Morton Feldman
■ モートン・フェルドマン(Morton Feldman,1926-1987)
ピアノ、弦楽器、グロッケンシュピールなどからなる小規模の室内楽編成を主
体とした、特に後期作品では、切り詰められた最小限の素材が微細な変化を伴
いながら、ある瞬間静かに、そして(静かであるだけに)劇的な変化にも感じ
られる新たなフレーズを置き続けるという、響きの感触としてはアンビエント、
音素材の扱い方から見ると一種のミニマリズム的な作品を書いたアメリカの作
曲家。晩年の諸作の演奏には、数時間を要するものが多くある。
フェルドマンの音楽を知覚するということについて。聴き進むうちに、アコー
スティック楽器の微妙な変化へと、いつしか聴覚は集中し、やがて鋭敏な耳に
なる。長い演奏時間、変化の柔らかさ、楽器の響きが繊細に揺らぐこと、これ
らのもたらす効果であり、「純音楽アンビエント」とでも呼びたい肌触りを持
つ。
私事、つまり私的体験を通じて書き進めたい。筆者は現在、交通量
の多い道路のすぐ近くに住んでいる。普段は音楽を鳴らすことで車
の音を消しているとも言えるし、音楽に聴覚を向けることでこの騒
音を意識から駆逐しているとも言えそうだ。フェルドマンのCDに
は、まったく別のレーベルのものでありながら、まるで示し合わせ
たかのように「小さな音量でお聴きください」との記述を見つける
ことが多い。音楽自体が、全く一貫してピアニシモに終始するから
だろうか。
そんな、時に騒々しい自室でフェルドマンを聴くと、どうなるか。
例えばブライアン・イーノのアンビエントや同じくアンビエント系
テクノを聴く時、その静謐な音楽は車の音を消さない。しかし、外
部の騒音はそれほど気にならない。むしろそれは、日頃忌み嫌う騒
音を混ぜて聴いてみようか、「環境の芸術化」ってやつよ、などと
ケージの受け売りのゆとりさえ、ある。しかしフェルドマンは違う。
車は、うるさくて耐え難い音となって耳に迫る。コンサートで他人
の咳に苛立つのは、音楽を聴きたいからだ。咳払いなど、完全なノ
イズだ。なぜなら「僕は音楽を聴きに来た」のだから当然だ。しか
しフェルドマンは、これとも違う。慎重に選び抜かれた音の配置の
結果として響くあの浮遊感を、ノイズが邪魔していることへの怒り
では、どうもないようだ。
本当に、筆者はフェルドマンが聴きたいのかどうか、あやしいもの
だ。ただただ、音楽とは別に、クルマはうるさいのだ。
これはきっと、例えば先のブライアン・イーノのアンビエントと比
較することで、説明できることかもしれない。
そこで試論。
イーノのアンビエントは、自然音や環境音、それに人工音まで取り
入れた音楽である。それはつまり、スピーカーから立ち昇るひとつ
の「疑似環境」である。そこに私のいる現実の環境音が付加(ミッ
クス)されたところで、どうということは、ない。むしろ毎回違う
音が付加されるだけに、毎回、楽しめるアンビエントと言えなくも
ない。一方でフェルドマンの音楽は、まぎれもなく「楽器」の音で
ある。西洋音楽の楽器が、ホールや宮廷、教会で演奏されるもので
あったのだから、環境音はノイズへと押しやられてしまうという出
自、つまり発生の背景を持っている。ピアノ、チェロ、フルートで
静かに演奏される音楽は、作品への音楽的興味というよりむしろ、
楽器の響きそのものへと聴覚を集中させる類のものである(彼の音
楽の音色以外の価値とは別の話)。したがって、その繊細な響きを
聴き取ろうとすればするほど耳は鋭敏になり、外部のノイズが耐え
られない高感度な耳へと、変貌させる音楽なのではないか。しかも
フルオーケストラとピアノのバトルなどという、それこそでっかい
トレーラの走行音さえかぶってしまういわゆる「クラシック音楽」
ではないだけに、ただただ、ピアニシモに対して鋭い耳を聴き手が
持ち続けることのできる音楽である。
これでどうだろうか。
ここにはもちろん、シンセやSE、シーケンサの精度でもって鳴ら
される無機的音楽は安っぽく、クラシカルな楽器は傾聴に値すると
いう、決して普遍的ではないが確かに存在するこの既成の価値観が
筆者個人にどれほどのバイアス(片寄り/傾き)をかけているのか
という問題が横たわる。それは、計測不可能だ。それを全く無視す
るとして考えると、やはりイーノは、外部へと開かれる可能性を持
つ環境を作る音楽家であり、フェルドマンはその音楽自体がひとつ
の膜を持った(言い換えれば、聴き手が音楽を薄く繊細な被膜のよ
うに捉え、それを破られまいとする)世界なのではないだろうか。
生楽器が繊細、と言われるのは、その曖昧さ故である。楽器と演奏
者の双方が持つあの「ゆらぎ」である。それを聴き取ることもまた、
繊細な作業であり、喜びであって、それだけにノイズが気にかかる。
結論は出ないが、フェルドマンを知覚することには、この生楽器と
いう要素は、ピアニシモのみによる音楽ということと同様に本質の
ひとつかもしれない。音楽作品としての自律性を持ち続け、それは
数時間におよび、次第に耳は鋭敏になり、響き一つひとつに没入す
る。そして響きは柔らかく、揺れる。時間感覚は、日常を離れる。
これをひとまずは、「純音楽アンビエント」と呼んでおきたい。
この小文では主に音色について考えているが、今後フェルドマンのフレーズの
微細な変化、突然の交替、そこから生じる時間感覚の不思議と聴覚の記憶の問
題についても触れたい。しかしそういう目標を立てた時点ですでに、難しい話
になるのが目に見えてしまっている。
さらにもうひとつの視点として、イーノのアンビエントが持続音(ドローン)
を土台としていることが多く、沈黙のトラックは意外にも少ないこととの比較
もできるだろう。フェルドマンの生楽器による音楽は、楽音の減衰(減衰の後
に、沈黙が訪れるのだ)という要素が重要であることは自明である。両者のこ
の響きの差異についても考えてみる必要がありそうだ。また、同時にイーノ
『エアポーツ』のうち2曲(トラック1、3)は点描的であり、沈黙を音楽素
材として扱っているという比較・反証材料も見逃せない。これについてもまた
別の機会に。
■ディスクガイド
Why Patterns?
■フェルドマン作品リスト・ディスコグラフィ掲載サイト
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