◇ 音楽と私 ◇
佐伯 準一
この度、幹事の森さんが中心となり、「一休会」で会報を発行する運びとなりました。創刊号、おめでとうございます。 月日の経つのは早いもので、横浜に出てきて約25年になります。
高校時代は学校の中では文武に秀でた方々に囲まれた灰色の青春といった感じでしたが、外では熱中できるものが見つかりました。それは、ビートルズ、ベンチャーズ、加山雄三の世界でした。エレキギターが欲しかったのですが、先立つものもなく、安い生ギターでコピーに明け暮れていました。こちらの方の勉強は少しも苦になりませんでしたが、すでにライヴ活動を行っておられた、桂さんや大石さんは眩しい存在でした。
大学に入ると、先輩のバンドから古い楽器を安く譲り受け、寮でメンバーを募って寮祭でデビューしました。当時はダンスが盛んで、学内や近くの女子大のダンスパーティ、あるいはダンスホールでの演奏、アロハシャツに着替えてホテルのプールサイドでの演奏など山口や宇部の町で活動しました。映画「エレキの若大将」のようなストーリィ展開を予想していましたが、ダンスパーティが終わった後で仲良くなったカップルを横目で睨みながらの楽器片付け、楽器運搬費に消えるギャラなど、売れないバンドマンの生活を実感できました。素人の演奏会の場合、リズムなどがずれるとステージに木枯らしが吹いている雰囲気になりますが、うまく行くと何物にも代え難い喜びが得られます。次はいつ来るか分からないその至福に瞬間を味わいたい一心がバンド継続のエネルギーになっていたと思います。
私は学生生活が長かったので、二つのバンドを経験しました。2番目のバンドでは管楽器も入れ、ジャズやボサノバ、ブラスロックなど幅広くやりました。こちらの方は才能に恵まれたメンバーが数人居り、一人はその後本当にプロになってしまいました。私自身はその頃、ジャズギタリストのウエスモンゴメリーという人の演奏に魅せられてしまい、繰り返しレコードを聞いていましたが、ある時、自分は絶対にこのような演奏はできないことを確信し、サラリーマンとして生きていこうと決めました。 卒業後、会社生活が始まり、配属先は横浜の戸塚ということになりました。仕事、結婚、子育て(ほぼ女房が取り仕切りましたが)という慌ただしい状況が暫く続き、 時間だけが過ぎていきました。やがて、子供の親離れの時期が訪れ、家の中では自由な存在となりました。
5年程前のことですが、FMのジャズの公開録音の番組を聞いていると、突然、ウエスモンゴメリーのサウンドが聞こえてきました。ウエスは随分昔に亡くなっており、びっくりしましたが、それは宮之上貴昭さんという方でした。 それからすぐに彼が出演しているジャズクラブを探し、生演奏の凄さに唖然としました。彼は国分寺の自分の店でジャズギターを個人的に教えていることも分かりましたが、恐らくプロを目指す生徒だけが集まっているものと考えていました。しかし、ギターを習いたいという気持ちが段々強くなり、思い切って手紙を出したところ、快く引き受けてくださいました。 約三年半、宮之上さんに教えて頂きファンクラブの集いでは恥を省みずプロの方々をバックに演奏もしました。さらにギター製作者を紹介して頂き、世界に一台という ジャズギターも手に入れることができました(自分の貯金が無くなりましたが)。形はこちらの希望でウエスの愛器とそっくりにしました。 昨年、自宅を建て直し、音楽用に地下室を作りましたので、昔に戻って演奏を楽しみたい方が居られましたら、お声を掛けてください。音楽のジャンルにはこだわっていません。