かりに伊都サ行、邪馬台サ行と呼ぶ。
#ここまでで、官名によって地域差を出します。
そこで、時代差を避けるために、同時代の音訳と考えられる、
外交に関する記述を見てみる。
#ここでいったん21ヶ国リストの問題を切離します。
すると現われる人名にはやはり異なる二つの子音が現われる。
伊都サ行人名 :載斯
邪馬台サ行人名:伊聲耆、難升米
これらの使者の役割を見てやると
#以下略
#ここで「載斯」の使いが際立って特殊で、この人物が
#伊都国人の可能性を主張
するとこのサ行音の対立は、伊都国と邪馬台国の方言の差の
可能性が出てくる。
そこで、魏代の伊都国と邪馬台には方言の違いがあり、
その差は少なくともサ行音の発音に現われていると仮説する。
#この仮説は根拠は弱いかも知れませんが、
#かなり画期的なものです。
#なぜなら今まで倭人伝中には倭国国内の地域差に関する
#情報が(対馬、一支、末櫨をのぞいて)なかったからです。
#したがって里程以外に、倭国の国々に関して、地理的に
#考察する方法がありませんでした。
#すると以下のような推論が出てくる。
両国とも倭人の国であれば、これほどの大きな音韻の差を
伴う国が隣接していた可能性は低そうである。
#つまり考古学的な要素を抜きにして、大和氏の卑弥呼
#臨宮説が否定される。
#ここで奈良朝の推定音を持ち出すと、伊都方言は
#上代日本語に繋がりにくく、邪馬台方言はそのまま繋がる
#可能性が指摘できる。
これは考古学的に、邪馬台国が大和にあったとする、最近の
情報に整合する。
また、伊都国など北部九州から支配階級がごっそり
移動してきた可能性も低い。
これも纒向から、今のところあまり北部九州系の土器が
みつからないことと整合する。
#このあたりで、考古学と上代日本語の研究から、長距離
#援護射撃を受けて、この仮説を固定します。
#もちろん完全に証明できたなどとは言いません。
#ここで初めて21ヶ国リストに手をつけます。
#すると上がってくるサ行音は、伊都方言ばかりです。
このことから、以下の二つの可能性が指摘できる。
1.当時の倭国では、邪馬台国方言は異端であった。
2.21ヶ国のリストは"何時の時代にか"伊都方言で一括
して発音されたものを、中国人が音写したものである。
ここで1の仮定では、上代日本語にこれほどに異なる
サ行音が全く出てこないことが不自然になる。
恐らく伊都方言の方が局地的で、後世に繋がらず消えたと
考える方が自然ではないか。
#ここで、21ヶ国リストを音訳された時代を指定せずに
#伊都方言のテキストに組み入れる。
#さらに古くから同一文化圏にあったと思われる
#北部九州各国の国名、官名、前述の「載斯・鳥越」を
#あわせて、全部で延べ93文字の"北部九州テキスト”を
#"その他のテキスト"から分離し、それぞれで推定
#サ行、タ行の分析を行い、矛盾のないことを示して
#とりあえず一度閉める。
#その後お好みで「帥升」の議論をする。
#ただしこれは現在の考古学的知見からは大きく外れる
#結論を導くのでもめるでしょう。
#さらにザ行を解析すると、「躬臣」のあたりで大きく
#矛盾があり、これを解決するには、21ヶ国リストの
#成立過程に関する議論が不可欠になって、
#「帥升」時代までメインテされていた朝貢国リストが
#後漢末の大乱と帯方郡の成立で国交断絶したあたりで
#歴史的資料になり、これが後に倭人伝に取り込まれる
#という話になる。
#まあどうなるやら。
#ただ私はサ行音の方言の存在については、
#かなり自信があるんです。
#個人的には間違いないように思っています。
元の発言 [ ALEX さんぴーんち! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月7日(木)21時00分05秒 ]
まだまだ納得してませんです。
新唐書の記事にでてくる地名の位置を地図にしてみました。
(この例はよくなかったな〜と思いつつ。)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/ryaoton.gif
建安城から泊シ勺城が南というのは、安東都護府から平壌を
東南といっているのだからおかしいと思います。
推測としては、安東都護府が平壌(668−670)−
遼陽(676−677)−撫順(677−699)
と位置が変わっているからかもしれません。
つまり、安東都護府−平壌は、撤退した遼陽と平壌との距離
だから短くなってしまう。
その他は全部、撫順からの距離というのはどうでしょう。
そうすれば、方向も距離もそこそこ合っていそうに思えます。
(撫順−平壌は山越えなので長くなりそう。)
このことは、ALEXさんのいわれる通り、
文法の問題といったほうがよかったですね。
ですから、多くの史書や文書で調べられる問題だと思います。
接続詞なしで説明文を入れるとそこが基点になるという例が、
他の多くの史書や文書でも見られ、それが一般的であるということ
を確かめられているのでしょうか。
基点になっている例が一般的ならば、納得できる主張だと思うのです。
他にも実例や調査があれば、お願いします。
単純な疑問として、次の2つがあります。
(1)傍線行程では途中に説明を入れることができなくなるのだろうか。
(2)説明があれば接続詞は必要ないことにならないだろうか。
>> >また、「水行十日陸行一月」は「水行すれば十日、陸行すれば一月」
>> と読むべきことも指摘されています。
>> # これは唯一の類例が「水路○○、陸路○○」なので、意味合いが
違いますから根拠薄弱でしょう。ORではなくANDで読むべきところと思います。
根拠薄弱とはいえ、類推として理解はできるわけです。
とくにANDで読む根拠を教えていただければうれしいです。
#「水行すれば十日、陸行すれば一月」という文章はどのように表現
#するのでしょうね。倭人伝ではいずれの行程もあった可能性を考えています。
元の発言 [ Re: いろいろやってます ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月8日(金)17時54分02秒 ]
>>
>> 伊都国の官名に現われる、サ行音と考えられる文字「泄」と
>> 邪馬台国の官名に現われる、サ行音と考えられる「升」とでは
>> あまりに子音が違いすぎる。
>> サ行音には二種類有ったのではないか。
>> かりに伊都サ行、邪馬台サ行と呼ぶ。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なるほどこれは一理ありますね。
するとまず淡々といきますか。
1.タ行とサ行を表したと思われる子音が四つある。
2.その中にはsのような子音がある。
3.どうも感覚的にtsとs、またはtSとsでサ行を構成した
とは思えない。
4.するとサ行はsだけか。
5.他を全部タ行に持ってゆくとタ行はなんだか
異様にいっぱいある。
#ほんとのとこどうでしょうね。
6.記紀などの、各子音の出現頻度とぶつけると
サとタの比率が余りにも変だ。
#これはやって見なくちゃ分かりませんが
7.なんかサ行は実は二つ以上あるんじゃないの。
8.そこでとにかくサ行と思しきts、tS、sを使って
テキストを分類しようとする。
9.ところが「載斯」があるので二つに分けるしかない。
10.無理やり分けて、二つのグループが属するテキストを
みてみるとどうも、伊都国の官を含むグループと、
邪馬台国の官を含むグループに分かれていて、
両者に現われる外交テキストの人名をよくよく考えると
どうも伊都国のグループにでてくる人名は伊都国に
かかわりありそうな気がしてくる。
#むろん「載斯」は伊都国人なんて何処にも書いてないのだから
#証明不可能。
11.そこで仮設をたてる。
「載斯」は伊都国人じゃないのか。
伊都国の官を含むグループは伊都国の「なまり」じゃ
ないのか。
随行員には縄張りがあって帰ったに違いない。
そうでなければ、長期滞在の内に死んでしまったか。
あるいは伊都国までは、そこそこ中国人が出入りしていて
直接情報を入手できたが、そこから先は邪馬台国の
随行員に任せるしかなかったか。
もしくは行く先々で正確を期すため、おまえの官名は
なんだとか尋ねていちいち「み・ま・わ・き」とか
発音させたか。
今となっては誰にも分かりません。(謎)
としておく。
12.伊都国のグループには、21ヶ国のリストが入っていて
これはなんだろう。
きっと”いつの時代にか””どこかで”伊都国人が
中国人に発音して聞かせた国名のリストなんだろう。
まあ所詮完全に立証することは出来ないですから、
仮説なんですよ。
あとはどれぐらい説得力があるか。
他との整合性が取れているか。
それと同じ事実を、他にはるかに合理的に説明できる
考えはないか。
その論に基づいて何が予想できるのか。
そしてそれがあたるのか。
#帥升の件しか予想でとらんがな!
#確かめられんのか!!ほよよ。
一応21ヶ国リスト前漢説から初めてえっちらおっちらと
言うのも書いてます。
うまくいくか分からんけれども。
#記紀、万葉集の仮名の、子音別の頻度表って何に載ってるんでしょ。
まあ、誤字脱字、聞き違い、思い違い、改訂、いろんな
ことがあるでしょうから、それを考えるとちょと
くらくらしてきますが。
考えないことにして。
でも森さんのアウトボクシングみたいなやりかたって
かっこいいなー。
そもそも、奴国、不弥国へは水行したのでしょうか? 陸行したのでしょうか?
あるいは行かなかったのでしょうか?
魏志倭人伝では、なぜかこの二つの国へは水行とも陸行とも渡海とも書いていません。
僕は行かなかったような気がします。行ったとすれば陸行。
どっちとも決め兼ねています。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
元の発言 [ 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月7日(木)10時23分47秒 ]
記紀の地理感覚に曖昧なところがある,
というのは「定説」になってはおりますが,
倭王武の上表文について,
東は毛人を征すること五十五国,
西は衆夷を服すること六十六国,
渡りて海北を平ぐること九十五国。
とある文脈の中心地は畿内である,
というのが共通認識でしょう。
そんで,論旨・結論がはっきりしないのですが。
また玉の話で、申し訳ないのですが、如何にも腑に落ちない。
1.まず、石器です。
縄文時代から好みなど色々有るだろうけど、宝石にならない硬玉は、黒曜石以上に丈夫で、
材料として最適であったはず。
事実、蛇紋岩など頑丈な材質の石器が有る。
加えて、軟玉でさえも、道具に使われている。
加工は難しいだろうが、其れだけの価値もあるはずであるのに。
だが、そのような話は聞きませんね。見つかってない。
見つかるのは、シンボル的なものだけ、装身具や権威材みたいなものだけのようですね。
加工に手間がかかりすぎで、実用的でないためなのかもしれませんが。
古代の人々が、かなり材料にこだわっていることは、わかってますから、
如何もおかしいです。
2.青玉、以前の議論も見ましたが、軟玉みたいですね。
ですが、かなりあいまいです。
緑、または、青い色をした装飾に使えそうな、石と見ても産地は色々、
多いのは、中部地方です。品質の良さも。
偶然見つけたのですが、四国、愛媛県に出るようですね。
田にも出る場所は結構あると思いますので、さらに調べていますが。
魏など、中国に送られたのは、当然貴重な硬業でしょう。
中国人も、其の方を喜ぶでしょうし。
ただ、当時、都のたった国内でも、結構美しい石が出ていたのかも
そうすると、其の候補が・・・・・・・・
真だ半端過ぎる調査ですが、手がかりになる情報はありませんか?
皆さん教えてください。
元の発言 [ Re: 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(土)01時33分06秒 ]
拝見しました。
>おそらく、末盧、伊都、奴、不弥は、陸行でいける。
>つまり、陸続きである。
>2)末盧、伊都、奴、不弥は、一つの島に存在。
この考えにしたがってみましょう。
まず、伊都国は、末盧国から「東南陸行五百里」だから陸路で行けるし、「皆津に臨みて捜露し…」の記事から船で行けることもわかります。
奴国まで百里、不弥まで百里、合計二百里、長里で約80km歩いたことになります。
ところが、不弥国から水行してるわけだから、不弥国へも船で行けることになります。
つまり、伊都国から不弥国へは船で行ける。水行できる。
水行できるのに、なぜ、約80kmも歩かなければならなかったのか?
おかしいと思いませんか?
本当に、奴国、不弥国へは陸行して、不弥国から水行したんでしょうか?
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 2月8日(金)22時56分16秒 ]
>> 倭王武の上表文について,
>> 東は毛人を征すること五十五国,
>> 西は衆夷を服すること六十六国,
>> 渡りて海北を平ぐること九十五国。
>> とある文脈の中心地は畿内である,
>> というのが共通認識でしょう。
まず、「定説」といわれるものを否定しました。
したがって、小生の論理が誤りであるという論証をしていただきたいので
す。
1 この上表文を、倭王を中心として考えるのは正しいのだろうか?
2 上表文である以上、これは読み手である中国の天子を中心としな
ければおかしのではないだろうか。
3 すなわち、近畿を中心にして、東(中部から関東?)に毛人、西
(九州)に衆夷としてとらえることはおかしい。
4 これは、宋朝の天子を中心におき、建康の東にある倭王の地を衆
夷(九州)、さらにその東にある毛人(中国および四国)と理解しな
ければおかしい。
5 海北については、既に記したとおり。
元の発言 [ Re: いろいろやってます ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(土)02時06分35秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
中国人はそこまで聞き分けて使っている。
一方日本人には、意識の上でサ行とタ行しかない。
結果として中国人の音訳には様々な「なまり」音が
聞き分けられて、表記されている可能性はある。
ただそこを音訳テキストで分離できるかどうかは分かりませんが。
>>
>>
>>
結果としてそういう音訳が残っているということでしょう。
何を意味するのかはともかく・・・
>>
>>
台与ちゃんの問題は深刻です。
オ(甲)の連用とか、オ(甲)割合が高くなる以上の問題の
ように思います。
濁音が語頭に来ることもありますし・・・
こうなると全部魚部模韻はア段にしてしまいたいんですが、
dOyaちゃんとか・・・
どっちにしても、トヨではどうにも読めないように思います。
そこで思っているんですが、
與にはHiag→Hio(上古音→中古音)のような読みもあるようですが
#ここいらへんのことは良く分かりません。
與を「ゐ」とか「を」とか読んじゃだめなんですか・・・
万葉仮名では與は「よ(乙」になっていますし・・・
そんなに深刻な問題じゃないんですかね。
#やはりα群ぐらいは調べないとだめですね。
#知識不足は覆うべきもないですが・・・
>> 7.なんかサ行は実は二つ以上あるんじゃないの。
>>
>>
>>
>>
サ行とタ行の混乱はあったそうですね。
>> 8.そこでとにかくサ行と思しきts、tS、sを使って
>> テキストを分類しようとする。
>>
>>
>>
>>
>>
なるほどtsとsでサ行を構成することもあるわけだ。
私は以前倭人伝の人名の音訳を比較していたときに
おにりんさんが同じシにとられている升と声と斯が
発音記号で見るとあまりにも違うので、なんだこりゃと
思ったんですよ。
これがある意味で発端ですね・・・
だいたい斯は斯馬とかあるから、シと読みたいですよ。
ところがsiは現代でもまだ移行しきっていないでしょ。
日本語のサ行の変化を考えると、3世紀にそんな音が
有ったことが不思議に思えてしょうがなかったんですよ。
先ほどのso/tsOの例をみると不思議でもなんでも
ないんですかね。
>> 12.伊都国のグループには、21ヶ国のリストが入っていて
>> これはなんだろう。
>> きっと”いつの時代にか””どこかで”伊都国人が
>> 中国人に発音して聞かせた国名のリストなんだろう。
>>
>>
魏晋系は「泄謨觚」と「載斯」除いてtSですが、「泄」には
イのような読みもあるようですね。
>> #記紀、万葉集の仮名の、子音別の頻度表って何に載ってるんでしょ。
>>
そうか
>> まあ、誤字脱字、聞き違い、思い違い、改訂、いろんな
>> ことがあるでしょうから、それを考えるとちょと
>> くらくらしてきますが。
>> 考えないことにして。
>>
奴とか、卑、彌、馬、狗あたり。
>> でも森さんのアウトボクシングみたいなやりかたって
>> かっこいいなー。
>>
>>
α群ぐらいは分析結果だけでもあれば・・・
素人がバックグラウンドなしにいきなり専門的なデータに
あたると、大体とんでもない方向に行くんですけど、
ここに書き込めば、おにりんチェックがはいると。
ところで、まえに不審字としてあげた閉音字で目に付く
入声の字ですけど、「邑」を除いてt終わりなんです。
「末盧 」あたりをみていると、どうもtuを表す適切な
開音字がなかったんじゃないかと思うんですが、
どうですか。
「兜」とか有りましたけど、この字使いにくいですか。
「馬兜盧」とか書くと、装甲騎馬軍団がでてきそう。
「伊兜支」はどうなんでしょう。
そうすると「卑」「彌」「不」があるのにp終わりの
入声を使った「呼邑」の「邑」は誤字くさいと思います。
「対蘇」の「対」はしょうがなくて使ったのかな。
おにりんさんの言うように、後ろがsですし。
「兜蘇」は変ですか・
元の発言 [ Re: いろいろやってます ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月9日(土)10時59分53秒 ]
>> >> >> #記紀、万葉集の仮名の、子音別の頻度表って何に載ってるんでしょ。
>> >> 森先生のパンチカード?
>> そうか
森氏の『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店)に「日本書紀万葉仮名分布表」が載っていて、便利です。品切れでなければいいのですが。
元の発言 [ Re: いろいろやってます ] お名前 [ 斧折三 ] 日付 [ 2月9日(土)13時09分27秒 ]
>> >> >> >> #記紀、万葉集の仮名の、子音別の頻度表って何に載ってるんでしょ。
>> >> >> 森先生のパンチカード?
>> >> そうか
>> 森氏の『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店)に「日本書紀万葉仮名分布表」が載っていて、便利です。品切れでなければいいのですが。
ありがとうございます。
書名はしっておりましたが、読んだことなかったです。
ところで森氏の予想しておられる奈良朝のサ行は
tsa t∫i su t∫e so ts∂
でしたね、α群でも精従心生章書にわたっているんですね。
なるほどね。
倭人伝では、精心書だからむしろ少ないぐらいで、
そんなもんじゃないと・・・
なるほどこれぐらいは読んでおくべきでしたね。
元の発言 [ Re: いろいろやってます ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月9日(土)18時45分13秒 ]
>> ところで森氏の予想しておられる奈良朝のサ行は
>> tsa t∫i su t∫e so ts∂
>> でしたね、α群でも精従心生章書にわたっているんですね。
そうですね。α群では、サ行子音は後続母音の性格の違いで三種にはっきり分かれるとか。奥舌母音である「ス」「ソ甲」には摩擦音声母の字だけ。他は破擦音が優勢。そのうち、前舌母音をもつ「シ」「セ」は正歯音と歯頭音が中心とか。β群は例によってでたらめです。
ただ、 倭人伝は音訳の時代が特定しにくく、音訳例の少ないのが難儀です。三韓の地名音訳なども参照されればいかがですか。一番音訳が多い馬韓については、どっかの雑誌に森氏が中古音との対照表を載せていましたが。
森氏、昨春からソウルへ留学されているようですね。中国語学が専攻だそうですが、朝鮮半島の重要性に気付いたのでしょう。単に食べ物に惹かれただけかも。サムギョプサル・チムタック・パジョン、トンドンジュにマッコルリ。いいなあ、羨ましい。
ピクポポデミさんのアプローチの仕方は、興味深いですね。頑張ってください。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(土)14時22分26秒 ]
その程度のことでさえ説明できないから大和説はだめなんだよね。
「知らなさすぎ」の相手程度に説明できないの?
大和説者の欠陥は「説」がマニアックすぎるんですよね。素人や一般の人には納得できるような説明ができてない。
本を10冊、100冊読まなければついていけない「説」なんて意味ありません。
それこそ単なる宗教でしょう。
社会主義経を読めば社会主義の世の中がくると信じ込んでいたマルクス真理教徒みたい。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月9日(土)10時32分16秒 ]
>> 1 この上表文を、倭王を中心として考えるのは正しいのだろうか?
倭国の首都の置かれた河内が中心と言われ,
巨大古墳などの考古学的遺産もあり,
妥当でしょう。
>> 2 上表文である以上、これは読み手である中国の天子を中心としな
>> ければおかしのではないだろうか。
倭王として中国に仕える意であり,
その倭王の居場所が,一応,
仁徳天皇以来の河内と考えられています。
>> 3 すなわち、近畿を中心にして、東(中部から関東?)に毛人、西
>> (九州)に衆夷としてとらえることはおかしい。
毛人というのは,東日本の住人のことであろう,
と考えられます。
>> 4 これは、宋朝の天子を中心におき、建康の東にある倭王の地を衆
>> 夷(九州)、さらにその東にある毛人(中国および四国)と理解しな
>> ければおかしい。
それだと,「東は毛人・衆夷を征服すること百二十一国」でしょう。
中国および四国に毛人がいたという論拠は?
>> 5 海北については、既に記したとおり。
というわけで,
>> 一方、「紀」の神代紀に、…
>> 即ち、日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、
>> 海の北の道の中に在す。号して、道主貴と曰す。
>> 此、筑紫の水沼君等が祭る神、是なり。
>> とある。
>> この、「海の北の道」というのは、宇佐嶋や筑紫という九州の地に立ってみれば、適切
>> な方角といえるだろう。
というか,これこそ朝鮮への航海を,
厳密には「海北道中」と捉えていたことになるから可。
また,海の向こうを海西と呼ぶ風もあったらしいのが,
畿内の慣習であるのならば,
やはり畿内に中心があったからでしょう。
元の発言 [ Re: 承前 ピクポポデミさん江。タイトルなんでしたっけ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月2日(土)00時42分33秒 ]
>> 丁寧なレスありとうございます。
>>
>>
>>
私は仕事でさっき起こされました。
まだ暗い。眠いです。
>> で対蘇はツヂサ。土佐は遠くなりにけり。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
突 du∂t ですか。
>>
>>
ツヅサあたりで探してみます。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
一支の例もあるし、なにかありそうなところです。
>> 伊都国は後漢代以降に成立したとか。
>> やはりそう考えるしかないですね。
>>
>>
>>
伊都国は後世に音訳されたとします。
国は古かったとしても。
21ヶ国と対馬、一支、末羅は前漢(!!)ですか。
>> {身弓}はなんでしょうね。
>> なんで弓じゃなくてこんな字使ったんでしょう。
>>
>>
>>
あ分かりました。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
で、介母音の弱いケースであるとして。
>> 私はkIと読んでたんですが。
>> 21国リストには狗の字が無いんですが、kuの可能性はありますか。
>>
>>
狗奴は女王国の文脈で出てきますから音訳は後漢末から魏代でしょう。
前漢(!!)時代に21ヶ国リストを、音訳した人と魏代に狗奴を音訳した人が
違うなら21ヶ国リストに狗が出なくても不思議がない。
弓がクグなら鬼がクでもおかしくなさそう。
すると鬼奴は後の狗奴だったりして・・・
>> >> 堆だと、「と(乙)」ですね。
>> いじめてます?
>>
もろに備(bIu∂g)じゃだめかな。
>> わたしはこの説納得できないです。
>> やっぱ伊都は新しい音訳と考えます。
>> すると21ヶ国リストの都は全てア列・・・
>>
さすがに後漢末―魏代まで下げると、魚部模韻はオ列じゃないんですかね。
古韓音のような特殊なケースを考えないと。
すると倭人伝テキスト全体のオ(甲)のオ(乙)に対する割合が高すぎたり、
オ(甲)の連続が多発したり、うまいこといかないというのが森説です。
倭人伝には明らかに魏代の音訳(詔書の部分とか)ありますから、
時代の違う音訳がありそうという話になります。
女王国の絡む部分にくらべて、21ヶ国リストはかなり古い可能性がある。
#あ、夜が明けてきた。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(土)21時50分52秒 ]
>>
>>
>>
#なにもあなたにだけ聞いているのではない。あなたに教えてくれと頼んでいるわけでもない。
いちいちあーだこーだ言う気がなければ黙っていればよろしい。
元の発言 [ 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月7日(木)10時23分47秒 ]
はじめまして、山佐留と申します。
ちなみに私は邪馬台国土佐説ですが、考古学にうとい偏愛的郷土史愛好家というところです。
考古学がにがてなこともあり、私には、紀さんの主張は的を得ていると思われることが多々あります。
紀さんの9月の投稿で
>> 1 はじめに(文献と出土物)
>> “「邪馬壹国」論争”とは何だろう。
>> 発端は、“三国志”であることには異論はないだろう。
>> 出土物などの考古学が初めではないということを、念を押しておきたい。
というあたりの主張は全くそのとうりだと思います。
私も文献の解釈については、出土物などの考古学的な見地はさておいて、書かれた内容を一度は、素直に受け入れる態度が大切だと考えています。
その点でいえば、2月5日の投稿の
>> 魏史倭人伝の中の里程記載のうち、…
>> 女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種。
>> とあるが、この千余里は、それまでの狗邪韓国〜対海国〜一大国〜末盧国のそれぞれの
>> 千余里とほぼ等距離であることは、間違いないであろう。
>> そこで、もし女王国が、近畿にあったとすると、それから“海を渡ること千余里”と
>> いうのは、どう説明がつくのだろうか。
>> 近畿(大和や橿原等)の東が、海に臨んでいたということになるが。
>> 倭人伝の里程については、女王国までの論議は、それこそ何十人も行っているが、上
>> 記の一文が忘れられているのではないだろうか。
>> それとも、ここは“誇大値”ではなく、“矮小値”であるとでも言うのだろうか。
>> 『邪馬壹国』は、近畿王朝ではない。
なども、同感で、邪馬台国近畿説の方々は自分達に都合の悪いことは無視しているとしか思えません。
ただ、今回の投稿については、、私の立場からすると、九州か、近畿かというより四国の方が地理的に当てはまるように思われますがどうでしょうか。
>> 倭王武の昇明2年(478)の上表文に、
>> 渡りて《海北》を平ぐること九十五国、… 道百済を遙て、船舫を装治す。
>> 而るに、句驪無道にして、…
>> とあるが、この《海北》海北という表現は、どういうことだろうか。
>> この百済や句驪という朝鮮半島の南半部分を指して、《海北》といえる場所はどこであ
>> ろうか。
>> 近畿大和から見て、《海北》といえるだろうか。
>> どうみても、近畿大和から見ると、《真西》としか思えない。
(中略)
>> よって、『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではないことが、これからも立証できる。
この場合の倭王武の上表文については、
東は毛人を征すること五十五国,
西は衆夷を服すること六十六国,
渡りて海北を平ぐること九十五国。
というように、「西は衆夷を服すること六十六国」の記述が見られます。これは九州説ではどうでしょうか。
すなわち、魏史倭人伝の中の里程記載に、「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり」とあり、
宋書倭国伝に、渡りて海北を平ぐること九十五国。とあり
また西にも六十六国の衆夷の存在がしめされています。
これは、南をのぞく東、西、北に同じような数の国家があり、東も北も海を渡る必要があるということです。
また、西については海があるとは書かれていませんが、魏史倭人伝の中の里程記載によれば、九州から邪馬台国へは水行が必要です。
これは九州よりも四国の地理的条件に近いと思われます。
それともう一点、隋書倭国伝からの引用ですが、
「 倭国は百済・新羅の東南にある。水陸三千里、大海の中において、山島によって居る。魏の時、訳を中国に通ずるものが三十余国、みなみずから王と称した。夷人は里数を知らず、ただ日をもって計った。その国境は、東西は五月の行程、南北は三月の行程で、おのおの海に至る。その地勢は、東が高くて西が低く、邪靡堆に都する、すなわち、『魏志』のいわゆる邪馬台というものである。」
とあり、このなかで「その国境は、東西は五月の行程、南北は三月の行程で、おのおの海に至る。その地勢は、東が高くて西が低く、」の記述は、私には四国を指しているとしか思えません。
この字句について、九州説の場合はどういう解釈をするのでしょうか。
おかまい無ければご意見を聞かせてください。
元の発言 [ 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月7日(木)10時23分47秒 ]
>> 近畿大和から見て、《海北》といえるだろうか。
>> どうみても、近畿大和から見ると、《真西》としか思えない。
「海北」は「海の北」。この場合は、朝鮮半島へ渡る「海」だから対馬海峡の北ということ。どこから見ようが朝鮮半島は対馬海峡の北だよ。
>> よって、『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではないことが、これからも立証できる。
少しは自分の頭で考えたら?
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月9日(土)10時32分16秒 ]
>> 1 この上表文を、倭王を中心として考えるのは正しいのだろうか?
>> 2 上表文である以上、これは読み手である中国の天子を中心としな
>> ければおかしのではないだろうか。
>> 3 すなわち、近畿を中心にして、東(中部から関東?)に毛人、西
>> (九州)に衆夷としてとらえることはおかしい。
>> 4 これは、宋朝の天子を中心におき、建康の東にある倭王の地を衆
>> 夷(九州)、さらにその東にある毛人(中国および四国)と理解しな
>> ければおかしい。
おかしいおかしいって言ってることが根本的におかしいと思う。
宋朝の天子を中心においてるなら“西”の衆夷が天子より東の九州にいちゃおかしいよね。自己矛盾。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月9日(土)10時32分16秒 ]
>> 1 この上表文を、倭王を中心として考えるのは正しいのだろうか?
>> 2 上表文である以上、これは読み手である中国の天子を中心としな
>> ければおかしのではないだろうか。
>> 3 すなわち、近畿を中心にして、東(中部から関東?)に毛人、西
>> (九州)に衆夷としてとらえることはおかしい。
>> 4 これは、宋朝の天子を中心におき、建康の東にある倭王の地を衆
>> 夷(九州)、さらにその東にある毛人(中国および四国)と理解しな
>> ければおかしい。
おかしいおかしいって言ってることが根本的におかしいと思う。
宋朝の天子を中心においてるなら“西”の衆夷が天子より東の九州にいちゃおかしいよね。自己矛盾。
元の発言 [ Re: ALEX さんぴーんち! ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月8日(金)12時06分19秒 ]
>安東都護府−平壌は、撤退した遼陽と平壌との距離
>だから短くなってしまう。
>その他は全部、撫順からの距離というのはどうでしょう。
# 玄菟故城〜襄平は200里ですから計算は合いますが「府はもと漢の襄平城なり」とはっきり書いていますからどうでしょうか。
至安東都護府五百里、府故漢襄平城也、
東南至平壌城八百里、
≪中略≫
南至鴨緑江北泊シ勺城七百里、故安平県也、
「別々の安東都護府からの放射的配置!!」という錯誤を想定するには、この800里と700里というアンバランスは、記事を書いている本人にとって余りに明々白々ではありませんか? 安平県から平壌城(つまり楽浪郡ですね)が100里である筈がないのですから。
単純に、「南至鴨緑江北云々」の基点が安東都護府のつもりで書いているのではないと考える方が素直ではないでしょうか。
>(1)傍線行程では途中に説明を入れることができなくなるのだろうか。
>(2)説明があれば接続詞は必要ないことにならないだろうか。
# 常識的に考えればどうでしょう?
京都駅で外国観光客とおしゃべりして「京都の南に奈良がある。南西に大阪がある。」と話したとしますよ。この説明の途中に、奈良の大仏の話やお水取りのこととか長話したら、相手はてっきり大阪が奈良の西南にあると誤解しませんか?
漢書地理志から見てみます。
自日南障塞、徐聞、合浦船行可五月、有都元國;
又船行可四月、有邑盧沒國;
又船行可二十餘日、有フピ◆ィ
歩行可十餘日、有夫甘都盧國。
自夫甘都盧國船行可二月餘、有黄支國、
民俗略與珠gai[厂中圭]相類。其州廣大、戸口多、多異物、
自武帝以來皆獻見。有譯長、屬黄門、與應募者倶入海市明珠、
璧流離、奇石異物、齎黄金雜鐚P@\蟷袵アс反Oル[扁耒旁右偶]、
蠻夷賈船、轉送致之。亦利交易、剽殺人。
又苦逢風波溺死、不者數年來還。大珠至圍二寸以下。
平帝元始中、王莽輔政、欲燿威徳、厚遺黄支王、令遣使獻生犀牛。
自黄支船行可八月、到皮宗;
船行可二月、到日南、象林界云。
黄支之南、有已程不國、漢之譯使自此還矣。
夫甘都盧は「又」で繋がっていないから傍線行程だということにしましょう。
ところが、肝心の目的地カンチプラムへの航路は夫甘都盧から出ています。
じゃあ、どっちが傍線でしょう?
「又」がついていれば主線上にあるとは言える。「又」がなければ主線上にない(傍線上である)とは言えない。これが明快な結論でしょう。
>根拠薄弱とはいえ、類推として理解はできるわけです。
>とくにANDで読む根拠を教えていただければうれしいです。
# 山海經に
「姑射之山無草木多水。又南水行三百里、流沙百里…」(東山經)
ここでの「流砂」は陸行に相当する部分です。合計の数字が出ていて、すべて直線経路と判明しています。
「又北山行五百里、水行五百里、至于饒山。」(北山經)
同書にはこの種の表記が多数例あります。
これに比べ、陸路水路という表現は明らかにルートの選択肢の表現であり、類例とは認めがたいものがあります。
やはり「水行十日陸行一月」は「水行十日+陸行一月」と読むべきでしょう。
それ以前に、「水行十日 or 陸行一月」というのであれば、同じ目的地に行くのに水行の場合と陸行の場合と所要日数に3倍の差異があります。つまり険阻な山道とか、大湾を半周するとか、特異な地形を想定せざるを得ないのです。そのことを話者が全くコメントしないのは不自然ではありませんか?ちなみに漢書西域傳では「西至捐毒千三百一十四里、徑道馬行二日」のように「近道を馬で行けば」とコメントを入れています。
元の発言 [ Re: ALEX ちゃーんす! ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(日)15時52分24秒 ]
(部分再録)
漢書地理志から見てみます。
自日南障塞、徐聞、合浦船行可五月、有都元國;
又船行可四月、有邑盧沒國;
又船行可二十餘日、有[言甚]離國;
歩行可十餘日、有夫甘都盧國。
自夫甘都盧國船行可二月餘、有黄支國、
民俗略與珠gai[厂中圭]相類。其州廣大、戸口多、多異物、
自武帝以來皆獻見。有譯長、屬黄門、與應募者倶入海市明珠、
璧流離、奇石異物、齎黄金雜鐚P@\蟷袵アс反Oル[扁耒旁右偶]、
蠻夷賈船、轉送致之。亦利交易、剽殺人。
又苦逢風波溺死、不者數年來還。大珠至圍二寸以下。
平帝元始中、王莽輔政、欲燿威徳、厚遺黄支王、令遣使獻生犀牛。
自黄支船行可八月、到皮宗;
船行可二月、到日南、象林界云。
黄支之南、有已程不國、漢之譯使自此還矣。
夫甘都盧は「又」で繋がっていないから傍線行程だということにしましょう。
ところが、肝心の目的地カンチプラムへの航路は夫甘都盧から出ています。
じゃあ、どっちが傍線でしょう?
「又」がついていれば主線上にあるとは言える。「又」がなければ主線上にない(傍線上である)とは言えない。これが明快な結論でしょう。
元の発言 [ 化けました ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(日)15時56分33秒 ]
漢書地理志から見てみます。
自日南障塞、徐聞、合浦船行可五月、有都元國;
又船行可四月、有邑盧沒國;
又船行可二十餘日、有[言甚]離國;
歩行可十餘日、有夫甘都盧國。
自夫甘都盧國船行可二月餘、有黄支國、
民俗略與珠gai[厂中圭]相類。其州廣大、戸口多、多異物、
自武帝以來皆獻見。有譯長、屬黄門、與應募者倶入海市明珠、
璧流離、奇石異物、齎黄金雜[糸曾]而往。所至國皆稟食為[扁耒旁右偶]、
蠻夷賈船、轉送致之。亦利交易、剽殺人。
又苦逢風波溺死、不者數年來還。大珠至圍二寸以下。
平帝元始中、王莽輔政、欲燿威徳、厚遺黄支王、令遣使獻生犀牛。
自黄支船行可八月、到皮宗;
船行可二月、到日南、象林界云。
黄支之南、有已程不國、漢之譯使自此還矣。
夫甘都盧は「又」で繋がっていないから傍線行程だということにしましょう。
ところが、肝心の目的地カンチプラムへの航路は夫甘都盧から出ています。
じゃあ、どっちが傍線でしょう?
「又」がついていれば主線上にあるとは言える。「又」がなければ主線上にない(傍線上である)とは言えない。これが明快な結論でしょう。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 大和川湖南 ] 日付 [ 2月10日(日)11時46分11秒 ]
はじめまして。
>> 「海北」は「海の北」。この場合は、朝鮮半島へ渡る「海」だから対馬海峡の北ということ。どこから見ようが朝鮮半島は対馬海峡の北だよ。
確かに、対馬海峡の北ではありますが、百済の認識を
言われていると思われます。
>ところで、「記・紀」をみてみると、まず、「紀」に
>は、…神功50年 千熊長彦・久氐等、百済より至
>る。是に皇太后歓びて久氐に問いて曰く、《西の海》
>の諸の韓を、既に汝が国に賜ひつ。
>神功52年 (久氐)乃ち、孫枕流王に謂いて曰く、
>今、我が通ふ所の、《海の東》の貴国は、是天の啓きた>まふ所なり。
>是を以て、王恩の乗れて、海の**西を割きて、我に賜へ>り。
>と、近畿大和からは、百済を《海の西》ととらえ、百済>からは、近畿大和を《海の東》と
>してとらえている。
ですから、百済は畿内から、海の西であるととらえて
おり、その点で、海の北は違うのではないかと言って
みえると思います。
そこで、奈良の人が、海の北と言って、朝鮮半島を
思われるでしょうか?
やはり舞鶴から北の海の方を思われないでしょうか?
その疑問点を言われているように思います。
九州の北の海を指すことはないと思われますが。
元の発言 [ Re: 短里説の解体学 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月6日(水)22時18分46秒 ]
>> koujiさん、しばらくです。久しぶりに参加します。
お久しぶりです。
今回の投稿の主旨は魏志倭人伝無謬説が生み出す短里信仰が、魏志倭人伝の読解を歪めている様子を、極ラフなスケッチながら、描いてみたものです。
>> わたしは、日数表記が帯方郡から女王国までの全行程とも、朝鮮半島を陸行したとも考えておりませんし、また、魏志倭人伝がこの「里」を長里で考えていることも、koujiさんとわたしとは同じ考えだと思います。
>> >しかし、それによって描かれる地理像と現実の地理を引き比べてみれば、そのままでは一致しないこともまた明らかです。そうである以上、史料の記述に誤りがあるという事実を正視して、その誤りの内容を探っていくのがまっとうな学問というものなのです。
>> そうです。おっしゃる通りです。
とおっしゃる良識的な郭公さんのお考えをどうこう言うのは、やや主旨から外れるのですが、それを承知の上で少し思うところを書いて見ます。
>> 長里か短里かはさておき、韓が方四千里、郡から狗邪韓国まで七千余里、渡海千里を三回、末盧国から伊都国までの陸行五百里、この相対的な距離感は大まかに言って当を得ているものと思います。
これが極めて疑わしいのです。というよりも、間違いであると断言してもいい様に思われます。まず、伊都國・奴國間の百里がまともな記述であることはずいぶん以前から指摘されています。
また、去年ALEXさんが、沙里院に近い南浦から釜山までを現代の航路に沿って計測し、「総計で1,316kmほど」という数字をえています。これは、3,025里程にあたります。古代の航路はさらに密に海岸に沿っていたであろうことを勘案すれば、「七千余里」は概ね実数に近いと言えます。もちろん、これは魏・西晋の約435mにあたる里での話で、いわゆる「短理」だと現代の航路でも一万数千里になり「萬二千餘里」をも超過することになります。つまり、帯方郡から狗邪韓國までの七千餘里は、「短里」を否定する例であることは明らかです。(下にALEXさんの投稿へのリンクを入れておきます。)
従って、伊都國・奴國間をさて置いたとしても、「相対的な距離感は大まかに言って当を得ている」とは言えないものと思います。まともでないのは狗邪韓國から伊都國までなのですが、これも「相対的な距離感は大まかに言って当を得ている」と言えるかどうか、仔細に見ればやはり甚だ心もとないのではないでしょうか。
>> 1.存在は確認されていませんが、「短里」であった場合。
帯方郡か不彌國までの里程記述の中に、比較的正確なものと、大きく的をはずしたものが混在していることは、否定しがたく思われます。「萬二千餘里」の中にこの倭人伝に表記された帯方郡から不彌國までの里程が加算されているとすれば、「萬二千餘里」の内部に、比較的正確な里数と、実際から大きくかけ離れた里数が混在していることになります。実際と乖離していることが明らかな部分をもとに算出した一里あたりのm数を、伊都國までの里程と「萬二千餘里」の差分に当てはめて女王国の位置を推測するという方法論は、果たして成り立つのでしょうか?
>> 2.いわゆる「長里」であった場合
これも、帯方郡から伊都國までを比例的には正しく記述されていると前提した上での立論ですが、実際には比例的にも正しくないわけです。
>> ですから、倭人伝に記された伊都国と女王国の距離1500里のみが長里として正しく、それが水行二十日+水行十日+陸行一月と符号したとしても偶然の産物と申すしかありません。
魏志倭人伝の記述の範囲内で考える限り、女王國=邪馬臺國であり、「自郡至女王國萬二千餘里」は「帯方郡より邪馬臺國に至るは萬二千餘里」に他なりません。あるいは女王國を邪馬臺國よりも広域とする説を採っても、女王國までの道程とは結局、邪馬臺國にある女王の都までの道程ですから、同じことになります。
そうである以上、この「萬二千餘里」という里程は帯方郡から不彌國までの一万餘里+七百里に、不彌國から邪馬臺國までの日程(「水行二十日」+「水行十日・陸行一月」)から推計される里程を加算したものと考えるのが妥当であり、実際にそういう数値になっているわけです。
魏志倭人伝には「計其道里、當在會稽東冶之東」ともありますが、ここで計られている道里は構文から見ても「自郡至女王國萬二千餘里」そのものであり、ALEXさんが利用されている許靖の手紙の中で會稽から交州までの行程を「行経萬里」としていることに鑑みても概ね整合的です。このことは、「自郡至女王國萬二千餘里」が、帯方郡からはあまりに遠方にある(と考えられた)邪馬臺國の位置を鳥瞰的に特定するために、資料の編纂者レベルで推計されたものであることを示唆していると考えられます。
郭公さんの真意としては、伊都國以降の里程と日程を切り離すことに力点があるものとは思いますが、そのことに立ち入るのはスレッドと主旨と外れすぎているように思われるので、差し控えたいと思います。
>> 「里」論はあんまり面白くありませんけど、
私もあまり面白くは思いませんから、あまり書く気はしなかったのですが、最近どうも何なものですから….
>> 短里のほうが「里」にかなっているように思えます。もちろん、その存在は確認されていない。長里では誰が何のために誇張したのかの説明がいる。一長一短です。
倭人伝短里一貫説は成立の余地がありません。
>> もっとほかに大きな問題があるように思えてなりません。
本当に論ずるべきは、他の問題であることは確かですね!
元の発言 [ 末盧どうします?末盧の末路? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月2日(土)01時27分34秒 ]
>> わたしはこの説納得できないです。
>> やっぱ伊都は新しい音訳と考えます。
>> すると21ヶ国リストの都は全てア列・・・
>>
対馬、一支、末盧を含めて、最初は単なる24ヶ国のリストだったのが
ほんとはこの中に伊都も入れたかったですが・・・
漢末、魏代に中国人が北部九州に出入りするようになって、
各国の追加記事が出来たと思います。
そのときに伊都が付け加わって、さらにその後、もうひとつの奴、不彌、
投馬、邪馬台が付け加わったとします。
たしかおにりんさんの投稿で、隋書だったかで、国名表記は古いまま
の例があったと思います。一度国交ができると音訳も固定されるとか。
対馬はいまでも同じ時ですし。
>>
>>
>>
>>
やあ苦しいですね。
あっち立てれば、こっち立たずで。
方音とか古韓音に助けてもらうしかないですかね。
するとdOyaちゃんになります。どやろ。
21カ国リストは古いのかどうか。
もうひとつの奴はあとから加わったなら、なぜ那とかじゃないのか。
いっそ全部上古音、すると伊都が・・・
元の発言 [ 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月8日(金)22時24分17秒 ]
>> そもそも、奴国、不弥国へは水行したのでしょうか? 陸行したのでしょうか?
>> あるいは行かなかったのでしょうか?
誰がですか?
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月10日(日)16時28分47秒 ]
>> はじめまして。
はじめまして!
史料は、
・東征毛人五十五國
・西服衆夷六十六國
・渡平海北九十五國
となっている。「東」と「西」が王都を起点にした方位だというのはいい。形式的な整序性から言えば、第三句も「北」で書き起こすべきだ。でも、そうなっていないのは王都を起点にすると「北」ではなかったから、そうできなかったのさ。
つまり王都は、東西に諸国が広がり、かつ朝鮮半島は北にあたらない所。畿内ならぴったりだ。九州北部ははなから失格さ。東西は王都起点じゃないけれど、北は王都起点だなんてデタラメ以外の何物でもないよ。
>> そこで、奈良の人が、海の北と言って、朝鮮半島を思われるでしょうか?
「渡って海の北を平らげた」だよ!そう言えば、奈良の人も対馬海峡を渡ったと思うさ。他に相当数の兵員を渡海させられる海ってある?
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 大和川湖南 ] 日付 [ 2月10日(日)16時56分19秒 ]
どうもです・。
>> 「渡って海の北を平らげた」だよ!そう言えば、奈良の人も対馬海峡を渡ったと思うさ。他に相当数の兵員を渡海させられる海ってある?
対馬か敦賀、佐渡、北海道でしょうね。
ただいつも方向で思うのは、魏志倭人伝の方位は
90度違っていると言われ、かなり後まで、その
地図は有効と言われるが、この時点では正確な
方位だと言われる。
その点、とても気になるのです。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月10日(日)19時24分42秒 ]
>> ただいつも方向で思うのは、魏志倭人伝の方位は
>> 90度違っていると言われ、かなり後まで、その
>> 地図は有効と言われるが、この時点では正確な
>> 方位だと言われる。
# 魏志倭人伝では狗奴國は南、後漢書倭伝では東です。
この時点では修正済みということで整合性があると思いますが?
元の発言 [ 再三すまなし ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(日)15時58分39秒 ]
ピンチのあとにチャンスあり、ですね。
>> 「別々の安東都護府からの放射的配置!!」という錯誤を想定するには、
この800里と700里というアンバランスは、記事を書いている本人に
とって余りに明々白々ではありませんか? 安平県から平壌城(つまり楽浪郡ですね)
が100里である筈がないのですから。
>> 単純に、「南至鴨緑江北云々」の基点が安東都護府のつもりで書いているのでは
ないと考える方が素直ではないでしょうか。
もし、そのようなきちんとした地理感覚があったなら、
建安城から泊シ勺城へ南というのも海中になってしまって変ですよね。
安東都護府を遼陽とすると、いずれの解釈でも方向か距離か
どちらかはおかしいので、この文章だけから当の問題は議論
しない方がいいと思います。(例の選択ミスでした。)
>> >(1)傍線行程では途中に説明を入れることができなくなるのだろうか。
>> >(2)説明があれば接続詞は必要ないことにならないだろうか。
>> # 常識的に考えればどうでしょう?
>> 京都駅で外国観光客とおしゃべりして「京都の南に奈良がある。南西に大阪がある。」
と話したとしますよ。この説明の途中に、奈良の大仏の話やお水取りのこととか長話したら、
相手はてっきり大阪が奈良の西南にあると誤解しませんか?
長話の場合はそうだと思います。倭人伝でいえば、
「伊都」と「邪馬台国」の部分です。
これらは、「又」はないけれど「主線行程」だと思われるわけで、
高橋氏ふうにいえば「例外」にあたるものと推測しています。
>> 漢書地理志から見てみます。
>> 自日南障塞、徐聞、合浦船行可五月、有都元國;
>> 又船行可四月、有邑盧沒國;
>> 又船行可二十餘日、有[言甚]離國;
>> 歩行可十餘日、有夫甘都盧國。
>> 自夫甘都盧國船行可二月餘、有黄支國、
>> 民俗略與珠gai[厂中圭]相類。其州廣大、戸口多、多異物、
>> 自武帝以來皆獻見。有譯長、屬黄門、與應募者倶入海市明珠、
>> 璧流離、奇石異物、齎黄金雜[糸曾]而往。所至國皆稟食為[扁耒旁右偶]、
>> 蠻夷賈船、轉送致之。亦利交易、剽殺人。
>> 又苦逢風波溺死、不者數年來還。大珠至圍二寸以下。
>> 平帝元始中、王莽輔政、欲燿威徳、厚遺黄支王、令遣使獻生犀牛。
>> 自黄支船行可八月、到皮宗;
>> 船行可二月、到日南、象林界云。
>> 黄支之南、有已程不國、漢之譯使自此還矣。
>> 夫甘都盧は「又」で繋がっていないから傍線行程だということにしましょう。
>> ところが、肝心の目的地カンチプラムへの航路は夫甘都盧から出ています。
>> じゃあ、どっちが傍線でしょう?
>> 「又」がついていれば主線上にあるとは言える。「又」がなければ主線上にない
(傍線上である)とは言えない。これが明快な結論でしょう。
上のような主張なら私も同意します。
私は「説明があれば、必ず連続式となる」ということに、
反対だったわけです。
文章を読んでいて、明らかに主線とわかる場合や実際に移動したことが
わかる場合には、接続詞を省略する可能性も高くなるのかもしれません。
>> # 山海經に
>> 「姑射之山無草木多水。又南水行三百里、流沙百里…」(東山經)
>> ここでの「流砂」は陸行に相当する部分です。合計の数字が出ていて、
すべて直線経路と判明しています。
>> 「又北山行五百里、水行五百里、至于饒山。」(北山經)
>> 同書にはこの種の表記が多数例あります。
>> これに比べ、陸路水路という表現は明らかにルートの選択肢の表現であり、
類例とは認めがたいものがあります。
>> やはり「水行十日陸行一月」は「水行十日+陸行一月」と読むべきでしょう。
なるほど、勉強になりました。
こういう類例をもっと増やしてどちらの可能性が高いのか判断したいです。
ただ、文章としてはいずれでも読めるので、断定は難しいところだと思います。
>> それ以前に、「水行十日 or 陸行一月」というのであれば、同じ目的地に行くのに
水行の場合と陸行の場合と所要日数に3倍の差異があります。つまり険阻な山道とか、
大湾を半周するとか、特異な地形を想定せざるを得ないのです。そのことを話者が全く
コメントしないのは不自然ではありませんか?ちなみに漢書西域傳では「西至捐毒
千三百一十四里、徑道馬行二日」のように「近道を馬で行けば」とコメントを入れています。
これは、確かに他の「水路、陸路」の例と比べてもおかしいわけです。
高橋氏の論文にもあるように、なんらかの特殊事情がないと、
陸行一月の妥当性は問題があります。
ただ、「水行二十日」+「水行十日」+「陸行一月」しなければ到達しないような
位置も西日本ではちょっと探せそうにないような気もするのです。
ちなみに、私の里程解釈は下のリンクの「全体地図」(放射式、直線式)に
あります。畿内説にしようと思えば、最後の部分を少し変更するだけでよいです。
元の発言 [ Re: 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月10日(日)16時34分09秒 ]
>> 誰がですか?
梯儁一行、張政一行です。
元の発言 [ 魏志倭人伝の方位 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(日)19時51分12秒 ]
>> # 魏志倭人伝では狗奴國は南、後漢書倭伝では東です。
>> この時点では修正済みということで整合性があると思いますが?
魏志倭人伝は、日本列島の中にある倭国を中心に、その倭の地のなかにある狗奴国ついて書いた。
ずいぶん南にずり下がってますが、だいたい南北に展開していそうだと陳寿は理解しています。
これは正しいと思います。
後漢書倭伝の時代には日本列島の少なくとも西日本についての地理感はどうやら東西に長そうだと思われてきた。
だから范曄は、狗奴国を東に書き換えたのだと思います。
でもこれは間違いだと思います。
元の発言 [ 魏志倭人伝の方位 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(日)19時51分12秒 ]
>> # 魏志倭人伝では狗奴國は南、後漢書倭伝では東です。
>> この時点では修正済みということで整合性があると思いますが?
そこで修正されているとするなら、後の地図はどうなの
でしょうか?
地図がそうなっているから、当然3世紀にも勘違いして
いたという話だったのではないでしょうか?
それでは、魏志倭人伝は間違いで、後漢書は正確。
しかし、後の地図はまた間違ったということですか?
これは整合性とは言えないような気がする。
元の発言 [ Re: 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月10日(日)16時34分09秒 ]
>東南奴国に至る百里。
>東行不弥国に至る百里。
この個所に水行か陸行か渡海かが書かれていないのは、既に末盧国で上陸しているので、(実際は伊都国で上陸したものと思いますが)、奴国、不弥国へは陸行が前提となっているために省略されたと考えられます。
しかしながら、いま不弥国の位置を考慮せずとも、不弥国から投馬国へ水行しているのだとすれば、不弥国へは、伊都国から水行できることを意味しております。水行できるところへ、おおよその距離ではあっても二百里を陸行しているのですからきわめて不自然な行程と言わなければなりません。
次に、奴国、不弥国がどこであったかを考えてみます。これには異論があるところかと思いますが、以前にも書きましたが、奴国=春日市周辺、不弥国=宇美町だと思います。伊都国からの方角に合致し、相応の遺跡を持っているからです。
これも以前に書きましたが、服部四郎は、不弥はpumiと発音するそうで、「いかに外国人である魏の使節たちと言っても、umiをpumiと聞き誤るはずはない。そこで私は、倭人伝の原本には于彌と書かれていたものが不彌と書き誤られたのではないかと考える」(『邪馬台国はどこか』)と書き、宇美説を採っております。
この宇美は海浜に面しておりません。ここからどのようにして水行するのでしょうか?
ですから、投馬国への水行の起点は不弥国ではありえないと思います。
koujiさんご存知のように、
橋本増吉は、不弥国から邪馬台国までの行程記事は「魏略」には存在せず、魏志倭人伝にはじめて採録されたのであろうと言っております。(『東洋史上より見たる日本上古史研究』)
佐伯有清は、
> 「投馬国」より前に記載されている国ぐにの戸数については(中略)「有…戸(家)」という表記法をとっているのに対し、「投馬国」と「邪馬台国」のところは、「可…戸」となっていて、ここでも里数と日数の表記の違いがあるのと同様に、「投馬国」以前と以後とのもちいた史料が異なっていたらしいことをしめしている。(『魏志倭人伝を読む 上』)
もっともな指摘であると思います。
この投馬国以降の日数表記の行程を、この不弥国のあとに置いたと言うことは、もともと起点の書かれていない別の史料として存在していたのを、陳寿が、倭国は南北に長いと思っていたこと、伊都国から女王国まで千五百里あることを考えて挿入したのではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 短里説の解体学 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月10日(日)16時29分48秒 ]
>> また、去年ALEXさんが、沙里院に近い南浦から釜山までを現代の航路に沿って計測し、「総計で1,316kmほど」という数字をえています。これは、3,025里程にあたります。古代の航路はさらに密に海岸に沿っていたであろうことを勘案すれば、「七千余里」は概ね実数に近いと言えます。
「韓は方四千里」を基準に、南へ四千里、東(釜山)へ三千里、この感覚ではないでしょうか?
以前「弓」を「たらし」と読むと書きました
が、「執」も「たらし」と読むそうです。「弓、
執」とは「執らし」(とらし)の事だそうです。
それで「天照」の「照」ですが、東国地方
方言では「て」ではなく「と」と言ってたから
「てらす」の場合は「とらす」と読めます。
この事から、「天照」と「月弓」の「照」と
「弓」は、もとは「たらし」(とらし)だった
のではないかと思います。
元の発言 [ Re: 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月11日(月)00時00分02秒 ]
投馬国への起点は不弥国ではないとして、不弥国まで陸行したとします。
そうだとしても、そこから「女王国」へのルート書かれていない。
不弥国までも行ったのだろうか? ひょっとすると行ってないんじゃないだろうか?
でも、以前、ALEXさんやkoujiさんに教えていただいたように、梯儁は卑弥呼に会ってますし、梯儁は台与に会っています。
邪馬台国へも行かず、女王国へも行かず、卑弥呼、台与に会っているとしたら、それはどこか?
伊都国しか残らない。伊都国で会ったのではないでしょうか?
> 正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し
魏志倭人伝には、倭国とだけ書かれていて、倭国のどこで会ったのかは書かれておりません。
ちょい強引ですか? あり得なくもないと思うのですけれど。(^^ゞ
ただし、伊都国から水行したと考え、奴国、不弥国の首府が海浜にあったと考えれば、魏志倭人伝本文のまま読めないこともないです。いささか腑に落ちないところもありはしますが。
墓に副葬された鏡は墓に入る本人が自分で買うなり交換するなりして集めた物
のような気がするのですが。
一種のコレクションですね。
一つの墓に△が33枚もあって全部文様が違う。
鏡作り職人に新しい絵柄の鏡を注文して作って貰っていた。
生前から自分の墓に副葬するために鏡を集めておくなんてやっていそうです。
少なくとも大和朝廷からの下賜品ではない。
東北には鏡を模した土器が副葬された古墳があるそうです。
その被葬者は鏡が欲しかったのに畿内から遠いため手に入れられずやむなく
土で鏡を模して墓に入れたのではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月11日(月)07時49分37秒 ]
> 梯儁は台与に会っています。(誤)
> 張政は台与に会っています。(正)
異論があるかも知れませんが、以下、倭王武は雄略天皇として考えます。
国造本紀には、127名の国造が挙げられてますが、そのうち山城と山背、无邪志と胸刺、加宜と加我はどう考えても同じ地域を指していると見てよいでしょう。したがって、重複分の3つを引くと124。さらに、雄略朝に任命されたという穂と羽咋を除くと、雄略朝の成立時にあった国造の国の数は、122(西海道16、南海道13、山陽道19、山陰道8、畿内4、東海道31、東山道20、北陸道11)になります。
一方、倭王武の上表文の中(東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國)にあるように祖先が征服した国は121です。この数の中には、征服の出発点であった祖先の祖国を含めていないでしょうから、これに1を加えた122がこのときの国の総数と考えてよいでしょう。これは上記の国造数とまったく同じ数ですので、国造の国と上表文の国とは同一のものと考えてよさそうです。
さて、武の祖先の祖国ですが、大和中心に東西の国造の国数を数えてみますと、西国59、東国62であり、倭王武の上表文と微妙に合いません。大和が祖先の祖国とすると7カ国だけ西に寄りすぎています。
じゃあ、祖先の祖国がどこなら合うかというと、大和よりちょっと東で、大和、伊賀、伊勢、嶋津(志摩)、淡海、若狭、角鹿の7カ国を西国とする場所であり、国造本紀が「額田国」(淡海国と三野前国の間)とする国なら、ちょうど合います。
額田国は、後の郡名に見当たらない国名ですが、「沙額田国」の書き間違いで、「近江国坂田郡」付近を指したと考えていいでしょう。古代地名大辞典(角川書店)の坂田郡の項によると、坂田郡は万葉集の中でなら「さのかた(左野方)」ないし「さぬかた(沙額田)」との表記があったようです。
神功皇后・気長足姫(記では息長帯日売)は、気長宿禰(息長宿禰)の娘であり、近江国坂田郡にある「息長」が出身地であると言われています。
つまり、倭王武=雄略天皇は、神功皇后の出身地である(たぶん応神天皇が子供のときに育った場所でもある)「沙額田国」を基点に考えて、「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」と上表したのではないのでしょうか。
@ 推古「紀」には、推古16年(608)4月の妹子の帰国に際し、裴世清が
筑紫に来ている。
それを、難波吉士雄成を遣わし、裴世清を迎えにやった。
8月になり、裴世清は京に入り、国書を提示している。
それには、…
《皇帝》、《倭皇》を問ふ。… 皇、海表に〔介居〕して、民庶を撫寧す。
境内安楽、風俗融和、深気至誠にして、遠く朝貢を脩むるを知る。
とある。
まず、この中の〔介居〕とは、どういうことであろうか。
辞書をひくと、“孤立していて、援助のないこと”という意味である。
次に、この《倭皇》と表し、「倭王」と表記していないのはどういうことだ
ろうか。
(北)魏書において、子[或”]は、…
荘帝が、兄の彭城王に追号し、「孝宣皇帝」と称したことに対して、
“皇号ありても、終に帝名なし”
と諌めている。
したがって、《皇帝》と「…皇」とは決定的にちがうというもので、《倭皇》
といっても、《皇帝》ではないことの認識の上に立っているものである。
一方、「倭王」とあれば、これは、相手が“以前から中国に貢献してきてい
た配下の「王」である”という中華思想そのものを表していることになる。
『隋書』俀国伝では、俀国側が《天子》と称してきている(後述)のに対し、
隋はこれを一切認めず、終始《俀王》でとおしている。
したがって、近畿王朝に対し、《倭皇》と記したのは、これまで中国とは通
じていなかったから、《俀王》とせず、《倭皇》という表現をしたのである。
まさに、これまで通じていなかった近畿天皇家が初めて姿を現してきてこと
を示しているのである。
これにより、近畿天皇家は、7世紀以前は、中国の冊封体制下になかったこ
とを示している。
A この国書に対する返礼として、推古16年9月に裴世清を送るにあたって、
再度妹子を派遣している。
このときに、推古天皇は国書を持参させている。
その国書には、…
東の《天皇》、敬みて、西の《皇帝》に白す。…
とある。
自らを《天皇》と称し、隋の天子を《皇帝》と呼び、臣下としての礼をつく
している。
さて、かの有名な“日出ずる処の天子”は、推古16年の推古天皇の国書の
前年である大業3年(607)の俀王の多利思北孤が使を遣わしたときの国書
に記されていたのである。
日の出ずる処の《天子》、書を日の没する処の《天子》に致す。恙無きや。…
また、この国書のほかに、使者が口上として、
海西の菩薩《天子》、重ねて仏法興すと聞く。…
とあり、《皇帝》とか《天皇》という名称を使用していない。
前年の多利思北孤は、ともに《天子》として対等の立場で物申しているのに、
推古天皇は、隋の皇帝には一歩さがって、臣下の礼をつくしているなどというこ
とは、同一王朝としてありうることではない。
多利思北孤が、《天子》と称したのは、それまで朝貢し、臣下の礼をとってき
た(西)晋朝が北狄に追われたため、その後継である隋に対しては、対等である
という立場からにほかならない。
臣下の礼をとる必要はないという大義名分からと考えられる。
これからみても、多利思北孤と推古天皇を同一視することなどできはない。
ついでながら、国同士の正規外交に際して、天皇でもない聖徳太子が国書を出
すなどということをしていては、儀礼を欠くといわれることは、現代と変りはな
いであろう。
よって、「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない。
元の発言 [ 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月11日(月)15時54分08秒 ]
ほかの人が反論しても、あなたはほとんど放置したまんまで
じぶんの言いたいことだけ言いっぱなしですね。
つまんないですよ。
元の発言 [ Re: いろいろやってます ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月8日(金)11時06分38秒 ]
読んでみますと、日本書記α群のシには「心」四種、「書」
五種、「章」四種、セには「心」三種、「書」一種、「章」
一種。シの頻度でも25%は「心」、斯という字そのものも
有りました。
したがって私の仮説はだめですね。
でも倭人伝全体が、奈良朝の言葉につながらない方言である
という話も根拠はないことがわかります。
もう一つの収穫は、唐代北方音に限っての話かも知れませんが、
ツヅヌルを表す適切な漢字がなかったとされていることです。
したがってα群の中でさえ、都をツと読んだりトと
読んだりしています。
この事情が倭人伝に適用できるのかわかりませんが、もし
適用できるなら、ツヅは表現しづらく入声の子音韻尾を
使ったのかも知れません。
倭人伝の入声は-t五例、-k三例、-p一例ですが、-kの内二例は
次の字の子音がkで始まります。
実際「末廬」はマツラですから。
すると「一支」イツキくさいです。
あと去声の「対」もツ始まりの語にたいしてしょうがなくて
使ったのかも知れません。
「対馬」は子音韻尾の-dを使ってツヅマのような音を表した
可能性は高そうです。
ただ「対蘇」はしょうがなくて使ったなら、必ずしも
ツヅサではないでしょう。
するとツサの可能性は有りそうです。
ところで、土佐国はもともと、波多国と、都佐国に
分かれていたようです。
もともとツサだったのを、都佐と書いて用字が定着し、
その後中央の官僚がこれをトサと誤読して、そのまま定着
した可能性はないでしょうか。
元の発言 [ 古代の音韻と日本書紀の成立をみて ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月11日(月)22時17分27秒 ]
ピクポポデミさん、前回は通りすがりで、挨拶もせず、失礼しました。あらためて、ご挨拶申し上げます。初めまして。よろしくお願いします。
私は考古学や歴史学については知識がなく、皆様の議論を感心して拝見しているだけです。またインターネットも初心者なので、書き込みの経験も殆どありません。
さて森氏によれば、日本書紀のα群は中国語で直接日本語を音訳したと見られる点で、他の万葉仮名資料とはまったく異なり、卓絶した価値をもつとのことですね。これは『国語学』の書評でも見られたように、ほぼ学界の定説になったようです。
要するにα群は、倭人伝の地名・人名と同様、日本語(倭人語)を音訳したものということです。時代は異なるものの、この点で、倭人伝の音訳を考える時に、参考になるのだと思います。
>> 読んでみますと、日本書記α群のシには「心」四種、「書」
>> 五種、「章」四種、セには「心」三種、「書」一種、「章」
>> 一種。シの頻度でも25%は「心」、斯という字そのものも
>> 有りました。
>> したがって私の仮説はだめですね。
まだダメだとは思いません。
サ行は面白いですね。亀井孝氏(故人)によれば、古くはサ行子音に摩擦音と破擦音の2系列があったのではないか、という説もあるほどです。上代よりはるか以前でしょうが。
いま、倭人伝で中古音の歯音声母字を見ると次の通り。
歯頭音:〈精母〉姐1・載1、〈心母〉蘇3・斯1・泄1、〈邪母〉ジ1
正歯音:〈章母〉支7、〈書母〉升1・声1、〈常母〉市1・臣1
つぎに、倭人伝の言語が上代日本語と同様の音韻組織をもっていたと仮定して、話を進めてみます。
支は*キを表わした可能性もあります。形声文字には伎・技等、牙音字が多いですし、壱岐(?)を「一支」と音訳しているからです。また「升」は「斗」の誤写の可能性もあります。他の文献ですが、古写本では、この二字の書体は酷似しています。また「臣」は-n韻尾字なので、誤字の可能性があります。
残るは、8字種延べ10字。この僅少な音訳例をどう扱うかというのは、容易ではありません。
一番比定しやすいのは「斯」でしょうね。上古【佳】部・中古〔支〕韻で、*シの音訳でしょう。
「市」は中古全濁音。之部之韻。*シに当てられた可能性もあるが、「斯」ほど適切ではなかったかも。「都市牛利」として現われるのですが、最近の一説のように、「都市」は音訳ではなく、職名だたのかも知れませんね。
「蘇」は3例とも遠絶21国リストの字ですね。森氏によれば、前漢の資料の可能性が大きい(東[魚是]20余国説は、『日本の古代@倭人の登場』の文庫版で付け加えたようです)。【魚】〔模〕韻で、前漢なら[sa]と推定されます。これは*サの音訳の可能性大。
中古〈心〉母は他に「泄」字があります。入声字を用いたのは、陰声(母音韻尾)字に適当なものがなかったからと考えられます。とすれば、*サや*シでの可能性は低い。
*セでしょうか。
同じ摩擦音に〈書〉母の「声」があります。これは後続の〈群母〉のきこえを強調するのに-ng韻尾を利用した用字(伊声[鰭ー魚])ということでした。【耕】部〔清〕韻。人名ですから、3世紀の音訳。*セか*ソ乙でしょうね。
以上は摩擦音声母。問題は破擦音。〈精〉母の「姐」と「載」。後者は【之】部〔[口台]〕韻なので*ソ乙類の音訳の可能性が大きい。前者の「姐」は【魚】部〔麻三〕韻字、これは難しいですね。
結局、いくつかの仮定のもとで、いくつかの可能性を考え、範囲を絞っていくしかないようです。なかなか確実なことが云えないのは、もどかしいですね。
>> でも倭人伝全体が、奈良朝の言葉につながらない方言である
>> という話も根拠はないことがわかります。
方言の可能性がありますが、私も繋がるような気がします。
>> もう一つの収穫は、唐代北方音に限っての話かも知れませんが、
>> ツヅヌルを表す適切な漢字がなかったとされていることです。
>> したがってα群の中でさえ、都をツと読んだりトと
>> 読んだりしています。
>> この事情が倭人伝に適用できるのかわかりませんが、もし
>> 適用できるなら、ツヅは表現しづらく入声の子音韻尾を
>> 使ったのかも知れません。
この視点は貴重です。中国語側にぴったりの音がすべて備わっているとは限りませんからね。
>> 倭人伝の入声は-t五例、-k三例、-p一例ですが、-kの内二例は
>> 次の字の子音がkで始まります。
>> 実際「末廬」はマツラですから。
>> すると「一支」イツキくさいです。
倭人伝の入声字の用法は、日本書紀α群と異なるようですね。α群では、入声韻尾を後続音節の頭子音と揃えているのですが、倭人伝はそういう意識は見られませんから。
>> あと去声の「対」もツ始まりの語にたいしてしょうがなくて
>> 使ったのかも知れません。
>> 「対馬」は子音韻尾の-dを使ってツヅマのような音を表した
>> 可能性は高そうです。
去声の濁塞韻尾は、かなり理論的な構想の産物ですから、あまり律儀に受け止める必要はないかもしれません。「ツシマ」の「シ」のきこえが弱いので「ツシ」を一字で済ませたが、何か舌尖摩擦音が聞こえるので、去声字を当てた。そんなところかも知れません。
>> ただ「対蘇」はしょうがなくて使ったなら、必ずしも
>> ツヅサではないでしょう。
でしょうね。
>> するとツサの可能性は有りそうです。
「対」は【微】部〔灰〕韻ですね。*ツか*ト乙の可能性が大きいように思えます。
>> ところで、土佐国はもともと、波多国と、都佐国に
>> 分かれていたようです。
>> もともとツサだったのを、都佐と書いて用字が定着し、
>> その後中央の官僚がこれをトサと誤読して、そのまま定着
>> した可能性はないでしょうか。
「対蘇」は「トサ」の可能性は少なくないように思えます。
ピクポポデミさんは、思考が柔軟で篤実なようにお見受けしました。
私は通りすがりの者で、ピクポポデミさんの素直な文章に惹かれて、立ち寄っただけです。これ以上の知見もありませんから、そろそろ退場します。どうぞお元気でご活躍ください。
元の発言 [ 古代の音韻と日本書紀の成立をみて ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月11日(月)22時17分27秒 ]
訂正です。
「対蘇」は「トサ」の可能性は少なくないように思えます。→「対蘇」は「ツサ」の可能性が少なくないように思えます。
にゃんちゅーさんの発言で、ふっと思ったのですが、、、
「あまてらす」を東北弁で話すと「あまとらす」と聞こえるかな?と
伊都国の官吏に聞いた言葉を中国語で、一所懸命音訳したとすれば
畿内の発音との違いは出てくるでしょう。
中古音とか、方言の存在はどうなっているのでしょう?
どうしても、倭国全体が同じ言葉を話していたとは
思えないので、ある方言を中国人が漢字にしたとしか
思えないのです。
日本のいたるところで、漢字になっていても読めない地名
はたくさんあるじゃないですか。
名古屋でもいくつもありますが、それに方言がプラスされると
全くよその土地の人ではわからないことがありますよ。
方言も、言語の体系に完全に入るものなのでしょうか?
元の発言 [ Re: 短里説の解体学 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月10日(日)16時29分48秒 ]
又、蒸し返しになりますが海の道は天候に左右され航行できる日が極て制限されます。
普通は出来るだけ天候に左右されない道を選ぶでしょう。
韓半島を全て水行したと考えるのには無理があります。
しかも七千余里を一日三十里で換算すると233日も掛けることは異常でそんな不便な航路を行く筈が無いでしょう?
それから沿岸に沿ってくねくねと曲がりくねって距離を測ることが出来る訳が無い。
見通せるだけ直線で測ったと考えた方が合理的です。
それこそ立派な地図があれば海岸線の長さも出せたでしょうが地図はないと言っておられる。
私が七千余里を水行したのでは公孫氏が滅んだ情報を得てから景初3年6月に帯方郡に使者を送るのは不可能と言ったらその時だけは陸行をしたと言われる。
こう言うのをダブルスタンダードと言うのでしょうね。
元の発言 [ 放置 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月11日(月)17時06分47秒 ]
>> ほかの人が反論しても、あなたはほとんど放置したまんまで
>> じぶんの言いたいことだけ言いっぱなしですね。
>> つまんないですよ。
そうですね。
ここは論争をする場所なのですから、意見を発表される
だけであれば、ご自分のHPなどでされれば良いかと
思います。
ここに書かれるのであれば、それなりの礼儀が必要かと
思われます。
元の発言 [ Re: 古代の音韻と日本書紀の成立をみて ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(火)14時28分03秒 ]
オニリンさん、初めまして。通行人の筈なのに、また立ち止まってしましました。
>>魏志倭人伝の漢字音の解釈として、前漢代の漢字音が
>> 使われていた、とすることについて、国の名前などは、
>> むしろ、古韓音系統をつかっていた可能性が非常に高いの
>> ではないかとおもいはじめました。
「支」を「ke」に当てるのは、古韓音だけではなく、5〜6世紀の江南にも音訳例があったと思います。また、〔支〕韻の音価は、5世紀では「i」より「ie」に近かったはずです。ことさら、「ケ甲」を排除する理由はないように思うのですが。特に、稲荷山は古韓音系の仮名ですから、なおさらです。
古韓音系の仮名は原音に基づいた音訳ではなく、倭人伝の音訳とは性格が異なるように、私には思われます。倭人伝の音訳語彙は内部で時代の相違もありますが、基本的に原音による音訳です。故・有坂秀世氏の指摘のように、次清音字が皆無である所からもそう推測されます。
>> 韻部の親字がつかわれていることが多いという話がありま
>> したが、魏志倭人伝の地名、人名で、親字ではないのは、
>> どれなのか、わかりますか?ちょっと資料がない。
「韻部」というのは、一般に上古音の韻部を指します。倭人伝の音訳漢字は、殆どが「小韻首字」だといったのは、尾崎雄二郎氏ですね。尾崎氏はこのとき、中古音の小韻首字のことを言っているのです。つまり『広韻』の小韻首字のことです。したがって、『広韻』を御覧になれば済みます。早く一覧したい場合は『韻鏡』を御覧になるのが便利です。原則として、切韻系韻書の小韻首字を転図内に収めているからです。
なお、『広韻』は周祖ボ氏の校本が好いと思います。台湾から影印本が出ています。『韻鏡』は香港芸文印書館から出ている龍宇純氏の『校注韻鏡』をお薦めします。基本的な工具書ですから、日本の専門書店に常時備えてあるはずです。
では、お元気でご活躍ください。
元の発言 [ 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月11日(月)15時54分08秒 ]
タリシヒコを推古天皇に比定している学者は皆無ではないかと思われ,
「定説」ふうには,タリシヒコとは聖徳太子のことです。
# 異論もありましょうし。
>> 前年の多利思北孤は、ともに《天子》として対等の立場で物申しているのに、
>> 推古天皇は、隋の皇帝には一歩さがって、臣下の礼をつくしているなどというこ
>> とは、同一王朝としてありうることではない。
隋書の最終段のところに,
「我れは夷人,海隅に僻在して,礼儀を聞かず」
と述べたというオチがついておりますね。
元の発言 [ Re: 倭王武の祖先は「沙額田国(近江国坂田郡)」の出身? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(火)14時03分35秒 ]
おにりんさん こんばんは
>>
#ありがとうございます。なかなか面白いでしょ。
うまく出来過ぎで、ちょっとうそ臭いんですけれど。
>>
>>
>>
#55とか66とかって数字が実数でないとすれば、いろいろとなるとは
思うんですけれど。そうすると、122の数字の一致も偶然ってことになって
しまうので、とりあえずは、本当に西に66国、東に55国だったということで、
考えました。まあ、海を渡って77国って書いてあったら、さすがにねぇ。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#坂田郡姉川左岸の古墳がなかなか面白くて、
3世紀末から6世紀にかけて、20〜30年に1個の割で古墳が十数個あるんですが、
みんな全長40mくらいで大きさがそろってます。ところが、なぜか、1個だけ
ぽこんと100m級の長浜茶臼山という古墳があって、それが4世紀末か5世紀頭
くらいの時期に当たるみたいです。
この時期だけ、ここの首長の羽振りが良かった原因てなんでしょう。息長宿禰のもの
だったとしたら、うまく話が合うんですけれど。単なる偶然かもしれませんけど。
それと、応神紀に角鹿で名前を取り替えたという有名な話がありますが、
なんで角鹿なの?と思いませんか。これも、応神天皇が子供の頃に湖北地方に住んでいた
としたら、角鹿は非常に近い場所なので、自然な感じがします。
元の発言 [ 長里説は矛盾に満ちている ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月12日(火)14時20分40秒 ]
牛頭天王さんって
畿内説は朝鮮半島をほんとに七千余里も舟でやって来たと
言ってると思ってるんですかあ?
畿内説ってなんだか知ってますかあ?
元の発言 [ Re: 古代の音韻と日本書紀の成立をみて ] お名前 [ 斧折三 ] 日付 [ 2月12日(火)12時12分41秒 ]
>> >> したがって私の仮説はだめですね。
>> まだダメだとは思いません。
>> サ行は面白いですね。亀井孝氏(故人)によれば、古くはサ行子音に摩擦音と破擦音の2系列があったのではないか、という説もあるほどです。上代よりはるか以前でしょうが。
いろいろなご助言ありがとうございます。
同書中で〈心母〉と〈書母〉〈精母〉は同一歌謡中にあったりして、容易に分離できそうにありません。
それでも一連の音の中での音韻変化や、各歌謡の内容、引用のされかたなど、文学的、歴史的、音韻的背景を考えながら分析すれば、何かそれなりに得る所はあるのかもしれません。
いずれにせよ、長い話しになりそうです。
この本は資料として大変役に立ちそうです。
一般人は日本書紀全文にあたらなければならないとなっただけで、ほとんどくじけますが、この本には必要な歌謡の資料も載っていますから。
在野にあっても、時に何十年の時間をかけて、尊敬に
あたいする成果を残す人はいますが、現実には大変厳しいので、このような簡便な本は嬉しいです。
元の発言 [ Re: 古代の音韻と日本書紀の成立をみて ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(火)14時28分03秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
これはこれで疑問があるのです。
まず全体の魚部模韻がア列とすると、全部で15文字表れる奴の字をはずして、<那>の字を一字用いたのはなぜか。
<難>は詔書中にあるので除くとしても、なぜここだけ<那>なのか。
同じく<多>はなぜ他に四字でてくる<都>では駄目なのか。
<模>はなぜ10字もでてくる<馬>では駄目なのか。
これらの字はいずれも官名にでてきます。
おにりんさんによると、推古朝遺文には<都>をタとする例があるそうですが、これが古韓音の影響であるなら、なぜ<伊都>の<都>はトなのか。
疑問がのこります。
21ヶ国リスト前漢説も別の疑問はあるのですが。
元の発言 [ Re: 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(火)21時46分44秒 ]
だからどこで会ったのよ?
たぶん、大和の邪馬台国で?
たぶん、太宰府かそのちょい南の女王国で?
伊都国で?
元の発言 [ Re: 長里説批判は誤解に満ちている ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月12日(火)23時06分25秒 ]
>> 牛頭天王さんって
>> 畿内説は朝鮮半島をほんとに七千余里も舟でやって来たと
>> 言ってると思ってるんですかあ?
違うんですか?
koujiさんの>>沙里院に近い南浦から釜山までを現代の航路に沿って計測し、「総計で1,316kmほど」という数字をえています。これは、3,025里程にあたります。古代の航路はさらに密に海岸に沿っていたであろうことを勘案すれば、「七千余里」は概ね実数に近いと言えます。もちろん、これは魏・西晋の約435mにあたる里での話で、いわゆる「短理」だと現代の航路でも一万数千里になり「萬二千餘里」をも超過することになります。つまり、帯方郡から狗邪韓國までの七千餘里は、「短里」を否定する例であることは明らかです。
と言うのは「七千余里も舟でやって来たと言ってる」ように見えますが。
>> 畿内説ってなんだか知ってますかあ?
畿内説というより岡野熊鰐説があれば1里435mに沿って韓半島七千里を説明願います。
元の発言 [ だったら、公孫氏短理でなにが不満? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(火)21時42分44秒 ]
>> こう言うのをダブルスタンダードと言うのでしょうね。
>>
どんな形にしろ短里が存在を認めてもらえると話が前に進みやすいです。
元の発言 [ Re: 古代の音韻と日本書紀の成立をみて ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月12日(火)23時26分20秒 ]
>> 同書中で〈心母〉と〈書母〉〈精母〉は同一歌謡中にあったりして、容易に分離できそうにありません。
>> それでも一連の音の中での音韻変化や、各歌謡の内容、引用のされかたなど、文学的、歴史的、音韻的背景を考えながら分析すれば、何かそれなりに得る所はあるのかもしれません。
森氏は中公新書で、α群はアクセントを子音や母音よりも重視した場合もあると書いていましたが。サに当てた〈心〉母字の「娑」ですね。ということは、上代のサの頭子音はts-で決まりということですね。
>> いずれにせよ、長い話しになりそうです。
>> この本は資料として大変役に立ちそうです。
>> 一般人は日本書紀全文にあたらなければならないとなっただけで、ほとんどくじけますが、この本には必要な歌謡の資料も載っていますから。
>> 在野にあっても、時に何十年の時間をかけて、尊敬に
>> あたいする成果を残す人はいますが、現実には大変厳しいので、このような簡便な本は嬉しいです。
言葉の学問のなかでも音韻学はきわめて体系的なものだと聞いています。したがって適切な方法に依りさえすれば、簡単に理解できるはずです。書物の選び方も重要です。無用の書を100冊読むより、確かな書物を100回読む方が賢明ですから。本の選択は本人の見識によりますが。
元の発言 [ Re: 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月11日(月)00時00分02秒 ]
郭公さん今晩は。
いくつかの投稿をまとめて、順序も入れ替えた所があります。また断りを入れず適宜省略させていただいております。御了承ください。
>> 橋本増吉は、不弥国から邪馬台国までの行程記事は「魏略」には存在せず、魏志倭人伝にはじめて採録されたのであろうと言っております。(『東洋史上より見たる日本上古史研究』)
>> 佐伯有清は、
>> > 「投馬国」より前に記載されている国ぐにの戸数については(中略)「有…戸(家)」という表記法をとっているのに対し、「投馬国」と「邪馬台国」のところは、「可…戸」となっていて、ここでも里数と日数の表記の違いがあるのと同様に、「投馬国」以前と以後とのもちいた史料が異なっていたらしいことをしめしている。(『魏志倭人伝を読む 上』)
>> もっともな指摘であると思います。
>> この投馬国以降の日数表記の行程を、この不弥国のあとに置いたと言うことは、もともと起点の書かれていない別の史料として存在していたのを、陳寿が、倭国は南北に長いと思っていたこと、伊都国から女王国まで千五百里あることを考えて挿入したのではないでしょうか。
旅程記事のうち、帯方郡から不彌國までの里程表記部分と、不彌國から邪馬臺國までの日程表記部分では原史料が異なるであろうことは、同意できます。しかしながら、魏略に「自帯方至女國万二千餘里」という記述があり、かつ日程記事部分がなかったという主張は根拠が薄弱であると思います。
「万二千餘里」が魏略逸文に存在することは事実で翰苑の「文身點面、猶稱太伯之苗」という本文への注として引用されている部分にあります。
「魏略曰、女王之南、又有狗奴國….(中略)….自帯方至女國万二千餘里….(中略)….今倭人亦文身、以厭水害也」
一方、魏略逸文で旅程記事部分を含むのは、同じく翰苑所引の
「魏略曰、従帯方至倭、循海岸水行、暦韓國到拘耶韓國七十餘里….(中略)….至伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩渓觚・柄渠觚、其國王皆屬王女也」
ですが、これは「分職命官、統女王而列部」という本文に対する注です。この逸文が「其國王皆屬王女也」で打切られているのはこの本文に対応しているからだと考えられます。したがって、魏略のこの記述に続く部分に奴國・不彌國・投馬國・邪馬臺國への旅程が存在しなかったとする根拠にはならないものと思います。
魏略逸文中に日程表記部分が存在しないことは事実です。しかしながらその理由は、魏略に日程表記部分が存在しなかったからではなく、単にその部分が引用されていないだけと考えるのが妥当であろうと考えます。私に言わせれば、魏略逸文中に「自帯方至女國万二千餘里」が存在することこそ魏略に日程記事部分が存在した証拠だということになるのですが、これは郭公さんの立論からみれば、平行線になるだけでしょう。
>> >東南奴国に至る百里。
>> >東行不弥国に至る百里。
>> この個所に水行か陸行か渡海かが書かれていないのは、既に末盧国で上陸しているので、(実際は伊都国で上陸したものと思いますが)、奴国、不弥国へは陸行が前提となっているために省略されたと考えられます。
>> ですから、投馬国への水行の起点は不弥国ではありえないと思います。
>> ただし、伊都国から水行したと考え、奴国、不弥国の首府が海浜にあったと考えれば、魏志倭人伝本文のまま読めないこともないです。いささか腑に落ちないところもありはしますが。
魏の使者たちが不彌國まで陸行し、その後水行に転じたわけではないであろうことは、結論としては同意できます。
奴國・不彌國への旅程は末盧國への陸行を承けて、引き続き陸行と見るべきところであることもおっしゃるとおりだと思います。魏志倭人伝の旅程記事では不彌國の後再び水行に転じるわけですが、このことを踏まえると末盧國での上陸が極めて不自然であることは確かです。しかしこの不自然さは里程表記部分の原史料の記述ががもともと不彌國までで終わっていたと考えれば解消されます。このことも、里程表記部分と日程表記部分の原史料が違うことの傍証と言えましょう。魏志倭人伝の旅程記事は従来からあった不彌國までの里程表記史料に日程表記部分を付加したものであると考えられます。そうであるとすれば、日程表記部分の本来の起点が不彌國ではないとこも充分に考えられるところで、多分そうであろうと思います。
問題は里程表記史料の性格です。中国史料には、三世紀代の倭・魏交渉に先立って、西暦紀元前後から二世紀初頭に於ける倭・漢交渉が記録されています。既に郭公さんは御承知おきの所かとは思いますが、私は、里程表記史料をこの時期の所産であると考えます。後漢書は奴國を「倭國之極南界」としていますが、この里程表記史料の記述対象の中では、不彌國と並び奴國が極南界に当ります。また、この記述範囲が紀元前後の漢鏡が比較的厚く出土する地帯及びそこへの航路と重なることも傍証となりましょう。
余談ですが、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」もまた、本来はこの史料に属するものであったのではないかとも考えています。
これに対し女王が都とする邪馬臺國への日程表記部分の史料は魏代のものでしょう。そうであるとすれば、里程表記部分は梯儁や張政たちの旅程を示すものではないことになります。三世紀の魏の使者たちは帯方郡を出港した船で伊都國に寄港し、再び同じ船で邪馬臺國へ向ったのでしょう。魏代の邪馬臺國への旅程が倭国内においてももっぱら海路であったことは、魏志倭人伝に
「於國中有如刺史。王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露。傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯」
とあることが裏付けているように思われます。解釈の問題ではありますが、倭國中に刺史の如き者たちがおり、彼等は倭王の国外へ使者や帯方郡からの使者の通過に際して港に出向いて警護にあたったのであるとすれば、魏の使者たちは倭王の王都へ赴くに際してもっぱら海路に依ったものと考えられるからです。
伊都国に寄港した時に、陸行で末盧國へ、また奴國・不彌國へと見物に行くようなことはあったかも知れませんが。
>> 投馬国への起点は不弥国ではないとして、不弥国まで陸行したとします。
>> そうだとしても、そこから「女王国」へのルート書かれていない。
>> 不弥国までも行ったのだろうか? ひょっとすると行ってないんじゃないだろうか?
>> 邪馬台国へも行かず、女王国へも行かず、卑弥呼、台与に会っているとしたら、それはどこか?
>> 伊都国しか残らない。伊都国で会ったのではないでしょうか?
>> 魏志倭人伝には、倭国とだけ書かれていて、倭国のどこで会ったのかは書かれておりません。
>> ちょい強引ですか? あり得なくもないと思うのですけれど。(^^ゞ
あり得ないとまでは言いませんが、
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入居處」
とあることから考えるとやはり難しいのではないでしょうか。
>> >> また、去年ALEXさんが、沙里院に近い南浦から釜山までを現代の航路に沿って計測し、「総計で1,316kmほど」という数字をえています。これは、3,025里程にあたります。古代の航路はさらに密に海岸に沿っていたであろうことを勘案すれば、「七千余里」は概ね実数に近いと言えます。
>> 「韓は方四千里」を基準に、南へ四千里、東(釜山)へ三千里、この感覚ではないでしょうか?
ALEXさんは、倭人伝里程表記部分の「狗邪韓國」という表記と韓伝の「弁辰狗邪國」という表記の間に時代差を想定しています。
また、「方可四千里」のような概括的な記録は「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」のような個別の旅程記録から概算されるものです。もちろん「方可四千里」が「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」とは全く別の旅程記録から概算された可能性もまったく否定できるわけではありませんが、与えられた史料の範囲内で考えるならば「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」の方にオリジナリティを認めるのが常道であろうかと思います。
元の発言 [ Re: Title三角縁神獣鏡は個人コレクション ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(火)13時57分11秒 ]
>> 少なくとも大和朝廷からの下賜品ではない。
>>
>>
>>
面白いです。やはり三角縁神獣鏡は葬式の花輪ですかね。
香典とすると33枚も集まれば同じ物が入っていてもおかしくないけど黒塚も椿山も同じものが無い。
となると生前から本人が集めてダブった物は他人に譲るとかしていたのでしょうか?
鏡を模した土器が副葬された古墳というのはどう解釈すればいいのでしょう?
元の発言 [ Re: 古代の音韻と日本書紀の成立をみて ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(水)10時57分08秒 ]
>> 21ヶ国リスト前漢説も別の疑問はあるのですが。
>>
>>
>>
>>
>>
だから比定が難しいともいえるかもしれない。
もっとも私は、前漢時代に楽浪郡のお役所の外交事務用に
おおもとが成立して、後漢末の争乱までは生きていたと
思います。
いわば倭国お友達帳みたいなのがあって、前に使いが来たときは
こんなものを持ってきた。それにお土産としてこんなものを
持たせたとか記録されてたんじゃないですかね。
文字の音が変わっても、国名を変えるとつながりが悪くなるので
変えない。
国がなくなったり、出来たりしたときは、代表から聞いて
消したり加えたりする。
後漢末の争乱で、訳がわからなくなって、国名だけが
歴史的資料になる。
その間倭国も乱ですから、国も全然変わってしまって、
あたらしくお付き合いが始まったとき、邪馬台国までの
里程が別にできて、倭人伝で不用意にマージされたと。
そこで奴国が二つ。
ところで古漢音抜きで、お友達帳の成立を後漢まで下げる
方法を考えています。
α群では、ア列はほとんど{歌}韻なんですよ。
なんで倭人伝はほとんど{模}韻なんでしょ。
{歌}韻なんて二つだけです。
明らかに前漢時代の音訳の倭をいれて三つ。
とくに前漢時代を想定する国名には一つも出てこない。
もし前漢時代であれば、この二つの音色はよく似ているはず。
後漢時代の倭人語に、オ(甲)が一つもなかったらどうなんでしょう。
奥舌の母音でアがもっとオに近い音でも、不便がないでしょう。
後漢代には、oに近づきつつある魚部{模}韻が実は
倭人のア列にもっとも近かったのではないでしょうか。
どうしても表しきれない部分は{麻}韻で表して。
その後魏晋代では魚部{模}韻はますますoに近くなり、
一方倭人語では、オ(甲)が登場し、ア列は次第に{歌}韻に
近づいていったとすると・・・
多/那/難などの{歌}韻が登場してくる。
おそらくマだけは、いつでも「馬」がはまりだったのでしょう。
α群でもマだけは例外です。
倭人伝の魚部{模}韻は基本的にア列を表し、表しきれない
部分を{麻}韻/{歌}韻などで表したと考えれば、ほとんどの
問題が解けると思います。
ついでに、いくつかのア列がこのときオ列に移ったのではないでしょうか。
「伊都」はその例かも知れません。
すると国名中の都はおそらく後世のトに移っているのでしょう。
ところで「為吾」(わが?)国ですが、以下の情報をみると、
伊賀でいけませんか。
******************************************************
伊賀国号(二)
伊賀の国の風土記。伊賀の郡。猿田彦の神、始め此の国を伊勢の加佐波夜の国に属けき。時に二十余万歳此の国を知れり。猿田彦の神の女、吾娥
津媛命、日神之御神の天上より投げ降し給ひし三種の宝器の内、金の鈴を知りて守り給ひき。其の知り守り給ひし御斎の処を加志の和都賀野と謂ひ
き。今時、手柏野と云ふは、此れ其の言の謬れるなり。又、此の神の知り守れる国なるに依りて、吾娥の郡と謂ひき。其の後、清見原の天皇の御
宇、吾娥の郡を以ちて、分ちて国の名と為しき。其の国の名の定まらぬこと十余歳なりき。之を加羅具似と謂ふは虚国の義なり。後、伊賀と改む。
吾娥の音の転れるなり。 (風土記残篇)
******************************************************
ところで、伊賀群には、阿賀郷と伊賀郷があって、群名は
時代によって伊賀と阿賀を移り変わったそうです。
PS:与と渠は乙類ではないですか?
元の発言 [ 大論争2月号を開始します。 ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 2月1日(金)03時14分40秒 ]
>> 1月号破損データの修復は少々お時間をください。
表紙の一月号は2001年になってます?
元の発言 [ Re: いろいろやってます ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(火)14時23分09秒 ]
>> 森氏の『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店)に「日本書紀万葉仮名分布表」が載っていて、便利です。品切れでなければいいのですが。
>>
>>
八重洲のブックセンターに一冊だけありました。
もしかしたらまだ有るかも。
>>
>>
>>
これも捜してみよう。
>>
>>
>>
面白そうです。
元の発言 [ Re: 公孫氏短理で不満はありません ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(水)19時33分01秒 ]
>> どんな形にしろ短里が存在を認めてもらえると話が前に進みやすいです。
>>
>>
>>
>>
長里だけでは説明つかない事が沢山あるんですから。
公孫淵は呉と遼東の距離感を「江南海北有萬里之限」と言ったとか。
これは1里が8,90mじゃないと説明がつかない。
平井進(避雷針)さんのレポートもご存知でしょう。いろいろ例が書いてある。
私もこのレポートない短里の存在を見つけました。
『梁書』諸夷傳に、
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北歴灣邊數國、可一年餘到天竺江口、逆水行七千里乃至焉。」
河口から川を七千里遡上した所に天竺がある訳です。
三世紀の天竺の首都はブッダガヤの辺りでしょう?
この辺りはガンジス川の河口から600km位上った所にあります。
三世紀のインド大陸もガンジス川河口では100kmくらい後退していたと思います。
ダッカなど今でも海抜0mで台風の度に水浸しですから。
とすると500km位が7千里になります。
1里72m程度になります。
たとえ河口から600kmでも86mで短里の範囲です。
元の発言 [ Re: 長里説批判は誤解に満ちている ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月13日(水)00時07分49秒 ]
>> と言うのは「七千余里も舟でやって来たと言ってる」ように見えますが。
気のせいでは?
ナシメやテーシュンがほんとうに通常コース3千キロを行き来したなんて誰も言ってないですよね。
その半分よりは多いだろうとは言ってる。
>> 畿内説というより岡野熊鰐説があれば1里435mに沿って韓半島七千里を説明願います。
ぼくは倭奴国が万里(バンリ)のかなたって形容詞がいつのまにか実数の1万里になっちゃってそれを7:3に割り振っただけって説に説得力があると思いますね。邪馬台国はそのへんから船で2ヶ月だから+2千里。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(水)11時08分31秒 ]
>>
>>
この人物を聖徳太子に比定したくなるなぁ。
>>
>>
大筋,そのようです。
# 直木説なんかだと直接的。
>>
>>
>>
いますね,小徳大伴連。「咋(くひ)」という名の人物なら,
藤原鎌足の外祖父だそうです。
>>
>>
>>
>>
はい。
元の発言 [ おにりんさん、短里を信じて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月13日(水)22時05分47秒 ]
>> 公孫淵は呉と遼東の距離感を「江南海北有萬里之限」と言ったとか。
>> これは1里が8,90mじゃないと説明がつかない。
呉と遼東の距離が萬里ってのと
帯方と倭が1万2千里ってのこ
なるほど辻褄は合ってる。
呉と遼東の距離が萬里ってことが1里8,90mで説明できて
帯方と倭が1万2千里ってことも1里8,90mで説明できて
じゃあ倭は会稽東冶のちょうど東かっていうと実は全然違う。
辻褄あってるはずなのに全然違う。
ってことは、結論!
★★★説明できるってのは間違い★★★
元の発言 [ Re: 長里説批判は誤解に満ちている ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月13日(水)22時14分59秒 ]
>> >> と言うのは「七千余里も舟でやって来たと言ってる」ように見えますが。
>> 気のせいでは?
>> ナシメやテーシュンがほんとうに通常コース3千キロを行き来したなんて誰も言ってないですよね。
>> その半分よりは多いだろうとは言ってる。
二千km位ですか?
ショートカットすれば600kmくらいを、天候に左右され易く不安定な海道を通るかな?と言うのが正直な感覚。
私も始めは水行だと考えていましたがいろいろ検討すると水行は無理だと思えるようになりました。
>>
>> >> 畿内説というより岡野熊鰐説があれば1里435mに沿って韓半島七千里を説明願います。
>> ぼくは倭奴国が万里(バンリ)のかなたって形容詞がいつのまにか実数の1万里になっちゃってそれを7:3に割り振っただけって説に説得力があると思いますね。邪馬台国はそのへんから船で2ヶ月だから+2千里。
方四千里と七千里の整合性は?
元の発言 [ 信じちゃったらおしまいなのよ宗教なのよ宣言 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月14日(木)00時01分26秒 ]
>> >> 公孫淵は呉と遼東の距離感を「江南海北有萬里之限」と言ったとか。
>> >> これは1里が8,90mじゃないと説明がつかない。
>> 呉と遼東の距離が萬里ってのと
>> 帯方と倭が1万2千里ってのこ
>> なるほど辻褄は合ってる。
>> 呉と遼東の距離が萬里ってことが1里8,90mで説明できて
>> 帯方と倭が1万2千里ってことも1里8,90mで説明できて
>> じゃあ倭は会稽東冶のちょうど東かっていうと実は全然違う。
東治≠東冶でしょう。
長里で萬二千里は5220km。
会稽東冶の東どころか赤道越えちゃうんじゃないでしょうか?
会稽山の東と言う感覚ならそれほど狂ってはいないです。
それから東夷伝の序「長老説有異面之人、近日之所出」の「異面之人」とは倭人の事で「近日之所出」は東を指しています。
会稽東冶の東を「近日之所出」とは言わないでしょう。
>> 辻褄あってるはずなのに全然違う。
>> ってことは、結論!
>> ★★★説明できるってのは間違い★★★
結論!
★★★説明できないってのは間違い★★★
元の発言 [ Re: 倭王武の祖先は「沙額田国(近江国坂田郡)」の出身? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(水)17時45分06秒 ]
割り込み失礼します。
>>
>>
>>
>>
>>
仁徳と言えば、隼別皇子の話がありますね。
その原因と言える、雌鳥姫ですか?(字は、これで良かったかな?)
近江の豪族の娘でしたね。
そして、ここに伊勢神宮の話が絡んでくる。
伊勢神宮に逃げ込む事が出来たら、殺されないと言うならわしが、
有ったやに、聞きます。
これは何を、意味してるのでしょう?
いままでの議論からすると、時代が合わないようにも思えますし。
また、其の反乱ハただの権力闘争なのでしょうか?
其れとも、大きな意味が別にあるのでしょうか?
元の発言 [ 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月2日(土)21時24分10秒 ]
>> 「あまてらす」
『天照』が、どうして「あまてらす」と読めるのですか?
「アマテル」としか、読めませんが。
アマテル神社が、対馬にあるようですが。」
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 2月13日(水)23時16分49秒 ]
>> >> リカミタフリを、ワカミトホリ(平安時代のワカンドホリ)。
>> >> タリシヒコをタラシヒコに、
>> >> という感じ。これで、隋書にある謎の半分以上は解けます。
>>
>> はい。
これで、新しいなぞが、では、タラシヒコは、称号の意味ももがあるのでしょうか?
そして、其れに記されてる、玉は、糸魚川周辺産の翡翠に
思えて成りません。
三内円山で見つかった玉の色が、そのものと言う気がします。
其の上、阿蘇山の事と其の祭儀これは、大和政権には、いったい何を意味するのか?
推古の墓に、阿蘇の石が使われている意味とは?
日本は、其の美玉を中国に送ったと見て間違いない記述でしょう。
歴史書にまで、書かれているほど、素晴らしいもので、
大喜びしている様子が浮かびます。
使者達にも送られたでしょう。
其処でまた一つ、中国人が、大喜びする玉、これが、何ゆえ忘れ去られてしまっているのか?
遣唐使、などでも喜ぶと判っていれば、贈り物として重宝されたはず。
まして、経済から考えると最高の交易品足るものの一つ、
忘れ去られる為には、最低でも3世代以上封印しなければならないはずです。
いったいどうやったら、忘れさせる事が出きるのでしょうね?
なぞは、さらに深いと思います。
元の発言 [ 長里で萬二千里は? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月14日(木)07時22分58秒 ]
>> 東治≠東冶でしょう。
これ、ごまかし。
でもそうやって無理して北に持てっても90m1里じゃまだ会稽に届かない。
つまり短里説ってこの二重のごまかしの上に成り立ってて、しかも当時に何百キロも直線距離が測れたってSF的な空想に寄りかかってるんだ!
やっぱり絵空事でしょう。
>> 長里で萬二千里は5220km。
これ、短里説のごまかしの代表ですよね。
方4千里の韓国の中を7千里南に進むの?
道のりどおり紆余曲折してるはずなのに直線にしちゃう計算ぜったいおかしいよ。
>> 会稽東冶の東どころか赤道越えちゃうんじゃないでしょうか?
越えないよね?
>> 会稽山の東と言う感覚ならそれほど狂ってはいないです。
こういうとこは雑駁に済ませて、畿内説には厳密を求めるの?それってダブスタ!
>> それから東夷伝の序「長老説有異面之人、近日之所出」の「異面之人」とは倭人の事で「近日之所出」は東を指しています。
倭人のことって、誰かが勝手に言ってるだけでしょ?
>> 会稽東冶の東を「近日之所出」とは言わないでしょう。
会稽東冶じゃ東から太陽が昇らないの?
元の発言 [ Re: 長里説批判は誤解に満ちている ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月14日(木)06時43分04秒 ]
>> 方四千里と七千里の整合性は?
七千里で半周するならきっと方四千里だな〜って韓伝に書いちゃったってことで見事整合。
講演会 古墳の設計からわかること
――初期ヤマト政権成立探求シリーズーー
日時 3月30日(土) 午後1時半――5時
会場 渋谷区勤労福祉会館
(渋谷駅ハチ公口より公園通りへ7分)
講師 函館大学 助教授 西村 淳氏
資料代 会員1700円 非会員2000円 学生1000円
昔から沢山の研究者が、古墳の設計や使用尺度の問題に取り組んでまいりました。そして多くの説が唱えられています。それらには共通するものがある場合もありますが、相反するものも多くあり、読み手にとって何が正しいのか判断しづらいといえましょう。
また、古墳は築造後長い年月が経っていますので、築造時の本来の姿をとどめて
いるとは限りません。このような状況で、古墳の設計や使用尺度を求めることは不
可能である、と唱える慎重な研究者もいます。しかし、我々には、曖昧な情報の中
から、確からしい情報を導き出すという統計学という手法があり、大量のデータを
処理できるコンピュータという武器が与えられています。そこに、研究者がアイデ
アを加えることによって不可能が可能となるのです。
今回は、みなさんが興味を持たれている箸墓古墳を含めて、このような手法によっ
て解明された古墳の設計や使用尺度についてお話しさせていただきます。
西村先生の紹介:西村先生は古墳規格の研究では最も経歴の古い先生です。実際の
計測データに基づいた統計学的な処理を行っており、大変科学的態度で研究を行っ
ておられます。現在は箸墓以降の古墳について研究されていますが、最終的には前
期古墳にも踏み込んで初期ヤマト政権の成立の謎に挑もうと思われています。計量
考古学の先駆者である帝塚山大学名誉教授の堅田直先生や埴輪の編年で有名は筑波
大学教授の川西宏幸先生の指導や近畿地域の古墳の研究者との交流を行って研究を
進められています。(藤盛記)
紹介先 п@047−467−6000 藤盛
元の発言 [ Re: 奴國、不彌國。水行? 陸行? ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月13日(水)01時07分57秒 ]
koujiさん、こんばんは。
考え考えしながら書いたので、まとまりのない文章になってしまい、すいません。
奴国、不弥国が陸行であること、投馬国、邪馬台国への行程記事の起点が不弥国ではないこと、この2点について共通認識が得られたことを心強く思っています。これを踏まえてもう少し邪馬台国への行程記事にこだわってみます。
『魏略』にすでに存在していたかどうかは、おっしゃるように意見が異なると思いますので角度を変えて見てみましょう。
(一)
狗邪韓国から伊都国までの行程記事の特徴は、「里」の単位が魏尺であるならば実態よりはるかに誇張されていること、対海国、一大国、末盧国の様子がコメントされていること。
奴国、不弥国の記事の特徴は、「里」の単位が魏尺に近いと思われること、国の様子への言及がなく、方角、距離、官名、戸数のみが記されていること。
このことから、「伊都国までの行程記事」と「奴国・不弥国の行程記事」とは別人による記述が原史料であったと考えることができます。
(二)
魏志倭人伝には、「その余の旁国」について国名だけが記されています。岩波文庫巻末にある『広志』逸文を見ますと、典拠が何かはわかりませんが、その余の旁国についても国名だけではなく、風俗についても言及しているようですので、ひょっとすると、魏志倭人伝には国名だけですが、原史料はもう少しくわしく書いている国もあったのかもしれません。
「旁」は、「そば」「かたわら」が本来の意味でしょうから、ここに記された国々は必ずしもすべてが遠絶ではなかったものと思います。倭国を構成する主要な国ではなかった、あるいは伊都国からは遠く国名はわかるけれど、官名など詳しいことまではわからない、そのような国々のリストであったと思われます。
(三)
「投馬国・邪馬台国への行程記事」は、距離が里数表記ではなく日数表記ですが、「奴国・不弥国の行程記事」と同様に、国の様子への言及がありません。
さらに、既にみたように、投馬国・邪馬台国への行程記事は起点の書かれていない史料として、撰者の手元にあった。
さて、この上記三種類の記事は奴国、不弥国の行程記事からわかるように、伊都国を起点として書かれています。原史料はどのように存在していたのか?
わたしは、それらの原史料ももともと箇条書きふうに存在していたのではないかと思います。
●伊都国から、奴国・不弥国へはこのように行く。
●投馬国・邪馬台国へはこのように行く。
●そのほかにこのような国々がある。
というふうに箇条書きのリストがあったのを、撰者が伊都国から近い順に繋げてしまったのではないでしょうか。
だから、不弥国のあとに投馬国・邪馬台国への記事を繋げてしまった。その余の旁国は必ずしもすべての国が遠絶であったとは限らないでしょうが、官名や戸数などが不明で国名だけ記されていた国が多くあったのかもしれません。撰者は遠絶だからよくわからないのだろうと判断をして、邪馬台国より後ろに繋げてしまった。
そうして出来上がったのが邪馬台国までの行程記事であり、さらに遠絶で詳らかではない「その余の旁国」位置の記事ではないでしょうか。
魏志倭人伝に見られる不自然さはここに起因しているものと思いますがいかがでしょうか。
このように考えますと、投馬国・邪馬台国への行程の起点は伊都国であることになります。
ところが腑に落ちない個所があります。
魏志倭人伝から原文を引いてみましょう。
>「南」至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
>「南」至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳テイ可七萬餘戸(「」は郭公)
伊都国から南へは水行できません。それなのになぜ「南」と書かれているのか?
きっと原史料は方角の記されていないものであった。しかしながら、撰者は、邪馬台国=女王国と考えていますので、(あるいは原史料そのものに邪馬台国は女王の都とする所とすでに書かれていたのかもしれません)
>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
この史料から、女王国は伊都国の南にあるために、「南」を書き加えたのではないでしょうか?
表題に部分的解体と書きましたのは、「女王之所都」が原史料そのものにすでに書かれていたのか、撰者の解釈によって挿入されたのかが、まだよくわからないからです。
>後漢書は奴國を「倭國之極南界」としていますが、この里程表記史料の記述対象の中では、不彌國と並び奴國が極南界に当ります。
この奴国は、范曄が、伊都国の東南百里の奴国と、その余の旁国の最後に書かれている奴国を同一視したために生じた誤解ではないでしょうか? 重出ではなく同名の異国ではないかと思います。
>> >> また、去年ALEXさんが、沙里院に近い南浦から釜山までを現代の航路に沿って計測し、「総計で1,316kmほど」という数字をえています。これは、3,025里程にあたります。古代の航路はさらに密に海岸に沿っていたであろうことを勘案すれば、「七千余里」は概ね実数に近いと言えます。
ふつう何度か通るうちにもっとも近いあるいは、もっとも便利な寄港地を経験的に選び取るのではないかと思いますので、魏尺であるとすれば、やはりいささか誇張ではないかと思います。
元の発言 [ Re: 長里で萬二千里は? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月14日(木)21時04分23秒 ]
>> >> 東治≠東冶でしょう。
>> これ、ごまかし。
>> でもそうやって無理して北に持てっても90m1里じゃまだ会稽に届かない。
気候や風土、風俗が会稽山のそれに近いと言っているのだと思いますが。
>> つまり短里説ってこの二重のごまかしの上に成り立ってて、しかも当時に何百キロも直線距離が測れたってSF的な空想に寄りかかってるんだ!
>> やっぱり絵空事でしょう。
洛陽−遼東間を漢書地理志では3600里じゃなかったでしょうか。これを漢の里で計算すると1510km。
洛陽−遼東間の直線距離1400km位ですね。
鉄道の線路で1650km位だそうです。
一見平坦な所も林や森や川を避けるためにうかいをしなければなりません。
当時は橋やトンネルも無いですから道なりに歩測していったとすれば鉄道の線路の長さの2倍くらいになるのが普通じゃないでしょうか。
これは直線距離を出しているとしか思いようがありません。
方〇〇里という面積の表現があって直線距離という概念がないと言う方が可笑しい。
>> >> 長里で萬二千里は5220km。
>> これ、短里説のごまかしの代表ですよね。
>> 方4千里の韓国の中を7千里南に進むの?
>> 道のりどおり紆余曲折してるはずなのに直線にしちゃう計算ぜったいおかしいよ。
紆余曲折していても直線で距離を表現したであろうと思いますよ。
いちいち歩測して歩いたら面倒。
特に「一海を渡る千余里」は対岸が視認出来、目で直線距離を測れるのに測れなかったと主張するのは変です。
>> >> 会稽東冶の東どころか赤道越えちゃうんじゃないでしょうか?
>> 越えないよね?
地球一周で4万キロです。5千キロは地球1/8周です。
赤道から45度位で地球1/8周。ハルビン辺りでしょうか。
帯方郡は北緯38度。5220kmというと東南45度でぎりぎり越える位でしょうか。
紆余曲折を考えれば届かないと言う話になりますが直線なら。
>> >> 会稽山の東と言う感覚ならそれほど狂ってはいないです。
>> こういうとこは雑駁に済ませて、畿内説には厳密を求めるの?それってダブスタ!
角度にして±30度以下、距離も±20%におさまれば畿内でもいいですよ。
2〜5倍も違っていてはね。
>>
>> >> それから東夷伝の序「長老説有異面之人、近日之所出」の「異面之人」とは倭人の事で「近日之所出」は東を指しています。
>> 倭人のことって、誰かが勝手に言ってるだけでしょ?
じゃあ「異面之人」って何ですか?「異面」とは顔に入れ墨をした人でしょう。
>> >> 会稽東冶の東を「近日之所出」とは言わないでしょう。
>> 会稽東冶じゃ東から太陽が昇らないの?
洛陽からみて東でなくちゃ。洛陽にいる晋の人に読ませるために書いた物でしょ。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(水)11時08分31秒 ]
>> >> タリシヒコ
隋書では、「多利思北孤」とあり、これは、「タリシホコ」のはず。
倭人伝には、『兵を持し』の兵とは、矛のことではないですか?
すなわち、“足りし矛”です。
まさに、天の日矛の後裔だということっを誇った名称でしょう。
元の発言 [ Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月15日(金)10時09分15秒 ]
>>
>>
おにりんさん
周髀算経を、どう考えますか?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月15日(金)10時52分04秒 ]
コの甲乙が違います。
従って、「足矛」説は0点。
元の発言 [ Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月15日(金)10時09分15秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
何考えているんでしょうね。
大体、人間が使う単位は、近代の単位とは違っていて、
人の行動に整合する物に決まってるでしょう。
大方、人が荷物を担いで歩く距離に関係しているに決まってます。
だったら、体格などの差によって変わってきても似た物に成るのが当然。
どんな、基準になるかだけ。
絶対単位だけで考えているから、おかしな事に成る。
人を基準と考えるのが正しいと想いますよ。
元の発言 [ Re: 長里で萬二千里は? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月14日(木)23時47分52秒 ]
>> 気候や風土、風俗が会稽山のそれに近いと言っているのだと思いますが。
その道程を計算するとちょうど会稽東冶の東にあるはずだ
と言っているんですよ。
二重のごまかしですね。文章の意味と場所のすり替え。
1里が75mとか90mとかだったら揚子江より北なんですから
距離のごまかしとあわせて三重。
>> 当時は橋やトンネルも無いですから道なりに歩測していったとすれば鉄道の線路の長さの2倍くらいになるのが普通じゃないでしょうか。
単なる想像でしょ?
道なりの距離に合ってるんだから
3600里っていうのは行った道の距離ですよ。
>> 特に「一海を渡る千余里」は対岸が視認出来、目で直線距離を測れるのに測れなかったと主張するのは変です。
見えたら直線距離がわかるんですか?
言ってることがばかげてると思いません?
>> じゃあ「異面之人」って何ですか?「異面」とは顔に入れ墨をした人でしょう。
それも誰かが勝手に言ってるだけでしょ?
ほんとは「かわった顔つき」って言ってるだけなのに。
>> >> >> 会稽東冶の東を「近日之所出」とは言わないでしょう。
>> 洛陽からみて東でなくちゃ。洛陽にいる晋の人に読ませるために書いた物でしょ。
だったら沿海州の東を「近日之所出」とも言わないでしょう。
結局、二重三重のごまかしと何百キロも直線距離が測れたっていう
Oパーツ系トンデモ説の上に成り立ってるのが短里節。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月14日(木)21時02分46秒 ]
熊本というと鉄器の伝来が早い,
景行紀にて阿蘇神を認め,玉名征伐,
「舟山古墳出土大刀」は倭王武の由緒で,
前方後円墳も多い。菊池川流域の装飾古墳文化。
という具合に,骨格となる素材が豊富。
御指摘のように阿蘇の石の件もあります。
邪馬台国系かもしれないし,
狗奴国系かもしれないし,
両者と畿内・継体との関わりという課題もあり,
邪馬台国問題も,
この辺りから攻める手もあり。
# どこかに完成された仮説があるかも。
「如意宝珠」というからには仏教がらみですよね。
ですから倭王と仏教に関わる課題でしょう。
夜は光を放つ,ということは,
祭器として使われていたフシもないわけではない。
しかし,関係者が,
「如意宝珠」というから見てみたが,
これは魚の目玉かなー,
とかの含みかもしれないしなぁ。
この辺りは少し調べてみます。
中国人は商売の見立てがしっかりしていますから,
宝石などの真贋の見分けに感が働くようです。
「いう魚の眼精なりと」とあるのが,
そのまんまだとしたら,
マグロかなんかの目玉かな?
「夜は則ち光あり」とある点は,
例えば,イカの生身なんかだと,
夜光虫だかなんだかの効果でボーと光る・・・。
(^◇^)
元の発言 [ Re: 古代の音韻と日本書紀の成立をみて ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(木)09時11分04秒 ]
>> 為吾だと、やっぱり、wa-nga ですよね、推定としては。
問題はwa-ngaなら何で「華吾」にならないかですよね。
「為」は発音が複雑すぎ。
私は安本氏とちがって、頭の丸いhではじまっても、ワ行とは
とりません。
やはり合口の-u-がワ行だと思います。
ですから「為」の頭子音と介母音を生かすなら、hiになります。
このばあいは、「為吾」はingaでぴったり伊賀と思います。
ただたかだかhiを表すのにこんな字を使うのかなと思います。
hiをあらわすのに他に良い字がないか・・・
こういうのが一番分からないことです。
この音訳者は「末」で二音節を音訳したりしてますから、
「為吾」はhiwagaのような音を訳したのかなとも思います。
hiwagaならおそらくイワガでしょう。
本来アガだったものに、接頭辞(?)のヒがくっついて
ヒワガになっちゃったか、イワガのワが抜けたか。
伊賀郷と阿賀郷が競い合っているんなら、いけそうに思いますが・・・
それにしてもマルセさんの投稿にあった
さのかた→さぬかた→ぬかだ
には参りました。
これじゃかりに「さの」という地名があっても、
最後に「ぬかだ」になってしまって、訳わかりません。
ところで私は、倭人伝のハ行は、倭人の発音の癖のように
思います。
つまり母音が単独で現われると、h音がくっつく。
いつもくっつくのではなくて、単独の母音が、一連の発音
のなかに取り込まれたり、ちょっと意識して発音したり
すると現われる。
するとワ行音の発音や、卑弥呼のように単語の中に
くっつくとh音が現われる。
卑弥呼は卑弥+呼なんでしょう。
卑弥は太陽と水の祭祀かなんかで、呼は王号なんでしょ。
それで二つの単語がくっついて、卑弥呼のように一語になると
h音が現われて、それがのちにワ行音かなんかになる。
すると絶対二重母音は現われない。
案外こんなことが上代日本語に二重母音が現われないことを
保証してたんじゃないでしょうか。
おそらく倭人はハ行なんて意識してなくて、ア行だとおもって
話してたんだと思います。
それを聞き取ったのは中国人の耳で・・・
倭人伝のハ行は幻のハ行なんじゃないでしょうか。
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(土)00時32分13秒 ]
ここと関係ないけど、、、
韓国の水行は海岸線に沿って走ったから
倍の距離になった。
では、瀬戸内はどうなんだろう?
残り1500里が700里とかになると
300kmくらいになって、畿内には
届かないけど、、、
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(土)01時24分16秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
大論争にくる前の私は、出雲が投馬国の畿内説だった
のです。つまりおにりんさんの航路に似ていたわけ
です。
でも、どうしても方位と、あとひとつ問題は
琵琶湖なんです。
滋賀県の遺跡などからもいえるように、琵琶湖周辺は
無視できない。
まだ当時の地形はわかりませんが、前に一度書いたと
思うけど、当時の関ヶ原あたりの問題で、本州が
とても狭くなっていた部分ではないかと思うんです。
そうなると、当然陸行より水行でかなり行けたのでは
とね。
ようは、敦賀から琵琶湖を通って、野洲あたりから
信楽をとおり、奈良へ行くルートですね。
そうすると大垣あたりが東海や伊勢、そして越との
接点になり、尾張氏とかヤマトタケルの伝承や
神功皇后、継体天皇がらみが理解しやすいかなと
思っていたのです。
元の発言 [ Re: ごまかし短里節 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月15日(金)20時33分12秒 ]
>> >> 気候や風土、風俗が会稽山のそれに近いと言っているのだと思いますが。
>> その道程を計算するとちょうど会稽東冶の東にあるはずだ
>> と言っているんですよ。
確かに「計其道里、當在會稽東冶之東」をそのまま読めばそう読めますが文の前後を見れば地理の事を言っているのではなく、
風俗の話でしょう。
会稽東冶と会稽東治は違う物だと思いますが?
>> >> 当時は橋やトンネルも無いですから道なりに歩測していったとすれば鉄道の線路の長さの2倍くらいになるのが普通じゃないでしょうか。
>> 単なる想像でしょ?
>> 道なりの距離に合ってるんだから
>> 3600里っていうのは行った道の距離ですよ。
直線距離とほとんど変らないのは何故?鉄道の長さよりも短い。
鉄道は山を削り、橋を掛け出来るだけ真っ直ぐに引く物です。
道なりに歩測で出した距離なら鉄道より長くなる筈です。
>>
>> >> 特に「一海を渡る千余里」は対岸が視認出来、目で直線距離を測れるのに測れなかったと主張するのは変です。
>> 見えたら直線距離がわかるんですか?
>> 言ってることがばかげてると思いません?
目で確認できたら少なくとも60km程度を435kmと間違える筈はありません。
対岸が見えれば三角測量くらい出来たでしょう。
>> >> じゃあ「異面之人」って何ですか?「異面」とは顔に入れ墨をした人でしょう。
>> それも誰かが勝手に言ってるだけでしょ?
>> ほんとは「かわった顔つき」って言ってるだけなのに。
>> >> >> >> 会稽東冶の東を「近日之所出」とは言わないでしょう。
>> >> 洛陽からみて東でなくちゃ。洛陽にいる晋の人に読ませるために書いた物でしょ。
>> だったら沿海州の東を「近日之所出」とも言わないでしょう。
???意味不明。
>> 結局、二重三重のごまかしと何百キロも直線距離が測れたっていう
>> Oパーツ系トンデモ説の上に成り立ってるのが短里節。
いろいろ短里があった証拠を示しているのにトンデモ扱いとは。
短里がなければ説明不能なことが多いのですから。
直線距離はかれなくて面積を出す事が出来ますか?
漢の最盛期の面積が方四千里とされています。
韓国は魏の時代同じく方四千里。
漢の時代と魏の時代には里の単位が変ったとは思いませんか?
距離は測れたと思います。
おにりんさんも信じないと言いながら実は半分信じつつあるのが公孫氏短里説です。
元の発言 [ Re: ごまかし短里節 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月16日(土)08時33分07秒 ]
>> 確かに「計其道里、當在會稽東冶之東」をそのまま読めばそう読めますが文の前後を見れば地理の事を言っているのではなく、
風俗の話でしょう。
だからそれがごまかしなんですよ。そう読めるんでしょ?
なら会稽東冶のちょうど東にあるってこと。
>>会稽東冶と会稽東治は違う物だと思いますが?
同じでしょ?
同じだとまずいから違うと言い張ってるだけ。それがごまかし。
>> >> 当時は橋やトンネルも無いですから道なりに歩測していったとすれば鉄道の線路の長さの2倍くらいになるのが普通じゃないでしょうか。
それはあなたが勝手に言ってるだけ。
>> 直線距離とほとんど変らないのは何故?
それもごまかし。
>> 洛陽−遼東間の直線距離1400km位ですね。
実際正確に測れば直線距離なら
洛陽から鞍山まで1167km
洛陽からシェンヤンまで1242km
つまり1200kmくらいが正しい。
>> 鉄道の線路で1650km位だそうです。
過去ログ調べたら「洛陽から北京経由で遼陽まで鉄道で1,544km。」って出てきた。
これ、あなたの言う1650kmとだいぶ違うけどどっちが正しい?
>> 洛陽−遼東間を漢書地理志では3600里じゃなかったでしょうか。これを漢の里で計算すると1510km。
これもごまかしだった。
調べたら3600里って書いてあるのが漢書地理志というのはウソ。
後漢書だから晋の時代の1里で計算すると1,560km。
つまり鉄道距離とほとんど同じで直線距離とはずいぶん違う。
これって昔からの街道に沿って鉄道が引かれたってだけでしょ。地図で確認したよ。
>> 対岸が見えれば三角測量くらい出来たでしょう。
見えただけじゃできないの。三角だから。
>> >> じゃあ「異面之人」って何ですか?「異面」とは顔に入れ墨をした人でしょう。
>> いろいろ短里があった証拠を示しているのにトンデモ扱いとは。
そのあなたのあげる証拠がハンコック並みなの。
短里がなければ説明不能なことが多いのですから。
>> 直線距離はかれなくて面積を出す事が出来ますか?
面積なんかどこに出てるの?
>> 漢の最盛期の面積が方四千里とされています。
どこい書いてあるの?
>> おにりんさんも信じないと言いながら実は半分信じつつあるのが公孫氏短里説です。
短里説をばかにするために言ってるだけだと思うけどな。
元の発言 [ Re: 「足矛」と「足彦」の甲乙はついています。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(土)00時55分03秒 ]
質問。例えば、「ほこ(甲類)」と「ほこ(乙類)」とか、「たこ(甲類)」と「たこ(乙類)」とか、甲乙が違うまったく別の単語というのはあるのですか。
元の発言 [ Re: 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月3日(日)13時56分53秒 ]
>>
>>
「アマテラス」と読んだのは、本居宣長が最初だと思うが、根拠などないはず。
本居宣長は、皇国史観のかたまりで、天皇家以外の視点がまったくなかったことによると考える。
元の発言 [ Re: 「足矛」と「足彦」の甲乙はついています。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(土)21時18分21秒 ]
>>
>>
>>
>>
いや古事記では毛毛です。
甲乙については、意味の違いを伴なわない、音素の違いと言う説も根強いようです。
したがってここは頑張りどころで、甲乙の違いで意味の違いを持つ例を徹底して挙げなければ。
上と神も意味は違わないと言う人もいます。
そういう人は日と火も同じと言うんでしょ。
この論争について詳しい方はいらっしゃいますか。
元の発言 [ Re: 「足矛」と「足彦」の甲乙はついています。 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月16日(土)21時48分30秒 ]
間違いました
>> 甲乙については、意味の違いを伴なわない、音素の違いと言う説も根強いようです。
甲乙については、音素の違いではなく、意味の違いを伴なわない音の違いと言う説も根強いようです。
元の発言 [ Re: 短里節はみんなウソ ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月16日(土)13時19分51秒 ]
>> >> 確かに「計其道里、當在會稽東冶之東」をそのまま読めばそう読めますが文の前後を見れば地理の事を言っているのではなく、
>> 風俗の話でしょう。
>> だからそれがごまかしなんですよ。そう読めるんでしょ?
>> なら会稽東冶のちょうど東にあるってこと。
>> >>会稽東冶と会稽東治は違う物だと思いますが?
>> 同じでしょ?
>> 同じだとまずいから違うと言い張ってるだけ。それがごまかし。
夏后少康之子は会稽東冶にいたのでしょうか?違いますね。
「夏后少康之子封於會稽」
つまり夏后少康之子は会稽山の東麓において「斷髮文身以避蛟龍之害」を行ったのであって、「東冶」にいたのではありません。
夏后少康之子が会稽山の東で行った治世の事を「會稽東治」と書いたのです。
魏略には「倭人は呉の太伯の子孫と自称していた」とありますが中国の正史に蛮人が太伯の子孫と書く訳にいかないので
夏后少康之子の逸話を挿入したのだと思われます。
ここではあくまで地理の話ではなく入墨風俗の話です。
>> >> >> 当時は橋やトンネルも無いですから道なりに歩測していったとすれば鉄道の線路の長さの2倍くらいになるのが普通じゃないでしょうか。
>> それはあなたが勝手に言ってるだけ。
>> >> 直線距離とほとんど変らないのは何故?
>> それもごまかし。
>> 実際正確に測れば直線距離なら
>> 洛陽から鞍山まで1167km
>> 洛陽からシェンヤンまで1242km
>> つまり1200kmくらいが正しい。
どうやってそんなに正確な距離出されました?私は8万分の1の地図に定規当てたんですが。
>> 過去ログ調べたら「洛陽から北京経由で遼陽まで鉄道で1,544km。」って出てきた。
>> これ、あなたの言う1650kmとだいぶ違うけどどっちが正しい?
記憶が定かでありませんがおっしゃる通り1,544kmの方が正しいでしょう。
>> >> 洛陽−遼東間を漢書地理志では3600里じゃなかったでしょうか。これを漢の里で計算すると1510km。
>> これもごまかしだった。
>> 調べたら3600里って書いてあるのが漢書地理志というのはウソ。
誤魔化すつもりは無いですけど。記憶が曖昧なだけ。
>> 後漢書だから晋の時代の1里で計算すると1,560km。
>> つまり鉄道距離とほとんど同じで直線距離とはずいぶん違う。
>> これって昔からの街道に沿って鉄道が引かれたってだけでしょ。地図で確認したよ。
3世紀の街道と19世紀の街道が同じなんですか?
西晋の頃までは北方からの騎馬民族の侵略に困っていた時代ですから19世紀の街道と同じとは考えられませんが。
北方民族が中国を支配するようになってからじゃありませんか?
>> >> 対岸が見えれば三角測量くらい出来たでしょう。
>> 見えただけじゃできないの。三角だから。
435km 離れたら水平線の下で見えないでしょ。
見えたら100km以下ぐらいは誰でもわかる。
三角測量の原理くらい判っていたでしょう。2点間の距離と角度がわかればいいんですから。
>> >> >> じゃあ「異面之人」って何ですか?「異面」とは顔に入れ墨をした人でしょう。
>> >> いろいろ短里があった証拠を示しているのにトンデモ扱いとは。
>> そのあなたのあげる証拠がハンコック並みなの。
ハンコックって読んだ事ありませんがそんなに正しい事を言ってるんですか?
>> >> 直線距離はかれなくて面積を出す事が出来ますか?
>> 面積なんかどこに出てるの?
>> >> 漢の最盛期の面積が方四千里とされています。
>> どこい書いてあるの?
孫引きですが平井進のレポートhttp://www.ha-kodai.com/lib/ri.txtに。
いろいろ書いてあります。
>> >> おにりんさんも信じないと言いながら実は半分信じつつあるのが公孫氏短里説です。
>> 短里説をばかにするために言ってるだけだと思うけどな。
短里でなければ説明できない事に対応したのだと思いますよ。
倭人伝の行程記事のほとんどが長里では説明つかない事は認識しておいででしょうね。
呉と遼東の距離「江南海北有萬里之限」とかガンジス川河口から天竺迄の距離「天竺江口、逆水行七千里乃至焉」とかも。
「短里がない説」の方が宗教じゃないですかね。
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月17日(日)02時14分40秒 ]
賛成です。
>> 正確な地理がわからないのでしょう。
>> 荷物があれば、牛や馬も、まして車もないのですから
>> 当然出来るだけ舟を使おうとするのではないですか?
>> ですから、基本的に最初の都市は、港湾もしくは川
>> の端でしょう。
>> ということは、僕としては陸行一月自体に疑問が
>> あるのです。
基本的に、国の首都は、物流の要でもなければならない。
地政学的にも、異論は無いでしょう。
もし、そうでないなら、実質の首都と名目の首都に分かれることになる。
但し、この乖離は、軍事政治上の条件で無いなら長続きなどしない。
また、軍事政治の条件が、変わればすぐに変えられてしまう。
これが、歴史の必然と言うものでしょう。
これが、物流に影響を与えるなら、首都は移されてしまうでしょう。
日本の場合、必ず水運が付いて回らずには、置けない事は、事実でしょう。
街道も重要性は認めますがやはり日本の場合河川海の交通ではないでしょうか。
律令の頃、あれだけ立派な道を築いているのにも、かかわらず。
多く忘れ去られている点も、ここにあるのではないかと思います。
元の発言 [ 東治≠東冶 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月17日(日)06時11分36秒 ]
>> 夏后少康之子の逸話を挿入したのだと思われます。
>> ここではあくまで地理の話ではなく入墨風俗の話です。
そこまでは風俗の話
中国南方の風俗と似てると言っておいて
道のりから言ってちょうど会稽東冶の東と地理の話に戻してるの。
会稽東冶を会稽にすりかえるのはギマン。
>> どうやってそんなに正確な距離出されました?私は8万分の1の地図に定規当てたんですが。
またウソをつく!
17mをある定規を当てたの?
>> 北方民族が中国を支配するようになってからじゃありませんか?
それはあなたの想像。
事実は鉄道距離が3600里ぴったりってこと。
>> 孫引きですが平井進のレポートhttp://www.ha-kodai.com/lib/ri.txtに。
>> いろいろ書いてあります。
あなたの引用ってでたらめ。
>> 倭人伝の行程記事のほとんどが長里では説明つかない事は認識しておいででしょうね。
>> 呉と遼東の距離「江南海北有萬里之限」とかガンジス川河口から天竺迄の距離「天竺江口、逆水行七千里乃至焉」とかも。
本土を離れた異国の例しかないんだから中国に短里なんて無いって証拠でしょ?
元の発言 [ Re: (里程について)訂正のついでに、、、(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月1日(金)23時43分21秒 ]
koujiさん、今晩は。レス大変遅くなりました。申し訳ありません。
>> >> まず、「乍A乍B」の構文は、「たちまちAし、たちまちBする」と読み、こきざみにAとBを繰り返す意味だそうです。
>> とは限りません。「Aという状態だったものが、Bという状態に急変する」場合にも用います。
>> >> 韓地全水行であれば、「乍南乍西」と書くべきでしょう。
>> どうしてでしょう?
熟語的構文であり、一般的であるということです。この読み方を全水行にあてるとするならば、沿岸を小刻みに南進、西進して倭国の北岸に着いたと読むほうが、自然だと思いましたし、皆さんの言う道のり距離として読む方法に合うと思いましたので。
>> >> また、韓伝の記述では、「東西海を以って限りと為し、南倭と接す」とあり、韓半島の南辺は、(全域とは思いませんが、韓地が南で海岸に接すると書いていないことが重要でしょう。)倭地である可能性が高く、全水行は無いと考えます。
>> 『韓…南與倭接』は、『其[水賣]廬國與倭接界』からきたものでしょうが、このことは東夷伝の地理記述の成り立ちを考える上で示唆的です。それはともかく、「接する」とあるからといって地続きであるとは限らないのです。時代は下りますが、唐会要倭国伝には「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」とあります。魏志倭人伝の冒頭には「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」とあるわけですから、韓([水賣]廬國)と接しているといっても海路を介してのことと理解するのが妥当でしょう。
唐代の倭国の領域が、魏代における倭国の領域とぴったり重なるのであれば、そう言えるでしょうが、その可能性は無いでしょう。狗邪韓国は、その北岸に在りとされています。私は「其の北岸」を倭の北岸と解しますので、韓半島内にあることは明らかであり、倭国の領域が半島内にあるのですから、陸地で接していると言えるのではないでしょうか。これは韓伝に、南は海と接していると書かれていないことに、呼応するものと言えるでしょう。
>> >> さらに、韓国内陸行を裏付けると思われるのは、韓伝に記された、多くの国々です。
>> 魏と諸韓国は、「景初中、明帝密遣帶方太守劉[日斤]、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。」を皮切りに、時に干戈を交えるなど、密な関係を展開しています。倭への使者の韓地の陸行を想定するまでもなく、諸国の名前を知っていて当たり前です。
名前を知っているのは当然ですが、公孫氏の勢力下にあったものが、あらためて魏の統治下に入るのですから、デモンストレーションの意味も含めて、各国を歴訪したと解釈して大過ないかと考えます。公孫氏を誅しただけで、帯方郡の支配領域全てを掌握出来たとは思えません。東夷伝において、詳細な国名表記が見えるのは、韓伝と倭人伝だけなのですし、知っていて当たり前のものを、わざわざ書き連ねてあることを考えれば、先の帰結にも頷けるでしょう。
>> >>「水行十日、陸行一月」を、全行程と考えなければ、倭人伝の里程は解けないと思うのです。
>> そんなことないですよ。むしろ問題は、魏志倭人伝の文章はそのようには読めないということです。
逆だと思うのです。私は、不彌国までに、万二千余里は尽きていると考えていますが、皆さんは、不彌国から邪馬壹国間を千五百里か千四百里とお考えでしょう。しかし、これを水行十日、陸行一月にあてることは出来ないと思われるのです。千五百里といえば、壱岐から伊都国までなのですから、水行十日、陸行一月には短すぎます。
>> 『從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里』
>> どこに、陸行したとありますか?
この文の中で、主体(魏使)の行動を表しているのは、水行と歴の二つです。しかし、その行動の対象領域は、韓国しか書かれていません。つまり、帯方郡治の領域が抜けているのです。海岸に循って水行したのは、帯方郡治の領域であり、それは省略されているのです。「歴」は、「けみする」と訓じ「つぎつぎに見る」という意味だそうです。その対象が韓国の国々であり、その動作を説明したのが「乍〜、乍〜」の構文であると考えます。海岸を次々と着岸して廻るとは思えませんし、海岸の形に合わせて航行するとも思えません。
>> 『南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日・陸行一月。官有伊支馬…』
>> どう読んだら、「水行十日・陸行一月」が郡から邪馬臺国までの全日程だと読めるのでしょうか?
日野さんの論文から、奴国は伊都国からの、投馬国は不彌国からの傍線行程であるといえるでしょう。問題は、邪馬壹国までの行程も不彌国からの傍線行程として読めることにあります。しかし、魏使の目的地は邪馬壹国であり、実際に到着したことに疑う余地はありません。つまり、不彌国から邪馬壹国までは行動を伴った行程と考えざるを得ません。だとすれば、なぜ行動を示す動詞を使用しなかったのでしょう。省略したからではないでしょうか。私は、古田氏同様、里程は全て「里」で表記されていると考えていますから、対馬や壱岐は半周読方で解釈し、不彌国―邪馬壹国間は、距離ゼロだと思っています。つまり、不彌国―邪馬壹国間は、距離ゼロであったがために、行動を伴う動詞を省略したと考えているのです。そう考えたときのみ、倭人伝の里程が整合的に読めるのであり、「水行十日、陸行一月」は、総日程であるとしか考えられないのです。
>> >> 韓国を歴るに〜七千余里が、道のり距離を表すのに対し、方四千里は、明らかに韓地の領域を表すものであり、直線距離と考えます。面積を表すのに、道のり距離を使用するとは思えません。
>> そもそも道のりを記述したもの以外利用できる資料がなかったのです。
これが、全く理解できないのです。道のり距離で韓国を水行するとして、入り組んだ海岸線に合わせて航行する船乗りがいるものでしょうか。海岸を見ながら、なるだけまっすぐ進むのなら理解できますが、直線距離の5.6倍にも感じられるように、複雑な動きをして、長里に合わせる理由がわからないのです。
>> >> 少なくとも魏代には、長距離を直線距離で測量する技術が存在したと見て良いのではないでしょうか。
>> どのような技術でしょうか?
それは、私にもわかりません。教えていただきたいくらいです。しかし、韓半島から九州北岸の地形描写が、実地形と相似していることからして、その技術があったと考えざるを得ないのです。これを偶然と考えられるでしょうか。
>> >> >> 「末盧國…東南陸行五百里到伊都國」については、末盧國の中心部を唐津市付近と考えると、伊都國までの直線距離は30km足らずですから、この五百里は確かに誇大です。海岸沿いのルートは古くは存在しなかったそうですから、私は「草木茂盛、行不見前人」というような状況の山越えルートが距離感を誤らせたのかと思っておりますが、いかがでしょう。
>> (中略)
>> >> 伊都国までの行程にも頭を抱えています。私も山越えルートを想定していますが、なぜ容易な海路を選択しなかったか等、未だに合点が行きません。ただ、いかに道のり距離であろうと、およそ35kmの行程を200kmもかかったと感じるものでしょうか。長里で解読するには、無理がありすぎると考えます。
>> 直線距離が30km弱で、この間、背振山地越えルートですから道のりの実距離は直線距離の倍ぐらいにはなるでしょう。「およそ35km」ということはないと思いますが。
道のり距離が、直線距離と極端に違うならば、そう考えられるでしょうが、韓半島から九州北岸の里程が、実地形と対応しており、道のり距離と直線距離はそう違わないと言えるのではないでしょうか。また、正確な地名比定が出来ない限り、この議論は、意味がないとも思えます。私自身、末盧国から伊都国を、どこからどこと決めかねておりますので。
>> >> また、海路や道のり距離を換算すると仰いますが、ふつう換算すると言えば、直線距離でどのくらいかと考えるものではないでしょうか。
>> 「渡海半日」などを里程に換算する際に誤った換算基準が適用されたという話なのですが。
「渡海半日」を「里」に換算するというのは、半日の航行が、陸上の距離(直線に近い)でどのくらいかと考えるものではないでしょうか。また、この考え(換算基準)が間違っていないことは、狗邪韓国―対馬間と対馬―壱岐間の千里が、韓半島や壱岐の大きさに対応していることで証明されると考えています。
>> >> 海路の里表記と陸上の里表記は、共通の単位であり、互換すると考えます。もちろん、海路の方が誤差は大きいと思いますが。
>> もちろん、共通の単位であり、それは「長里」です。海上行程の換算の話も、もともと「長里」への換算のための基準です。
狗邪韓国―対馬間と対馬―壱岐間が、共に430キロも離れていたとは思えません。この間は、障害物のない海です。韓半島のように、海岸線に沿って蛇行することも出来ません。
>> >> いかに入り組んだ海岸線であっても、一辺1,600kmは異様です。方三百里と記された一大国が壱岐であることは確実であり、内地の記述がありますから、方三百里は、内地を測量して得た数字であると考えます。つまり、直線距離に近い数値による記述です。壱岐の面積と韓国の面積の比率は、方四千里と方三百里ですから、ほぼ実地に合うと言え、妥当な記述でしょう。これにより、韓の方四千里も直線距離に近い記述であると言えると思います。
>> 一支の「方三百里」を取り上げるなら、対馬の「方四百余里」も取り上げるべきでしょう。
>> 魏志東沃沮伝では「其地形東北狹、西南長、可千里」とあり、また倭人伝には「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」とあります。極端に方形からかけ離れた地形の場合は、その形状に即した表現を用いていることがわかります。このことからすれば、ほぼ南北方向に極端に細長い形状の対馬の大きさが「方」で表現されているということは、対馬の形状が誤認されている可能性が高いことを意味しています。
>> 金海あたりから対馬・壱岐をへて松浦へ渡る場合、金海を出港して上県の北端付近にたどり着き、上県・下県の海岸沿いに南下して下県の南端付近から壱岐へと渡るはずです。対馬の海岸沿いを南下するルートは、直線で80km弱、つまり180「長里」程度になり、相当に入組んだ海岸線ですから、道のりとしては400里程になると考えられます。
>> つまり、対馬の「方四百余里」は、対馬の形状に対する誤認はあるものの、一辺の長さ四百余里はほぼ正確に把握されていたらしいということになります。
>> 「方四百余里」は下県だけとおっしゃるかもしれませんが、下県の近接し遙に大きい上県を無視するのは現実的でしょうか? また、対海を下県、対馬を上県とも考えておられるようですが、対海と対馬の表記の異同は同じ魏志倭人伝の版本間の異同ですから、別の島をさすと考えるのは無理です。
東沃沮伝が地形に即した表現をしているから、対海国を対馬南島にあてているのです。韓の方四千里や、壱岐の方三百里も実際の地形に対応しているといってよいでしょう。対海国を対馬全島とすると、地形も違うし、島の広さも韓や壱岐との釣り合いが取れないのではないでしょうか。しかも、対馬は古くから、上県と下県という行政区分を持っております。行路からの不信でしょうが、無視しているのではなく、ここだけ対馬全島とすると、前後の関係から整合しないと思われるからです。
>> >> >> >> >> それは、九州説の中でも特に変な説なんじゃないかな?この時期の中国で「短里」が公式に採用されていたなんて主張しているのは、変な人とその信者だけだと思いますよ。
>> (中略)
>> >> また、私が上のような表現を嫌うのは、皆さんの才能を惜しむからです。古田氏の説が支持されないのは、その内容においてではなく、論述姿勢に問題があったのではないかと考え、残念なことだと思っています。
>> それは誤解です。彼の論述姿勢に問題があることは事実ですが、それは中身がいかさまだから、そのような姿勢をとらざるを得ないのです。
私は、傾聴すべき論証が多数存すると考えています。
>> >> もちろん、古田氏に他者を侮辱する意図はなかったと思いますが、その表現は、プライドある専門家にとって、我慢ならないほどの屈辱に感じられたでしょう。先の表現を採る事は、古田氏と同じ未来を予感させるのです。侮蔑されたと感じた九州論者は、決して畿内説に耳を貸さないでしょう。ただ、不毛な非難合戦になるだけです。
>> どうも何か誤解されているようです。私は畿内説ですが、九州説を宗教だと思っているわけではありません。もちろん彼のことは教祖みたいなものだと思っていますが、彼ほどには支持者がいないとはいえ、畿内説でも同種の人はおります。もし彼の説を代表的な九州説だと思われているのなら、心有る九州説の方にとっては迷惑至極であろうと思います。
古田説を支持していても、古田氏の言うことを、一言一句正しいと言う人はいないでしょう。それを宗教だ、カルトだと言うのは、予断による決め付けだと申し上げたかっただけなのです。畿内説の皆さん全てが、そういう立場だと考えているわけではありません。ただ、人間は誤解するものですから、書き方も配慮されるべきかと思いましたので。
>> 優れた九州説の代表格は橋本増吉でしょう。彼の『改訂増補 東洋史上より見たる日本上古史研究』の中の「邪馬臺國論考」は東洋文庫にも入っていますから、一読して御覧になっては如何でしょう。本物と偽物の違いがわかると思います。それから、こちらは畿内説ですが、山尾幸久『新版・魏志倭人伝』講談社現代新書もお勧めです。
ご教示ありがとうございます。
>> >> >> しかし、魏志東夷伝の記述対象は「長里」である筈の魏代の東夷であり、当面の対象とする読者が西晋の人々であることも蜀志と同じです。
>> >> 私たちが、戦国時代の物語を読むのとよく似たものと考えればどうでしょう。本能寺の変を聞いた秀吉は、播磨から取って返すのに、一昼夜で〜里駆け抜けたと書いてあっても、何の不信も感じません。あくまで、主眼は物語の進行にありますし、著明な都市間の距離を現代のkmで書かれては、雰囲気が壊れます。特に会話文では、その傾向が強いでしょう。つまり、検討を要するのは地の文なのです。
>> 検証を欠いている以上、頭の中だけで作り上げた空論に過ぎないのではないでしょうか。実際に、西晋代の他の著作を見てみましょう。
>> まず、『魏志』所引の『魏略』西戎傳には「燉煌西域之南山中、從[女若]羌西至葱領數千里」とあります。[女若]羌より西、葱領に至る數千里。直線距離でも「短里」では不足します。「長里」であることは明かです。
[女若]羌から葱領までが、どこからどこまでなのか特定するのは難しいのではないでしょうか。また、『魏略』の資料批判も必要でしょうが、完本が残っていない以上それも難しいことでしょう。さらに、王沈の『魏書』との関係も検証しなければなりませんし、記述姿勢がどうであったか等、「長里」と即断するには、いささか心もとない例かと考えます。
>> また『後漢書』は劉宋范曄の撰といいますが、志は西晋司馬彪撰の続漢書の志を後世になって併せたものです。その中の郡国志にも「長里」が用いられています。例えば「遼東郡襄平県、洛陽東北三千六百里」などで、これは魏の明帝が「四千里征伐」とするのと整合しています。
>> 劉宋范曄撰『後漢書』は、記述の対象は後漢であり、当面の対象となる読者は劉宋の人々です。しかしその倭伝には、「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」とあります。対象となる時代も「長里」であり、読者も「長里」の人々なのですから、「萬二千里」や「七千餘里」が「短里」ならば「長里」に換算するはずではないでしょうか。范曄は「西晋朝短里」など知らなかったといっていいでしょう。范曄すら知らない「西晋朝短里」とはいったい何なのでしょうか?それは現代日本の一部の人々の頭の中だけに存在するものだと断定せざるを得ないと思います。
『後漢書』の范曄が、『三国志』の記述を利用しているのは確かですが、短里であることを知りながら転載したのか、知らなかったのかは(検討中ですが)判りません。范曄が各種先行史書から造文していることも確かですが、その際に、その出典を明記しませんし、変更してもそれを記しません。『後漢書』の郡国志における注が、司馬彪の注であるとすれば、本文は誰の作か等、検討すべき課題は多いでしょう。ただ南朝劉宋が長里であろうと無かろうと、『三国志』において、洛陽から遼東までの四千里と、韓半島の一辺四千里が、距離にして同じであると言う理由が、道のり距離だからと言う、全く理解できない論法を生み出したのは、畿内説の皆さんの方です。
>> 魏志東夷伝の韓・倭人伝を除くすべての里程を検証した投稿が過去にあります。下にリンクをいれておきますので、上述してきたことを踏まえて、再考してみてください。
ありがとうございます。しかし私には、高句麗の方二千里が韓の方四千里より広いという論理が、どうしても理解できません。また、「高句麗は、遼東の東千里にあり…都は丸都のほとり」が、どうして「遼東郡治から丸都までが千里」になるのか、皆目見当がつきません。東沃沮が蓋馬山の東に領地を持っていることを考慮され、ALEXさんにもお示しした高句麗の領土が、長里では大きすぎることをご理解いただきたいと考えています。
元の発言 [ 短里節は欺瞞に満ちている ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月17日(日)11時33分25秒 ]
>> >> 夏后少康之子の逸話を挿入したのだと思われます。
>> >> ここではあくまで地理の話ではなく入墨風俗の話です。
>> そこまでは風俗の話
>> 中国南方の風俗と似てると言っておいて
>> 道のりから言ってちょうど会稽東冶の東と地理の話に戻してるの。
>> 会稽東冶を会稽にすりかえるのはギマン。
だからどこにも「東冶」とは書いてないでしょ。「東冶」と書いたのは後漢書。
風俗の記述中に地理を挿入するなんて例は他にありますか?
>> >> どうやってそんなに正確な距離出されました?私は8万分の1の地図に定規当てたんですが。
>> またウソをつく!
>> 17mをある定規を当てたの?
失礼。数字2桁間違えた。風邪引いて熱があったみたい。
ところで貴方はどうやって1242kmと言う数字を出したんですか?
>> >> 北方民族が中国を支配するようになってからじゃありませんか?
>> それはあなたの想像。
>> 事実は鉄道距離が3600里ぴったりってこと。
私が韓国斜め縦断350
>> >> 孫引きですが平井進のレポートhttp://www.ha-kodai.com/lib/ri.txtに。
>> >> いろいろ書いてあります。
>> あなたの引用ってでたらめ。
ウソとかギマンとかでたらめとか罵倒語を連発するのは感心しません。
いろいろ在りますが判りやすいところで『三国志』蜀書の鈍牛が一日300里行く話はどうですか?
鈍牛が一日130kmも歩くんですか?
千里を行く駿馬はともかく鈍牛ですから。(^^)
『史記』に韓は方九百余里とあるのに魏志では方四千里となっているとか。
秦漢の時代に韓の面積を正しく把握していたのに三国時代には間違った面積認識になったのでしょうか?
>> >> 倭人伝の行程記事のほとんどが長里では説明つかない事は認識しておいででしょうね。
>> >> 呉と遼東の距離「江南海北有萬里之限」とかガンジス川河口から天竺迄の距離「天竺江口、逆水行七千里乃至焉」とかも。
>> 本土を離れた異国の例しかないんだから中国に短里なんて無いって証拠でしょ?
呉と遼東の距離「江南海北有萬里之限」は本土を離れているんですか?
中国から離れていれば短里があってよいなら韓国や倭国には短里があってよい事になります。
『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」
とあります。
日南郡は今のハノイ辺りでしょうか?扶南國はカンボジアでしょ?
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアです。
カンボジアの三世紀頃の首都はどこか判りませんがどこにあっても1000km以下でしょう。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われますが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
直線で二千キロで1里83mと言う所ですか。
確かにこの辺りを三角測量までして距離を測定したとは思えないが三倍も五倍も間違えるとは考えられない。
1里400m〜500mでない例はさがせば幾らでも見つかりそう。
漢文の名前と現在の名前が一致出来なくて難しいけど。
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(土)22時32分36秒 ]
>>
支惟 kie-yiui どんな音なんでしょうか。
キエイユイ?
キエイウィ?
森氏は惟は合口でワ行の可能性を言っておられる様ですが..
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月17日(日)20時09分00秒 ]
>> 支惟 kie-yiui どんな音なんでしょうか。
>> キエイユイ?
>> キエイウィ?
>> 森氏は惟は合口でワ行の可能性を言っておられる様ですが..
中公文庫版では、「ただし、この「惟」(中古音jyi)と「邑」(中古音××)は「ヤ行」や「ワ行」の音節に用いられた可能性もある」、となっています。
3世紀以前の倭人語の音韻組織が後の上代日本語と同一という保証がないので「ヤ行」「ワ行」と「」で括らざるを得ないのですね。
従来の方法では、倭人伝の音訳漢字について、森氏以上のことはなかなか言えないように思えます。新たな展望を切り開くべき研究方法。あるにはありますが。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(土)00時57分06秒 ]
鹿児島の縄文遺跡から発掘された,
7500年前の土器は,
いわゆる弥生式土器に似ているとか。
前方後円墳は桜島に似ている!
と,ちらりと想像・・・
m(__)m
元の発言 [ 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月15日(金)22時39分59秒 ]
こんばんは インフルエンザしてました。というより、未だにしてます。皆さんもご注意。
中古音での「為」を「ゐ」として使ってるんですから、上古音の発音でも、やはりワ行でいいような気がするんでけれど、だめでしょうか。「為」を自分で発音してみると、「ヴィーァ」とか、「ヴェーァ」とかに聞こえそうなので、近そうなのはやはり「ゐ」か「ゑ」なのかなぁと。
「為吾」が「ゑが」で良ければ、一ついい候補となる場所があって、応神天皇陵「恵我藻伏崗陵」などのある「古市」の当たりが、古くは「恵我」といったようです。で、ここには、「餌香の市」という大きな市があって(だから古市というんでしょうけれど)、栄えていたらしいです。
なんでも、ここの市はうまい酒で有名だったらしく、顕宗紀中の歌謡にそれらしいことが出てきます。これを読んで、「庄内甕の中にはさけが入ってたのか〜。特に播磨のやつには。」と思ったのでした。
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(日)11時44分01秒 ]
>>
如何言う、実例があるか教えてください。
>> 日本の場合、必ず水運が付いて回らずには、置けない事は、事実でしょう。
>> 街道も重要性は認めますがやはり日本の場合河川海の交通ではないでしょうか。
>> 律令の頃、あれだけ立派な道を築いているのにも、かかわらず。
>> 多く忘れ去られている点も、ここにあるのではないかと思います。
>>
>>
>>
では、メインルート実際のルートは、なぜ、違っているのでしょうか?
違う理由に付いては、政治的理由、軍事的理由、天候などの環境的理由、
そして何か宗教的理由、この4つしかないでしょう?
まず、天候など環境的理由、これは、弱すぎる。
何ヶ月も待つわけでもない。
軍事的理由、マツロと伊都の間の回路が封鎖されていた?
または、何かに待ち伏せされている可能性があり避けた?これも弱い。
両方とも海洋国家的だから連携して、力で押し通ろうとするだろうし。
地元だから、よほどでないと考えられない。
クナ国、または、記録に無い海賊などの集団?
また、メインルートを隠す。
これは有得るが、マツロと伊都の間では、考えにくい。他に付いては、大いに有りうる。
政治的理由、これは有得ますが、途中何処かによったならともかく、
寄ったのであるなら、其処に、かなりの政治力を持つ、
有力な国があることに成る。
そうでないなら、威嚇のための示威行為か?
そうなら、敵対していたクナ国は、これを簡単に知りうる距離に有った事に成る。
宗教的理由、占いなどで、水行は、不可と出たとか?
マツロと伊都の間では、最後のが一番ありそうだが?
おにりんさんは?
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月17日(日)22時39分58秒 ]
>> こんばんは インフルエンザしてました。というより、未だにしてます。皆さんもご注意。
>> 中古音での「為」を「ゐ」として使ってるんですから、上古音の発音でも、やはりワ行でいいような気がするんでけれど、だめでしょうか。「為」を自分で発音してみると、「ヴィーァ」とか、「ヴェーァ」とかに聞こえそうなので、近そうなのはやはり「ゐ」か「ゑ」なのかなぁと。
>> 「為吾」が「ゑが」で良ければ、一ついい候補となる場所があって、応神天皇陵「恵我藻伏崗陵」などのある「古市」の当たりが、古くは「恵我」といったようです。で、ここには、「餌香の市」という大きな市があって(だから古市というんでしょうけれど)、栄えていたらしいです。
>> なんでも、ここの市はうまい酒で有名だったらしく、顕宗紀中の歌謡にそれらしいことが出てきます。これを読んで、「庄内甕の中にはさけが入ってたのか〜。特に播磨のやつには。」と思ったのでした。
大阪湾岸は空白域だったんでおもしろいです。
なんかまた情報あったらお願いします。
今悩んでいるのが、伊邪で、以下に私の候補を書いて見ます。
伊布夜神社あたり(東出雲)
伊夜姫の祭りの神社(能登-能登島)
伊夜比古神社(越後)
伊予郡(愛媛県)
連続読みから外れますが伊予かなと思い始めています。
地名リストの成立について二段階ぐらいに考えないといけなくなりますが、
ちょうど奴の朝貢と帥升の朝貢と二度あるので・・・
ここのところ考古学とも絡めてみて、少し感触を得ています。
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ 斧折三 ] 日付 [ 2月17日(日)20時42分21秒 ]
>> 従来の方法では、倭人伝の音訳漢字について、森氏以上のことはなかなか言えないように思えます。新たな展望を切り開くべき研究方法。あるにはありますが。
教えてください。
まず言語に関して分かるだけのことをつくさないといけないと思うので・・・
前提になる知識が心配ですが。
元の発言 [ Re: 「足矛」と「足彦」の甲乙はついています。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(土)22時10分14秒 ]
>> いや古事記では毛毛です。
>>
>>
>>
>>
いやそうなんですが、なぜか古事記では毛毛なんです。
だから百ではありえない。
書紀が間違いか古事記が間違いか・・・
古事記が間違いなら、これはそもそもモモとは読まない可能性も出てきます。
ヤマトトトヒホソ姫という説もありました。
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(日)22時01分58秒 ]
>> 支惟 kie-yiui どんな音なんでしょうか。
>> キエイユイ?
>> キエイウィ?
>>
そうではなくて、私は発音記号が読めないのです。
発音できないというか・・・
だからとっても苦しむのです。
カタカナに直して確認させていただきました。
思うにもし「都惟」ならトユじゃないでしょうか。
でも「支惟」だからキユかキヰかわからない。
私はキーウィのような音じゃないかと思っています。
別に長母音というわけでなくて、ゆっくり発音させたので
そう聞こえたか。
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(日)11時42分03秒 ]
>> は、矛盾してませんか?
>>
>> 正確な地理がわからないのでしょう。
>>
>> 荷物があれば、牛や馬も、まして車もないのですから
>> 当然出来るだけ舟を使おうとするのではないですか?
>>
>> ですから、基本的に最初の都市は、港湾もしくは川
>> の端でしょう。
>> ということは、僕としては陸行一月自体に疑問が
>> あるのです。
>>
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月18日(月)01時23分03秒 ]
>> >> >> は、矛盾してませんか?
>> >> ぜんぜん。
まったくおかしいですね。
地図がいいかげんといいながら、現在の地図からみると
遠回りなどという。
まつろ國から伊都國まで五百里、200km以上ですよね。
何日かかったのでしょうね。
とても遠回りをしないとそんな距離になりませんね。
元の発言 [ Re: 「足矛」と「足彦」の甲乙はついています。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)10時26分25秒 ]
>>
>> いやそうなんですが、なぜか古事記では毛毛なんです。
>> だから百ではありえない。
>>
>>
>>
>>
よく確認しませんでした。
古事記では
夜麻登登母母曾毘賣命
でした。
なんで間違えたんだろう。
話が全然逆でした。
申し訳なし。
元の発言 [ Re: すいません、大うそつきでした。(ごめんなさい) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)11時43分19秒 ]
>> よく確認しませんでした。
>> 古事記では
>> 夜麻登登母母曾毘賣命
>> でした。
>> なんで間違えたんだろう。
>> 話が全然逆でした。
>> 申し訳なし。
>>
>>
>>
>>
嘘つきの件はほんとに申し訳ない。
ただこの甲乙の矛盾の話が気になっていたので。
どっちか間違っている。
このあたりのことはかなり怪しい話なのでしょう。
けれどだからこそ、このトトだのトビだのモモソだのには、
記紀成立時に訳のわからなくなっていた伝承が絡んでいると
思います。
すでに整理がつかないような怪しい話だったのでしょう。
このあたりの混乱には、単純な口伝承の怪しさだけでなく
文字を読み違えたりという混乱があるように見えます。
単に伝説というよりも、それなりの文字記録が絡んで
いそうに思います。
つまり一旦文字記録になったものが失われて口伝がのこり
それがまた文字記録になったように思います。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 2月1日(金)17時45分03秒 ]
>> 今回,取り急ぎです。
小生は、一応“近畿ではない”と考えられるものを列挙しました。
これが、すべて否定されないかぎり、近畿説が成り立たないと考えています。
それなのに、『……が参考になります』などという話は聞きたくありません。
それも、それも具体的な理論の裏付けのないものでは。
3 神功あるいは卑弥呼の子供の問題は?
6 ここでは、武をとりあげましたが、好太王碑では、倭と戦っているとしるされているのに、
日本側の記録がないのは?
7 武の在位の問題は?
8 武か前倭王かはしりませんが、“奄に父兄を喪い、垂成の功を一きに獲ざらしむ”というのは、
どう説明していただけますか?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(水)11時08分31秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
だから、これは、近畿王朝ではないということではないですか?
>>
>>
“間接的なことであって、直接的な話ではない”
とは?
論理がどこにもあると思えませんが。
もう1度、念を押します。
@ 国同士の外交に、天皇でもないものが、国書を出すとは、理解できない。
A 国書には、当然のこととして、『自書名』が必須のはず。
もし、一歩譲って、聖徳太子が国書を出したとすれば、
それには、“摂政”という文字が記されてなければならないはず。
B 《天子》《皇帝》《倭皇》などの字句の使い分けは、
どのように説明していただけますか?
元の発言 [ 古田節に惑わされよって ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)10時37分02秒 ]
>> だからどこにも「東冶」とは書いてないでしょ。「東冶」と書いたのは後漢書。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
中国人の常識として会稽東冶になるのがが常識なら、何故、写本をした人は敢えて東治としたのでしょうか?
写本をした人間は常識のない外国人だったのでしょうか?
意味が通らなくなるような間違いをするのでしょうか?
会稽東冶が常識なら間違い易いとは言えないでしょう。
写本をする人も変だなと思いながら原書にある通り写したのではないでしょうか?
>>
>>
>>
>>
誤植と言うなら私は「道里」は「道理」の誤植であったのではと考えていますよ。
「風俗が会稽山の東に近い理由(道理)を考えてみると、かって夏后少康之子が行った治世が遠く東の倭国にまで及んでいるのであろうか?」
です。
>> 風俗の記述中に地理を挿入するなんて例は他にありますか?
>>
>>
>>
そうです。地理ではなく会稽の風俗ですね。夏后少康之子が居たのは会稽ですから。
「東冶」だったとして一つの仮説
倭人が徐福の子孫ではないかとの噂かなんかが存在していてこれが頭に合ったために筆が滑ったとか。
徐福は東冶の出身じゃありませんでしたっけ?
この辺は私もよく判りませんからこれ以上押すつもりはありません。
短里と長里の使い分けで陳寿が単に勘違いしていただけかもしれません。
中国内は長里で記述し周辺国は短里で記載するみたいな原則があって、狗邪韓国以降も本当は短里で計算しなければ
ならないのに間違えて長里であると思ってしまった。とか(^^;
それより中国の史書に倭人伝だけでなく、短里がいくらでもでてきているのですから公孫氏短里ではなく「周の里」の
存在を考えた方がいいのではないでしょうか?
前の発言
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」
の日南郡をハノイとしたのは間違いでドンホイ辺りらしい事が判りました。
これで計算するとプノンペンまで600km位になります。
短里86mです。
海岸沿いを迂回しても1100km程度で3000kmには遠く及びません。
最もプノンペンが扶南國の首都かどうかは判りませんが。m(__)m
どなたか情報を。
ふう。熱が下がらない。
元の発言 [ Re: 短里節はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(土)18時32分08秒 ]
>>
>>
>>
#素朴な疑問 : どうしてそんな無意味なことをする必要があるのですか。
元の発言 [ 邪馬台国行程記事の部分的解体 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月14日(木)22時56分21秒 ]
女王之所都
ついに解けました。結論から先に書きます。
「魏志倭人伝」にある、投馬国・邪馬台国への行程記事の原史料には、「南」も「女王之所都」も書かれていなかった。陳寿が書き加えたものである。
したがって女王国と邪馬台国は本来別の国であった。女王国≠邪馬台国。陳寿が勘違いをして同一視してしまったのである。
ではなぜ勘違いをしてしまったのか。
手元の史料には女王国への行程記事が存在しないけれど、陳寿は女王国が卑弥呼のいる女王之所都だと考えていて、なんとかその女王国へ至る道を示したかったように思われる。
史料としてあるのは、
a.>郡より女王国に至る万二千余里。
b.郡から伊都国まで一万五百余里。
#1 この二つの史料から、女王国は伊都国から千五百里のところにあることがわかる。
>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
#2 この史料から女王国は伊都国の南にあることがわかる。
■#1、2によって陳寿は、女王国は伊都国の「南」「千五百里」のところにあると考えた。
また、
・投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸
・邪馬壹國、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸
この原史料により、邪馬台国は伊都国からおおよそ千五百里であり、かつ戸数も最大であることから、邪馬台国=女王国と考え、「女王之所都」と書き加えたのである。
しかし、これは陳寿の勘違いである。
女王国と邪馬台国はもともと別の国なのである。
ただし、これでも説明は不充分である。もともとの原史料に「女王之所都」と書かれていた可能性もある。これについて考えてみよう。
「南」と書き加えたのは、すでに先稿で見たとおりである。伊都国から南へは水行できないのだが、原史料に「女王之所都」とすでに書かれていたのなら、陳寿は女王国=邪馬台国と考えているのだから、「南」と書き加えるのはわからなくもない。
しかし、実際の地理に即して考えてみると、陳寿は一里約400mの距離感なのだから、千五百里といえば約600kmに相当する。九州島の最北から最南まで直線距離で約350km弱であろうか。伊都国から約600km南下すれば、はたしてどこへ辿りつくのだろうか?
このように考えれば答は自ずと明らかであろう。原史料に「女王之所都」と書かれていたはずがないのである。
以上のことから、
1.魏志倭人伝にある投馬国、邪馬台国への行程記事の原史料には、「南」も「女王之所都」も書かれていなかったことがわかる。
2.女王国の位置は、渡海千里の距離感の「里」で、伊都国から南へ千五百里のどこかにあり、邪馬台国とは別の国であったことがわかる。
3.言うまでもないことだが、付言すれば、七万余戸は誇張か実数かはともかく邪馬台国の戸数であって女王国の戸数ではない。
4.これもまた言うまでもないことであるが、邪馬台国は女王国ではないのだから、そこに卑弥呼はいないのだから梯儁も張政も邪馬台国へ行く必要はなかった。
ただし、梯儁、張政が「女王国」へ行ったのかどうかはわからない。少なくともその行程記事は存在しない。
元の発言 [ それでも短里(節)説はある。 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月17日(日)19時02分28秒 ]
>> ウソとかギマンとかでたらめとか罵倒語を連発するのは感心しません。
ウソでギマンででたらめだからしょうがないでしょう。
晋の記録を漢の里で計算して1510kmに
洛陽−遼東間の直線距離約1200kmを1400kmに
鉄道の線路で1544kmを1650kmに
間違いばかり。しかも自分に都合よく間違えてる。
わざとだって疑われてもしかたないでしょ?
次々とほかの話にふりかえて誤魔化さないで。
漢の最盛期の面積が方四千里ってどこに書いてあるの?
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)10時53分52秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ということは、情報としてすでに一支、末盧、伊都の間
の距離は千里、五百里とわかっていたわけですね。
倭人は距離がわからないとあります。
渡海千里を別にしても、五百里はどうなります?
一支、末盧、伊都の間で千五百里はいいですよね。
千五百里は水行三十日、陸行一月に対応する距離なので
はないのですか?
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)21時36分51秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
去年、夏に唐津を歩いたんですが、
難か、うなずけないですね。
歩いてみると、虹ノ松原から双水古墳までかなりあるのですが、
川に面しているし、内陸への交易も行われたんじゃないかと言う感じがします。
内陸にも、同時代の幾つかの遺跡遺跡も有るようですし。
この辺りは、調べなおしていますが、
結構交易道が、有ったのではと思わせます。
>>
>>
本当にそうだったかは、疑わしいですけどね。
おにりんさんの言われることを、考えると陸行してい無いと言う事を、
あらわす為に書かれた記述であり、対した意味を持っていないようにも見えすから
>>
>>
>>
基本的に同意します。
唯、内陸との交易ガ行われた事も間違い無いので、
交易ルートの交差点みたいなのがあり、実際には結構粋行き来できたと考えますが。
元の発言 [ ごまかし短里節 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月18日(月)20時29分05秒 ]
>> >> ウソとかギマンとかでたらめとか罵倒語を連発するのは感心しません。
>> ウソでギマンででたらめだからしょうがないでしょう。
>> 晋の記録を漢の里で計算して1510kmに
>> 洛陽−遼東間の直線距離約1200kmを1400kmに
>> 鉄道の線路で1544kmを1650kmに
>> 間違いばかり。しかも自分に都合よく間違えてる。
鉄道の線路で1544kmを1650kmは短里にとって1544kmのほうが都合がいいけど?
地図に定規あてて距離を出してそんなに正確な値が出せるわけないでしょう。
貴方はどうやって1242kmと言う数字を出したんですか?
>> 次々とほかの話にふりかえて誤魔化さないで。
>> 漢の最盛期の面積が方四千里ってどこに書いてあるの?
平井進さんのページの
「前漢の国土をほぼ県が40×40=1600個並ぶ方形と見なすと、その一辺はほぼ四千
里に相当することになる。」
というのをあらかじめ孫引きですがと断って提示した筈です。
餓鬼の喧嘩じゃないんだから罵ってばかりいないで以下の問に答えなさい。
呉と遼東の距離「江南海北有萬里之限」は本土を離れているんですか?
中国から離れていれば短里があってよいなら韓国や倭国には短里があってよい事になります。
『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」
とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りでしょうか?扶南國はカンボジアでしょ?
ドンホイから南に3000kmも行ったらオーストラリアです。
カンボジアの三世紀頃の首都はどこか判りませんがどこにあっても700km以下でしょう。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われますが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
短里を完全否定したいのは狂信的信者のみです。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)21時30分22秒 ]
>>
>>
>>
なんで?
そんなこと書いてないけど?
元の発言 [ Re: ごまかし短里節 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月18日(月)23時36分07秒 ]
>> 鉄道の線路で1544kmを1650kmは短里にとって1544kmのほうが都合がいいけど?
それもウソだね。
どんな言い訳するのかな?
>> 地図に定規あてて距離を出してそんなに正確な値が出せるわけないでしょう。
おや、居直った!不正確な数字をもとに1里がメートルとかいうの?
>> 貴方はどうやって1242kmと言う数字を出したんですか?
>> というのをあらかじめ孫引きですがと断って提示した筈です。
トンデモを引用するのはトンデモだけ。
>> 呉と遼東の距離「江南海北有萬里之限」は本土を離れているんですか?
そんな上表文の美辞麗句になんの意味があります?
>> 中国から離れていれば短里があってよいなら韓国や倭国には短里があってよい事になります。
いいんじゃないですか?
中国に短里はない。
>> 日南郡は今のドンホイ辺りでしょうか?扶南國はカンボジアでしょ?
>> ドンホイから南に3000kmも行ったらオーストラリアです。
香港から2700kmでシンガポールだけど?
>> カンボジアの三世紀頃の首都はどこか判りませんがどこにあっても700km以下でしょう。
>> 短里を完全否定したいのは狂信的信者のみです。
そう言うのは短里狂信的信者のみです。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月19日(火)00時12分42秒 ]
>>
末盧国から伊都国、陸行五百里。
これも、渡海千里の一里の距離感覚です。
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)21時36分51秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>> 一支、末盧、伊都の間で千五百里はいいですよね。
中国国内でも、直線距離が測れるのかどうかという
話がよくでていましたが、それほど曲がりくねった
道というか、道ではないですよね。
それを五〇〇里という単位にできたのは、どうして
でしょう?
末廬国と伊都国の間をあるいた倭人が、二〇日ほど
かかったから、五〇〇里と判断したのでしょうか?
なんか半島内陸行がおかしいとか言われるのと
随分こちらはいい加減な思考をされているようで。
元の発言 [ Re: ごまかし短里節 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月19日(火)00時01分09秒 ]
>> >> 鉄道の線路で1544kmを1650kmは短里にとって1544kmのほうが都合がいいけど?
>> それもウソだね。
>> どんな言い訳するのかな?
だから直線距離と鉄道の長さの差が少ない方が短里にとって都合がいい。
長里派はフラクタルとか言ってなるべく距離を長くしたがり、短里派は直線で短くしたがる。
>> >> 地図に定規あてて距離を出してそんなに正確な値が出せるわけないでしょう。
>> おや、居直った!不正確な数字をもとに1里がメートルとかいうの?
>> >> 貴方はどうやって1242kmと言う数字を出したんですか?
>> >> というのをあらかじめ孫引きですがと断って提示した筈です。
>> トンデモを引用するのはトンデモだけ。
>>
>> >> 呉と遼東の距離「江南海北有萬里之限」は本土を離れているんですか?
>> そんな上表文の美辞麗句になんの意味があります?
>> >> 中国から離れていれば短里があってよいなら韓国や倭国には短里があってよい事になります。
>> いいんじゃないですか?
>> 中国に短里はない。
これまで何の為の議論を重ねてきたのでしょう?
倭人伝が短里で書かれているかどうかを議論しているのでしょう?
>> >> 日南郡は今のドンホイ辺りでしょうか?扶南國はカンボジアでしょ?
>> >> ドンホイから南に3000kmも行ったらオーストラリアです。
>> 香港から2700kmでシンガポールだけど?
???直線で2400〜2500kmくらいかな?
航路の長さなら2700kmでも不思議は無いでしょ。
シンガポールは赤道すぐ近くになりますね。
香港から真南3000kmでバリ島くらい。
なにが問題?
倭人伝が短里で書かれたことを認めておられる様なのでもうこれ以上の議論は不要ですね。
元の発言 [ Title 旁21カ国対応 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)23時02分15秒 ]
>>
>>
これでもそうですけど、広型銅矛祭祀圏がほとんど出てこない。
後漢代であれ、魏晋代であれ、これはどう説明するんでしょう。
魏晋代なら北部九州は干されていた説ですか?
それとも魏使には関心がなかった説?
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月19日(火)00時15分39秒 ]
>>
>> 今悩んでいるのが、伊邪で、以下に私の候補を書いて見ます。
>>
>>
>>
>>
後漢期なら、広型銅矛圏と銅鐸圏、魏晋期なら邪馬台国と投馬国の
からみが気になります。
私はやはり後漢期にとって考えてみます。
一つの仮説と言うことで・・・
結局地名の相似だけでは決まらなくて、地理順、あるいは時代の設定
など他に仮説を入れなければ決まらないように思います。
誤字、誤写、地名の消失も考えに入れると。
誤字としてリストアップしているのは
巳、邑
どうもこんな字を使う理由がわかりません。
音訳者の気分かもしれませんが。
あと
臣、躬
へんなとこはすっ飛ばして行くのも態度かも、今までやった感じでは
いずれ仮定を積み重ねなければいけないので、その結果から
何かを言うのは無理でしょ。
やるのは楽しいですが・・・
もう少しまとまったら、私も自説を出します。
大奴国専制国家になっちゃいましたけど・・・
「古事記」「日本書紀」をもとにして、…
@ 「記・紀」に記されていることが、中国あるいは朝鮮半島側の史書との矛盾点
A 中国あるいは朝鮮半島側の史書に記されていながら、「記・紀」にないものを
いくつか羅列してみる。
1 卑弥呼の死亡したのは、248〜250年頃と推定される。
また、卑弥呼の後に、壹与が共立され、二人の女王がいたのに、「記・紀」には、
女性天皇の存在などどこにもない。
2 「記」によると、崇神天皇は、258年に亡くなっている。
すなわち、卑弥呼・壹与と重なる年代に、崇神天皇が存在していた形跡は大であ
る。
3 「紀」の神功紀の39年項等に、“魏志に云く”として、卑弥呼(名前はでていな
いが)の朝貢記事を載せているが、どうして神功と卑弥呼が同一人物といえるのか?
卑弥呼が亡くなったのは、248〜250年頃なのに、神功は、「紀」で269年
(己丑)とされている。
さらに、卑弥呼には、子供はいなかったはずなのに、神功には応神天皇というれっ
きとした子供がいた。
4 倭の五王に比定されている「仁徳〜雄略」の6代の間に、日本と中国の外交記事
は、「記」・「紀」ともになにもない。
5 好太王碑に、390年頃に高句麗は倭と戦っており、倭は帯方郡まで侵出してい
る。
390年頃といえば、倭王讃の時代であるが、讃に比定されている仁徳天皇などに
事跡としては、どこにもない。
6 倭王武は、雄略天皇に比定されているが、倭王武は高句麗と戦っているのに、
「記・紀」には全くでてこない。
7 倭王武の中国での記録は次のとおり。
・ 462年(大明6年) 興への詔と興の死と武の即位
・ 478年(昇明2年) 劉宗の順帝に遣使し、安東大将軍を授号。
・ 479年(建元元年) 斉の高帝に遣使し、鎮東大将軍を授号。
・ 502年(天監元年) 梁の武帝に遣使し、征東将軍を授号。
一方、雄略天皇の崩年は、「紀」では479年(建元元年)、「記」では、489
年(承明7年)。
また、502年は、「紀」では武列天皇の4年である。
こうみてくると、倭王武は、467〜502年の間、天皇として君臨していたの
に、この間は、「紀」では、雄略・清寧・顕宗・仁賢・武列の少なくとも5代の天皇
の在位にまたがっている。
8 武の上表文(昇明2年)に、“奄に父兄を喪い、垂成の功を一きに獲ざらしむ”と
あるが、雄略の父たる允恭や兄の木梨軽皇子・安庚が、不慮の死を迎えたというよう
な形跡はどこにもない。
9 継体天皇の崩年は、
・ 「記」では、527年(丁未)
・ 「紀」では、本文では、継体25年(丁未)として記と一致するが、註記に
は、「或本に云ふ、天皇28年に崩ず。崩ずと云ふは、百済本記を取りて文を
為す。
(中略)また聞く、日本の天皇及び太子皇子倶に崩薨すと。之に由りて言ふ。
後勘校する者知らん。」
となっている。
しかし、継体天皇の子のうち、主だった安閑・宣化・欽明などは、その後天皇を
継承しているということは、この百済本記とは全くあわない。
したがって、百済本記の記事は、継体天皇ではないことを物語っている。
※ 国内伝承を信用せず、外国資料を優先しているようなのは、何を意味し
ているのだろうか。
10 ところで、百済本記にある「日本の天皇及び太子皇子…」の日本とは、どこなの
だろうか?
この時点で、近畿天皇家で、「日本」という国号をしようしたという形跡はどこに
もない。
11 『隋書』俀国伝に、開皇20年(600)に“使を遣わして闕に詣る”とあるが、
この年は推古8年であるが、「紀」には何も記されていない。
初めての隋に対する遣使だというのに。
12 『旧唐書』の貞観5年(631)に倭国は、“使を遣わして方物を献ず。… 又、
新州の刺使高表仁を遣わし、節を持し往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才なく、王
子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。”とあるが、これも「記・紀」にはない。
註) 「紀」の舒明4年(632)に、“秋8月、大唐、高表仁を遣わして、三
田耜を送らしむ。… 冬10月の辛亥の朔甲寅に、唐国の使人高表仁等、難
波津に泊れり。”と記されているが、これは全く別の事象である。
13 『冊府元亀』によると、唐の高宗は、麟徳元年(664)7月に、“麟徳3年(6
66)正月に、泰山にて封禅の儀をあげる”旨を天下に布告した。
そのため、諸王は麟徳2年10月に洛陽に、諸州の刺史は12月に泰山に集まるよ
うに命じた。
また、『冊府元亀』外臣部に、“麟徳2年8月以降、百済にいた劉仁軌は、新羅・
百済・耽羅・倭人等の使とともに泰山にむかった”とある。
さらに、帝王部では、麟徳2年10月に洛陽を発った高宗に従駕した夷蛮の中に、
倭国もはいっている。
この、麟徳2年は、天智4年であるが、「記・紀」には記されていない。
註) 「紀」には、天智4年12月に、劉徳高等が帰国に際し、守君大石等が随
行した記事があるが、これでは、上記の封禅の儀に間に合うはずがなく、別
の事件である。
これらから考えると、中国・朝鮮半島側の史書に記された「倭国」は、近畿天皇家で
はありえない。
また、これだけの事跡が記されているので、“日本にとって都合の悪いことは、カット
しのだ”というような詭弁は許されないはず。
§ 本欄は、史料の解釈についての論議をしたいのですが……。
出土物の話は抜きにして。
別途、第2弾を準備中です。
元の発言 [ Re: 承前 ピクポポデミさん江。タイトルなんでしたっけ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(月)00時58分48秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
森説では、東{魚是}20余国で、有明海あたりから順に北へ向う
リストとしています。
むろん頭のいい森氏は、地名比定のような、客観性をかく泥沼には
足を踏み入れていません。
あくまで文字音韻の比率をだして分析するような、客観的でかっこいい
話をしています。
学者さんですから当然ですが。
元の発言 [ Re: Title 旁21カ国対応 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月19日(火)11時15分56秒 ]
>> これでもそうですけど、広型銅矛祭祀圏がほとんど出てこない。
>> 後漢代であれ、魏晋代であれ、これはどう説明するんでしょう。
>>
>>
例えば豊はどうでしょうか。
>> 魏晋代なら北部九州は干されていた説ですか?
>> それとも魏使には関心がなかった説?
>>
>>
そうですね筑後川流域。
元の発言 [ Re: 短里節はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月19日(火)00時10分31秒 ]
## 長里説のぼろぼろなものを提示するくらいなら、まともで、
## 否定不能な説をだしたらどうかな?といっているんですが。
ということで、大和説の皆さんはのらりくらりと屁理屈をこねて長里を主張している、わけですね。
>>
>>
#うーむ、現にあるものを否定するのは確かに難しいですものね。
さらに、伊都国の前後で突然ものさしが変わるのはなぜ?、も説明しなきゃいけないし。
>>
>>
#ま、長里説は宗教じゃなくて政治でしょう、多分。
元の発言 [ スレッドのトップから読み返すように ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月19日(火)07時30分58秒 ]
ふむふむ。
スレッドのトップから読み返すとあなたの欺まんが
はっきりしますね。
>>だから直線距離と鉄道の長さの差が少ない方が短里にとって都合がいい。
>>長里派はフラクタルとか言ってなるべく距離を長くしたがり、短里派は直線で短くしたがる。
はいはい。あなたは何をやったのかな?
1200kmくらいの直線距離を1400km位に水増し。
1544kmの鉄道路線を1650kmに水増し。
これで直線距離と鉄道の長さの差を100km弱減らしてるよ。
直線距離と鉄道の長さの差が少ない方が短里にとって都合がいいんでしょ?
都合がいいように改竄してるのね!
記録にある距離を1560kmから1510kmに減らしたから
360kmくらいあるはずの直線距離と記録の差が110kmにちぢんだ。
ほんとは鉄道路線と記録の差16kmしかないのに140kmも違うことにした。
つまり直線距離のほうが鉄道路線より記録に近いように捏造したわけ。
直線だということにしたいんでしょ?
中国本土の町から町なんだから
鉄道が昔からの街道を沿ってれば限りなく鉄道距離に近いでしょ?
海岸を行ったなら海岸線の距離に近いはず。
こっちはむかし実際とおった距離を書いてるのだろうという
しごく当然な議論をしてるだけだけど?
まがりくねった道を直線距離で測っちゃうのが短里の暴論。
しかし1里を四百数十mで換算して正しくならない例をいくら引っ張り出しても
それがぜんぶ75m短里なんて無い証拠になっちゃうのだから
皮肉ですね。
>> 倭人伝が短里で書かれているかどうかを議論しているのでしょう?
>>倭人伝が短里で書かれたことを認めておられる様なのでもうこれ以上の議論は不要ですね。
お!とうとうあいての主張も捏造ですか?
中国人は短里なんて使わないってのが結論じゃないの。
もし韓国や古代日本に中国と違う単位があったとしたって
中国人の書いた記録に間違いが入り込む原因になるだけよ。
元の発言 [ 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月18日(月)20時21分08秒 ]
郭公さん、今晩は。
以前の投稿のレスポンスを書きかけているのですが、なかなかこれで良し、という所までいきません。現在のところ郭公さんの記述に沿って全体的なレスポンスを書上げる余裕が持てそうもないので、簡単な感想に留めさせて頂きます。ご容赦ください。
現在のところ、細部はともかくとして、大きく言って、里程表記の部分と日程表記の部分では原史料が異なるという点では見方が一致しています。
見方が分かれる根本的な要因は、両原史料の性格及び「自郡至女王國萬二千餘里」という記述の評価にあろうかと思います。
既に書きましたが、私は里程表記部分を後漢代の地理認識であろうと考えます。これに魏代の新知識である投馬國・邪馬臺國への日程記事が付加されたのが魏志倭人伝の旅程史料だと思います。里程表記部分が後漢代の地理認識である理由として、後漢書が奴國を「倭國之極南界」としていること、里程史料の記述の範囲が紀元前後の漢鏡の出土地域と重なることをあげました。後漢書の「倭國之極南界」は、光武帝から金印を貰った奴國と「女王境界所盡」の奴國を同一視した結果だと考えられることが多いのですが、二萬餘戸を擁する「女王國以北」の奴國を差し置いて、「女王境界所盡」の奴國と同一視するというのは考えにくいように思われます。したがって、「倭國之極南界」は東観漢記のような後漢代の記録に既にあったもので、後漢代には「倭國之極南界」に相当する地理認識が存在した証拠であろうと考えます。それが里程表記資料であり、魏代に日程表記資料が追加された結果、奴國が「女王國以北」になったのでしょう。
ちなみに、旁國末尾の奴國は光武帝から金印を授けられた奴國の重出の公算が高いように思います。魏代になって狗奴國の隣接國としての奴國の情報が齎された時、里程表記中の奴國の南には既に投馬國・邪馬臺國が設定されていたため、それぞれの奴國が別國とみなされたのではないでしょうか。
それはともかく、里程表記部分が後漢代の地理認識である理由としては、これに加えて、「漢委奴國王」の金印が蛇紐であることをあげることができると思います。このことは、奴國の所在地が現実よりも著しく南に偏して考えられていることを示していると考えられ、里程史料が示す地理認識と一致しています。またALEXさんが指摘している、倭人伝の狗邪韓國と韓伝の弁辰狗邪國という表記の違いが時代差を示している可能性も考慮すべき所でしょう。
一方、郭公さんは、里程史料は「自郡至女王國萬二千餘里」とともに本来女王國への道程史料であり、日程史料は畿内の邪馬臺國への道程であるが、それは女王國とは別國であり、女王國が卑彌呼の真の都であって、両者を混同したのは陳壽の誤解であるというお考えのようです。その最大の根拠は、魏略には投馬國・邪馬臺國への日程記事がなかったという想定だと思います。
しかしながら以前書きましたように、この想定には私は同意できません。結局のところ平行線になるだけでしょうが、やはり既に書いたとおり、翰苑所引の魏略逸文を根拠にそのような想定をするは無理だと思います。
「自郡至女王國萬二千餘里」については、構文上からも、「計其道里、當在會稽東冶之東」で結ばれる段の書出しと見るべきだと思います。つまり、倭國の所在地、ということは倭王の都の所在地ですが、それを確定するために、旅程記事から編纂者レベルで積算されたものだと考えるのが妥当だと思います。
もし仮に、「自郡至女王國萬二千餘里」という記述の自立性を認めたとしても、それを以って伊都國から女王國までの千五百里を一里百メートル弱程度で評価することは根拠薄弱であるように思います。以前にも書きましたが、里程程表記部分の里数は、相対的な距離感としても正しくないと考えるからです。奴國・不彌國への里程ばかりでなく、細かく考えれば末盧國から伊都國への里程も、渡海ルートと比較した場合、相対的な距離感としては正しい、とは言えないと思います。しかし最大の問題は郡から狗邪韓國までの七千餘里です。蜀志許靖傳に載っている曹操への手紙では、會稽から交州までの行程を「行経萬里」、交州からまでの行程を「五千餘里」としており、これと帯方郡から狗邪韓國までの行程の「七千餘里」を比較すると、整合的な数値であることがわかります。「七千餘里」は当時の循海岸航路として至極まっとうな数字なのです。
最後に方位に関してですが、私のスタンスは郭公さんも先刻ご承知かとは思いますが、遠距離間の方位があてになる方と考える方がおかしいと考えています。90度程度の誤差は許容範囲内です。隋書に「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」などとありますように、後代の中国人自体が方位の記述などあてにしていないのです。既に後漢の時代に奴國が南方に偏して考えられていた以上、そのような先入観が作用している可能性はありますし、そこまで考えなくても単純な方位誤認の可能性は否定できません。正確な地図が存在しない以上、日程は実体験であり得ますが、方位は実体験ではあり得ないという単純な事実を、重視したい所です。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない(その4) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月18日(月)13時35分43秒 ]
岩波文庫版では,
「和歌弥多弗利」の訳注に「ここでは聖徳太子」とあります。
ということは,天帯彦大王とは用明天皇だと思うんだが。
「弟」とは崇峻天皇であろうか。
聖徳太子は用明天皇の位格を継いだものの,
崇峻の位格を継いだ推古天皇の摂政格,
ということだろうか。
いずれにしろ,
おっしゃるところの「近畿王朝」でしょう。
まず,畿内の王権について,
天武以降の整えられた制度から見てよいのか,
という課題があるそうです。>「摂政」などの用語
日本書紀の場合,
日本書紀の流儀でリライトする傾向も見られる。
例えば,御指摘の「倭皇」の場合,
元の文書では「倭王」であったろう,とかの。
# だいたいが宛字だしなー。
邪馬台国九州説で,
西日本に畿内大和とは別の政権があった,
と説く歴史観のサイトには,
三菱総合研究所の「オトナのお勉強講座」が,
あることはありますが・・・。
邪馬台国:九州にあったか倭の中心(その1:なぜ近畿説が…)
http://www.e-jichitai.com/business/weekly/study/2000/study0321.html
聖徳太子:「日出づる処の天子」ではない(その1)〜(その3)
http://www.e-jichitai.com/business/weekly/study/2000/study0228.html
http://www.e-jichitai.com/business/weekly/study/2000/study0306.html
http://www.e-jichitai.com/business/weekly/study/2000/study0313.html
元の発言 [ Re: 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 2月3日(日)09時11分26秒 ]
>> >> 「あまてらす」
>> 『天照』が、どうして「あまてらす」と読めるのですか?
>> 「アマテル」としか、読めませんが。
>> アマテル神社が、対馬にあるようですが。」
元の発言 [ Re: 読み返してみると ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月19日(火)20時01分50秒 ]
>> 鉄道が昔からの街道を沿ってれば限りなく鉄道距離に近いでしょ?
だからそれが三世紀の街道だったか疑わしい。
金が中国を支配した時に運河や橋を沢山作った。
有名な廬溝橋(全長266.5m)も最初は金が作った。
19世紀の街道と三世紀の街道は同じではないでしょう。
>> 海岸を行ったなら海岸線の距離に近いはず。
海の中を右に行ったり左に折れたりしてその距離出せると思ってんのかねえ。
櫓を何回漕いだか数えたとか?笑っちゃうね。
よしんば韓半島を全部水行したとしても島と島、岬と岬を直線で結びその距離を出した筈。
そのほうが絶対に簡単。
船を漕ぎながらどの位進んだかどうやって計算するの?
>> こっちはむかし実際とおった距離を書いてるのだろうという
>> しごく当然な議論をしてるだけだけど?
>> まがりくねった道を直線距離で測っちゃうのが短里の暴論。
倭人を里程を知らずと評した中国人が、距離を歩いた日数で換算するような原始的な方法しか取れなかったと考えてるの?
倭人と変らないじゃん。
羅針盤、火薬、造紙、印刷の 世界四大発明は中国人によって行われた。
中国人を馬鹿にしちゃいけないよ。
>> しかし1里を四百数十mで換算して正しくならない例をいくら引っ張り出しても
>> それがぜんぶ75m短里なんて無い証拠になっちゃうのだから
>> 皮肉ですね。
短里は60m〜90mの範囲とされているのですが?
>> >> 倭人伝が短里で書かれているかどうかを議論しているのでしょう?
>> >>倭人伝が短里で書かれたことを認めておられる様なのでもうこれ以上の議論は不要ですね。
>> お!とうとうあいての主張も捏造ですか?
>> 中国人は短里なんて使わないってのが結論じゃないの。
>> もし韓国や古代日本に中国と違う単位があったとしたって
>> 中国人の書いた記録に間違いが入り込む原因になるだけよ。
韓国や古代日本の単位で、それが倭人伝全体を通して使われたなら、それは立派に短里があったと認めていいのでは?
元の発言 [ Re: 読み返してみると ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月19日(火)23時56分25秒 ]
>> 19世紀の街道と三世紀の街道は同じではないでしょう。
それはあなたのたんなる希望。
>> >> 海岸を行ったなら海岸線の距離に近いはず。
>> よしんば韓半島を全部水行したとしても島と島、岬と岬を直線で結びその距離を出した筈。
>> そのほうが絶対に簡単。
ならリアス式海岸は遠くなるでしょ。
ところでその直線はどうやって距離を出すの?
>> 倭人を里程を知らずと評した中国人が、距離を歩いた日数で換算するような原始的な方法しか取れなかったと考えてるの?
当然そう。
倭人にはその単位がないから「里程を知らず」なんでしょ。
人工衛星から測ったとかだけは言い出さないでね、お願いだから。
>> 短里は60m〜90mの範囲とされているのですが?
あなたがそう言ってるんだけど?
>> 韓国や古代日本の単位で、それが倭人伝全体を通して使われたなら、それは立派に短里があったと認めていいのでは?
通して使われてないからあったと認められないの。
おわり。
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月19日(火)23時27分44秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
陸行の里がそのようであれば、僕は放射説を支持して
いますし、or説でもあるのですが、水行が10日で
陸行が1月では変だという批判はあてはまらないですね。
陸行がそれほどアバウトなんですから。
深くなりすぎたので上げます。
ゴルフをやっていると判ると思いますが、グリーンに立つピンフラッグの見える長さでその直線距離が判ります。
ゴルフスコープなんかピンの見える長さで目盛をふっている。
歩測するまでも無く、フェアウェイに立つ人の見え方で其処までの距離が判る。
古代の人は一キロくらいの距離なら見える人の大きさで目でほぼ正確に直線で判定できたでしょう。
一キロが判れば別の基準になる道具(周髀など)を使えばもっと長い距離も測定できる。
陸地では林や森林、山などでやや困難を伴いますが、海岸ではこれが無く簡単に測定可能でしょう。
歩測なども平らな所でこそ出来ますが複雑な地形では難しくなりますね。
その点直線距離の方は複雑な地形に関係なく視認出来るかどうかで決まり、簡単に測定できる可能性があります。
海の距離をフラクタルで櫓を漕いだ回数で距離を測ったなどとは馬鹿馬鹿しくって。
元の発言 [ Re: 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ kamakura ] 日付 [ 2月4日(月)11時51分31秒 ]
>> >> 「アマテル」としか、読めませんが。
>> >> アマテル神社が、対馬にあるようですが。」
「カナ」で記したので、ピントこなかったかも知れませんので、漢字で記します。
阿麻氐留神社
先ほど、誤ったものを送信しました。
取消てください。
すみません。
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月19日(火)23時08分19秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
古韓音についてはどれだけ分かっているのですか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
東夷伝の韓伝によれば、辰韓などそれっぽいですか。
すると後の新羅につながりますね。
>>
>>
>>
>>
日本人にとっての漢字原体験が、呉音で、韓半島での漢字原体験
が上古音というのはないですか。
古韓音は新羅人が伝えたとか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
呉音は百済が、古韓音は新羅が伝えたとかいうのはいけませんか。
>>
>>
>>
半島の中国人というのが、ずっと中国語として古韓音を
保持していたのでしょうか。
問題はずっと半島にいて中国音の変化に取り残された人が中国人と言えるのかですね。
日本人が呉音をずっと保持したように、漢字を受容した異民族が
中国語の音韻の変化と切離して、一種の音符として上古音を
残したとは考えられませんか。
>>
>>
>>
ここいらへんの論理はよく分かりませんが、古韓音の体系というのは
何から調べられているのですか。
>>
>>
こう言うのは、ずっと古韓音を話していた中国人集団を想定しないと
説明できないんでしょうか。
>>
>>
あと東夷伝中の国名リストにも何かのヒントがありそうですが・・・
これは半島の言語を理解しないといけない。
ちょっと手が出ません。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
公孫氏というのは出自はほとんど中国本土でしょ。
このグループが持ってきた音はそんなに古いものなんでしょうか。
楽浪やその後の帯方にしても、中央の官僚がやってくるところでしょう?
朝鮮半島北半分は、幾重にも中国語が流入していそうで、
ここで古韓音のような音韻が保存されるものでしょうか。
あまりバックグラウンドが広くないので分かりませんが、
私は古韓音のような音は、半島南部のような取り残されそうな場所で
しかも異民族が漢字という文字を、表音記号として受け入れたときに
生き残りそうに思うのですが、いかがでしょう。
するとそのような人々が、中国の外交テキストの音訳を行い、
それを中華帝国が受け入れたとは考えにくいのです。
もちろん、半島南部で国々の名前が通称で音訳され用字が
定着し、慣用的になった国名が伝えられた可能性はあると
思いますが。
ただしそうだとするとその国名の音訳は相当古くなりませんか。
古韓音のもとになったグループが音訳したとするには、
相当に証明することが多く、少なくともそうであるに
違いないと言い切れるものではないと思います。
これはこれで、結構な仮説だと思いますが。
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月16日(土)01時16分17秒 ]
>> ここと関係ないけど、、、
>> 韓国の水行は海岸線に沿って走ったから倍の距離になった。
>> では、瀬戸内はどうなんだろう?
>> 残り1500里が700里とかになると300kmくらいになって、畿内には届かないけど、、、
というのはあまりに九州説的な発想。
このような差分には証拠能力がないというのが畿内説。オリジナリティは日程記事の方にあるのさ。
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月19日(火)23時27分44秒 ]
>>
>>
>>
韓国内は、陸行である。
まず、倭人伝に、
郡より倭に至るに、海岸に循いて水行し、韓国を歴るに……
とあるが、この《歴》というのは、歴観するということで、「次々に見る」
ということである。
(参考) 漢書、劉向伝
周唐の進む所を歴て、法となす。
これの注に、「歴、之を歴観するを謂う」とある。
次に、東夷伝の序文に、
遂に諸國を周觀し、其の法俗を采る……得て詳紀すべし
とあるが、この諸国とは、韓国をも含むと考えられる。
韓伝には50余国の名称が列記されるとともに、法俗も記されている。
すなわち、東夷伝では、その全体に占める比率は、韓伝と倭人伝が圧倒的に
多い。
漢書以前に、東夷のことが把握されていなかった国々のうち、韓と倭が把握
されたので、これを「得て詳紀すべし」と高らかに宣言していることにほかな
らない。
これから、韓国内は、陸行したからこれらの知識が得られたのである。
水行では、50余国もの情報を得ることはできなかったことと考える。
ついでながら、韓半島を水行したら、7千余里では納まらない。
帯方郡治 〜 韓半島西岸 〜 韓半島南岸
1500 ? + 4000 + 4000 = 9500
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月20日(水)14時03分01秒 ]
>>
>>
>>
>>
この時期がいわゆる古韓音の成立期というわけですね。
それまで上古音が中国語として保持されていなければいけないと・・・
ただそれが和化漢文ならぬ韓化漢文になっていたりはしないでしょうか。
文自体は漢文でも、韓人が自分たちのことを記録するのに
漢字文化を用いたとすると、いたるところに韓人の言葉が
音訳された部分が出てくるでしょう。
これが古韓音の成立とすると、古韓音の成立は韓半島の
住人が漢字文化を受け入れてすぐまで遡りませんか。
日本人が仮名を発明し、日本語をつづるのがずっと後でも
明らかにそれ以前に万葉仮名が成立したように。
日本に呉音が定着するのは、和文が成立するずっと以前ですよね。
平安時代まで、日本にずっと呉音を話す中国人グループがいて、
その結果日本に呉音が残った訳ではありませんよね。
>> 日本人が呉音をずっと保持したように、漢字を受容した異民族が
>> 中国語の音韻の変化と切離して、一種の音符として上古音を
>> 残したとは考えられませんか。
>>
>>
>>
>>
>>
このあたりは日本も程度の差はあれ、中国人集団はいたでしょう。
けれど呉音の時代に渡来してずーっと中国語を話していた
中国人集団のはなしは何かに出てくるのでしょうか。
また三国志東夷伝では、三韓に古くからの中国人集団が
そのまま残っていたとか、支配階級は中国人とかの話は出てきません。
漢人「戸来」の話は出てきますから、相当の中国人がいたことは疑いないでしょうが。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
後漢末の大乱時に、公孫氏は地域的な平和を実現して、
多くの中国人がその支配地域にやってきたようですが、
すると生粋上古音の人たちだけが優越していたとは言えないのではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
音訳が単に記号化の意味で使われたのではなくて、
それなりに音を伝えようとしたなら、誰に伝えようと
したかが重要と思います。
公孫氏が生粋の上古音使いで、その外交記録のために
音訳されたなら、数ある中国人の内で上古音に近い
グループに音訳させたかもしれません。
するとこれは公孫氏政権の支配階級がどのような音を
使っていたかが重要のように思います。
公孫氏がもともと何処にいたかは分かりませんが、
どこかで犯罪を犯して逃げてきたようですね。
>>
>>
黄布の乱で本土は滅茶苦茶になってますから、さまざまな方言があって、
当然洛陽の標準語グループもいたと思います。
古韓音の存在をもとに、自国語の文を韓人がつづるような時代まで
の半島が、上古音で埋めつくされていたとするのも無理がありませんか。
日本には平安時代まで、呉音を話す中国人しかいなかったと考えるようなものでは?
>> これはこれで、結構な仮説だと思いますが。
したがって上古音で音訳されたのなら、公孫氏上古音説を
立証するかしなければ、やはり結構な仮説だと思います。
<森尾古墳>発見の銅鏡は紀元1世紀の中国製 近畿北部で交流か
兵庫県豊岡市の森尾古墳(古墳時代前期、3世紀後半〜4世紀前半)で85年前に出土した銅鏡が、中国「新」代(紀元8〜23年)の方格規矩(ほうかくきく)四神鏡と確認された。近畿で見つかった銅鏡では最古級。市出土文化財管理センターは「近畿北部にも、早くから大陸と通交した豪族がいた可能性を示す」としている。(毎日新聞)
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月19日(火)21時55分54秒 ]
koujiさん、郭公さん こんにちわ。
>> 最後に方位に関してですが、私のスタンスは郭公さんも先刻ご承知かとは思いますが、遠距離間の方位があてになる方と考える方がおかしいと考えています。90度程度の誤差は許容範囲内です。隋書に「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」などとありますように、後代の中国人自体が方位の記述などあてにしていないのです。既に後漢の時代に奴國が南方に偏して考えられていた以上、そのような先入観が作用している可能性はありますし、そこまで考えなくても単純な方位誤認の可能性は否定できません。正確な地図が存在しない以上、日程は実体験であり得ますが、方位は実体験ではあり得ないという単純な事実を、重視したい所です。
koujiさんはそういわれますが、場所を考えてください。
仮にですが、瀬戸内航路をとった場合、まず船は九州島
に沿って進むはずですよね。
太陽の方向を見て進むはずですから、そこで畿内に向かう
ためには、本州に渡ることになります。
そして沿岸航法であるのなら、太陽を右に見ながら進む
ことになります。
南に向かうのならば、四国に渡らなければ南に進む事に
ならないではないですか。
陸行で方位がわからなくなる、当てにならないというこ
とは理解できますが、この場合は実にあきらかではない
ですか。
沿岸航法で南に向かいたければ、九州島に沿って行くか
四国に渡らなければ方向があわないですよ。
山があっても太陽は見えます。
地図だけを見るのではなく、自分が船に乗ったつもりで
考えてみました。
元の発言 [ Re: 九州説的な、あまりに九州説的な.... ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月20日(水)13時18分25秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
そうではないですよ。
末ロ國、伊都國間の五百里に対して、おにりんさんの
考えをきいたら、あまりにアバウトなのでね。
この「大論争」の基礎資料では、「計其道里、當在會稽東冶之東」は<其の道里を計るに、當(まさ)に會稽東冶之東の在るべし>と読み下しています。
「會稽東冶之東」のままにしているのは、何か「思惑」があるのでしょうか。
「計其道里」の「計」は“比べ調べる(廣雅:「計、校也」)”という意味ですから、<其の道里を計るに>とは「女王国までの距離を大陸に当て比べると」といった意味合いでしょう。
とすると、「會稽東冶之東」は大陸に存在しなければ意味をなしません。
ここは岩波文庫本のように<當に會稽東冶の東に在るべし>と読まれるのが普通でしょうが、大陸に当て比べるには「の東」が余計な気がします。
「の東」が方位の東であれば、「會稽東冶の東」の意味するところは海(もしくはその海中の倭国)以外はありえません。
中国語に方位を言うのに「○○の東」といった日本語のような表現の仕方はあるのでしょうか。
冒頭の「倭人在帶方東南大海之中」には「之」はありません。
「會稽東冶の東」の東は方位を言うのではなく、「東冶」という表記の「東」ということは考えられないでしょうか。
つまり、大論争子の「思惑」は、「東冶」の東には地理的な意味合いがあるとでもいうことなのでしょうか。
#陳寿は何故、郡から乍南乍東したり、南へ渡海したり、東南へ陸行したり、東し南しする曲がりくねった女王国までの1万2千里を大陸に当て比べようとしたのだろう。
元の発言 [ Re: (里程について)訂正のついでに、、、(承前) ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 2月3日(日)22時33分38秒 ]
横槍、失礼します。私も1年程前、「それでも、しつこく、韓国内は陸行だ」と主張しました。ねたろう さんの一連の発言にはたいへん興味を持っています。さて、
> 日野さんの論文から、奴国は伊都国からの、投馬国は不彌国からの傍線行程であるといえるでしょう。
この件につき最近新たな着想を得ました。日本語の「いたる」は到着する意味ですが、「至」は今日でもそうでない意味に使われている、という(私にとっては)大発見です。
現代の我々でも、自宅の案内図を書くようなときに、「至筑前前原」「至博多」と使いますが、この「至」の使い方と倭人伝の使い方は本質的に同じではないか、ということです。「至奴国」は「こっちの方に奴国があります」という以上の意味はないと理解できます。
元の発言 [ Re: 會稽東冶之東 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月20日(水)18時23分34秒 ]
>>
>>
>>
>>
ブー!外れです。
だって、會稽東冶って成句でしょ?
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月20日(水)09時09分04秒 ]
>> 深くなりすぎたので上げます。
>> ゴルフをやっていると判ると思いますが、グリーンに立つピンフラッグの見える長さでその直線距離が判ります。
>>
平でなくても判りますよ。
ピンフラッグ全体が見えれば良いんです。
手前に丘などがあって上の方しか見えない場合は困りますが。
遠くにあるものが小さく見えると言う簡単な理屈で直線距離が出せる。
もちろん、5千年の歴史を持つ中国だから三角測量だってやってはいたと思うけど、場所によってはやや不正確でも
この方法がやりやすい。
陳寿も正確さを欠く事が判っているから倭人伝を通して大雑把な距離の書き方をしたんだろうと思いますよ。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月20日(水)09時09分04秒 ]
割り込み失礼、しかし、目にあまリます。
>> ゴルフをやっていると判ると思いますが、グリーンに立つピンフラッグの見える長さでその直線距離が判ります。
>>
>>
古代の人に距離が、計れないなんて、酷すぎますよ。
ある距離に対しては、あなたなど比較にならないほど、鋭く一目だ計ったはずです。
どんな距離かは、あえて言いません。
わかるはずですから。
元の発言 [ Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月20日(水)08時34分04秒 ]
>> 古代の人は一キロくらいの距離なら見える人の大きさで目でほぼ正確に直線で判定できたでしょう。
ピンの長さを知るにはそこまでいかなきゃね。
>> 一キロが判れば別の基準になる道具(周髀など)を使えばもっと長い距離も測定できる。
周髀って何だか知ってますか?
>> 陸地では林や森林、山などでやや困難を伴いますが、海岸ではこれが無く簡単に測定可能でしょう。
無理ですよ。
>> 歩測なども平らな所でこそ出来ますが複雑な地形では難しくなりますね。
だから不正確になる。
>> 海の距離をフラクタルで櫓を漕いだ回数で距離を測ったなどとは馬鹿馬鹿しくって。
そんなこと誰が言ってるんですか?
また捏造ですか?
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月20日(水)22時16分37秒 ]
>> 周髀って何だか知ってますか?
長さ八尺の棒
>> >> 陸地では林や森林、山などでやや困難を伴いますが、海岸ではこれが無く簡単に測定可能でしょう。
>> 無理ですよ。
>> >> 歩測なども平らな所でこそ出来ますが複雑な地形では難しくなりますね。
>> だから不正確になる。
正確でなくてもOKです。
倭人伝だっておおよその数字しか示していない。
千余里といっても千十里かもしれないし、千三百里かもしれない、程度のアバウトな数字で直線距離を出している。
しかしながら恐らく目測で測ったこの数字は山道を歩測で測ったジグザグの距離よりは正確だろうと思われます。
>> >> 海の距離をフラクタルで櫓を漕いだ回数で距離を測ったなどとは馬鹿馬鹿しくって。
>> そんなこと誰が言ってるんですか?
>> また捏造ですか?
海の上の距離を目測も使わずどうやって測定するの?
三角測量だってやれないし。
船を何時間漕いだかで距離を推定するより目視の方が正確。
日本海軍は双眼鏡だけで数十キロの距離を正確に出していたけど。
ま、考古学は人文だから科学的な立証は求めても無理かもね?
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月20日(水)23時26分04秒 ]
>> >> 周髀って何だか知ってますか?
>> 長さ八尺の棒
八尺の棒でどうやって測るの?
>> 千余里といっても千十里かもしれないし、千三百里かもしれない、程度のアバウトな数字で直線距離を出している。
見えないのにどうやって?
>> >> >> 海の距離をフラクタルで櫓を漕いだ回数で距離を測ったなどとは馬鹿馬鹿しくって。
>> >> そんなこと誰が言ってるんですか?
>> 船を何時間漕いだかで距離を推定するより目視の方が正確。
つまり誰も言ってないことを自分で考え出して
馬鹿馬鹿しいって笑ってたの?
>> ま、考古学は人文だから科学的な立証は求めても無理かもね?
あなたは非科学だから立証そのものをする意思がないの?
見通しのきかない何十キロって距離を
どうやって目視で正確に出すのってきいても無駄?
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月20日(水)15時23分14秒 ]
お久しぶりです。ピクさんは本質的に考えようとする姿勢が窺えて、愉快です。
前回、謎めかして書きましたが、分かる者には分かるし、分からない者には分からない。ピクさんには分かるでしょう。「君子は画さず。」
元の発言 [ 入れ墨についてお聞きしたいのですが・・・・。 ] お名前 [ ぐっち ] 日付 [ 2月4日(月)18時52分40秒 ]
もう、ご用立ては完了されたかとお見受けしますが、
私も、超亀人間なので、こんなタイミングです。
倭人伝には「鯨面文身」なる「入れ墨」についての表現
があります。ただ、ここで留意しておくことは、墨を
刺したのか朱をさしたのかとか、原料まで特定できない
点です。
初期の目的は、潜水の際の魔よけとされていたようですが
倭人伝のころには、アクセサリーとして形式化されたと
書かれております。
記紀の記述を見ますと、刑罰の一種として目の周りに
入れ墨をしたと書かれています。
「鯨面文身」のうち「鯨面」に相当するのが顔では
ないかと思います。後世では「文身」のみが伝えられて
おります。
近世になりますと、刑罰としての「入墨」と「刺青」
は使い分けられております。分かりやすく言いますと
「入墨=いれずみ」とは刑罰の一種であり、「刺青、
彫り物、文身」は刑罰以外のものを指します。
現代では横文字で「タトゥ」なんていいますが、
「入れ墨」自体が刑罰上のものであるがため、
趣味でやっているものは「入れ墨」と言うのは避けた
方が賢明で、「彫り物」「刺青」と言うほうが安全です。
>> わたくし、今、いれずみのことを訳あって調べています。しかし、資料がなかなか思うように見つからず、困り果てています。大論争に水を差してすいませんが、情報を提供してもらえないでしょうか。そもそもいれずみとはいつ、どんな目的で行われていたのか。また、いれずみ(刺青・入れ墨)という二つの漢字の意味の違いはあるのか。いれずみの歴史について教えて下さい。
元の発言 [ Re: yahoo news ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月20日(水)23時42分17秒 ]
>> <森尾古墳>発見の銅鏡は紀元1世紀の中国製 近畿北部で交流か
>> 兵庫県豊岡市の森尾古墳(古墳時代前期、3世紀後半〜4世紀前半)で85年前に出土した銅鏡が、中国「新」代(紀元8〜23年)の方格規矩(ほうかくきく)四神鏡と確認された。近畿で見つかった銅鏡では最古級。市出土文化財管理センターは「近畿北部にも、早くから大陸と通交した豪族がいた可能性を示す」としている。(毎日新聞)
踏返し鏡では?
実物か写真を見ないと分かりませんが。
大和天神山や柴金山古墳の方格規矩四神鏡は踏返しであるとする研究があります
>>
>>
>>
>>
>>
元の発言 [ Re: Title たかが、里程、されど、里程 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月15日(金)10時57分07秒 ]
ぼけーっとしてたら枠からはみ出すほどのツリーに
なってしまいました。紀 智明さんに別段悪意が
あるわけでないので、ここでご勘弁を。
>> 周髀算経を、どう考えますか?
私はおにりんさんと同じ考えです。
「短里」は存在しない。「単位」は、一定なものを
指します。その単位が進むに連れて変化するのでは
単位ではない。
周髀算経に関してお勉強されたようですが、髀を
北緯35度上の任意点、例えば朝鮮半島南岸とか
対馬とか、北九州南岸とかに立てて、夏至測定を
行った場合、どういう結論が導き出されるか
ご計算の上でお書きになっていますか?
元の発言 [ Title 伊都女王国はあったか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)00時36分33秒 ]
非常に感心しました。考古学的情報をよくまとめられていると思います。
細かい点ではいくつかあると思いますが、倭人伝で女王共立前は男王だったという点はどうしましょう?
2世紀末の倭国乱の混乱後共立された女王が実は平原遺跡の女王で、3世紀初めに没し、卑弥呼が(纏向で???)即位(共立)された、というのはどうでしょう。
いつもの考古学の話しと異なり想像ですいません。ただ、前から思っているのですが、卑弥呼が2世紀末に即位したとしたら、在位が異常に長過ぎる(あり得ないとは言えないが)気がします。
>>伊都の女王の死後、本州の人口の多さや、後進
>>地帯であって
>>も大きな市場があったため、北部九州と本州の各
>>地との間の交流が活発化。
このあたり、私も考えているのですが、纏向に新都ができた理由かな、と。
その場合、じつは伊都国よりも奴国が東との関係が強く、2世紀初め以来の伊都倭王を打倒する運動が2世紀後半にあったのではないか?東の広範な「市場」と結んで、その力を背景に、伊都国と争ったのではないか?と最近考えるのですが。本来の(漢代)の「倭国」は、北部九州中心で、点的に本州方面に延びていた、とすれば、「倭国乱」とは伊都国と奴国の争いとするのがよいのではないか?
庄内式の九州への流入の仕方も傍証ですが。
半ば想像、半ば考古学的、文献的考証ですがいかがでしょう?
元の発言 [ Re: yahoo news ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月21日(木)03時36分17秒 ]
インターネットのニュースを見たら、写真は確認できませんでしたが(どこかに写真があれば教えて下さい)、コメントが岡村氏というのが気になります。
氏は、確かに鏡研究の大家ですが、小林行雄氏以上に伝世鏡に固執しており、近年の研究動向に反して、踏返しとか、後世の流入をほとんど認めない立場なのです。最近やっと、三国代の「模倣鏡(倣古鏡)」の一部を認めたぐらいなので。その言いぶりは、あたかも確信犯的にも聞こえるぐらいです。ですから、ちょっとこのニュースの論調には慎重にあるべきと思います。
もちろん、伝世鏡に固執するのは、弥生から畿内が大陸と「独自に」交渉していた、などとする前提からです(大量の伝世鏡があった!)。しかし、例えば伝世等の説明で逃げようのない、半島系土器や楽浪系土器の出方は、明らかに西高東低です。鏡の実際の流入量はこれにある程度比例すると考えるべきでしょう。これは舶載鉄器の出方も然りです。
たまに畿内等に珍しいものがちょっと弥生で出てるからといって、独自の交渉をことさらに強調する学者も一部にいますが、絶対量や全体の品目数でいけば、北部九州の「おこぼれ」でしかないことを理解すべきでしょう。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月21日(木)00時24分46秒 ]
>> 八尺の棒でどうやって測るの?
ゴルフのピンフラッグと同じ使い方。
>> >> 千余里といっても千十里かもしれないし、千三百里かもしれない、程度のアバウトな数字で直線距離を出している。
>> 見えないのにどうやって?
韓国から対馬は見えるでしょ。対馬から壱岐も。壱岐から東松浦半島も。
あれ、ひょっとして見える事しらなかった?
どうりで話がおかしいと思った。
>> >> >> >> 海の距離をフラクタルで櫓を漕いだ回数で距離を測ったなどとは馬鹿馬鹿しくって。
>> >> >> そんなこと誰が言ってるんですか?
>> >> 船を何時間漕いだかで距離を推定するより目視の方が正確。
>> つまり誰も言ってないことを自分で考え出して
>> 馬鹿馬鹿しいって笑ってたの?
韓国から対馬が見える事すら知らず、
韓半島水行7000里をどうやって測定したかもわからないまま長里だと言っている事を笑い、
「考古学は人文だから科学的な立証は求めても無理かもね?」と
長里派には立証出来ないだろうし其の意思も見受けられないと言ったのです。
>> 見通しのきかない何十キロって距離を
>> どうやって目視で正確に出すのってきいても無駄?
対馬に韓国展望台と観光施設があってそこから釜山の町並みが見える。
展望台に上らなきゃ見えないわけじゃあないけどね。
正確な距離を出したとは言っていません。
±20%ですから現代の感覚では不正確です。
目視ではそんなものでしょう。
プロゴルファーなんか200ヤードの距離を±5%で測定しなきゃならない。
長里派は目視できる60kmの距離を435kmと間違えたというから宗教なのです。
貴方も人の事を言う前に自分で海の上でどうやって距離を出したか、その方法を明らかにしなさい。
と言うか貴方は知らなさ過ぎ。
元の発言 [ Re: yahoo news ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月21日(木)04時05分19秒 ]
>> インターネットのニュースを見たら、写真は確認できませんでしたが(どこかに写真があれば教えて下さい)、コメントが岡村氏というのが気になります。
http://www.asahi.com/osaka/020220j.html
に小さな写真がありますが詳細はわかりませんね。
>> 氏は、確かに鏡研究の大家ですが、小林行雄氏以上に伝世鏡に固執しており、近年の研究動向に反して、踏返しとか、後世の流入をほとんど認めない立場なのです。最近やっと、三国代の「模倣鏡(倣古鏡)」の一部を認めたぐらいなので。その言いぶりは、あたかも確信犯的にも聞こえるぐらいです。ですから、ちょっとこのニュースの論調には慎重にあるべきと思います。
>> もちろん、伝世鏡に固執するのは、弥生から畿内が大陸と「独自に」交渉していた、などとする前提からです(大量の伝世鏡があった!)。しかし、例えば伝世等の説明で逃げようのない、半島系土器や楽浪系土器の出方は、明らかに西高東低です。鏡の実際の流入量はこれにある程度比例すると考えるべきでしょう。これは舶載鉄器の出方も然りです。
>> たまに畿内等に珍しいものがちょっと弥生で出てるからといって、独自の交渉をことさらに強調する学者も一部にいますが、絶対量や全体の品目数でいけば、北部九州の「おこぼれ」でしかないことを理解すべきでしょう。
渥美半島で椰子の実が見つかると愛知県人はボルネオの原住民と交流していた証拠と言うのでしょう。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月20日(水)15時42分31秒 ]
yaohide さん、どうも!
>> 沿岸航法で南に向かいたければ、九州島に沿って行くか四国に渡らなければ方向があわないですよ。
話が逆立ちしています。別に南に向かいたいわけではありません。邪馬臺國へ向かいたいのです。玄海灘沿岸を出発し連れて行かれた未知の遠隔地が、出発地から見てどの方位にあたるのか、正確に判断できるかどうかということを問題にしています。
>> 地図だけを見るのではなく、自分が船に乗ったつもりで考えてみました。
そうでしょうか。やはり地図が頭から離れていないように思われます。考えるよりも、日常生活を思い起こす方が早道なのではないでしょうか。
既知の場所に向かう場合、東西南北を意識しながら移動する人がいるでしょうか。
私は夕べある場所(A)から別のある場所(B)へ自転車で移動しました。(A)地点は細い路地です。そこから出発すると、すぐ大通りに合流します。そのまま進み、突き当たりの信号を右に曲がります。次ぎの信号のある交差点を左へ折れると下り坂で、次ぎの突き当たりを左へ、その次突き当たりを右へとすすむとやがて(B)地点に到着しました。この間、ただの一度も東西南北など意識していませんし、(A)地点からみて(B)地点がどの方向にあたるのかと問われても答えられません。道もカーブしているし、曲がり角だって必ずしも直角ではありませんから、当然でしょう。
海岸沿いの船旅だって同じではないでしょうか。方位を測りながら航海するわけではありません。
例えば、建忠校尉梯儁が乗った船が玄海灘沿岸を邪馬臺國へむけて出港します。その船には航路を熟知した水先案内人が乗っているか、或いはやはり航路を熟知した人を乗せた船が先導していたでしょう。最初は右手に岸を見ながらすすみ、関門海峡を境にして、次ぎに左手に海岸を見ながら進みます。この間直線航路ではないのですから、舳先の指す方向も変化しつづけます。そのようにして数十日後、大阪湾岸に上陸するわけです。このような状況で玄海灘沿岸から見た大阪湾岸の方位が正確にわかるものでしょうか。
倭人伝の冒頭に、……
倭人は、帯方の東南、大海の中に在り。
《山島》によりて、国邑を為す。
とある。
まず、《山島》とは、大きな山(隋書にもあるように、阿蘇山だろう)のある島
ということを表しているのだろう。
ところで、倭国が近畿だとすれば、この島は本州となるのであろうか。
しかし、東夷伝の序文に、“遂に諸国を周観し、其の法俗を采るに、……得て
詳紀すべし”とあるように、諸国を観て、詳細を記すことができるようになった
と言っているのに、関東や東北地方のことと思える記載は全くないのはどういう
ことだろうか?
また、本州と理解していたら、会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東という
ことは、どう説明できるのだろうか。
青森県の下北半島などは、洛陽や長安よりはるか北であり、単に会稽東治など
という表記をするわけはない。
次に、景初2年の難升米等を遣わした記事の直前に、……
倭地を参問するに、《海中洲島》の上に絶在し、或いは絶え、或いは連
なり、《周旋5千余里》なる可し。
とある。
《海中洲島》であるが、この「海中」は、漢書などの「楽浪海中」や倭人伝の
「大海の中」と同意語であろう。
それが、“絶在し、或いは絶え、或いは連なり”という表現は、近畿を中心と
した本州の表現として適切といえるだろうか。
九州を中心として考えると、狗邪韓国〜一大国〜対海国と続く状況として、ま
ことに相応しいといえる。
さらに、《周旋5千余里》であるが、近畿を中心とした本州を考えたら、5千里
どころではないはず。
これが長里だとしても、たかだか2000km強にしかならないので、とても
本州を《山島》などと表現できるはずがない。
本州は、青森から下関まで現代の鉄道距離で、2000km弱であり、これが
周旋となると5000km位になってしまう。
第三に、倭人伝中の「末盧国」が、九州であることは、異論はないだろう。
この末盧国から邪馬壹国までの間の記述に、『海を渡る』という表現はどこに
もない。
ということは、『邪馬壹国』は、九州から出ていないことになるのである。
ここで確認をしておかなければならないことに、“水行”という用語である。
これは、海を渡って、別の島に行くのではなく、陸地に沿って船行するというと
いうことである。
九州に到着して、そこから海を渡ることなく、『邪馬壹国』に行けるのである。
よって、「邪馬壹国」→「邪馬臺国」は、近畿王朝ではない。
元の発言 [ Title ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月21日(木)14時01分16秒 ]
タイトル忘れました。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月21日(木)13時18分02秒 ]
kouji さん、こんにちわ。
>> 話が逆立ちしています。別に南に向かいたいわけではありません。邪馬臺國へ向かいたいのです。玄海灘沿岸を出発し連れて行かれた未知の遠隔地が、出発地から見てどの方位にあたるのか、正確に判断できるかどうかということを問題にしています。
知らない土地へ連れていかれるのであれば、当然方位
は気にするでしょう。そのときに地図が書けるほど
情報をとってこいといわれたかどうかは別としても。
舟に乗って、太陽を右に見て、進んでいるのであれば
これは東へ向かっている位のことはわかるはず。
伊都國からにせよ、不彌國からにせよ、南に至ると
書いてあるのですから、投馬國や邪馬壹國は南と
わかる方角だったはずです。
延々何十日も舟で進むのに、ほとんど太陽を右に見て
南に進んでいると思うでしょうか?
東に進んでいるということくらい誰だってわかるはず。
koujiさんの自転車の話は、あてはまらないことが
ありますので、ここではさけます。既知の場所に
行くという前提ではないからです。
また既知という前提であっても、僕は頭の中に大体
の地形なりを浮かべて行動しますので、ほとんどの
行程で、太陽が右にあれば、おおよそ東に向かって
いるだろうとは考えます。
沿岸航法でもあきらかに次の岬が見えているところ
を、海岸に沿って進むのでしょうか?
湾の中へ、それこそフラクタルのごとく曲がって
進むでしょうか?
できるかぎり直線で進むのが普通だと思います。
そうなれば、太陽を右に見ている時間が長い。
それは東に向かっているのであって、間違っても
西へ行っているとは思わない。東南かと問われれば
微妙な問題だとは思いますが。それこそ海の上だから
南と書いてあるのではないですか?
韓国のあたりではちゃんと乍南乍東と書いてある。
瀬戸内であれば、太陽のある方向に四国があります。
四国に渡ることがあれば、南だと書かれていても
良いかと思いますが。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月21日(木)16時19分25秒 ]
う〜ん、困りました。
私の場合、電車で何度も通った場所を地図で改めて確認してみると、南のように思っていた場所が東南であったり、北のように思っていた場所がほぼ東であったりします。
おまえがおかしいのだと言われればそれまでですが、まあ、そういう人間もいるのだとご理解ください。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月21日(木)16時19分25秒 ]
割り込み失礼しますです。
北九州から投馬国へ南に水行二十日(陸行の記述なし)とすると、
四国西部が一番考えやすいと思うのです。
次に、四国東部を邪馬台国にすればこれも方向はよさそう。
四国東部と畿内だと文化も似たようなもので、
中心地域が移動してもちょっとした遷都であって、
中国人から見れば一緒の国に見えてもしょうがない、と。
マイナー四国東部説のつぶやきでした。
#日数に関しては、潮の利用の問題があるのでよく分かりません。
#潮を利用した人力航行のデータがありませんかね。
元の発言 [ Title 旁21カ国対応 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(月)23時02分15秒 ]
うーん、これってやっぱり順不同ですよね。
21個もの接続詞「次」を無視しちゃうんですか?
倭人伝の国名って単純なものが多いから、
2字の国名なら地名を50〜100個用意すれば、
大抵はその中に類似するものがあります。
そんなわけで、広い範囲の中に類似地名があっても
当たり前のことに感じます。
新井白石、本居宣長以来、多くの人がこういった
比定をやっているようです。
結局、勝手に条件を緩めることによって、
かえって比定を困難にしているのではないでしょうか。
きっとこの案をベースに「順序を保った比定案」を
出してくれるものと期待しています。
だれか九州説の人もやってくれないかなあ。
ROM状態だけど、ピクポポデミさん、おにりんさん、
斧折三さんの古代音韻の議論も興味深く読んでいます。
倭人伝の中で、比定に直接関係する最も重要な部分が
この国名の音韻だろうと、私は思っています。
#卑弥呼の墓がでてくれば、邪馬台国の一部だけは
#分かるかも知れませんけどね。
「執(と)る」の「と」は「手」に同源のため、すごく昔は
「執(と)らし」を「てらし」と言ったかもしれません。この
事から「執(と)らし」は「てらし」「たらし」「とらし」
(「執(と)る」は「てる」「たる」「とる」)と変化してき
たのではないでしょうか。
それから「御弓」(御執)を「おほむたらし」と読むそうで
すが、応神天皇の和風死号の「ほむた」は、もしかするとこれ
からきてるのではないでしょうか。
元の発言 [ Re: Title 旁21カ国対応 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)18時37分15秒 ]
>>
>>
200以上の地名の中から選んでいることになりますか。
>> そんなわけで、広い範囲の中に類似地名があっても
>> 当たり前のことに感じます。
>>
そうですか?
九州、中国、畿内、四国どこだろうと、
順不同でいいんだったら同じくらいの数の地名
を用意すれば同じくらいの量の類似地名を見つけられますよ。
#「倭人伝の国々の比定地分布地図」では、何ヶ所もの比定地候補地
#が日本全国に散らばっています。
>> 新井白石、本居宣長以来、多くの人がこういった
>> 比定をやっているようです。
>> 結局、勝手に条件を緩めることによって、
>> かえって比定を困難にしているのではないでしょうか。
>>
>>
だから求める場所がおかしい、とはならないんですね。
まあ地名が消えたり変化したり、推定音が違うというのもありえますけど。
国名や郡名が弥生時代まで溯れるかは確実ではないと思います。
以前も書きましたが、新しい勢力が入って来てその氏族名が郡名となったり、
中心地域が移動することによって国名が変化したり、
さまざまなことが考えられます。
けれど、そのクニの多くの人々が用いていたはずの国名が、
一斉にきれいさっぱり消えるというのは考えにくいのです。
国名、郡名だけでなく河川名などの主要地名が、
もともとは国名であった可能性も考慮すべきだと思います。
いずれにせよ、24国の比定案ができれば、比定位置を遺跡地図で示して、
国名と類似する地名を表で書き表せば、各説を細かく比較できます。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月21日(木)09時06分32秒 ]
>> >> 八尺の棒でどうやって測るの?
>> ゴルフのピンフラッグと同じ使い方。
ぷぷっ。ユーモアありますね。
>>ゴルフをやっていると判ると思いますが、グリーンに立つピンフラッグの見える長さでその直線距離が判ります。
>> 古代の人は一キロくらいの距離なら見える人の大きさで目でほぼ正確に直線で判定できたでしょう。
>> 一キロが判れば別の基準になる道具(周髀など)を使えばもっと長い距離も測定できる。
つまり遠くに人が立ってりゃピンフラッグの代わりにして1キロ測れると?
別の基準になる道具(周髀など)って八尺の棒だそうだから
八尺の棒が立ってりゃこれもピンフラッグの代わりでもっと長い距離も測れると?
人の上背6尺だからもっと長い距離って1.3キロくらいかな?
やっぱり対馬はムリそうねえ。
>> >> 見えないのにどうやって?
>>韓国から対馬は見えるでしょ。対馬から壱岐も。壱岐から東松浦半島も。
>>あれ、ひょっとして見える事しらなかった?
しらなかった。韓国から対馬に立ってるピンフラッグが見えるなんて。
しょにょ1) 海の距離をフラクタルで櫓を漕いだ回数で距離を測ったなどと
しょにょ2) 船を何時間漕いだかで距離を推定するより目視の方が正確。
しょにょ3)韓国から対馬が見える事すら知らず(ピンフラッグが!?)
3つともあなたの妄想みたいなんですけど。
正確な距離を出したとは言っていません。
>> 船を何時間漕いだかで距離を推定するより目視の方が正確。
なんでしょ?
>> 長里派は目視できる60kmの距離を
島が見えるだけでどうやって60kmの距離を測ったの?
>> 貴方も人の事を言う前に自分で海の上でどうやって距離を出したか、その方法を明らかにしなさい。
だから何度も言ってるんだけどわかんないかなあ。海の上で距離は出せないって。
>> と言うか貴方は知らなさ過ぎ。
何を?
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月19日(火)21時55分54秒 ]
koujiさん、こんばんは。
まず里程について。
>奴國の所在地が現実よりも著しく南に偏して考えられていることを示していると考えられ、里程史料が示す地理認識と一致しています。
なぜ現実よりも著しく南に偏しているのか? そこが問題ですよね?
結局のところ、里程表記が誇大であったか、里の単位が異なっていたにもかかわらず撰者は一里400mの換算で見ているかのどちらかということになりましょう。
> また、「方可四千里」のような概括的な記録は「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」のような個別の旅程記録から概算されるものです。もちろん「方可四千里」が「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」とは全く別の旅程記録から概算された可能性もまったく否定できるわけではありませんが、与えられた史料の範囲内で考えるならば「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」の方にオリジナリティを認めるのが常道であろうかと思います。
この七千余里が航海者が島々を密に縫うことから得られた実感であるにせよ、方四千里もまたご指摘のようにその航海者たちの個別の旅程記録から概算されるものであるならば、郡から韓半島西南端までも彼等は四千里と感じていたことになります。1600kmです。実際はどれくらいでしょうか? 直線距離でおおよそ400kmくらいでしょうか? 出航した港がどこかはよくわかりませんが、韓半島西部の南北の海岸線には泰安半島がひとつ出張っておりますが、西南端の木浦まで比較的スムーズな航路ではないかと思います。島々を密に縫うこともなかったのではないでしょうか? それを、四千里と航海者たちが見積もっているのですから、これこそ一里400mではない、里の単位があったことの証左になると思いますがいかがでしょうか?
ひとくちに渡海千里と申しましても、三回にわたる渡海千里は均等ではありません。ありませんが、けっしていわゆる長里ではございません。
これこそ感想ですが、ひょっとすると一日の航海を千里と数えていたのではないか?
郡から狗邪韓国まで、七日。もちろんこれには停泊地での休息を含まない。あくまでも、実質的な航海日数として。狗邪韓国から対海国まで一日。対海国から一大国まで一日。一大国から末盧国まで一日。ま、感想程度です。
>奴國・不彌國への里程ばかりでなく、細かく考えれば末盧國から伊都國への里程も、渡海ルートと比較した場合、相対的な距離感としては正しい、とは言えないと思います。
僕は、奴国・不弥国の記事と伊都国までの旅程記事の原史料は別の書き手によるのもであると思います。
もう三年前になりましょうか、前原でbunnさんたちと当世さんたちとの共同主催だったように記憶していますが、前原市民まつりの一環で「伊都国フォーラム」がありました。そのとき、オヤジッチさんに前原から日向峠を経て春日市の奴国資料館まで車で案内してもらいました。低山とはいえ峠を越えます。峠を下って山すそを縫ったりゆるかやではありますが谷を詰めたりしながら春日まで行きました。
この伊都国から奴国までが百里と書かれています。この里の感覚は、末盧国から伊都国の五百里の感覚とは明らかに違います。
末盧国から伊都国までの里感覚は渡海千里の感覚と同じと言ってよい。
ですから、
>細部はともかくとして、大きく言って、里程表記の部分と日程表記の部分では原史料が異なるという点では見方が一致しています。
これをもうすこし詳しく言えば、伊都国までの里程表記と、奴国・不弥国の里程表記もまた原史料が違うと僕は考えています。
次に、方位について。
>遠距離間の方位があてになる方と考える方がおかしいと考えています。90度程度の誤差は許容範囲内です。
そもそも、投馬国・邪馬台国の行程記事の原史料に方位が書かれていたとお考えなのでしょうか?
まず、伊都国からどのように南へ水行するのでしょう?
水行二十日、水行十日、陸行一月と遠距離なのですからその道中方位はいろいろと変わることでしょう。
ですから、あてになるというよりも書かれていなかったと考えるのが自然ではないかと思います。
ではなぜ南と書いたのか、そこが問題ではないでしょうか?
許容範囲云々の問題ではないと考えますがいかがでしょうか?
> 一方、郭公さんは、里程史料は「自郡至女王國萬二千餘里」とともに本来女王國への道程史料であり、日程史料は畿内の邪馬臺國への道程であるが、それは女王國とは別國であり、女王國が卑彌呼の真の都であって、両者を混同したのは陳壽の誤解であるというお考えのようです。その最大の根拠は、魏略には投馬國・邪馬臺國への日程記事がなかったという想定だと思います。
いや、必ずしも『魏略』になかったと申しているのではありません。たぶんなかったろうくらいの感覚です。あってもよいのです。その場合は、
「魏志倭人伝」を「魏略」に、
「陳寿」を「魚豢」に、
読みかえればいいのですから。あるいはもっと遡ってもよいです。要は、撰者と撰者の手元にある史料という関係は変わりませんので。
最大の根拠は、不弥国からどげんして南へ水行すっと? この疑問です。
そこから考えていくと、どうやら魏志倭人伝の原史料と本文との関係が見えてきた、ということです。
ま、数年もすれば定説になることでしょう。(^o^)
大論争に発表できたことをとてもうれしく思っています。
奴国については、面白そうですがよくわかりませんので、今回はパスさせてください。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月21日(木)17時54分26秒 ]
こんばんわ。
>> 北九州から投馬国へ南に水行二十日(陸行の記述なし)とすると、
>> 四国西部が一番考えやすいと思うのです。
これはいいかもしれないが、、、
>> 次に、四国東部を邪馬台国にすればこれも方向はよさそう。
これでは、やはり南が東になってますよ。
元の発言 [ Re: 承前 ピクポポデミさん江。タイトルなんでしたっけ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(月)15時44分39秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私はどうも発音記号をみて考えているだけなので、難しいのですが、
あとは受け売りで・・・
同じ本のなかで、森氏は倭人伝中での、合口字の回避について
述べられています。
つまり合口字はワ行を表す以外には使用しなかったので、合口字が
少ないのでは無いかと推測されています。
惟はどうも合口字なので、森氏はア行もしくはワ行と判断されているようです。
例によってはっきりとは言ってもらえないのですが。
ア行であれば、語中にア行で上古日本語の法則に反する。
というわけで、誤字もしくはワ行と言うことと受け取りました。
ではワ行とすると、この字はiが強いのでwiということはないのでしょうか。
kibI=kibuiのbを聞き落とすと、kiui=支惟ということはないでしょうかね。
あんまり強引に行くのもなんなので、これ以上は押しませんが・・・
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月20日(水)18時14分50秒 ]
古韓音についてまとまった書物を探しましたが、どうもうまく見つかりません。
したがって不確かなまま書きます。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
同時代に、かなり音韻の不明確になった、β群のような仮名もあるわけですよね、
これも百済人が書いたものでしょうか。
あるいは大量に発見される木簡類はどうなんでしょうか。
呉音、漢音いろいろとあるようですが。
やっぱり字という字は、中国人が書いたのでしょうか。
>> このあたりは日本も程度の差はあれ、中国人集団はいたでしょう。
>> けれど呉音の時代に渡来してずーっと中国語を話していた
>> 中国人集団のはなしは何かに出てくるのでしょうか。
>>
百済系渡来人の言語について確かな資料はありますか。
森氏によりと、書記に引用されている百済系の文書には、
古韓音に基づくものが有るようです。
あるいは吏読というのは何を表しているのでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そういえば、日本語ももとは中国語と言う説もありましたね。
ここで出てきた語彙はどのようなものだったのでしょう。
基本語彙とか言うやつでしたか。
全部外来語かもしれませんよね。
また支配階級は中国語を勉強して、なまった中国語を話していた
可能性はないでしょうか。
>> 後漢末の大乱時に、公孫氏は地域的な平和を実現して、
>> 多くの中国人がその支配地域にやってきたようですが、
>> すると生粋上古音の人たちだけが優越していたとは言えないのではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
ようするに立証が必要ですね。
もちろん仮説としては成立するでしょうが。
>> の半島が、上古音で埋めつくされていたとするのも無理がありませんか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
公孫氏は何時やってきたのでしょうか。
>> 日本には平安時代まで、呉音を話す中国人しかいなかったと考えるようなものでは?
>>
>>
>>
>>
>>
でもα群を音訳した中国人もいたわけです。
>>
>>
>>
可能性は有ると思います。
しかし自明ではないと思います。
>>
>>
>>
>>
これもやはり自明ではないと思うのですが。
あと稲荷山鉄剣の文字をみていると、これってどちらかと言うと
倭人伝の国名リストよりも、官名の記述に近くないですか。
それと別の話ですが、まだ充分に確かめていないのですが、
ア列の音が前舌、奥舌の字が混ざっているようです。
また古韓音の魚部模韻はどんな音だったのでしょう。
もしほんとに生粋の先秦の音なら、ア列で歌韻に似た音でしょうか。
すると魚部模韻と歌韻の混ざっている、倭人伝の官名はほんとに
きれいな発音の原古韓音かもしれませんね。
ほんとに先秦の音なら、子音韻尾が生きていて、「那利」の
那と「卑奴母離」の奴が分かれていたのかも。
ただし詔書の部分は標準音なのでしょう。「難升米」になる。
原古韓音=先秦の音であるなら、「彌彌那利」はミミナリダ
てのはどうですか。
「牛利」はゴリダ。あこれは詔書中の標準音だ。
でもやっぱり仮説だと思います。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月21日(木)20時54分02秒 ]
もう一度乱入して失礼します。
上で書き居ましたが、少し古代の方への敬意が、足りないようです。
基本的な測量の本をお読みになるようお勧めします。
>> >> >> 八尺の棒でどうやって測るの?
>> >> ゴルフのピンフラッグと同じ使い方。
>> ぷぷっ。ユーモアありますね。
>> >>ゴルフをやっていると判ると思いますが、グリーンに立つピンフラッグの見える長さでその直線距離が判ります。
>> >> 古代の人は一キロくらいの距離なら見える人の大きさで目でほぼ正確に直線で判定できたでしょう。
>> >> 一キロが判れば別の基準になる道具(周髀など)を使えばもっと長い距離も測定できる。
>> つまり遠くに人が立ってりゃピンフラッグの代わりにして1キロ測れると?
>> 別の基準になる道具(周髀など)って八尺の棒だそうだから
>> 八尺の棒が立ってりゃこれもピンフラッグの代わりでもっと長い距離も測れると?
>> 人の上背6尺だからもっと長い距離って1.3キロくらいかな?
>> やっぱり対馬はムリそうねえ。
軍隊の訓練もご存知無いのですか?
戦争映画でもご覧になり訓練シーンでも、確かめられたら。
>>
>> >> >> 見えないのにどうやって?
>> >>韓国から対馬は見えるでしょ。対馬から壱岐も。壱岐から東松浦半島も。
>> >>あれ、ひょっとして見える事しらなかった?
>> しらなかった。韓国から対馬に立ってるピンフラッグが見えるなんて。
>> しょにょ1) 海の距離をフラクタルで櫓を漕いだ回数で距離を測ったなどと
>> しょにょ2) 船を何時間漕いだかで距離を推定するより目視の方が正確。
>> しょにょ3)韓国から対馬が見える事すら知らず(ピンフラッグが!?)
>> 3つともあなたの妄想みたいなんですけど。
>>
>> 正確な距離を出したとは言っていません。
>> >> 船を何時間漕いだかで距離を推定するより目視の方が正確。
>> なんでしょ?
>> >> 長里派は目視できる60kmの距離を
>> 島が見えるだけでどうやって60kmの距離を測ったの?
>> >> 貴方も人の事を言う前に自分で海の上でどうやって距離を出したか、その方法を明らかにしなさい。
>> だから何度も言ってるんだけどわかんないかなあ。海の上で距離は出せないって。
>> >> と言うか貴方は知らなさ過ぎ。
>> 何を?
単納品でも使い様だと、言う事です。
これ以上書くと、本とに誹謗になりますので止めます。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月21日(木)13時18分02秒 ]
中国人というのは、旅の記録を残すとき、必ず方位を入れたんでしょうか。
方位を入れない旅行記はありえないのでしょうか。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月21日(木)21時14分46秒 ]
>> >> 次に、四国東部を邪馬台国にすればこれも方向はよさそう。
>> これでは、やはり南が東になってますよ。
はい、たしかに銅鐸が集中的に出土する鮎喰川流域
を都とすると東ですね。
「方位感覚のずれ」をもってしても東南ですか。
さすがに「吉野川をさかのぼって山奥まではいれば」
とかは言いません。
気になっているのは、瀬戸内海での航行速度です。
東西方向に潮をうまく利用したとすれば、
南進と思えてしまうのかな、と。
瀬戸内海模型の巨大水槽で最適航路を
探す実験をやりたくなってきました。
PCでのシミュレーションでもいいかな。
でも、すでにやられているかなあ?
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)18時17分04秒 ]
>>
>>
>>
>>
面白いんですけど、当時の緯度の測定は、
どの程度正確にされていたのかが、気にかかるところですね。
夏至や冬至、また、彼岸の時の正確な日の出や日没の方向は、
縄文時代から村村でも、わかっているでしょうけど。
そう言えば、神社や遺跡が同一緯度の上に、並んでいると言う話もありますね。
色々否定されたりしてるようですけど、これが正しいなんて事だと、
なおさら面白いんですけどね。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月21日(木)22時16分54秒 ]
>> >> >> 次に、四国東部を邪馬台国にすればこれも方向はよさそう。
>> >> これでは、やはり南が東になってますよ。
>> はい、たしかに銅鐸が集中的に出土する鮎喰川流域
>> を都とすると東ですね。
>> 「方位感覚のずれ」をもってしても東南ですか。
>> さすがに「吉野川をさかのぼって山奥まではいれば」
>> とかは言いません。
>> 気になっているのは、瀬戸内海での航行速度です。
>> 東西方向に潮をうまく利用したとすれば、
>> 南進と思えてしまうのかな、と。
>> 瀬戸内海模型の巨大水槽で最適航路を
>> 探す実験をやりたくなってきました。
>> PCでのシミュレーションでもいいかな。
>> でも、すでにやられているかなあ?
こないだ、と言っても何時だったけ?
NHKの環境問題の番組で、瀬戸内海の海底の海草森林の問題で、
やってた、西半分の潮流のシュミレーション映像があったけど、
あれが其のものじゃないですかね。
あと、こないだどのHPだか忘れたけど、
弥生時代の鉄器の製造の可能性がある遺跡が、
四国で見つかったなんてのが有りましたが、
四国も相当な先進血のようですね。
まあ、わざわざ四国まで、やじり用の石を取りに言ってるようだから、
重要な場所に違いは無いのでしょうが。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月21日(木)20時54分02秒 ]
>> >>韓国から対馬は見えるでしょ。対馬から壱岐も。壱岐から東松浦半島も。
>> >>あれ、ひょっとして見える事しらなかった?
>> しらなかった。韓国から対馬に立ってるピンフラッグが見えるなんて。
なんか負け惜しみのように聞こえますね。
>> >> 船を何時間漕いだかで距離を推定するより目視の方が正確。
>> なんでしょ?
>> >> 長里派は目視できる60kmの距離を
>> 島が見えるだけでどうやって60kmの距離を測ったの?
>> >> 貴方も人の事を言う前に自分で海の上でどうやって距離を出したか、その方法を明らかにしなさい。
>> だから何度も言ってるんだけどわかんないかなあ。海の上で距離は出せないって。
それで釜山と対馬の距離を435kmもあると思った訳?
>> >> と言うか貴方は知らなさ過ぎ。
>> 何を?
目でようやく視認出来る程度の距離なら少なくとも100km以下だ位は判るでしょ。
少なくとも遼東半島と山東半島の距離よりは短い事はわかっていた。
片や対岸が見えず、一方は見えるのだから。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月21日(木)22時38分48秒 ]
四国はなかなかおもしろいとは思うのですが、、、
どうも都というには、ちょっと???
かなり影響を与えているのは事実だし、こじつけ
かもしれませんが、後に弘法大師がなぜあれだけ
四国に向かったのか?何か情報を持っていたのでは
と思ってしまいます。
弘法大師は、四国のいろんな鉱山などを開発した
とか言われていますが、山師ではないので、それなり
に何か情報を持っていたのでは。
ということから、あまり古代史には出てきませんが
四国の太平洋岸の高知などから、何かおもしろいも
のは出てきてないのでしょうかね?
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月21日(木)17時41分17秒 ]
>> う〜ん、困りました。
>> 私の場合、電車で何度も通った場所を地図で改めて確認してみると、南のように思っていた場所が東南であったり、北のように思っていた場所がほぼ東であったりします。
余談だけど、(^o^)
松本から夜行に乗ると早朝名古屋から京都へ向かう。
頭の中では西へ進んでると思ってたのに、太陽が右から上がった。「えっ? なんで北から?」
地図を見ると、名古屋から大垣あたりへは線路そのものが北を向いてるのよね。
って、これだけの話なんだけど。
僕もけっこう方向音痴です。(^^ゞ
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月21日(木)21時39分43秒 ]
>> もう一度乱入して失礼します。
>> 上で書き居ましたが、少し古代の方への敬意が、足りないようです。
敬意と空想とは違うよ。
>> 基本的な測量の本をお読みになるようお勧めします。
あなたは読んだならどう測ったか説明できるんでしょう?
説明してよ。
>> 軍隊の訓練もご存知無いのですか?
>> 戦争映画でもご覧になり訓練シーンでも、確かめられたら。
どういう訓練?
あなたは映画を見たんだから説明できるよね?
>> >> >> と言うか貴方は知らなさ過ぎ。
>> >> 何を?
>> 単納品でも使い様だと、言う事です。
はさみの使い方を?
知らないんだから説明してよ。
説明できないならあなたも知らないって断定するけど、いいね?
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月21日(木)23時15分29秒 ]
>> >> しらなかった。韓国から対馬に立ってるピンフラッグが見えるなんて。
>> なんか負け惜しみのように聞こえますね。
幻聴ですね。なぜって負けてるのはあなただもん。
で、ピンフラッグは見えるの?
ピンフラッグで測るんじゃなかったの?
>> 目でようやく視認出来る程度の距離なら少なくとも100km以下だ位は判るでしょ。
どうして100km以下だとわかるの?
ピンフラッグ見えないのに。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)18時17分04秒 ]
>>
>>
海人の感覚について、参考になるHPを紹介します。
http://leahi.kcc.hawaii.edu/org/pvs/
The Polynesian Voyaging Society のHPです。
この協会では、時計も方位磁石も無い頃の
大洋を渡る航海術を実証・再現しています。
(この実証過程では犠牲者も出しています。)
太陽や星を利用している事は当然なのですが、驚くべき事
に、曇っていて太陽や星が見えなくても、陸票の見えない
大洋で、カタマランをナビゲートしています。さらには、
"Seamarks"なるもので大洋中での位置をチェックしている
そうですが、この海票たるや、「魚群を見た所」だの
「鳥の群れを見た所」だの「流木を見た所」だの・・です。
明らかに、距離や日数といった感覚とは全く異なる感覚
でナビゲートしているものと思われます。
ナビゲートについては下記のURLに記述があります。
http://leahi.kcc.hawaii.edu/org/pvs/navigate/navigate.html
http://leahi.kcc.hawaii.edu/org/pvs/navigate/wayfind.html
古代の海人が、航海中に自分の位置を常に知っていたのは
多分そうだろうとは思いますが、それは方位/距離/日数と
いう概念とは全く別の概念だったのではないでしょうか?
それを中国人に通訳を通して正確に伝えられたかどうかと
なると、かなり疑問に感じます。
ちなみに、既に時計も方位磁石もある時代ですが、
大正から昭和にかけて「サバニ」というくり舟を駆使し、
太平洋からインド洋に及ぶ広大な海域を漁場とする漁民
がいたそうです。この人達の航海術も、参考になるかも
知れません。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月19日(火)22時54分51秒 ]
>>
私には、王様はボロを着ているのがよく見えます。で、ここもボロ、あそこもボロと指摘しているのに、王様はたいへんすばらしい仕立ての服を着ていると主張されると、・・・返答に困ります。屁理屈など、どんな立場に立ってもいくらでも提出できますから。おにりんさんの好きなディベートってのは、そういうことでしょ?議論に勝つことが目的であって、議論を通じて真実を求めているわけではない。
そうなら、どちらの屁理屈がよりすぐれているかは、オッカムの剃刀で判定するのがよろしい。勝敗は明らかです。最初から蒸し返しましょうか。
[1]韓国は陸行です。なぜなら、方四千里の韓地が7千里−αと書かれている。陸行だとすれば対角線の数字として順当ですが、これを水行だと主張するには、私には難しすぎて理解できない屁理屈が必要になる。
>>
>>
>>
だから、私は最初からそう言っているじゃありませんか。対馬〜壱岐が千余里と書いてあるのだから、それを物差しの基準にしたらよろしい。度量衡の単位がいろいろあったから、始皇帝が単位を統一したんでしょ。でも秦の版図でなかった辺境には古い単位が残っていたとしても少しも不思議ではない。現に韓伝・倭人伝と言う文献の裏づけがある。べつにおにりんさんが最近思いつくまで誰も考え付かなかったわけではない。
>>
>>
あほくさ。それこそ、どこにそんな証拠があるんじゃろ。
>>
>>
別に、単なる仮説でしょ。でもあまり優れた仮説じゃないのは私も同感。
>>
>>
>>
EK短里説は「学問」と認めていただけたようで、光栄です。
>>
>>
>>
そのとおりです。九州王朝仮説によって、大和一元説では説明できない多くの事象がうまく説明できるのは、今月号で紀さんがいろいろ書いておられる。
そして現状は、誰もあまり反論に成功していないので、みんなで無視すれば怖くない状態。例えば磐井が行政権・軍事権を持っていたのは明白、さらに外交権も持っていたと思われる。つまり、継体の政権と同等の国家であった、と考えることはごく自然です。むしろ、この時代に日本が統一されていたと考える根拠の方が乏しい。
>>
全然。イデオロギーにしてしまったのは古田本人だから。他人がイデオロギーを主張することは口汚く非難するくせに。
>>
・・・
>>
そうなんですか?私は結構古田ファンしてますが、山田某などの名前は知りません。誰が言っているのか知りませんが、古田は参謀を必要とするタイプではない。古田氏は自分の面倒は自分で見ているんじゃないのかしら。
>>
>>
ない、ない。韓・倭ローカル短里はもっと起源が古いと考える方が筋が通っています。
最近、短里=九州説の論客が元気で、あちこちでバトルが行われているのはたいへん結構なことです。
わたくし、今、いれずみのことを訳あって調べています。しかし、資料がなかなか思うように見つからず、困り果てています。大論争に水を差してすいませんが、情報を提供してもらえないでしょうか。そもそもいれずみとはいつ、どんな目的で行われていたのか。また、いれずみ(刺青・入れ墨)という二つの漢字の意味の違いはあるのか。いれずみの歴史について教えて下さい。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月21日(木)22時38分48秒 ]
>> こないだ、と言っても何時だったけ?
>> NHKの環境問題の番組で、瀬戸内海の海底の海草森林の問題で、
>> やってた、西半分の潮流のシュミレーション映像があったけど、
>> あれが其のものじゃないですかね。
なるほど、調べてみるとよさそうですね。
自力でデータ入れたり、プログラム組んだりするのは大変だから。
>> あと、こないだどのHPだか忘れたけど、
>> 弥生時代の鉄器の製造の可能性がある遺跡が、
>> 四国で見つかったなんてのが有りましたが、
>> 四国も相当な先進血のようですね。
考古学の本を読んでいると、そのように感じます。
でも、こういうことって、それぞれの地域の
考古学に興味ある人しか知らないんですよね。
まあ、現代の勢力で古代の勢力を計っても
しょうがないと思います。
>> まあ、わざわざ四国まで、やじり用の石を取りに言ってるようだから、
>> 重要な場所に違いは無いのでしょうが。
古代人は海洋航行に優れていたのでしょうね。
そこで疑問に思うのは、仮に
四国西部の四万十川河口まで20日、
四国東部の吉野川河口まで10日だとして、
これはかなり早いのだろうか、ということです。
沿岸航行なのかどうかを含めて、考えたい問題です。
瀬戸内海航路のほうは畿内説で調べられているような
気もするけど。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月22日(金)00時18分37秒 ]
>> 四国はなかなかおもしろいとは思うのですが、、、
>> どうも都というには、ちょっと???
当時の西日本の中心か、といわれれば違うかもしれません。
しかし、女王国が四国の範囲内であったとすると、
それほど変な話ではないと思っています。
(東に倭種ありと記述されていますし。)
この地域の銅鐸の出土や前期古墳の様子から、
弥生時代から古墳時代にかけて勢いを感じます。
>> かなり影響を与えているのは事実だし、こじつけ
>> かもしれませんが、後に弘法大師がなぜあれだけ
>> 四国に向かったのか?何か情報を持っていたのでは
>> と思ってしまいます。
>> 弘法大師は、四国のいろんな鉱山などを開発した
>> とか言われていますが、山師ではないので、それなり
>> に何か情報を持っていたのでは。
密教の法具などを自前で作ろうとすると、
どこでどのような鉱石がでるかを
詳しく知っておかねばならないでしょうね。
四国は鉱物の種類が豊富です。
特に、徳島の若杉山遺跡(弥生時代からの辰砂採掘砕石遺跡)
は、その流通を含めて興味深いです。
弘法大師もここに来てましたね。
弘法大師といえば、遠祖を日本武尊の東征に従い
武功のあった大伴建日連と主張してますが、
どうやら現代では否定されてますね。
確実にそのことを否定できるような信頼できる史料が
あるということなんでしょうか。うーむ。
>> ということから、あまり古代史には出てきませんが
>> 四国の太平洋岸の高知などから、何かおもしろいも
>> のは出てきてないのでしょうかね?
四国西部(高知西部+愛媛西部)は銅矛圏で、
銅鐸が一切出てきません。
九州とのつながりが強い所です。
ここは縄文時代から先進地だったようで、
巨石群で有名な遺跡がいくつかあります。
高知東部は銅鐸圏で、徳島や香川との
つながりが強いように見えます。
高知は古墳がほとんどなく、近畿圏の影響は
それほど強くなさそうです。
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)23時59分05秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
むろん私がβ群と言ったところでどれほどの理解を持っているわけでもないのです。
受け売りですが、β群では例えば「か」を表す文字に、複数の子音と複数の母音に
またがる文字が使われています。
もしもこれが音韻の区別がつかないがゆえに起こっているのであれば、
そしてこの音の違いが中国語の意味の違いに結びつくのなら、
この仮名の作者は、文字としての中国語は使えても、音声としての
中国語は使えなかったことにならないのかな、と思ったわけです。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
この人たちは、英語の音素を聞き分けられるのでしょうか。
それとも聞き分けられなくて、単語とかも滅茶苦茶になっているのでしょうか。
>>
>>
>> あるいは大量に発見される木簡類はどうなんでしょうか。
>> 呉音、漢音いろいろとあるようですが。
>>
>>
>>
すると呉音あたりが生粋の中国語に関しての、日本人の原体験だったのでしょうか。
>> あと稲荷山鉄剣の文字をみていると、これってどちらかと言うと
>> 倭人伝の国名リストよりも、官名の記述に近くないですか。
>>
たとえば「獲加多支歯」ですが、国名リストには一字もない歌韻の文字「多」が使われていて、
この「多」は官名の「多模」に出てきます。
いずれにせよもうちょっと古韓音を調べてみます。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月22日(金)00時32分54秒 ]
ある意味率直な、お尋ねですので、お答えしましょう。
聞けばなんだと言う事です。
先ず軍隊の件から、話しましょう。
一番最初に、小銃の射程距離を叩き込むはずです。
玉が届かないのに撃つような、馬鹿な真似しない様に。
それには、いろんな条件で、如何見えるかをし込みます。
命が懸かってますからね。
ベテランの下士官に成ると大変な精度ですよ。
また、敵と近すぎるのに大砲の援護を、要請して一緒に吹き飛ばされるなんて、
馬鹿な事が無い様にね。
1目見ただけで、測るし。
前線で、将校が砲撃をコントロールしてるシーン道具も無いのに益せ500とか落とせとか。
>> 敬意と空想とは違うよ。
まさか、弓で猟をする猟師が、弓の有効射程を一目でわから無いなんて、主張されるお積もりは、無いでしょう。
獲物を見つけて、ここからは届かないのに撃つなんてことは、しませんよね。
そして、地形を見た上で、確実に有効な射程に収められる
風下の場所を一目で数箇所選ぶはずです。
古代は、軍隊も装備は弓ですから其の射程を一目で見抜くなど当たりまえのことです。
弓の射程は実験で測定できますからね。
>> >> 基本的な測量の本をお読みになるようお勧めします。
>> あなたは読んだならどう測ったか説明できるんでしょう?
>> 説明してよ。
>>
>> >> 軍隊の訓練もご存知無いのですか?
>> >> 戦争映画でもご覧になり訓練シーンでも、確かめられたら。
>> どういう訓練?
>> あなたは映画を見たんだから説明できるよね?
>>
>> >> >> >> と言うか貴方は知らなさ過ぎ。
>> >> >> 何を?
>> >> 単納品でも使い様だと、言う事です。
>> はさみの使い方を?
>> 知らないんだから説明してよ。
>> 説明できないならあなたも知らないって断定するけど、いいね?
次に測量ですね。
簡単な事です。
まず、測りたい村の基準に決めた場所に垂直に立てる。
其処から見える、確実に見渡せる山などを選ぶ(観測点)。
其処に行、その場所と基準点の距離と角度を測る。
見える場所なら、はかれるでしょ。
また、確実に連結して測定できるなら、基準点から見えなくても良い。
複数の、観測点から目標の島の目印となる点を決めて角度を測定する。
島に渡った後、其の目印の場所と方位距離角度などが村から測定できれば、直線距離も出る。
こんなもんですけど。
専門ではないので、正確には、説明できないけど。
三角の組み合わせと理解できれば、良いだけです。
簡単でしょう。
だから、使いようなんです。
元の発言 [ 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月1日(金)09時50分09秒 ]
今回,取り急ぎです。
>> 3 「紀」の神功紀の39年項等に、“魏志に云く”として、卑弥呼(名前はでていな
>> いが)の朝貢記事を載せているが、どうして神功と卑弥呼が同一人物といえるのか?
その辺りのことは,岩波文庫版『日本書紀』の補注(巻第八),
などが参考になります。
>> 390年頃といえば、倭王讃の時代であるが、讃に比定されている仁徳天皇などに
>> 事跡としては、どこにもない。
岡田英弘著『倭国』(中公新書)の第135頁に,
「倭讃には何の沙汰もなかった」
「倭王は東晋朝から官位を受けていなかったからである」,
という一節があり,
この問題を探る上でも参考になるかもしれません。
>> 6 倭王武は、雄略天皇に比定されているが、倭王武は高句麗と戦っているのに、
>> 「記・紀」には全くでてこない。
倭王武の上表文の場合,
高句麗の無道を訴え,援助を乞うてはいるが,
「居しく諒闇にあり,兵甲を動かさず」とあるので,
具体的に戦っているようには読めません。
雄略紀二十年・二十一年の記事参照。
また,雄略紀八年の記事では,膳臣等が,
新羅と高句麗の紛争に介入し,
奇兵を用いて高句麗を大破,新羅を救っています。
>> 8 武の上表文(昇明2年)に、“奄に父兄を喪い、垂成の功を一きに獲ざらしむ”と
>> あるが、雄略の父たる允恭や兄の木梨軽皇子・安庚が、不慮の死を迎えたというよう
>> な形跡はどこにもない。
ここの文脈は,前倭王が対高句麗戦の準備を整えたが,
にわかに亡くなったので,出兵を断念した経緯がある,
という意味です。
倭王武が,その遺志を継ぎたいので,
支配権を認めてくれ,というわけです。
>> 9 継体天皇の崩年は、
>> ・ 「記」では、527年(丁未)
>> ・ 「紀」では、本文では、継体25年(丁未)として記と一致するが、註記に
>> は、「或本に云ふ、天皇28年に崩ず。崩ずと云ふは、百済本記を取りて文を
>> 為す。
>> (中略)また聞く、日本の天皇及び太子皇子倶に崩薨すと。之に由りて言ふ。
>> 後勘校する者知らん。」
>> となっている。
>> しかし、継体天皇の子のうち、主だった安閑・宣化・欽明などは、その後天皇を
>> 継承しているということは、この百済本記とは全くあわない。
>> したがって、百済本記の記事は、継体天皇ではないことを物語っている。
案外,「武烈王家」のことかもしれませんね。
跡継ぎがなかったことになっているけど。
この辺り,現在,推理中ですので,
この程度にしておきます。
>> この時点で、近畿天皇家で、「日本」という国号をしようしたという形跡はどこに
>> もない。
これは日本書紀型の表記ではないかな。>やまと
>> これらから考えると、中国・朝鮮半島側の史書に記された「倭国」は、近畿天皇家で
>> はありえない。
以上の点,もう少し煮詰めるべきかもしれませんね。
>> また、これだけの事跡が記されているので、“日本にとって都合の悪いことは、カット
>> しのだ”というような詭弁は許されないはず。
『日本書紀』編集上の資料整理や方針を探る,
といった調べ方もあります。
元の発言 [ 入れ墨についてお聞きしたいのですが・・・・。 ] お名前 [ ぐっち ] 日付 [ 2月4日(月)18時52分40秒 ]
>> わたくし、今、いれずみのことを訳あって調べています。しかし、資料がなかなか思うように見つからず、困り果てています。大論争に水を差してすいませんが、情報を提供してもらえないでしょうか。そもそもいれずみとはいつ、どんな目的で行われていたのか。また、いれずみ(刺青・入れ墨)という二つの漢字の意味の違いはあるのか。いれずみの歴史について教えて下さい。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) 余談ですいません。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月22日(金)00時45分32秒 ]
たしかに絶対的な方位はわからないと思いますが、
一時、北を向いていることがあっても、全体で
西をむいていれば、西でしょう。
たとえば、名古屋から東京まで水行20日とすれば
やはり名古屋至東京東水行二十日ではないですか。
実際は、伊勢湾を抜けるのに、南というか南南西位
かな、だけど太平洋に出てから東へ向かうわけです。
また東京湾で北東に入るけど、やはり全体でみれば
東水行二十日と書くのではないかな。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)23時37分54秒 ]
>>
有ったとは、想っていませんが、当時の天文でも、北極星を
紫ビ宮なんて言って不動の天宮なんて言ってましたよ。
また、北極星も今とは違っていたようですけど。
この水平線からの角度の概念はなかったのかと、考えているんですが。
>> 夏至や冬至、また、彼岸の時の正確な日の出や日没の方向は、
>> 縄文時代から村村でも、わかっているでしょうけど。
>> そう言えば、神社や遺跡が同一緯度の上に、並んでいると言う話もありますね。
>> 色々否定されたりしてるようですけど、これが正しいなんて事だと、
>> なおさら面白いんですけどね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
南と北では、北極星の高度が違うことは、知られていたと想いますし。
元の発言 [ Title ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月21日(木)14時01分16秒 ]
紀さん こんにちは。
タイトルが無かったので勝手に付けさせていただきました。
>> また、本州と理解していたら、会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東という
>> ことは、どう説明できるのだろうか。
#下北半島はともかく本州も近畿辺りまでなら古田氏の言う会稽東治(禹の治績領域)の東になりますね。
#たしかに会稽郡東冶県なり、会稽東冶五県(呉志呂岱伝)とあるように郡南部をいう成句ということであれば、その東には本州どころか九州島すらありません。
#しかし、陳寿が本州と理解していたら、「陳寿は倭国を南北に連なる島国と誤って認識をしていた」という想定を持ちこめば説明ができます(こう描かれている古地図もあるようです)。
#それはともかく、、、
倭国の位置は冒頭で「帯方東南大海之中」と明記しています。
この冒頭説明で読み手は、漢書のいう楽浪海中(燕地条)の倭人の国は半島の東南の海域、すなわち大陸の東海域に位置するであろうことは理解できたはずです。
と同時に、その東海域のうちでも会稽海外(呉地条)には東?人の国が有ることも理解していたはずですから、冒頭説明だけで総論的な倭国の位置説明はほぼ尽きています。
(行程記事は地理志的な各論とも言うべきものでしょう。この各論によって、大海が「半島の東南」というよりも「半島の南」であることが解ります。)
そもそも陳寿は何故、冒頭説明に加えて(というよりも、倭国の位置を会稽海外に訂正するような)、「会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東」と再説明する必要があったのでしょうか?
元の発言 [ Title ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月21日(木)14時01分16秒 ]
確かに、地理的には九州くさいと見るほうが、
穏当とは思いますが・・・
「山島」については,他に読み方もあるでしょう。
例えば,国邑の目印を「山」や「島」とする国柄とか。
>> また、本州と理解していたら、会稽東治(東冶と改訂しても
>> 同じ)の東ということは、どう説明できるのだろうか。
西日本なら妥当な圏内でしょう。
そもそも,「会稽東冶の東」という表現の意図については,
いろいろ言われているし,
狗奴国の風俗との混同という考え方もあるようです。
>> この末盧国から邪馬壹国までの間の記述に、
>> 『海を渡る』という表現はどこにもない。
関門海峡は狭いですから,渡海という表現を取らずとも,
海岸に沿う意味での「水行」で通じるような感じもします。
周旋5千里は,狗邪韓国から邪馬台国までの距離なのか,
九州島一周のことなのか,よく分からないが,
前者でしょう。
この場合,文字通りであれば,北部九州から600キロ位。
大げさな表現を割り引けば200キロ位か。
ただし,「水行二十日/水行十日陸行一月」という表現からは,
それが文字通りなら,畿内説のほうが妥当でしょう。
以下は,
「ときめきゼミナール・講義編」というサイトを見ての,
感じたことです。
門脇禎二先生「文献学者から見た吉野ヶ里」
http://www.sagatokimeki.ne.jp/kouza/chishiki/schooling/kogi3.html
# 九州説
「ほとんどの文献学者が近畿説」だが,
氏は「邪馬台国,大和朝廷断絶説」で,
「九州説にたつ文献学者」ということ。
最近の九州王朝派は,古田説より門脇説かな。
佐原真先生「吉野ヶ里から見た考古学」
http://www.sagatokimeki.ne.jp/kouza/chishiki/schooling/kogi4.html
# 畿内説
竹の矢の記述だけは「絶対に九州」のものだそうです。
「倭国の乱」に最も近いのは「鳥取県青谷上寺地遺跡」
西谷正先生「朝鮮考古学と吉野ヶ里 」
http://www.sagatokimeki.ne.jp/kouza/chishiki/schooling/kogi2.html
日本の環濠集落は「朝鮮半島南部が起源」との説。
環濠集落そのものは,
「中国の南部」の「大規模な環濠集落」で,
これは治水用とのこと。
石野博信先生「弥生から古墳へ」
http://www.sagatokimeki.ne.jp/kouza/chishiki/schooling/kogi6.html
箸墓説については懐疑的になっているようす。
卑弥呼の墓についての推理は・・・サイトを御覧下さい。
纒向遺跡から畿内説に立つと,狗奴国は東海地方とのこと。
# 話題満載
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)23時59分05秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
非常にひずんだ方言であっても、言語である以上は体系があるのではないでしょうか?ります。しかし、β群は単一の体系によるものではないというのが、森氏の考えのようです。例えば、中公新書の89頁。
「β群では倭音に基づく仮名が数多く用いられています。また漢音系のみならず呉音系の仮名も用いられています。複数の字音体系に基づく仮名が混在しているのです。β群では既成の仮名が少なからず利用され、漢字の原音(中国音)や単一の字音体系による吟味が行われなかったのです。」
>>
>>
これは「トンデモ本」だと思います。国語学や中国語学の研究者で、岡田説を評価する人は皆無だと思いますが。オニリンさんは、評価されますか?
>>
>>
>>
>>
ちょっと根拠が薄弱だと思います。
>> また古韓音の魚部模韻はどんな音だったのでしょう。
>>
>> もしほんとに生粋の先秦の音なら、ア列で歌韻に似た音でしょうか。
>>
>>
「日本で作られた漢詩で魚部模韻字がア段で押韻しているもの」という意味ですか? それなら大発見ですね。是非思い出して下さい。
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ 斧折三 ] 日付 [ 2月21日(木)02時22分47秒 ]
>> お久しぶりです。ピクさんは本質的に考えようとする姿勢が窺えて、愉快です。
>> 前回、謎めかして書きましたが、分かる者には分かるし、分からない者には分からない。ピクさんには分かるでしょう。「君子は画さず。」
なかなか謎はとけませんね。
ところで古韓音について何か知りたいとしたら、どのようなところをあたればよいのでしょう。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月22日(金)00時55分04秒 ]
>> >> >> しらなかった。韓国から対馬に立ってるピンフラッグが見えるなんて。
>> >> なんか負け惜しみのように聞こえますね。
>> 幻聴ですね。なぜって負けてるのはあなただもん。
貴方は韓国から対馬が見える事知らなかったでしょ。
>> で、ピンフラッグは見えるの?
>> ピンフラッグで測るんじゃなかったの?
>> >> 目でようやく視認出来る程度の距離なら少なくとも100km以下だ位は判るでしょ。
>> どうして100km以下だとわかるの?
>> ピンフラッグ見えないのに。
島が見えただけで、その見え具合で距離が推定できると思いますよ。
これ船乗りの常識。
島影が水平線の彼方に僅かに見える状態で、しかも古より何度も人が往復していたのに距離が判らなかった?
本当に魏使は金海−対馬を435kmもあると思って船出したと思っているの?
対馬ー壱岐を10日以上掛かる距離だと考えて出発したと言うの?
どのくらいの日程で到着するか見当もつかない状態で魏使が郡を出発したと言うのでしょうか?
魏使は当ての無い冒険旅行をしたのでしょうか?
それは畿内説の日本海航行説に通じるトンデモです。
邪馬台国を畿内に持っていくためには倭人伝が間違いだらけでなければならないのでしょうね。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月22日(金)13時05分23秒 ]
>> 一番最初に、小銃の射程距離を叩き込むはずです。
>> 玉が届かないのに撃つような、馬鹿な真似しない様に。
>> まさか、弓で猟をする猟師が、弓の有効射程を一目でわから無いなんて、主張されるお積もりは、無いでしょう。
聞けばなんだ。
ゴルフの話と同じレベルでないの。
いまは何十キロ測るって話なんだけど。
>> 弓の射程は実験で測定できますからね。
ランスショットとかカノンショットとかいう単位もありますもんね。
>> 其処に行、その場所と基準点の距離と角度を測る。
それ三角関数ないと無理。
ぼくも簡易測量の実習やったから
三角関数使わないやりかたも知ってるけど
そーゆう方法が古代にあったって証拠がない。
コロンブスが卵を立てられたからってピリレイスも立てられたって言えないでしょ?
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月22日(金)10時28分26秒 ]
>>
>>
#「郡」の領域内が「−α」です。これが1400里ならぴったり7000里。
>>
>>
#これは近い方が良い問題ではありませんね。1里でも大きければ×。
3世紀の中国人を馬鹿にしていると言う意味で2重に×。
むしろ、狗邪韓国は韓国の東南端から西へ千里寄ったところだ、というほうがましな屁理屈です。
>>
>>
#だから、こういうのが私にはボロに見える。こんな無意味な屁理屈は、少ない方が勝ちというのがこのゲームのルールです。まだルールがわかっていませんね。
>>
>>
#4000+4000 = 7000 でいいじゃないか、といわれて読者が納得するわけが無い。単純な足し算がなりたたない読み方を取り繕うには、またまた屁理屈が必要。バツ。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月22日(金)10時28分26秒 ]
テーマ分けます。
>>
>>
>>
>>
#そうですね。別に私は古田短里説が正しいとも思っていません。陳寿は短里の概念を持っていなかったろうと思います。
>>
>>
#「属す」ってのは、歳時を持って来たりて・・・っていう程度ではないでしょうか。税金を納めていたはずはないし。
>>
>>
>>
>>
>>
短里には少なくとも韓伝・倭人伝という「文献」があります。古田があげている証拠にも誤りと言いきれないものもあるし。繰り返しますが、度量衡の統一はそれほど簡単ではないので、様々な単位があって不思議はありません。日本が尺貫法からメートル法へ移行するのにどれほどの時間とエネルギーと情熱(1世代に渡って、小学校で徹底的に換算を教えた)を割いたかを考えればわかります。「考古学、文献学からはっきりわかっている」という単純な主張はそれだけで疑わしい。例えば、隋では435mで統一されていたのに、唐に代わったらあるひ条例1本で500mに、全国が統一された、はずがない。
>>
>>
あはは、まったくすれ違っていますね。
>>
#その、ラベル貼りはあなたの品性をおとしめています。
磐井の権力が外交権と呼びうるものまで含む相当自立したものであることは明白です。継体の政権とどこがどう異なるのか、それを議論することは学問だと思いますが。
>>
>>
私はたいした知識を持っているわけではありません。
しかし、私の乏しい知識で判断できる分野では、専門家が非常にいいかげんな議論をしていると感じることがあります。そうだとすれば、私に知識が無くて議論に参加できない分野でも、似たようなレベルなんだろうと思いますね。
例えば議論が途中でついていけなくなった、甲乙の問題があります。
彦と矛の甲乙の違いは、游維さんの理論では、どうなるんだろう、ってのは興味があります。
おにりんさんは、権力とはなんだろうか、国家とはなんだろうか、とまじめに考えたことがありますか。例えば、鎌倉幕府というのは、東国の武装小領主間のあらそいの調停・裁判を行うのが唯一の仕事であり、その限りにおいて、小領主がその権威を認めたもの、のように思えます(通じました?)。ところが、外国の侵略に対しては、日本国を守るために命をかけて戦っている。それは、なぜなんだろう、とか。
継体のころの国の形はどんなだったんだろう、と私は思い巡らしていますよ。
>>
>>
>>
>>
#そりゃあたりまえですね。しかし、それまでにない視点から、それまでよりずっとすっきりした説明をいろいろと提案した古田の功績は実に大きい。
古田九州王朝説も大和説も、同じ程度に説明ができる部分と納得のいかない部分があるとすれば、両方とも同じ程度にトンデモであるか、同じ程度にまともである。
>>
>>
>>
提案。ご自分の発言をエディタで、古田 → おにりん、大和 ←→ 九州、と変換をかけて読み直したら結構面白いかも。私は時々それをやってあげていますけど。
>>
>>
>>
#そうそう。九州説バトルロワイヤルを何度か提案したんだけどな〜。でもね、せっかくバトルロワイヤルが始まっても、おにりんさんが大和説でちょっかい出すから迷走してしまう面が結構あります。
>> ない、ない。韓・倭ローカル短里はもっと起源が古いと考える方が筋が通っています。
>>
>>
私は、わかっていないことを、ああかもしれない、こうかもしれない、と論じるのにはあまり興味がもてません。公孫氏の国が韓・倭と同じ短里を使っていても不思議はありませんが、それが正しかったと仮定しても、公孫度が勝手に作ったわけじゃないでしょう。起源はもっと古いはず。
周代の里単位について、私が知っているのは、古田が短里が正式の単位だったいっていること、安本がそれ自体には反論していないこと、おにりんさんが420mだったと主張していること、だけです。
自分で調べるのは結構エネルギーが要るから、誰か議論してくれないかな〜と他力本願しています。>誰か。
元の発言 [ Re: 承前 ピクポポデミさん江。タイトルなんでしたっけ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月3日(日)01時26分29秒 ]
>> 倭人伝には明らかに魏代の音訳(詔書の部分とか)ありますから、
>> 時代の違う音訳がありそうという話になります。
>>
>>
>> 女王国の絡む部分にくらべて、21ヶ国リストはかなり古い可能性がある。
>> #あ、夜が明けてきた。
>>
倭人伝の国名リストの形成ですが、以下の様に想定してみました。
1.前漢代、分かれて百余国の時代
中国産遺物の北部九州集中の考古学的な状況から、おそらく献見したのは
怡土郡や那珂郡のクニが中心であり、分かれて百余国は伝聞ではないか。
別に百余国が献見して、百余国のリストが出来ていてもいいが・・・
2.新代
漢書 王莽伝に
(元始五年)東夷王度大海奉国珍
とあるので、前代につづき、この時代にも献見はあったのでしょう、
元始五年よりはかなり遅れるが、新代に発行された貸泉が弥生後期
初頭の西日本から広く多量に発見されるので、新との交易は相当に
あったのかもしれない。
私としては新代の間に、北部九州主導で、倭人の国々の献見があり
西日本各地の国名のリストが形成されたと思う。
3.後漢代初頭
後漢書に
自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統
の記述がある。
この記述は、あとに続く
其大倭王居邪馬臺國
とともに、倭人伝を参照しての作文とされるが、私は実際に
これに類する記録があったものと思う。
実際に三十許國がそれぞれに王をたて、使駅を通じていたのは
この時代が最後なのではないか。
倭人伝の三十国の内、狗奴国は魏に通じた邪馬台国の敵であり、
末盧國には官名さえなく、王が有ったとされるのが、伊都国と
邪馬台国だけの魏代に、三十国が使駅を通じていたとは思われない。
やはり実際に後漢代に、三十国が使駅を通じていたという原記録があり
それと、倭人伝が出来たとき、わかっていた国名が三十国であったことを
あわせて、
今使譯所通三十國
の記述ができたのではないか。
そしてこの三十国のリストが存在するところに奴国の朝貢があった。
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。
既存の国名リストはおおよそこんな具合だったのではないか。
對馬國、一支國、末盧國、・・(26ヶ国許)・・、奴国
中国人は、倭人が南の海の中の島々に住んでいると考え、また對馬國、一支國、末盧國
が海中を南へ南へ続いていることは分かっていた。
そのため奴国は南へ南へ続く倭の極南界と考えそのような原記録を残したのではないか。
范曄がいくら倭人伝を読んで、書いたとはいえ、倭人伝の国名リストで、最初の方に
距離や戸数、官名を伴ってかかれた奴を無視して、21ヶ国リストの最後にある奴を
後漢時代の奴と考えたとは思われない。
4.後漢代中期
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見
帥升がやってきたとき、この国名リストは変更を受けたのではないか。
三十国に国の増減があり、この時点で伊都国があったとすれば
二十五ヶ国、なかったとすれば二十四ヶ国。
推定される国名リストは
對馬國、一支國、末盧國、(伊都国)、以下倭人伝二十一国リスト。
5.後漢代末期(邪馬台国成立期)―魏代(卑弥呼の最初の使いの頃)
この時代までには伊都国は出来ていたであろう。
中国人は伊都国まで入り込み、北部九州の地理、風俗情報を集めはじめる
末盧國、伊都国間が陸路であることを知って、倭人から陸路でどれくらいかかるかを聞き出す。
結果、背振山地迂回の非現実的な陸路500里行程が出来上がる。
邪馬台国は伊都国からはるかかなたで、中国人の地理観で南方と理解される。
その南に狗奴国。
この時代に、魏略や廣志の記述のもとになったテキストができる。
これをテキストAとしよう。
6.魏代(魏使の来る前)
北部九州の地理的記述が進み、伊都国からいにしえの"奴国"と不彌国までの
行程ができる。
對馬國から不彌国までの、北部九州地理テキストをテキストBとする。
7.魏代(魏使が来る)
魏使の行程は
度海して對馬國、又度海して一支國、又度海して末盧國、水行して伊都国
水行して投馬国、水行陸行、邪馬台国
これに要した日数と官名を付けたものが、里程テキストCとなる。
8.西晋代
陳寿がテキストA、テキストB、テキストCをまとめ、三つで重複する
伊都国までの行程記録の国名重複を外す。
こんな感じなんですが、いかがですか。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月22日(金)19時07分23秒 ]
>> >> 一番最初に、小銃の射程距離を叩き込むはずです。
>> >> 玉が届かないのに撃つような、馬鹿な真似しない様に。
>> >> まさか、弓で猟をする猟師が、弓の有効射程を一目でわから無いなんて、主張されるお積もりは、無いでしょう。
>>
>> 聞けばなんだ。
>> ゴルフの話と同じレベルでないの。
>> いまは何十キロ測るって話なんだけど。
>>
>> >> 弓の射程は実験で測定できますからね。
>> ランスショットとかカノンショットとかいう単位もありますもんね。
>>
>> >> 其処に行、その場所と基準点の距離と角度を測る。
>> それ三角関数ないと無理。
>> ぼくも簡易測量の実習やったから
>> 三角関数使わないやりかたも知ってるけど
>> そーゆう方法が古代にあったって証拠がない。
>> コロンブスが卵を立てられたからってピリレイスも立てられたって言えないでしょ?
縮尺した図を書けば一発でしょ。
地図がある以上は、この程度も無かったなどと主張するおつもりですか?
後、耕地の面積が、計れなかったと主張されるおつもりなら、
話は別ですが、この程度の数学ですよ。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月22日(金)18時55分44秒 ]
>> 貴方は韓国から対馬が見える事知らなかったでしょ。
知らないわけないでしょ?
あなたは韓国から対馬のピンフラッグが見えるのを知ってるんでしょ?
あなたの知ってることって・・・
>> これ船乗りの常識。
つくらないように。
>> どのくらいの日程で到着するか見当もつかない状態で魏使が郡を出発したと言うのでしょうか?
>> 魏使は当ての無い冒険旅行をしたのでしょうか?
あの距離を魏使が知ってたとか
あれを魏使が書いたとか
みんなあなたの想像でしょ?
>> 邪馬台国を畿内に持っていくためには倭人伝が間違いだらけでなければならないのでしょうね。
あなたは邪馬台国を九州に持っていくために中国史を捏造してるんだけどなあ。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月22日(金)19時57分57秒 ]
>> 縮尺した図を書けば一発でしょ。
>> 地図がある以上は、この程度も無かったなどと主張するおつもりですか?
その地図が距離も方位もむちゃくちゃのもんしか残ってないんだから
その程度も無かったってことで決まりでしょう。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月22日(金)20時18分32秒 ]
>> >> 縮尺した図を書けば一発でしょ。
>> >> 地図がある以上は、この程度も無かったなどと主張するおつもりですか?
>> その地図が距離も方位もむちゃくちゃのもんしか残ってないんだから
>> その程度も無かったってことで決まりでしょう。
地図には、地図でいろんな理由が合います。
昔のやり方は、其れを居れば、有る面驚くほど合理的です。
地図の使い方見方、それが、はっきりしていなければ、理解できません。
現代の地図、いえ航空図、これだけ見せ等たらこれをまともな地図とは、思えない人も多いでしょう。
数学についてのお答えも無いようです。
城の縄張りなど、建築に使われるような計算も役に立たないと見ておられるように、
誤解を受けてもし方有りませんよ
まるで、エジプトの象形文字や漢字など文字ではないと公言してはばからなかった、
西洋の学者を思わせます。
自分達の文字が、エジプトなどの象形文字の改良であるコモも知らずにね。
この件に関しては、もう議論しません。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月22日(金)21時40分17秒 ]
>> 地図には、地図でいろんな理由が合います。
>> 現代の地図、いえ航空図、これだけ見せ等たらこれをまともな地図とは、思えない人も多いでしょう。
じゃ方位や距離が狂ってる地図ばっかりあることに
どんな理由があるのかな?
地図で実際の距離をはかれるほど正確な地図がかけたなら
どうして一つも残ってないの?
>> 数学についてのお答えも無いようです。
意味が無いので反応しなかっただけですけど。
面積計算できたら
三角関数つかえるって保証ないもん。
>> この件に関しては、もう議論しません。
反論できないってことだね?
元の発言 [ Title 日本語の漢字音の問題 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月22日(金)00時35分55秒 ]
さてそろそろ寝よう
遠隔地間の距離をどう測定し得るかという話題が出ていますので、少々お目汚しを致します。
周髀算經に見える句股法で遠距離を測定する方法を考えてみます。
いま周髀家が海岸に立って、遥か真南に山島を望んでいるとします。
そして、その山の高さが現代の単位で言えば海抜300mであることも知っているとしましょう。
さて、彼は海岸に8尺標を立て、山島と標の延長線上5丈の距離に立ちます。
分銅を垂らして垂直を確かめ、直樋に水を流して水平を出して 8尺標の自分の目線の高さの位置に印を付けます。
そして、5丈の位置から山島を望み、その山頂が標に重なった位置を観測し、弟子に命じてその位置に印を付けさせます。
ここで、その印が目線高さの印より5寸上にあったとします。
そうしますと、周髀家の目と8尺標は、底辺5丈−高さ3寸の直角三角形を形成いたします。5丈=50尺=500寸でありますから、斜辺の勾配は3/500、千分の六。
いま山島の海抜300mですから、夫々の直角三角形に相似の関係がありますので、これを千分の六で除して、周髀家は山島までの水平距離50kmを求めることが出来ます。
以上が周髀算經の理論に基づく測距法でありまして、基本的に目標物の大きさが既知であれば周髀家には測距可能です。
ではさて此れ正しい数値でありましょうか?
答えは否であります。
周髀家の想定とは異なり地球は球体でありますから、南に50kmであれば50,000m÷1,852m=27分ほど緯度が変わって来ます。つまり1/COS(27分)−1に地球半径6,357kmを乗じれば200m弱。標高300mの山も50km離れれば2/3が水平線下に隠れてしまいます。
周髀家には50km先にある山島の上部1/3しか見えていないのでありまして、彼が見るのは標高300mのうち100mほどが水平線上に1寸出ている姿であります。よって周髀家は1寸から、標高300mを1/500で除して、山島までの距離150kmという数字を出してしまうことになるのであります。
いま、山島の高さ海抜320m、観測点から山頂までの水平距離58kmとしますと、58,000m÷1,852m=緯度差31.3分
よって標高264m以下は水平線下に隠れますので、見えるのは56mぶんです。
これを8尺標上で測定すると5分(1cm強)に目盛られますので、再び三角形の相似を利用して、周髀家は「山がある島は333km(765里)先である」と算出してしまいます。
こんなやり方をしますと、狗邪韓から対馬まで概ね1000里で宜しいようです。
元の発言 [ Re: 再び為賀について(ハ行音についても) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月22日(金)18時47分39秒 ]
>> ところで古韓音について何か知りたいとしたら、どのようなところをあたればよいのでしょう。
これは、概説書に出ているとおり。資料は「推古朝遺文」やそれ以前の金石文、そして『日本書紀』の朝鮮関係記事に出てくる固有名詞に使われた万葉仮名(音訳漢字)。研究書は、大矢透『仮名源流考』(勉誠社)・『古京遺文』(勉誠社文庫)・長田夏樹『邪馬台国の言語』(学生社)・頼惟勤『著作集』(汲古書院)等。
それ以上詳しい研究方法は、自分で考えてください。確かな音韻関係の書物を熟読して、対象に沈潜する時間をもつのが賢明ではないでしょうか?森氏の著書にも出てきた有坂秀世氏や頼氏の著作を熟読して、感動できるようになれば、自ずから道は開けると思います。
元の発言 [ Title 率善さん、こっちで議論しましょう。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(月)12時59分32秒 ]
おにりんさんへ
イリヒコさんが調べられたものも見ましたが。どうも出土遺物の整理がまだ途中の段階での予報的な話が一人歩きしているのではないかと思います。「弥生時代の考古学」の石野氏や武末氏の発言も、自分の目で出土土器を確認したものではなさそうです。
事実関係を整理しますと(佐賀県文化財調査報告書132集。奥付は1997年、と、佐賀県教委の技師さんの、細川金也・渋谷格1999「弥生時代の集落ー佐賀平野の中・後期」『弥生時代の集落ー中・後期を中心としてー』埋蔵文化財研究会第45回資料集を参照)、北内郭の環濠からは後期後半(柳田編年の後期4)から、終末(後期5)まで出土しており、終末でも庄内系や5様式系の土器も少数あることから、終末でも新しい段階にやっと埋没したようです。また大型建物の柱穴からは、5様式系(庄内式併行)の土器や終末でも新しめの鉢があることから、建物の廃棄時期は、布留0式の少し前でいいのではと思います。北内郭には、オバQ状の二重環濠の前に、切られる別の突出部付きの環濠があり(一部はこの古い溝を再利用してオバQ状になったか)、そこからは後期3〜4の土器と中広型銅戈が出てます。銅戈は中広と言っても型式的に広形に近く、後期中頃の製作でしょうか。いずれにしても、北内郭の上限は後期4の時期です。大型建物の時間幅(建てた時期)が問題ですが、廃棄時期は終末でも新相なので、次の最古の前方後方墳との時間差はそんなにないと思われます。
また、以前に出た分厚い報告書で南内郭の環濠出土土器を再チェックしましたが、南内郭新段階の環濠の新しいのはやはり庄内式併行、終末の新相まで含んでます。これを切って、布留0式併行ぐらいのST0941前方後方墳が作られています。
以上のように、出土遺物の出方からは南北内郭は、終末いっぱいまで存続したと考えた方がよいのではと思います。確か2年前に確認された前方後方墳ST2200はそのST0941より、微妙ながら古い特徴の土器がありますので、吉野ケ里の最後の繁栄期の最後の首長は、そこに葬られた可能性もあります。
あと、平塚川添の大型建物も終末でよさそうですし。ただこれはまだ報告書がないので、終末でも古い方(2世紀末〜3世紀初頭)か新しい方(3世紀前半〜第2四半期頃)か分かりませんが。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月22日(金)20時01分47秒 ]
>> >> 貴方は韓国から対馬が見える事知らなかったでしょ。
>> 知らないわけないでしょ?
知っていたの。それは結構。
>> あなたは韓国から対馬のピンフラッグが見えるのを知ってるんでしょ?
>> あなたの知ってることって・・・
目測で距離を正確に測定する方法があることを示して見せただけ。
>> >> これ船乗りの常識。
>> つくらないように。
へー、船乗りが目測で遠くに見える島までの距離が判らないと思ってるんだ。
千里435kmというとそれだけで釜山から鹿児島を通り越してしまうんだけど。
そんなんで沙里院から唐津まで4350kmもの距離をやってきたと言うんだ。
となると、中国人は邪馬台国は会稽東冶どころかニューギニアあたりだと思っていたことになります。
倭人伝が長里で書かれていたなどという考えは信仰以外の何者でもありません。
>> >> どのくらいの日程で到着するか見当もつかない状態で魏使が郡を出発したと言うのでしょうか?
>> >> 魏使は当ての無い冒険旅行をしたのでしょうか?
>> あの距離を魏使が知ってたとか
>> あれを魏使が書いたとか
>> みんなあなたの想像でしょ?
知らずに旅に出る馬鹿は居ないでしょ。
じゃあ、誰が書いたというの。
>> >> 邪馬台国を畿内に持っていくためには倭人伝が間違いだらけでなければならないのでしょうね。
>> あなたは邪馬台国を九州に持っていくために中国史を捏造してるんだけどなあ。
貴方は信仰に生きている人。
おにりんさんのレスより借用
「石野氏は、箸墓を眺めて「これが、卑弥呼の墓でなくし
て、誰の墓だというのだ」という素直な気持ちを吐露
させた張本人でして、だから、本人の願望は、まさに、
「箸墓こそ卑弥呼の墓であってほしい」
なのですね。」
畿内説の大部分は単なる願望で構成されている。
「大和こそ日本人の心の故郷だ(であって欲しい)。」
「万世一系の天皇こそ我々日本人の祖先であって欲しい。」
「卑弥呼もまた日本の天皇の祖先であって欲しい。」
と言う願いが邪馬台国畿内説の大部分で、理屈は後からこじ付けたもの。
畿内説を採る人々は畿内と合わない倭人伝の記述はことごとく間違いにしてしまう。
元の発言 [ 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月23日(土)00時00分39秒 ]
>> 遠隔地間の距離をどう測定し得るかという話題が出ていますので、少々お目汚しを致します。
>>
>> 周髀算經に見える句股法で遠距離を測定する方法を考えてみます。
>> いま周髀家が海岸に立って、遥か真南に山島を望んでいるとします。
>> そして、その山の高さが現代の単位で言えば海抜300mであることも知っているとしましょう。
>> さて、彼は海岸に8尺標を立て、山島と標の延長線上5丈の距離に立ちます。
>> 分銅を垂らして垂直を確かめ、直樋に水を流して水平を出して 8尺標の自分の目線の高さの位置に印を付けます。
>> そして、5丈の位置から山島を望み、その山頂が標に重なった位置を観測し、弟子に命じてその位置に印を付けさせます。
>> ここで、その印が目線高さの印より5寸上にあったとします。
>> そうしますと、周髀家の目と8尺標は、底辺5丈−高さ3寸の直角三角形を形成いたします。5丈=50尺=500寸でありますから、斜辺の勾配は3/500、千分の六。
>> いま山島の海抜300mですから、夫々の直角三角形に相似の関係がありますので、これを千分の六で除して、周髀家は山島までの水平距離50kmを求めることが出来ます。
>> 以上が周髀算經の理論に基づく測距法でありまして、基本的に目標物の大きさが既知であれば周髀家には測距可能です。
>> ではさて此れ正しい数値でありましょうか?
>> 答えは否であります。
>>
>> 周髀家の想定とは異なり地球は球体でありますから、南に50kmであれば50,000m÷1,852m=27分ほど緯度が変わって来ます。つまり1/COS(27分)−1に地球半径6,357kmを乗じれば200m弱。標高300mの山も50km離れれば2/3が水平線下に隠れてしまいます。
>> 周髀家には50km先にある山島の上部1/3しか見えていないのでありまして、彼が見るのは標高300mのうち100mほどが水平線上に1寸出ている姿であります。よって周髀家は1寸から、標高300mを1/500で除して、山島までの距離150kmという数字を出してしまうことになるのであります。
>> いま、山島の高さ海抜320m、観測点から山頂までの水平距離58kmとしますと、58,000m÷1,852m=緯度差31.3分
>> よって標高264m以下は水平線下に隠れますので、見えるのは56mぶんです。
>> これを8尺標上で測定すると5分(1cm強)に目盛られますので、再び三角形の相似を利用して、周髀家は「山がある島は333km(765里)先である」と算出してしまいます。
対馬の御岳は490mだったと思いますが?
すると226m以上 上は見えますね。
と言う事は333kmの4分の1以下で83km位となるんじゃないでしょうか?
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽(前提に問題あり) ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月23日(土)07時41分14秒 ]
一見論理的なのですが、前提条件で結果がかなり
左右されます。
ちょっと問題があるようですね。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽(前提に問題あり) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月23日(土)07時55分02秒 ]
こういった句股法では長距離を正確に計れないということは、
その通りだと思いますけど。
>> こんなやり方をしますと、狗邪韓から対馬まで概ね1000里で宜しいようです。
この文章の意図がちょっと分からないので・・・。
南千里とされている対馬−壱岐間を考えてみます。
壱岐最高峰の岳ノ辻は標高213m、対馬最高峰の矢立山は標高649m。
対馬−壱岐の距離(海岸から山まで)は65kmくらいでしょうか。
すると、対馬から壱岐を望むと山を見ることは出来ません。
一方、壱岐から対馬を望めば、同様な計算で山は半分くらい見えます。
つまり、見る方向によって、距離がまったく変わります。
そういうわけで、長距離をこういった句股法で測ったとは思えません。
高橋善太郎氏の「魏志倭人伝の里程記事をめぐって」にもあるように、
水行での距離測定は正確とはいえなかったようです。
長距離の場合は、各行程で方向と移動時間と移動速度などの
記録を残しながら、それらを総合して最終的な方向や距離を
決めたのではないでしょうか。
海流の影響などがどのように実際の方向との違いを生むのかは、
その航路ごとに調査しないといけないでしょうね。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月22日(金)19時52分05秒 ]
>>例えば、鎌倉幕府というのは、東国の武装小領主間のあらそいの調停・裁判を行うのが唯一の仕事であり、その限りにおいて、小領主がその権威を認めたもの、のように思えます(通じました?)。ところが、外国の侵略に対しては、日本国を守るために命をかけて戦っている。それは、なぜなんだろう、とか。
鎌倉幕府って東国中心の政権ではありますが、東国の領主間
の調停、裁判が唯一の仕事というのは無理がありませんか?
都の六波羅探題、九州の大宰府も幕府の管轄だったはずです
が。西国にも幕府の御家人はいましたよね。
藤原氏攻めでも、幕府は約28万の大軍を全国から動員した
と言われていますし。まあ、28万という数字が正確なのか
どうか知りませんが、大軍だったのは間違いないでしょうか
ら、東国だけで動員できる数ではなかったでしょう。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月22日(金)03時20分49秒 ]
>> そのとおりです。九州王朝仮説によって、大和一元説では説明できない多くの事象がうまく説明できるのは、今月号で紀さんがいろいろ書いておられる。
ご理解戴いてありがとうございます。
ただし、“九州王朝仮説”という表現には?
論理的な展開をしてゆけば、九州に行きつくしかありません。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月20日(水)15時42分31秒 ]
>> >> 最後に方位に関してですが、私のスタンスは郭公さんも先刻ご承知かとは思いますが、遠距離間の方位があてになる方と考える方がおかしいと考えています。90度程度の誤差は許容範囲内です。
方位に間違いがあったとは思わない。
すなわち、中国では、紀元前300年頃に、磁石が南北を指すことがわかっていた。
当然のこととして、このような先端技術は、歴代の王朝では理解していたのでは。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月23日(土)07時08分02秒 ]
あなたは八尺の棒をピンフラッグ代わりにして
一キロよりもっと長い距離も測定できるって
視認出来れば簡単に測定できるって言ったわけ。たわけ。
それで目測で千余里測ったと言ってる。
韓国から対馬のピンフラッグ見えるのかな?
韓国から対馬が見える見えないって話にスリカエ見苦しや。
こんどは陸地が見えれば距離がわかるのは船乗りの常識だそうな。
次から次へ話が変わっちゃう。
いつも誤魔化しどこまでも誤魔化し。
そして最後はデッチアゲ。
「貴方は韓国から対馬が見える事知らなかったでしょ。」
おみごと。
>> 畿内説の大部分は単なる願望で構成されている。
>> 「大和こそ日本人の心の故郷だ(であって欲しい)。」
>> 「万世一系の天皇こそ我々日本人の祖先であって欲しい。」
>> 「卑弥呼もまた日本の天皇の祖先であって欲しい。」
>> と言う願いが邪馬台国畿内説の大部分で、理屈は後からこじ付けたもの。
こじ付け?
あなたの数字捏造や事実のスリカエはもう暴いたけどね。
その挙句が、自分に都合の悪いものはみんな右翼だとか
最後にたどり着くのはそういう理屈なのね?
大和は高句麗人国家だとかいう珍説や
短里なんて単位でっちあげちゃう動機のもとが
ごじぶんの変なシソーだって告白してるのと同じだなあ。
元の発言 [ 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月23日(土)00時00分39秒 ]
>> そして、その山の高さが現代の単位で言えば海抜300mであることも知っているとしましょう。
その仮定はどうなんでしょう?
海抜300mであることをどうやって知ったのか
元の発言 [ Re: Title ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)14時34分44秒 ]
>>
>>
単純に、言葉の解釈として(何も古代史などの範疇に限定せずとも)、「水行」と「渡海」が区別できない
とは思えません。
比定地を予め決め、それに合うようにするために、“厳密じゃあありません”というような逃げとしか
考えられない。
ところで、《山島》《海中洲島》や《周旋5千余里》はどう説明していただけますか?
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月4日(月)20時05分02秒 ]
こんばんは。
読んでいただけたらわかると思いますが、おそらく、終末も早い時期に放棄さ
れたというのは、
遺構がない、
という理由によるのだと思います。遺構がないというのは遺構にともなう土器
がないと言うことでしょうから、言ってみれば内郭周辺には終末期の生活痕が
ほとんどないということになるかと思われます。
環濠が放棄された時、そこに住んでいた人々は環濠をすべて埋めて整地して出
て行くわけではないでしょうから、集落の放棄から環濠の埋没までは時間差が
あってもかまわないはずです。あの辺りは丘陵の上ですから洪水がおこるとい
うこともないので最後の掘り直しから数十年の間埋まらずにいたとしても不思
議はないと思いますが。
北内郭大型建物の柱穴の土器というのも、読んだ限りでは埋土の含まれるもの
でしょうから、この土器は廃棄の下限は表すでしょうが、廃棄の時期と断定で
きるものではないのではないでしょうか。
申し訳ないですが、これだけでは一寸考えをかえる気にはなりません。
元の発言 [ Re: Title承前、蒸し返してみると? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月23日(土)14時20分18秒 ]
>> あなたは八尺の棒をピンフラッグ代わりにして
>> 一キロよりもっと長い距離も測定できるって
>> 視認出来れば簡単に測定できるって言ったわけ。たわけ。
>> それで目測で千余里測ったと言ってる。
>> 韓国から対馬のピンフラッグ見えるのかな?
>> 韓国から対馬が見える見えないって話にスリカエ見苦しや。
>> こんどは陸地が見えれば距離がわかるのは船乗りの常識だそうな。
>> 次から次へ話が変わっちゃう。
>> いつも誤魔化しどこまでも誤魔化し。
>> そして最後はデッチアゲ。
>> 「貴方は韓国から対馬が見える事知らなかったでしょ。」
>> おみごと。
50kmも離れてピンフラッグ見えるなんて誰か言ったかね?
これは陸上で比較的至近距離数キロ程度のことを言った物だ。
歩測するよりも簡単に距離を出す事ができると言ったのだよ。
河でもあれば歩測なんか出来ないからね。
数キロ程度の距離でも積算すれば三百キロになる。
韓国の方四千里はこうして出されたのだろうと思っている。
なんせ面積は直線距離の概念が無ければ出せないのだから。
それとは別に
島影が見えただけでそれが435kmもないくらいの事は船乗りならずとも自明の事で判らない筈は無い。
まして船乗りなら100km以下であることはわかるだろう。
何度も往復しているのだから。
といったのだ。
>> あなたの数字捏造や事実のスリカエはもう暴いたけどね。
あなたは別の話を意識的にごっちゃにして絡んでいるようだ。
>> その挙句が、自分に都合の悪いものはみんな右翼だとか
>> 最後にたどり着くのはそういう理屈なのね?
右翼だなどといった覚えないね。
私だって大和飛鳥の風景を見るとなんとなく癒され、懐かしい気持ちになってくる。
これが日本の原風景なのかななんて思えてくる。
私も昔は大和が邪馬台国だろうとなんとなく思っていた時期もあった。
しかしあちこち旅して田舎を見ると何処に行っても同じように懐かしい気持ちにはなる。
韓国の農村風景だって同じだ。ソウルの郊外の冬景色は岩手県あたりのそれと同じで懐かしい気持ちになる。
歴史にとって懐かしいなんて気持ちはどうでもいい事だ。
ただこの気持ちから離れられない人が多いのだろうと思うのだな。大和説の人は。
理性じゃないのだね。そういう気持ちは。
ほれた女のウソはウソでも信じてしまいたい。
邪馬台国は大和であって欲しいのだよね。
>> 大和は高句麗人国家だとかいう珍説や
>> 短里なんて単位でっちあげちゃう動機のもとが
>> ごじぶんの変なシソーだって告白してるのと同じだなあ。
イデーは関係ない。これで終り。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月23日(土)14時01分43秒 ]
>> ただし、“九州王朝仮説”という表現には?
>> 論理的な展開をしてゆけば、九州に行きつくしかありません。
まあ、よろしいじゃありませんか。
まだ、卑弥呼の都でさえ大和だと主張している方がたくさんいらっしゃるんだから、気長に自説を説き続けてください。
元の発言 [ 下らない非難合戦は終り ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月23日(土)19時49分31秒 ]
そう言って洛陽からの直線距離ちょろまかしたことも隠すのね?
>> ただこの気持ちから離れられない人が多いのだろうと思うのだな。大和説の人は。
>> 理性じゃないのだね。そういう気持ちは。
>> ほれた女のウソはウソでも信じてしまいたい。
>> 邪馬台国は大和であって欲しいのだよね。
なんの理由もなく自分は正しくて他人は間違っていると
公言しちゃうあなたの特質がよく現れてる言葉だこと。
イデーは関係ない。これで終り。
元の発言 [ 「邪馬壹国」は近畿王朝ではない(その5) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月23日(土)14時31分23秒 ]
こんにちは
2月7日の『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3)にレスをつけた、山佐留です。
先日述べたように私は四国説です。
>> >> 水行と渡海の区別は厳密じゃあありません。
>> >> 下のスレッド参照
>> 単純に、言葉の解釈として(何も古代史などの範疇に限定せずとも)、「水行」と「渡海」が区別できない
>> とは思えません。
>> 比定地を予め決め、それに合うようにするために、“厳密じゃあありません”というような逃げとしか
>> 考えられない。
>> ところで、《山島》《海中洲島》や《周旋5千余里》はどう説明していただけますか?
《山島》《海中洲島》や《周旋5千余里》については、九州説の決め手になるとは思えません、九州より四国のほうがよほどあてはまっていると思います。
なぜならば、《山島》《海中洲島》は九州だけでなく四国にもあてはまります。
また、《周旋5千余里》については、魏志倭人伝に書かれた「郡より、狗邪韓国まで七千余里」の距離と、日本列島にある島の大きさとを比較した場合、本州はもちろんですが、九州も少し大きすぎるのではないでしょうか、「周旋五千余里」にもっともちかいのは四国であろうと思われます。
最近の紀さんの投稿をみていると、失礼ですが、自説だけを主張し、他人の意見を無視しているように感じられます。
他人に説明を求めるならば、ご自分に対する質問にもきちんと答えるべきではないでしょうか。
先日の私の質問の隋書倭国伝からの引用の件についても、ご返事下さい。
「 倭国は百済・新羅の東南にある。水陸三千里、大海の中において、山島によって居る。魏の時、訳を中国に通ずるものが三十余国、みなみずから王と称した。夷人は里数を知らず、ただ日をもって計った。その国境は、東西は五月の行程、南北は三月の行程で、おのおの海に至る。その地勢は、東が高くて西が低く、邪靡堆に都する、すなわち、『魏志』のいわゆる邪馬台というものである。」
とあり、このなかで「その国境は、東西は五月の行程、南北は三月の行程で、おのおの海に至る。その地勢は、東が高くて西が低く、」の記述は、私には四国を指しているとしか思えません。
この字句について、九州説の場合はどういう解釈をするのでしょうか。
方位の誤認とでも言われるのであれば、あなたの批判される近畿説の論者の手法と変わりないと思われますが。
元の発言 [ Title 伊都女王国はあったか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(木)00時36分33秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
怡土平野の南は背振山系に接しています。
福岡平野との間には早良平野があります。
もっと正しい地理感を持ちたまえ。
畿内説や四国東部説を取る場合、方位に関しては
対馬−壱岐間の方位より45度以上の誤差ということになります。
そのため、これらの説はなぜこのような誤差が生じるのかを
説明しなくてはなりません。
まず、いくつか潮流図をあげておきます。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/ENGAN/real_time_tide/htm/select/jp/curr_predjapanmap.htm
http://www.seto.or.jp/seto/kankyojoho/sizenkankyo/choryu/choryu.htm
#これをみていると各説に応じて自然に航路も決まってきそうな気がします。
東西方向への潮流の最高速度は1〜2ノット、
幅が狭いところでは5〜10ノットになるようです。
(1ノット=1.852km/h)
北九州から四国東部あたりの距離を500kmくらいに見積もり、
1日8時間航行を10日続けたとして、
平均航行速度6.25km/hくらいです。
潮流と平均速度の比から潮流の影響は大きいといえます。
よく使う航路であれば古代人は潮流は上手に使ったことでしょう。
魏使が各行程の航行日数と方向だけの記録で最終的な方向を
算出していたとすると、東西方向に相対的に短い地図を
作ってしまう可能性があります。
こういう理由は考えられないでしょうか?
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽(前提に問題あり) ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月23日(土)08時42分09秒 ]
>> この文章の意図がちょっと分からないので・・・。
≪中略≫
>> そういうわけで、長距離をこういった句股法で測ったとは思えません。
# 文献的に確認できる3世紀の科学技術の限界を示せたものと思います。
60km先にある300mの山、70km先の500mの山。
句股法を実用化してしまうと、これらがすべて千里先ということになってしまいます。
対馬の最高峰をいくらお示しになっても結果は同じです。
とくに後者は、金海付近の海岸から対馬雄岳が視認できた場合のケースに相当します。
むろん10m先の1センチを目視確認できることが大前提ですから、精度にも問題があります。当時の科学技術の粋を尽くそうとも、いえ、尽くそうとすればするほど、海峡の幅を測定しようとすれば結果は大幅に現実から乖離する可能性が高いのであります。
一方で、江戸時代の朝鮮通信使も、みな釜山から佐須奈を約500里と認識しているという現実があります。むろん李朝の短里などというものはありません。この現実を直視すべきでしょう。
結論としては、おおよそ正しいと言える程度の精度まで許容しても、3世紀当時に海峡の幅を知ることが出来た可能性は極めて希薄ということです。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月23日(土)14時22分55秒 ]
>> その仮定はどうなんでしょう?
>> 海抜300mであることをどうやって知ったのか
句股法の応用で、8尺長−内径1寸の竹筒を使用する方法があります。
目標物の全長が既知であれば、この筒で覗いて目標物が孔いっぱいに見える地点までの直線距離を、目標物全長×80で求めることが出来ます。これが直角三角形の斜辺に相当しますから、三角形の相似を利用して、観測地点が海岸であれば目標物のある標高が近似的に求められます。
むろん、このような手法で基調線を確定して測量すれば、恐ろしいほどの誤差が出ることは覚悟すべきでしょう。
やはり3世紀当時として、実用に供することのできる距離情報は、やはり基本は歩測、そして所要日数をもとに得たものでしょう。
従って、海上・河川上の移動距離は著しく信頼性が劣ります。このことは史料上で裏づけが取れます。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月4日(月)20時46分50秒 ]
>> こんばんは。
>> 読んでいただけたらわかると思いますが、おそらく、終末も早い時期に放棄さ
>> れたというのは、
>> 遺構がない、
>> という理由によるのだと思います。遺構がないというのは遺構にともなう土器
>> がないと言うことでしょうから、言ってみれば内郭周辺には終末期の生活痕が
>> ほとんどないということになるかと思われます。
事実に即していません。報告書をみれば分かります。住居もあるし、内郭は終末まであります。概説の本では、予報的なことは書いてあるでしょうが、ちゃんと検討してあるとは限りません。先生方も、必ずしも原資料を確認しないでコメントしてひとり歩きすることがこの世界ではかなりありますので、注意した方がよいでしょう。
>> 環濠が放棄された時、そこに住んでいた人々は環濠をすべて埋めて整地して出
>> て行くわけではないでしょうから、集落の放棄から環濠の埋没までは時間差が
>> あってもかまわないはずです。あの辺りは丘陵の上ですから洪水がおこるとい
>> うこともないので最後の掘り直しから数十年の間埋まらずにいたとしても不思
>> 議はないと思いますが。
>> 北内郭大型建物の柱穴の土器というのも、読んだ限りでは埋土の含まれるもの
>> でしょうから、この土器は廃棄の下限は表すでしょうが、廃棄の時期と断定で
>> きるものではないのではないでしょうか。
>> 申し訳ないですが、これだけでは一寸考えをかえる気にはなりません。
いや、事実として、終末でも新しい土器が結構出てますし、集落自体は北内郭環濠を切る古墳初頭の住居も何棟かあります。ですから、生活臭さがないと言うことは事実ではありません。
大型建物も、北内郭の最後の時期に建っていたと考える方が至当です。
それどころか、柱穴のどこから件の土器が出土したか問題です。報告では今一つ分かりませんが、柱穴の堀方からの出土なら、むしろその時期(以後)の建築となります。建物廃棄後の柱抜き取り穴からとすれば、廃棄時期ですが、この大型建物は、柱穴がかなり削平されているので(それを理由に、一部の柱列の推定は怪しく、本当に大型総柱建物なのか疑うむきさえある残り方)、埋まってゆく過程のかなり後の上層の出土からだから、廃棄はもっと古いはずだ、と言うような言い訳は成立しません。抜き取り穴中としても、実質下層の出土です。したがって、考古学の遺構論としては、その新しい土器をもって廃棄時期とするのが妥当です。
あと、外環濠については、終末にかなり埋まっているというのは別にその通りです。ただ最上層に相当量の土器があるのも事実で、集落として密度の濃い状況が続いています。よく考古学者も含めて勘違いしますが、環濠の有無、それ自体は大集落、拠点集落の指標ではありません。それが証拠に、須玖岡本遺跡群や比恵・那珂遺跡群は全体を囲む環濠など、部分的にはいざ知らず、結局ないのです。ここで、階層化の中心である南北内郭が残っていることが社会史的に重要なのです。
そこまで譲らない理由が分かりません。>これだけは一寸考えを、、、
実際の資料の提示をしても譲られないのはいかがでしょうか?嘘と思われたら、報告書を検索して下さい。また、ここで提示している資料集などは、六一書房(神田の考古学専門書店)や北九州中国書店で入手できます。考古学研究会の資料は岡山大学考古学研究室に聞いてみて下さい。
何度も言いますが、実は古墳初頭も含めて、土器はかなりあるのです(古墳初頭は墳墓関連が多いが)。少なくとも、終末は時期いっぱい、生活臭いことが丘陵上であった証拠があるのです。それはものすごい量のパンケースの中の土器片が証明しています。
さらに佐賀県立博物館の蒲原さんなんかは、大型建物を終末新相かあるいは古墳初頭に下りる可能性まで言及し、北内郭環濠との同時性を否定する意見まであります(蒲原宏行2000「3世紀の北部九州」『3世紀のクニグニ』考古学研究会岡山例会第5回シンポジウム資料)。ただ、これを採ると、北内郭環濠との位置関係の幾何学性、整合性をどう見るかと言うことになるので(全く否定することになり、またあれだけの建物で囲郭施設がないことになる)、私はここまでは採りません。北内郭環濠は、後期後半4式頃作られ、はじめは通有の建物と住居からなる首長の排他的空間だったが、その後半期に(終末)に、象徴的な大型建物を作った(出土土器から北内郭環濠には終末の土器も入っている。環濠自体も削平され浅いので、下層まで終末土器が入っていると言うことは、その時期まで維持されたと考えるべき)と考え、終末最新頃に、大型建物を廃棄し、北内郭環濠を埋めた、と考えます(古墳初頭の住居が切る)。
一部、きつい言い方をしたと思いますが、事実を提示したまでなので、ご理解ください。
元の発言 [ うーん、叩きのめそうにも、計算違いであった。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)00時22分05秒 ]
>>
# いづれにせよ、水平線下は見えません。
ここで示したような例はすべて机上の学問で、実用に供した形跡はないと思います。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)00時26分48秒 ]
>>
>>
>>
>>
城攻めの時、正確な距離が判るのと判らないのでは、大変な違いだと思いますけど?
諜報で測っとくという手も有るでしょうが。
急増の砦を攻めなければ成らないなんて場合、被害が違うと思いますし、
軍楽を学ぶ時、城の縄張りから始めると言いますね。
当然入っているでしょう。
其れとも、測量術とは、やはり秘術に成るのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月4日(月)21時18分57秒 ]
それから、吉野ケ里が後期の中心的存在であると言う証拠がない、という話も出てましたが(2000年7月の議論)、そうでしょうか。
まず、後期においても、いや後期こそが大環濠集落の最盛期で、伊都国、奴国の拠点には劣りますが、規模的に大和の唐古に並び、巨大です。
さらに、南北内郭の存在のように、より集落内部が重層的になっていることがあります。類似する構造の集落は、後期から古墳前期にかけて、佐賀平野を含めた北部九州にありますが、その中でも巨大であることは事実です。
さらに、後期になると、北部九州の青銅器生産は、須玖岡本遺跡群に集中する様相ですが(中期は佐賀平野にも多く、鳥栖あたりにも核がある)、吉野ケ里は後期でも青銅器生産を維持していると言うことが重要です。
墓の問題ですが、吉野ケ里には後期の墓は確かに少ないですね。しかし、実は三津永田なんか、吉野ケ里と同じ舌状丘陵(背振山系から下りてくる舌状丘陵)上にあり、北2キロぐらいです。この周囲はむしろ顕著な集落はすぐ近くに無さそうなので、あるいは、吉野ケ里の有力者の墓の可能性もあります。王墓級はないものの、後漢鏡1面ずつ出ている墓複数出ているのです。ほとんどまともな調査でない状況での発見であることも、確率論的には、広く調査すればもっと出てくる蓋然性があります。ですから、まあ伊都国、奴国の王墓までのものは期待薄としても、末ロ国の桜馬場ぐらいの内容の墓があってもいいかもしれません。吉野ケ里丘陵から三津永田までは同じ勢力の領域と思われます。
いずれにしてもこれらの状況は、吉野ケ里(とその周囲の同じ舌状丘陵の南北3〜4キロの遺跡群)が、佐賀平野においては、という条件付きで、中心的な地位を後期まで保っていると言うことを推定するのに十分と思われます。ですから、高島さんあたりの言っていることは、佐賀平野の中での評価については、間違っていないと思います。
ただ、蛇足ながら、だからといって、邪馬台国をここにもって来れないと思いますが、、3世紀中頃以降は衰退傾向ですし、またどの時期においても、結局玄界灘沿岸地域にはちょっと力負けしているのも明らかなので。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 2月23日(土)09時05分31秒 ]
>> >>例えば、鎌倉幕府というのは、東国の武装小領主間のあらそいの調停・裁判を行うのが唯一の仕事であり、その限りにおいて、小領主がその権威を認めたもの、のように思えます(通じました?)。ところが、外国の侵略に対しては、日本国を守るために命をかけて戦っている。それは、なぜなんだろう、とか。
>> 鎌倉幕府って東国中心の政権ではありますが、東国の領主間
>> の調停、裁判が唯一の仕事というのは無理がありませんか?
>> 都の六波羅探題、九州の大宰府も幕府の管轄だったはずです
>> が。西国にも幕府の御家人はいましたよね。
>> 藤原氏攻めでも、幕府は約28万の大軍を全国から動員した
>> と言われていますし。まあ、28万という数字が正確なのか
>> どうか知りませんが、大軍だったのは間違いないでしょうか
>> ら、東国だけで動員できる数ではなかったでしょう。
確かに東国だけの政権では、ありません。
と言うしかないですが、司法政権であった事には、間違い無いと思います。
朝廷でさえ、裁判を依頼しているくらいなんですから、
裁判の公正が、保てなくなった時に滅んだと言ったのは、勝海舟でしたっけ?
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月22日(金)22時53分42秒 ]
>>
最初から「 − アルファ」と書いてあるでしょ。もしかして、アルファが文字化けしていましたか。私はどこか上のほうで、帯方郡治はソウルでも沙里院でもなく、仁川あたりの海岸であろう、と書いているはずです。
>>
屁理屈の定義はまた後で。
>>
オッカムの剃刀は、少なくとも科学の分野では常識です。
>>
あほくさいから、次に行きましょう。
[2]韓国方4,000里と、末盧国まで 7,000余里+1,000余里*3 はその比率が
実際の距離とよい一致を示している。したがって倭人伝の基礎資料は相当的確な地理知識に基づいて書かれていると判断してよい。
韓伝・倭人伝で使われているものと同一と思われる里単位が、他の地方でも使われていた痕跡を、古田、谷中 等がいくつか報告している。
これに対し、1里を400m強とした場合、韓伝・倭人伝の過大な里数を説明するのに屁理屈を考え出さなければならず、そして結局は多くの人が納得できる説明を与えることができない。
(補)東アジア世界全体がたった一つの里単位で統一されていたことを期待するべきではないであろう。「公式」の里単位でさえ、時代によって異なっていることが知られている。その理由は、各王朝が自らの故国で古くから行われていた里単位を王朝の公式の単位として採用したからだ(これは私が今思いついた屁理屈で、まったく根拠無し)。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月24日(日)01時36分11秒 ]
景虎さん、馬頭鬼さん、こんにちは。
景虎さん:
>> 都の六波羅探題、九州の大宰府も幕府の管轄だったはずです
>> が。西国にも幕府の御家人はいましたよね。
#はい。直訴するために九州から鎌倉まで行った、などという話がありますね。元寇に際しては、九州の御家人が最も活躍したのでしょう。
平家との戦いは主に西国で行われていますから、開幕時点から日本国の中央政府としての明確な自覚があった、と言うことでしょうか。各時代の指導者はどんな国家意識を持っていたのだろう。
馬頭鬼さん:
>> 確かに東国だけの政権では、ありません。
>> と言うしかないですが、司法政権であった事には、間違い無いと思います。
>> 朝廷でさえ、裁判を依頼しているくらいなんですから、
そういう意味じゃ、平安政府は位階勲等を与える以外に、何かしてたんでしょうか。渤海国の使節の応対(唯一の外交)はしてましたが。
藤原三代については、なぜ独立国家としての意識をもう少し明確に持たなかったのだろう、というのが私の疑問です。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月24日(日)02時05分33秒 ]
>> 景虎さん、馬頭鬼さん、こんにちは。
如何も、こんにちはEKさん。
>> 景虎さん:
>> >> 都の六波羅探題、九州の大宰府も幕府の管轄だったはずです
>> >> が。西国にも幕府の御家人はいましたよね。
>> #はい。直訴するために九州から鎌倉まで行った、などという話がありますね。元寇に際しては、九州の御家人が最も活躍したのでしょう。
>> 平家との戦いは主に西国で行われていますから、開幕時点から日本国の中央政府としての明確な自覚があった、と言うことでしょうか。各時代の指導者はどんな国家意識を持っていたのだろう。
>> 馬頭鬼さん:
>> >> 確かに東国だけの政権では、ありません。
>> >> と言うしかないですが、司法政権であった事には、間違い無いと思います。
>> >> 朝廷でさえ、裁判を依頼しているくらいなんですから、
>> そういう意味じゃ、平安政府は位階勲等を与える以外に、何かしてたんでしょうか。渤海国の使節の応対(唯一の外交)はしてましたが。
殆何もしていないと、いてるかも。
実際に、九州に侵略と言うか、侵攻があったとき、其れを撃退した人達を無視して何もしていないし。
治安さえ、地方の武士まかせとも言えるし。
>> 藤原三代については、なぜ独立国家としての意識をもう少し明確に持たなかったのだろう、というのが私の疑問です。
これも難しいですね。
まず、藤原氏初代のバックが、朝廷のを代表する藤原氏のガードマンであった源氏である事、
砂金など交易相手であるとともに文化の供給先立った事。
ついでに、までも有るんですけど、漢学者には、中国の事を我国とよんで、其れに加わる事が当然と考える。
人達が居て、其れが中国の侵略をて助けしていた事実が有る。
実のところ売国奴でしかないんだけど、インテリとして政権中枢に食い込んでいる人達の影響。
始末に悪いのは、結構人格者である事が多かったり、優秀であるし自分では、よいことをしているつもりである事(其のつもりは無いが、やってる事は、同じ)
中国の巧いのは、こうゆうのを、巧みに洗脳して膨張している。其れも普段から。
これ其のものと言って良いのだは、ないでしょうか
字も学問の京都から来たものだから。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月4日(月)21時18分57秒 ]
こんばんは。二つありますが、一本化します。
>集落自体は北内郭環濠を切る古墳初頭の住居も何棟かあります。ですから、
>生活臭さがないと言うことは事実ではありません。
今ちょっとどこにあったか出てきませんが、古墳時代初頭の住居はあります。
後期の遺構もあります。終末の住居だけがない(もしくはないと言っていいく
らい少ない)と書かれていたはずです。つまり、終末に入る頃に北内郭は役目
を終え、古墳時代初頭に再び人が住みはじめたということです。
ですから、古墳時代の住居は理由になりません。北内郭が維持されていたかど
うかは、あくまでも、北内郭内及びその周辺に終末期の住居、遺構があるかど
うかだと思いますが。
>抜き取り穴中としても、実質下層の出土です。したがって、考古学の遺構論
>としては、その新しい土器をもって廃棄時期とするのが妥当です。
下層であれば、抜き取りの時期と考えてもいいかもしれませんね。ただ、これ
にはひとつ疑問があります。建物が放棄された時期と柱根が抜き取られた時期
は同じでしょうか?
>ただ最上層に相当量の土器があるのも事実で、集落として密度の濃い状況が続いています。
何か堂々巡りをしているようですが、遺構がないのに環濠中の土器から集落が
あったと言うのはいかがなものかということなんですが。南内郭の中に終末期
の遺構はいったいどのくらいあるのですか。
>環濠の有無、それ自体は大集落、拠点集落の指標ではありません。
その通りです。吉野ヶ里の丘陵上は環濠は残っていても集落ではなかった可能
性を言っています。前の投稿にも書いてあると思いますが、終末期には吉野ヶ
里の人々は丘陵上の内郭を捨て丘陵縁辺に住んでいた、としか思えないんです
が。私の持っている資料からは。土器が出ている以上、丘陵上は何らかの用途
で使われていたとは思いますが。
>それはものすごい量のパンケースの中の土器片が証明しています。
これは、環濠ではなく内郭内の建物跡などの遺構、あるいは遺跡面から出た土
器ということでしょうか?それならば納得しないではないですが。
>北内郭環濠は、後期後半4式頃作られ、
これは誤解を呼びそうですが、新旧の内の新しい方がということでよろしいですね?
>まず、後期においても、いや後期こそが大環濠集落の最盛期で、伊都国、奴
>国の拠点には劣りますが、規模的に大和の唐古に並び、巨大です。
これは一体どの領域を指しているんでしょうか。高島さんのいうような大環濠
だとしたら、唐古の数倍はありますよ。
元の発言 [ Title 方位の誤差と潮流 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月23日(土)22時46分16秒 ]
まず、四国説を主張するばあい、何故四国なのか
を明快に説明する必要があります。
瀬戸内海の海流については、相当勉強いたしましたが
西方から四国上陸が普遍的存在であるばあいは、
佐田岬半島は一体どういう役割を果たしたのかが
全く理解できません。
大論争ではあまり論ずる方はいらっしゃいませんが
讃岐を垂直に抜ける文化と四国の四辺から流入する
文化がありますが、圧倒的に、玉、淡路、高松と
いう経路が優勢であります。
その垂直的文化の流れも、2世紀以前のものであり、
恐らくは、1世紀前後のものとかんがえられます。
私は四国説に関して不勉強であり、明確な回答を
だす立場にありません。この部分の私の興味は
西枕、東枕の分布程度です。
なお、韓国から北九州航路45度のズレと
北九州から瀬戸内海に至る経路にはまった関連性が
ないという立場ですから、最高をお願いする次第です。
元の発言 [ Re: Title 方位の誤差と潮流 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 2月24日(日)04時29分50秒 ]
>> まず、四国説を主張するばあい、何故四国なのか
>> を明快に説明する必要があります。
ホームページを見て頂けたでしょうか?
私が四国東部を強く推す理由は、
『四国東部説は比定地図があるけど、他の説は不明』
だということです。
一般的に、この種の比定とは、「国名」と「地名」を比較しながら
その当時の遺跡が存在することを確認する作業です。
ところが、新井白石や本居宣長以来、これを全ての地域で
まともにやっていないと思います。
(彼等は遺跡地図をもたなかったので、どうしようもなかったでしょうが。)
これまでの比定の問題点をいくつかあげてみます。
(1)邪馬台国、投馬国、狗奴国だけの比定が多い。
(2)24国(特に21国の順序)の構造を無視している。
(3)国名の訳音の知識がない場合が多い。
(4)日本語の音韻の変遷の知識がない場合が多い。
(5)国名、郡名程度しか考慮していない場合が多い。
もし、畿内説、九州説に「きちんとした比定地図」があるならば、
四国を取り上げる必要もないでしょう。
しかし、私は今まで「きちんとした比定地図」を見たことがありません。
#もし他にあれば、喜んで検討します。比定地図と類似地名表があれば
#その類似の度合いを計算できます。
邪馬台国だとたった3音の地名でしかなく、しかも「台」が
「壱」だった可能性もありえます。
「邪馬」だと一般的な地形名「山」でしょうし、あまり比定に
役立ちそうにありません。
しかし、倭人伝では21国は順番にあると記述されており、
もしそうだとすると44音の地名があるようなものです。
これを比定に用いないというのは不思議です。
四国東部説の場合、邪馬台国を除く23国のうち、
20国の国名に対して類似地名(郡名7、主要地名9、遺跡地名4)
が残っていると主張しています。
単純な計算から、こんなことは偶然起こり得ないものと推測しています。
もちろん、こういうことが偶然だと思えば、日本のどこでもよいので、
同様な形でこれ以上に類似する仮の比定案をもってくればいいわけです。
#本当に単純な反論ですし、本当の場所が見つかるかも?
四国東部説の場合、「邪馬台」に対応する類似地名は何かということを
明確に答えられません。しかし、私が比定する3県にまたがる広域
に対応する地名は「ない」のです。(伊予の一名?阿波讃岐土佐?四国東部?)
「日本」なのに、「日本県」がないのはおかしいでしょうか。
「関東」なのに、「関東県」がないのはおかしいでしょうか。
「東京都」なのに、「東京区」がないのはおかしいでしょうか。
つまり、この7万戸という広域国家は、国造本紀における
国名より大きな範囲だと考えられるわけで、地名として
残らない可能性もある、と思うのです。
いずれにせよ、四国東部説を主張するのは、
「他に24国のきちんとした比定地図がない」という理由です。
ですから、「そうじゃない、ここにもこんなステキな比定地図がある!」
といってくれれば、「そっか〜」とこの説を投げ出せます。
#別に四国に住んでるわけでも、お金をもらってるわけでもないので。
元の発言 [ Re: Title 方位の誤差と潮流 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 2月24日(日)04時29分50秒 ]
>> なお、韓国から北九州航路45度のズレと
>> 北九州から瀬戸内海に至る経路にはまった関連性が
>> ないという立場ですから、最高をお願いする次第です。
韓国から北九州航路45度のズレの理由は
どういうことだと思われますか?
壱岐から対馬を望めば、方向は分かるはずなのに、
なぜ「東南」ではなかったのでしょうか?
元の発言 [ 気分の距離 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)01時40分56秒 ]
>> 城攻めの時、正確な距離が判るのと判らないのでは、大変な違いだと思いますけど?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
でも、こう言う場合、大方正しいんですけど。
言われる事は、わかるような気がしますが、
実際問題として、戦力伯仲の場合、命取りの問題です。
戦は、心を攻めるのを上作とする。と言います。
射程を間違えては、敗戦間違い無しと言ってもそう間違ってはいないでしょう。
陣を組んで、逃げられないのに矢が届かなかったりしたら。
次の瞬間、兵達は、意気をあげて矢を打ち返すでしょうし。
>>
>>
>>
>>
>>
でも、中国では、石弓やカタパルトまでは行かないけど長射程の投石器などが、つかわれてます。
これの射程ギリギリまで近づいて準備をした上で城に向かいます。
この時実際に打たれるのでは、大変です。
判断ミスだってあるかもしれませんが、攻める其の時まで、負傷者など出ないのと出るのでは別物でしょう。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)03時38分51秒 ]
>> 藤原三代については、なぜ独立国家としての意識をもう少し明確に持たなかったのだろう、というのが私の疑問です。
馬頭鬼さんが大体説明してくれていますが、その他の理由と
しては、藤原氏以前のアテルイ、安部氏、清原氏などは中央
政府に滅ぼされたという記憶があるからでは?特に藤原氏の
初代は母親が安部氏の女性ですし、清原氏滅亡の時には源義
家と共に戦ってますし。
さらに、藤原氏二代目の時に都から藤原基成が陸奥守として
奥州にやってきて、基成の娘が三代目の妻となってますし、
基成は藤原氏の最高政治顧問と言われていますから、こうい
う状況では朝廷からの独立という発想はなかなか出てこない
のではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
東北と言えば、七世紀に安部比羅夫が軍船約200艘で東北
航海をしています。白村江の戦いに備えての軍事演習と、東
北の調査が目的だったのでしょう。比羅夫の船団は北海道ま
で行ったという説もあるようです。
この時に比羅夫軍は1000人の蝦夷集団を発見するのです
が、二人の蝦夷が走り出てきて『粛慎が襲ってきたので助け
てください』と言う。
そこで比羅夫は武器や絹などを両軍の間に置いて接触しよう
とした。しかし粛慎側は一度は受け取ったものの結局もとの
場所に返したので戦いになったという。粛慎は島に撤退して
柵に立てこもったので、比羅夫が降伏勧告をしたが受け入れ
かれず、最終的には粛慎は妻子を殺して降伏した。
この話、言葉が通じない場合の交渉方法というのが面白いで
すが、言葉が通じないのにどうやって降伏勧告したのか?と
いう疑問もありますね。
粛慎は中国北方の沿海州のあたりの民族ですが、比羅夫が戦
った粛慎と中国の粛慎が同じかどうかは意見が分かれるよう
です。北海道アイヌ説、北海道に大陸の粛慎の前線基地があ
ったという説などがあるようですが、気になるのは後世の藤
原清衡の願文です。
『粛慎、把婁の海蛮、陽に向かう葵の如し』とあり、これは
沿海州の事と考えられますから、藤原氏は沿海州あたりを従
えているという意識があったようです。政治的、軍事的な支
配ではなく経済的な影響力の事と言われているようですが。
また、八世紀になると渤海使は出羽に来航したという話も気
になります。
白村江敗戦後の朝廷は、柵と呼ばれる城を築き海上からでは
なく陸上からの遠征を開始していますが、白村江で水軍が壊
滅したのでしょうか?それとも本格的征服の為には陸軍が必
要という事なのでしょうか?
その後、朝廷に降伏した蝦夷である俘囚は、関東から九州ま
で35ヶ国に強制移住させられ、東北には倭人の移民団が移
住してきています。
また、『皇化に従うといえども野心をまだ持っている』とか
『宮司や百姓は名前を呼ばないで俘囚という。俘囚は皇化に
馴れて恥じとする。早く告知して俘囚と呼ぶのを止めるよう
にすべし』等の記録がありますから、朝廷の東北政策は徹底
したものだったようです。
元の発言 [ Re: Title 方位の誤差と潮流 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月24日(日)07時09分02秒 ]
>> >> なお、韓国から北九州航路45度のズレと
>> >> 北九州から瀬戸内海に至る経路にはまった関連性が
>> >> ないという立場ですから、最高をお願いする次第です。
>> 韓国から北九州航路45度のズレの理由は
>> どういうことだと思われますか?
>> 壱岐から対馬を望めば、方向は分かるはずなのに、
>> なぜ「東南」ではなかったのでしょうか?
やはり、中国の文官の思い込みとしか、答えられないでしょうね。
第一、地理書とするなら、記述は、お粗末の一言。
色々意見有る方は居られるでしょうが、あえて不遜にいえば、そうなる。
とても、軍事行動なんか取れそうも無い記述だし。
なぜ、現場に立ったら、明白な事が、何千年も修正されなかったのか?
それに、作った晋は、魏とはつながりは合っても別王朝なんだから、
批判の遠慮なんかする必要は、小さい。
まさか、王族の司馬氏の誰か(この場合誰かは、せいぜい3人)の明白なミスで、
保護すべき、邪馬台国がクナ国に滅ぼされてしまったのを隠蔽する必要があったとか。
これこそトンでも説ですけど。
其れから、邪馬四さん有りがとうございました。
おかげで、潮流を利用すれば、かなりらくに半島と行き来できる事に、確信持てました。
豊田有恒さんの本で、野生号の航海などで潮目の存在を
知ってはいたのですが、照明する資料に困っていたので、お礼申し上げます。
元の発言 [ Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)03時29分40秒 ]
>>
>>
そうですか、、、
投馬国、狗奴国等比定できなくても決定できるの
ですか。
畿内にそれなりのクニがあったことは誰もが認めて
いるでしょうが、、、
>>
>>
>>
>>
邪馬台国に先んじる奴国、伊都国等の情報が混じって
いるだろうとは思います。
距離の単位は、短里などは存在しないと言われれば
そうかもしれませんが、ただ明らかに約400mで
は説明のつかないものをどうするかでしょうね。
気分とか一昼夜で千里とか、でも2ヶ月だったら
何千里?
また陸行1月は女王に会うために時間がかかった
日数も入ると言われれば、それは不弥国の時点でも
同じでしょう。
風待ちと待機の日数が混じったものなら、距離には
換算できません。
まだまだ謎でいっぱいでしょう。
上の方に書いたけど、それと関連で。
名古屋から東京まで
魏志倭人伝の書き方では、どうなりますか?
東至東京水行二十日だと思いますが。
どうでしょう?
元の発言 [ Re: Title 方位の誤差と潮流 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月24日(日)07時09分02秒 ]
誤字脱字の多いコメントをつけてしまいまして
失礼しました。同じ海ですから、全く関連性がないと
言うのもいささか乱暴でありました。
再度、コメントの主旨を整理いたしますと、
A.朝鮮半島から北九州間の航行
B.瀬戸内海の航行
と分けてみますと、Aは対馬海流による影響が大なのに対し、
B.瀬戸内海は、潮汐の影響が大だと言う点です。
ここではA.について触れてみます。
私も海峡の45度のずれの問題を、海流で説明しよう
とした時期があります。下の図のようにです。
・対馬
対馬海流の方向
↓船の舳先の向き /|
南 /
・壱岐
対馬から壱岐に向かうには方位は南東だが、船の舳先
(進路)は「南」でなければならない、
と言う考え方です。
海流速度、及び船の速度は2ノット程度。
ところがこの考え方には矛盾があります。
逆が成り立たない。
この考えを当てはめると、壱岐から対馬に向かうのには、
船の進路を「西」に取らなければなりません。
一方、野生号は、釜山ー対馬間の航行に失敗した
わけですが、対馬鰐浦に向かう時の船の舳先を
どうしていたかを見ますと、
常に対馬方向に向けています。
実航海では船の舳先を南に向けますと
船が進まないのです。
野生号は1975年7月22日に対馬への航行を実行して
いますが、失敗の最大要因は「風の向き」です。
南風優先の夏場航海では、海流と、風の向き(逆風)により
釜山ー対馬ー壱岐ー松浦の航路は
極めて困難なものとなります。
船はそれ自体が風に対する抵抗となりますので、
帆走する、しないにかかわりません。
ところが、日本側から朝鮮半島に向かうには、全く逆で
順風を受けますので夏場航海は楽です。
季節により取るべき航路は違ったものと考えられます。
ちょっと対馬ー釜山間でイメージを書いてみますと・・。
対馬の住民が朝鮮半島との交易をする場合は、
仮に釜山付近を狗邪韓国に見立てたとしますと、
初夏・夏
沿岸航海
←←←←←←・釜山(狗邪韓国)
・巨済島 ↑
↓ \
\ \ 南東風
\ ・南兄弟島 \
西南西風 \ \
\ \
→→→→→→→・対馬
秋・初冬 冬
風待ち 欠航
・釜山
↑\
\ \
\ \ 北西風
南東風 \ \
\ \
\↓
・対馬
こんな経路になるのでは、ないでしょうか。
秋は台風の時期ですし、風向きも南東風を
期待するのは難しい。渡るとすれば、
台風のシーズンが過ぎ、天候が比較的おだやかな時期。
冬の海峡はものすごく寒く波浪を被り航海するには
辛すぎるように感じます。
この方が実航海を考えれば実現性が高いのですが、
梯儁来倭時期を検討してみると
初夏・夏場のパターンに当てはまり、
倭人伝記載の航路とは矛盾します。
蛇足ですが朝鮮半島西側海路も
対馬海流分流が遡上しますので、
倭国から帯方郡に行くのには良いが、
逆は辛いことが分かります。
私は倭人伝記載の航路は倭人が帯方郡に行く場合の航路
であって、逆は別のルートを取ったのではないか
と考えております。
以上のことから45度問題を海流の観点で見ますと、
机上で朝鮮半島側から倭国に来る経路を考えた場合にのみ
成立する仮説であると判断しました。
一応、私なりの45度問題は、いわゆるトンデモ説、
実証不可能なものですが、蓋天説における、夏至太陽下地
(海南島付近に太陽がある。夏至太陽方向を
南西とみる。実際は太陽は真南なので、45度ずれる)
の錯覚ではないかと考えております。
また、成立時期は渾天説が主流になる以前、
西暦0−1世紀かそれより少し前かなと思っています。
B問題は、機会があれば
私見を述べさせていただきます。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月4日(月)23時05分14秒 ]
>> こんばんは。二つありますが、一本化します。
>> >集落自体は北内郭環濠を切る古墳初頭の住居も何棟かあります。ですから、
>> >生活臭さがないと言うことは事実ではありません。
>> 今ちょっとどこにあったか出てきませんが、古墳時代初頭の住居はあります。
>> 後期の遺構もあります。終末の住居だけがない(もしくはないと言っていいく
>> らい少ない)と書かれていたはずです。つまり、終末に入る頃に北内郭は役目
>> を終え、古墳時代初頭に再び人が住みはじめたということです。
>> ですから、古墳時代の住居は理由になりません。北内郭が維持されていたかど
>> うかは、あくまでも、北内郭内及びその周辺に終末期の住居、遺構があるかど
>> うかだと思いますが。
>> >抜き取り穴中としても、実質下層の出土です。したがって、考古学の遺構論
>> >としては、その新しい土器をもって廃棄時期とするのが妥当です。
>> 下層であれば、抜き取りの時期と考えてもいいかもしれませんね。ただ、これ
>> にはひとつ疑問があります。建物が放棄された時期と柱根が抜き取られた時期
>> は同じでしょうか?
ふつうは同じ時期と考えます。周囲にすぐ住居が建てられるのに、建物だけが崩れかけてそこにあるのも変でしょう。
>> >ただ最上層に相当量の土器があるのも事実で、集落として密度の濃い状況が続いています。
>> 何か堂々巡りをしているようですが、遺構がないのに環濠中の土器から集落が
>> あったと言うのはいかがなものかということなんですが。南内郭の中に終末期
>> の遺構はいったいどのくらいあるのですか。
手許の資料で、分厚い報告書のやつでSH0058、SH0055、SH0057、SH0060、SH0528(四波屋四の坪地区で、丘陵のやや北)が終末です。南内郭新段階(終末を含む)は、竪穴住居があまりなく、環濠との位置関係や切り合い関係、柱穴出土遺物から掘立柱建物主体と考えられているみたいです(細川、渋谷発表資料の図)。まあ、遺構が無いと南内郭新段階環濠に終末の土器がたくさんあるのもおかしいですからこれは妥当でしょう。また南内郭の東半分は削平が著しいのも注意すべき点ですし。
また北内郭周辺では(1997年奥付報告)、SH1113、SH1145、SH1146、SH1307の少なくとも4棟は確実に弥生終末の土器を出しています(土器の図が掲載)。また住居一覧表には、終末の住居として11棟があります。後期後半から別に減っていません。多分、土器の整理が途中なので(一部の住居の残りの良い土器の図しか掲載してない模様)、またまた多少の前後や数が変わることもあるでしょうが、傾向としては認めていいのでは。北内郭環濠に終末の土器も多く含まれているのは言いましたね。
なお、吉野ケ里は資料が膨大なので、報告されているのは一部であることも注意したほうがよいと思います。
>> >環濠の有無、それ自体は大集落、拠点集落の指標ではありません。
>> その通りです。吉野ヶ里の丘陵上は環濠は残っていても集落ではなかった可能
>> 性を言っています。前の投稿にも書いてあると思いますが、終末期には吉野ヶ
>> 里の人々は丘陵上の内郭を捨て丘陵縁辺に住んでいた、としか思えないんです
>> が。私の持っている資料からは。土器が出ている以上、丘陵上は何らかの用途
>> で使われていたとは思いますが。
>> >それはものすごい量のパンケースの中の土器片が証明しています。
>> これは、環濠ではなく内郭内の建物跡などの遺構、あるいは遺跡面から出た土
>> 器ということでしょうか?それならば納得しないではないですが。
布留0式以降は墓地化しますが、その直前までは集落であることは、以上の資料提示で分かってほしいです。もちろん、土器には環濠内のも含みますが。たとえば祭祀とかなら、祭祀セットしか出てないことを証明する必要があります。たまたまゴミ捨て場というなら、何ゆえに丘陵のより高いところへ捨てるのか、と言うことになります(普通は近くの溝とか、より低い谷に捨てるでしょう)。集落があって、生活がそこにあったと考えるのが素直です(この場合は)。調査担当者もそう考えているのです(細川、渋谷氏)。こちらとしては、その評価はともかく、終末まで集落が続いている、内郭も存在する、という事実をとにかく提示することに意味があると考えますから。
>> >北内郭環濠は、後期後半4式頃作られ、
>> これは誤解を呼びそうですが、新旧の内の新しい方がということでよろしいですね?
そうです。
>> >まず、後期においても、いや後期こそが大環濠集落の最盛期で、伊都国、奴
>> >国の拠点には劣りますが、規模的に大和の唐古に並び、巨大です。
>> これは一体どの領域を指しているんでしょうか。高島さんのいうような大環濠
>> だとしたら、唐古の数倍はありますよ。
唐古の環濠帯は30ha範囲を含み、吉野ケ里は40〜45haぐらいでしょ。ただ、吉野ケ里は東側についてはちょっと怪しいところがあるので、大体同じと捉えています。
まあ、吉野ケ里の方が大きくてもいいですが、何倍、まではないですよ。
元の発言 [ Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)03時29分40秒 ]
がっかり。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月21日(木)21時07分11秒 ]
すみません、ごく大雑把な事しか書く時間がありません。
>> まず里程について。
>> >奴國の所在地が現実よりも著しく南に偏して考えられていることを示していると考えられ、里程史料が示す地理認識と一致しています。
>> なぜ現実よりも著しく南に偏しているのか? そこが問題ですよね?
>> 結局のところ、里程表記が誇大であったか、里の単位が異なっていたにもかかわらず撰者は一里400mの換算で見ているかのどちらかということになりましょう。
はい。統一的な里単位が用いられているとは認められませんので、部分的に誇大値が含まれているということになろうかと思います。
>> この七千余里が航海者が島々を密に縫うことから得られた実感であるにせよ、方四千里もまたご指摘のようにその航海者たちの個別の旅程記録から概算されるものであるならば、郡から韓半島西南端までも彼等は四千里と感じていたことになります。1600kmです。実際はどれくらいでしょうか? 直線距離でおおよそ400kmくらいでしょうか? 出航した港がどこかはよくわかりませんが、韓半島西部の南北の海岸線には泰安半島がひとつ出張っておりますが、西南端の木浦まで比較的スムーズな航路ではないかと思います。島々を密に縫うこともなかったのではないでしょうか? それを、四千里と航海者たちが見積もっているのですから、これこそ一里400mではない、里の単位があったことの証左になると思いますがいかがでしょうか?
「方可四千里」は「萬二千餘里」と同じく、東夷の統一的地理像を描き出そうとした、編纂者レベルで概算されたものだと思います。だから、「四千里と航海者たちが見積もっている」わけではないのです。
もっとも、現代の航路でも郡(南浦)から海州・仁川を経て木浦まで866kmですから、古代の航海者がこのルートを四千里と見積もったとしても不思議ではないと思います。
>> ひとくちに渡海千里と申しましても、三回にわたる渡海千里は均等ではありません。ありませんが、けっしていわゆる長里ではございません。
>> これこそ感想ですが、ひょっとすると一日の航海を千里と数えていたのではないか?
>> 郡から狗邪韓国まで、七日。もちろんこれには停泊地での休息を含まない。あくまでも、実質的な航海日数として。狗邪韓国から対海国まで一日。対海国から一大国まで一日。一大国から末盧国まで一日。ま、感想程度です。
海上行程を一昼夜二千里とする観念の存在したことは史料があって知られています。しかし、郡から狗邪韓國まで七日というのは如何でしょう?
>> >奴國・不彌國への里程ばかりでなく、細かく考えれば末盧國から伊都國への里程も、渡海ルートと比較した場合、相対的な距離感としては正しい、とは言えないと思います。
>> 僕は、奴国・不弥国の記事と伊都国までの旅程記事の原史料は別の書き手によるのもであると思います。
>> この伊都国から奴国までが百里と書かれています。この里の感覚は、末盧国から伊都国の五百里の感覚とは明らかに違います。
>> 末盧国から伊都国までの里感覚は渡海千里の感覚と同じと言ってよい。
結局同じことの繰り返しになりますが、一支國から末盧國までの渡海行程が千里。一方、末盧國から伊都國までの陸行は背振山脈越えだったはず。その間が五百里とされている。同じ単位で記されていると言えるような距離感でしょうか?
>> 次に、方位について。
>> >遠距離間の方位があてになる方と考える方がおかしいと考えています。90度程度の誤差は許容範囲内です。
>> そもそも、投馬国・邪馬台国の行程記事の原史料に方位が書かれていたとお考えなのでしょうか?
>> まず、伊都国からどのように南へ水行するのでしょう?
>> 水行二十日、水行十日、陸行一月と遠距離なのですからその道中方位はいろいろと変わることでしょう。
>> ですから、あてになるというよりも書かれていなかったと考えるのが自然ではないかと思います。
>> ではなぜ南と書いたのか、そこが問題ではないでしょうか?
>> 許容範囲云々の問題ではないと考えますがいかがでしょうか?
私は、日程表記部分と原史料として、日誌風の記録を想定しています。その中に断片的に存在した方位に関する記載が、編纂者段階で拡大解釈された可能性が高いのではないかと思います。
ただ、原記録者が玄海灘沿岸地域から見て投馬國・邪馬臺國を南と見なしていたとしても、あまり当てにはならないとも思うのです。
>> > 一方、郭公さんは、里程史料は「自郡至女王國萬二千餘里」とともに本来女王國への道程史料であり、日程史料は畿内の邪馬臺國への道程であるが、それは女王國とは別國であり、女王國が卑彌呼の真の都であって、両者を混同したのは陳壽の誤解であるというお考えのようです。その最大の根拠は、魏略には投馬國・邪馬臺國への日程記事がなかったという想定だと思います。
>> いや、必ずしも『魏略』になかったと申しているのではありません。たぶんなかったろうくらいの感覚です。あってもよいのです。その場合は、
>> 「魏志倭人伝」を「魏略」に、
>> 「陳寿」を「魚豢」に、
>> 読みかえればいいのですから。あるいはもっと遡ってもよいです。要は、撰者と撰者の手元にある史料という関係は変わりませんので。
>> 最大の根拠は、不弥国からどげんして南へ水行すっと? この疑問です。
不彌國から直に南へ向かわなければいけないと言うものでないと思いますが….
元の発言 [ Re: Title 方位の誤差と潮流 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 2月24日(日)17時06分58秒 ]
どうも丁寧な説明ありがとうございました。
季節、風向き、海流の大事さがよく分かります。
>> 一応、私なりの45度問題は、いわゆるトンデモ説、
>> 実証不可能なものですが、蓋天説における、夏至太陽下地
>> (海南島付近に太陽がある。夏至太陽方向を
>> 南西とみる。実際は太陽は真南なので、45度ずれる)
>> の錯覚ではないかと考えております。
対馬−壱岐間は、錯覚と考える他ないかもしれません。
そしてこの理由ならば、錯覚はこの後の行程も続く
ことになります。
あと、意図的に方向を変えた可能性も考えますが、
意図がつかめません。
>> B問題は、機会があれば
>> 私見を述べさせていただきます。
よろしくお願いします。
いまのところ、自説の鮎喰川流域に到達するためには、
潮流の利用、風向の影響によって、「南」を意識しない
といけないのだろうか、と推測しています。
元の発言 [ Re: だから! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月23日(土)23時55分37秒 ]
>>
>>
違います。
(おにりんさんの言う)奴国が回り込む伊都国の南は背振山系だと言ってるんです。
奴国が回り込めるはずが無いでしょう。その南は佐賀平野です。
玄界灘沿岸の各平野は背振山系から舌状に伸びた丘陵や連峰(怡土平野と早良平野の間は高須連峰)によって分離されていて筑後平野と福岡平野だけが僅かに二日市地狭帯で繋がっているだけです。
元の発言 [ Re: だから! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)03時51分05秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
その通り!
貴方が「委奴国」を「イト国」と読む人に対するときの態度と同様です。
もっとも、私は間違いの指摘だけで済ましてますけどネ。
元の発言 [ 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月23日(土)00時00分39秒 ]
>> こんなやり方をしますと、狗邪韓から対馬まで概ね1000里で宜しいようです。
ALEXさん、しばらくです。
測量者は、渡海してるのだから、対海国まで行ったとき、間違いに気が付いてるはずですよね。
その後も、千里と言ってるのだから、この計算方法に基づいていない千里なんじゃないかしら?
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月24日(日)22時16分50秒 ]
>> 測量者は、渡海してるのだから、対海国まで行ったとき、間違いに気が付いてるはずですよね。
>> その後も、千里と言ってるのだから、この計算方法に基づいていない千里なんじゃないかしら?
# ごぶさたです。
# まず、測量者は航海しているとは限りません。数字は一人歩きしますからね。
誰か先人が対馬から佐須奈まで千里と言った事実があれば、月日とともに、対馬から壱岐まで同程度、壱岐可風本から唐津久里まで同程度という具合に数字が出来上がっていってしまう可能性は認めざるを得ないと思います。
私ももとより、周髀家のような机上の思弁家、無用の人が、楽浪いや韓地の果てまで棄民される可能性は認めるに吝さかでないものの、実際に海路島並街道を倭まで行ったとは思っていません。
# 次に、彼が対馬まで実際行ったとしても、間違いに気付いたとは限りません。船が馬の何倍で走るか、当時の誰もが理解していたでしょうか?
現に釜山から厳原まで780里と言われて朝鮮通信使は誰も疑問に思っていないのです。そして彼らの多くが、対馬は東西に長い島と思い込んでいます。
# 現地をよく知っている人間、測量技能のある人間、そして記録を残す人間。これらの間に正しいコミュニケーションが通っていたという保証は何もないのですから、どうやってあの奇異な数字が出来上がったかという問いの答えが特異な距離単位の創設のみであってはならないでしょう。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)03時42分50秒 ]
>>
>>
#韓伝・倭人伝があります、って何度言いましたかね。
>>
>>
#なんでそんな無意味なことをしなきゃいけないの?っていう素朴な疑問がこのやりとりの発端であったことをお忘れですか。それに、私は「魏晋朝の短里」を主張しているのではありません。「倭人伝は短里だ」と言っているだけで。
#手っ取り早く、女王国まで行ってしまいましょう。
[3]倭人伝には、郡より女王国までは12,000余里である、とはっきり書かれている。ところで、郡より末盧国までが1,0000余里であるから、末盧国から女王国までは2,000里ほどであることがわかる。したがって、女王の都は北部九州にあると結論できる。
さて、倭人伝には末盧国から女王国の行程について、水行20日(投馬国)、水行10日陸行1月といった、実際の日本国内の地理に対応しない矛盾した記述がある。この矛盾は、いかなる立場に立つにしても屁理屈を以って説明せざるを得ない。要は、いかに少ない屁理屈で矛盾を解消できるかがポイントとなる。私が[1]に韓国内陸行を取り上げたのは、言うまでもなくこれが「水行10日陸行1月は全行程」という屁理屈を成立させるのに必須であるためだ。
以上、改めて採点するまでもなく、倭人伝を真摯に解そうとする限り、短里=北部九州という結論が得られる。私は論争の意義を大いに認めるものだが、これ以外の結論を主張する論者は、余分に必要となる屁理屈を相殺する圧倒的な論拠を提示すべきであろう。
ろくろく論拠も示さずに、「邪馬台国論争は終わった」などと放言しても面白くありませんよ、おにりんさん。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月24日(日)23時45分58秒 ]
こんばんわ。
割り込みです。
といいことは、海路の距離には意味がない。
7000里も同じことですね。
半島の方四千里は信用できる?
東西南北もあやしいものだ。
日数表記も風待ちや待たされた日数も含まれるでは
何も頼れる資料はないことになりますよ。
何百年もあとの朝鮮通信使の日記を持ってきても
それはたまたま畿内へ行った記録が残っていただけで
たとえば宮崎へ行った記録が残っていれば、同じ
ような意味を持つことができるのではないでしょうか?
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(日)03時46分00秒 ]
>>
>>
>>
>>
#私は知りません。しかし、文字になった情報はしぶといから、「韓・倭が実際より大きくて、南に延びた地形であると言う中国人の地理観念は、倭人伝の里程記事(哩ではない)が作ったのだ」という屁理屈は、否定するのが難しいでしょう。
>>
#私は知りません。これは専門家が研究すべきテーマですね。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月4日(月)23時39分42秒 ]
そもそも、後期後半まで集落があって、終末に無くなり、古墳初頭にまた少しある、と言うのも妙ですよ。
いったい、それ何の文献ですか?
いずれにしても、事実に基づいてるとは言えないようです。
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ あびすぱ ] 日付 [ 2月24日(日)19時25分49秒 ]
>> がっかり。
#昔々、こんぴゅーたなるものが現れた頃、「人工無能」というプログラムが評判を呼びました。もちろん、人工知能をもじった名前です。もちろん、アメリカの大学院生が冗談で作ったものです。本来の名前が何だったのか、私は知りません。
これは、当時のこんぴゅーたでも処理できる極めて単純な規則に基づいて、人と対話をするプログラムです。大体、以下のロジックだったと思います。
a 以下の返答をランダムに選んで返す。
(1)人が入力した文を、単純に疑問文にして、聞き返す。
例:「私は、卑弥呼は九州にいたと思います。」「あなたは、卑弥呼は九州にいたと思うのですか?」
(2)「なぜそう考えるのですか」と聞き返す。
例:「私は、卑弥呼は九州にいたと思います。」「なぜそう考えるのですか」
(3)へー、そうなんですか?と聞き返す。
例:「私は、卑弥呼は九州にいたと思います。」「へー、そうなんですか?」
(4)もっと詳しく説明してください、と聞き返す。
例:「私は、卑弥呼は九州にいたと思います。」「もっと詳しく説明してください」
(5)・・・(もっとあったかな)
b 何回か上記を繰り返し、いくつかのキーワードが蓄積できたら、「ところであなたはさっき****について話していましたね。」と応答する。
c あらかじめ持っているテーマについて、突然語る。
d ログオフに対しては、「ありがとうございました。カウンセリング料金は***円です」と応答する。
大体、こんなだったと思います。
で、私はおにりんさんの発言量からして人間業ではないので、これは人工無能に違いないと確信しています。今回は、cですね。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月25日(月)01時13分22秒 ]
>> といいことは、海路の距離には意味がない。
>> 7000里も同じことですね。
# 意味が無いのではなく、当時の技術水準を勘案すれば千里と認識されうるということです。
実際の南浦−釜山間航路長が合計1,298kmです。これが約3千里に相当します。
これは航続距離の長い現代船舶の場合で、当時ならば寄港回数が著しく多くなりますから、7千里という数字に意味が無いとは言えません。妥当性の範囲内ではないでしょうか?
>> 半島の方四千里は信用できる?
# 7千里から求められた数値である可能性がある以上、そう認識(誤認)されうる範囲内にある言えます。
>> 東西南北もあやしいものだ。
# 実例に即して、誤認されうる範囲を具体的に示しました。
>> 日数表記も風待ちや待たされた日数も含まれるでは
# これまでも幾度となく、実在する記録上の「風待ちや待たされた日数」を示してきました。
>> 何も頼れる資料はないことになりますよ。
# 頼れる資料が無いのではなく、頼れる限界とその範囲を知ることが出来るのです。
>> 何百年もあとの朝鮮通信使の日記を持ってきても
>> それはたまたま畿内へ行った記録が残っていただけで
# そこに一致点が見出せるならば、参考資料として意味があります。
>> たとえば宮崎へ行った記録が残っていれば、同じ
>> ような意味を持つことができるのではないでしょうか?
# 一致点が見出せるような参考資料をお示しいただければ、意味があります。
「史料は無いけれども、どうせ史料はあてにならないのだから適当に○○でいい。」という発想ならば、「比定しうる遺跡はないけれど、遺跡は破壊されてしまったか見つかっていないだけなので○○でいい。」という発想と同じです。
# もちろん大宰府から鹿児島まで1週間という延喜式の記録が、否定的に意味を持っていることは言うまでもありません。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月25日(月)09時46分31秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
半島からは対馬が見え対馬からは壱岐場合によっては吸収だって見える事も有る。
ナノにどうしてだ?
加えて、孫子でしたっけ行軍編でしたか?軍行でしたか
きわめて正確に行軍距離を定めている。
戦闘に突入するための平地での移動距離など。
坂など起伏が有れば、それも極めて正確に考慮しろと書いてなかったっけか?
であれば、距離の単位が変われば、
これが役に立たなくなる。
其れが、狙いなのかな?
つまりは、地理書を使った軍事行動など机上の空論になる。
ついでに、歴史書も、必要な物資量の食料なんか基準が違えば、お笑い。
元々、単位と言うのは、平均的の人間が使いやすい様に、
決められていたはず、自然発生的物は。
中国の歴代王朝って、何考えてたんだろ?
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月24日(日)16時03分36秒 ]
>> まだまだ謎でいっぱいでしょう。
私も同意見。わかんないことだらけです。
でも、比定地に関してだけなら、論争が終わることもありえますね。
さてそこで、邪馬台国比定地論争が終わるとは、
次のどれでしょうか?
(1)個人がある説を正しいと確信する。
(2)大部分の専門家がある説を正しいと確信する。
(3)大部分の人がある説を正しいと確信する。
(1)はどうでもいいし(3)は反例があってありえないので、
(2)でしょうか?
考古学者や歴史学者の大部分が、大和説を正しいと
本当に「確信」できているでしょうか?
もしそうだとすると、あまりにも専門家として
慎重さが欠けているとしかいいようがないです。
「大和説のほうが可能性が高い」
という気持ちなら少し分かりますが。
ちなみに自説はいまのところ、どうでもいい(1)です(笑)
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(月)07時00分32秒 ]
>> 実際の南浦−釜山間航路長が合計1,298kmです。これが約3千里に相当します。
>> これは航続距離の長い現代船舶の場合で、当時ならば寄港回数が著しく多くなりますから、7千里という数字に意味が無いとは言えません。妥当性の範囲内ではないでしょうか?
現代の大型船の場合、座礁の危険性の回避、沿岸漁業船との衝突の危険性の回避などの理由によりはるか沖合いを航海していると考えられますので、航海の距離そのものははるかに膨らんでいるのではないでしょうか。
また、当時の寄港回数について、渡海千里の場合、次の島まで寄港のしようがないわけです。逆に言えば、渡海千里くらいは寄港せずに航海できたことを意味しています。
頻繁な寄港を想定すること自体、さて、どうでしょうか?
海流の関係もあるでしょうが、水夫の休息のためにわざわざ寄港しなくても、海流に任せて先へ進んでいける場合もあると思いますし。
元の発言 [ Re: Title 方位の誤差と潮流 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月24日(日)12時59分02秒 ]
>> やはり、中国の文官の思い込みとしか、答えられないでしょうね。
>> 第一、地理書とするなら、記述は、お粗末の一言。
>> 色々意見有る方は居られるでしょうが、あえて不遜にいえば、そうなる。
>> とても、軍事行動なんか取れそうも無い記述だし。
まあ、もとの資料通り、手を加えずに記述されているようですね。
それもひとつの態度とは思うのですが。
(憶測で勝手に手を加えて、間違うほうが罪が重い気がします。)
>> なぜ、現場に立ったら、明白な事が、何千年も修正されなかったのか?
>> それに、作った晋は、魏とはつながりは合っても別王朝なんだから、
>> 批判の遠慮なんかする必要は、小さい。
>> まさか、王族の司馬氏の誰か(この場合誰かは、せいぜい3人)の明白なミスで、
>> 保護すべき、邪馬台国がクナ国に滅ぼされてしまったのを隠蔽する必要があったとか。
>> これこそトンでも説ですけど。
うむむ、邪馬台国が滅ぼされてしまったとは・・・。
勝ったという記述もないので、結局のところ狗奴国は
侵略されなかったのだろうと想像してます。
#阿波国と長国は敵対していたという話もあるそうです。
そういえば、以前の話になりますが青玉の話です。
蛇紋岩じゃないでしょうか。
徳島県三加茂町の稲持遺跡で多量の蛇紋岩を使用した勾玉が出土しています。
http://www.tokushima-maibun.or.jp/h10kyouzai/inamoti.htm
吉野川や四国山地内の比較的近い場所で採集された可能性が高いようです。
日本の古代遺跡37徳島の195ページの図は面白いです。
弥生終末期において、朱、土器、勾玉が阿波、讃岐、その他の地域
に流通していて、河川を核とした均衡した文化圏を確認できます。
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソでもなんか変 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月25日(月)12時21分17秒 ]
>> 加えて、孫子でしたっけ行軍編でしたか?軍行でしたか
>> きわめて正確に行軍距離を定めている。
>> 戦闘に突入するための平地での移動距離など。
>> 坂など起伏が有れば、それも極めて正確に考慮しろと書いてなかったっけか?
文庫本ではありますが、孫子十三篇の全訳である守屋洋著
『孫氏の兵法』の行軍編にざっと目を通してみましたが、
距離については書いてありませんでした。
主に地形に合わせた戦法について書いてあります。
他には兵士の教育とか、敵の観察、例えば『水汲みで本人が
まっさきに水を飲むのは水不足におちいっている』とか。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月25日(月)15時28分48秒 ]
>> >> 実際の南浦−釜山間航路長が合計1,298kmです。これが約3千里に相当します。
>> >> これは航続距離の長い現代船舶の場合で、当時ならば寄港回数が著しく多くなりますから、7千里という数字に意味が無いとは言えません。妥当性の範囲内ではないでしょうか?
>> 現代の大型船の場合、座礁の危険性の回避、沿岸漁業船との衝突の危険性の回避などの理由によりはるか沖合いを航海していると考えられますので、航海の距離そのものははるかに膨らんでいるのではないでしょうか。
>> また、当時の寄港回数について、渡海千里の場合、次の島まで寄港のしようがないわけです。逆に言えば、渡海千里くらいは寄港せずに航海できたことを意味しています。
>> 頻繁な寄港を想定すること自体、さて、どうでしょうか?
>> 海流の関係もあるでしょうが、水夫の休息のためにわざわざ寄港しなくても、海流に任せて先へ進んでいける場合もあると思いますし。
そもそも古代の人は航行した航路の距離をどのようにして測ったのでしょう。
寄港回数が著しく多いとか沿岸を航海したとかいっても陸上の歩測と違い櫓を漕いだ回数で距離を測る事は不可能でしょう。
航行日数と言っても海流の影響や風の影響、積荷の多少によっても極端にスピードが変ります。
海岸近くを航行したのならA点からB点を海岸を歩測し、A点からB点の航行距離としたのではないでしょうか?
崖や岩場で歩けない所は目測あるいは三角測量するしかありません。
出来る所は歩測し出来ない所は三角測量したと言うのも変です。
歩測が不能な所が一部でもあれば全部が目測あるいは三角測量されたとする方が合理的でしょう。
沿岸航行の距離を目測あるいは三角測量で測定していたのなら細かい紆余曲折はほとんど無視して島と島、岬と岬を直線で測って合計するのが合理的です。
となれば1,298kmより極端に長くなる事はないのではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 質問です。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月25日(月)09時48分54秒 ]
意味不明ですな、、、
いや不弥国がどこであっても(といってもあまり
に山間部では困りますが)南に水行は可能だろうと
いう話で。
国のなかに港というか海岸があれば、その海が北を
向いていようと南に水行は問題ないだろうという事です。
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月25日(月)12時24分01秒 ]
>> でも、比定地に関してだけなら、論争が終わることもありえますね。
問題は、それが邪馬壹國とほんとに言えるかですよ。
魏志倭人伝にある投馬國や狗奴國の場所も比定できずに
邪馬壹國だけが決まることはないでしょう。
現におにりんさんも投馬國の比定では、山陰地方の
可能性をあげてみえます。
かなりの多数の人は吉備ではないかという意見と思われ
ます。
狗奴國尾張論などもありますが、畿内狗奴國論もあります。
残念ながら、まだ終わらないですね。おにりんさん。
>> さてそこで、邪馬台国比定地論争が終わるとは、
>> 次のどれでしょうか?
>> (1)個人がある説を正しいと確信する。
>> (2)大部分の専門家がある説を正しいと確信する。
>> (3)大部分の人がある説を正しいと確信する。
>> (1)はどうでもいいし(3)は反例があってありえないので、
>> (2)でしょうか?
>> 考古学者や歴史学者の大部分が、大和説を正しいと
>> 本当に「確信」できているでしょうか?
>> もしそうだとすると、あまりにも専門家として
>> 慎重さが欠けているとしかいいようがないです。
>> 「大和説のほうが可能性が高い」
>> という気持ちなら少し分かりますが。
>> ちなみに自説はいまのところ、どうでもいい(1)です(笑)
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月25日(月)10時17分04秒 ]
>>
それって小林以来の京大系の説の延長じゃないですか。
おにりんさんは他人をこき下ろすわりにはその程度の説しかもっていなかったとは・・・・。
失望させないでください。
自分の知識を自慢こいてるだけじゃないですか。あーあ。もっとすごい人だと思っていたのに。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(月)07時00分32秒 ]
>> # 意味が無いのではなく、当時の技術水準を勘案すれば千里と認識されうるということです。
>> 実際の南浦−釜山間航路長が合計1,298kmです。これが約3千里に相当します。
>> これは航続距離の長い現代船舶の場合で、当時ならば寄港回数が著しく多くなりますから、7千里という数字に意味が無いとは言えません。妥当性の範囲内ではないでしょうか?
郭公さんも同じような意味で書かれていますが、水行
千里は1昼夜とか2昼夜の意味ではなかったのでしょ
うか?
陸行の千里というような距離と混じって使われている
のならば、何の意味も持たない距離になってしまいます。
まして、渡海の場合のように、寄港することができない
場合、どうするのでしょう?
>> >> 東西南北もあやしいものだ。
>> # 実例に即して、誤認されうる範囲を具体的に示しました。
残念ながらそうとは言えないように思えます。
南を東とするだけではいけないでしょう。
やはり全部の方位を同じように訂正されるべきでは
ないでしょうか?
>> 「史料は無いけれども、どうせ史料はあてにならないのだから適当に○○でいい。」という発想ならば、「比定しうる遺跡はないけれど、遺跡は破壊されてしまったか見つかっていないだけなので○○でいい。」という発想と同じです。
そういう意味ではなく、不確実な数値を含む資料をもって
これが正解と決めつけるのはどうかということです。
まあ、僕の場合箸墓の発掘と亀山の発掘ができれば
それなり納得するかもしれませんが。
残念ながら今のところどちらも無理みたいで、、、
ただ僕の場合、陸行1月が1日の写し間違いの可能性を
捨てきれないのですが、、、
陸行1月でand説なら、出雲が投馬國で日本海航路
陸行1月でOR説なら、投馬國が薩摩で宇佐からの東遷
陸行1日でand説なら吉備が投馬國で畿内
陸行1日でand説なら宇佐から東遷
狗奴國は、基本は熊本あたり、もしかすると畿内または
静岡あたりか
そんな風に考えていますが、、
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ 木花咲耶姫 ] 日付 [ 2月25日(月)20時03分59秒 ]
>> おにりんさんは他人をこき下ろすわりにはその程度の説しかもっていなかったとは・・・・。
>> 失望させないでください。
内容のある反論できないなら
もうこないほうがいいよ。
一度そう公言したんだからね。
四国についての続きです。(マイナーだけど。)
>> その路線でいくと、庄内式の段階で、全国から人があつ
>> まっているように見えるのは、北部九州玄海灘沿岸と、
>> そして、大和であるということですね。
>> で、それだけの大規模遺跡がこの時期に存在するのも、
>> やっぱり、この二箇所ではないかと。
それはそうなのですが、この時代四国東部もかなりの勢いがありそう。
早い段階で、小規模だけど墳墓、古墳がぼこぼこできてるし。
このあたりは、あいまいな話だけど。
>> >> うーん、どうなんでしょうね。
>> >> http://www.kamnavi.net/en/index.htm
>> >> あたりを見るのですが、よく知らないので。
>> >> 大杉氏は、伊邪那岐命、伊邪那美命、大宜都比女神、大國主命、
>> >> 少彦名命あたりはもともとは阿波、讃岐の神だった、
>> >> と主張していたと思うのですが。
>> >> まあ、全国で崇拝される神様ですし・・・。
>> で、地元にどれくらい残っていますか?
讃岐と阿波の延喜式神名帳にある重要そうな神社と奉祀する神様
(大杉氏推薦)を挙げてみます。質問の意味が分かってないかも知れない。
詳しくはここで。
http://www.kamnavi.net/en/index.htm
阿波一宮
大麻比古神社
「大麻比古神 配 猿田彦神」
伊射奈美神社
「伊射奈美命、武甕槌命、經津主命、猿田彦命」
天椅立神社
「伊邪那岐命、伊邪那美命」
倭大國玉神大國敷神社
「大國主神、少彦名神」
忌部神社
「天日鷲翔矢尊、天日鷲命、津咋見命、后神言筥女命、天太玉尊、后神比理能賣命、
長白羽命、由布洲主命、衣織比女命」
天石門別八倉比賣神社(一宮神社)
「天石門別八倉比賣命、大宜都比女神」
八桙神社
「大己貴命」
事代主神社
「事代主命、大國主命」
多祁御奈刀弥神社
「建御名方命 配 八坂刀賣命」
天石門別豊玉比賣神社
波尓移麻比神社
弥都波能賣神社
讃岐一宮 田村神社
「倭迹迹日百襲姫命、五十狹芹彦命 配 猿田彦大神、天隱山命、天五田根命」
讃岐二宮 大水上神社
「大山積命、保牟多別命、宗像大神」
大麻神社
「天太玉命 配 天津彦彦火瓊瓊杵尊、天香語山命、天櫛玉命、天糠戸命、天御陰命、
天神立命、天三降命、天伊佐布魂命、天事湯彦命、天神玉命、天村雲命、天乳速日命、
天活玉命、天下春命、天鈿女命、天道根命、天明玉命、天造日女命、天玉櫛彦命、天日神命、
天伊岐志迩保命、天表春命、天兒屋根命、天椹野命、天背男命、天斗麻彌命、天八坂彦命、
天少彦根命、天月神命」
水主神社
「倭迹迹日百襲姫命」
元の発言 [ アマテラスとアマテル ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(月)13時02分46秒 ]
>>
>>
>>
横から失礼します。
照るという字は農耕民族より海洋民族にふさわしいのではないでしょうか?
日照りが続くなどは農民にとっては忌み嫌うことで、
そういう意味ではアマテル=対馬は頷けます。
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月25日(月)19時02分04秒 ]
>> 問題は、それが邪馬壹國とほんとに言えるかですよ。
>> 魏志倭人伝にある投馬國や狗奴國の場所も比定できずに
>> 邪馬壹國だけが決まることはないでしょう。
そういうことですネ。
>> 現におにりんさんも投馬國の比定では、山陰地方の
>> 可能性をあげてみえます。
そのため、瀬戸内海ルートはないって断言されたわけで、
>> かなりの多数の人は吉備ではないかという意見と思われます。
そうなると、大和説では“南”は“東”ですからネ〜「其“南”有狗奴國」が成り立たない。
考古学は多数決じゃないんだし〜。§^。^§
元の発言 [ あなたは終わった ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月25日(月)21時06分12秒 ]
>> >> おにりんさんは他人をこき下ろすわりにはその程度の説しかもっていなかったとは・・・・。
>> >> 失望させないでください。
>> 内容のある反論できないなら
>> もうこないほうがいいよ。
>> 一度そう公言したんだからね。
以下同文。「馬の耳に念仏」
元の発言 [ Re: Title 方位の誤差と潮流 青玉 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月25日(月)15時32分21秒 ]
>> >> なぜ、現場に立ったら、明白な事が、何千年も修正されなかったのか?
>> >> それに、作った晋は、魏とはつながりは合っても別王朝なんだから、
>> >> 批判の遠慮なんかする必要は、小さい。
>> >> まさか、王族の司馬氏の誰か(この場合誰かは、せいぜい3人)の明白なミスで、
>> >> 保護すべき、邪馬台国がクナ国に滅ぼされてしまったのを隠蔽する必要があったとか。
>> >> これこそトンでも説ですけど。
>> うむむ、邪馬台国が滅ぼされてしまったとは・・・。
>> 勝ったという記述もないので、結局のところ狗奴国は
>> 侵略されなかったのだろうと想像してます。
>> #阿波国と長国は敵対していたという話もあるそうです。
むちゃくちゃトンでも説で、大和クナ国説と言うのは如何でしょうか。
おにりんさんがよく書かれている。ヒミコ伝(漢字また忘れた)の場合には、そうなっていますね。
四国に邪馬台国があって、大和のクナ国に滅ぼされた。
其の時、援軍の要請をしたが、司馬チュウタツは、らしくも無く援軍派遣を賛成せず、
邪馬台国は、滅亡。
其れを、批難され面目を無くしたため肝心な事はわざと削除された。
なんて、冗談は、ここまで。
>> そういえば、以前の話になりますが青玉の話です。
>> 蛇紋岩じゃないでしょうか。
>> 徳島県三加茂町の稲持遺跡で多量の蛇紋岩を使用した勾玉が出土しています。
>> http://www.tokushima-maibun.or.jp/h10kyouzai/inamoti.htm
>> 吉野川や四国山地内の比較的近い場所で採集された可能性が高いようです。
>> 日本の古代遺跡37徳島の195ページの図は面白いです。
>> 弥生終末期において、朱、土器、勾玉が阿波、讃岐、その他の地域
>> に流通していて、河川を核とした均衡した文化圏を確認できます。
如何もありがとうございます。
情報興味深く拝見させてもらいました。
如何も、この蛇紋岩と言うのが、曲者でして、
土佐の遺跡からも蛇紋岩の耳飾が出ているそうです。
其の上、高知には翡翠が出ます。
蛇紋岩の有る湯のものは、確かに中国で業として扱われているようです。
さらに、問題なのは、翡翠、トパーズ、コランダム、
柘榴石、ネフライト、孔雀石などの玉の回りには、必ず存在している事なんです。
加えて、緑色のきれいなものは、上に書いたとうりです。
愛媛にネフライトが、高知には、翡翠が、その他には、孔雀石と言う具合で、
四国と言うのは、この方面からは、有力になってしまうんです。
其の上、工房が見つかっている事
果てどのように今後絞るか頭を抱えています。
アッと、四国の鉄生産のホームページ再度見つけましたので、
参考になれば。
http://www2.inforyoma.or.jp/~mitsubo/kikou/nisibun.html
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソでもなんか変 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 2月25日(月)16時57分34秒 ]
>> >> 加えて、孫子でしたっけ行軍編でしたか?軍行でしたか
>> >> きわめて正確に行軍距離を定めている。
>> >> 戦闘に突入するための平地での移動距離など。
>> >> 坂など起伏が有れば、それも極めて正確に考慮しろと書いてなかったっけか?
>> 文庫本ではありますが、孫子十三篇の全訳である守屋洋著
>> 『孫氏の兵法』の行軍編にざっと目を通してみましたが、
>> 距離については書いてありませんでした。
>> 主に地形に合わせた戦法について書いてあります。
>> 他には兵士の教育とか、敵の観察、例えば『水汲みで本人が
>> まっさきに水を飲むのは水不足におちいっている』とか。
ありがとうございます。
でも、あれ、確かに何かで何里以上の距離を行軍して戦場に駆けつけても兵に戦う力は、無いとか。
強行軍で、さらに戦うには、何里までをめど似せよとか。
間違い無く中国の軍書だったと思うけど、六韜か三略だったのかな?
呉氏だったか?
読んだ覚えがあるのですが。
元の発言 [ Re: 女王之所都(方位) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月22日(金)13時14分00秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
また大和より、早い時期に鉄器を作り出した事も確かです。
本で持って、遅くなりましたけど、茶々入れさせてもらいます。
関西にお引越しとの事ですから、
ぜひとも、漱石先生も赴任中、道後温泉へ通うのに使ったと言うぼちゃん電車でもつかって温泉を楽しんでくださいナンチャって。
ごめんなさい。
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月25日(月)21時26分16秒 ]
>> >> 現におにりんさんも投馬國の比定では、山陰地方の
>> >> 可能性をあげてみえます。
>> そのため、瀬戸内海ルートはないって断言されたわけで、
>> >> かなりの多数の人は吉備ではないかという意見と思われます。
>> そうなると、大和説では“南”は“東”ですからネ〜「其“南”有狗奴國」が成り立たない。
>> 考古学は多数決じゃないんだし〜。§^。^§
大和説で気になる点ですが、本とに最後陸行のみになるかな?
ってな、疑問は、沸かないのでしょうか?
大和に入るには、確かに、道は有るでしょうが、基本的に、
川を使った水行一日以上になるんじゃないかって、気がするんですけど。
びわこも回るより船の方が便利だろうし、其処から山倭来れるより、大荷物があれば、淀川を下って回った方が、楽だし合理的。
元の発言 [ Re: あなたも終わった(雑) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月25日(月)21時31分27秒 ]
>> >> もうこないほうがいいよ。
>> >> 一度そう公言したんだからね。
>> 以下同文。「馬の耳に念仏」
スジが通ってないなあ。
人間スジは通さなきゃ。
ぼくはもう来ないなんて公言してないからね。
自分で言ったことは守らなきゃ。違う?
元の発言 [ 茶々と一緒に 青玉 曲者 蛇紋岩 ] お名前 [ 馬頭着 ] 日付 [ 2月25日(月)21時42分49秒 ]
>> 愛媛にネフライトが、高知には、翡翠が、その他には、孔雀石と言う具合で、
>> 四国と言うのは、この方面からは、有力になってしまうんです。
>> 其の上、工房が見つかっている事
邪馬台国の比定地の周辺では、『弥生時代後期』の
真珠・青玉・丹の「産出・採掘遺跡」と「工房遺跡」
が存在し、それらがかなりの範囲で流通していると
考えられます。これらは結構厳しい条件のように思えます。
四国東部説の場合は、丹は阿南市の若杉山遺跡、
青玉は三加茂町の稲持遺跡が考えられます。
真珠は海人の存在とアワビ類が採取可能な地域
を考えると、徳島県海部郡が産地だと推測されます。
質問なのですが、真珠の加工や流通に関してはどういうことが
分かっているのでしょうか。
>> 果てどのように今後絞るか頭を抱えています。
より詳しい産物の移動地図があったら面白いのですが
大変な作業でしょうね・・・。
>> アッと、四国の鉄生産のホームページ再度見つけましたので、
>> 参考になれば。
>> http://www2.inforyoma.or.jp/~mitsubo/kikou/nisibun.html
西分増井ですね。いまのところ「邪馬国」の遺跡と推定しています。
「山」は一般的な地形名なので順序を保っても比定は難しいです。
ここは弥生時代後期前半まで高地性集落が続いた場所で、
バーガ森、山根、城山など「山」に関係した主要な遺跡があります。
銅鐸と銅矛の混在、鉄器製作跡があったと推測されるのは興味深いですね。
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月25日(月)22時17分44秒 ]
>> >> そうなると、大和説では“南”は“東”ですからネ〜「其“南”有狗奴國」が成り立たない。
>> >> 考古学は多数決じゃないんだし〜。§^。^§
>> 大和説で気になる点ですが、本とに最後陸行のみになるかな?
>> ってな、疑問は、沸かないのでしょうか?
>> 大和に入るには、確かに、道は有るでしょうが、基本的に、
>> 川を使った水行一日以上になるんじゃないかって、気がするんですけど。
>> びわこも回るより船の方が便利だろうし、其処から山倭来れるより、大荷物があれば、淀川を下って回った方が、楽だし合理的。
淀川から木津川を廻って山城までなら割と大きな船でも通行できそうですね。
三世紀は大阪平野の大部分は海の中で、奈良盆地も湖だったり湿地帯という話もあります。
大阪湾から大和川を介して奈良盆地に、纏向までも船で航行していた事は確かです。
大きな船は無理ですがくり舟、筏程度なら棹で付きながら航行していたでしょう。
これを水行と言ったかどうかはわかりません。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月24日(日)20時58分04秒 ]
koujiさん、こんばんは。
>統一的な里単位が用いられているとは認められませんので、部分的に誇大値が含まれているということになろうかと思います。
わからないところが多すぎるのですが、中国本土ではAB間の距離を表すのに、水行であれ、陸行であれ、通った道のりの実体験を元にして表現していたんだろうか? そうだとすれば、世界は極端にでかく表現されていることになります。
会稽東冶の東に南西諸島があり、そのあたりが倭国と言うことになっていますけれども、と言うことは、比例して中国本土もでっかく言いすぎているってことにもならないんですよね。
> もっとも、現代の航路でも郡(南浦)から海州・仁川を経て木浦まで866kmですから、古代の航海者がこのルートを四千里と見積もったとしても不思議ではないと思います。
ALEXさんのレスポンスにも書きましたが、現代の航路は船が大きいから座礁しないように、沿岸漁業の小型船と衝突しないように、深度のある沖合いを航行してるのではないでしょうか? そうすると、航路の距離そのものははるかに膨らみます。
一方、渡海千里が端的に表現していますが、それくらいの距離は寄港せずに航海できていたのですから、頻繁な上陸を想定するほうが無理があるのではないでしょうか。潮流によっては船を漕がないでも進めます。
山陰の海岸には朝鮮半島からと思われる漂流物がちょくちょく見られます。
だから、866kmよりもっと少ない航行距離だったのではないかと思えてならないのです。
> 海上行程を一昼夜二千里とする観念の存在したことは史料があって知られています。しかし、郡から狗邪韓國まで七日というのは如何でしょう?
ちょっとあてずっぽうで言ったんですけど、ありがとうございます。そんな史料があったなんて。ちょっとうれしく思っています。
渡海千里は一日でしょう。朝出て日暮れには次の島に着いているんじゃないかな?
それから判断すれば、七日でも行けてたんじゃないかしら?
> 一方、末盧國から伊都國までの陸行は背振山脈越えだったはず。その間が五百里とされている。同じ単位で記されていると言えるような距離感でしょうか?
末盧国から伊都国の陸行は海岸沿いでしょう。背振山脈を越える必要はありません。
地図的には末盧国―伊都国間と伊都国―奴国間はほぼ等距離。五百里と百里です。
>私は、日程表記部分と原史料として、日誌風の記録を想定しています。その中に断片的に存在した方位に関する記載が、編纂者段階で拡大解釈された可能性が高いのではないかと思います。
この編纂者は陳寿とか魚豢のことでしょうか?
(郭公)
>> 最大の根拠は、不弥国からどげんして南へ水行すっと? この疑問です。
(koujiさん)
> 不彌國から直に南へ向かわなければいけないと言うものでないと思いますが….
ですから、伊都国から奴国不弥国へ陸行してなんで不弥国から水行すっと? しかも南に? この疑問です。
伊都国から水行したらよかろうに。だったらなぜ、そのように書いてないのか。
と考えていくと、箇条書きの聞きとりのリストがあった。それを近い順に繋げたのにちがいないと。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月25日(月)15時28分48秒 ]
>> 現代の大型船の場合、座礁の危険性の回避、沿岸漁業船との衝突の危険性の回避などの理由によりはるか沖合いを航海していると考えられますので、航海の距離そのものははるかに膨らんでいるのではないでしょうか。
# いま南北に直線の海岸があるとします。
イ号船A地点から南に直線距離10海里のB地点まで、半径5海里の半円弧を描きながら進んでBで寄港すると、航行距離は5π海里です。
一方、ロ号船がA地点から半径10海里の四分円弧を描きながら沖10海里まで出ると、同じく航行距離は5π海里で、イ号船およびロ号船ともにA地点から南成分10海里の距離、つまり同緯度で並んでいます。
次に、イ号船が前回と同様更にB地点から南10海里のC地点まで、半径5海里の半円弧を描きながら進んで寄港すると、今回も航行距離は5π海里です。
一方、ロ号船が引き続き南へ沖合10海里地点から南へ直線航路をとって10海里進むと、両船はB地点から南成分10海里の距離、つまり同緯度で並ぶまで進むと、当然今回の航行距離は10海里です。
これをm回繰り返して、最後にロ号船が半径10海里の四分円弧を描きながらN地点に到着しますと、ロ号船の航行距離は10(m+π)海里です。これに対し、イ号船の航行距離は(m+2)×5π海里です。
イ号船の航行距離/ロ号船の航行距離
=(m+2)π/2(m+π)
=(π+2π/m)/(2+2π/m)
ですから、mが極大になればπ/2に収束します。
具体的には
m=08:A〜N地点=100海里のとき1.41倍
m=18:A〜N地点=200海里のとき1.49倍
ということになります。
現実にはリアス式海岸の航行ですから、沿岸に近い方が地形の影響をうけてモデルより迂回が多くなるでしょうし、寄港地も入り江の奥まったところにあれば航行距離ロスが大きくなります。
これを最終的に2倍前後と見積もることは妥当性があるでしょう。
さきに許靖傳で示した現代航路(+陸路)1,002km:三国史「五千餘里」(魏里2,175km)の倍率が2.17倍です。
おおむねこういうところで宜しいかと思います。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月25日(月)23時33分38秒 ]
>> ALEXさんのレスポンスにも書きましたが、現代の航路は船が大きいから座礁しないように、沿岸漁業の小型船と衝突しないように、深度のある沖合いを航行してるのではないでしょうか? そうすると、航路の距離そのものははるかに膨らみます。
# それが逆であることを具体的モデルで示しましたので、参照ください。
>> 一方、渡海千里が端的に表現していますが、それくらいの距離は寄港せずに航海できていたのですから、頻繁な上陸を想定するほうが無理があるのではないでしょうか。潮流によっては船を漕がないでも進めます。
# その千里に信憑性が無いことも既に示したところです。
>> 渡海千里は一日でしょう。朝出て日暮れには次の島に着いているんじゃないかな?
>> それから判断すれば、七日でも行けてたんじゃないかしら?
# 李朝の帆船が子の刻に出帆して未明に推測航海を開始し、佐須奈着がようやく黄昏に間に合うのです。あの海峡で1日100kmは苦しいでしょう。
また、大海原はまだしも、夜間の沿岸航海は想像しにくいと考えます。このへんは直木説に異を唱えるところです。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(月)23時48分18秒 ]
おっちゃんは、数学、わからんと。(^o^)
>> 現実にはリアス式海岸の航行ですから、沿岸に近い方が地形の影響をうけてモデルより迂回が多くなるでしょうし、寄港地も入り江の奥まったところにあれば航行距離ロスが大きくなります。
いや、そうではなく、すくなくとも渡海千里は寄港せずに航海できる技術はあるのですから、湾曲した海岸線に沿わずともその突端を目指して、いわば三角形の2辺ではなく1辺を行くことになりますから、そうすると、沖合いまで出るのより短距離になるのではないかと思いますけど。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月26日(火)00時11分10秒 ]
>> いや、そうではなく、すくなくとも渡海千里は寄港せずに航海できる技術はあるのですから
# ねっす。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月25日(月)20時20分31秒 ]
>> 陸行の千里というような距離と混じって使われている
>> のならば、何の意味も持たない距離になってしまいます。
# 一定のバイアスがかかっていることが解析できれば、復元も可能になる余地が残されているのではないでしょうか。
>> 南を東とするだけではいけないでしょう。
>> やはり全部の方位を同じように訂正されるべきでは
>> ないでしょうか?
# それは原資料が1ソースだと言う暗黙の前提に依存しています。
倭人伝が雑多なパッチワークであることは、最早疑念を差し挟む余地がないと思いますが。
このへんは私と郭公さんの差は僅かです。
>> そういう意味ではなく、不確実な数値を含む資料をもって
>> これが正解と決めつけるのはどうかということです。
# ならば里程論はさっぱり棄てましょう。
異存はありませんよ。
>> 陸行1月でand説なら、出雲が投馬國で日本海航路
>> 陸行1月でOR説なら、投馬國が薩摩で宇佐からの東遷
>> 陸行1日でand説なら吉備が投馬國で畿内
>> 陸行1日でand説なら宇佐から東遷
# 文法的にも文理的にもORは無いでしょう。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(火)00時21分24秒 ]
>> >> いや、そうではなく、すくなくとも渡海千里は寄港せずに航海できる技術はあるのですから
>> # ねっす。
もちろん、この渡海千里は400kmと言ってるのではありませんよ。対海国まで、一大国まで、末盧国までの渡海千里です。あれは、朝出て日暮れまでには着いてますよね。
その感覚で行けばの話だけど、狗邪韓国まで実質航海日数として七日で行けないこともないかな、と。
あくまでも地図上ですが、この三千里と七千余里、比例してません?
だから、ねっすってこともねっすよ。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月26日(火)01時02分15秒 ]
>> あくまでも地図上ですが、この三千里と七千余里、比例してません?
# ねっす。
循海岸の韓7千里は約1,300kmよりも最低+50%であるが、渡海の千里は100kmを超えないので、じぇんじぇん比例いたしません。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(火)00時38分12秒 ]
>> # 一定のバイアスがかかっていることが解析できれば、復元も可能になる余地が残されているのではないでしょうか。
微妙ですね。
>> 倭人伝が雑多なパッチワークであることは、最早疑念を差し挟む余地がないと思いますが。
パッチワークは理解できますが、方位のずれは1000年
以上あとまで残っていたのでは?
>> # 文法的にも文理的にもORは無いでしょう。
中国人は無いとは言えないと言ってましたが、、、
元の発言 [ 入れ墨についてお聞きしたいのですが・・・・。 ] お名前 [ ぐっち ] 日付 [ 2月4日(月)18時52分40秒 ]
>> わたくし、今、いれずみのことを訳あって調べています。しかし、資料がなかなか思うように見つからず、困り果てています。
入れ墨の歴史というと邪馬台国がらみで
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/bbs0103/bbs/12.html
から下のツリーを追っていくと少しは情報が得られるかも。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(火)01時12分12秒 ]
>> 循海岸の韓7千里は約1,300kmよりも最低+50%であるが、渡海の千里は100kmを超えないので、じぇんじぇん比例いたしません。
なぜ渡海千里は直線と見積もるの?
潮流を考えて円弧じゃないの?
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)01時51分17秒 ]
>> 中国人は無いとは言えないと言ってましたが、、、
>>
確かに彼は現代人。私は文言文しらない日本人。
でもあなたは中国人の感覚を理解できない日本人かも。
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)01時49分29秒 ]
>>
>>
奴国の範囲さえわからない。投馬国さえわからずに
それですか?
随分いい加減なお話で。
元の発言 [ Re: 承前 ピクポポデミさん江。タイトルなんでしたっけ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(月)17時55分12秒 ]
木屋の資料館に以下の情報ありました。
****************************************************
「播磨国風土記?美なぎ郡」志深里しじみのさと。志深というのは、伊射報和気(履中天皇)がこの井で御食した時、信深の貝が縁に上がってきた。「この貝は阿波国の和那
散で我が食した貝である哉。故にこの里を志深と名付ける。」
※ 志深(三木市吉田以東、旧志深村)
「阿波国風土記?奈佐浦」逸文、奈佐というのは、其の浦の波の音は止む時がないので奈佐という。海部あまは波を奈佐という。
※ 奈佐浦(徳島県、海部郡海部町穴喰町の海岸。那佐港。)古くは奈佐湾沿岸を広く和奈佐と呼び、大那佐、小那佐という小字名が残っている。
※ 和那散(徳島県、海部郡海部町鞆浦)
「和奈佐意富曾社」現、八幡神社。もっとも古い式内社のひとつ。海部郷の産土神。
****************************************************
このあたり、和佐だの、那佐だのの地名も多いし、華奴蘇奴=南阿波でいいかも知れません。
郡名レベルで消えている地名も多いでしょうね。
あと姐奴ですが、近江の国高島郡角野なんかどうでしょう。
ナがノに転じたプロセスが必要ですが、ふるくからの豪族のいたところです。
佐伯有清、魏志倭人伝を読む 上・下 (歴史文化ライブラリー)、吉川弘文館、2000年
の中の比定地です。
これも郡名ではありません。
姐は奈良朝のサ行に近いですが、サ行についてはまた別に考えるところがあります。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月26日(火)01時42分50秒 ]
>> パッチワークは理解できますが、方位のずれは1000年
>> 以上あとまで残っていたのでは?
# 正しい方位と間違った方位が混在して残っていますから、当初から混在していたと考えても支障ないはずです。
従って、方位を全て一律に改訂することは必須ではないことになります。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月26日(火)01時51分59秒 ]
>> なぜ渡海千里は直線と見積もるの?
>> 潮流を考えて円弧じゃないの?
なぜ潮流の影響で円弧になるのですか?
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(火)00時38分12秒 ]
>> # 文法的にも文理的にもORは無いでしょう。
まず、文法的にORがないというのは聞き捨てならないです。
次に、文理的にというのは水行と陸行の
アンバランスですか?
史書にもいろんなバランスの記述があるし、
その後に必ず説明を書いているわけでもないです。
それから、アンバランスは潮流や風の利用によって
解釈できます。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月26日(火)06時12分21秒 ]
>> >> # 文法的にも文理的にもORは無いでしょう。
>> まず、文法的にORがないというのは聞き捨てならないです。
# 用例がないでしょう。
>> 史書にもいろんなバランスの記述があるし、
>> その後に必ず説明を書いているわけでもないです。
# どのような実例があるでしょうか?
元の発言 [ Re: 長里説はみんなウソでもなんか変 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月25日(月)21時51分30秒 ]
>> ありがとうございます。
>> でも、あれ、確かに何かで何里以上の距離を行軍して戦場に駆けつけても兵に戦う力は、無いとか。
>> 強行軍で、さらに戦うには、何里までをめど似せよとか。
>> 間違い無く中国の軍書だったと思うけど、六韜か三略だったのかな?
>> 呉氏だったか?
>> 読んだ覚えがあるのですが。
孫子で里が出てくるのは、『虚実編』、『軍争編』、『用間
編』ですね。他にも見落としがあるかも知れませんが。
『虚実編』では、戦うべき場所、日時を予測できるならば、
千里も先に遠征したとしても戦いの主導権を握ることができ
る。予測できなければ、右翼と左翼、前衛と後衛でさえも協
力し合う事ができない。まして数里も数十里も離れた友軍を
救援できないのは当然である。
『軍争編』では、昼夜兼行の強行軍で戦場におもむけば、そ
の損害たるや甚大である。すなわち百里の遠征であれば、上
軍、中軍、下軍の三将軍すべて捕虜にされてしまう。
強い兵士だけが先に来て、弱い兵士は取り残され、十分の一
の兵力しか戦場に到着しないからである。
五十里の遠征であれば、半分の兵しか到着しないから上軍の
将軍が討ち取られてしまう。三十里であれば、三分の二の兵
力で戦うことになる。
『用間編』では、十万もの大軍を動員して千里の彼方まで遠
征すれば、国も百姓も一日千金もの戦費を負担しなければな
らない。
と書いてありました。
これらは行軍速度、兵の疲労、輜重の移動、距離による戦費
の負担などを表すものですから、実際の直線距離とどの程度
一致するか分かりませんが。特に『用間編』の千里や千金は
、莫大な戦費がかかるという話であり、おそらく正確な数字
ではないのでしょう。それと、海戦については書かれていな
いようですね。
「孫子」には、里数値が記されている箇所が、下記の4ケある(読み落し
があるかもしれませんが)。
兵法書であるので、正確な距離を表示しているものではないことは勿論で
あるが、戦に際しての臨場感を考えると短里でなければ理解できず、長里で
は、間延びしたものになってしまい、迫力もなにもなくなってしまう。
T 虚実第六
@ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
行くこと「千里」にして労せざるは、無人に地を行けばなり。
「千里」も行軍して疲労しないのは、敵のいない所を進むからで
あると言っている。
戦であるから、行軍といえば輜重や食料を携えてのもので、450
km(長里≒450m)以上も赴いても疲労しないなどとは考えられる
であろうか。
短里(≒80m)で、80 kmなら納得できる。
A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
すべし。
イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
能ず。 ………
而るを、況や遠きは「数十里」近きは「数里」なるをや。
アは、戦いの日時・場所を予測できるなら、たとえ「千里」遠征し
ても、主導権を握れると言っているが、長里では、主導権を握れるな
ど考えられない。
イは、戦いの日時・場所を予測できなければ、左軍は右軍を救うこ
とはできないといって言ってが、短里で「数里(≒400m)」でも困
難だと言っているのは、まさに臨場感あふれるものであろう。
長里の2250mにもなれば、救援などできるものではないので、わ
ざわざ記述するはずがない。
U 軍争第七
ここでは、前段に、重装備のまま全軍をあげて戦場に投入しようと
すれば、敵に後れをとるし、逆に軽装備で急行しようとすれば、輜重
部隊が後方にとりのこされてしまう。
したがって、輜重・食料などの戦略物資を欠けば、作戦は失敗に終
わるということを主張してる。
そのために、ということで、以下のことを記している。
甲を巻きて趨き、日夜處らず、道を倍にして兼行し、「百里」
にして利を争えば、則ち三将軍を檎にせらる。
勁き者は先だち、疲るる者は後れ、その法十にして一至る。
「五十里」にして利を争えば、則ち上将軍を蹶す。
その法半ば至る。
「三十里」にして利を争えば、則ち三分の二至る。
急行軍で戦場に赴くに際し、「百里」であれば、十分の一の勁き者
だけが到着して戦いになるので、先鋒・中堅・後方の三将軍を失うこ
とになると言っている。
この「百里」が短里だとして、8 kmでも急行するとこのような事
態になるといっており、また「三十里(短里≒2400m)」でも三分の
二しか到着できないと言っている。
まさに、この当時の装備などを考えれば納得できる。
V 九地第十一
故に兵を為すの事は、敵の意に順詳し、敵を一向に并せて、
「千里」に将を殺すに在り。
作戦行動は、わざと敵のねらいにはまったふりをしながら、機をとら
えて兵力を集中し、敵の一点に向けることである。
そうすれば、「千里」の遠方に遠征しても敵の将軍を殺すことができ
ると意っている。
「千里」を長里で考えて、450 kmの遠征で、このようなことができ
るだろうか?
これでは、まさに紙上の空論であるが、80 kmならうなずける。
「孫子」は周代の作であるが、その他「易経」「詩経」「孟子」などの周代
の著作も短里でなければ理解できないと思われるものがあるが、これらにつ
いては、別途論じたい。
「考古学へのまなざし」(森浩一、大巧社、1998)を読んだ。
先生も歳をとって、だいぶ《はっきり》ものを言うようになったようだ。
「 ・・・学会の定説や多数意見の仮説を、間違いないものとしてさらに細かい研究を進める人たちがいる。・・・邪馬台国問題を例にとっても、かなり多くの考古学者は『邪馬台国畿内説で間違いないのです』とおっしゃる。僕がいろいろ未証明の点を列挙しても、ごく平然と『いや間違いないのです』と主張する。その信念の強さには敬意を表したいが、正直いって空しさを感じる。」
こういう人たちについて、いろいろな事情はあるのだろうが、といったような表現をしている。先生のような立場の人がそこまで言うか、のリミットぎりぎりじゃないだろうか。
元の発言 [ Re:会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)02時20分40秒 ]
>>
>>
>>
>>
一般的には<その道里を計るに、(倭国は)當に会稽東冶の東に在るべし>ということでしょうが、
おにりんさんは、更にピンポイントに<その道里を計るに、(女王国は)當に会稽東冶の東に在るべし>と、(女王国は)を付け加えて読むということですね。
>>
道里(1万2千余里=約5000q)からみると、卑弥呼の都するところは会稽東冶の東より遙か南にはなりませんか。
それはさておき、
私がここで「問題」にしているのは、女王国(倭国でも同じ)が会稽東冶の東ということは、東[魚是]国の会稽海外を「侵す」ということにはならないのか、ということです。
ちなみに「會稽東冶之東」のスレッドで「問題」にしているのは、<計るに>とは“大陸に当て比べると”といった意味合いであろうから、会稽東冶の「東」は大陸に存在しなければ意味をなさないのでは、ということです。
元の発言 [ ALEXさんぴーんち! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)01時54分08秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
みたいじゃなくて屁理屈そのもの。
理屈こねまわしても目に見える50kmの距離と435kmを間違える事はありえない。
しかも何度も往復した距離を。
そもそも陸上で直線距離は測定できず、距離はもっぱら歩測によってのみ出していたとする人が海上での距離をπ掛けて計算するのは
ナンセンスとしか言いようがない。
海岸の距離だってリアス式では歩測できない所の方が多いのに。
中国人は波の上で足踏みして距離を測ったと言うんだろうか?
元の発言 [ あなたは終わった ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月25日(月)21時06分12秒 ]
失礼しやした。(=_=)
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(火)06時50分11秒 ]
「水行・陸行」の用例がないから、andと結論するのは
論理の飛躍です。類似の表現によって、推測すべきです。
高橋氏の論文「倭人伝の里程記事をめぐって」の八節の概略です。
『まず、旧唐書地理志の嶺南道(巻41)柳州の条に
「至京師(西安)水陸相乗五千四百里四十七里、至東都水陸相乗五千六百里」
とあり、広州(広東省)が
「在京師東南五千四百四十七里、至東都四千九百里」
であるのと考え合わせると、水陸両路の併用の距離であると考えられる。
次に、嶺南道の封州・賣州・桂州の条に京師および東都に至る距離を
「水陸四千五百一十里」とか「水陸四千四十里」とあり、
広州との対応を考えると水路の場合も陸路の場合も共に四千五百一十里か
水陸相乗と解される。
ところが、驩州(ベトナム北部)の条には
「至京師陸路一万二千四百五十二里、水路一万七千里、
至東都一万一千五百九十五里、水路一万六千二百二十里」
となっており倭人伝の記述に近い。
これを共に経過しなければならないとすると
京師へは約三万里、東都へも二万八千里となるが、
広州の距離が五千里程度であることからそれは承服しがたい。』
次に「宋書州郡志」の各州と京都の距離です。
他の州との比較により、これらがorであると考えられます。
現在位置 水路 陸路
江蘇・丹徒 240 220
江蘇・江都 250 180
江蘇・銅山 1360 1000
江西・九江 1400(両又水) 比較
江南・氾水 2700 1700
湖北・襄陽 4400 2100
湖南・長沙 3300(水多し) 比較
これからも分かるとおり、
倭人伝と大小は逆ですが、水路と陸路の里数は必ずしも
比例するわけではありません。
山河を越える場合には、それぞれ違った経路をとらねば
ならないこともあるわけです。
それに記述が少し妙だと思っても、
その理由が判明しなければ記載しなかったと断言できるのでしょうか。
倭人伝は、あまり手を加えずにもとの資料どおりに記載した形跡があり、
そのようなことは決して言えないと思います。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月25日(月)23時33分38秒 ]
郭公さん、こんばんは。
>> >統一的な里単位が用いられているとは認められませんので、部分的に誇大値が含まれているということになろうかと思います。
>> わからないところが多すぎるのですが、中国本土ではAB間の距離を表すのに、水行であれ、陸行であれ、通った道のりの実体験を元にして表現していたんだろうか? そうだとすれば、世界は極端にでかく表現されていることになります。
>> 会稽東冶の東に南西諸島があり、そのあたりが倭国と言うことになっていますけれども、と言うことは、比例して中国本土もでっかく言いすぎているってことにもならないんですよね。
「中国本土」であれば、主要な都市間の道程は把握できているでしょうから、相互に牽制し合って大きな歪みは生じないのではないでしょうか。
>> > もっとも、現代の航路でも郡(南浦)から海州・仁川を経て木浦まで866kmですから、古代の航海者がこのルートを四千里と見積もったとしても不思議ではないと思います。
>> ALEXさんのレスポンスにも書きましたが、現代の航路は船が大きいから座礁しないように、沿岸漁業の小型船と衝突しないように、深度のある沖合いを航行してるのではないでしょうか? そうすると、航路の距離そのものははるかに膨らみます。
>> 一方、渡海千里が端的に表現していますが、それくらいの距離は寄港せずに航海できていたのですから、頻繁な上陸を想定するほうが無理があるのではないでしょうか。潮流によっては船を漕がないでも進めます。
>> 山陰の海岸には朝鮮半島からと思われる漂流物がちょくちょく見られます。
>> だから、866kmよりもっと少ない航行距離だったのではないかと思えてならないのです。
許靖は短里で手紙を書いて曹操に書き送ったのでしょうか。帯方郡から狗邪韓國までの行程の「七千餘里」はこの手紙と距離感を共有しています。いずれも短里ではあり得ないでしょう。
>> > 海上行程を一昼夜二千里とする観念の存在したことは史料があって知られています。しかし、郡から狗邪韓國まで七日というのは如何でしょう?
>> ちょっとあてずっぽうで言ったんですけど、ありがとうございます。そんな史料があったなんて。ちょっとうれしく思っています。
この「観念」の二千里は通常の里での二千里のことで、もちろん実際にはほとんどあり得ない数値です。そもそも南方での地理記述で誇大な里程が出現する理由を説明したものです。興味がおありでしたら篠原俊次「魏志倭人伝の海上里程と南州異物志」(歴史読本特別増刊『日本国家の起源を探る』新人物往来社所収)をどうぞ。
>> > 一方、末盧國から伊都國までの陸行は背振山脈越えだったはず。その間が五百里とされている。同じ単位で記されていると言えるような距離感でしょうか?
>> 末盧国から伊都国の陸行は海岸沿いでしょう。背振山脈を越える必要はありません。
海岸沿いは通れなかったそうです。
>> 地図的には末盧国―伊都国間と伊都国―奴国間はほぼ等距離。五百里と百里です。
従って、5:1とまでは言いませんが、ほぼ等距離とは言えないものと思います。
對馬國の「方四百余里」が必ずしも誇大とはいえないことも先月書きました。以下に引用します。
kouji>> 一支の「方三百里」を取り上げるなら、対馬のも取り上げるべきでしょう。
kouji >> 魏志東沃沮伝では「其地形東北狹、西南長、可千里」とあり、また倭人伝には「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」とあります。極端に方形からかけ離れた地形の場合は、その形状に即した表現を用いていることがわかります。このことからすれば、ほぼ南北方向に極端に細長い形状の対馬の大きさが「方」で表現されているということは、対馬の形状が誤認されている可能性が高いことを意味しています。
kouji>> 金海あたりから対馬・壱岐をへて松浦へ渡る場合、金海を出港して上県の北端付近にたどり着き、上県・下県の海岸沿いに南下して下県の南端付近から壱岐へと渡るはずです。対馬の海岸沿いを南下するルートは、直線で80km弱、つまり180「長里」程度になり、相当に入組んだ海岸線ですから、道のりとしては400里程になると考えられます。
kouji>> つまり、対馬の「方四百余里」は、対馬の形状に対する誤認はあるものの、一辺の長さ四百余里はほぼ正確に把握されていたらしいということになります。
もちろん、面積としては誇大であることも確かなのですが。
ところで、あらためて地図を見なおしてみたところ、狗邪韓國から對馬國までの「千餘里」も誇大ではないのではないかと思われてきました。
まず、狗邪韓國から對馬國への航路を考えてみます。対馬海流を考慮すれば、狗邪韓國(金海)を出港して概ね海岸伝いに巨済島南端付近まで進み、ほぼ東へ向けて外洋に乗り出し、対馬の北端近くに到着後、対馬の海岸沿いに南下するルートを考えるのが妥当なのではないでしょうか。對馬國の主邑は明らかではないようですが、浅茅湾岸を想定しておきます。
金海・巨済島南端・対馬北端・浅茅湾のそれぞれの間の直線距離は以下のとおりです。
金海 −(約65km)→ 巨済島南端 −(約95km)→ 対馬北端 −(約45km)→ 浅茅湾
単純合計すると、約205kmになります。これでもいわゆる短里の範囲を大きく上回っています。沿岸航路部分にあたる約110km(約65km+約45km)の直線距離に対し実際の道程に2倍を見込むと、全体の行程は約110km×2+約95km=約315kmになります。3倍を見込むと約110km×3+95km=約425kmです。狗邪韓國から對馬國までの千餘里は果たして誇大なのでしょうか。
>> >私は、日程表記部分と原史料として、日誌風の記録を想定しています。その中に断片的に存在した方位に関する記載が、編纂者段階で拡大解釈された可能性が高いのではないかと思います。
>> この編纂者は陳寿とか魚豢のことでしょうか?
ここでいっている編纂者とは、各種の史料を綴り合せて東夷の統一的地理像を描き出そうとした人のことです。魏略には既に倭の「萬二千餘里」も韓の「方可四千里」もあったのですから、陳壽がそれをしたわけではないでしょう。魚拳かもしれないし、山尾幸久氏が言うように、最初に魏書を著した王沈かも知れず、長く幽州刺史の地位にあった毋丘儉ということも考えらなくはなさそうです。もちろん、これら以外の人物かもしれません。
>> ですから、伊都国から奴国不弥国へ陸行してなんで不弥国から水行すっと? しかも南に? この疑問です。
>> 伊都国から水行したらよかろうに。だったらなぜ、そのように書いてないのか。
>> と考えていくと、箇条書きの聞きとりのリストがあった。それを近い順に繋げたのにちがいないと。
箇条書きの聴き取りリストという想定では「陸行一月」をどのように理解するのでしょうか。
水行→陸行→水行という行程の不自然さは、里程部分と日程部分が別資料だと考えれば説明つきますよね。日程部分の原史料として、建忠校尉梯儁等実際に玄海灘沿岸から邪馬臺國まで旅した人の日誌風の記録を想定すれば、「陸行一月」も容易に理解できます。里程記事部分の地理認識が後漢の時代に成立していたと考えられる理由についても既に触れました。種々状況を勘案しますと、後漢代に存在した里程記述史料に、魏代に成立した日誌風の記録から投馬國・邪馬臺國への日程記述が追加されたという想定が、蓋然性の高いものと思います。
元の発言 [ 「孫子」は短里 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月26日(火)11時46分16秒 ]
>> 「孫子」には、里数値が記されている箇所が、下記の4ケある(読み落し
>> があるかもしれませんが)。
>> 兵法書であるので、正確な距離を表示しているものではないことは勿論で
>> あるが、戦に際しての臨場感を考えると短里でなければ理解できず、長里で
>> は、間延びしたものになってしまい、迫力もなにもなくなってしまう。
>> T 虚実第六
>> @ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
>> 行くこと「千里」にして労せざるは、無人に地を行けばなり。
>> 「千里」も行軍して疲労しないのは、敵のいない所を進むからで
>> あると言っている。
>> 戦であるから、行軍といえば輜重や食料を携えてのもので、450
>> km(長里≒450m)以上も赴いても疲労しないなどとは考えられる
>> であろうか。
>> 短里(≒80m)で、80 kmなら納得できる。
>> A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
>> すべし。
>> イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
>> 能ず。 ………
>> 而るを、況や遠きは「数十里」近きは「数里」なるをや。
>> アは、戦いの日時・場所を予測できるなら、たとえ「千里」遠征し
>> ても、主導権を握れると言っているが、長里では、主導権を握れるな
>> ど考えられない。
>> イは、戦いの日時・場所を予測できなければ、左軍は右軍を救うこ
>> とはできないといって言ってが、短里で「数里(≒400m)」でも困
>> 難だと言っているのは、まさに臨場感あふれるものであろう。
>> 長里の2250mにもなれば、救援などできるものではないので、わ
>> ざわざ記述するはずがない。
>> U 軍争第七
>> ここでは、前段に、重装備のまま全軍をあげて戦場に投入しようと
>> すれば、敵に後れをとるし、逆に軽装備で急行しようとすれば、輜重
>> 部隊が後方にとりのこされてしまう。
>> したがって、輜重・食料などの戦略物資を欠けば、作戦は失敗に終
>> わるということを主張してる。
>> そのために、ということで、以下のことを記している。
>> 甲を巻きて趨き、日夜處らず、道を倍にして兼行し、「百里」
>> にして利を争えば、則ち三将軍を檎にせらる。
>> 勁き者は先だち、疲るる者は後れ、その法十にして一至る。
>> 「五十里」にして利を争えば、則ち上将軍を蹶す。
>> その法半ば至る。
>> 「三十里」にして利を争えば、則ち三分の二至る。
>> 急行軍で戦場に赴くに際し、「百里」であれば、十分の一の勁き者
>> だけが到着して戦いになるので、先鋒・中堅・後方の三将軍を失うこ
>> とになると言っている。
>> この「百里」が短里だとして、8 kmでも急行するとこのような事
>> 態になるといっており、また「三十里(短里≒2400m)」でも三分の
>> 二しか到着できないと言っている。
>> まさに、この当時の装備などを考えれば納得できる。
>> V 九地第十一
>> 故に兵を為すの事は、敵の意に順詳し、敵を一向に并せて、
>> 「千里」に将を殺すに在り。
>> 作戦行動は、わざと敵のねらいにはまったふりをしながら、機をとら
>> えて兵力を集中し、敵の一点に向けることである。
>> そうすれば、「千里」の遠方に遠征しても敵の将軍を殺すことができ
>> ると意っている。
>> 「千里」を長里で考えて、450 kmの遠征で、このようなことができ
>> るだろうか?
>> これでは、まさに紙上の空論であるが、80 kmならうなずける。
>> 「孫子」は周代の作であるが、その他「易経」「詩経」「孟子」などの周代
>> の著作も短里でなければ理解できないと思われるものがあるが、これらにつ
>> いては、別途論じたい。
どうもありがとうございます。
しかしやはり、中国の王朝なんてないを考えているかわかりませんね。
わざわざ、本を割りにくくしているようですし。
元の発言 [ Re: あなたも終わった(求む回答) ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月25日(月)22時37分54秒 ]
>> >> >> もうこないほうがいいよ。
>> >> >> 一度そう公言したんだからね。
>> >> 以下同文。「馬の耳に念仏」
>> スジが通ってないなあ。
>> 人間スジは通さなきゃ。
> 内容のある反論できないなら
> もうこないほうがいいよ。
ってことで、貴方のレスは矛盾してると思ったんでネ。
だから“(雑)”って付けたんです。(古いルールで、ご存じなかった?)
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月26日(火)20時48分25秒 ]
>> 類似の表現によって、推測すべきです。
# 何度も申しますが、「陸路水路」は「陸行水行」と類似の表現ではありません。異質であります。
「陸水路路」という表現は「路」に最初から「ルート」の概念が入っているので、当然にORであります。史料の年代もだいぶ離れていますが、表現そのものもかなり遠いものです。もとより「行」と「路」が同義語でないことは言うまでもありません。「路」は道であって行く行為を示しませんし、「行」は名詞化しても「行くこと」であって、道ではありません。
慣れ親しんだところでは「北路南路」「北道南道」「陸水道道」など類例がありますが、基本的にOR比較です。「ルート」だから当然と言えば当然ですが。
しかし「陸行水行」と同様の用例として明瞭にANDの例があり、それが年代的にも近い山海經の「山行水行」であります。同じ文型と言ってよろしいでしょう。
より近い類例があるのに表現の質的に異なるものを類例と認められるかといえば、否であります。
>> 次に「宋書州郡志」の各州と京都の距離です。
# これは「圧倒的に水路陸路が同じ/近似している例が多数で、アンバランスなのはレアケースである」という好例でありましょう。
瞥見して襄陽がいちばん乖離の大きい例のようですが、襄陽のように地理条件が周知されている例はなんら解説を要しないでしょう。最大例で2倍程度であれば倭人伝の3倍の異常さがわかると思います。
元の発言 [ 森浩一氏はそう思っているだけ。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)18時48分45秒 ]
>>
>>
>>
>>
大和にあったということを大前提にしなければネ。
「前方後方墳」なんかどうです。
元の発言 [ Re: あなたとは終わった(雑) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月26日(火)22時06分18秒 ]
>> ってことで、貴方のレスは矛盾してると思ったんでネ。
>> だから“(雑)”って付けたんです。(古いルールで、ご存じなかった?)
なるほど。あなたもつまんない茶々入れ専門のひとでしたか。
ほかのレス読んで納得しました。
それではお互い今後バッティングしないようにしましょうね。
ただ最後にひとこと。
よその掲示板で大論争は卒業したと公言してるひとが
別ハンで茶々入れだけに来てることに苦言呈するのは
内容がないというわけね?
あなたも同じようなスタンスのひとなんだから不愉快でしたか。
ぼくは新しいんで知りませんでした。
マジにレスしてごめんなさい。
元の発言 [ 邪馬台国問題は終わっていないらしい ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月26日(火)12時45分32秒 ]
「僕は年号をつけた銅鏡や器物にたいしても、年号があるからといって無条件降伏の形で考古学的な検討を放棄することはあまりにもだらしないことだと以前から指摘してきた。」とも書いておられる。
先生が、自ら東遷説であると述べているのは、初めて読んだ。卑弥呼の頃は九州(どうやら肥後山門)少し後で大和、ということらしい。もちろん考古学者としての裏づけはお持ちだろうが、ちょっと安直な結論のように思う。
最近、古墳時代の開始を3世紀初めに置くことが定説化してきているようだが、先生はそんな説には見向きもせず、旧来どおり100年ほど新しい時代に置いているのは立派。若い学者からは「過去の人」と思われているらしいが、私には円熟して歴史への理解をさらに深めているように思われる。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(火)22時19分05秒 ]
あの・・・論理の飛躍だといっているのですけど。
#私はどちらにも読めるけれど、orの方が一般的だと
#いう主張です。
文の表現としてこれらが全く別物であると言い切れて、
andでしか読めないと主張されているのですよね。
それなら、その古い表現方法を教えてください。
orは、存在しなかったのですか?
それとも、別の表現方法があったのですか?
そして、それらが多くの文書によって、
確認できるということですか?
もしそうなら、素晴らしい発見です。
中国ではand、orという表現に関して、
一変してしまったというのですから。
私はよく知らないのですが、そういう論文がある
ということでしょうか?
それとも、新たに査読誌に発表できる内容
ということですか?
たとえば、山海經の例を出されていましたが、
ああいった本の地理の記述によって、
文の一般的表現方法に関することが断言
できるわけはないですよね。
http://ueno.cool.ne.jp/souryuu/sisou-dou.htm
(地理の記述が荒唐無稽というか、百鬼夜行というか、
ばけものだらけだそうですけど。)
>> # これは「圧倒的に水路陸路が同じ/近似している例が多数で、
アンバランスなのはレアケースである」という好例でありましょう。
>> 瞥見して襄陽がいちばん乖離の大きい例のようですが、
襄陽のように地理条件が周知されている例はなんら解説を要しないでしょう。
最大例で2倍程度であれば倭人伝の3倍の異常さがわかると思います。
襄陽−京都が2.1倍ですね。倭人伝が3倍。
それでは、注釈を入れなければならないラインとして
明確なものがあるということですか?
例えば、推測すると2倍か3倍?
ではその数字にはどのような意味があるのでしょうか?
もう一方の周知されているかいないかの線引きなんてもっと難しそう。
そういうラインをきちんと表現できなかったら、
断定的な主張はできないはずですが。
元の発言 [ Re: 質問です。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)02時13分53秒 ]
>>
>>
>>
おにりんさんはALEXさんと違って、ちゃんと方位は
ずれたままなんだ。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)11時12分25秒 ]
>>
おにりんさんに説明をお願いしようかな。
元の発言 [ 邪馬台国問題は終わっていないらしい ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月26日(火)12時45分32秒 ]
森浩一氏は、慎重な考古学者ですね。
そういえば「邪馬台国と考古学への私見」でこういう話がありましたね。
『森氏が北九州の遺跡を見てまわったとき、合理的な考えの持ち主と
知られる地元の研究者と酒を飲みかわす機会があった。
銚子が空になるにつれ、邪馬台国ヤマト説に懐疑的な森氏に対して
怒りをぶちはじめ、ついには、
「八幡製鉄の本社もない北九州に、君、邪馬台国が本当にあったと
考えているのか」
といいだした。同じ人が論文をかくときには、
”現在の北九州の地には八幡製鉄所の工場があるが本社はない。
本社とは国家にたとえると政権の所在地だ。
そのような土地だから、溯って弥生文化のころにも
同じ状況をあてはめるべきだ”
などということは論証に使わない。
しかし論文には表われずとも、そのような先入観が醸成されている。』
なんだか、同じような話がありましたね。
下らないので、反論する気もおきませんが。
#私は、各説がきちんと24国比定案を提示した上で、
#地名対応や産物の交流などから妥当性を比較するべきだと考えます。
#でも、まともな24国比定案がないので、比べようがないです。
元の発言 [ ALEXさんぴーんち! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)01時54分08秒 ]
>円弧上に航行する船の速度が一定か?なんていうつっこみもありえるし、一定じゃあないならπの意味もないしとか。
# 沖合いを直線的に移動する軌跡と、沿岸に地形に沿って移動する軌跡とどちらが長いかの比較ですから、移動速度には関係ありません。
魏史倭人伝の中の里程記載のうち、…
女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種。
とあるが、この千余里は、それまでの狗邪韓国〜対海国〜一大国〜末盧国のそれぞれの
千余里とほぼ等距離であることは、間違いないであろう。
そこで、もし女王国が、近畿にあったとすると、それから“海を渡ること千余里”と
いうのは、どう説明がつくのだろうか。
近畿(大和や橿原等)の東が、海に臨んでいたということになるが。
倭人伝の里程については、女王国までの論議は、それこそ何十人も行っているが、上
記の一文が忘れられているのではないだろうか。
それとも、ここは“誇大値”ではなく、“矮小値”であるとでも言うのだろうか。
『邪馬壹国』は、近畿王朝ではない。
元の発言 [ Re: ALEXさんぴーんち! ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月26日(火)18時52分51秒 ]
>> 理屈こねまわしても目に見える50kmの距離と435kmを間違える事はありえない。
>> しかも何度も往復した距離を。
# 目に見える50kmの距離と200kmを間違える事があってもですか?
>> そもそも陸上で直線距離は測定できず、距離はもっぱら歩測によってのみ出していたとする人が海上での距離をπ掛けて計算するのはナンセンスとしか言いようがない。
# 陸上の歩行と沿岸の山立て航海のどちらもが、実際の移動距離を経験的に知りうるという観点ですから一貫性があります。むろん推測航海はその限りではありません。
視覚的に捉えられない遠隔地間の直線距離を当時知り得たというアプリオリな仮定ほどナンセンスなものはないでしょう。
>> 中国人は波の上で足踏みして距離を測ったと言うんだろうか?
# 測距の信頼性は、基本的に基長線長に依存します。陸上の目標物を視覚的に捉えるショートレンジの距離感は比較的信頼がおけるので、経験をつんだ船頭は沿岸航海の複雑な軌跡を短い直線の結合で近似的に把握できた可能性は認めてよいでしょう。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月27日(水)00時35分33秒 ]
>> あの・・・論理の飛躍だといっているのですけど。
>> 私はどちらにも読めるけれど、orの方が一般的だと
>> いう主張です。
# 用例もないのに一般的と主張することが論理の飛躍ではないでしょうか?
>> 文の表現としてこれらが全く別物であると言い切れて、
>> andでしか読めないと主張されているのですよね。
>> それなら、その古い表現方法を教えてください。
>> orは、存在しなかったのですか?
>> それとも、別の表現方法があったのですか?
>> そして、それらが多くの文書によって、
>> 確認できるということですか?
# まさに「○路××、△路××」「□道××」が古くから在るORの表現であると申し上げております。ご確認ください。
>> もしそうなら、素晴らしい発見です。
>> 中国ではand、orという表現に関して、
>> 一変してしまったというのですから。
# とくに一変していませんので、発見でもなんでもありません。
>> たとえば、山海經の例を出されていましたが、
>> ああいった本の地理の記述によって、
>> 文の一般的表現方法に関することが断言
>> できるわけはないですよね。
>> (地理の記述が荒唐無稽というか、百鬼夜行というか、
>> ばけものだらけだそうですけど。)
# これは語学の問題ですから、記述内容の信頼性にかかわりなく、古漢語として確認しうる用例であります。
>> そういうラインをきちんと表現できなかったら、
>> 断定的な主張はできないはずですが。
# 同じ出発点、同じ到達点で3倍所要日数が違うことを奇異とは感じませんか?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」は近畿王朝ではない(その5) ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 2月23日(土)21時53分14秒 ]
こんにちは、邪馬四です。
「やま」つながりですね。よろしくお願いします。
>> 最近の紀さんの投稿をみていると、失礼ですが、自説だけを主張し、
他人の意見を無視しているように感じられます。
>> 他人に説明を求めるならば、ご自分に対する質問にもきちんと
答えるべきではないでしょうか。
なんだか答えが返ってこないような雰囲気ですね。
外から眺めると邪馬台国論争って妙ですよね。
畿内説、九州説ともに何らかの欠点を持っていて、
相手の欠点を批判し自説の有利な点を主張しています。
#今は当事者だけど、以前に邪馬台国本をいくつか読んだ時の感想です。
きちんと検討する気はないのだろうかと思います。
たとえば、こんな議論にみえます。
「この金属はなんだろう?」
「金か銀かのどちらかだ!」
「色は金に近そうだ!金説にまちがいない。」
「いや、値段は銀に近そうだ!銀説にまちがいない。」
「伝導率はどっちに近い?」
「比重はどっちに近い?」
・・・・・議論はいつまでも続いていく。
近いかどうかじゃなくて、きちんと値段や色や伝導率や比重を
調べるか測るかすればいいのです。それだけの問題です。
そして、それぞれに欠点あるとしたら、本当の答えは別の金属でしょう。
これは当たり前の話なんですけどね。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月27日(水)06時55分11秒 ]
>> # 用例もないのに一般的と主張することが論理の飛躍ではないでしょうか?
>> >> 文の表現としてこれらが全く別物であると言い切れて、
>> >> andでしか読めないと主張されているのですよね。
>> >> それなら、その古い表現方法を教えてください。
>> >> orは、存在しなかったのですか?
>> >> それとも、別の表現方法があったのですか?
>> >> そして、それらが多くの文書によって、
>> >> 確認できるということですか?
>> # まさに「○路××、△路××」「□道××」が古くから在る
ORの表現であると申し上げております。ご確認ください。
こんな理由で「水行××、陸行××」がandであると断定できますか?
完全に同じ用例がないからといって、逆だと主張できますか?
同様な表現と見る方が、自然ですよ。
水陸両方使うなら「水陸相乗」があるのです。
それに、これって普通の文章表現ですよね。
「A国は面積はこのくらい、B国は面積はこのくらい」
「A商品の価格はいくら、B商品の価格はいくら」
と同様ですよね。
違うといわれるならば、行程の記述が普通の文章とは異なるという
根拠を示してください。
>> # とくに一変していませんので、発見でもなんでもありません。
andしかないと主張するなら、一変ですよ。
そのような主張が学会で揺るぎ無いものになっているのですか?
私は、聞いたことが無いので・・・。
#もしそうだったら、勉強しなくては。
>> >> そういうラインをきちんと表現できなかったら、
>> >> 断定的な主張はできないはずですが。
>> # 同じ出発点、同じ到達点で3倍所要日数が違うことを奇異とは感じませんか?
思います。だけど、その理由が分からないから記載しなかったとは
断言できないと思います。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 大和川湖南 ] 日付 [ 2月10日(日)16時56分19秒 ]
>> 史料は、
>> ・東征毛人五十五國
>> ・西服衆夷六十六國
>> ・渡平海北九十五國
>> つまり王都は、東西に諸国が広がり、かつ朝鮮半島は北にあたらない所。畿内ならぴったりだ。九州北部ははなから失格さ。東西は王都起点じゃないけれど、北は王都起点だなんてデタラメ以外の何物でもないよ。
「毛」という字は、朝鮮半島から倭にまたがって、「東夷」と名付けられ
た国より更に東にあるとしているのだ。
すなわち、中国を中心として、東に「夷」があり、更にその彼方に「毛」
があるとして認識していることを前提として考えなければならないのだ。
これが、中国の大義名分である。
この前提条件のもとで、倭国を近畿だとすると、これの東に「夷」がなけ
ればならないのに、いきなり東を「毛」とし、西に「夷」をすえるのは、い
かがなものかと考える。
これでは、中国王朝内の認識である「夷」や「毛」のイメージを無視して
いることにならないだろうか。
これに対して、倭国が九州だとすると、日本列島の西にある「衆夷」とは、
自らの都を中心として、それをとりまく九州の地其のものを指しているのだ。
中国の天子を基準にして、「東夷」なる自らの地「衆夷」と表現している
のである。
ついでながら、この「大論争」にいろいろな意見を述べている方のなかに、
各史書類の読み手が、それぞれが記された時点の天子を中心とする王朝人で
あるはずなのに、どうも現代人の視点でみているのではないかと思われるこ
とが多々あるように思うのは、小生だけでしょうか。
元の発言 [ Re:会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)00時12分38秒 ]
>>
>>
会稽東冶って、成句でしょ?
ここで「会稽」と言い換えているのは、何故ですか。
>>
>>
森博達氏がいう両者は同じって、倭国と 東[魚是]国が同じってことですか。
(だとすると、南西諸島辺りも「倭地」という可能性もありますね。)
>>
>>
>>
これまで<「東」に倭があるってこと>では近畿説も九州説も四国説も、問題があると考える人はいなかったでしょう。
たしかに、みんながそれで納得しているところへ、小石を投じるようなまねをする私の頭はねじくれているのでしょう。
(しかし、頭が可笑しいと言われているようで、あまりいい気はしません。)
元の発言 [ Re: アマテラスとアマテル ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月5日(火)14時51分39秒 ]
>> 日照りが続くなどは農民にとっては忌み嫌うことで、
>>
>>
>>
>>
>>
邇邇芸の命が筑紫の日向に上陸した時、
「此処はー中略ー朝日の直刺す国、夕日の日照る国」
という言葉があります。
日照りと日射しは概念が違うのではないでしょうか?
元の発言 [ 邪馬台国問題は終わった ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月27日(水)00時21分36秒 ]
ありゃ、へんなタイトルがついてしまった。
元の発言 [ 「孫子」は短里 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月26日(火)11時46分16秒 ]
上の方で私が書いたのとほぼ同じ事を書いているのに、結論
が全然違うというのは面白いですね。
>> 「孫子」には、里数値が記されている箇所が、下記の4ケある(読み落し
>> があるかもしれませんが)。
>> 兵法書であるので、正確な距離を表示しているものではないことは勿論で
>> あるが、戦に際しての臨場感を考えると短里でなければ理解できず、長里で
>> は、間延びしたものになってしまい、迫力もなにもなくなってしまう。
>> T 虚実第六
>> @ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
>> 行くこと「千里」にして労せざるは、無人に地を行けばなり。
>> 「千里」も行軍して疲労しないのは、敵のいない所を進むからで
>> あると言っている。
>> 戦であるから、行軍といえば輜重や食料を携えてのもので、450
>> km(長里≒450m)以上も赴いても疲労しないなどとは考えられる
>> であろうか。
>> 短里(≒80m)で、80 kmなら納得できる。
>> A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
>> すべし。
>> イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
>> 能ず。 ………
>> 而るを、況や遠きは「数十里」近きは「数里」なるをや。
>> アは、戦いの日時・場所を予測できるなら、たとえ「千里」遠征し
>> ても、主導権を握れると言っているが、長里では、主導権を握れるな
>> ど考えられない。
>> イは、戦いの日時・場所を予測できなければ、左軍は右軍を救うこ
>> とはできないといって言ってが、短里で「数里(≒400m)」でも困
>> 難だと言っているのは、まさに臨場感あふれるものであろう。
>> 長里の2250mにもなれば、救援などできるものではないので、わ
>> ざわざ記述するはずがない。
千里というのは正確な距離というより、遠い所という意味じ
ゃないですか?地形や細かい状況を無視して正確な距離を書
いても意味ないですし。
数里、数十里にしても近い距離の表現であり、それほど厳密
な距離とは思えませんが。孥なんか280メートルとんだと
言いますし、数万の軍勢が布陣したら陣形の端から端まで数
キロはある事から考えても、厳密な距離を表しているとは思
えないです。
>> U 軍争第七
>> ここでは、前段に、重装備のまま全軍をあげて戦場に投入しようと
>> すれば、敵に後れをとるし、逆に軽装備で急行しようとすれば、輜重
>> 部隊が後方にとりのこされてしまう。
>> したがって、輜重・食料などの戦略物資を欠けば、作戦は失敗に終
>> わるということを主張してる。
>> そのために、ということで、以下のことを記している。
>> 甲を巻きて趨き、日夜處らず、道を倍にして兼行し、「百里」
>> にして利を争えば、則ち三将軍を檎にせらる。
>> 勁き者は先だち、疲るる者は後れ、その法十にして一至る。
>> 「五十里」にして利を争えば、則ち上将軍を蹶す。
>> その法半ば至る。
>> 「三十里」にして利を争えば、則ち三分の二至る。
>> 急行軍で戦場に赴くに際し、「百里」であれば、十分の一の勁き者
>> だけが到着して戦いになるので、先鋒・中堅・後方の三将軍を失うこ
>> とになると言っている。
>> この「百里」が短里だとして、8 kmでも急行するとこのような事
>> 態になるといっており、また「三十里(短里≒2400m)」でも三分の
>> 二しか到着できないと言っている。
>> まさに、この当時の装備などを考えれば納得できる。
「三十里(短里≒2400m)」といえば、陣形の端から端程度
の距離ですよ?ワーテルローの戦いの時のフランス軍の陣(7
2000人)が大体2500メートルくらいあります。関ヶ
原の戦いにしても狭い関ヶ原盆地ではありますが、数キロに
渡って布陣してますし。
>> V 九地第十一
>> 故に兵を為すの事は、敵の意に順詳し、敵を一向に并せて、
>> 「千里」に将を殺すに在り。
>> 作戦行動は、わざと敵のねらいにはまったふりをしながら、機をとら
>> えて兵力を集中し、敵の一点に向けることである。
>> そうすれば、「千里」の遠方に遠征しても敵の将軍を殺すことができ
>> ると意っている。
>> 「千里」を長里で考えて、450 kmの遠征で、このようなことができ
>> るだろうか?
>> これでは、まさに紙上の空論であるが、80 kmならうなずける。
空論ではないでしょう。
出来なかったら日本のような狭い国でも、全国政権なんか誕
生しないです。平安時代なんか京の朝廷の軍が東北地方を平
定しているんですよ?織田信長も450キロ以上の長距離遠
征に成功しているでしょう。蒙古なんかは東ヨーロッパまで
行ってますね。
私は短里説はよく知りませんが、こういう記録を持って短里
の証明とするのは無理があるでしょう。
元の発言 [ 「孫子」は短里 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月26日(火)11時46分16秒 ]
>> T 虚実第六
>> @ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
>> 行くこと「千里」にして労せざるは、無人に地を行けばなり。
>> 「千里」も行軍して疲労しないのは、敵のいない所を進むからで
>> あると言っている。
>> 戦であるから、行軍といえば輜重や食料を携えてのもので、450
>> km(長里≒450m)以上も赴いても疲労しないなどとは考えられる
>> であろうか。
>> 短里(≒80m)で、80 kmなら納得できる。
>> A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
>> すべし。
>> イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
>> 能ず。 ………
>> 而るを、況や遠きは「数十里」近きは「数里」なるをや。
>> アは、戦いの日時・場所を予測できるなら、たとえ「千里」遠征し
>> ても、主導権を握れると言っているが、長里では、主導権を握れるな
>> ど考えられない。
>> イは、戦いの日時・場所を予測できなければ、左軍は右軍を救うこ
>> とはできないといって言ってが、短里で「数里(≒400m)」でも困
>> 難だと言っているのは、まさに臨場感あふれるものであろう。
>> 長里の2250mにもなれば、救援などできるものではないので、わ
>> ざわざ記述するはずがない。
先ほど厳密な距離ではないと書きましたが、左翼と右翼の間
は確かに2250メートルくらいあるでしょうから、この部
分は大体正確な距離でしょうね。結局短里ではありませんが。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その3) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月27日(水)10時26分09秒 ]
何言ってるのさ。
夷は別に東夷ばかりじゃなく西南夷なんてのも有ったりするんだけど….
それはさておき、「夷」と「毛」の話じゃなく、「東」と「西」と「北」の話をしているんだ。「北」は倭の王都起点じゃなきゃいかんと騒ぎ立てておきながら、「東」と「西」は王都起点じゃないのはおかしいと思わない?しかも、「北」だけには起点は「海」と書いてあるんだ。あんたの言ってることはまるでデタラメだろ?
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 2月27日(水)12時43分36秒 ]
>> >> T 虚実第六
>> >> @ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
>> >> 行くこと「千里」にして労せざるは、無人に地を行けばなり。
>> >> 「千里」も行軍して疲労しないのは、敵のいない所を進むからで
>> >> あると言っている。
>> >> 戦であるから、行軍といえば輜重や食料を携えてのもので、450
>> >> km(長里≒450m)以上も赴いても疲労しないなどとは考えられる
>> >> であろうか。
>> >> 短里(≒80m)で、80 kmなら納得できる。
>> >> A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
>> >> すべし。
>> >> イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
>> >> 能ず。 ………
>> >> 而るを、況や遠きは「数十里」近きは「数里」なるをや。
>> >> アは、戦いの日時・場所を予測できるなら、たとえ「千里」遠征し
>> >> ても、主導権を握れると言っているが、長里では、主導権を握れるな
>> >> ど考えられない。
>> >> イは、戦いの日時・場所を予測できなければ、左軍は右軍を救うこ
>> >> とはできないといって言ってが、短里で「数里(≒400m)」でも困
>> >> 難だと言っているのは、まさに臨場感あふれるものであろう。
>> >> 長里の2250mにもなれば、救援などできるものではないので、わ
>> >> ざわざ記述するはずがない。
>> 先ほど厳密な距離ではないと書きましたが、左翼と右翼の間
>> は確かに2250メートルくらいあるでしょうから、この部
>> 分は大体正確な距離でしょうね。結局短里ではありませんが。
あわてて書いたら勘違いしていたようです。
よく読んでみると、右翼と左翼の距離については書いてありませ
んね。
卑弥呼共立以前からあったと思われますが、
7万戸以上といわれる相当大きなクニです。
いつ頃出来たのでしょうね。
元の発言 [ Re: (里程について)訂正のついでに、、、(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(月)00時45分52秒 ]
おにりんさん、今晩は。ご指摘ありがとうございます。
>> 熟語的構文であり、一般的であるということです。この読み方を全水行にあてるとするならば、沿岸を小刻みに南進、西進して倭国の北岸に着いたと読むほうが、自然だと思いましたし、皆さんの言う道のり距離として読む方法に合うと思いましたので。
>>
>>
>>
>>
列伝にあるのでしょうか。ちょっと解りませんでした。しかし、迂回路が航海路であれば、通常は陸路だったということになるのではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
韓国内水行ということですね。しかし、南漢江を遡上したとして、1000メートル級の山脈に(月岳山や俗離山)ぶつかるので、迂回して洛東江に向かわねばならず、現実的ではないと考えます。地図上の考察だけで申し訳ないのですが。
元の発言 [ Re: ALEXさんぴーんち! ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月27日(水)06時40分41秒 ]
>> # 目に見える50kmの距離と200kmを間違える事があってもですか?
何のことでしょう?
>> >> 中国人は波の上で足踏みして距離を測ったと言うんだろうか?
>> # 陸上の目標物を視覚的に捉えるショートレンジの距離感は比較的信頼がおけるので、経験をつんだ船頭は沿岸航海の複雑な軌跡を短い直線の結合で近似的に把握できた可能性は認めてよいでしょう。
私の言いたいのもまさにそこです。
陸上においても2〜3km程度なら目のいい人間なら家の見える大きさなどでかなり正確な距離が把握でき、短い直線の結合で
長い直線も出せただろうと主張し続けているのです。
句股法についても50km、100kmを一気に測るのではなく10kmくらいの直線を結合していけばいい。
さもなければ面積の計算なんか出来ないでしょう。
そういえば「周髀家には50km先にある山島の上部1/3しか見えていない」という件は
周髀家が山の上に立つ事でも解決しますね?
釜山の竜頭山は190mありますからその上から見れば山島の上部のほとんど全体が見えます。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月26日(火)21時06分43秒 ]
koujiさん、こんばんは。
なかなか腑に落ちないところがあります。
少し前のkoujiさんの書き込み「短里説の解体学」からまず引用します。
>短里説の解体学[2月6日(水)02時11分39秒]
>史料には、帯方郡から不彌国まで一万餘里+七百里とあり、不彌国から邪馬臺国までが水行三十日・陸行一月と明記してあります。一日の行程を三十里(約13km)として60日×30里=1800里。従って、帯方郡から邪馬臺国までは、一万餘里+七百里+千八百里=一万餘里+二千五百里で計一万二千餘里。一里=約435mという「長里」の基準で考えれば史料内部では整合的な記述がなされていることがわかります。つまり、「一万二千餘里」は「長里」を使用して積算されているのです。
> [2月19日(火)21時55分54秒]Re: 女王之所都
>「七千餘里」は当時の循海岸航路として至極まっとうな数字なのです。
一日の行程、三十里(約13km)が妥当だとします。もちろん、休息日もありましょうから、長期の遠征における一日の平均値と考えましょう。
事実、ALEXさんの書き込みに
># 李朝の帆船が子の刻に出帆して未明に推測航海を開始し、佐須奈着がようやく黄昏に間に合うのです。
と、ありますように、一日13km以上移動することもありますので。
郡から、狗邪韓国まで七千余里が至極まっとうな数字であるとするならば、230日以上かかって航海した事になります。
この日数もまっとうな数字なのでしょうか?
一方、狗邪韓国から対馬まで、ALEXさんの書き込みによれば、未明に出てその日の日暮れには着いています。これから類推すれば、壱岐までも一日。末廬国までも一日でしょう。
もちろん休息日がありますのでこの渡海千里三回の総日数が三日とは申しません。また、この渡海千里の三回はまっとうな三千里でもないでしょうから、100日かかったとも申しません。休息日がそれぞれ仮にですが、三日とすれば、対馬で三日、壱岐で三日、渡海千里の一日が三回で三日。
狗邪韓国から十日もあれば末廬まで着けるんじゃないでしょうか?
これから類推すれば、郡から狗邪韓国までがまっとうな七千余里としましても、230日以上もかかりませんよね?
一日の行程三十里(約13km)に無理があるのか、郡から狗邪韓国までをいわゆる長里で七千余里がまっとうでないのか?
(koujiさん)
>> > 一方、末盧國から伊都國までの陸行は背振山脈越えだったはず。その間が五百里とされている。同じ単位で記されていると言えるような距離感でしょうか?
(郭公)
>> 末盧国から伊都国の陸行は海岸沿いでしょう。背振山脈を越える必要はありません。
(koujiさん)
> 海岸沿いは通れなかったそうです。
(郭公)
>> 地図的には末盧国―伊都国間と伊都国―奴国間はほぼ等距離。五百里と百里です。
(koujiさん)
> 従って、5:1とまでは言いませんが、ほぼ等距離とは言えないものと思います。
ここも腑に落ちないのですが、いったい背振山脈を越えてどのようなルートで伊都国へ行ったのでしょうか? 何日かけて?
>箇条書きの聴き取りリストという想定では「陸行一月」をどのように理解するのでしょうか。
上陸して一月歩いたということでよろしいのではないでしょうか。
元の発言 [ Re:会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月27日(水)12時09分04秒 ]
>> >> 実際の直線距離で考えると、帯方から、会稽あたりまでだ
>> >> と、4千里くらいになる。
>> 会稽東冶って、成句でしょ?
成句ってほんとうですか?
沢山の漢文見たわけではありませんが
http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~toyoshi/maruha/kanseki/index.html
で見れるものやALEXさんの漢籍の書棚を検索してみました。
倭人伝関連以外で出てきたのをみたことないんですが。
それも梁書からは「在会稽之東」としかなっていません。
梁書の記述を見ると「去帯方萬二千餘里」など魏志倭人伝をそっくり真似して書いていながら会稽東冶とは書いていません。
成句と言うのは本当か誰かが検証していますか?
>> ここで「会稽」と言い換えているのは、何故ですか。
>> >> 東[魚是] って、発音は、東夷そのものなんで、両者は同
>> >> じだろうっていうのが、森博達氏の見解ですね。
>> 森博達氏がいう両者は同じって、倭国と 東[魚是]国が同じってことですか。
>> (だとすると、南西諸島辺りも「倭地」という可能性もありますね。)
>> >> 会稽東冶までいっちゃう。で、「東」に倭があるってこと
>> >> でしょ。それでなんか問題があると考えるのは、頭がねじ
>> >> くれていると思います。
まあ、投馬国が傍線行程で沖縄であっても不思議はないですね。
元の発言 [ Re: 邪馬台国はいつ頃できた? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)15時47分25秒 ]
>>
>>
21ヶ国は、当然そうなると河内や播磨は入らないわけ
ですよね。
そうすると、21ヶ国は兵庫以西(四国を含む)という
ことになるのでしょうか?
投馬國が吉備だとすると、兵庫、岡山間に見つける事に
なりますね。
ただ投馬國も5万戸という大国なので、それなりに
範囲を考えなくてはいけない。
銅鐸勢力が基本だった畿内で、卑弥呼を共立したこと
によって国が作られたのであるのなら、倭国の乱は
銅鐸勢力の敗北とか衰退ということになるのかな?
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 2月27日(水)15時20分49秒 ]
>> >> >> T 虚実第六
>> >> >> @ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
>> >> >> 行くこと「千里」にして労せざるは、無人に地を行けばなり。
>> >> >> 「千里」も行軍して疲労しないのは、敵のいない所を進むからで
>> >> >> あると言っている。
>> >> >> 戦であるから、行軍といえば輜重や食料を携えてのもので、450
>> >> >> km(長里≒450m)以上も赴いても疲労しないなどとは考えられる
>> >> >> であろうか。
>> >> >> 短里(≒80m)で、80 kmなら納得できる。
>> >> >> A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
>> >> >> すべし。
>> >> >> イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
>> >> >> 能ず。 ………
>> >> >> 而るを、況や遠きは「数十里」近きは「数里」なるをや。
>> >> >> アは、戦いの日時・場所を予測できるなら、たとえ「千里」遠征し
>> >> >> ても、主導権を握れると言っているが、長里では、主導権を握れるな
>> >> >> ど考えられない。
>> >> >> イは、戦いの日時・場所を予測できなければ、左軍は右軍を救うこ
>> >> >> とはできないといって言ってが、短里で「数里(≒400m)」でも困
>> >> >> 難だと言っているのは、まさに臨場感あふれるものであろう。
>> >> >> 長里の2250mにもなれば、救援などできるものではないので、わ
>> >> >> ざわざ記述するはずがない。
>> >> 先ほど厳密な距離ではないと書きましたが、左翼と右翼の間
>> >> は確かに2250メートルくらいあるでしょうから、この部
>> >> 分は大体正確な距離でしょうね。結局短里ではありませんが。
>> あわてて書いたら勘違いしていたようです。
>> よく読んでみると、右翼と左翼の距離については書いてありませ
>> んね。
装備を付けて2Km走り其れから戦うんですか?
自分の経験からすると息が切れて、無理だと思いますけど。
たぶんやを射ても当らないし、白兵戦もちと無理。
奇襲でもなければ、文字通りの各個撃破になるんじゃ?
元の発言 [ Re: あなたとは終わった(複雑) ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月26日(火)22時55分14秒 ]
>> >> ってことで、貴方のレスは矛盾してると思ったんでネ。
>> >> だから“(雑)”って付けたんです。(古いルールで、ご存じなかった?)
>> なるほど。あなたもつまんない茶々入れ専門のひとでしたか。
>> ほかのレス読んで納得しました。
まあ確かに、最近はそういわれても仕方ないレスばかりしていることは反省してる。
何を言っても「近畿に決定!」「九州説は宗教だ!」と言われ続けてりゃ明らかな間違いを指摘する以外に何が出来る?
>> それではお互い今後バッティングしないようにしましょうね。
「馬の耳に念仏」「暖簾に腕押し」ではバッティングのしようがない。
>> ただ最後にひとこと。
>> よその掲示板で大論争は卒業したと公言してるひとが
>> 別ハンで茶々入れだけに来てることに苦言呈するのは
>> 内容がないというわけね?
>> あなたも同じようなスタンスのひとなんだから不愉快でしたか。
???
>> ぼくは新しいんで知りませんでした。
>> マジにレスしてごめんなさい。
木花咲耶姫さんに対する中身のあるレスを期待しましょう。
元の発言 [ Re: 森浩一氏はそう思っているだけ。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)09時35分20秒 ]
>> 大和にあったということを大前提にしなければネ。
>>
>>
それって、単に新聞の見出しじゃないですか。
>>
>>
>>
いえいえ、私も「茶々を入れるだけの人」だそうです。(上のレス)
帯方郡から伊都国までの距離の十分の一だけ奴国から南に行った場所。
倭人条の方位に従って、“南”に(考古学的に)異質な文化圏と接している場所。
>> 「前方後方墳」なんかどうです。
>>
>>
最古級の前方後方墳は三世紀前半しかも、東海じゃなっかたと言う考古学的成果は無視ですか。
九州では佐賀県に5基あるだけで、其の内の4基が吉野ヶ里だということ、
残りの一基も同一文化圏と思われる鳥栖であること、
鳥栖との間に地形的な画期がなさそうな小郡は前方後円墳が固まっていること、
などなどについてはどうお考えでしょう。
お読みになった二百冊の中には何か書いてあったでしょう。
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)09時05分01秒 ]
>>
>>
はぁ、そうですか。
デタラメじゃない案をぜひみてみたいな。
地図と地名書いてね。
元の発言 [ Re: あなたとは終わった(複雑) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月27日(水)21時17分41秒 ]
>> 「馬の耳に念仏」「暖簾に腕押し」ではバッティングのしようがない。
何を指してそう言うわけ?
具体的に言ってもらわないと意味のない罵倒なんだけどなあ。
誰が念仏こいて腕押ししてる?
どんな念仏?
2度まで言うなら具体的に指摘してもらおう。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)09時19分06秒 ]
>>
>>
>>
そんなたいそうな話じゃないでしょ。
同じ文書内で、水行・陸行だとandで
水路・陸路だとorときちんと
使い分けられているという例が多数確認
できればいいだけのことです。
山海經はそうなのかな?
でも地理が荒唐無稽なのにそんなこと
分かるのでしょうか。
それに、そんな暗号みたいな文書があるんでしょうか。
特殊な表現になっていることを知らない人は
読めないことになってしまいますけど。
接続詞という便利なものがあるというのに。
元の発言 [ Re: (里程について)訂正のついでに、、、(承前) ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月4日(月)12時42分29秒 ]
EKさん、今晩は。
>> 横槍、失礼します。私も1年程前、「それでも、しつこく、韓国内は陸行だ」と主張しました。ねたろう さんの一連の発言にはたいへん興味を持っています。さて、
拙い文章でお恥ずかしいのですが、お読み頂きありがとうございます。お気づきの点がありましたらご指摘ください。
>> > 日野さんの論文から、奴国は伊都国からの、投馬国は不彌国からの傍線行程であるといえるでしょう。
>> この件につき最近新たな着想を得ました。日本語の「いたる」は到着する意味ですが、「至」は今日でもそうでない意味に使われている、という(私にとっては)大発見です。
>> 現代の我々でも、自宅の案内図を書くようなときに、「至筑前前原」「至博多」と使いますが、この「至」の使い方と倭人伝の使い方は本質的に同じではないか、ということです。「至奴国」は「こっちの方に奴国があります」という以上の意味はないと理解できます。
確かに、バスや電車の時刻表でおなじみのものです。この「至」の使用法は、古田氏が提唱し、その先例が『漢書』によって確認できることは、日野さんの詳細な検証により明らかです。これは、畿内説の方々との間でも共通認識になってよいのではと考えているのですが…。
元の発言 [ Re: Title 邪馬台国論争は終わった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月26日(火)01時47分52秒 ]
>> 考古学は多数決じゃないんだし〜。§^。^§
>>
>>
>>
>>
おやおやと言うか、やっぱりと言うか。
で、おにりんさんは少数派に居たたまれず多数派に寝返った(失礼)。
まあその方が、付和雷同してて楽でしょうけどネ。
科学的と言うか、科学する態度じゃない。
一切の固定観念、大前提を廃して遺物、遺構、出土状況に向合うのが考古学だと思っている。
付和雷同、断定口調、他説排斥するものは、それだけでも反対する十分な理由、価値があると感じるのは私はへそ曲がりか。
少なくとも、偏差値世代でないことだけは確か。
世が世なら不敬罪で投獄か。(^○^)
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)09時05分01秒 ]
そうだ、たぶん質問することになるから、はじめから聞いとこう。
(1)その邪馬台国、投馬国の比定範囲の考古学的な裏付けはありますか?
(2)21国は順番になっていますか?国名は比定範囲の主要地名に対応していますか?
(3)狗奴国は第二奴国の南ですよね。邪馬台国の南でもあるのかな。
(4)第二奴国は女王国の尽きる所ですか?極南界でもあるんでしたっけ。
(5)なぜ他の国は旁国としてでてこないのですか?
(6)その旁国って大きすぎません?考古学的な裏付けがあるのですか?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」は近畿王朝ではない(その5) ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月27日(水)07時20分08秒 ]
>> こんにちは、邪馬四です。
>> 「やま」つながりですね。よろしくお願いします。
>> >> 最近の紀さんの投稿をみていると、失礼ですが、自説だけを主張し、
>> 他人の意見を無視しているように感じられます。
>> >> 他人に説明を求めるならば、ご自分に対する質問にもきちんと
>> 答えるべきではないでしょうか。
>> なんだか答えが返ってこないような雰囲気ですね。
>> 外から眺めると邪馬台国論争って妙ですよね。
>> 畿内説、九州説ともに何らかの欠点を持っていて、
>> 相手の欠点を批判し自説の有利な点を主張しています。
>> #今は当事者だけど、以前に邪馬台国本をいくつか読んだ時の感想です。
>> きちんと検討する気はないのだろうかと思います。
>> たとえば、こんな議論にみえます。
>> 「この金属はなんだろう?」
>> 「金か銀かのどちらかだ!」
>> 「色は金に近そうだ!金説にまちがいない。」
>> 「いや、値段は銀に近そうだ!銀説にまちがいない。」
>> 「伝導率はどっちに近い?」
>> 「比重はどっちに近い?」
>> ・・・・・議論はいつまでも続いていく。
>> 近いかどうかじゃなくて、きちんと値段や色や伝導率や比重を
>> 調べるか測るかすればいいのです。それだけの問題です。
>> そして、それぞれに欠点あるとしたら、本当の答えは別の金属でしょう。
>> これは当たり前の話なんですけどね。
こんにちわ、山佐留です。
邪馬四さんのおかげで、大論争で四国説がしばしば取り上げられるようになり、マイナーな四国説が少しはメジャーに近づいてきました。
私は邪馬台国土佐説で、邪馬台国の比定地としては四国東部説とお隣りさんです。
現在の邪馬台国論争は、邪馬四さんのおっしゃるとうり、畿内説、九州説ともに決め手に欠けており、同じような議論で堂々巡りをしているような現状に思われます。
そういうことから考えても、畿内でも、九州でもない四国には、いままであまり議論されていないこともあり、邪馬台国の存在した可能性は十分あると考えています。
ちなみに私が参考にしている、邪馬台国土佐説は、北岡南氏(万葉集郷土史研究家)により発表された、「土佐耶馬台国論」が始まりで、現在は橋詰和人氏により引き継がれて、「蘇った遙かなる邪馬台国」などの著書が出版されています。
私は「土佐耶馬台国論」の注目点はその里程論にあると考えています。
邪馬四さんのホームページも見せて頂きましたが、四国へ来る場合の里程解釈について、「土佐耶馬台国論」の場合と少しルートが違っています。
東南陸行五百里、到伊都國、
東南至奴國百里。
東行至不彌國百里。
南至投馬國水行二十日、
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
魏志倭人伝の上記の里程について、「土佐耶馬台国論」では、
唐津付近に上陸後東南へ向かい、日田が伊都国、次に東へ向かい九重町付近が奴国、大分付近が不弥国で、日本海側から豊後水道へ抜けるルートです。
不弥国からは放射式で考えて、南至投馬国は南九州へ、南至邪馬台国は南四国への水行となります。
大論争でも里程論については、ずいぶん議論がされていますが、「土佐耶馬台国論」における里程が、魏志倭人伝の記述に対し、方位、距離ともに合致する可能性がもっとも高いのではないかと考えています。
四国説の場合は、ぜひこのルートも検討してみてください。
元の発言 [ Re: 句股法の陥穽 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月27日(水)22時06分43秒 ]
>> >> 文献学とはなんたるか、っていうのを、きちんと理解しない
>> >> のなら、ALEXさんの主張に対しての反論はできません。
>> >> フィロロジーっつうやつ。
>> そんなたいそうな話じゃないでしょ。
>> 同じ文書内で、水行・陸行だとandで
>> 水路・陸路だとorときちんと
>> 使い分けられているという例が多数確認
>> できればいいだけのことです。
>> 山海經はそうなのかな?
>> でも地理が荒唐無稽なのにそんなこと
>> 分かるのでしょうか。
>> それに、そんな暗号みたいな文書があるんでしょうか。
>> 特殊な表現になっていることを知らない人は
>> 読めないことになってしまいますけど。
>> 接続詞という便利なものがあるというのに。
私も、中国の王朝は何考えてるのかと書いてきましたけど、
変な事を読んだのを、思い出しました。
漢文は、普通に私達が、考えるような文章ではない、と言うのです。
では、何かと言うと、これが、官僚政治支配の方法、手段だと言うんです。
組織や政治の上で、情報を支配し独占するのは、力、権力の元だと。
そして、漢文は、言語や習慣、考え方の根本の違う人間の間で行う情報伝達手段だと言うのです。
飽くまで支配のためですけど。
其のための、簡易暗号でも有ると。
そんな事欠いてたものが、ありましたね。
なんて本か忘れましたけど。
すると、地理や単位がおかしいのも、原文が暗号化されていると見なければ成らないのでしょう。
単位事態、変えちゃえば、昔の記録は役に立たなくなり、
其の正確な換算が出きるものだけの力となる
ソお考えれば、邪馬四さんの話も、有得ますね。
元の発言 [ Re: 邪馬台国はいつ頃できた? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月27日(水)21時04分52秒 ]
yaohideさん こんばんは
魏志倭人伝を素直に読むと「女王の都」=「邪馬臺國」=「戸数7万」ということになるのですが、どう考えてもこれはあり得ない話ですので、この三つの中で1つはイコールで繋がらない別の概念のはずです。
考えるられるのは、
A「女王の都」=「邪馬臺國」で、「戸数7万」は邪馬臺國より広い地域(例えば倭國全体)の戸数を指す。
B「邪馬臺國」=「戸数7万」で、女王の都の名前は不明。
のどちらかでしょう。
マルセ的にはBで、「邪馬臺」とは「たぶん北部九州を含んだ、西日本のかなり広い地域を指す名称」と想像しています(で、21か国も邪馬臺の範囲の中、あまり根拠はありませんが)。「邪馬臺」という地域(首長連合体?)はあっても、「邪馬臺國」というクニは存在しなかったか、あったとしても倭人伝では触れられていないと思ってます。
ちなみに、後に近畿にあった「オオヤマト國」と呼ばれる地域の戸数は、この時期には明らかに7万戸はあったはずがありませんので、「邪馬臺」=「オオヤマト國」はあり得ません。もちろん、「オオヤマト國」が「邪馬臺」の一部だった可能性はあると思いますが。
元の発言 [ 邪馬台国はなかった ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月27日(水)23時42分11秒 ]
このツリーの皆様、こんばんは
A.郡から奴国にいたる人口
B.伊都の人口
C.投馬および邪馬台国の人口
桁が違う話なので、同一の次元でまとめることに無理があります。
Cについては、税制から考えて、交易の盛んな都市部では
税支払い人口は多く、実はそこに集中している人達ってのは自分の土地では税金を払わないし、格好だけ邪馬台国でお金を払うのがステータスシンボルだったのかも知れない。
陳寿さんは、過去の地理史、魏代の史料、直近の情報をもとに、要領よく倭人の話をまとめただけではないか
と、私は考えていますです。
元の発言 [ Re: ALEXさんぴーんち! ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月27日(水)18時54分47秒 ]
>> 陸上においても2〜3km程度なら目のいい人間なら家の見える大きさなどでかなり正確な距離が把握でき、短い直線の結合で
>> 長い直線も出せただろうと主張し続けているのです。
# そういう方法論が存在したという根拠が出てこないのですから、ただ想像で主張されても困るのです。
>> さもなければ面積の計算なんか出来ないでしょう。
# それは面積を計算した実例がなければ主張できないことです。
>> 周髀家が山の上に立つ事でも解決しますね?
>> 釜山の竜頭山は190mありますからその上から見れば山島の上部のほとんど全体が見えます。
# 周髀家は直角三角形の相似を使って計算しますので、全体が見えても観測者が底辺上にいないと条件が整いません。
元の発言 [ Re: ALEXさんぴーんち! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)09時24分19秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
# 想定される航路の実長がどうかという話なので、関係ないのです。
元の発言 [ 「孫子」は短里 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月26日(火)11時46分16秒 ]
紀 智明さん、こんばんわ。
なかなか面白い着眼ですね。
私は長里で説明できるのかなぁと思っていました。
「孫子」自体、戦わないのが基本であって、迫力は関係ありません。
以下、一般的な事例研究です。
T 虚実第六
@ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
正確には「その趨かざる所に出で、その意ざる所に趨く」
事例 BC205〜202:楚漢の戦い
A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
すべし。
イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
能ず。 ………
この後に、「吾以ってこれを度るに、越人の多しといえども
また奚ぞ勝敗に益せんや」と続きます。
これは、戦術論です。事例BC341:馬陵の戦い
U 軍争第七
これは比較的有名で、孫武もあるし、卑近なところでは孔明の北征が
該当します。いずれも、戦術と戦略の問題です。
V 九地第十一
初め処女の如くですね。BC:284田単の用兵 戦術論
いすれも史記または三国志に出典しますが、いずれも戦闘そのものを
説いたものではなく、戦略と、戦術の問題です。該当する事例の距離を
勘案すると、ある程度の目安がでるものと思われます。
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)01時37分50秒 ]
>>
>>
>>
自説くらいのこじつけがあったら、デタラメだと認めますよ
他にもこういうこじつけがあるということですよね。
それなら、日本のどこでもいいから、
一つでいいのでそんな例をぜひ見つけてください。
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)01時34分07秒 ]
>>
>>
>>
ふむ、どの漢字か具体的にお願いします。
そして、どのように読むべきかも。
できれば、国名の漢字だけでいいから表を作ってください。
いくつかの読みがありうる場合は、その範囲を示してください。
自分自身が比定する音があるから、デタラメなんていえるのでしょうから。
それから、色んな比定案みたけど、だいたいこんな子音でしたよ。
母音はゆれが大きいのそうです、音訳の時期が
定まらない以上、確定する気にはならないです。
そこでひとまず、私は長田氏の推定音で考えています。
でも、他の人が推定するときは、
上古から中古音のあいだのゆれだったら認めますけど。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」は近畿王朝ではない(その5) ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 2月27日(水)22時56分46秒 ]
>> ちなみに私が参考にしている、邪馬台国土佐説は、北岡南氏
(万葉集郷土史研究家)により発表された、「土佐耶馬台国論」
が始まりで、現在は橋詰和人氏により引き継がれて、
「蘇った遙かなる邪馬台国」などの著書が出版されています。
図書館で見つからなさそうなので、いろいろお聞かせください。
>> 私は「土佐耶馬台国論」の注目点はその里程論にあると考えています。
>> 邪馬四さんのホームページも見せて頂きましたが、
四国へ来る場合の里程解釈について、「土佐耶馬台国論」
の場合と少しルートが違っています。
倭人伝の末盧よりあとの記述はあいまいで、どちらともとれるようです。
梁書のほうは、直線式ではっきりしているのですが。
私は、放射式(直接経路)と直線式(投馬国経由)の
両方の経路があったと思っています。
>> 魏志倭人伝の上記の里程について、「土佐耶馬台国論」では、
>> 唐津付近に上陸後東南へ向かい、日田が伊都国、
次に東へ向かい九重町付近が奴国、
大分付近が不弥国で、日本海側から豊後水道へ抜けるルートです。
>> 不弥国からは放射式で考えて、南至投馬国は南九州へ、
南至邪馬台国は南四国への水行となります。
福岡経由と佐賀経由がありますが、
なぜ、陸行で前原、福岡、久留米あたりが記述されなかったのでしょうか?
あと、伊都、奴、不彌の地名の対応はどうでしょうか?
>> 大論争でも里程論については、ずいぶん議論がされていますが、「土佐耶馬台国論」
における里程が、魏志倭人伝の記述に対し、方位、距離ともに合致する可能性が
もっとも高いのではないかと考えています。
>> 四国説の場合は、ぜひこのルートも検討してみてください。
そうですね。方向は土佐が一番近いので、この説があるのも理解できます。
土佐はこの当時仁淀川あたりを境にして、西土佐と東土佐が
文化的に分れていたようですが、両方が邪馬台国の範囲でしょうか?
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」は、
きっと本州とするわけですね。
狗奴国が第一の問題になるのですが、どうされていますか?
あと、どの説だろうと最大の難関なのですが、
旁国21国をどのように配置しますか?
地図を作ってみると、他の人にもわかりやすいです。
自説では吉野川流域を邪馬台国にしているので、中心は阿波と讃岐ですが、
土佐と伊予も少しだけ入っています。
高知の考古学の本を読みましたが、縄文時代から面白いところですね。
弥生後期だと、土佐山田町あたりに大規模な集落を形成していますね。
元の発言 [ ぴーんちではない ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(木)00時21分14秒 ]
>> >> 陸上においても2〜3km程度なら目のいい人間なら家の見える大きさなどでかなり正確な距離が把握でき、短い直線の結合で
>> >> 長い直線も出せただろうと主張し続けているのです。
>> # そういう方法論が存在したという根拠が出てこないのですから、ただ想像で主張されても困るのです。
「陸上の目標物を視覚的に捉えるショートレンジの距離感は比較的信頼がおけるので、経験をつんだ船頭は沿岸航海の複雑な軌跡を短い直線の結合で近似的に把握できた可能性は認めてよいでしょう。」
と言うのを認めておいて陸上では認められない?
自分の実証されてない仮説のみを認めて他人のは認めない。
あまりにもご都合主義的じゃああーりませんか?
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)15時32分37秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
#あほくさぇぁーこと、いわんでちょ。そんなにまばらに展開するわけないでしょ。
元の発言 [ 火魅子伝を読もう ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)01時19分24秒 ]
>> 装備を付けて2Km走り其れから戦うんですか?
>> 自分の経験からすると息が切れて、無理だと思いますけど。
>>
想像は、よろしいんですが。
私は、経験を言っているんですけど。
どの程度の長距離集団行動をご経験かは、分かりませんが、
武器を持ち、装備を付けて出せる最大の速度で、息も整えずに、そのまま突入なんて、想像したくもありません。
元の発言 [ 火魅子伝を読もう ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)01時19分24秒 ]
>> 装備を付けて2Km走り其れから戦うんですか?
>> 自分の経験からすると息が切れて、無理だと思いますけど。
>>
想像は、よろしいんですが。
私は、経験を言っているんですけど。
どの程度の長距離集団行動をご経験かは、分かりませんが、
武器を持ち、装備を付けて出せる最大の速度で、息も整えずに、そのまま突入なんて、想像したくもありません。
元の発言 [ 想像力欠如より経験の欠如 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月28日(木)12時26分14秒 ]
>> >> >> 装備を付けて2Km走り其れから戦うんですか?
>> >> >> 自分の経験からすると息が切れて、無理だと思いますけど。
>> >> 想像力欠如です。火魅子伝をよみましょう。
失礼、一応好きなので、読ませてもらっています。
>> 想像は、よろしいんですが。
>> 私は、経験を言っているんですけど。
>> どの程度の長距離集団行動をご経験かは、分かりませんが、
>> 武器を持ち、装備を付けて出せる最大の速度で、息も整えずに、そのまま突入なんて、想像したくもありません。
昔の寒稽古などの他に色々思い出しての結論ですので。
元の発言 [ ご都合主義的 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月28日(木)06時43分05秒 ]
>> >> >> 陸上においても2〜3km程度なら目のいい人間なら家の見える大きさなどでかなり正確な距離が把握でき、短い直線の結合で
>> >> >> 長い直線も出せただろうと主張し続けているのです。
>> >> # そういう方法論が存在したという根拠が出てこないのですから、ただ想像で主張されても困るのです。
>> 「陸上の目標物を視覚的に捉えるショートレンジの距離感は比較的信頼がおけるので、経験をつんだ船頭は沿岸航海の複雑な軌跡を短い直線の結合で近似的に把握できた可能性は認めてよいでしょう。」
>> と言うのを認めておいて陸上では認められない?
>> 自分の実証されてない仮説のみを認めて他人のは認めない。
>> あまりにもご都合主義的じゃああーりませんか?
ご都合主義ではなく、具体的な証拠がないと言っているだけ
ではないですか?可能性を論じていたらきりがないですし。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月27日(水)21時11分59秒 ]
>> >> >> >> T 虚実第六
>> >> >> >> @ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
>> >> >> >> 行くこと「千里」にして労せざるは、無人に地を行けばなり。
>> >> >> >> 「千里」も行軍して疲労しないのは、敵のいない所を進むからで
>> >> >> >> あると言っている。
>> >> >> >> 戦であるから、行軍といえば輜重や食料を携えてのもので、450
>> >> >> >> km(長里≒450m)以上も赴いても疲労しないなどとは考えられる
>> >> >> >> であろうか。
>> >> >> >> 短里(≒80m)で、80 kmなら納得できる。
>> >> >> >> A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
>> >> >> >> すべし。
>> >> >> >> イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
>> >> >> >> 能ず。 ………
>> >> >> >> 而るを、況や遠きは「数十里」近きは「数里」なるをや。
>> >> >> >> アは、戦いの日時・場所を予測できるなら、たとえ「千里」遠征し
>> >> >> >> ても、主導権を握れると言っているが、長里では、主導権を握れるな
>> >> >> >> ど考えられない。
>> >> >> >> イは、戦いの日時・場所を予測できなければ、左軍は右軍を救うこ
>> >> >> >> とはできないといって言ってが、短里で「数里(≒400m)」でも困
>> >> >> >> 難だと言っているのは、まさに臨場感あふれるものであろう。
>> >> >> >> 長里の2250mにもなれば、救援などできるものではないので、わ
>> >> >> >> ざわざ記述するはずがない。
>> >> >> 先ほど厳密な距離ではないと書きましたが、左翼と右翼の間
>> >> >> は確かに2250メートルくらいあるでしょうから、この部
>> >> >> 分は大体正確な距離でしょうね。結局短里ではありませんが。
>> >> あわてて書いたら勘違いしていたようです。
>> >> よく読んでみると、右翼と左翼の距離については書いてありませ
>> >> んね。
>> 装備を付けて2Km走り其れから戦うんですか?
>> 自分の経験からすると息が切れて、無理だと思いますけど。
>> たぶんやを射ても当らないし、白兵戦もちと無理。
>> 奇襲でもなければ、文字通りの各個撃破になるんじゃ?
走るとは一言も書いてありません。
元の発言 [ Re: 邪馬台国はいつ頃できた? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)01時12分16秒 ]
三角縁についてどのようにお考えですか?
魏の鏡で卑弥呼の死後各地に副葬されたものと思ってますか?
元の発言 [ ご都合主義的 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月28日(木)06時43分05秒 ]
>> >>「陸上の目標物を視覚的に捉えるショートレンジの距離感は比較的信頼がおけるので、経験をつんだ船頭は沿岸航海の複雑な軌跡を短い直線の結合で近似的に把握できた可能性は認めてよいでしょう。」
>> と言うのを認めておいて陸上では認められない?
# 当然陸上でも認められます。
認められないと言った覚えはありませんが。
>> 自分の実証されてない仮説のみを認めて他人のは認めない。
# 目標物を視覚的に捉えるショートレンジで、基長線長に応じた精度の測距が可能なことは史料的に確認済みです。既に詳細に述べました。
古代中国人が単純和を計算できるという自明のことも、必要であれば史料をお示ししましょう。もちろん要求しませんよね?
よって、測定された距離の単純和で移動軌跡を近似的に把握できるのは自明のことであって、その程度のことを仮説と呼ばれても困ります。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月28日(木)12時18分38秒 ]
>> >> ただし、よーするに、中国の古代における数千人と数千人
>> >> がぶつかるような、合戦においては、陣形が、数キロの
>> >> オーダーで、合戦の行われる戦場が、十キロ四方くらいの
>> >> 広さのもので、間で、人が走って、1時間以内くらいで
>> >> 連絡が取れる距離の中で、やっているということですね。
>> #あほくさぇぁーこと、いわんでちょ。そんなにまばらに展開するわけないでしょ。
関ヶ原では、南宮山に毛利軍、松尾山に小早川軍、桃配山に
家康軍・・・など関ヶ原全体に布陣しているのですが。兵力
は両軍合わせて20万程。
シズヶ岳の戦いでは、秀吉軍は山と山の間を累壁でつなぎ、
山の上にも砦を作って陣地戦やってます。兵力は両軍合わせ
ても10万以下だったようです。
歴史雑誌の孫子特集によると、春秋戦国時代の長平の戦いで
は、趙軍は山と山に分かれて布陣していますし、秦軍も右翼
と左翼は数キロは離れてますね。兵力は数十万と言われてい
ます。
この時代の騎兵は、狭い場所では5騎が並列し前後は六列で
ならぶ。左右3メートル前後15メートルの間隔をあけて一
隊を作る。隊と隊との前後の間隔は150メートル。
広い場所では、並列する5騎を最小単位とし、戦闘では左右
の間隔を5メートルあけ、前後は30メートルし、二列に並
んで10騎の隊となる。各隊は前後左右に75メートルの距
離をあける。
戦車隊の間隔は書いてありませんでしたが、広い場所では戦
車隊が突撃し、その後で歩兵が仕上げをするそうですから、
相当広くないと駄目でしょう。狭い場所では戦車と歩兵が共
に行動するようですが。
孔明最後の戦いである五丈原の戦いでは、高さ120メート
ル幅1キロ、長さ5キロの台地である五丈原に布陣していま
す。
日本の戦国時代の山城も多くは山全体を城にしてますから、
大体こんな感じですね。勿論、大きな城もあれば小さな城も
ありましたが。
毛利の郡山合戦にしても、毛利の郡山城の前の青光井山に尼
子軍が本陣を置き、郡山と青光井山の間の平地で戦っていま
す。この平地は現代の航空写真で見ると、水田や民家やマン
ションや学校らしき物もあり相当広いです。
確か、一ノ谷の平家の陣は相当広かったはずですよね。
平清盛は一時的に都を京から福原に移してますが清盛亡き後
の、一ノ谷の合戦では福原を含む山と海に挟まれた平地全体
を防衛する為の陣でした。
兵力は平家軍8万1千、源氏軍7万6千と言いますが、
これは誇張されていると言われています。
元の発言 [ Re: 邪馬台国はいつ頃できた? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)01時12分16秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
という話であれば、古い国ということですので
音韻とか、僕はぜんぜんまだわかりませんが、読み方が
古いもので固定されている可能性もあるのではないですか?
伊都國は本来イタではないかと言われていたような
そんな感じで。
元の発言 [ 意味、わかってますか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(木)13時37分24秒 ]
>> >> >>「陸上の目標物を視覚的に捉えるショートレンジの距離感は比較的信頼がおけるので、経験をつんだ船頭は沿岸航海の複雑な軌跡を短い直線の結合で近似的に把握できた可能性は認めてよいでしょう。」
>> >> と言うのを認めておいて陸上では認められない?
>> # 当然陸上でも認められます。
>> 認められないと言った覚えはありませんが。
「想像で主張されても困るのです。」とおっしゃいましたが。
私は同じ事「短い直線の結合」を長い直線に適用したと主張しているだけです。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 2月28日(木)13時18分28秒 ]
>> >> >> >> >> T 虚実第六
>> >> >> >> >> @ その趨く所に出で、その意ざる所に趨く。
>> >> >> >> >> 行くこと「千里」にして労せざるは、無人に地を行けばなり。
>> >> >> >> >> 「千里」も行軍して疲労しないのは、敵のいない所を進むからで
>> >> >> >> >> あると言っている。
>> >> >> >> >> 戦であるから、行軍といえば輜重や食料を携えてのもので、450
>> >> >> >> >> km(長里≒450m)以上も赴いても疲労しないなどとは考えられる
>> >> >> >> >> であろうか。
>> >> >> >> >> 短里(≒80m)で、80 kmなら納得できる。
>> >> >> >> >> A ア 戦いの地を知り、戦いの日を知れば、則ち「千里」にして会戦
>> >> >> >> >> すべし。
>> >> >> >> >> イ 戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、則ち左、右を救う
>> >> >> >> >> 能ず。 ………
>> >> >> >> >> 而るを、況や遠きは「数十里」近きは「数里」なるをや。
>> >> >> >> >> アは、戦いの日時・場所を予測できるなら、たとえ「千里」遠征し
>> >> >> >> >> ても、主導権を握れると言っているが、長里では、主導権を握れるな
>> >> >> >> >> ど考えられない。
>> >> >> >> >> イは、戦いの日時・場所を予測できなければ、左軍は右軍を救うこ
>> >> >> >> >> とはできないといって言ってが、短里で「数里(≒400m)」でも困
>> >> >> >> >> 難だと言っているのは、まさに臨場感あふれるものであろう。
>> >> >> >> >> 長里の2250mにもなれば、救援などできるものではないので、わ
>> >> >> >> >> ざわざ記述するはずがない。
>> >> >> >> 先ほど厳密な距離ではないと書きましたが、左翼と右翼の間
>> >> >> >> は確かに2250メートルくらいあるでしょうから、この部
>> >> >> >> 分は大体正確な距離でしょうね。結局短里ではありませんが。
>> >> >> あわてて書いたら勘違いしていたようです。
>> >> >> よく読んでみると、右翼と左翼の距離については書いてありませ
>> >> >> んね。
>> >> 装備を付けて2Km走り其れから戦うんですか?
>> >> 自分の経験からすると息が切れて、無理だと思いますけど。
>> >> たぶんやを射ても当らないし、白兵戦もちと無理。
>> >> 奇襲でもなければ、文字通りの各個撃破になるんじゃ?
>> 走るとは一言も書いてありません。
軍事は、基本的に最悪を恒として計るべしですけど。
小学生の頃から、し込まれていた集団行動、あれ基本的に軍事教練なんだと言う事を、
お忘れなく。
体育祭の棒倒し騎馬戦は無論、綱引きだって同じですよ。
基本的に、行進以外は、隊列組んで駆け足て言われませんでしたか?
緊急の場合ですから、隊列組んで走れが、基本と認識してますが。
隊列組んだ走るのは、同じ距離を一人で同じような速さで走通すより疲れるんですよね。
元の発言 [ いいや、ぴーんち!なのだ。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)19時24分50秒 ]
>>
>>
# 何と無関係なのですか?
# なぜ「なににも反映されない」と無意味なのですか?
# 「反映する」とは具体的に何ですか?
これ以上わけのわからないことを言うと、あなたと会話するのは金輪際止めます。
元の発言 [ Re: アマテラスとアマテル ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月5日(火)18時35分57秒 ]
>> 日照りと日射しは概念が違うのではないでしょうか?
>>
「照」は海洋民族にとっては吉字であるが、
農耕民族にとっては必ずしもそうではないということです。
元の発言 [ Re: 茶々と一緒に 青玉 曲者 蛇紋岩 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 2月25日(月)23時22分25秒 ]
お返事遅くなりすいません。
>> >> 愛媛にネフライトが、高知には、翡翠が、その他には、孔雀石と言う具合で、
>> >> 四国と言うのは、この方面からは、有力になってしまうんです。
>> >> 其の上、工房が見つかっている事
>> 邪馬台国の比定地の周辺では、『弥生時代後期』の
>> 真珠・青玉・丹の「産出・採掘遺跡」と「工房遺跡」
>> が存在し、それらがかなりの範囲で流通していると
>> 考えられます。これらは結構厳しい条件のように思えます。
>> 四国東部説の場合は、丹は阿南市の若杉山遺跡、
>> 青玉は三加茂町の稲持遺跡が考えられます。
>> 真珠は海人の存在とアワビ類が採取可能な地域
>> を考えると、徳島県海部郡が産地だと推測されます。
>> 質問なのですが、真珠の加工や流通に関してはどういうことが
>> 分かっているのでしょうか。
さて、前から色々調べてはいるのですが、真珠に付いては、
資料が見つからないんです。
大方歴史だけで、現物を見た事がありません。
伊勢志摩を旅行した時も養殖の話と天然真珠の話、
中国などでの記録も対した事が無いようです。
非常に甘味です。
発掘での出土の話も聞きませんし。
>> >> 果てどのように今後絞るか頭を抱えています。
>> より詳しい産物の移動地図があったら面白いのですが
>> 大変な作業でしょうね・・・。
アンチゴナイトと言う、蛇紋石の一種が、翡翠として売られている事も有る、
そうですのです。
柘榴石の一種のトランスバール翡翠と言うのも古くから有るようですし。
こうなると鉱物データベースに発掘データベース地質データベースまで加えての地図が必要ですね。
元の発言 [ Re: 意味、わかってますか? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月28日(木)18時01分17秒 ]
>> 私は同じ事「短い直線の結合」を長い直線に適用したと主張しているだけです。
# 「短い直線の結合」で長い直線を合成して単純和で距離を求めるためには、移動の軌跡全体が直線である必要があります。
しかし、そのような長距離移動は物理的に不可能ですので、あなたの主張も成り立ちえません。
元の発言 [ Re: 意味、わかってますか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(木)20時58分08秒 ]
>> >> 私は同じ事「短い直線の結合」を長い直線に適用したと主張しているだけです。
>> # 「短い直線の結合」で長い直線を合成して単純和で距離を求めるためには、移動の軌跡全体が直線である必要があります。
>> しかし、そのような長距離移動は物理的に不可能ですので、あなたの主張も成り立ちえません。
結局、積分の事でしょう。
楕円近似や双曲線近似ではなく台形近似ですよね。
元の発言 [ Re: 森浩一氏はそう思っているだけ。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)01時17分23秒 ]
書き方が拙かったですかネ
>> 最古級の前方後方墳は三世紀前半しかも、東海じゃなっかたと言う考古学的成果は無視ですか。
と、
>> 九州では佐賀県に5基あるだけで、其の内の4基が吉野ヶ里だということ、
>> 残りの一基も同一文化圏と思われる鳥栖であること、
>> 鳥栖との間に地形的な画期がなさそうな小郡は前方後円墳が固まっていること、
>> などなどについてはどうお考えでしょう。
は別件です。
>>
「最古級の前方後方墳、三世紀前半」と発表した教委(佐賀県教委じゃないヨ)におたずねください。
前方後方墳が東海地方の発祥ではないと言うことは言えるんじゃないですか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
周壕から土器は出土していないと聞きました。
佐賀県教委の発表では「三世紀後半」。
要するに、周辺で前方後円墳が作られている時期に、吉野ヶ里と鳥栖だけが前方後方墳なんだろうということです。
元の発言 [ 罵倒で終わり? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月27日(水)21時51分44秒 ]
なぜ私の最近のレスが「茶々入れ」的なのかを言おうとしたんで、貴方に対して書いたわけじゃないけど、そう取られてもしかたない書き方だったことは反省してお詫びします。m(__)m
>> >> 「馬の耳に念仏」「暖簾に腕押し」ではバッティングのしようがない。
>> 何を指してそう言うわけ?
>> 具体的に言ってもらわないと意味のない罵倒なんだけどなあ。
上に書いてあったでしょう。
罵倒なら嫌ってほどされました。
“貴方は終わった”「もうこないほうがいいよ」と言うのは罵倒じゃないのかナ。
単なる被害妄想ですか。
「茶々入れだけの人」と言うのが最大の罵倒だし。
これも九州説者の僻み。
元の発言 [ Re: ひとつだけ聞きたいk ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)17時49分50秒 ]
では卑弥呼の死後の鏡ということですね。
参考にさせてもらいます。
ありがとうございました。
ではまたいずれ。
元の発言 [ Re: 罵倒で終わり? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月28日(木)21時59分59秒 ]
>> “貴方は終わった”「もうこないほうがいいよ」と言うのは罵倒じゃないのかナ。
よその掲示板でじぶんは大論争は卒業したと公言してる人が
変名でまたやってきて茶々入れしてるから言ったまで。
これ、意味の無い罵倒?
トウの本人すら了解したのに。
それからぼくはちゃんと「意味のない罵倒」と言ってることにも
注意してね。
>> 「茶々入れだけの人」と言うのが最大の罵倒だし。
突然わりこんできて茶々入れて
「馬の耳に念仏」とか言ったのはあなたでしょ?
何を指してそんなことを言うのか
ちゃんと説明してください。
ぼくのなにが「馬の耳に念仏」なんです?
あなたのいってることはわけわからん。
元の発言 [ Re: 意味、わかってますか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(木)20時58分08秒 ]
>> >> 私は同じ事「短い直線の結合」を長い直線に適用したと主張しているだけです。
>> # 「短い直線の結合」で長い直線を合成して単純和で距離を求めるためには、移動の軌跡全体が直線である必要があります。
>> しかし、そのような長距離移動は物理的に不可能ですので、あなたの主張も成り立ちえません。
完全な直線でなくてもいいのじゃないですか?
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 2月28日(木)15時03分39秒 ]
おにりん>> ただし、よーするに、中国の古代における数千人と数千人
おにりん>> がぶつかるような、合戦においては、陣形が、数キロの
#「数千人」というのはかなり少ないですよ。
>> 関ヶ原では、南宮山に毛利軍、松尾山に小早川軍、桃配山に
>> 家康軍・・・など関ヶ原全体に布陣しているのですが。兵力
>> は両軍合わせて20万程。
#人数が一桁違う。また、関ヶ原はかなり狭い。
>> 歴史雑誌の孫子特集によると、春秋戦国時代の長平の戦いで
>> は、趙軍は山と山に分かれて布陣していますし、秦軍も右翼
>> と左翼は数キロは離れてますね。兵力は数十万と言われてい
>> ます。
#布陣の段階では、ありますね。
しかし実際に戦闘が始まったら、個々の戦闘は1時間でほぼ決着がつくでしょうから、2キロも離れていては援軍の役には立たないでしょう。「長里では、間延びしたものになってしまい、迫力もなにもなくなってしまう」というのは適切な意見だと思います。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 2月28日(木)19時57分24秒 ]
>> >> 走るとは一言も書いてありません。
>> 軍事は、基本的に最悪を恒として計るべしですけど。
>> 小学生の頃から、し込まれていた集団行動、あれ基本的に軍事教練なんだと言う事を、
>> お忘れなく。
>> 体育祭の棒倒し騎馬戦は無論、綱引きだって同じですよ。
>> 基本的に、行進以外は、隊列組んで駆け足て言われませんでしたか?
>> 緊急の場合ですから、隊列組んで走れが、基本と認識してますが。
>> 隊列組んだ走るのは、同じ距離を一人で同じような速さで走通すより疲れるんですよね。
状況によりけりでしょうから、一概には言えないと思います。
走るとしても、陣形を崩さずに走る為にはあまり速くは走れ
ないのではないでしょうか?
また、右翼が左翼を援護する場合、必ずしも右翼と左翼を合
流させるとは限らないのではないですか?
合流する例としては、例えば中央を突破された場合に、敵の
後背を右翼と左翼が攻撃するという事がありますが、この場
合は長い時間をかけて敵を突破しての事であり、走りながら
ではないでしょう。
それから、昔の人は相当持久力があったと思われます。
日本の戦国時代の城はほとんどが山城ですが、険しい山を登
って戦争しているのですから。現代人の大部分は山を登った
だけで疲れきってしまうでしょう。
有名な秀吉の中国大返しというのがありますが、これも凄い
です。備前の沼城から播磨の姫路城まで一昼夜で55キロ移
動しています。姫路で一日休息した後、摂津の尼ヶ崎城まで
二日で80キロです。しかも梅雨時で河川が氾濫、ひどい所
では付近の農民を動員して、農民の肩をかりて渡河したと言
います。尼ヶ崎到着が六月十一日、小競り合いを含めると戦
闘開始が6月十二日です。
シズヶ岳の戦いでは、秀吉軍は52キロを5時間で駆けぬけ
ています。この時は、街道沿いの村々に松明と握り飯を用意
させたそうです。長浜城の武具を運ばせたという話もありま
すから、軽装での行軍だったと思いますが。この戦いでは、
52キロを走破してから、約5時間休憩しただけで戦闘開始
しています。
この戦いでは秀吉軍の羽柴秀長は田上山に、中川清秀が大岩
山に布陣していますが、この間の距離が約1700メートル
です。
シズヶ岳の戦いは、山と山の間の平地と山中での戦いであり、
移動するだけでも苦労する場所に、数キロに渡る陣を構え、
山中を移動、或いは、陣を守りながら戦っていた訳です。こ
れは例外的な戦いという訳でもなく、数キロに渡る布陣は珍
しいものではありません。長篠でも織田、武田両軍の陣は約
2キロですし。
それから、戦いというのは結構時間がかかります。
シズヶ岳では戦闘開始から、勝家軍敗走まで十数日かかって
いますし、シズヶ岳の局地戦である、大岩山の戦いだけでも
戦闘開始から決着がつくまで4、5時間かかってます。
短時間で終わった戦いとしては、長篠、川中島、関ヶ原、三
方ヶ原などがあります。
長篠の場合は大体8時間、川中島が9時間くらい、関ヶ原は
約6時間、三方ヶ原は2時間ほど(追撃戦を含めると長くな
るでしょうが)。速い方がよいとは思いますが、数キロの距
離を息を切らせて走らないと間に合わないという訳ではない
と思います。
元の発言 [ Re:会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月27日(水)20時41分30秒 ]
>> 倭人伝関連以外で出てきたのをみたことないんですが。
嘉禾四年、廬陵賊李桓路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅酖O貉ネ袖@@文盪嶇ぢ厮@ヒ
>> 成句と言うのは本当か誰かが検証していますか?
成句と言うのは本当かということよりも、そもそもこれが郡南部をいう成句であれ、禹の治績であれ、それは領域という「幅」であることに「問題があると考えます。」
郡から女王国までの1万2千里を、直線距離に伸ばして大陸に当て比べようということでしょうから、そこは郡からの「地点」でなければ「問題があると考えます。」
>> >> >> 会稽東冶までいっちゃう。で、「東」に倭があるってこと
>> >> >> でしょ。それでなんか問題があると考えるのは、頭がねじ
>> >> >> くれていると思います。
>> まあ、投馬国が傍線行程で沖縄であっても不思議はないですね。
牛頭天王さんも、変人あつかいですか、、、
そもそも陳寿が、「東」に倭があるってことを言いたかったのであれば、わざわざ<その道里を計る>ことは「問題があると考えます。」
元の発言 [ Re: いい加減にして下さい。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月1日(金)01時03分30秒 ]
いくら沿岸航法で円弧だからといっても
その距離を測定するすべが無いのですよね。
船の速度が一定でもないし(大体速度など
わからない。)
結局は時間でしかないということになる。
たしかに沿岸の陸地の距離からみれば
長い距離を走っていると感じるかもしれないが
場所によっては逆に短くなる部分もあります。
それで、船の場合で、陸行に対して、どの程度
の倍数などとはわからないのではないですか。
7000里で、200日以上なんておかしいですよね。
やはり海の場合、1日1000里くらいで計算しないと
変ですよ。
海が関わると、里の概念が変わると思います。
別にしつこく「だから短里」というわけではないですが。
風待ちなどを入れて、ざっと3日で1000里とか
4日で1000里とかじゃないかな。
そうなると水行20日+水行10日+陸行1月で
たとえば水行が3日で1000里、陸行が1日30里
とすると
ざっと水行で10000里、陸行で900里
1万2000里近くなる計算も成り立ちますね。
でも、やっぱりこれは違うかな?
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月1日(金)12時56分01秒 ]
>> おにりん>> ただし、よーするに、中国の古代における数千人と数千人
>> おにりん>> がぶつかるような、合戦においては、陣形が、数キロの
>> #「数千人」というのはかなり少ないですよ。
>> >> 関ヶ原では、南宮山に毛利軍、松尾山に小早川軍、桃配山に
>> >> 家康軍・・・など関ヶ原全体に布陣しているのですが。兵力
>> >> は両軍合わせて20万程。
>> #人数が一桁違う。また、関ヶ原はかなり狭い。
人数については、孫子の時代の本格的な戦いは数万〜数十万
でしょう。小競り合いでは数千とかの戦いもあったと思いま
すが。関ヶ原は狭いといっても山と山は数キロは離れている
でしょう。
>> >> 歴史雑誌の孫子特集によると、春秋戦国時代の長平の戦いで
>> >> は、趙軍は山と山に分かれて布陣していますし、秦軍も右翼
>> >> と左翼は数キロは離れてますね。兵力は数十万と言われてい
>> >> ます。
>> #布陣の段階では、ありますね。
>> しかし実際に戦闘が始まったら、個々の戦闘は1時間でほぼ決着がつくでしょうから、2キロも離れていては援軍の役には立たないでしょう。「長里では、間延びしたものになってしまい、迫力もなにもなくなってしまう」というのは適切な意見だと思います。
さっきの私の投降をみていただければ分かると思いますが、
何時間もかかってます。
長平の戦いのこの陣は、伏兵としていた右翼、左翼で退路を
閉ざし、本隊と共に趙軍を分断、包囲した状態です。
包囲された趙軍は食料が不足し、この状態で何度も戦ってま
す。そして最後に大将自ら突撃して戦死したのです。
関ヶ原が6時間と書きましたが、これは当時の人達にとって
も以外と短時間で終わった戦いだったようです。
黒田如水などは関ヶ原の合戦が長引けば、中央に進出して天
下を狙おうとしていましたし、使用されなかった西軍陣地後
などが発見されています。
もう一度書きますが長篠の戦いでは、2キロくらいの陣で戦
ってます。実際に織田の土塁の後が残っていますし。
長篠の兵力については幾つか説がありますが、両軍合わせて
多くても約5万、少なくて2万数千と言われています。
少ない説を主張する人の根拠は、戦場の広さから考えて5万
は多すぎるというものです。この戦場は、両軍が向かい合っ
ている方向を縦とすると、横は大体2.5キロ以上あります。
極端に横長の戦場ですが、つまり数キロの距離があっても、
万単位の軍が戦う戦場としては狭い訳です。
実際この戦いでは、追撃戦を除いてほとんど動かずに戦って
いるような物です。
シズヶ岳などは、山中や平地をかなり移動していますが。
異説も多い戦いではありますが、川中島の場合は、通説にし
たがうと、本隊が八幡原で戦っている時に、上杉軍に裏をか
かれた武田軍別働隊は妻女山にいました。妻女山から八幡原
まで直線距離で約3キロ、実際の移動距離はもっとあります。
上杉軍は渡河予想地点に足止め部隊千人を残していましたか
ら、武田軍別働隊は足止め部隊を突破し、渡河して戦場に向
かった訳ですが、3〜4時間で主戦場に到着し、それからは
武田軍が有利になっています。
この時の武田本隊は約八千、上杉本隊は一万〜六千、武田別
働隊は約一万二千と言われています。
しかもこの戦いは珍しい遭遇戦であり、陣地などない状態の
野戦であったにもかかわらず、別働隊の到着が間に合ってい
ます。
2キロ以上離れていて、敵軍を突破し、渡河し、陣地戦でも
ないのに間に合ったのですから、
>2キロも離れていては援軍の役には立たないでしょう。
>「長里では、間延びしたものになってしまい、迫力もなに
>もなくなってしまう」
とは言えないと思います。
秀吉の小田原攻めもありますね。
後北条氏末期の小田原城は、中国や西洋のような城郭都市で
した。ですから小田原城の大外郭は約20キロもあったので
すが、秀吉は、約20万の軍勢で四方を囲んでます。四方の
内一方は海ですから、そこは水軍まで動員して囲んでます。
大坂の陣でも家康は大坂城大包囲をしていますね。
現在では再建天守閣くらいしか残ってなかったと思いますが
、当時の大坂城は大きいです。大坂城外郭の長さは忘れまし
たが、城郭都市であった石山本願寺の跡地に建設してますか
ら相当広かったはずです。田舎から出てきた武士が大坂城の
中で迷子になる事がよくあったという話もありますから。
それを冬の陣では20万、夏の陣では15万で囲んでます。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 3月1日(金)15時12分56秒 ]
横槍です。
>> >> おにりん>> ただし、よーするに、中国の古代における数千人と数千人
>> >> おにりん>> がぶつかるような、合戦においては、陣形が、数キロの
>> >> #「数千人」というのはかなり少ないですよ。
>> >> >> 関ヶ原では、南宮山に毛利軍、松尾山に小早川軍、桃配山に
>> >> >> 家康軍・・・など関ヶ原全体に布陣しているのですが。兵力
>> >> >> は両軍合わせて20万程。
>> >> #人数が一桁違う。また、関ヶ原はかなり狭い。
>> 人数については、孫子の時代の本格的な戦いは数万〜数十万
>> でしょう。小競り合いでは数千とかの戦いもあったと思いま
>> すが。関ヶ原は狭いといっても山と山は数キロは離れている
>> でしょう。
関が原の陣形図を見ましょう。
http://www.bushinavi.com/~kakutei/kakutei02.site/bijutu-data/sekiga.htm
松尾山山頂から笹尾山山頂まで約2kmです。
この間で実質的に戦闘に参加したのは両軍あわせて7万くらいですかね。
参考にして下さい。
元の発言 [ Re: いい加減にして下さい。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月1日(金)01時03分30秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
# 当時の循海岸水行の航路実長を推定するため、現代の航路との比較をしています。
今回は、沖を行く航路のほうが大回りであるという郭公さんへの反論で、小刻みに半円形を描くモデルを提示しました。
厳密に言えば小円の径の設定は一日当たり推定航行距離を意識しているので速度と無関係ではありませんが、あなたの言うところとは意味合いが違うでしょう。
あなたの言う速度の問題は、当時の人間にとって航行距離がどう認識・把握されるかという段階の話であって、航路実長の推計に影響しません。
当然に、推定される航路実長と7千余里という記録との関係は別段の考察が必要であります。
それを、話題転換を提起するでもなしに、航路実長の推定に意味が無い云々の謂いはまことに筋道の通らぬインタラプトであり、タイトル名とも併せ、きわめて不愉快です。
以降、あなたには応答いたしませんので、二度と話し掛けないで下さい。私の書いたものを引用することも一切拒絶します。
元の発言 [ Re:会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月1日(金)13時51分51秒 ]
>> >> 倭人伝関連以外で出てきたのをみたことないんですが。
>> 嘉禾四年、廬陵賊李桓路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅酖爺察β機Ακ呉志呂岱僉Εメ
ああ、そういえば古田さんが「會稽東冶」が建安分郡以前には存在し以後にはない事の例にしているやつですね。
陳壽は歴史家として分郡以後と以前をしっかりと書き分けていると古田さんは言っています。
三国志以外にはありますか?
中国人の常識として会稽東冶になるのがが常識なら、何故、写本をした人は敢えて東治としたのでしょうか?
会稽東冶は中国人にとって常識的にあるものではないので原書どうりの「東治」としたのだろうと考えるのです。
会稽東冶は成句なんかではないのではないか。
畿内説派のありもしない成句という言葉に騙されてはいけないと考えるのが私の方法です。
>> >> 成句と言うのは本当か誰かが検証していますか?
>> 成句と言うのは本当かということよりも、そもそもこれが郡南部をいう成句であれ、禹の治績であれ、それは領域という「幅」であることに「問題があると考えます。」
>> 郡から女王国までの1万2千里を、直線距離に伸ばして大陸に当て比べようということでしょうから、そこは郡からの「地点」でなければ「問題があると考えます。」
郡と同じ緯度の天津あたりとの比較と言うのはどうですかね。
このあたりから萬里で遼東と呉の国境の距離と公孫氏が考えていたとか。
呉は長江の北も一部納めていましたからこれは明らかな短里ですね。
例えば韓国内を「乍南乍東」して狗邪韓國に七千余里来た残りの五千余里を南東に行くということも考慮しなければなりませんね。
但し、長里で五千余里ではサイパン島位まで行ってしまうので会稽東冶の東と言うにはどうかと思います。
>> >> >> >> 会稽東冶までいっちゃう。で、「東」に倭があるってこと
>> >> >> >> でしょ。それでなんか問題があると考えるのは、頭がねじ
>> >> >> >> くれていると思います。
>> >> まあ、投馬国が傍線行程で沖縄であっても不思議はないですね。
>> 牛頭天王さんも、変人あつかいですか、、、
いえいえ私は「東治」≠「東冶」論ですからよほど変人と思われているでしょう。
>> そもそも陳寿が、「東」に倭があるってことを言いたかったのであれば、わざわざ<その道里を計る>ことは「問題があると考えます。」
「夏后少康之子封於會稽」を受けての「計其道里」ですから東冶の事を言っているのではない。
「道里」は「道理」で
「風俗が会稽山の東に近い理由(道理)を考えてみると、かって夏后少康之子が行った治世が遠く東の倭国にまで及んでいるのであろうか?」
なんて解釈を考えています。
元の発言 [ Re:会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月1日(金)21時50分25秒 ]
>> ああ、そういえば古田さんが「會稽東冶」が建安分郡以前には存在し以後にはない事の例にしているやつですね。
建安分郡は永安三年の260年。嘉禾四年は235年。
>> 陳壽は歴史家として分郡以後と以前をしっかりと書き分けていると古田さんは言っています。
會稽東冶賊、會稽東冶五縣賊について、古田さんは何て言っていますか。
>> 三国志以外にはありますか?
だけで十分では?
>> 中国人の常識として会稽東冶になるのがが常識なら、何故、写本をした人は敢えて東治としたのでしょうか?
定本に東治とあったからとしか、私には考えられません。
>> 会稽東冶は中国人にとって常識的にあるものではないので原書どうりの「東治」としたのだろうと考えるのです。
会稽東冶は中国人にとって常識的にあるものであったから、「東治の東」としたのでは?
>> 会稽東冶は成句なんかではないのではないか。
>> 畿内説派のありもしない成句という言葉に騙されてはいけないと考えるのが私の方法です。
「方法」は、人により千差万別です。
>> 郡と同じ緯度の天津あたりとの比較と言うのはどうですかね。
私にはレス不能です。
>> このあたりから萬里で遼東と呉の国境の距離と公孫氏が考えていたとか。
私にはレス不能です。
>> 呉は長江の北も一部納めていましたからこれは明らかな短里ですね。
私には意味不明です。
>> 例えば韓国内を「乍南乍東」して狗邪韓國に七千余里来た残りの五千余里を南東に行くということも考慮しなければなりませんね。
私には意味不明です。
>> 但し、長里で五千余里ではサイパン島位まで行ってしまうので会稽東冶の東と言うにはどうかと思います。
会稽東冶って、どういう意味ですか?
>> いえいえ私は「東治」≠「東冶」論ですからよほど変人と思われているでしょう。
私も「東治」≠「東冶」論です。(但し、牛頭天王さんとは意味合いがつがうかも)
>> 「夏后少康之子封於會稽」を受けての「計其道里」ですから東冶の事を言っているのではない。
「計其道里」は「自郡至女王國萬二千餘里」を受けてのことだと思います。
>> 「道里」は「道理」で
>> 「風俗が会稽山の東に近い理由(道理)を考えてみると、かって夏后少康之子が行った治世が遠く東の倭国にまで及んでいるのであろうか?」
>> なんて解釈を考えています。
面白い。
元の発言 [ Re:会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月1日(金)23時05分17秒 ]
>>
>> >> ああ、そういえば古田さんが「會稽東冶」が建安分郡以前には存在し以後にはない事の例にしているやつですね。
>> 建安分郡は永安三年の260年。嘉禾四年は235年。
260年以後には「東冶県」はなく「建安県」だけが記載されているとか。
>> >> 陳壽は歴史家として分郡以後と以前をしっかりと書き分けていると古田さんは言っています。
>> 會稽東冶賊、會稽東冶五縣賊について、古田さんは何て言っていますか。
記憶だけでものを言っているので詳しい事は覚えていません。
とにかく260年以前と言っていたような。
>> >> 三国志以外にはありますか?
>> だけで十分では?
>> >> 中国人の常識として会稽東冶になるのがが常識なら、何故、写本をした人は敢えて東治としたのでしょうか?
>> 定本に東治とあったからとしか、私には考えられません。
>> >> 会稽東冶は中国人にとって常識的にあるものではないので原書どうりの「東治」としたのだろうと考えるのです。
>> 会稽東冶は中国人にとって常識的にあるものであったから、「東治の東」としたのでは?
>> >> 会稽東冶は成句なんかではないのではないか。
>> >> 畿内説派のありもしない成句という言葉に騙されてはいけないと考えるのが私の方法です。
>> 「方法」は、人により千差万別です。
>> >> このあたりから萬里で遼東と呉の国境の距離と公孫氏が考えていたとか。
>> 私にはレス不能です。
公孫度伝の『江南海北有萬里之限、遼東君臣無jut[扁心旁中述][心易]之患』
のことです。
>> >> 呉は長江の北も一部納めていましたからこれは明らかな短里ですね。
>> 私には意味不明です。
天津あたりから南京まで直線で700km位で多少の迂回分を入れても900kmを越える事はないということです。
つまり万里は900km以下であるという意味です。
>> >> 例えば韓国内を「乍南乍東」して狗邪韓國に七千余里来た残りの五千余里を南東に行くということも考慮しなければなりませんね。
>> 私には意味不明です。
>> >> 但し、長里で五千余里ではサイパン島位まで行ってしまうので会稽東冶の東と言うにはどうかと思います。
>> 会稽東冶って、どういう意味ですか?
会稽郡の東冶県じゃないんですか?
>> >> いえいえ私は「東治」≠「東冶」論ですからよほど変人と思われているでしょう。
>> 私も「東治」≠「東冶」論です。(但し、牛頭天王さんとは意味合いがつがうかも)
>> >> 「夏后少康之子封於會稽」を受けての「計其道里」ですから東冶の事を言っているのではない。
>> 「計其道里」は「自郡至女王國萬二千餘里」を受けてのことだと思います。
私は「萬二千餘里」は無関係であると考えます。地理ではないと。
>> >> 「道里」は「道理」で
>> >> 「風俗が会稽山の東に近い理由(道理)を考えてみると、かって夏后少康之子が行った治世が遠く東の倭国にまで及んでいるのであろうか?」
>> >> なんて解釈を考えています。
>> 面白い。
元の発言 [ Re: 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 2月3日(日)09時11分26秒 ]
岩波文庫版『日本書紀』補注(巻第一)三六によると,
「なお天照大神は,鎌倉時代に至ると,
一般にアマテルオホンカミといわれていたらしい(例えば更級日記など)が,
兼方本神代紀には明らかにアマテラスオホミカミと訓がついている。」
とのことです。
「オホンカミ」と訓む伝統は神道界に残っています。
「天照」は,「光華明彩」「照徹」,
「質性明麗」「照臨」という形容と対応しているので,
もともと,明るく照らす意味でしょう。
であるから,「テル」と訓んでも「テラス」と訓んでも,
明るく照らすという意味内容は崩れないようす。
一方,「タラシ」のほうは,
天にあって照らすというより,
天から降って地上にて君臨する意味だろうか?
# 調査続行
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 3月1日(金)15時12分56秒 ]
私は景虎さんのように(名前からして)戦の知識があるわけではありませんので、これ以上申し上げるネタはありませんが、2点だけ、しつこく。
#「数千人」というのはかなり少ないですよ。小学校の運動場に押し込んでも、ぎゅうぎゅう詰めには程遠いでしょう。景虎さんが挙げている例はどれも大規模な戦いのようです。
#白兵戦が始まればあっという間に優劣がはっきりしてくるんじゃないでしょうか。劣勢の方はいったん退却して陣を立て直す必要がある、とか。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 3月1日(金)13時37分41秒 ]
景虎さん今日は。
一つ勘違いされているようです。
兵書とは、一分べ刈らず集である点です。
この場合最悪と記したことは、この点です。
そう言う状況に追い込まれないようにしろ。
もし追込まれた場合、出来る限界は、何処までと考えて、
千変万化する状況を工夫せよと言っている訳です。
>> >> >> 走るとは一言も書いてありません。
>> >> 軍事は、基本的に最悪を恒として計るべしですけど。
>> >> 小学生の頃から、し込まれていた集団行動、あれ基本的に軍事教練なんだと言う事を、
>> >> お忘れなく。
>> >> 体育祭の棒倒し騎馬戦は無論、綱引きだって同じですよ。
>> >> 基本的に、行進以外は、隊列組んで駆け足て言われませんでしたか?
>> >> 緊急の場合ですから、隊列組んで走れが、基本と認識してますが。
>> >> 隊列組んだ走るのは、同じ距離を一人で同じような速さで走通すより疲れるんですよね。
>> 状況によりけりでしょうから、一概には言えないと思います。
>> 走るとしても、陣形を崩さずに走る為にはあまり速くは走れ
>> ないのではないでしょうか?
其の通りです。
打から其れででいるのは、どれだけかを把握する事が必要です。
>> また、右翼が左翼を援護する場合、必ずしも右翼と左翼を合
>> 流させるとは限らないのではないですか?
>> 合流する例としては、例えば中央を突破された場合に、敵の
>> 後背を右翼と左翼が攻撃するという事がありますが、この場
>> 合は長い時間をかけて敵を突破しての事であり、走りながら
>> ではないでしょう。
状況は色々でしょうが、陣形隊列を保って行動しなければならないことは、
理解されていると思います。
其の上での、行動限界を示していると言うのが妥当と、考えます。
>> それから、昔の人は相当持久力があったと思われます。
>> 日本の戦国時代の城はほとんどが山城ですが、険しい山を登
>> って戦争しているのですから。現代人の大部分は山を登った
>> だけで疲れきってしまうでしょう。
其の取りです
ですが、当時の人も意識している射ないにかかわらず。
同じ分だけの披露はあったはずです。
其のための山じろですから。
>> 有名な秀吉の中国大返しというのがありますが、これも凄い
>> です。備前の沼城から播磨の姫路城まで一昼夜で55キロ移
>> 動しています。姫路で一日休息した後、摂津の尼ヶ崎城まで
>> 二日で80キロです。しかも梅雨時で河川が氾濫、ひどい所
>> では付近の農民を動員して、農民の肩をかりて渡河したと言
>> います。尼ヶ崎到着が六月十一日、小競り合いを含めると戦
>> 闘開始が6月十二日です。
一つ忘れています。
この時は、事実上武器を装備を捨てての個人行動と同じである事です。
規模ない様からすると、一種の障害マラソンです。
各自の可能なペースで走り、ちゃんと再編成してから、
一日休養の上で行軍している事です。
>> シズヶ岳の戦いでは、秀吉軍は52キロを5時間で駆けぬけ
>> ています。この時は、街道沿いの村々に松明と握り飯を用意
>> させたそうです。長浜城の武具を運ばせたという話もありま
>> すから、軽装での行軍だったと思いますが。この戦いでは、
>> 52キロを走破してから、約5時間休憩しただけで戦闘開始
>> しています。
こちらも移動は、個人行動です。
7人の侍で、「戦ほど走るものは無いぞ」と離してる通りです。
>> この戦いでは秀吉軍の羽柴秀長は田上山に、中川清秀が大岩
>> 山に布陣していますが、この間の距離が約1700メートル
>> です。
>> シズヶ岳の戦いは、山と山の間の平地と山中での戦いであり、
>> 移動するだけでも苦労する場所に、数キロに渡る陣を構え、
>> 山中を移動、或いは、陣を守りながら戦っていた訳です。こ
>> れは例外的な戦いという訳でもなく、数キロに渡る布陣は珍
>> しいものではありません。長篠でも織田、武田両軍の陣は約
>> 2キロですし。
婦人事態は、ごく当然でしょう。
婦人からの行動が、問題です。
>> それから、戦いというのは結構時間がかかります。
>> シズヶ岳では戦闘開始から、勝家軍敗走まで十数日かかって
>> いますし、シズヶ岳の局地戦である、大岩山の戦いだけでも
>> 戦闘開始から決着がつくまで4、5時間かかってます。
>> 短時間で終わった戦いとしては、長篠、川中島、関ヶ原、三
>> 方ヶ原などがあります。
>> 長篠の場合は大体8時間、川中島が9時間くらい、関ヶ原は
>> 約6時間、三方ヶ原は2時間ほど(追撃戦を含めると長くな
>> るでしょうが)。速い方がよいとは思いますが、数キロの距
>> 離を息を切らせて走らないと間に合わないという訳ではない
>> と思います。
いずれも敵の妨害が無い場合でしょう。
戦闘態勢で敵をにらんでの状況ではない。
三方ヶ原でも、似たような状況でしょう。
一つ間違えていけないのは、太平洋戦争の海軍士官的に決戦思想で、
モノを考えてはいけないと言う事です。
ここの場合の上京が積加算されて行くのですから。
ちょっと表現に限界が出てきましたので、この辺で。
元の発言 [ Re: 森浩一氏はそう思っているだけ。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月2日(土)01時10分33秒 ]
朝日新聞より
神郷亀塚古墳 やはり「最古級」
--------------------------------------------------------------------------------
やはり「最古級」だった−−。能登川町長勝寺の神郷亀塚古墳の墳丘や濠(ほり)の規模が確定したと28日、町教委が発表した。墳丘の全長は36・5メートルで、最大幅25メートル、高さは3・8メートル。前方部の濠からは3世紀前半の土器片が新たに出土し、「最古級」がしっかりと裏づけられた。墳丘の規模などから被葬者は地域の有力首長とみられている。
町教委によれば、古墳の長さは前方部14・5メートル、後方部22メートル。幅は前方部18メートル、後方部25メートルで、周囲には幅3〜12・5メートルの濠を巡らせていた。2段に築かれた墳丘の高さは地表面から3・8メートル、濠の底からは5・3メートルあった。
前回調査で、古墳の成立期を示す3世紀前半の土器片17個が見つかっているが、今回は前方部の濠から土器片約30個が新たに出土した。このほか、古墳成立後、4世紀前半まで祖先の霊をまつるために土器を濠に投げ入れた追祭祀(つい・さい・し)跡も見つかった。その後、濠は6世紀中ごろに大がかりに改修され、7世紀中ごろには埋没が始まっていたこともわかった。
町教委は、大化2(646)年に葬儀の簡素化を命じた「薄葬令」が出された後、祖先に対する祭祀や古墳の管理がなされなくなったことを示す資料とみている。古墳のすぐ東側には乎加(お・か)神社があり、濠が埋没する7世紀中ごろを境に、乎加神社が成立し、古墳祭祀から神社祭儀への移行があったとみられる。
県立大の林博通・助教授(考古学)は「墳丘の規模や出土した土器の形から、被葬者は地域の有力首長で、北陸地方や東海地方など、近江周辺とのかかわりを持っていた人物だろう。神郷亀塚古墳は古墳の出現期の貴重な資料で、弥生時代の墳丘墓がどう古墳へ変遷したかを考える上で重要だ」と話している。
今回の調査は、同古墳の範囲を確認するため、昨年11月から続けられている。
>>
>>
>>
>>
つまり前方後方墳を元にした東海狗奴国説は完全否定されたわけですね。
6世紀にまで周濠が改修されていたと言う事は前方後円墳と前方後方墳との対立は考えられない。
熊野本古墳群に80mくらい離れて後円墳と後方墳がほぼ同時期に存在していた事もあるし。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月2日(土)00時25分04秒 ]
>> 私は景虎さんのように(名前からして)戦の知識があるわけではありませんので、これ以上申し上げるネタはありませんが、2点だけ、しつこく。
>> #「数千人」というのはかなり少ないですよ。小学校の運動場に押し込んでも、ぎゅうぎゅう詰めには程遠いでしょう。景虎さんが挙げている例はどれも大規模な戦いのようです。
>> #白兵戦が始まればあっという間に優劣がはっきりしてくるんじゃないでしょうか。劣勢の方はいったん退却して陣を立て直す必要がある、とか。
数千人対数千人の合戦の詳しいデータをしらないので、正確
には分かりませんが、郡山合戦は最終的には、毛利の援軍1
万がやってきていますが、最初は毛利軍二千四百対尼子軍3
万の戦いでした。
援軍到着以前の戦いで毛利軍は、隊を三隊に分けて、三方か
ら攻撃して尼子の本陣まで攻めて行ってます。
正確な距離はしりませんが、航空写真を見ると学校の運動場
が何十個も余裕で入るくらいの広さで戦っています。
白兵戦についてですが、これは他の掲示板で読んだのですが、
ナポレオンの時代は銃剣突撃をすると、それだけで敵が逃げ
出した事がよくあったそうです。この場合、銃剣突撃の効果
は大きかったわけですが、銃剣による死傷者は0人です。
戦国時代の場合も恐らくある程度同じ事があったでしょうが、
実力伯仲していれば、時間がかかったでしょう。
多かったと言われる陣地戦では、実力に差があってもやはり
時間がかかったと思われます。
戦国時代、弱小豪族は初期の段階で潰されたでしょうから、
基本的には後期になればなるほど戦に時間がかかったでしょ
うし、戦の規模も大きくなったのでしょう。実際そういう傾
向が見られますし。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月2日(土)06時21分57秒 ]
>> 景虎さん今日は。
>> 一つ勘違いされているようです。
>> 兵書とは、一分べ刈らず集である点です。
>> この場合最悪と記したことは、この点です。
>> そう言う状況に追い込まれないようにしろ。
>> もし追込まれた場合、出来る限界は、何処までと考えて、
>> 千変万化する状況を工夫せよと言っている訳です。
すみませんが、重要な部分が誤字なのか文字化けなのか、
読めません。
>> >> >> >> 走るとは一言も書いてありません。
>> >> 状況によりけりでしょうから、一概には言えないと思います。
>> >> 走るとしても、陣形を崩さずに走る為にはあまり速くは走れ
>> >> ないのではないでしょうか?
>> 其の通りです。
>> 打から其れででいるのは、どれだけかを把握する事が必要です。
ここも読めません。
>> >> また、右翼が左翼を援護する場合、必ずしも右翼と左翼を合
>> >> 流させるとは限らないのではないですか?
>> >> 合流する例としては、例えば中央を突破された場合に、敵の
>> >> 後背を右翼と左翼が攻撃するという事がありますが、この場
>> >> 合は長い時間をかけて敵を突破しての事であり、走りながら
>> >> ではないでしょう。
>> >> シズヶ岳の戦いでは、秀吉軍は52キロを5時間で駆けぬけ
>> >> ています。この時は、街道沿いの村々に松明と握り飯を用意
>> >> させたそうです。長浜城の武具を運ばせたという話もありま
>> >> すから、軽装での行軍だったと思いますが。この戦いでは、
>> >> 52キロを走破してから、約5時間休憩しただけで戦闘開始
>> >> しています。
>> こちらも移動は、個人行動です。
>> 7人の侍で、「戦ほど走るものは無いぞ」と離してる通りです。
個人行動ではありません。約一万五千人の行軍です。
それから、映画は関係ありません。
>> >> この戦いでは秀吉軍の羽柴秀長は田上山に、中川清秀が大岩
>> >> 山に布陣していますが、この間の距離が約1700メートル
>> >> です。
>> >> シズヶ岳の戦いは、山と山の間の平地と山中での戦いであり、
>> >> 移動するだけでも苦労する場所に、数キロに渡る陣を構え、
>> >> 山中を移動、或いは、陣を守りながら戦っていた訳です。こ
>> >> れは例外的な戦いという訳でもなく、数キロに渡る布陣は珍
>> >> しいものではありません。長篠でも織田、武田両軍の陣は約
>> >> 2キロですし。
>> 婦人事態は、ごく当然でしょう。
>> 婦人からの行動が、問題です。
ですから長篠では敗走が始まるまで、この状態で戦っていま
す。シズヶ岳の場合は秀吉本隊はかなり移動していますが、
勝家軍の第二次攻撃では、田上山と大岩山の陣はそのままの
布陣で戦っています。
山と山をつないだ累壁と山を秀吉軍第一陣(第一防衛線)と
すれば、大岩山は第二陣(第二防衛線)、田上山は第三陣(
本陣)です。
これを崩すという事ですか?そんな事したら布陣の意味がな
いです。それに、どこかの陣が危なくなったら援軍を送るの
は当たり前であり、援軍を送れないような所には布陣しませ
ん。
>> >> それから、戦いというのは結構時間がかかります。
>> >> シズヶ岳では戦闘開始から、勝家軍敗走まで十数日かかって
>> >> いますし、シズヶ岳の局地戦である、大岩山の戦いだけでも
>> >> 戦闘開始から決着がつくまで4、5時間かかってます。
>> >> 短時間で終わった戦いとしては、長篠、川中島、関ヶ原、三
>> >> 方ヶ原などがあります。
>> >> 長篠の場合は大体8時間、川中島が9時間くらい、関ヶ原は
>> >> 約6時間、三方ヶ原は2時間ほど(追撃戦を含めると長くな
>> >> るでしょうが)。速い方がよいとは思いますが、数キロの距
>> >> 離を息を切らせて走らないと間に合わないという訳ではない
>> >> と思います。
>> いずれも敵の妨害が無い場合でしょう。
>> 戦闘態勢で敵をにらんでの状況ではない。
>> 三方ヶ原でも、似たような状況でしょう。
何故そうなるんですか?
戦争してるのに敵の妨害がないというのは??
短時間の戦いというのは、だいたい戦闘開始〜追撃戦開始ま
でですよ。戦闘態勢でのにらみあいを含めるともっと長くな
るのですが。
三方ヶ原では布陣終了が午後1時ごろ。戦闘開始が午後4〜
5時ごろです。ちなみに、三方ヶ原は追撃戦では、武田軍が
12キロも徳川軍を追撃しています。
この時に家康は討死を覚悟したそうですが、この時に多くの
徳川の武将が家康のかわりに討死しています。夏目吉信は、
自分の馬を家康に与えて、『我は家康なり』と叫んで殺され
ましたし、鈴木久三郎は家康の采配奪い、松井忠次は自分の
鎧を家康に与えて討死です。
徳川の有力武将を多数討ち取って、12キロの追撃が可能な
のに、2キロの距離が何故問題なのでしょうか?
>> 一つ間違えていけないのは、太平洋戦争の海軍士官的に決戦思想で、
>> モノを考えてはいけないと言う事です。
>> ここの場合の上京が積加算されて行くのですから。
>> ちょっと表現に限界が出てきましたので、この辺で。
ここも意味が分かりません。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月4日(月)20時05分02秒 ]
率善さんへ
>> 以上のように、出土遺物の出方からは南北内郭は、終末いっぱいまで存続したと考えた方がよいのではと思います。
なるほど、以前私は散々やられたけど間違ってなかったんですネ。(^_^;)
>> 確か2年前に確認された前方後方墳ST2200はそのST0941より、微妙ながら古い特徴の土器がありますので、吉野ケ里の最後の繁栄期の最後の首長は、そこに葬られた可能性もあります。
現説のとき、細川さんが「土器は出ませんでした」と言ったのでがっかりしたんですけど。
>> あと、平塚川添の大型建物も終末でよさそうですし。ただこれはまだ報告書がないので、終末でも古い方(2世紀末〜3世紀初頭)か新しい方(3世紀前半〜第2四半期頃)か分かりませんが。
木製品が沢山出てるからそっちの測定も楽しみですネ。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 3月2日(土)12時05分07秒 ]
>> ですから長篠では敗走が始まるまで、この状態で戦っていま
>> す。シズヶ岳の場合は秀吉本隊はかなり移動していますが、
>> 勝家軍の第二次攻撃では、田上山と大岩山の陣はそのままの
>> 布陣で戦っています。
>> 山と山をつないだ累壁と山を秀吉軍第一陣(第一防衛線)と
>> すれば、大岩山は第二陣(第二防衛線)、田上山は第三陣(
>> 本陣)です。
訂正です。
田上山は本陣ではありますが、位置的には第二次防衛線です
ね。大岩山と田上山で第二次防衛線を構成しています。
もう少し厳密にいえば、大岩山の前方に岩崎山があり、さら
に前方の山と山をつなぐ累壁も二重になっていますから、も
っと細かく分けることも出来ますが、あまり意味がなく、複
雑になるので大岩山、田上山を第二次防衛線(最終防衛線)
として説明しています。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 3月2日(土)12時05分07秒 ]
如何もすいません。
一杯入っていると、入力が甘くなりました。
兵書とは、一分が、金武氏事項集である点です。
この場合に最悪の事態と記したことは、この点です。
そう言う状況に、追い込まれない事が第一だということ。
戦では、どうしようもなく、もし追込まれた場合、
出来る限界は、何処までかという事を正確に把握しろ、
ここまでが可能な事だと、示しているんです。
其れさえも確かではないと、
其の中で、千変万化する状況を工夫せよと言っている訳です。
>> >> >> 状況によりけりでしょうから、一概には言えないと思います。
>> >> >> 走るとしても、陣形を崩さずに走る為にはあまり速くは走れ
>> >> >> ないのではないでしょうか?
>> >> 其の通りです。
可能な事を、把握せよですんね。
>> ここも読めません。
>> >> >> また、右翼が左翼を援護する場合、必ずしも右翼と左翼を合
>> >> >> 流させるとは限らないのではないですか?
>> >> >> 合流する例としては、例えば中央を突破された場合に、敵の
>> >> >> 後背を右翼と左翼が攻撃するという事がありますが、この場
>> >> >> 合は長い時間をかけて敵を突破しての事であり、走りながら
>> >> >> ではないでしょう。
>> >> >> シズヶ岳の戦いでは、秀吉軍は52キロを5時間で駆けぬけ
>> >> >> ています。この時は、街道沿いの村々に松明と握り飯を用意
>> >> >> させたそうです。長浜城の武具を運ばせたという話もありま
>> >> >> すから、軽装での行軍だったと思いますが。この戦いでは、
>> >> >> 52キロを走破してから、約5時間休憩しただけで戦闘開始
>> >> >> しています。
>> >> こちらも移動は、個人行動です。
>> >> 7人の侍で、「戦ほど走るものは無いぞ」と離してる通りです。
>> 個人行動ではありません。約一万五千人の行軍です。
>> それから、映画は関係ありません。
個人行動と言うのは、周り似合わせる必要が無いと言う事です。
個人に与えられた、目的のみ果せの意味です。
この場合、期限内(これもあいまいですが)に目的地に付く事。つけば良いのです。
方法は、各自自分で選んで、かまわないと言う事。
>> >> >> この戦いでは秀吉軍の羽柴秀長は田上山に、中川清秀が大岩
>> >> >> 山に布陣していますが、この間の距離が約1700メートル
>> >> >> です。
>> >> >> シズヶ岳の戦いは、山と山の間の平地と山中での戦いであり、
>> >> >> 移動するだけでも苦労する場所に、数キロに渡る陣を構え、
>> >> >> 山中を移動、或いは、陣を守りながら戦っていた訳です。こ
>> >> >> れは例外的な戦いという訳でもなく、数キロに渡る布陣は珍
>> >> >> しいものではありません。長篠でも織田、武田両軍の陣は約
>> >> >> 2キロですし。
布陣事態は、ごく当然でしょう。
布陣からの行動が、問題です。
>> ですから長篠では敗走が始まるまで、この状態で戦っていま
>> す。シズヶ岳の場合は秀吉本隊はかなり移動していますが、
>> 勝家軍の第二次攻撃では、田上山と大岩山の陣はそのままの
>> 布陣で戦っています。
>> 山と山をつないだ累壁と山を秀吉軍第一陣(第一防衛線)と
>> すれば、大岩山は第二陣(第二防衛線)、田上山は第三陣(
>> 本陣)です。
>> これを崩すという事ですか?そんな事したら布陣の意味がな
>> いです。それに、どこかの陣が危なくなったら援軍を送るの
>> は当たり前であり、援軍を送れないような所には布陣しませ
>> ん。
其れが甘い、戦場には、急所があることは、ご存知の事でしょう。
たとえ、援軍を送れなくても押さえなければ負けと言う場所は、必ず出てくる。
負けはしなくても、酷いことになると言う場所です。
其れに、布陣してからの本体の動きは、毎時どのくらいですか?
動き始めてですが。
>> >> >> それから、戦いというのは結構時間がかかります。
>> >> >> シズヶ岳では戦闘開始から、勝家軍敗走まで十数日かかって
>> >> >> いますし、シズヶ岳の局地戦である、大岩山の戦いだけでも
>> >> >> 戦闘開始から決着がつくまで4、5時間かかってます。
>> >> >> 短時間で終わった戦いとしては、長篠、川中島、関ヶ原、三
>> >> >> 方ヶ原などがあります。
>> >> >> 長篠の場合は大体8時間、川中島が9時間くらい、関ヶ原は
>> >> >> 約6時間、三方ヶ原は2時間ほど(追撃戦を含めると長くな
>> >> >> るでしょうが)。速い方がよいとは思いますが、数キロの距
>> >> >> 離を息を切らせて走らないと間に合わないという訳ではない
>> >> >> と思います。
>> >> いずれも敵の妨害が無い場合でしょう。
>> >> 戦闘態勢で敵をにらんでの状況ではない。
>> >> 三方ヶ原でも、似たような状況でしょう。
>> 何故そうなるんですか?
>> 戦争してるのに敵の妨害がないというのは??
妨害するしない、足止めするしないは、自分が決めるのではなく相手が決めると言うのが大原則。
相手にその気が会っても、出来る出来ないの問題や戦力などの問題でしないと言うのも、当然起ります。
>> 短時間の戦いというのは、だいたい戦闘開始〜追撃戦開始ま
>> でですよ。戦闘態勢でのにらみあいを含めるともっと長くな
>> るのですが。
>> 三方ヶ原では布陣終了が午後1時ごろ。戦闘開始が午後4〜
>> 5時ごろです。ちなみに、三方ヶ原は追撃戦では、武田軍が
>> 12キロも徳川軍を追撃しています。
>> この時に家康は討死を覚悟したそうですが、この時に多くの
>> 徳川の武将が家康のかわりに討死しています。夏目吉信は、
>> 自分の馬を家康に与えて、『我は家康なり』と叫んで殺され
>> ましたし、鈴木久三郎は家康の采配奪い、松井忠次は自分の
>> 鎧を家康に与えて討死です。
>> 徳川の有力武将を多数討ち取って、12キロの追撃が可能な
>> のに、2キロの距離が何故問題なのでしょうか?
競り合っている場合、不利になっている場合です。
2Kmどころか、数十mが命取りでしょう。
追激戦を持ってくる事、事態が、おかしいんです。
追激戦は、勢いのみ。
丁丁発止の戦闘中の話では、無い。
追激戦では、ベテランの豪傑が、コンなのにやられたの買って言うのが、当然のように起るんです。
不利な条件の時、何かで、均衡が破れれば壊走はあっという間に起き、
止められないと言うのが戦の常識でしょう。
だいたいが、兵力の少ない方が、鶴翼で平地に陣を敷いてるんですから、
短時間で敗れない方が不思議。
もう少し地形が複雑なら、何とかにかなったかも、実際に
家康だって、布陣して敵の陣形を見た時いけないと思い、一度引いて立てなおそうとしてます。
間に合わなかったわけですが、この事を言っているんです。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月2日(土)14時30分51秒 ]
>> 如何もすいません。
>> 一杯入っていると、入力が甘くなりました。
兵書とは、一分が、禁止事項集である点です。
です。
>> この場合に最悪の事態と記したことは、この点です。
>> そう言う状況に、追い込まれない事が第一だということ。
>> 戦では、どうしようもなく、もし追込まれた場合、
>> 出来る限界は、何処までかという事を正確に把握しろ、
>> ここまでが可能な事だと、示しているんです。
>> 其れさえも確かではないと、
>> 其の中で、千変万化する状況を工夫せよと言っている訳です。
>> >> >> >> 状況によりけりでしょうから、一概には言えないと思います。
>> >> >> >> 走るとしても、陣形を崩さずに走る為にはあまり速くは走れ
>> >> >> >> ないのではないでしょうか?
>> >> >> 其の通りです。
>> 可能な事を、把握せよですんね。
>> >> ここも読めません。
>> >> >> >> また、右翼が左翼を援護する場合、必ずしも右翼と左翼を合
>> >> >> >> 流させるとは限らないのではないですか?
>> >> >> >> 合流する例としては、例えば中央を突破された場合に、敵の
>> >> >> >> 後背を右翼と左翼が攻撃するという事がありますが、この場
>> >> >> >> 合は長い時間をかけて敵を突破しての事であり、走りながら
>> >> >> >> ではないでしょう。
>> >> >> >> シズヶ岳の戦いでは、秀吉軍は52キロを5時間で駆けぬけ
>> >> >> >> ています。この時は、街道沿いの村々に松明と握り飯を用意
>> >> >> >> させたそうです。長浜城の武具を運ばせたという話もありま
>> >> >> >> すから、軽装での行軍だったと思いますが。この戦いでは、
>> >> >> >> 52キロを走破してから、約5時間休憩しただけで戦闘開始
>> >> >> >> しています。
当然一撃かけてひるませた後は、みんなを休ませて長期戦常態にしてるはずですが。
>> >> >> こちらも移動は、個人行動です。
>> >> >> 7人の侍で、「戦ほど走るものは無いぞ」と離してる通りです。
>> >> 個人行動ではありません。約一万五千人の行軍です。
>> >> それから、映画は関係ありません。
>> 個人行動と言うのは、周り似合わせる必要が無いと言う事です。
>> 個人に与えられた、目的のみ果せの意味です。
>> この場合、期限内(これもあいまいですが)に目的地に付く事。つけば良いのです。
>> 方法は、各自自分で選んで、かまわないと言う事。
期限内であれば時間も、休ませている日についた人もいると聞いていますし。
>> >> >> >> この戦いでは秀吉軍の羽柴秀長は田上山に、中川清秀が大岩
>> >> >> >> 山に布陣していますが、この間の距離が約1700メートル
>> >> >> >> です。
>> >> >> >> シズヶ岳の戦いは、山と山の間の平地と山中での戦いであり、
>> >> >> >> 移動するだけでも苦労する場所に、数キロに渡る陣を構え、
>> >> >> >> 山中を移動、或いは、陣を守りながら戦っていた訳です。こ
>> >> >> >> れは例外的な戦いという訳でもなく、数キロに渡る布陣は珍
>> >> >> >> しいものではありません。長篠でも織田、武田両軍の陣は約
>> >> >> >> 2キロですし。
>> 布陣事態は、ごく当然でしょう。
>> 布陣からの行動が、問題です。
>> >> ですから長篠では敗走が始まるまで、この状態で戦っていま
>> >> す。シズヶ岳の場合は秀吉本隊はかなり移動していますが、
>> >> 勝家軍の第二次攻撃では、田上山と大岩山の陣はそのままの
>> >> 布陣で戦っています。
>> >> 山と山をつないだ累壁と山を秀吉軍第一陣(第一防衛線)と
>> >> すれば、大岩山は第二陣(第二防衛線)、田上山は第三陣(
>> >> 本陣)です。
>> >> これを崩すという事ですか?そんな事したら布陣の意味がな
>> >> いです。それに、どこかの陣が危なくなったら援軍を送るの
>> >> は当たり前であり、援軍を送れないような所には布陣しませ
>> >> ん。
>> 其れが甘い、戦場には、急所があることは、ご存知の事でしょう。
>> たとえ、援軍を送れなくても押さえなければ負けと言う場所は、必ず出てくる。
>> 負けはしなくても、酷いことになると言う場所です。
>> 其れに、布陣してからの本体の動きは、毎時どのくらいですか?
>> 動き始めてですが。
>> >> >> >> それから、戦いというのは結構時間がかかります。
>> >> >> >> シズヶ岳では戦闘開始から、勝家軍敗走まで十数日かかって
>> >> >> >> いますし、シズヶ岳の局地戦である、大岩山の戦いだけでも
>> >> >> >> 戦闘開始から決着がつくまで4、5時間かかってます。
>> >> >> >> 短時間で終わった戦いとしては、長篠、川中島、関ヶ原、三
>> >> >> >> 方ヶ原などがあります。
>> >> >> >> 長篠の場合は大体8時間、川中島が9時間くらい、関ヶ原は
>> >> >> >> 約6時間、三方ヶ原は2時間ほど(追撃戦を含めると長くな
>> >> >> >> るでしょうが)。速い方がよいとは思いますが、数キロの距
>> >> >> >> 離を息を切らせて走らないと間に合わないという訳ではない
>> >> >> >> と思います。
>> >> >> いずれも敵の妨害が無い場合でしょう。
>> >> >> 戦闘態勢で敵をにらんでの状況ではない。
>> >> >> 三方ヶ原でも、似たような状況でしょう。
>> >> 何故そうなるんですか?
>> >> 戦争してるのに敵の妨害がないというのは??
>> 妨害するしない、足止めするしないは、自分が決めるのではなく相手が決めると言うのが大原則。
>> 相手にその気が会っても、出来る出来ないの問題や戦力などの問題でしないと言うのも、当然起ります。
>> >> 短時間の戦いというのは、だいたい戦闘開始〜追撃戦開始ま
>> >> でですよ。戦闘態勢でのにらみあいを含めるともっと長くな
>> >> るのですが。
>> >> 三方ヶ原では布陣終了が午後1時ごろ。戦闘開始が午後4〜
>> >> 5時ごろです。ちなみに、三方ヶ原は追撃戦では、武田軍が
>> >> 12キロも徳川軍を追撃しています。
>> >> この時に家康は討死を覚悟したそうですが、この時に多くの
>> >> 徳川の武将が家康のかわりに討死しています。夏目吉信は、
>> >> 自分の馬を家康に与えて、『我は家康なり』と叫んで殺され
>> >> ましたし、鈴木久三郎は家康の采配奪い、松井忠次は自分の
>> >> 鎧を家康に与えて討死です。
>> >> 徳川の有力武将を多数討ち取って、12キロの追撃が可能な
>> >> のに、2キロの距離が何故問題なのでしょうか?
>> 競り合っている場合、不利になっている場合です。
>> 2Kmどころか、数十mが命取りでしょう。
>> 追激戦を持ってくる事、事態が、おかしいんです。
>> 追激戦は、勢いのみ。
>> 丁丁発止の戦闘中の話では、無い。
>> 追激戦では、ベテランの豪傑が、コンなのにやられたの買って言うのが、当然のように起るんです。
>> 不利な条件の時、何かで、均衡が破れれば壊走はあっという間に起き、
>> 止められないと言うのが戦の常識でしょう。
>> だいたいが、兵力の少ない方が、鶴翼で平地に陣を敷いてるんですから、
>> 短時間で敗れない方が不思議。
>> もう少し地形が複雑なら、何とかにかなったかも、実際に
>> 家康だって、布陣して敵の陣形を見た時いけないと思い、一度引いて立てなおそうとしてます。
>> 間に合わなかったわけですが、この事を言っているんです。
ついでに、援軍が手当てできれば、一機につぶれはしないでしょう。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 3月2日(土)10時41分51秒 ]
>> >> #白兵戦が始まればあっという間に優劣がはっきりしてくるんじゃないでしょうか。劣勢の方はいったん退却して陣を立て直す必要がある、とか。
>> 数千人対数千人の合戦の詳しいデータをしらないので、正確
>> には分かりませんが、郡山合戦は最終的には、毛利の援軍1
>> 万がやってきていますが、最初は毛利軍二千四百対尼子軍3
>> 万の戦いでした。
>> 援軍到着以前の戦いで毛利軍は、隊を三隊に分けて、三方か
>> ら攻撃して尼子の本陣まで攻めて行ってます。
>> 正確な距離はしりませんが、航空写真を見ると学校の運動場
>> が何十個も余裕で入るくらいの広さで戦っています。
其の間付近に布陣した軍勢は、巧く動いていなかった。
これには、色々有るでしょうが、戦場での起動の難しさも示していませんか?
>> 白兵戦についてですが、これは他の掲示板で読んだのですが、
>> ナポレオンの時代は銃剣突撃をすると、それだけで敵が逃げ
>> 出した事がよくあったそうです。この場合、銃剣突撃の効果
>> は大きかったわけですが、銃剣による死傷者は0人です。
>> 戦国時代の場合も恐らくある程度同じ事があったでしょうが、
>> 実力伯仲していれば、時間がかかったでしょう。
>> 多かったと言われる陣地戦では、実力に差があってもやはり
>> 時間がかかったと思われます。
もう一つ偶然知ったので巧くは言えませんが、
ナポレオンウオーと言う言葉があるそうですね。
「君達、前進したまえ、勝って無事であったら、また合おう」と言う奴です。
これだけ、前線と本部の連絡と起動が難しかったと言う事では?
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月2日(土)13時22分00秒 ]
>>
>>
主力=戦車
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)19時16分28秒 ]
なるほど、そういう手にでましたか。
すなわち、音の範囲を非常に厳しく限定することによって
そんな地名はないと主張する。
そして、地名の変化をまったく認めず、
少しでも異なれば違うと言い切るのですね。
これだとどこも適合することは無くなるので、
自説の不利にはならないと。
まあ誰もが簡単に思い付くたいへん単純なやり方ですね。
そういう意味では、ちょっとがっかりかも。
こじつけ案を一つでも持って来ることができたら、
私の負けは明白なんですけどね。
個々の国名に関するご批判はうけたまわりました。
反論する前に下準備をしておかないといけないので、
よろしくお付き合いください。あとで24国をやっていきます。
まず、地名に関するおにりんさんの主張を確かめておきましょうか。
『 地名は、全く変化しない。』
(a)佳字二字化等の影響による音の添加なんてのはありえない。
(b)a<->O, i<->u という変化もありえない。
(c)清濁も混同されたり変化することはない。
(d)音は類似するが、意味は異なる地名に変化することなどない。
これらの反例はわずかであり、断定して良いと主張されますか?
>> できれば、国名の漢字だけでいいから表を作ってください。
言いたいことが通じなかったようですね。
音訳時の音価推定と古代八母音の対応表を書いてもらいたいのです。
それがないと、どのような理由で八母音対応を定め、
どの範囲を適当なものと選んでいるのか分からないので。
厳しく批判させてもらいますから、きちんと書いてくださいね。
あと、藤堂氏の辞典によるものだけじゃなくて、
カールグレン氏、王力氏らによる音価推定のことも
もちろんご存知ですよね。
そこから長田氏の音価推定がでてきたのですから。
私はカールグレン氏、王力氏らの音価推定のほうがより正確だし、
さらに長田氏の音価のほうがこの時代の漢字音
により近いと考えますけど、どのように考えていますか?
長田氏の「邪馬台国の言語」はもちろんご存知ですよね。
さらに音価推定に用いられた他言語訳についても、
もちろんご存知ですよね。
そういったことを考慮した上できちんと音価を推定してますよね。
いろいろ手を尽くしても音価をきっちり定めるなんて、
困難であることを「魚部」でみたはずですけど。
まあ、おにりんさんならなぜか可能なんでしょう。
「対」「鬼」「惟」なんて難しい漢字も断定できるみたいだから、
よろしくお願いしますよ。
ネットでも音価推定しているページがありますが、非常に慎重です。
けれど、おにりんさんは音価を断定しているように見受けられる。
もしかすると、以下のことが全部できたのかもしれない。
(a)新たな音訳語をたくさん見つけた。
(b)音訳の時期を確定できた。
(c)上代以前の音韻変化を確信できた。
本当に批判を読んでいてすごいと思いました。
確実な根拠があって主張しているのですよね。
私などまったく断定できないものばかり。
いやあ、おもしろくなってきました。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月4日(月)23時56分53秒 ]
こんばんは。また一本化します。
お忙しいと言われていましたが、またお付き合いください。
>> 南内郭新段階(終末を含む)は、竪穴住居があまりなく、環濠との位置
>> 関係や切り合い関係、柱穴出土遺物から掘立柱建物主体と考えられてい
>> るみたいです(細川、渋谷発表資料の図)。
竪穴住居は西側低地部には存在しており、住居が穴屋から掘立柱に変わった
ということはあまり説得力を感じません。掘立柱主体ということはおそらく
倉庫群ということでしょう。かつて物見台ともいわれる“楼観”を備え、特
別な人たちのための居住区と言われた内郭の役目は、ここで大きく変質した
と見るべきだと思います。南内郭のあった場所は終末は居住区ではなくなり、
この時期の中心は西側低地部に移っているのでしょう。後期と同じ役割のま
ま南内郭が古墳時代初頭まで存続したとは思えません。
内郭東側が削平されているのは事実のようですが、終末期の住居がたまたま
削平されたところに固まっていたというのはあまりにご都合主義過ぎません
か?
# 前の投稿では“集落”には居住区という意味を意識下で込めておりました
# のでこの点は訂正させていただきます。先の投稿の“集落”は居住区(特に
# 首長層の居住区)と読みかえてください。
>> なお、吉野ケ里は資料が膨大なので、報告されているのは一部であることも注意したほうがよいと思います。
一部であるとしても結論を出すのに必要なものは出ているはずです。そうで
なかったとしたら、概報・報文とはいえ報告した人はちょっと無責任過ぎます。
>> 布留0式以降は墓地化しますが、その直前までは集落であることは、以上の資料提示で分かってほしいです。
“以上の資料提示”といわれますが、南内郭については、結局は環濠の中に
土器があるという以上のことはなかったと思います。新しい出土事実があり
それにより解釈が変更されたということならわかりますが、事実は何ら変わ
らないのに解釈だけが変更されていくということに非常に強い違和感を抱い
ています。
>> 調査担当者もそう考えているのです(細川、渋谷氏)。
吉野ケ里の場合、はた目から見て調査担当者とそれ以外の方の温度差が非常
に大きいことが問題であるようです。そのあたりの事情を素人としてはもう
少しはっきりさせていただきたいところです。吉野ケ里は探しても古い書籍
しか見つかりませんから、一度新しい調査内容なども含めた詳しい解説を出
していただきたいものです。
>> 唐古の環濠帯は30ha範囲を含み、吉野ケ里は40〜45haぐらいでしょ。ただ、吉野ケ里は東側についてはちょっと怪しいところがあるので、大体同じと捉えています。
>> まあ、吉野ケ里の方が大きくてもいいですが、何倍、まではないですよ。
集落として比べるなら、環濠内を比較しないと意味無いでしょう。
もっとも、数倍は書き過ぎで、2〜2.5倍ぐらいでしょうか。
さて、領域が明らかになったところで次ですが、まず、吉野ケ里はその40〜
45haの全てが居住域でないことはご存じでしょう?その大部分は空白域です。
ですから、吉野ケ里の場合は環濠内面積をもって集落規模を言うことはでき
ません。
居住域という点から見ると、中期と比べて(もっとも中期の居住域はほとん
ど手つかずのようですから、推定中期というべきでしょうけど)後期の居住
域は縮小しています。また、後期後半になると、居住域も住居数も減少しま
す。後期の吉野ケ里が解体・分村化の過程にあるというのは高島氏が書いて
いることで事実と照らしてもその通りかと思います。したがって、集落規模
という面から見て、後期が最盛期だというのは認めがたい点が有ります。
また、遺物についても後期の吉野ケ里はほとんど見るべきものがありません。
率善中郎将さんは三津永田が吉野ケ里の首長の墓域の可能性を書いておられま
すが、2km(?)も離れた場所に墓域を設けるというのは九州の弥生の伝統には無
いでしょう?しかも、吉野ケ里から三津永田までの間にはいくつも集落があり
ます。三津永田はやはりその周辺に住んだ人のお墓でしょう。また、率善中郎
将さんは触れていませんが、東の二塚山からはもっと立派なものが出土してい
ます。ですから、同一丘陵であれば三津永田、さらに広域で見れば二塚山とい
うのが吉野ケ里周辺の後期の政治的な中心と見て取れるでしょう。これが高倉
洋彰さんが出している見解で、私もこれを支持したいと思います。中期の吉野
ケ里が確かににその地域の中心であったことから考えれば、やはり後期が最盛
期とは私は言えません。ただ、今後吉野ケ里から立派なお墓が出る可能性まで
を否定するものではなく、現在の出土事実から考えればそうなるということな
ので、新たな発見があればいつでも考えをかえます。
それから、40〜45haの環濠が本当に後期一杯まで維持されていたのかどうか。
これについては環濠の南半は後期初頭までの土器しか含まれていないと報告
されており、柳田氏も1997年に吉野ケ里の環濠の南半は後期中頃に活用を終
えると書いています。この柳田氏の見解は発掘事実と照らし合わせても妥当
で、当初の報告でも外環濠は後期初頭に埋没するという見解でした。にもか
かわらず、ここも出土事実が何ら変わることがないのに解釈だけが変更され
後期一杯まで外環濠が全部維持されていることになってしまい、それにより
後期の吉野ケ里が最盛期だという結論が引き出されています。非常に違和感
が有ります。どのような事実をもって外環濠全体が終末まで維持されていた
というのか、それが肝要かと思います。外環濠で掘り直しが確認され終末の
土器が有るのは概報によるかぎり南内郭西側だけです。
>>そもそも、後期後半まで集落があって、終末に無くなり、古墳初頭にまた少しある、と言うのも妙ですよ。
どうしてでしょう?同じ場所に連続しない異なる時期の集落があるのはごく
普通のことだと思いますが。
>>いったい、それ何の文献ですか?
申し訳ありませんが、調べたのがだいぶ前なので、どれだったかという記憶が
飛んでしまっています。調べて見てこれかと思うのは季刊考古学51号に七田さ
んが書かれたいかの文言です。
『環濠区画(北内郭のこと)の内部には、大型の掘立柱建物や竪穴式住居跡、物
見櫓と考えられるものを含む掘立柱建物跡、土壙などがあり、区画外には竪穴
式住居跡群や小規模な高床倉庫(中濠外側)と考えられるものを主体とする掘立
柱建物群などが存在する。しかし、多数存在する竪穴式住居跡は環濠と切り合
う例が多く、土塁の存在も考慮すれば環濠が存在していた期間に共存するもの
は非常に少ないものと考えられる。』
北内郭周辺には弥生時代の竪穴式住居跡は古墳時代初頭と比べてほとんどない
と読み取ることができます。後期にはあるというのは私の勘違い、記憶違いで
あったかもしれません。終末になくなったのではなくてもともと少ないという
ことのようです。
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(木)19時27分16秒 ]
北九州の国名と類似地名をみていきます。
なお、私は本当は類似している地名だと考えています。
あくまでパロディですので誤解しないで下さい。
対馬 とゐま 津島(つしま)
#地名にある「し」が対応していない。国名に「斯」がない。
一大 いっだ 石田(いしだ)
#これも地名にある「し」が対応していないことは明白。
#国名は「伊斯大」となるべきであり、単なる語呂合わせである。
一支 いっき 壱岐(いき)
#地名が国名の「っ」が対応していない。
#国名は「伊支」でないとおかしいのでデタラメ。
末盧 まつら 松浦(まつうら)
#まあ、悪くはない。
伊都 いた 怡土(いと)
#盧が「ら」ならば、「いた」となるべきである。デタラメ。
伊都 いた 板持(いたもち)
#勝手にうしろに「持」をつけてよいはずがない。
#これも語呂合わせのデタラメである。
奴 な 那珂(なか)郡
#これは、まあ、よいとするか。一字なのでなんとでも対応可能。
不彌 ぷみ ×海(うみ)
#対応しないと判断したのはよい。「ふみ」と対応する。
#周辺に対応する地名は見当たらない。
以上、おにりんさん風解析により北九州の倭人伝の国名と類似地名
とされているものの多くが実は単なる語呂合わせかデタラメで
あることが判明した。よってこれまでの一般的な比定は
間違いと断言できる・・・わけない!
それでは、三国志における中国国外の音訳地名が、
8世紀頃になってもまったく同じ音の
地名ばかりと本当に主張するのだろうか。
上のような解析だと、対応してないということで、
比定がおかしいと断言できるだろうか?
あくまで地名対応は、比定のための補助手段に過ぎない。
国名は音訳されて文書に表われるまで最低300年近くの
経過があるわけだから、基本的な転訛を認めないというのは、
いったいどのような合理的な理由があるのだろう。
もしそれを主張するなら他の音訳例などによって、
地名が数百年あるいは千年経過しても、
ほとんど完全に音が一致するものばかりであるという主張を
実証的に裏付けてもらいたいものである。
#和名抄における郡郷名に関して、音韻のゆれが
#あること、音韻の追加などを確認できる。
元の発言 [ Re: だから! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月27日(水)00時33分59秒 ]
>>
ちがいます。
>>
佐賀平野は有明海に面してます。
元の発言 [ Re: 罵倒で終わり? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月28日(木)23時43分02秒 ]
>> >> “貴方は終わった”「もうこないほうがいいよ」と言うのは罵倒じゃないのかナ。
>> よその掲示板でじぶんは大論争は卒業したと公言してる人が
>> 変名でまたやってきて茶々入れしてるから言ったまで。
#そうなんですか。
>> これ、意味の無い罵倒?
>> トウの本人すら了解したのに。
#失礼しました。
>> それからぼくはちゃんと「意味のない罵倒」と言ってることにも
>> 注意してね。
#再三失礼しました。
>> >> 「茶々入れだけの人」と言うのが最大の罵倒だし。
>> 突然わりこんできて茶々入れて
>> 「馬の耳に念仏」とか言ったのはあなたでしょ?
#突然は貴方もじゃないですか。私にはそう思えたので思わずレスしたです。
>> 何を指してそんなことを言うのか
>> ちゃんと説明してください。
>> ぼくのなにが「馬の耳に念仏」なんです?
>> あなたのいってることはわけわからん。
#上に書いたように貴方だけに言ったのではないのですが、
#結果的に貴方を罵倒したようなので謝ります。m(__)m
#別の中身のあるスレッドでお会いしましょう。
↑ということで、失礼しました。
季刊邪馬台国75号に、「古事記の秘密・成立以来1300年の謎を解く」というのがあって、古事記の音韻を明らかにしようという内容なのですが、ちょっと面白いのですが、古語の音韻研究の現状について、私は殆ど無知なので、内容が妥当なのかどうか、画期的なのかどうか、意義があるのかないのか、いまいちわかりません。おにりん氏あたりに教えてほしいところです。
季刊邪馬台国の主張のポイントは、
1:古事記の歌謡部分について、太安万呂は、当時の日本語の音韻体系を、明確に弁別したうえで、音韻の一音を、一字の万葉仮名で、厳密に表記した。
2:その表記に使った漢字は、切韻(隋代の音韻辞典)から採用した。当然、日本語の音韻を、切韻の音で表記した。
と、いうものなのですが?
ちなみに、季刊邪馬台国は、森博達説を全面的に支持していて、どうも、その影響・触発による議論のようなのですが。
元の発言 [ Re: 東海狗奴国説はなくなった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月2日(土)11時44分00秒 ]
神郷亀塚古墳が発表されたのは昨年の2月1日です。
>> 6世紀にまで周濠が改修されていたと言う事は前方後円墳と前方後方墳との対立は考えられない。
>> 熊野本古墳群に80mくらい離れて後円墳と後方墳がほぼ同時期に存在していた事もあるし。
>>
>>
>>
>>
今回の発見で重要なのは、3〜40年間隔で3回ほどの祭祀が行われていることです。
箸墓などと並行する時期に当たります。
>>
>>
>>
>>
邪馬台国と接している感じですよネ。
>>
>>
それは邪馬台国を大和と決めてから探すからです。
元の発言 [ ALEXさんはピンチである。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月2日(土)13時52分18秒 ]
O氏に苦言を呈します。
ALEXさんは、
> 当然に、推定される航路実長と7千余里という記録との関係は別段の考察が必要であります。
> それを、話題転換を提起するでもなしに、航路実長の推定に意味が無い云々の謂いはまことに筋道の通らぬインタラプトであり、『タイトル名とも併せ』、きわめて不愉快です。(『』は郭公)
と書いておられるのに、それを無視して
>「ALEXさんはピンチである。」
このようにまたもやタイトル名に名前を冠するのは無神経に過ぎます。僕も不愉快です。
説、論の問題ではありません。熟考いただきたい。
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月2日(土)20時28分18秒 ]
点数制は面白いですね。
ぜひ採用したいと思っています。
しかし、自分の言いたいことだけ主張して、
質問にまったく答えてはないではないですか。
私が言っているのは、正しいかどうかを判断する
答えが異なっている、あるいは断定しすぎている
といっているのです。
すなわち、そんなに確定的に言えるような
問題ではないのです。
たとえば、「好」「呼」「華」「狗」「投」「為」「対」「鬼」「惟」
といった音の比定が異なっています。
その理由は、おにりんさんが(たぶん勝手に)答えを決めて
しまっているからです。だから、なぜその答えとしたのか、
その手順をはっきり答えてください。
そうしないと、合っているかどうかなんて意味が無いでしょう。
だいたい、有坂氏、森氏、長田氏のような専門家であろうと、
音価の比定は困難であるといっているのになぜあなたに可能なのですか。
さらに上代以前の音韻変化なんて誰にも分からないというのに。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その2) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月5日(火)18時38分20秒 ]
>>
#そうですね。私も何度か問題提起しています。おにりんさんを含めて納得できる案を提示していただいておりません。
私の提案:「東は北であり、千里は400kmだとすれば、沿海州に倭種が住んでいたのではないか」
元の発言 [ Re: 北九州の国々の比定地はデタラメだった? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月2日(土)20時10分06秒 ]
>> 点数制でいきましょうか。
>> >> 伊都 いた 怡土(いと)
>> >> #盧が「ら」ならば、「いた」となるべきである。デタラメ。
>> 母音の不整合。-0.5 点のみ。
>> >> 奴 な 那珂(なか)郡
>> >> #これは、まあ、よいとするか。一字なのでなんとでも対応可能。
>> 「な」一文字の地名は、それほど存在しないし、また、
>> 「なか」という地名もまた、ほうぼうに存在するが、どれ
>> も、港湾都市的な場所にある。北部九州の「な」あるいは
>> 「なか」という地名が、平行移動した地域おいてのみ、
>> 「な」「なか」というものがあり、その場合、近傍の名前
>> もみな平行移動している例がある。
しかし、それにしても見れば見るほど勝手な採点基準だなあ。
音節の追加でなぜそんなに点を引く?
母音、子音不一致が−0.5点で、音節追加が−3点??
まじめに読んでみたら、かなり笑ってしまった。
なんだ、これ・・・。
2音が追加されても、類似地名となる期待値は
3倍しか増加しない。
子音、母音の一致は1/5〜1/10くらい
だからもっと減点は低くするべきなのに。
これは、完全に意図がみえみえ・・・。
つまり北九州のほうが地名が類似していると
言うための採点方法である。
で、案の定、九州では「板持」だけ採点してない!
「伊都」で「板持」が−3点
「伊都」で「怡土」だと−0.5点。
「伊都」で「**」だと−2点??(**はなんでもOK)
こんな採点信じられますか?
あのさあ、馬鹿じゃないんだからすぐに気づきますよ、こんなの。
単に対応地名が長いか長くないかだけで、
類似しているかどうかを決めてしまう無茶苦茶な採点方法!
おにりんさん、異論があればどうぞ。
#こんな採点方法を書いたことは記録に残りますからね。
#どういう考え方の持ち主かがよく分かる。
私の考えた採点基準
持点
4文字国名 8点
3文字国名 6点
2文字国名 4点
1文字国名 2点
子音不一致 −1点
母音不一致 −1点
a<->o −0.2点
i<->u −0.2点
h(語中)<->w −0.2点
清濁 −0.2点
1音の追加 −0.2点
2音の追加 −0.3点
音節をはさみ込むのは、駄目。
子音、母音で確定できないものは、
その範囲内にあれば減点無し。
それにしても・・・・
「為」が「ゑ」??
「好」が「を」??
誰がいつの間にそんなこと断定できたんだ??
(ま、見てたけど・・・。)
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月3日(日)03時00分48秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ハ行やカ行に当てられないというのは、
本当に学会で揺るぎ無い定説なんですか?
意味的にカ行の可能性が高いとされているのでは?
ちょっと聞いたことがないのですけど。
論理的に考えても、上代になかった子音であり、
それ以前の音韻変化なんて分からないのだから、
断言できるような問題ではないと思うのですが。
可能性としてあげられるのは、k、F、w への合流でしょう。
これらのどれに合流してもおかしくはない。
#方言である可能性も考慮されるべきだと思っています。
#ところで、子音が消えるというのも本当に有力な説なのですか?
#「不呼」なんて2番目の音なんですけど。
だから、比定の際はどれかひとつを選択すること。
私はFが一番近いような気がするので、Fを選択します。
Fはpとhの中間的な音ではなかったか、という理由です。
もちろん断定するわけではなく、可能性があるということです。
「華」はwの可能性も高そうですね。
>>
>>
>>
>>
これは同じですね。私は、当時のオ段甲として「ua」のような音を
推定します。
>>
>>
>>
>>
これは、長田氏の音価と上古音の差によって、
意見が分れるところです。
長田氏の音価であれば、「ワ」あるいは「ヲ」。
中古音にさらに進むと、「ヱ」あるいは「ヰ」。
私は、「ワ」「ヲ」「ヱ」のいずれかだろうと思います。
上代の音とは少し異なった「ワ」「ヲ」ですけど。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ここも長田氏の音価と上古音との差によって、意見が分れます。
もう一つ大きな問題は、イ段やエ段の乙類の音がすでにあったかどうか、
ということです。実際倭人伝の音訳漢字を見ていると、
あったということを主張しにくい。
だから、なかった場合のことも想定したいと思います。
まず、「鬼」は「kIwOi」と推定されていて、
もし、イ段乙がすでにあるならば、これが一番近いでしょう。
ただ、介母音がかなり弱体化しているので、ほぼ「対」や「惟」
と同様な韻母とも推定できます。
その場合、これらはいったいどのような音と推測されるのでしょう。
もし、倭音風にこれらを読めば、オ段乙、ウ段。
ただし、韻尾が「-i」であり、中国原音に沿って訳したとすれば、
これはおかしいかもしれない。
私は3文字すべてに可能な「エ段甲(一)」の可能性があると思っています。
上代の音価としては「e」であり、前舌半狭母音。
「i」によって前舌性、「O」によって半狭性をあらわしたのでは
ないかと考えます。当時のエ段甲の音価などはよく分かりませんけど、
推定としては「Oi」。
以上、選択肢が多くなりますが、
「鬼」「き(乙)」「け(甲)」「け(乙)」
「対」「て」
「惟」「え(ヤ行)」
あるいは
「鬼」「く」「こ(乙)」
「対」「つ」「と(乙)」
「惟」「ゆ」「よ(乙)」
のどちらかを選ぶことになります。
#なお、「対海」の音訳は上古音によった可能性が高く、
#この音訳の音とはずいぶん異なっているかもしれません。
#上の意味では、「為」を「ヱ」とするのはちょっと違う気がしています。
「伊」は優婆塞の「優」の音訳に使われたそうで、
「ゆぃ」に近い音価をもっていたのかもしれません。
主母音が上古的な音だとすると、「臣」を「zun-zin」
くらいで考えたほうが良いとおもっています。
「烏」はア行なら「ア」「オ」、ワ行なら「ワ」「ヲ」。
「為」が「ワ」だとすると、「ヲ」の可能性を考えてしまう。
影母がどのように作用したかはそれほど明確ではなく、
難しい問題です。でもまあ、この範囲内にはあると思います。
元の発言 [ Re: Title:古事記の音韻 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月3日(日)03時03分08秒 ]
#では、特に目新しいとか、画期的とかいうわけではないということでしょうか?従来の議論と、どう違うのかがよくわからないんです。
#音としては呉音と漢音は違うわけですよね。
大野晋氏が、古事記を呉音系としているというのが引用されているので、それより、むしろ古事記歌謡の音韻表記は、隋唐中古音に近い、というのが主張なのかと思ったのですが?
#漢音の音は一応わかっているようですが、呉音や切韻の音はどうなのでしょう。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月2日(土)14時30分51秒 ]
>> 個人行動と言うのは、周り似合わせる必要が無いと言う事です。
>> 個人に与えられた、目的のみ果せの意味です。
>> この場合、期限内(これもあいまいですが)に目的地に付く事。つけば良いのです。
>> 方法は、各自自分で選んで、かまわないと言う事。
個人行動ではありません。
個人行動を認めたら脱走兵がでます。
脱走されただけでも不利ですが、敵に寝返ったらさらに大変
です。秀吉軍の行動を敵にしられてしまいます。
また、シズヶ岳では使用した街道が決まっていて、街道沿い
の村村に準備をさせたと書いたはずです。最短距離の移動手
段が幾つもあった訳ではありません。
さらに、個人行動で1万以上の兵が、5時間以内に目的地に
到着するのはかなり無理がありませんか?
>> >> ですから長篠では敗走が始まるまで、この状態で戦っていま
>> >> す。シズヶ岳の場合は秀吉本隊はかなり移動していますが、
>> >> 勝家軍の第二次攻撃では、田上山と大岩山の陣はそのままの
>> >> 布陣で戦っています。
>> >> 山と山をつないだ累壁と山を秀吉軍第一陣(第一防衛線)と
>> >> すれば、大岩山は第二陣(第二防衛線)、田上山は第三陣(
>> >> 本陣)です。
>> >> これを崩すという事ですか?そんな事したら布陣の意味がな
>> >> いです。それに、どこかの陣が危なくなったら援軍を送るの
>> >> は当たり前であり、援軍を送れないような所には布陣しませ
>> >> ん。
>> 其れが甘い、戦場には、急所があることは、ご存知の事でしょう。
>> たとえ、援軍を送れなくても押さえなければ負けと言う場所は、必ず出てくる。
>> 負けはしなくても、酷いことになると言う場所です。
数キロの距離の話をしているのですよ?
何十キロも離れた場所の話ではありません(それでも結構間
に合っている例がありますが)。
数キロで援軍を送れないと主張するのであれば、合戦名、
陣の場所、距離を具体的に挙げてください。
ただし、敵に邪魔されたとか、間に川があって増水して渡れ
なかったとか、兵力不足とか言うのはなしですよ。
その場合、距離は関係ないですから。
純粋に数キロの距離に阻まれて、援軍を送れなかったという
例がありますか?
>> 其れに、布陣してからの本体の動きは、毎時どのくらいですか?
>> 動き始めてですが。
それに何の意味が?
状況によりけりでしょう。
具体的なデータが残っていると主張されるのですか?
でしたら、そのデータを挙げてください。
以前よんだ本によると、戦闘中のデータではありませんが、
織田軍の歩兵の通常行軍速度は時速4キロです。
残念ながら出典は書かれていませんでしたが。
>> >> >> 何故そうなるんですか?
>> >> 戦争してるのに敵の妨害がないというのは??
>> 妨害するしない、足止めするしないは、自分が決めるのではなく相手が決めると言うのが大原則。
>> 相手にその気が会っても、出来る出来ないの問題や戦力などの問題でしないと言うのも、当然起ります。
そういう事ではなく、何故敵の妨害がないと判断されたの
か?という事を聞いているのです。
これだと、妨害はあったかもしれないし、なかったかもしれ
ない、としか言えませんよね?
そもそも、何に対する妨害なのですか?
>> >> 徳川の有力武将を多数討ち取って、12キロの追撃が可能な
>> >> のに、2キロの距離が何故問題なのでしょうか?
>> 競り合っている場合、不利になっている場合です。
>> 2Kmどころか、数十mが命取りでしょう。
数十メートルで援護が出来ないのですか?
>> 追激戦を持ってくる事、事態が、おかしいんです。
>> 追激戦は、勢いのみ。
>> 丁丁発止の戦闘中の話では、無い。
>> 追激戦では、ベテランの豪傑が、コンなのにやられたの買って言うのが、当然のように起るんです。
>> 不利な条件の時、何かで、均衡が破れれば壊走はあっという間に起き、
>> 止められないと言うのが戦の常識でしょう。
>> だいたいが、兵力の少ない方が、鶴翼で平地に陣を敷いてるんですから、
>> 短時間で敗れない方が不思議。
>> もう少し地形が複雑なら、何とかにかなったかも、実際に
>> 家康だって、布陣して敵の陣形を見た時いけないと思い、一度引いて立てなおそうとしてます。
>> 間に合わなかったわけですが、この事を言っているんです。
馬頭鬼さんの、『2キロ走ったら疲れて戦えない』という意
見にたいする反論です。
2キロの距離がある場合に、援護できるか出来ないか?とい
う話のはずですよね?それ以外の話は関係ないと思うのです
が。
みなさん こんにちは。
邪馬四さんやおにりんさんやピクポポデミさんに触発されまして、マルセも21か国の完全比定に望んでみました。もう、みなさん、このネタには飽きちゃいました?
國の並びは地理的なものと仮定しています。そして、國探索ルールとしては、当時の國の範囲は概ね国造の國であると考えられるので、これを基本に考え、まず国造名から探す、それで見当たらない場合は、延喜式の郡名、郷名、神社名から探す、さらに記紀など他の文献から地名を探す、それでもダメなら屁理屈こねるという感じになってます。
ちなみに、地名の後の(A〜D)は自己評定で、A:かなり良い、B:そうかも、C:本当かい、D:言葉ナシです。
========================================
1斯馬國 山口県屋代島(C)
読み方は「しま」だろう。国造本紀に「嶋」のつく国造は、「大嶋」と「嶋津」がある。
2番目以降の並びから考えると大嶋の方か。
九州方面からの入り口という点を重要視すると、大分県の姫島の可能性もあり。
2已百支國 山口県東部(C)
「いぱき」か。「石城神社」が延喜式の周防國熊毛郡に見える。この神社は、現在、大和町塩田の石城山にある。已百支國は、国造の國としては「周防」と見て、熊毛郡と玖珂郡(熊毛郡から分かれた)を合わせた地域か。この地域には、正始元年鏡の出た竹島古墳があり、有力候補。山口県の西部は九州圏内と思われる。
3伊邪國 愛媛県中予地方(A)
読みは「いや」で、これは「伊余」の古い呼び方か。中予地方には国造本紀に伊余・風速・久味の三つがあるが、これら全てを合わせた範囲がもとの伊邪國と思われる。これらの國は他の国と比べて範囲が狭いこと、風速と久味は応神朝で、伊余の成務朝より遅いこと、風速国造は物部氏、久味国造は久米氏というように畿内の豪族と同族と考えられることから、吉備同様に応神朝に分割があったのだろう。
4都支國 愛媛県東予地方(D)
読み方は「たき」か。「多伎神社」が延喜式の伊豫國越智郡に見える。現在は、愛媛県越智郡朝倉村古谷。都支國は「小市」国造の國の範囲か。小市の名は、初代国造「乎致命」が起源となったと見られるので、古くは別の名前で呼ばれていたことが想像できる。
神武東征途上の多祁理(たけり)宮のあったと言われる「阿岐」国造の國が第2候補。ただし、こちらとすると以下がうまく続かない。
5彌奴國 香川県西部(B)
「みな」と読んで、讃岐國三野郡が遺称地か。国造本紀に名は見えないが、日本三代実録にこの地の佐伯直が允恭朝に国造に任命されたという。讃岐の佐伯部については、景行紀に蝦夷(日本武尊が東国から連れてきた)の子孫であるとの、ちょっとおもしろい記述がある。
6好古都國 愛媛県の北部、芸予海峡の島嶼部(D)
読み方は「おかた」か「をかた」が近そうだが不明。伊豫郡崗田郷があるが、伊邪國に重なってしまうので、伊豫國濃満郡英多(あかた)郷か。好古都國は「怒麻」国造の國に当たるのだろう。ちなみに、英多郷は愛媛県越智郡波方町に比定されている。だとすると、この地域には「h」の音が古くからあったのかも知れない。
7不呼國 愛媛県南予地方(D)
読み方は「ぷわ」が近いが、このような地名は見当たらない。「不」を「于」の誤写と見て、「うわ」とするのが、最も妥当に思える。伊豫国宇和郡と喜多郡(宇和郡から分かれた)の地域か。
8姐奴國 高知県西部(D)
「さな」か「しな」。土佐國幡多郡鯨野(いさの)郷を遺称地と考え、姐奴國は「波多」国造の國の古い名称か。「波多」は渡来人に因む名なので応神朝以降の名称だろう。鯨野郷は、現在、土佐清水市伊佐。
9對蘇國 高知県中央部・東部(A)
「つさ」と読んで、「都佐」国造の國だろう。
A蘇奴國 香川県東部(B)
「さな」と読んで、「讃岐」国造の國か。鶴尾神社古墳など小さいが古い古墳の多い地方。「さぬき」とは「さぬ城」の意味か。天智紀に「讃吉國山田郡屋嶋城」もでてくる。
B呼邑國 徳島県北部(C)
「あや」と読んで、讃岐國阿野(あや)郡とすることも可能だが、これだと順番が良くない。「邑」を「巴」の誤写とすれば、「あぱ」と読め、「粟」国造の國と考えられる。邑の字は「國邑」のように「國」の字といっしょに良く使われるので、それで誤写したか。
C華奴蘇奴國 徳島県南部(D)
読み方は「わなさな」で「海人のナ国」の意味か。「長」国造の國であった阿波國那賀郡・海部郡の地が第一候補。延喜式によると、この地に「和奈佐意富曾神社」がある。
D鬼國 和歌山県(A)
読み方は「き(乙)」。「紀伊」国造の國だろう。
E爲吾國 大阪府(C)
「えが」と読んで、郡名としては見えない河内國古市郡・志紀郡付近と思われる「恵我」か。志紀郡の辺りは庄内期の遺跡が多い。国域は「凡河内」国造の國で、後の河内・摂津・和泉の範囲か。
F鬼奴國 京都府南部(山城地域)(D)
「きな」と読める。意味でいうと「木野」か。「山城國風土記」逸文に宇治郡のあたりを指して、「許乃國」と称したことが見えるという(地理志料)。「許乃(この)」は「木野(きの)」と通じるし、山城國には紀伊郡もあり、山城全体を指して古くは「きな國」と言ったと考えられないか。「山背」という地名は、大和から見て、「山の後ろ」という後発的な名称であろう。
G邪馬國 奈良県北部(D)
「やま」と読める。「山」の意味だろう。山部、山本、山田といった山のつく地名は全国的に多く、これからだけでは比定不能。ただ、この時代の國は、稲作にそれなりに基づいたものであろうから、山といっても山岳地帯ということはないだろう。山に囲まれた盆地が候補と考えてよく、近畿地方であれば、山城か大和が相応しい。
延喜式の大和國には郡名として山邊郡がある他に、添上郡山村郷・山邊郷、平群郡夜麻郷、廣瀬郡山守郷、葛下郡山直郷、城下郡大和郷と「やま」のつく郷名が異常に多い。大和川下流の河内方面から見て、奈良盆地を古くは「山國」といったのでは。
他に近くには、「山国郷」が丹波國桑田郡にあるが、さすがにこちらは山すぎか。
H躬臣國 兵庫県明石付近(C)
「くじ」と読める。音で考えると、山城國久世(くぜ)郡が最も近いが、こうすると山城地域に國が二つになってしまう。「明石」国造の國の「あかし」の「かし」の部分で、「額田部」連を隋書は大禮「哥多毘」としたように、頭音「あ」を落として写したか。
I巴利國 兵庫県姫路付近(C)
「はり」と読める。「針間」国造の國か。語尾の「ま」を聞き落とすことは少ないので、本来、「巴利馬國」とあったのが、誤写されたものか。
J支惟國 岡山県(C)
このままだと「きゆ」くらいにしか読めないが、き(甲)で始まる地名は「吉備」以外に見当たらない。「惟」は「備」の誤写で、本来は「支備」だっとすれば、「きび」と読める。
K烏奴國 滋賀県南部(C)
「あな」と読める。「穴門」国造や吉備穴海のように、「穴」は、山に挟まれた水面のある地形を指す言葉と考えられる。垂仁紀の近江國吾名邑(坂田郡阿那郷と蒲生郡長寸(なむら)神社付近の二説あり)や成務の志賀高穴穂宮のように近江國には、「穴」地名が多い。烏奴國は「淡海」国造の國に当たるか。
L奴國 滋賀県北部(B)
「な」と読み、「額田」国造の國か。額田は「ぬ県」のことだろう。以前、「ぬかた國」は「さぬかた國」の間違いと書いたが、間違いではなくて、下総(しもふさ)國匝瑳(さふさ)郡のように額田(ぬかた)國の坂田(さぬかた)なのかもしれない。「さ」は「小」の意もしくは美称か。
M狗奴國 東海地方[三重県・岐阜県・愛知県・静岡県?](B)
「くな」と読むか。奴國の南ということで、とりあえず東海地方としておく。
狗奴の音は「くま」より「くが(kunga)」のほうが近いので、「玖珂」や「久我」という地名を探したほうがよいかも知れない。崇神記に日子坐王を旦波國へ派遣する話があるが、討伐した相手は「玖賀耳の御笠」。方向を気にしなければ、狗奴國=丹波説もありか。
========================================
これでいきますと、21か国が日本海側を除いた本州西半分と四国で、ほぼもれなく比定できてます。「安芸」だけがなぜか抜けてますが。(ちなみに、前方後円墳のスタートが遅かった日本海側と東日本の地域については、女王連合に加わらなかった倭種の國とマルセは捉えています。)
図で示しますと、次のようになります。MS明朝とかのPでないフォントで見てください。
図1 前半(蘇奴國まで)――――――――――――――――――――――
2已百支國 6好古都國
↑ ↑
1斯馬國 → 3伊邪國 → 4都支國 → 5彌奴國 → A蘇奴國
↓ ↑
7不呼國 → 8姐奴國 → 9對蘇國 → →
――――――――――――――――――――――――――――――――――
図2 後半(蘇奴國以降)――――――――――――――――――――――――――――
J支惟國 ← I巴利國 ← H躬臣國← F鬼奴國 → K烏奴國 → L奴國
↑ ↓ ↓
A蘇奴國 → B呼邑國 E爲吾國 G邪馬國 M狗奴國
↓ ↑
C華奴蘇奴國 → D鬼國
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
9→Aのところがやや不自然ですが、それ以外のところは、行き止まりになると直前の分岐点まで戻って違う道を行くというルールで、国が整然と地理的に並んでいるのがわかります。一つひとつはあやしくても、全体としては割といい感じだとおもうのですが、いかかでしょうか。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 如何もすいませんまた入力ミスです ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月2日(土)14時42分32秒 ]
>> >> >> >> >> シズヶ岳の戦いでは、秀吉軍は52キロを5時間で駆けぬけ
>> >> >> >> >> ています。この時は、街道沿いの村々に松明と握り飯を用意
>> >> >> >> >> させたそうです。長浜城の武具を運ばせたという話もありま
>> >> >> >> >> すから、軽装での行軍だったと思いますが。この戦いでは、
>> >> >> >> >> 52キロを走破してから、約5時間休憩しただけで戦闘開始
>> >> >> >> >> しています。
>> 当然一撃かけてひるませた後は、みんなを休ませて長期戦常態にしてるはずですが。
違います。
秀吉軍がシズヶ岳に向い始めたのが、20日の午後4時頃、
シズヶ岳到着が、20日の午後9時頃。攻撃開始が21日の
午前2時頃、21日夕方には終わってます。
敗走する勝家軍を追って22日には越前府中城に入り、23
日には勝家の居城である北ノ庄城を包囲、24日午後4時頃
に落城してます。
もしかして、秀吉軍大返しまで戦いが発生していなかったと
思っていませんでしたか?この戦いは、最初は秀吉軍はシズ
ヶ岳に布陣していましたが、後方で挙兵された為、秀吉は防
御の兵を残し、本隊を率いて岐阜城に向かいました。
その隙に勝家軍の第二次攻撃が始まり、この攻撃は第一次よ
り強力で秀吉軍の戦線が崩壊しかかっています。それを知っ
て秀吉の大返しが始まり、一気に決着がついたのです。
>> >> >> 個人行動ではありません。約一万五千人の行軍です。
>> >> >> それから、映画は関係ありません。
>> >> 個人行動と言うのは、周り似合わせる必要が無いと言う事です。
>> >> 個人に与えられた、目的のみ果せの意味です。
>> >> この場合、期限内(これもあいまいですが)に目的地に付く事。つけば良いのです。
>> >> 方法は、各自自分で選んで、かまわないと言う事。
>> 期限内であれば時間も、休ませている日についた人もいると聞いていますし。
シズヶ岳か中国かどっちの事かわかりませんが、シズヶ岳に
ついては反論しましたので、中国大返しの話について反論し
ます。
中国大返しは、本能寺の変によって発生しています。
信長が死んだ為に、全国的に大混乱です。
秀吉は毛利と交戦中であり、和睦して大返しを始めますが、
本能寺の変を毛利にしられたら、背後から追撃される可能性
が大きいです。実際には追撃しませんでしたが、毛利家では
追撃、和睦で意見が分裂しましたから、危なかった訳です。
さらに、畿内には明智光秀がいます。
大返しに成功しても、光秀が布陣して待ち構えている可能性
もありました。この状況ではある程度まとまって行動するし
かありません。各個撃破される可能性がありますから。
シズヶ岳でも書きましたが、脱走兵がでる可能性もシズヶ岳
より大きいです。本能寺の変で先がまったく見えない状態で
す。次ぎの天下人は秀吉か?、光秀か?、勝家か?、毛利か
?、他の人か?、それとも戦国時代がつづくのか?不安だら
けです。単独行動させたら軍が崩壊しかねません。
さらに、本能寺の変が発生した時、徳川家康と穴山信君は小
人数で堺見物をしていました。家康は海路で、信君は陸路で
逃げたのですが、信君は落ち武者狩りに合って殺されてしま
いました。こんな状況で単独行動させたら兵士達は何をする
か分かりません。いや、幹部でさえも一部の人間以外は信用
できません。幹部の裏切りはよくありましたし。
>> 期限内であれば時間も、休ませている日についた人もい
>>ると聞いていますし。
出典はなんでしょうか?
また、この話が本当でも単独行動の証明にはなりません。
ある程度の集団に分かれての行動でしょう。
>> >> 追激戦を持ってくる事、事態が、おかしいんです。
>> >> 追激戦は、勢いのみ。
>> >> 丁丁発止の戦闘中の話では、無い。
>> >> 追激戦では、ベテランの豪傑が、コンなのにやられたの買って言うのが、当然のように起るんです。
>> >> 不利な条件の時、何かで、均衡が破れれば壊走はあっという間に起き、
>> >> 止められないと言うのが戦の常識でしょう。
>> >> だいたいが、兵力の少ない方が、鶴翼で平地に陣を敷いてるんですから、
>> >> 短時間で敗れない方が不思議。
>> >> もう少し地形が複雑なら、何とかにかなったかも、実際に
>> >> 家康だって、布陣して敵の陣形を見た時いけないと思い、一度引いて立てなおそうとしてます。
>> >> 間に合わなかったわけですが、この事を言っているんです。
>> ついでに、援軍が手当てできれば、一機につぶれはしないでしょう。
意味がわかりません。
前にも書きましたが、2キロ走ったら戦えないという話だっ
たはずです。それと何の関係があるのですか?
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月3日(日)03時20分20秒 ]
春秋戦国の戦車は御者、戟兵、弓兵(ドを使う事が多かった
ようですが)の三人が乗ってますね。
弓兵も接近したら白兵戦用武器を持ったようですが。
この頃、軍事力の象徴として持戟百万などと言ったようです
し、戦車は突進力を重視したのではないかと思いますが、詳
しくはしりません。
また、騎兵より戦車の方が地形による制約を受けやすいでし
ょうね。
元の発言 [ Re: 邪馬台国問題は終わっていない(断定) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月3日(日)14時16分27秒 ]
>> >> ハ行やカ行に当てられないというのは、
>> >> 本当に学会で揺るぎ無い定説なんですか?
理由を教えてください。
元の発言 [ Re: Title:古事記の音韻 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月3日(日)14時24分18秒 ]
#すみません。わたし自身いまいち把握できないものを質問したのが、ちょっと問題でした。
#季刊邪馬台国(安本美典氏)の主張なるものは、
「現在、古事記成立時代の日本語(奈良王朝日本語というべきか)の音韻体系・発音はわかっていない。今回、それをあきらかにする」
#と、いうものです。かなり意気込んでいるようです。
#で、その音韻体系・発音推定の方法としは、
「万葉仮名では、日本語の音を、中国の漢字の音で表記している。従って、漢字の中国式発音がわかれば、日本語の音もわかる」
#と、いうもののようです。(まあ、当たり前ですが)
それが実践に移されている部分が、どうもよくわからないんです。なんとなく、面白そうだとは思いますが。
>> 切韻は、広韻として、きっちり残っていますので、推定に
>> 多少の違いはあっても、体系として、非常にきちんとした
>> ものがわかっています。
#ここの部分なのですが、季刊邪馬台国(つまり安本美典)の主張がよくわからないのは、古事記歌謡について、切韻を利用して表記されている、と主張しながら、隋唐中古音をそれに当てはめているんです。
#切韻の呉音というのは、唐代長安音と一部を除いて大略一致するのですか?(安本氏も一部について、切韻の音と唐代長安音を区別している)
#読めば読むほどよくわからない論文です。
#単純に考えて、呉音や漢音の音が判明しているなら、それを表記に利用している古事記の音韻体系・発声もすぐにわかりそうな気がするのですが?
元の発言 [ 承前 ピクポポデミさん江。タイトルなんでしたっけ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月1日(金)22時27分33秒 ]
丁寧なレスありとうございます。
>>
>>
>>
>>
で対蘇はツヂサ。土佐は遠くなりにけり。
>>
>>
>>
>>
>>
イツキだったのが真中の音がおちたら。
そういうことって無いんですか。
すると対蘇=土佐がすこしもりかえす。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
するとどう考えてよいものやら手がかりがなくなりますね。
>>
>>
>>
>>
>>
すると古韓音というのはどういうものなんですか。
>>
>>
同じ韻でも字によって動きが変わったとか無いですかね。
日本の古代1倭人の登場には、後漢になっても、魚部模韻と
歌部(へ移った)麻韻が合韻していた字がわずかながらあるそうです。
ただそのたった二例が「徒」「都」が「邪」「家」との通韻だそうです。
つまり都だけが先に変化した可能性は低い。
この線は絶望ですね。
>>
>>
伊都国は後漢代以降に成立したとか。
やはりそう考えるしかないですね。
>>
>>
>>
韻尾ngは日本書紀アルファー郡でもあるそうですが、SOの様に陽類を使わないと
表現できないケースらしいです。
{身弓}はなんでしょうね。
なんで弓じゃなくてこんな字使ったんでしょう。
>>
>>
この字はだれかkuiと読んでました。
私はkIと読んでたんですが。
21国リストには狗の字が無いんですが、kuの可能性はありますか。
>>またともに信頼性の劣る第二群に記載されている点にも注意
>>すべきかもしれない。
>>
21ヶ国リストそのものです。
>>
>>
>>
>>
いじめてます?
>>音訳された場所は、半島かと思っています。
>>
>>
>>
古韓音(というか後にそれに繋がる特殊音韻)に期待したんですが。
都だけオ列とか。
>>伊都のような倭の中枢では、漢字の教養のある人がいたであろう。
>>その人が工夫して佳字をあてて、イタを伊都と音訳した。
>>ところが中国音が変わってしまって、かといって伊都は捨てがたし、
>>でイトになってしまったと言う話です。
>>
>>
>>
わたしはこの説納得できないです。
やっぱ伊都は新しい音訳と考えます。
すると21ヶ国リストの都は全てア列・・・
>>そう。
>>最近は帥升というか、邪馬台国前史に興味があるので、こうすると
>>帥升時代の文字情報が増えると言う下心も有ったりして・・・
>>
日本人であって欲しい。
中国名を付けるなら師升なんでしょ。
>>為吾は伊賀、鬼奴は山城紀伊郡、{身弓}臣は大和巨勢郷にしました。
>>
>>
あの頭の曲がったhはよくわかんないんですが、higaだったらどうでしょう。
>>私は対馬から奴までの、一番目の奴、不彌、投馬、邪馬台、狗奴を除く
>>25ヶ国リストが最初に出来たことに賭けます。
>>
>>
>>
ちょっと楽しかったです。
>>
忙しいと書き込みの増えるおにりんさんに期待します。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月5日(火)23時53分54秒 ]
>> >> 南内郭新段階(終末を含む)は、竪穴住居があまりなく、環濠との位置
>> >> 関係や切り合い関係、柱穴出土遺物から掘立柱建物主体と考えられてい
>> >> るみたいです(細川、渋谷発表資料の図)。
>> 竪穴住居は西側低地部には存在しており、住居が穴屋から掘立柱に変わった
>> ということはあまり説得力を感じません。掘立柱主体ということはおそらく
>> 倉庫群ということでしょう。
倉庫群こそ、終末も含めてその西側部分にあります。ですから南内郭のそれは機能が異なります。また後期後半前後では、雀居遺跡(福岡市)など、集落の特定部分に掘立柱建物が集中して営まれることが結構ありますので(倉庫群とは別に)。
かつて物見台ともいわれる“楼観”を備え、特
>> 別な人たちのための居住区と言われた内郭の役目は、ここで大きく変質した
>> と見るべきだと思います。南内郭のあった場所は終末は居住区ではなくなり、
>> この時期の中心は西側低地部に移っているのでしょう。後期と同じ役割のま
>> ま南内郭が古墳時代初頭まで存続したとは思えません。
>> 内郭東側が削平されているのは事実のようですが、終末期の住居がたまたま
>> 削平されたところに固まっていたというのはあまりにご都合主義過ぎません
>> か?
御都合主義と言われても、一応、環濠に土器が多くあると言う事実の説明にはもっとも有効です。何ゆえに丘の上に生活臭い土器群を廃棄したのか、その方が説明がつかない。また、竪穴住居でなく掘立柱があるのは事実。(少ないが竪穴住居もある)
>> # 前の投稿では“集落”には居住区という意味を意識下で込めておりました
>> # のでこの点は訂正させていただきます。先の投稿の“集落”は居住区(特に
>> # 首長層の居住区)と読みかえてください。
>> >> なお、吉野ケ里は資料が膨大なので、報告されているのは一部であることも注意したほうがよいと思います。
>> 一部であるとしても結論を出すのに必要なものは出ているはずです。そうで
>> なかったとしたら、概報・報文とはいえ報告した人はちょっと無責任過ぎます。
いや、吉野ケ里を含めて埋蔵文化財行政の予算、人的配置状況を見ると私にはそんなこと口が裂けても言えません。むしろ古代史ファンは、国や自治体にそういう状況を改善するように陳情すべきかもしれませんよ。ただ、結論と言うより蓋然性の高い仮説を出すのに必要なものは確かにあります。それで行くと、終末に集落が衰退してると言う事実は無い、と申し上げているのです。
>> >> 布留0式以降は墓地化しますが、その直前までは集落であることは、以上の資料提示で分かってほしいです。
>> “以上の資料提示”といわれますが、南内郭については、結局は環濠の中に
>> 土器があるという以上のことはなかったと思います。
建物が存在すると言う事実があります。いずれにしても、環濠の中の土器の存在の解釈の蓋然性として、イリヒコさんのは無理があるのでは?
>> >> 調査担当者もそう考えているのです(細川、渋谷氏)。
>> 吉野ケ里の場合、はた目から見て調査担当者とそれ以外の方の温度差が非常
>> に大きいことが問題であるようです。
それは、保存問題や整備がらみでやや大袈裟に、また先走りで予報をだし続けねばならなかったからです。しかし、今は落ち着いて、確かに以前は外野の方が冷静に見ていたかもしれませんが、今は担当者がしっかりと物に即して、事実を報告し、遺跡を分析しています。
>> >> 唐古の環濠帯は30ha範囲を含み、吉野ケ里は40〜45haぐらいでしょ。ただ、吉野ケ里は東側についてはちょっと怪しいところがあるので、大体同じと捉えています。
>> >> まあ、吉野ケ里の方が大きくてもいいですが、何倍、まではないですよ。
>> 集落として比べるなら、環濠内を比較しないと意味無いでしょう。
>> もっとも、数倍は書き過ぎで、2〜2.5倍ぐらいでしょうか。
>> さて、領域が明らかになったところで次ですが、まず、吉野ケ里はその40〜
>> 45haの全てが居住域でないことはご存じでしょう?その大部分は空白域です。
それ言ったら、唐古も、環濠帯が広く、純粋居住域は小さくなりますが。
>> 居住域という点から見ると、中期と比べて(もっとも中期の居住域はほとん
>> ど手つかずのようですから、推定中期というべきでしょうけど)後期の居住
>> 域は縮小しています。また、後期後半になると、居住域も住居数も減少しま
>> す。後期の吉野ケ里が解体・分村化の過程にあるというのは高島氏が書いて
>> いることで事実と照らしてもその通りかと思います。したがって、集落規模
>> という面から見て、後期が最盛期だというのは認めがたい点が有ります。
これは歴史認識、社会論の認識の差です。「内郭」の存在が事実上、古墳時代的な「首長居館」の先駆けとすれば、そのような認識は単純です。北部九州では、後期に多くは方形環濠の、集落の特定部分の環濠が展開します。今まで、畿内優位論者の一部は、それだけを見て、環濠が小さいから九州は劣る、とまで言った人もいますが、まさかそういう理屈ではないですよね。実際は、階層化の進展や次の古墳時代への連続からすれば、より進展しています。吉野ケ里の外環濠は、まあ集落の境界としての凹み程度には認識されていたと思いますが、もう「環濠」としては機能してないだろうと思います(終末)。ただ、その内部に、居住域が複数固まってあるのも事実ですので。まとまりとしては、一つの集落でしょうし。
>> また、遺物についても後期の吉野ケ里はほとんど見るべきものがありません。
青銅器生産(前に書いたように後期に続くのは重要)、鏡片、小型倣製鏡があり(集落から)、また鉄器の分析でも(村上氏)、周辺小集落にくらべ、質・量ともに優位です。むしろ、中期より後期の吉野ケ里の方が注目されます。中期の墳丘墓段階は、逆に集落の階層性がよく分かりません。
>> 率善中郎将さんは三津永田が吉野ケ里の首長の墓域の可能性を書いておられま
>> すが、2km(?)も離れた場所に墓域を設けるというのは九州の弥生の伝統には無
>> いでしょう?しかも、吉野ケ里から三津永田までの間にはいくつも集落があり
>> ます。三津永田はやはりその周辺に住んだ人のお墓でしょう。また、率善中郎
>> 将さんは触れていませんが、東の二塚山からはもっと立派なものが出土してい
>> ます。ですから、同一丘陵であれば三津永田、さらに広域で見れば二塚山とい
>> うのが吉野ケ里周辺の後期の政治的な中心と見て取れるでしょう。これが高倉
>> 洋彰さんが出している見解で、私もこれを支持したいと思います。中期の吉野
>> ケ里が確かににその地域の中心であったことから考えれば、やはり後期が最盛
>> 期とは私は言えません。ただ、今後吉野ケ里から立派なお墓が出る可能性まで
>> を否定するものではなく、現在の出土事実から考えればそうなるということな
>> ので、新たな発見があればいつでも考えをかえます。
三津永田については私の仮説です、ただ、二塚山は丘陵筋が違います。後、二塚山はほぼ全掘していること、集団墓地であることで、三津永田は偶然の発見が多く、二塚山と異なる墓地構成の可能性があります(後漢鏡副葬墓が分散、単独立地の可能性がある)。
二塚山の方が立派というのはおそらくあたりません。
また例えば平原遺跡は三雲遺跡からちょっと離れています。また、同一丘陵上で、やはり吉野ケ里が後期でも中心であると言うのは、佐賀県の担当者や研究者の共通見解です。それは、それこそプロジェクトXの七田忠志氏以来の分布調査からも推定されることです。
>> それから、40〜45haの環濠が本当に後期一杯まで維持されていたのかどうか。
>> これについては環濠の南半は後期初頭までの土器しか含まれていないと報告
>> されており、柳田氏も1997年に吉野ケ里の環濠の南半は後期中頃に活用を終
>> えると書いています。この柳田氏の見解は発掘事実と照らし合わせても妥当
>> で、当初の報告でも外環濠は後期初頭に埋没するという見解でした。にもか
>> かわらず、ここも出土事実が何ら変わることがないのに解釈だけが変更され
>> 後期一杯まで外環濠が全部維持されていることになってしまい、それにより
>> 後期の吉野ケ里が最盛期だという結論が引き出されています。非常に違和感
>> が有ります。どのような事実をもって外環濠全体が終末まで維持されていた
>> というのか、それが肝要かと思います。外環濠で掘り直しが確認され終末の
>> 土器が有るのは概報によるかぎり南内郭西側だけです。
いや、それはその通りです。私が重視するのは、集落の内容です。また、当初南墳丘墓とされた、中期築造の「祭壇」遺構にも、後期後半から終末にかけて二重の方形環濠がとりまく等、また墳丘墓への祭祀等も含め、この地域の祭祀的中心であった(かつ首長層の居住域でもある)ことに大きな意義を見い出すわけです。環濠の有無が拠点集落の条件では無いですね、と言ったのは、そのあたりの伏線です。
環濠云々で、拠点集落論をする気はそもそも私にはありませんので。
>> >>そもそも、後期後半まで集落があって、終末に無くなり、古墳初頭にまた少しある、と言うのも妙ですよ。
>> どうしてでしょう?同じ場所に連続しない異なる時期の集落があるのはごく
>> 普通のことだと思いますが。
それは、遺物も何も無い時期を挟むならその通りでしょうが、吉野ケ里は状況が違います。
>>
>> 『環濠区画(北内郭のこと)の内部には、大型の掘立柱建物や竪穴式住居跡、物
>> 見櫓と考えられるものを含む掘立柱建物跡、土壙などがあり、区画外には竪穴
>> 式住居跡群や小規模な高床倉庫(中濠外側)と考えられるものを主体とする掘立
>> 柱建物群などが存在する。しかし、多数存在する竪穴式住居跡は環濠と切り合
>> う例が多く、土塁の存在も考慮すれば環濠が存在していた期間に共存するもの
>> は非常に少ないものと考えられる。』
>> 北内郭周辺には弥生時代の竪穴式住居跡は古墳時代初頭と比べてほとんどない
>> と読み取ることができます。後期にはあるというのは私の勘違い、記憶違いで
>> あったかもしれません。終末になくなったのではなくてもともと少ないという
>> ことのようです。
いやですから、それは予報的な話で、最も新しい報告には、きちんと土器も図示されて、終末の住居も多いということです。
あと、環濠内の大量の問題となる時期の土器について、結局、解釈の問題とされるでしょうが、様々な状況証拠からは、居住域がそこにあった、と考える方がより妥当と私は考えます。
元の発言 [ Re: 東海狗奴国説はなくなった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月3日(日)14時27分30秒 ]
>> >> 今回の発見で重要なのは、3〜40年間隔で3回ほどの祭祀が行われていることです。
>> >> 箸墓などと並行する時期に当たります。
最も古い土器が一番下の層にあって最初の祭祀のときのものとすれば築造時期がわかるでしょう。
もっとも、大和で定型の前方後円墳が作られ始めた時に前方後方墳で継続的な祭祀が行われていた、
という事実が重要だと思いますが。
>> いまさら、なにをおっしゃる。邪馬台国は、大和にあった
>> と古来からしられていたんですよ。っていうか、
>> 「邪馬台」は、「やまと」なんです。同じ言葉の漢字表記
>> の違いにすぎない。
上古音で「委奴」は「イト」とは読めないけど、「大和」は「ヤマト」と読むんですか。
それは何時頃からの当て字でしょう。
元の発言 [ Re: だから! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月3日(日)02時37分49秒 ]
は!?
いくらなんでも地理を知らな過ぎません。
佐賀平野が筑後川沿いだとでも思ってるんですか。
それとも、怡土平野がず〜とず〜と東に続いて糟屋郡の方まで行ってるとか。
話を元に戻すと、怡土平野の南は背振山系(浜玉〜厳木)、その南は多久市、杵島郡、その南は有明海です。
吉野ヶ里のある神崎郡よりず〜と西、佐賀市よりもっと西です。
前原に住んでいる人は多久でゴルフをするとき、唐津バイパスを通って背振山系の西端に迂回します。
その方がず〜と近い、速い。
元の発言 [ Re: 苦言 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月3日(日)02時43分32秒 ]
関係各位との協議を踏まえ、今回のおにりんさんの一連の発言は議論の妨害に当たるものと判断しました。
また続けて郭公さんの名誉、人格を傷つける発言がありました。
これまで多数の苦情を受け付けてきた経緯もあり、本日を持ちましておにりんさんの大論争への参加をお断りするむね決定いたしましたので、お知らせいたします。
元の発言 [ 【重要】大論争への参加について ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 3月3日(日)23時11分32秒 ]
この掲示板で最初にレスをつけてくれた方ですので。
ちょっときつくとも何にもつかないよりましなんですが。
なんか方法はないんでしょうか。
ねたろうさんとの、「短里」をめぐるやり取りが続いていますが、ねたろうさんからいただいたの書き込みから少し離れて、最も核心的な問題点について書いてみたいと思います。
思うに、「短里」説の破綻は、次のやり取りに端的に明示されています。
ねたろうさん >>「水行十日、陸行一月」を、全行程と考えなければ、倭人伝の里程は解けないと思うのです。
kouji >> そんなことないですよ。むしろ問題は、魏志倭人伝の文章はそのようには読めないということです。
ねたろうさん >> 逆だと思うのです。私は、不彌国までに、万二千余里は尽きていると考えていますが、皆さんは、不彌国から邪馬壹国間を千五百里か千四百里とお考えでしょう。しかし、これを水行十日、陸行一月にあてることは出来ないと思われるのです。千五百里といえば、壱岐から伊都国までなのですから、水行十日、陸行一月には短すぎます。
史料を解釈しようとしている以上、まずは文章をきちんと読む。当然のことで、それを逆だと思うほうが逆立ちしています。つまり、結論が先にあって史料を無理にその結論に当てはめようとしているのです。「短里」説がそれを強制しているのです。
ここで、ねたろうさんが書いていることは、「短里」説を取ると史料の記述そのものに内的な矛盾が生じることを端的に証明しています。つまり倭の地に足を踏み入れたことのない陳壽たちでも検証可能な矛盾が生じるのです。
これに対し、「長里」に立てばそのような矛盾は生じません。史料には、帯方郡から不彌国まで一万餘里+七百里とあり、不彌国から邪馬臺国までが水行三十日・陸行一月と明記してあります。一日の行程を三十里(約13km)として60日×30里=1800里。従って、帯方郡から邪馬臺国までは、一万餘里+七百里+千八百里=一万餘里+二千五百里で計一万二千餘里。一里=約435mという「長里」の基準で考えれば史料内部では整合的な記述がなされていることがわかります。つまり、「一万二千餘里」は「長里」を使用して積算されているのです。
ところが「短里」説では、「水行二十日」+「水行十日・陸行一月」と千数百里の間の整合性が取れませんから、投馬國への「水行二十日」を「傍線行程」なるものへ放逐するだけでは飽き足らず、邪馬臺國への「水行十日・陸行一月」もどこかへ追いやらざるを得なくなります。しかし、これはさずがに傍線行程というわけにはいきませんから、帯方郡から邪馬臺國への全日程であるなどというというてい不可能な曲解に逃げ込むことになるのです。
ことはそれだけに留まりません。
一方では、「水行十日・陸行一月」を帯方郡から邪馬臺國への全日程であるとした以上、どこかに一月分の陸行を設定しなければなりません。もちろん、不彌國と邪馬臺國間以外のところにです。末羅國から不彌國までの七百里では不足することは明かです。そこで不足する陸行部分を処理するため、韓国内陸行説などという更なる曲解に転落することになります。
もう一方では、「水行二十日」はもとより「水行十日・陸行一月」まで不彌國・邪馬臺國間から放逐してしまったため、この両国の距離はゼロだなどという珍解釈が強制されることになります。接している両国の距離がゼロだと言うのなら、伊都國と奴國の距離もゼロでしょう。
まさに、一つ嘘を吐くと、その破綻を覆い隠すために、さらに嘘を積み重ねていくという構図そのものです。私を含め多くの人がこの様な主張を始めた人を教祖に喩えるのは、こういう構造の上にその主張が成立しているからです。この様な世界に一度浸かってしまうと、逆立ちしている状態が正常に感じられ、成立している人の方が逆立ちして見えるようになります。挙句の果てに、東夷伝全体も「短里」で記述されているなどという妄想が真実らしく見え始め、遂には中国王朝公定の「短里」すら信仰してしまう。こうなってしまえば、多少の独自色を打ち出してみたところで、紛れもなく「信者」の一人であり、精々一宗の内部に宗派を立てる程度の違いでしかありません。
さて、「長里」に立てば、史料そのものは整合的に理解できるのですが、しかし、それによって描かれる地理像と現実の地理を引き比べてみれば、そのままでは一致しないこともまた明らかです。そうである以上、史料の記述に誤りがあるという事実を正視して、その誤りの内容を探っていくのがまっとうな学問というものなのです。
元の発言 [ 21か国だいたい比定! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月3日(日)15時05分22秒 ]
>> 9→Aのところがやや不自然ですが、それ以外のところは、行き止まりになると直前の分岐点まで戻って違う道を行くというルールで、国が整然と地理的に並んでいるのがわかります。一つひとつはあやしくても、全体としては割といい感じだとおもうのですが、いかかでしょうか。
いま私の考えているのと、後半部分はよく似ています。
いろいろ助けてもらっているのでそのせいかもしれませんが。
ところで躬臣ですが、思いっきり上古音読みで「コ(乙)ギn」「コ(乙)ゲn」のようにも思うのですがいかがですか。
「臣」が閉音なのが気に入りませんが、「末」の場合同様中国人の苦労していたと思われるウ段を意味しているなら、
「コ(乙)ギヌ」「コ(乙)ゲヌ」かもしれません。
「躬」がng終わりなので、どうも「臣」は「ゼ」ではないような気がするのですが。
私は音訳時代を後漢代に当てているので、結構古い音かも知れないと思っているのです。
「躬」も上古音バリバリなら、「ク」より「コ(乙)」がふさわしそうですし。
上の意見に反しますが、私の現在の比定は「巨勢(コゼ)」です。
北の方には「御所(ゴセ)」もありますし、巨勢氏の勢力は6世紀以降としても、
ほんとは葛城氏がのしてくる前からの地名と思うのですが。
巨勢氏は単に古い地名の地域を本拠地にしていただけで・・・
寺澤氏の王権誕生によると奈良盆地南西には、もう一つ国があってもよさそうです。
もっとも「コ(乙)ギヌ」「コ(乙)ゲヌ」なら案外「許野」に通じるかもしれない。
久我(コガ)神社、久我(コガ)国造も有ります。
こいつも「興我萬代継神」なら「コ(乙)」ですから。
あと「鬼」は私は「ク」と思っています。
したがって「鬼奴」は後の「狗奴」であると・・・
むろん「邪馬」は後の「邪馬台」とします。
山城の紀伊郡は、葛城氏のからみで、どうも後世の移住の結果かも知れない。
葛城滅亡時に、木なんとかがいっぱい山城に移住してます。
どうもまだいまいち解けません。
話がとびますが、私は「好古都」は方県をあてています。
このあたりには、○県などという郡名や神社名が多いですから、
後ろの「県」はあとでくっついたものでしょう。
オカタ→オカタカタ→カタカタと考えます。
やや南の厚見郡になりますが、瑞龍寺山遺跡の主を想定しています。
墓と出土品の対応が取れていませんが、後漢鏡一枚分と推定後漢代の五朱銭が出ています。
墓の推定年代は2世紀初頭で、私の仮説"「倭奴王」(57)と「帥升」(107)時代の二回音訳があった"と合います。
やはり王権誕生によると、このあたりを通って、東国に向う交易路を推定しているようです。
瑞龍寺山遺跡から出てくる勾玉の材料が、土岐石だと言う説もあって、今のところ「都支」には
土岐を当てています。
都がトになるマジックは、伊都の都と同じで、日本語の音韻変化に求めます。
それもまた傍証を集めているところですが。
なんか私のは前書きのとっても長い比定になりそうです。
元の発言 [ 【重要】大論争への参加について ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 3月3日(日)23時11分32秒 ]
今回の処置支持します。
このサイトの健全な運営を復活させなければならない。
元の発言 [ P音問題 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月4日(月)01時23分04秒 ]
管理人さんからの掲示がありましたね。
音韻の問題に関しては、おにりんさんとの議論は
啓蒙になってよいのですけど。
でも、あの採点法のような独善的なところもあるし。
p音問題の回答を書きます。
まず、日本語のハ行が「F」であっても、
漢字音訳では「p」あたりだろうという話なので、
奈良時代のハ行が「p」ということではないと思いますけど。
小松英雄著「日本語の音韻 (日本語の世界7)」中央公論社
『ハ行子音は、文献時代以前に両唇破裂音の[p]であったが、
すでに奈良時代には両唇摩擦音の[Φ]になっており、
さらに江戸時代に入って声門摩擦音の[h]に変化した。』
「上のp([p])→F([Φ])の変化は唇の緊張がゆるむと、
p(両唇閉鎖音)からF(両唇摩擦音)に変化する現象で、
唇音退化と呼ばれ色々な言語によく見られる音韻変化の一つです。
そしてこのp→Fの変化が古代の語頭のハ行音にみられ、
奈良時代以前にp→Fの変化を完了していたと考えられています。
これが「p音考」としてよく知られている語頭ハ行音の変化です。」
http://www.biwa.ne.jp/~ichhan-j/paline/paline(contents).htm
私は、奈良時代以前のp→Fの変化後に
ある地方の特殊な言葉がちょっと難しい変化だけど
h→Fとなって合流した、という推論です。
つまりFくらいなら合流できるだろうと。
h音が上代中央に残った形跡がないので、
ある地方の期間限定の特殊な音だったのかもしれません。
つまり、渡来人が国名や尊称をつけたなどの可能性です。
このような特殊なことは、追跡できる筈もなく、
あまり断言できるようなことではないと思うのです。
逆に比定がうまくいくような音をその答えとするべきだと
考えています。まあ、音の比定と国の比定とどっちが
先かわからないといわれるかもしれませんが、
いろいろ考えてもいいんじゃないでしょうか。
断定できる積極的な理由はなにもないのですから。
元の発言 [ Re: 「孫子」は短里 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月4日(月)01時27分05秒 ]
始皇帝陵から出土した戦車像は四頭ですね。
元の発言 [ Re: Title:古事記の音韻 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月4日(月)01時41分29秒 ]
>> #切韻の呉音というのは、唐代長安音と一部を除いて大略一致するのですか?(安本氏も一部について、切韻の音と唐代長安音を区別している)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
# 「直音の強い介母音(仮四等)」というのは、どういう意味ですか? まったく意味をなさないと考えます。
中古音(『切韻』音系も唐代北方音も)の介音は、uの有無による合口音と開口音、iまたはIの有無による拗音と直音に分れます。「直音」は拗介音をもたないもののことなので、「直音の強い介母音」というのは自己撞着です。
また「仮四等」というのは『切韻』の三等A類韻のことで『韻鏡』では四等欄に置かれる字なので、このように呼ばれるのです。
ここは正確には、「『切韻』音系では直音であった四等韻は、唐代北方音では拗音化し、口蓋的拗介音をもつ三等A類韻と合流した」と言うべきところです。中国語音韻学の初歩的な知識です。
>>
>>
# 初耳です。誰の説ですか? 二種の拗介音の区別は唐末でも明確に存在します。これは中国語音韻史の定説です。
>>
>>
>>
# これも意味不明です。中古鼻音声母の非鼻音化のことですか? 「女」字は〈泥〉母ではなく〈娘〉母字です。2)の変化の一種なので、別項を立てる必要はありません。
>>
>>
>>
# 6)は現代北京語に当てはまりません。また、5)の一部、すなわち<日>母字は現代北京語ではr-となっています。唐代北方音の変化が一層進行したものと考えられています。中国語辞典を御覧下さい。
これらはすべて概説書にも載せられている中国語音韻学の初歩的知識なので、ご確認ください。誤った情報を撒き散らすのは弊害が大きいと憂慮して、立ち止まった次第です。失礼の段、ご海容ください。
元の発言 [ Re: Title:古事記の音韻 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月4日(月)01時41分29秒 ]
>> 3)唐代の途中から、直音の強い介母音(仮四等)が出現
#「直音の強い介母音(仮四等)」というのは、どういう意味ですか? まったく意味をなさないと考えます。
中古音(『切韻』音系も唐代北方音も)の介音は、uの有無による合口音と開口音、iまたはIの有無による拗音と直音に分れます。「直音」は拗介音をもたないもののことなので、「直音の強い介母音」というのは自己撞着です。
また「仮四等」というのは『切韻』の三等A類韻のことで『韻鏡』では四等欄に置かれる字なので、このように呼ばれるのです。
ここは正確には、「『切韻』の四等韻が唐代北方音では拗音化し、口蓋的拗介音をもつ三等A類韻と合流した」と言うべきところです。中国語音韻学の初歩的な知識なので、概説書を御覧下さい。
>> 4)唐代の途中から、拗音の3等と4等の区別が消滅。
>> つまり、介母音の弱いIと強いi が区別が消滅
# 初耳です。誰の説ですか? 二種の拗介音の区別は唐末でも明確に存在します。これは中国語音韻史の定説です。
>> 5)陽類の、-ng が、ほとんどよわくなった。
>> 6)n のあとに、介母音 i が入ると、摩擦濁音化した。
>> 女が、「じょ」と発音されるようになった。
#これも意味不明です。中古鼻音声母の非鼻音化のことですか? 「女」字は〈泥〉母ではなく〈娘〉母字です。2)の変化の一種なので、別項を立てる必要はありません。
>> 現代北京語などとの関係でいうと、1)、3)、6)あたり
>> が当てはまりますね。
#6)は現代北京語に当てはまりません。5)の一部、すなわち<日>母字は現代北京語ではr-となっています。唐代北方音の変化が一層進行したものと考えられています。中国語辞典を御覧下さい。
これらはすべて概説書にも載せられている中国語音韻学の初歩的知識なので、ご確認ください。誤った知識を撒き散らすのは弊害が大きいと憂慮して、立ち止まった次第です。失礼の段、ご海容ください。
伊勢神宮についてお聞きしたいのですが、
神殿を20年に一度建て替える大祭・神宮式年遷宮がありますが、
どうしてこれは20年に一度なのでしょうか? 昔から、700年ごろから20年に一度立て替えられているようですが、どうして20年に一度なのかどなたかご存知の方
ぜひとも教えてもらいたいのですが、よろしくお願いします。
元の発言 [ Re: P音問題 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 3月4日(月)07時05分51秒 ]
いくつか文献読んでると、いまのところ
奈良時代には、p音というほうが優勢なのかな?
なんだかやっぱり難しい・・・。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その2) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月6日(水)00時30分20秒 ]
>> >> 私の提案:「東は北であり、千里は400kmだとすれば、沿海州に倭種が住んでいたのではないか」
東京から奈良まで国道使って450kmですからね。
伊勢湾を陸地に沿ってずうっと行かない限り400kmにはならないでしょうね。
鳥羽から遠州灘を航行して御前崎から駿河湾を横断、石廊崎から相模湾横断というコースで行けば435kmでは
東京湾に入ってしまいます。
「渡海」というのは岸にそって航行するのではなく目標に向かって真っ直ぐに行くのではないでしょうか?
伊勢から渡海するなら鳥羽から伊良湖岬へ30kmたらず真っ直ぐに行くのが普通です。
まあ、鳥羽から70km程度の豊橋へ行くのを短里で渡海千里と言ったというなら解らなくはありませんが。
元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 2月27日(水)20時23分00秒 ]
郭公さん、今晩は!
>> 一日の行程、三十里(約13km)が妥当だとします。もちろん、休息日もありましょうから、長期の遠征における一日の平均値と考えましょう。
>> 事実、ALEXさんの書き込みに
>> ># 李朝の帆船が子の刻に出帆して未明に推測航海を開始し、佐須奈着がようやく黄昏に間に合うのです。
>> と、ありますように、一日13km以上移動することもありますので。
後漢書南蠻傳には、
『軍行三十里為程,而去日南九千餘里,三百日乃到』
とあります。一日三十里で九千餘里の所用日程が三百日というわけです。
この基準は魏のときにも有効でした。後漢書地理志には
『遼東郡。秦置[各隹]陽東北三千六百里』
とあります。洛陽から遼東郡まで三千六百里です。また、魏志明帝紀所引干寶晉紀にある公孫淵征伐に関する明帝と司馬懿のやり取りの中には
『帝曰「住還幾日?」對曰「往百日、攻百日、還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」』
とあります。洛陽から遼東郡まで片道百日ですが、ここでは別に休息日が計上されていますからこれを按分すると、片道の行程は、実働百日+休息二十日の計百二十日になります。三千六百里の所用日程が百二十日というわけで、一日平均三十里になります。
後漢から魏にかけて、軍旅で一日行程が三十里と考えられていたようです。
>> 郡から、狗邪韓国まで七千余里が至極まっとうな数字であるとするならば、230日以上かかって航海した事になります。
>> この日数もまっとうな数字なのでしょうか?
郡から狗邪韓國までの七千餘里という距離を机上で里程に換算すると230日以上ということになります。また、日程から七千餘里という里程を机上で算出したとしても、日程が230日以上だったということになります。しかし、七千餘里が実際にその航路を旅した人の記録であるとすれば、日程とはかかわりなく算出された数字である可能性もあります。だから実際に230日以上かけて旅したかどうかとなると、水上交通は条件により速度にばらつきが大きいので、必ずしもそうはいえません。勿論、いくらなんでも7日ということはないと思いますが。
ところで、230日以上かかることに何か問題があるでしょうか?
>> 一方、狗邪韓国から対馬まで、ALEXさんの書き込みによれば、未明に出てその日の日暮れには着いています。これから類推すれば、壱岐までも一日。末廬国までも一日でしょう。
(中略)
>> 狗邪韓国から十日もあれば末廬まで着けるんじゃないでしょうか?
件の朝鮮通信使は8月4日に釡山を発し、肥前名護屋に8月29日に着いています。帰路では、10月13日に肥前名護屋を発し、釡山着11月23日です。大部分は悪天候で足止めされた日数ですが。
>> これから類推すれば、郡から狗邪韓国までがまっとうな七千余里としましても、230日以上もかかりませんよね?
渡海航路から沿岸航路を類推するわけにはいきません。件の朝鮮通信使は、海岸沿いのルートである肥前名護屋から堺まで、往路では十九日、復路では三十日を要しています。この間、天候待ちによる足止めの日数は格段に減っています。一日の航海距離は伸びない代わり、安定した航海ができるわけです。
>> 一日の行程三十里(約13km)に無理があるのか、郡から狗邪韓国までをいわゆる長里で七千余里がまっとうでないのか?
渡海航路の実際に渡海した一日の航海距離を一般化することに無理があるのだと思います。
>> (koujiさん)
>> >> > 一方、末盧國から伊都國までの陸行は背振山脈越えだったはず。その間が五百里とされている。同じ単位で記されていると言えるような距離感でしょうか?
>> (郭公)
>> >> 末盧国から伊都国の陸行は海岸沿いでしょう。背振山脈を越える必要はありません。
>> (koujiさん)
>> > 海岸沿いは通れなかったそうです。
>> (郭公)
>> >> 地図的には末盧国―伊都国間と伊都国―奴国間はほぼ等距離。五百里と百里です。
>> (koujiさん)
>> > 従って、5:1とまでは言いませんが、ほぼ等距離とは言えないものと思います。
>> ここも腑に落ちないのですが、いったい背振山脈を越えてどのようなルートで伊都国へ行ったのでしょうか? 何日かけて?
それはわかりませんが、海岸線沿いが通れず、かつ実際に陸行したのだとすれば、そう考えざるをえません。もし陸路で、背振山脈越えも駄目だということであれば、一旦佐賀平野に出て奴國経由で伊都國入りしたのかもれませんね。それなら本当に5:1ぐらいにはなってしまいます。
郭公さんの考えからすると、一概に否定できないのではありませんか?
>> >箇条書きの聴き取りリストという想定では「陸行一月」をどのように理解するのでしょうか。
>> 上陸して一月歩いたということでよろしいのではないでしょうか。
「聴き取り」であれば、日数は所用日数の筈なのではないでしょうか?陸行に移るまでは長く水行を続けているわけですから、上陸地点は邪馬臺國の主邑への入口というべき港のはずです。従って、実際に一ヶ月歩く必要があるとは考えられないのではないでしょうか。
元の発言 [ Re: Title:古事記の音韻 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月4日(月)01時41分29秒 ]
わたしが音韻の基礎知識がないという以上に、どうも論文自体に(例によってというか)不透明な論理が、あるので、このへんにして、この問題は次号以降もやるらしいので、その辺を又見てみたいと思います。
元の発言 [ Re: Title:古事記の音韻 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月4日(月)01時41分29秒 ]
いろいろ質問して、不明解な印象を与えるだけではなんなので、安本音韻推定を、一例、挙げてみます。
現在の「サ」についてですが、
安本氏は、これが奈良においてはどういう音だったか、定説はない、としたうえで、
「太安萬呂は。古事記歌謡を、当時耳で聞いた日本語の音を、一音韻一字主義で、厳密に表記した」
と、いうのを前提に、(ちなみに、これは新説でしょうか)
1:古事記歌謡で、現在の「サ」は「佐」で表記される。
2:「佐」は藤堂氏の辞典による隋唐中古音で、「tsa」になる
3:従って、太安萬呂の「サ」は「tsa」になる。
と、いう議論をしています。
こういう単純な議論なら、とっくに解明されててもよいのでは、という気がして、どうも謎です。
ちなみに、わたしが面白いと思ったのは、
「太安萬呂は。古事記歌謡を、当時耳で聞いた日本語の音を、一音韻一字主義で、厳密に表記した」
の主張です。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その2) ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月6日(水)07時18分14秒 ]
>> 東京から奈良まで国道使って450kmですからね。
>> 伊勢湾を陸地に沿ってずうっと行かない限り400kmにはならないでしょうね。
>> 鳥羽から遠州灘を航行して御前崎から駿河湾を横断、石廊崎から相模湾横断というコースで行けば435kmでは
>> 東京湾に入ってしまいます。
そういえば千葉県に、巻向型の庄内期まで遡る可能性のある、前方後円型墳丘墓がありますね。
鏡もでていますね。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その2) ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月6日(水)00時05分09秒 ]
>> 私の提案:「東は北であり、千里は400kmだとすれば、沿海州に倭種が住んでいたのではないか」
狗邪韓国〜対海国〜一大国〜末盧国のそれぞれのも、400kmですか?
理解できません。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その2) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月6日(水)09時12分59秒 ]
あの〜、沿海州説は単なるおちょくりであります m(_ _)m
私は、大和説は限りなくトンデモに近いと昔から放言しています。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その2) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 2月6日(水)10時22分26秒 ]
>> 狗邪韓国〜対海国〜一大国〜末盧国のそれぞれのも、400kmですか?
>> 理解できません。
#すみません。パロディのつもりです。
「東千里」は「北」ではなく「東」へ、せいぜい対馬〜壱岐間と同じくらいの距離、と正しく考えています(だって、そう書いてある)。
kouji >> また『後漢書』は東晋范曄の撰といいますが、志は西晋司馬彪撰の続漢書の志を後世になって併せたものです。その中の郡国志にも「長里」が用いられています。例えば「遼東郡襄平県、洛陽東北三千六百里」などで、これは魏の明帝が「四千里征伐」とするのと整合しています。
大場さん>> ALEXさんの「漢籍の書棚」の『後漢書(續漢書)』郡國志五(幽州刺史部)に、
大場さん>> 遼東郡
大場さん>> 【秦置。[各隹]陽東北三千六百里。[案本紀、和帝永元十六年郡復置西部都尉官。]十一城、戸六萬四千一百五十八、口八萬一千七百一十四。】
大場さん>> とあります。
大場さん>> 「洛陽東北三千六百里」は西晋の司馬彪ではなく、【梁 劉昭註】ではないでしょうか。
さすがは、大場さんです。いいところを突きますね。
でも、ALEXさんのところでは、原文の書式がわからないので区別つきにくいのですが、この設置者・設置場所部分は司馬彪の文でしょう。理由次のとおりです。
1.郡名の後一律に、細字で設置者・設置場所を記し、続いて大字で城数・戸数・口数・県名を記している。例えば楽浪郡では、
「樂浪郡【武帝置。[各隹]陽東北五千里。】十八城、戸六萬一千四百九十二、口二十五萬七千五十。朝鮮。[言冉]邯。[シ貝]水。含資….」(【】内が細字部分)。
設置者・設置場所が細字なのは、漢書地理志は設置者だけで設置場所を欠くとはいえ、その様式を踏襲したものと考えられる。
2.それ以外の細字部分は、ほぼ出典を明示してあり、一律に記されたものはない。
3.一連の細字部分の中でも、後から注記された部分は区別されている。例えば、
「遼東郡【秦置。[各隹]陽東北三千六百里。案本紀、和帝永元十六年郡復置西部都尉官。】十一城、戸六萬四千一百五十八、口八萬一千七百一十四。」(【】内が細字部分)
というわけです。
元の発言 [ Re: 『邪馬壹国』→『邪馬臺国』は、近畿王朝ではない(その2) ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月6日(水)07時18分14秒 ]
>> >> 納得できるかどうかは、なんともいえませんね。
>> >> 大和から、400キロ。遠江あたりですかね。
>> 東京から奈良まで国道使って450kmですからね。
>> 伊勢湾を陸地に沿ってずうっと行かない限り400kmにはならないでしょうね。
>> 鳥羽から遠州灘を航行して御前崎から駿河湾を横断、石廊崎から相模湾横断というコースで行けば435kmでは
>> 東京湾に入ってしまいます。
後世の話ですが、水軍の研究をしている人によると、伊勢湾
については書いてありませんが、駿河湾は陸地に沿って航海
するのが常道だったと書いてありました。
元の発言 [ Re: 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月6日(水)10時07分57秒 ]
その辺りが曖昧でした。御存知のようですが,
『国語大辞典』(小学館)によると,
「あまてる」は「自ラ四」で「大空にあって照り輝く」意。
「あまてらす」は,これに尊敬の助動詞「す」がついたもので,
(1)「天にあって照り輝いておられる」→用例「安麻泥良須(あまでらす)」。
(2)「支配者として天下にのぞんでおられる」
ただし,天照大神の場合,
記紀による限りは,居場所は天(高天原)です。
というわけで,投稿65.htmlで
「明るく照らす意味」と書いたところは適当に読み替えて下さい。
「天足らす」は,『国語大辞典』(小学館)によると,
「天一杯に充満しておられる」意,
「足らす」は「満ち足りていらっしゃる」意のわけですが,
「タラシ」と言えば帯状のもののことであるし,
「足」「帯」「垂」などの宛字を漢和で見ると,
なんとなく,天子・国王等の支配権を感じさせますですね。
隋書によると,夜明け前の大王だと言うし,
「帯」は「川」の喩えであるから「天の川」を連想,
天帯彦大王とは銀河皇朝の大王か?
というのは,こちらの古代史スリラーです。(-_-;)
# 首露王の場合,紫の縄が,天から垂れてきて,地に着く。
辞書的には一応の定義がある,という辺りで,
突っ込んだ議論が楽しい,と。
ついでに,「弓(たらし)」は,「とらし」の変化で,
「貴人のもつ弓(手にお持ちになるものの意)」
>にゃんちゅー さんへ
万葉集(岩波文庫版)を拾い読みしていると,けっこう,面白い。
一六七に,
「天照らす 日霤女尊 (一云,さしのぼる日女の命)
天をば知らしめすと」「高照らす 日の皇子は」
なんて用例があります。>櫟さんへ
大野説を参照すると,日本語の「天(あま/あめ)」という語は,
アルタイ系のシャーマニズムの天の観念に酷似しているが,
語形が対応せず,むしろ,タミル語の amar と対応しているそうです。
その意味内容は「やすみしし」「天足らす」などと一脈通じる感じ。
# 北方系要素とは畢竟,漢文化か?
三世紀倭国の方言の可能性について考えてみました。
以下は"日本の古代史1 倭人の登場"(中公文庫)中の森博達氏の文章
"「倭人伝」の地名と人名"に基づくものです。
))閉音について((
森博達その著作"「倭人伝」の地名と人名"のなかで、倭人伝中の漢字に音訳
された倭人語をもとに以下のような分析をなされています。
1.倭人語を表記した漢字には、中国の中古音ベースで、陽声、入声の文字が
全体の延べ146字の内、延べ18字しか用いられていない。
これは全体の12%にすぎず、東夷伝中の馬韓の38%、弁辰の28%、
辰韓の32%に比べて目立って低い。
これは当時の閉音字(子音を音節の最後に持つ字)を避けた結果で、当時の
倭人語は、現在の日本語のように開音節(母音で終わる音節)で出来ていた
可能性が高い。
2.同じく、去声文字は延べ6字しか用いられていない。
これも当時の去声字が閉音を表していたことが原因である可能性がたかい。
3.全清音はあるのに、対応する次清音がないことから、中国人かもしくは
中国語に堪能な人間が音訳した。
森氏はこれをもう少し詳細に見てゆきます。
開音で構成された音を音訳するのに、閉音を使用する理由としては、
a.末尾の子音を使って次にくる文字の子音の聞こえをよくする。(子音を重ねる)
b.音訳したい音節の母音が開音字に存在しない。
の二つが考えられます。
倭人伝全体のなかでそれぞれに該当しそうなものを拾い上げます。
a.伊(声)耆―g音が重なる、彌馬(獲)支―k音が重なる、已(百)支―k音が重なる、
(躬)臣国―gとz音が重なる、(柄)渠觚―g音が重なる
b.難(升)米、彌馬(升)―いずれもオ段(乙)音の開音がなかった。
森氏によれば、一般に閉音といっても聞こえのよいものとそうでないものがあり、
声升躬柄などのグループは比較的閉鎖性の弱い音だそうです。
そのため上の例のように濁音を強めたり、開音の母音の対応しないものに
用いられたのでしょう。
また「難」などは開音がありますので、閉音のリストからは外せます。
また去声は、完全な中古音ベースでは、開音に近づいてゆくわけですから、
上古音末期にはかなりの字が開音に近い、閉鎖性の弱い音になっていた
可能性はあります。
倭人語の音訳者がそのような去声字を選んでいたかもしれません。
残る閉鎖性の強い、子音韻尾の発音の強い文字として、
「一」「末」「泄」「不」「獲」「掖」「越」「百」「邑」「臣」
があります。
この内a.の例に該当するので「百」「獲」はそれほど問題はないでしょう。
のこる8字種延べ9音は普通の開音節とは違う音を表していた可能性があります。
奈良朝の日本語では、「言(っ)た」「飛(ん)だ」の()内のような音はなかった
ようですが、これらの音はそのような音を表しているのかもしれません。
そこでこれをもとに倭人伝テキスト中に地域方言があるかどうかを見てみます。
地名比定の比較的はっきりしているか、おおよその位置の分かる、
対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国とその官名について
森氏同様の分析をおこないます。
すると陽声、入声の文字が全体の延べ44字中、5字で11%となり、
これだけだと倭人伝全体と目だった差は認められません。
しかし上述の不審な8字種だけにかぎると
北部九州関連:延べ44字中4文字9%
それ以外:延べ102字中5文字5%
かなりはっきりした差が現われます。
ここでやや恣意的ですが、伊都国以外に共通する卑奴母離を、中央から
派遣された官であるとみて除くと
北部九州関連:延べ28字中4文字14%
それ以外:延べ118字中5文字4%
となって、断言できませんが北部九州方言があったと考えて無理がありません。
北部九州関連以外の不審字5文字をみると
人名:掖邪狗、載斯烏越
国名:不呼、呼邑、躬臣
となり、誤字でなければこれらの国や人が北部九州とつながりのあった
可能性も指摘できます。
))サ行の分析((
こんどは倭人伝中のサ行を表す音について考えて見ます。
サ行と思しき字は
Aタイプ 升声
Bタイプ 姐載
Cタイプ 斯蘇泄
それぞれの母音の推定音は
升(イ/オ乙)
声(イ/エ)
姐(イ/ア)
載(オ乙)
斯(イ/エ)
蘇(ア/オ)・・・後に述べるがこれはア段の可能性が高い。
泄(イ)
でしょうから、必ず一つの音に異なるタイプの子音が入って、現代日本語の
ようなサ行の中の子音の変化とも思われません。
明らかに異なる子音行がありそうです。
そこでまずこの一群の字を、子音別に分類することを考えます。
ところが、載斯は一語の中にBC両タイプがあります。
したがってBCのタイプは分離できません。
そこでAのタイプだけを切離す方法があるか考えてみます。
まず其餘旁國の国名リスト中とその他の部分に分けます。
其餘旁國の国名リスト中:姐蘇斯
その他の部分:升声載斯泄
その他の部分にはABCの三タイプが入っていますが、「泄」は北部九州の
官名のなかに入っています。
載斯は))閉音について((の節で北部九州関連の疑われる人名のなかにあります。
この人物が北部九州出身で、倭人伝中にあるように、狗奴国と邪馬台国の
争う様子を、魏の人間に知らせた人物であれば、自分の名前を方言で自称し、
中国人がその音を音訳した可能性があります。
さて其餘旁國の国名リストですが、森氏は著作のなかで、倭人伝の音韻と
上代日本語の音韻の連続性を考えた場合、この其餘旁國の国名リストは
前漢代に音訳されたとするのが妥当ではないかと述べられています。(注1)
ここではこの仮説を認めることにします。
前漢代には、考古学的に北部九州が倭人の中心で、その経済文化は圧倒的
でしたから、このリストは北部九州人が仲介して、中国人に教え、北部九州人
の言葉を中国人が音訳した可能性があります。
そこで地域別に考えてみます。
北部九州方言は倭人伝の北部九州関連記述、其餘旁國の国名リスト、載斯烏越
とします。(注2)
北部九州方言:姐蘇斯載泄
その他の方言:升声
ここでAタイプが分離できました。
しかしなお北部九州には二種類のサ行がのこります。
そこで比較的タ行に近い「姐」「載」をタ行ととります。
「姐」はタまたはチ、「載」はト(乙)でしょうから、これが成立するには
北部九州方言の記述にタ、ト(乙)またはチ、ト(乙)の音がないことが条件に
なります。果たして以下の様になります。
北部九州方言
タ 多/都 ta (ここの多は不彌国の官名で後漢以降の音訳とする)
チ 姐 tsi
ツ 対 tu (去声なので後ろに子音の可能性あり)
ト(乙) 載 tsO
ト 都 to (ここの都は伊都国の都で後漢以降の音訳とする)
サ 蘇 sa
シ 斯/泄 si (二つあるが、泄は恐らく後ろに子音を伴っていた)
其餘旁國の国名リストは前漢代の音訳ですから、このリスト中の魚部模韻の
「都」や「蘇」はア段にとります。
したがってタは二つありますが、一つは前漢代の音訳、一つは後漢魏晋代の
音訳。
その他の方言
チ 智 ti
テ {革是} te
ト 都 to
シ/セ 声 tSi/tSe (シかセかは決めかねる)
ソ(乙) 升 tSO
この結果を前提にすると以下のようなことが言えます。
1.其餘旁國の国名リストにある姐奴国のよみは、シナではなくチナになる。
2.後漢書東夷伝にある、倭国王「帥升」はこれが倭人名の比較的正確な
音訳で、本人が自称したものであるならば、この王は北部九州方言の人間
ではない。
(注1)
森氏は邪馬台国九州説にたって、前漢代に音訳された其餘旁國の国名リストが、
倭人伝に取り込まれるプロセスを示されています。
私は北部九州の対馬国、一支国、末盧国、奴国とこの其餘旁國の国名リストが、
前漢代に音訳されて倭人伝に取り込まれるプロセスを
邪馬台国の位置に関わらず説明する方法を独自に考えました。(下記リンク)
(注2)
この仮定にもとずいて、))閉音について((でおこなった不審字の割合は
北部九州方言:延べ92字中8字で9%弱
その他の方言:延べ54字中1字で2%弱
北部九州方言から載斯烏越をぬいても
北部九州方言:延べ88字中7字で8%
その他の方言:延べ58字中2字で3%強
で前提を覆しているわけではない。
元の発言 [ Re: 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月6日(水)10時07分57秒 ]
>> 御が、「おほん」ですかね。
これって「いずれの御時(おほんとき)にか女御更衣
あまたさぶろひたまひけるなかに」(源氏物語)
って例もあるそうですねー。
以下のサイトによると,辞書的には,
大御:おほみ→おほむ→おん→お
という変化が「お」に見られるそうです。
消えてゆくことばの文化/お【御】
http://www.iida.co.jp/~dozeu/ina_1.html
この関連,サイトで探したら,かっこいい論文とか集まって,
ウハウハでした。以下は,議論の件で,端的なもの。
---------------------------------------------------------
御時
http://www.iwai-h.ed.jp/~teru/monogatari/genji/ohon.html
「御前」(おまへ)「御座」(おまし)「御簾」(みす)
などを除き「おほん」と読まれた。「御時」はご治世の意味
--------------------------------−-----------------------
国文学・万葉文化論/奈良大学文学部助教授/上野 誠
http://www.nara-u.ac.jp/forest/forest-a-lcol82.html
原則というものはありません。「御」は「おほん」「おん」「み」
とも読めるので、ルビがないときはよみ易いようにを念頭におい
てください。
---------------------------------------------------------
元の発言 [ Re: (里程について)訂正のついでに、、、(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月5日(火)18時37分17秒 ]
おにりんさん、今晩は。
>> >> 韓国内水行ということですね。しかし、南漢江を遡上したとして、1000メートル級の山脈に(月岳山や俗離山)ぶつかるので、迂回して洛東江に向かわねばならず、現実的ではないと考えます。地図上の考察だけで申し訳ないのですが。
普通、谷間といえば、山にあるものでしょう。南漢江と洛東江も繋がっていないようですし、迂回せざるを得ないと考えますが。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月6日(水)00時47分58秒 ]
こんばんは。
もう一度読み返していて良くわからなくなってきたので、一つ確認させてください。
率善中郎将さんは
>> 北内郭の環濠からは後期後半(柳田編年の後期4)から、終末(後期
>> 5)まで出土しており、終末でも庄内系や5様式系の土器も少数あること
>> から、終末でも新しい段階にやっと埋没したようです。
と書かれていますが、柳田後期5と言えば、土師器Iより前だったと思います
ので、これをそのまま考えれば、南北の内郭は庄内を待たずにその役割を終
えることになります。
一方で、率善中郎将さんのいう通りだとすると、柳田後期5は庄内でも新し
い土器と供伴するということになるので、これは後期5〜土師器Iにかけての
柳田編年が大きく間違っていたということになるような気がします。
したがって、西新式あたりの土器の編年が大きく見直された結果、吉野ケ里
の内郭が布留0近くまで存続にすることになったという理解でよろしいですか?
もしそうだとしたら、話は吉野ケ里だけにとどまらないものすごい大ごとにな
るような気がしますが、どうですか?
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月6日(水)20時16分43秒 ]
>> こんばんは。
>> もう一度読み返していて良くわからなくなってきたので、一つ確認させてください。
>> 率善中郎将さんは
>> >> 北内郭の環濠からは後期後半(柳田編年の後期4)から、終末(後期
>> >> 5)まで出土しており、終末でも庄内系や5様式系の土器も少数あること
>> >> から、終末でも新しい段階にやっと埋没したようです。
>> と書かれていますが、柳田後期5と言えば、土師器Iより前だったと思います
>> ので、これをそのまま考えれば、南北の内郭は庄内を待たずにその役割を終
>> えることになります。
>> 一方で、率善中郎将さんのいう通りだとすると、柳田後期5は庄内でも新し
>> い土器と供伴するということになるので、これは後期5〜土師器Iにかけての
>> 柳田編年が大きく間違っていたということになるような気がします。
イリヒコさん、何か勘違いしてます。柳田氏の後期5(1986年のやつ)のうち、後半部分は、1991年の編年の土師器1式に実は併行してます。これは柳田氏自身が言ってるし、編年表にもそうなってます。(後期5は他よりやや幅があると見た方がよい。また後期5の前半は庄内式の少し前ということになります)1991年の柳田編年は、1a、1bについては、庄内系(五様式系含む)しか載せてないのは、実は多くは在地系があると言う含意があります(在地系は後期5の後半の指標資料を書いている)。逆に次の2a期には在地系がまた出てくるのは、ここで、後期の編年の後に続くということを意味してます。べつに柳田編年が間違ってる訳ではないですよ。まあ、「土師器」と言う意味で誤解は与えますが(この頃から柳田氏は庄内式から古墳時代と考えるようになったため、ということもある)。ただ、そのあたりの詳しい話は、以前に書いた久住氏の編年を一度目に通されることをお勧めします。
というか、布留0式より前は、承前の西新町式の問題で触れたように、在地系土器の方が圧倒的に多いのです。布留0式平行でさえ、まだ在地系の多いところはかなりあるので。吉野ケ里も在地系が福岡平野あたりに比べたらかなり残ります。別に「すごい大ごと」ではなく、1991年頃の柳田氏や他に井上氏、佐賀県の蒲原氏の編年で分かっていることです。
元の発言 [ 単に説の否定が苦 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月6日(水)10時00分20秒 ]
>> これらがマヤカシであったとしても、宗教的に洗脳され
>> ている人には最後の逃げ場がないと、凶暴化します。
口の悪さは相変わらずですね。
逃げ場が無く宗教的に洗脳されてるのは大和説の方たち。かわいそうに。
箸墓が3世紀後半の築造で卑弥呼の塚ではないことがわかりきっているのに無理に土器の年代を早くしてなんかして3世紀半ばまでもっていこうとする。見苦しい。
三角縁ももう魏の鏡ではないことがわかりきっているのに特注説までもちだしてなんとか中国鏡にしたてあげようとする。みっともない。
もうそろそろ観念したらどうですか。
せめて考古学をもちだすくらいなら
箸墓=卑弥呼の塚ではない、三角縁=魏の鏡ではない
ということを前提に大和説、立証されたらどうですか。
ムリか。それが大和説の致命的な欠陥です。
せめて「3世紀前半は大和中心に動いてる」なんてのは?
ムリか。あの巻向石塚だけじゃね。他の地域はまったく影響受けてないし。
考古学的にみとめられないのは大和説のほうです。
倭人伝でおなじみの動詞非先行型
東南至奴國百里。
南至投馬國水行二十日。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月。
という文型が傍線行程をあらわすという議論がありますが、実はあまり意味がありません。
この議論、「間違い」ではなく、「ぜんぜん無意味」でもなく「あまり意味が無い」のです。
結論から言うと、この法則性を倭人伝の行程記事にあてはめて
南至投馬國水行二十日。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月。
は放射式に読むことができるか?
##できません。##
その理由を以下に概説します。
---------------------------------------------------------------------------
『漢書』西域伝の用例では「(方位)至(国名)○○里」のような文型は、もっぱら「〜の方向に〜がある」という、単に方角と距離を示すだけの意味で使われています。
少しまとめて実例を見てみましょう。★印の部分に注意してください。
蒲犂國、王治蒲犂谷、去長安九千五百五十里。戸六百五十、口五千、勝兵二千人。
★ 東北至都護治所五千三百九十六里、
★ 東至莎車五百四十里、
★ 北至疏勒五百五十里、
★ 南與西夜子合接、
★ 西至無雷五百四十里。
侯,都尉各一人。寄田莎車。種俗與子合同。
依耐國、王治去長安萬一百五十里。戸一百二十五、口六百七十、勝兵三百五十人。
★ 東北至都護治所二千七百三十里、
★ 至莎車五百四十里、
★ 至無雷五百四十里、
★ 北至疏勒六百五十里、
★ 南與子合接、
俗相與同。少穀、寄田疏勒,莎車。
無雷國、王治盧城、去長安九千九百五十里。戸千、口七千、勝兵三千人。
★ 東北至都護治所二千四百六十五里、
★ 南至蒲犂五百四十里、
★ 南與烏[禾モ],北與捐毒,西與大月氏接。
衣服類烏孫、俗與子合同。
難兜國、王治去長安萬一百五十里。戸五千、口三萬一千、勝兵八千人。
★ 東北至都護治所二千八百五十里、
★ 西至無雷三百四十里、
★ 西南至ケイ賓三百三十里、
★ 南與[女若]羌,北與休循,西與大月氏接。
種五穀,蒲陶諸果。有銀銅鐵、作兵與諸國同、屬ケイ賓。
ケイ賓國、王治循鮮城、去長安萬二千二百里。不屬都護。戸口勝兵多、大國也。
★ 東北至都護治所六千八百四十里、
★ 東至烏[禾モ]國二千二百五十里、
★ 東北至難兜國九日行、
★ 西北與大月氏,西南與烏弋山離接。
---------------------------------------------------------------------------
ご覧のとおりです。
ケイ賓國の
東北方向 六千八百四十里の距離 には都護治所があり、
東方向 二千二百五十里 には烏[禾モ]國が、
東北に 九日行の距離 に難兜國があります。
西北は大月氏と,西南は烏弋山離と接しています。
ケイ賓國を中心に都護治所、烏[禾モ] 、難兜、烏弋山離へのルートが放射的に広がっている状況が端的に描写されています。
それでは、これを倭人伝の
南至投馬國水行二十日、
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
に適用してみましょう。
ほぼ同じ文型ですから、直前の不彌國から南方向に投馬國へは水行二十日、同じく南方向に邪馬壹國へは水行十日陸行一月のルートが放射的に広がっているということに
##なりません##
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単純化すると、漢書の記述は
A国。(A国の説明)
(方位)至(隣国その1)○○里、
(方位)至(隣国その2)○○里、
(方位)至(隣国その3)○○里、
(方位)與(隣国その4)接。
(A国の説明)
B国。(B国の説明)
(方位)至(隣国その1)○○里、
(方位)至(隣国その2)○○里、
(方位)至(隣国その3)○○里、
(方位)與(隣国その4)接。
(B国の説明)
という文型が典型的です。そして
(方位)至(隣国n)○○里、
(方位)至(隣国n+1)○○里、
という列挙の間に「隣国nの説明」が挿入されることは皆無であります。
したがって、漢書西域傳の文例から
文型「(方位)至(国名)○○里」=「〜の方向に〜がある」
という法則性を抽出すると、同時に
(方位)至(国n)○○里、
(国nの説明)
(方位)至(国n+1)○○里、
(国n+1の説明)
という構文は
(国n−1からの方位)至(その隣国n)○○里、
(国nの説明)
(国nからの方位)至(その隣国n+1)○○里、
(国n+1の説明)
を意味するという法則性も抽出されてしまうのです。
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それでは倭人伝を見てみましょう。ご存知と思いますが、原文は
南至投馬國水行二十日、
官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。
ゆえに、不彌國の人口が5万戸でない限り、「南至邪馬壹國」の「南至〜水行十日陸行一月」の基点は投馬國であるという結論が導かれます。
したがって、傍線行程である限り、つまり移動を伴わない位置の表記である限り、この部分は「(実際に移動は伴わないが、不彌國から)南方向に水行二十日の距離に投馬國があり、さらに南方向に水行十日陸行一月の距離に邪馬壹國がある」という意味になってしまいます。
ちなみに、それは梁書、姚思廉の魏志解釈と一致するのであります。
結局、直線説を否定しようとした主線行程/傍線行程という着想は、不彌國−(水行二十日)→投馬國―(水行十日陸行一月)→邪馬壹國という直線の位置関係を再確認することになりました。あまり意味が無いというのは、そういう意味であります。
元の発言 [ 短里説の解体学 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月6日(水)02時11分39秒 ]
koujiさん、しばらくです。久しぶりに参加します。
長里か短里かはさておき、韓が方四千里、郡から狗邪韓国まで七千余里、渡海千里を三回、末盧国から伊都国までの陸行五百里、この相対的な距離感は大まかに言って当を得ているものと思います。
1.存在は確認されていませんが、「短里」であった場合。
伊都国から「女王国」まで千五百余里ですから、渡海千里の距離の1.5倍くらいの距離を伊都国にコンパスの軸を置いてぐるっと回してやった範囲あたりに「女王国」の位置を求めることができる。北部九州のどこかと言うことになります。
2.いわゆる「長里」であった場合
対海国がいまの対馬、一大国がいまの壱岐、末盧国が呼子から唐津にかけてのあたり、伊都国がいまの前原市まではお互いの共通認識かと思いますが、そうだとすれば、はるかに誇張された里数であることがわかります。おおよそ6倍くらいでしょうか。
これに基づけば、おおよそですが郡から伊都国までは、1750里。女王国までは2000里。伊都国から女王国までは250里になります。
仮に郡から女王国までの万二千余里が長里として正しいとすれば、伊都国から女王国までは一万余里になります。
ですから、倭人伝に記された伊都国と女王国の距離1500里のみが長里として正しく、それが水行二十日+水行十日+陸行一月と符号したとしても偶然の産物と申すしかありません。
わたしは、日数表記が帯方郡から女王国までの全行程とも、朝鮮半島を陸行したとも考えておりませんし、また、魏志倭人伝がこの「里」を長里で考えていることも、koujiさんとわたしとは同じ考えだと思います。
>しかし、それによって描かれる地理像と現実の地理を引き比べてみれば、そのままでは一致しないこともまた明らかです。そうである以上、史料の記述に誤りがあるという事実を正視して、その誤りの内容を探っていくのがまっとうな学問というものなのです。
そうです。おっしゃる通りです。
「里」論はあんまり面白くありませんけど、短里のほうが「里」にかなっているように思えます。もちろん、その存在は確認されていない。長里では誰が何のために誇張したのかの説明がいる。
一長一短です。
もっとほかに大きな問題があるように思えてなりません。
元の発言 [ Re: (里程について)訂正のついでに、、、(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月6日(水)19時13分00秒 ]
遺跡はのことは判りませんが
韓江と洛東江、二つの川を最短で繋ぐ道と言うと丹陽と栄州を繋ぐ道でしょうか?
現在鉄道が通っているようです。
しかしこの道は地図で見ると1500m位の峠越えになるようです。
鉄道も当然長いトンネルなしでは通せない。
20kmの行程で1300mを上る登山に近い急峻な山道ですね。
直線距離は40km位と短いので交流はあったでしょうが。
日本でこれに相当する街道を探しましたが見当たりませんでした。
あえて言うなら大菩薩峠位でしょうか。
>> で、これが、街道筋にあたらず、川にそった拠点が、
>> 全てばらばらで、他の沿岸と交流していたというなら、
>> その考古学的、文献学的根拠を教えてください。
陸行は秋風峰峠(600m弱)しかないでしょう。
元の発言 [ Re: 3世紀の倭国に方言はあったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月6日(水)18時40分13秒 ]
例えば,「ミ」の場合,
ミ乙類・・・身,実,神,廻る,闇
ミ甲類・・・海,水,君,涙,見る,耳,悲しみ
などを比較すると,
形而上学ふうの結構が見られるのではないか。
強いて括るならば,
ミ乙類は身体を養う生命力の発現と消滅,
ミ甲類は感覚・感情を伴う人間性,
などの考え方です。
これって,けっこう,
東西の宗教における神と人の定義に通じます。
このように考えると,
古代人の言語観に,
尋常ならざる繊細さがあったと思われるから,
「テラス」「タラス」「タラシ」の場合にも,
案外,形而上学的に,厳密な定義があったのかもしれません。
アマテラスという場合と,
タラシヒメという場合とでは,
位格が違うような印象だが,
通底するような側面も感じますね。
というわけで,違いが分かるまで,
しばらくは空を眺めるフィールドワークかなぁ。
# タラシヒメという場合,タラチネ(母)を連想するし,
# タラシヒコという場合,タラチヲ(父)という言葉もあります。
元の発言 [ あいかわらず ] お名前 [ ねこちゃん ] 日付 [ 2月6日(水)21時23分12秒 ]
>> 口の悪さは相変わらずですね。
>> 逃げ場が無く宗教的に洗脳されてるのは大和説の方たち。かわいそうに。
鏡があるから九州の人などという宗教にはまってしまって可哀想に。
>> 箸墓が3世紀後半の築造で卑弥呼の塚ではないことがわかりきっているのに無理に土器の年代を早くしてなんかして3世紀半ばまでもっていこうとする。見苦しい。
何度も言うように、そういう人ばかりではないし、まだその説は主流でないです。石野博信氏あたりの本をきちんと読んでから発言するように。
>> 三角縁ももう魏の鏡ではないことがわかりきっているのに特注説までもちだしてなんとか中国鏡にしたてあげようとする。みっともない。
福永氏や西川氏の最近の論考を読まずにただあげつらうなんて、なんてみっともない。
>> もうそろそろ観念したらどうですか。
>> せめて考古学をもちだすくらいなら
>> 箸墓=卑弥呼の塚ではない、三角縁=魏の鏡ではない
>> ということを前提に大和説、立証されたらどうですか。
>> ムリか。それが大和説の致命的な欠陥です。
>> せめて「3世紀前半は大和中心に動いてる」なんてのは?
>> ムリか。あの巻向石塚だけじゃね。他の地域はまったく影響受けてないし。
全く影響受けてないとすると、逆に九州からの影響もないことになることになりますね。
点的ながら、纏向型古墳が分布するのでは。布留0式より前でも、千葉の神門5号、岡山の宮山、矢藤治山、福岡の津古2号があります。前方後方墳で同比率のものを含めれば、もう少しありますし。纏向2式段階でも、すでに纏向にかなりの外来系土器がありますし、庄内式の受容が福岡平野でみられます。
少なくとも、もう九州の中だけの「倭国」の段階ではないことをよく認識して下さい。
>> 考古学的にみとめられないのは大和説のほうです。
今までのスレッドを全部見てから言って下さい。
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月6日(水)20時45分09秒 ]
こんばんは。どうもありがとうございます。
おおごとにはならないということで一つ安心しました。
次ですが、前に書いたとおり、私は最も新しい土器が終末新段階だから環濠の
放棄も同じ時期であるということには同意できません。新しい土器は環濠放棄
後でも入りうるからです。量が少ないとなればなおさらです。それよりも、大
量の土器の投棄が行われていることから考えて、環濠放棄の時期を境にして土
器の出方が違っているはずだと思うのです。率善中郎将さんは『後期後半(柳
田編年の後期4)から、終末(後期5)まで出土しており』と書かれています
から、この後期4から後期5の間で、ある時期を境に土器の量が急増するという
ことはないでしょうか?
元の発言 [ Re: Title 率善さん、こっちで議論しましょう。(吉野ケ里の変遷) ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月6日(水)23時36分04秒 ]
>> こんばんは。どうもありがとうございます。
>> おおごとにはならないということで一つ安心しました。
>> 次ですが、前に書いたとおり、私は最も新しい土器が終末新段階だから環濠の
>> 放棄も同じ時期であるということには同意できません。新しい土器は環濠放棄
>> 後でも入りうるからです。量が少ないとなればなおさらです。それよりも、大
>> 量の土器の投棄が行われていることから考えて、環濠放棄の時期を境にして土
>> 器の出方が違っているはずだと思うのです。率善中郎将さんは『後期後半(柳
>> 田編年の後期4)から、終末(後期5)まで出土しており』と書かれています
>> から、この後期4から後期5の間で、ある時期を境に土器の量が急増するという
>> ことはないでしょうか?
もう一度いいますが、北内郭の大型建物は終末(の新相の可能性が高い、とします)、周囲に複数の終末の住居が確実にあります。南内郭は確かに、不明な部分がありますが、南内郭環濠は削平が著しく(特に東側)、実質的に壕の中層以下しか残っていないのです。そこに終末新相までの土器がかなり入っていることから、そこまで機能したと考えるのが、むしろ考古学の遺構論の通常の解釈です。
(このレスで言ってるのは外堀のことですか?それなら「環濠」としてはその時期(終末)に機能してない、と言うこともその通りですが、少なくない土器の廃棄は、集落の存在をもって説明するのがより妥当と考えます。なお終末に土器廃棄があるのは南内郭のところのみですが。より高い部分の南内郭の使用土器が下のすぐ際の、外環濠のなごりの凹みに捨てられた、とするべきです。)
イリヒコさんの解釈もあり得ないとは言いませんが、終末にも集落が存続していたと考えた方が、様々な事象をより説明でき、矛盾が少ない、ということです。どうしても納得されないようなので、これぐらいで終わりにしたいと思いますが。